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30年前に書いた「白山巡礼」全編を再掲します

カテゴリ : 未分類
それぞれの山の物語 その4 白山巡礼

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 私の通った小中学校は名古屋駅に近い中村区にあって、もう今ではビルに囲まれて昔の面影はないが、通学した当時は、広々とした田園地帯のなかにあって、遮るもののない展望に恵まれていた。

 私は授業に集中できないで教師に怒られてばかりいる問題児童だったから、学校の授業が大嫌いだった。かといって学校をサボルほどの知恵もなく、授業中は、教室の窓から遠くに広がる風景をキョロキョロ、ときにボーッと眺めて過ごすことが多かった。

 まじめに授業に取り組んだ記憶はあまりないが、それでも昔はのんびりしたもので、暇つぶし程度に教科書をながめてさえいれば十分にテストについてゆけたから、今の子供からみれば羨ましい時代だっただろう。

 教師も、まわりの大人達も、激しい戦争に苦しみ、身内を失った人たちばかりで、みんな大らかで包容力があった。「何でもいいから、生きてろよ!」そんな感じだった。

 学校の2階の窓からは、中村区を象徴した豊清神社のコンクリート製の赤い大鳥居と、パルテノン神殿風の水道塔が見えた。というより、名古屋駅の西には、この二つ以外に目立つものはなかった。中村区には兵器工場があって、爆撃の攻撃目標にされたのだ。

 軍需都市のため、戦災で微塵に破砕された殺風景な名古屋に似つかわしく、これらは、ひどくやすっぽい名所であった。その水道塔の向こうの意外に近くに、屏風のようにそそり立つ山々を眺めることができる。それが、多度山と呼ばれる養老山地の端っこの山々であった。

 子どもの頃、すぐ近くに見えるこの山に向かって何度も自転車を走らせたが、結局途中で挫けて一度もたどり着くことができなかった。
 というのも、途中には日本有数の木曾三川の大障壁があって、その広大な河原に立つと、そこから先ははるかに遠い異国のように思え、恐れを抱かずにいられなかったからである。

 豊国神社の大鳥居は、当時(たぶん今でも)日本一大きいもので、名古屋市内のどこからでも真っ赤に目立って見えたのだが、今でははるかに大きなビルに囲まれてしまって、目の前の道路以外に見える場所はない。

 当時は、この鳥居の背景が、鈴鹿山脈の藤原岳か伊吹山であった。それらの山は東海の名物であって、濃尾平野のどこからでも仰ぎ見ることができた。でも、今ではもう、学校の窓からこれらの山も見えなくなっただろう。

 伊吹山は、今でも中村区から見える山々のなかで、もっとも派手な鋭峰である。我が地方では、冬の季節風のことを「伊吹おろし」と呼び、この風の吹く日は、骨の随まで凍りつくような底冷えが名古屋を覆うのである。

 近所の鹿島屋という酒屋の奥さんは、京都市左京区の出身だが、名古屋と京都の気候の比較について尋ねると、
 「夏の暑さは京都も相当なものですが、冬の寒さは名古屋の方が上です。北風の吹く日は、いてもたってもいられまへん。」
と言われた。

 以前、札幌から転勤してきた同僚も、名古屋の方がケタ違いに寒いとボヤいていた。北海道の気温は低くとも、住宅は名古屋より防寒設備に優れているので、実際の生活空間は暖かいのである。ちなみに、伊吹おろしの体感温度は、真冬の釧路に匹敵するという新聞記事を見たこともある。

 伊吹おろしの正体は、西高東低の気圧配置のもとで、日本海とその延長にひとしい琵琶湖をわたった気団が伊吹山地にたっぷりと雪を落としたのち、乾燥して冷気ばかりになって濃尾平野に吹き降りる気流である。
 この冷たい下降気流をボラーといい、もしも暖かい下降気流ならフェーンと呼ぶ。日本全国、なんとかオロシなどという名のついた季節風は、およそ同じメカニズムだと思えばよい。

 この伊吹山と、好一対をなして濃尾平野に君臨するのが木曾御岳山である。濃尾平野にはじめての季節風が吹いた翌朝は、清澄な空気がピーンと張りつめて平野を取り囲む山々の壁が姿を現すのだが、そんななかで目だって白くなっているのは、いつも御岳山と伊吹山であった。

 御岳山は、山の高さといい懐の深さといい神秘的な原生林といい、まさしく大名物というにふさわしく、私はこの山に惹かれて登山・山スキー・キノコ採りに20回以上も登っている。

 何度登っても、奥の見えない神秘的で巨大なマッスだ。私は、御岳とともにあることを心から誇りに思う。だから、今日の名鉄グループによる御岳の無惨な破壊は耐え難いほどに辛い。あの、すばらしい原生林が、自然保護の機運の高まるこの御時世に次々に伐採されてゆくのだ。これは御岳を観光産業に利用するため、公園保護規制を政治力で阻止した名鉄グループの努力の賜である。

 東へ目を転ずれば、中央アルプスと恵那山がひときわ高くそびえ、際だって白いが、中村区からは名古屋市街を挟むので、やや見える地点が限定されるのが惜しまれる。

 御岳山と伊吹山の間に、あまり世間に知られることのない地味な奥美濃・両白山地が、それこそ海の波頭のように延々と続いているのだが、そのなかでも春先から初夏にかけて、いつまでも白さの残る山がいくつかあった。

 伊吹山の雪が消えてもなお白さを保ち続ける一頭抜きんでたピークは能郷白山であったが、御岳山の雪が消えてからでさえなお白い小さなピークに気づいたのは最近のことである。

 大気の澄みきった早春の日、長良川の堤防道路を走りながら、あるいは名古屋港に近い臨海工業地帯から奥美濃の山々を同定していて、高賀三山の付近に異様に白い山を見いだし、何であるか考えた末に、これは白山ではないかと思うようになり、どう検討しても白山以外ありえないと結論した。
 「名古屋から白山が見えた」
 これは思いもよらぬ新鮮な衝撃であった。私は、白山に対する思いを新たにせざるをえなかった。

 そして、それまで窓外の山といえば御岳か伊吹山という固定観念で考えていたものが、格段の広がりを与えられることになった。白山もまた、自分たちの山ということになったのである。

 それだけでなく、私と白山はある特別の縁を結ぶ機会があった。
 個人的なことで恐縮だが、私の友人に、以前の会社の同僚で、郡上高鷲出身のOさん、Yさんがいる。Oさんは、名古屋の会社を辞して故郷にユーターンし、高鷲村のスキー場に務めているが、今でも年に何度もお邪魔して、お世話になっている。私が白山に深くかかわるきっかけになったのは、この人たちの存在であった。

 私がスキーを覚えたのも、スキーを乳母車のようにして育ったような彼らの指導のおかげといっていい。O家やY家をたびたび訪ねるうち、やがて山スキーの楽しみも覚え、石徹白や平瀬の山々にも登るようになった。Oさんのお母さんには、六厩や鷲ヶ岳周辺のキノコの穴場も教わり、それらの山の殖生にも詳しくなった。

 白山には、太古から手つかずの自然が豊富に遺されている。そのすばらしさは、とても文章に表せるようなものではない。だが、この数年というもの、過疎脱却にあせり、土建屋事業で目先の利益を追う自治体の手によって、激しく喰い荒らされ、無惨な変貌をとげるようになった。

 もはや決して失ってはならない人類の遺産としての残り少ない原生林でさえ、目先のゼニに釣られ、そのかけがえのない価値を理解できない人々の手によって、あたかも雑草を刈るように葬り去られてゆく。私は、白山周辺の山を登るたびに、自然に触れる喜び以上に、人災に対する激しい憤りを覚えざるをえなかった。その感情は、自分の慕う人が権力をカサにきた他人に辱められることの怒りに共通するかもしれない。

 三方崩山 2059m 1989年6月

 白山は日本海側に位置する山でありながら、日本海と太平洋の分水嶺をなしている。その規模は想像以上に巨大で、関連する山々全部を合わせれば関東山地、奥秩父連峰や中央アルプスを上まわり、飯豊朝日連峰に匹敵する規模をもっていよう。

 この雄大な山岳地帯から、豊富な水量をもつ大河川が流域を潤している。そのうちで代表的なものは、太平洋に向かって長良川があり、日本海に向かって九頭龍川、庄川、犀川、手取川などがある。

 わけても長良川は、その流域が広大であること、日本で唯一(この原稿を書いている1990年の時点では)本流にダムがないため、自然の生態系が保たれ生物相が豊富であること、人家の多いわりに水質が非常に良いことなど、特筆すべき美点の多い川である。

 長良川は、古来、美濃に住む人々にとっての誇りであった。
 その長良川に沿った郡上街道を北上し、高鷲村の大規模なスキー場群を左右に見て、最後にゆるやかな蛭ヶ野高原を過ぎると、そこはすでに飛騨の国、合掌造りの民家で知られた白川郷である。

 大日岳(1709m)の裾野にひろがる蛭ヶ野は、長良川と庄川の源流にあたり、太平洋と日本海との分水嶺である。とはいっても、ここは広くゆるやかな高原地帯なので、分水嶺も飛騨美濃国境もまことに明確さを欠いたありふれた林のなかにある。

 このため、水源地帯の小河川が複雑に入り組み、狂ったようにデタラメの方角に流れ、この山々に入った人々を惑わせ、恐れさせてきた。古く、旅人や行商人は、おそるべき難所を越えねばならない白川郷を、さいはての魔境のように思い、覚悟を決めて立ち入った。

 飛騨といっても西飛騨白川郷は、越中庄川の奥深く山また山の秘境であって、匠の名を轟かせた建築職人の里、高山・東飛騨とは深い山地によって隔絶していて、明治初期に高山と庄川村を結ぶ六厩(むまい)・軽岡峠と、白川村荻町と高山を結ぶ天生(あもう)峠が整備されるまで、とりわけ雪の季節には事実上飛騨とは無縁の孤立した地域だったといっていい。

 白川郷は、むしろ越中や加賀の国と真宗や煙硝製造を通して深い関係にあったようである。建築様式や民俗についても東飛騨とは疎遠で、文化的には越中・加賀に共通するものがある。ただし、この地域は日本有数の貴金属鉱床に恵まれ、内ヶ島氏滅亡後、飛騨金森氏の領下に入ってからは、東飛騨との間に密接な関係を持つようになった。

 東飛騨を結ぶ軽岡峠は、かつて辞職峠と呼ばれ、つい戦前頃まで、高山を経て白川郷に赴任する教員や行政官があまりの山深さに恐れをなして、ここで辞職を決意し引き返す者が多かったのだという。(ただし、辞職峠の伝承は全国の山村僻地にある)

 冬季には豪雪に閉ざされ、越後・信州の秋山郷と同様、完全に孤立するのが常であった。冬季、白川街道が完全除雪されるようになってから、まだ30年ほどしか経っていない。除雪されるようになったのは、大規模な御母衣ダム工事によって道路が整備されてからである。

 そして、そのとき白川郷はすでに消えてしまっていた。というのも、本来存在した白川郷の主要部分が御母衣ダム湖の下に沈んでしまったからである。
 現在残っている白川郷は、当時の面影を僅かに残すにすぎず、数分の一にも満たない集落が観光用に残されているだけである。

 かつての白川郷の住人たちは、年に一度だけ移植された庄川桜に集い、かつての賑わいを偲ぶという。
 明治や昭和初期の飢饉は相当に辛い状況だったらしい。享保・天明の大飢饉のおりには壊滅的なダメージを受け、秋山郷と同じく大部分の人が餓死した部落もあった。後に述べる天正地震とこの飢饉では、白川郷は一新されるほどの変貌があったといわれる。

 白川郷の住人は、飢饉におびえて暮らさねばならなかった。そこに東洋最大のダム計画がもちあがったとき、反対運動は興ったが、それは豆腐に包丁を入れるようにすみやかに実現してしまった。

 この地域では、封建的な家父長制に縛られ、底辺の人々の声は上に届かない時代が続いた。それを利用して、国家権力は民衆の歴史的生活を自在に蹂躙したのである。

 庄川村から岩瀬橋を渡り、御母衣ダム湖の沿岸の洞門の連なる危うい道を行くと、ダム堰堤を右手に見て白川村平瀬の集落に入って行く。
 途中、もしも残雪期ならば、平瀬部落の真上にひときわ高くそびえ、際だって白く輝く鋭峰に心を奪われぬ人はいないだろう。気の早い人は、「あれが白山か」などと思ったりするのである。

 それが白川郷を直接とりまく山々のなかでもっとも高く、もっとも鋭く、もっとも白い、それ故もっとも美しい三方崩山である。

私が登ったのは梅雨期のさなか、晴れたかと思うと突然土砂降りになったりする不安定な天候の日であった。前日、麓の平瀬温泉まで来て浴場前の広場に車泊した。

 この山のありがたいところは、なんといってもこの温泉である。山とペアになった温泉ほど心を豊かにしてくれるものはない。立派な公衆浴場が設置されていて、230円で入浴できる。微かな塩味のある良い温泉で、この周辺の山々を訪れたおりに何度入浴したかわからない。

 源泉は白山平瀬登山口にある白水湖の湖畔に湧き出ていて、100度を越す高温蒸気を冷やして、平瀬部落まで管送している。その間、15キロ以上もあるのに、湯口では60度の高温が保たれている。

 登山口は、公衆浴場の広場脇の神社から林道を上がって行く。大きな砂防堤が車の入る限度で、その先は崩壊していた。とことこ歩いて行くと、立派な舗装道路になり、トンネルの手前に左手に山肌を登る階段があった。

 雨の強く降り注ぐあいにくの天気で、急な草むらは、いかにも蛇の多そうな雰囲気で気持ち悪かった。しばらくで、白山らしい超500年級の深いブナの極相林を行くようになる。

 白山山系にはまだ林野庁の手にかからない原生林が多く残されていてほっとした気分になるが、この森もいつまで官僚の魔手から無事でいられるだろうか。軽薄な使い捨て文明の餌食にならぬよう祈らずにはいられない。

 三方崩山の荒谷は昔から熊の名所で、新しい熊のテリトリー標識(爪痕)を探したが視界にはまったく見あたらず、他の動物達の棲息痕もほとんどなかったのが妙に気にかかった。極相林はよいが、動物のいない原生林というのもどこかおかしい。

 ジグザグのブナ帯を抜けると尾根道になり、森林限界が早い。このあたり、ため息の出るほどの美しさである。潅木にときおりヒメコ松・黒桧(ネズコ)・コメツガなどの針葉樹も混じる。

 ひどく急で滑りやすい尾根を辿ると、2時間ほどでガレ場が多くなり、尾根が痩せて左右に崩壊し、神経を使う場所もある。地元では刃渡りと言うそうだ。ガスの切れ目の左奥に三方崩の立派な山体が見え、南アに似た崩壊地が荒々しく迫り異様な迫力を与える。

 「こりゃ、見事に崩れたもんだ。」とため息をついた。
 この大崩壊は風化ではなく、400年前の地震によるものであった。
 伝承によれば、天正13年(1582年)11月29日、日本史に記録された大地震が白川郷一帯を襲った。

 このとき、三方崩山東北の保木脇にあった白川郷領主の内ヶ島氏の帰雲城とその城下町が、三方崩山と対岸の猿ヶ馬場山から発生した大規模な山津波に呑まれ、一瞬にして城主の氏里以下、城下町300戸・住民500名もろとも土砂に埋まって全滅したのである。(城を埋めたのは、猿ヶ馬場山中腹の帰雲山の崩壊である)

 この時の地震で埋没し滅亡したのは、帰り雲と呼ばれたこの城下町の他に、折立(高鷲村西洞)、みぞれ(明方村)の3カ所であったが、中部地方有数の不便な山中の事情のために、天正地震と帰雲城埋没が世に知られるようになったのは古い話ではない。

 戦国時代、戦いに破れて滅んだ大名は多いが、地震で滅んだ大名はこの内ヶ島氏をおいて他にはない。だが、四代百年余も続いた内ヶ島氏でありながら、西飛騨の山深さに隠されて戦国正史には登場しない。しかし、この史実には、人々の興味を引きつけずにはおかないミステリーを含んでいた。

 かつて、作家の佐々克明氏が帰雲城について調査し、内ヶ島氏は豊富な砂金に目をつけて白川郷を領土にしていたので、この土砂の下には推定5000億から10兆円にのぼる金塊が埋まっているかもしれないと発表して話題になった。そして、この歴史的財宝に注目する人々が大勢でてきたのである。

 だが、史実をあたってみると、豊臣秀吉に敵対した佐々成政についたために、秀吉輩下の武将、金森長近に攻撃された内ヶ島氏は、戦い破れて金森氏に講和を求め、大量の金を持参して許しを請うた可能性が強い。

 しかも白山長滝神社に残された古文書には、地震埋没後のわずか7年後に、金森氏によってこの付近で大量の金の採取が行われたと記録されているので、埋没金の残存については懐疑的にならざるを得ない。

 ましてや、荻町城主で内ヶ島氏の家老であった山下大和守時慶(後に家康の武将となり、江州蒲生郡を与えられ、徳川義直の名古屋城築城に携わった。大久保長安の採金にも関係している。)など多くの家臣が無事で、金森氏の家来になっているのである。みすみす埋没金を見逃すことは考えられない。だが、今なお確定的史実は明らかでない。

 いずれにせよ、おそらく白山の爆発的噴火にともなって一カ月間続いたこの地震で三方崩山も甚大な破壊を受け、今日見るように、猿ヶ馬場山とともに凄惨で大規模な崩壊地を荒々しく晒すことになったし、付近の山々に崩壊地が多いのも、この天正地震によるものと考えられる。

 頂上へは、崩壊地の尾根を辿って着く。山頂はコメツガなどの低い針葉樹林に囲まれていた。さほど広くないが立派な標識がある。晴れていれば御母衣湖の雄大な眺めが見えるはずだが、この日はガスに視界を遮られていた。

 登山口からおよそ3時間程度の行程であった。もちろん、絶好の登山日和にすらほとんど登山者を見かけないこの山に、こんな日に登る物好きがいるはずがない。いつ来ても、静かな登山を満喫できる山である。

 山の風格といい荒らされていない自然の美しさといい、掛け値なしに素晴らしい名山で、その魅力は100名山の荒島岳など遠く足元にも及ばない。私は、この山が白山山系のなかでもっとも素晴らしいと思っている。

 この先に1時間ほどで最高点の奥三方岳があるが道はなく、雨がひどくなって行く意欲は起きなかった。日本最多登山者の宮崎日出一さんは、奥三方を天上の楽園と表現されておられているから、きっと素晴らしい場所なのだろう。いつか、ここから白山北稜(マナゴ頭)へ抜ける山旅を予定している。

帰路は急な尾根で何度もこけた。登山者が少ないので土が浮き、雨でヌルヌルになっていた。トラロープが各所に設置されているが、ほとんど役にたたない。夢中で下って、平瀬温泉にたどりついたときには全身泥だらけになっていた。

 日照岳 1751m 1990年4月

 戦国時代、茶道の創立者として名を残した金森宗和の父は、越前大野を経て飛騨高山の城主となった金森長近である。
 長近は尾張中村に生まれ、抜きんでた有能さを買われて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。その生涯は、なぜか白山を巡るものであった。

 天正13年(1582年)、飛騨白川郷の領主、内ヶ島氏は、情勢を見誤り豊富秀吉に叛意をもつ佐々成政に連携してしまった。その結果、自ら大軍を率いて佐々討伐にあたっていた秀吉は、越前大野城主であった長近に内ヶ島氏攻めを命じた。

 8月2日、長近軍三千名は内ヶ島氏の意表を突き、白山別山の尾根を伝って白川郷に攻め入った。
 長近軍は内ヶ島氏を激しく攻めたが、岩瀬橋(庄川村)で内ヶ島方の尾神氏の頑強な抵抗に遭い、大きな損害を被った。一時は、壊滅的な敗北を喫するかにみえたが、美濃白鳥から迂回して攻め入った可重の軍勢に助けられ、苦戦の末辛うじて尾神氏に勝利し、内ヶ島氏を降参に追いこんだ。

 内ヶ島氏は秀吉に和を請い、許されて金森氏との講和を終えた直後、山津波に埋没したのである。以来、白川郷の豊富な鉱物資源は、金森氏の領有に帰すことになった。

 この時、長近軍が通ったと思われるのが、別山東稜尾根であって、日照岳はその上のピークである。日照岳と大日岳にはさまれた大きく深い谷を尾上郷谷といい、アルプス級のすばらしい渓谷に恵まれた秘境である。

 現在は岐阜県大野郡庄川村に含まれる尾上郷は、戦国時代には比較的開けていたようで、内ヶ島氏の家老を務めた屈強な尾神氏の支配下にあった。ここに人が集まった理由は、豊富な砂金の存在であっただろう。

 戦後、御母衣ダムが完成するまで、尾上郷は白川郷の一部として少なからぬ居住者もいたようだが、現在はすでにその面影もなく、人気のない白山有数の秘境として、野生動物の楽園の趣をみせている。

 もしも白山周辺で、最後まで熊が生き残ってゆける地域があるとすればこの一帯であろうといわれていたのだが、近年、御他聞に漏れず林野庁の猛烈な収奪にさらされ、さらに御母衣ダムの補助ダムの建設も進行し、野生動物への打撃はすくなからぬものがある。

 別山東稜を含む尾上郷ルートは、白山信仰が最盛期の頃、白川郷へのエスケープルートとして利用され、また、白川郷から越前への間道としても使われたようだ。「登り千人下り千人」とうたわれた全盛期の白山の稜線には、多くの道が開かれていたであろう。

 この道の存在は、柳田国男の白川郷紀行文にもわずかに紹介されているが、現在ではすでに痕跡をとどめず、正確なルートはわからなくなってしまった。

私の訪れたのは、まだ残雪の点在する4月末であった。2・5万図に途中まで破線路が記載されているので、それを辿ってみようと思った。
 まず登山口を探すのが一苦労であった。岩瀬橋を渡った御母衣ダム湖沿いの、トンネルとスノーシェンドのある国道を行ったり来たりし、地形図とにらめっこして、やっと右手に大きな切り開きの広場があり、左手の沢筋に木製の梯子のかかった登路を発見することができた。

 入り口は頼りないが梯子の上からは立派な登山道となり、わずかに登ると営林署の作業小屋として使われているパオのようなテントがあった。その上は送電線の巡視路として整備されているようだった。

 送電線の付近は、白山を象徴するブナの純林など跡形もなくて、根こそぎの皆伐地帯になっていた。この付近で営林署の原生林略奪が進行中のようだ。2キロほども登り、3番目の高圧線を過ぎてしばらくでいつのまにか道が消えてしまった。

 そこから尾根を外さぬように薮を分けて登ると、ピンクのヤシオツツジが咲き乱れ、心をなごませてくれた。
  高度1200m前後から残雪が出現し、雪のない山肌にも一面に雪と見誤るような、綿のような白いものが大量に目についた。この時期、雪のような花に包まれる木といえば、コブシ・モクレン・ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)などだが、それはタムシバの花であった。

 香りの素晴らしいタムシバはモクレン科の落葉木で、白山山系の二次林に非常に多く見かける。ただし、私にはコブシとの区別がつかなかった。
 手元にある薬草辞典でひいてみると、コブシはガクが小さく緑色で3枚、花弁は6枚、葉は卵を逆さにしたような形で裏は緑色になっている。

 タムシバはガクが花と同質、葉は針を押しつぶしたような形、裏は白い。
昔はカムシバ、またはサトウシバと言ったそうだ。葉を噛むと芳香があり、甘い液が出るからである。この花は辛夷(しんい)という生薬名で、その香気成分を利用して漢方では蓄膿症の薬にしている。

 ただし、タムシバ・コブシともに日本特産種で外国には存在せず、中国ではモクレンが辛夷である。だから漢字名がないのだが、「多虫歯」なんてのはどうだろう。

 タムシバは移植栽培が非常に困難で、生薬業者がこのような場所を見つけると、花の時期に根こそぎ採取してしまい、群落が消滅することも多いという。例えば、長野県水内郡などにそうした例がある。

 尾根筋は完全に雪が消えていたが、切り開かれたばかりの枝の下から、4月末というのに大きな赤マムシが這い出てきてびっくりさせられた。今年初めて見た毒蛇で、その先からビクビクして歩く羽目になった。

 白山には、泰澄大師が1000匹の悪蛇を封じ込めたと伝説される池がいくつかあり、古来から毒蛇の多かったことを示している。マムシは、歩行振動の出る登山道では逃げてくれるが、ゆっくりした薮漕ぎでは咬まれる確率が高くなる。道無き頃の白山では、さぞ咬傷が多発したことだろう。

 道が消えた後は、尾根の微かな踏跡をたどり薮を分けた。破線路は左手の谷筋になっているが、どうやら消滅しているようだ。やがて1410mのピークに達すると、上に真っ白な日照岳のピークが現れた。しかし、その先は濃密な根曲がりの笹薮になった。

 薮に突入して笹を分け、しばらくで後ろを振り返ると、ほとんど進んでいないのにショックを受けた。残雪さえ残っていればヒダリウチワの行程のはずだが、チシマザサの密生地帯は私にとって谷川岳一ノ倉沢に等しいのである。

 京都の78才になられる超人的登山家の伊藤潤治さんは、この猛烈な薮をスイスイと分けて鼻歌まじりに奥日照岳まで行かれたそうである。
 私は100mでダウンした。もう一歩も進む気力が失せた。恥知らずにも、そこで引き返すことを決めた。

 日照岳という名前からは、麓の白川郷の雨乞祈願所といった印象を受けるが、白川郷のような重畳たる山岳地帯で水に不自由するというのも考えにくいし、ここで水稲作が行われたのは大正以降だから、あまりややこしく考えないで、「よく日の当たる山」とでも解釈すべきなのだろうか。

帰路はマムシの影におびえ、棒で薮を叩きながら帰った。われながら情けない奴だと思った。

 追記、このとき私は鉈で笹藪を切り開いたが、後に、これは絶対行ってはならない過ちだったことを知った。竹笹類を刃物で切ると、切り口に必ず槍のように危険な刃を作ってしまう。それが通行者にとってきわめて危険な罠になる。これによって命を落としたり、失明する者も多い。絶対やってはいけない。笹藪は、泳ぐように手で分け、乗り移るのである。藪山を行く読者は十分に注意されたい。

 経ヶ岳 1625m 1990年6月

経ヶ岳は、白山信仰の歴史のなかで、加賀馬場・美濃馬場とならんで栄えた越前馬場・平泉寺の背後にそびえる名山である。平泉寺から経典を奉納したのが経ヶ岳山頂であった。

 中央アルプスの経ヶ岳もそうなのだが、この名のついた山では、古く修験道の修行のうちでも法華経典にある如法経修行というものが行われていたことを示している。それは、法華経28章(品)のそれぞれに対応する経塚を設け、写経を奉納埋没する修行であり、天台宗の慈覚大師がはじめたと伝えられる。

 したがって、麓に天台宗系の修験道寺をもっていた山に経ヶ岳という名が与えられることが多いと考えてもよい。
 馬場というのは、そこに馬を繋ぎ徒歩で歩きはじめねばならない登山口に相当する広場である。それぞれの馬場に、白山を祀った寺社と禊場(みそぎば)がおかれ、牛馬、ときに女性も、それ以上立ち入ることができなかった。

 中世の修験道による白山信仰登山で、もっとも古く開かれたのがこの越前(白山)馬場であったようだ。平泉寺の歴史は古く、泰澄が白山を開いた8世紀にすでに開山していたと考えられるが詳細はわからない。往時の登山ルートは、ここから石徹白を経由したと考えられる資料もある。

 12世紀には、美濃馬場・長龍寺と同じく天台宗・比叡山の傘下に入り、白山修験道が行われた。その頃には平泉六千坊といわれ、数万人の僧徒が居住し、当時の比叡山に匹敵し、現在の高野山のような広大な寺院都市であったらしい。

 しかし、この寺の僧衆徒は地民を奴隷のように支配し、暴虐をはたらくのでひどく評判が悪く、耐えかねた農民は、加賀一向(真宗)一揆の余勢をかって、一六世紀、天正年間に平泉寺勢力を攻め滅ぼしてしまった。
 このとき、一向一揆・農民兵の拠点であった村岡山は、勝利を祝って勝山と改められ、それがこの地域の地名になった。

 現在の平泉寺は、その後、金森氏などの庇護を受けて細々と再興されたものである。しかし、江戸期には徳川家菩提の上野寛永寺の系列に入り、幕府の保護を受けることができた。そのおかげで寺の格式は高く、大いに威張っていたのだが、明治の平田国学派による排仏毀釈の際、白山権現をまつっていた平泉寺は仏教を放棄して白山神社になった。長年の徳川家の恩を蹴飛ばして、一転天皇家側についたわけである。

 江戸期最後の住職であった義障は平田派の尊王思想に影響され神職に衣変えし、その孫の東大史学部教授、平泉澄も右翼皇国史観学者として有名になった。

 平泉澄については、偉ぶって硬直した人物像など、多くの不快な逸話が残っている。東大教授時代、民俗学を志向した学生が農民の生活レポートを提出したところ、「農民や家畜の生活は歴史ではない」と一蹴し、権力者の歴史のみ、それも皇国史観に都合の良い歴史以外、絶対に評価しようとしなかった。

 この男こそ、石原寛爾らとともに、思いあがった帝国主義者たちによる太平洋戦争の最大の戦犯に他ならなかった。

 神職、平泉一族の頭の堅さのおかげかどうか分からないが、由緒の立派なわりに、平泉寺の周辺は永平寺のような喧噪もなく、静かで落ちついた自然環境が保たれている。散策には素晴らしい場所である。

 白山や経ヶ岳に登る道は、ひと昔前まで、ここから法恩寺山を経て長い道程を辿らねばならなかった。しかし今では、経ヶ岳にはいくつかの直登ルートが整備されている。現在、平泉寺からの尾根には法恩寺林道が横切り、そこに法恩寺山経由の立派な登山道があり、林道を南に下ると、保月山尾根コースと谷コースもあり、どちらも3時間かからずに登頂できる。

 私の登ったのは法恩寺コースだった。前夜、小京都と讃えられ、歴史的景観の残る勝山市街の旨い焼鳥屋でいっぱいひっかけた後、平泉寺付近に車泊し、翌朝、女神川沿いの林道を車で遡ると、スレ違い不能の恐ろしく頼りない道になった。

 ハラハラしながら詰めるとゲートがあって、カンヌキを抜いて進むと、立派な法恩寺林道になった。この道は南六呂師から良い道が通じていたことを後に知った。
 登山道の知識はなかったが、平泉寺からの尾根に決まっていると踏んでいたのでそちらへ向かうと、はたして道標と立派な登山道があった。しかし、このルートが経ヶ岳のルート中最長コースであることまでは気づかなかった。

 朝五時に出発するとき、すでに初夏の陽光がきらめき暑い一日を予感させた。 法恩寺峠に登る古い禅定道(修験登山道)は尾根のうえに緩くつくられ、丈の低い潅木に展望を遮られた道を害虫の攻勢に悲鳴をあげながら登ってゆくと、すぐにひどく立派な山小屋があり、そこから1時間ほどで法恩寺山の山頂に達した。

 途中、新しい伐採地がやたらと目につき、よく見ると、そこに「リゾート開発」と書かれた測量杭が打ちこまれていた。
 「ここもか・・・・・・」と、思わず苦い思いでわらった。

 スキー場に手ごろな傾斜の地形で、ここが数年後にどのように変貌するのか調べなくとも容易に予想できた。
 自治体が目先の利益を追って狂ったように開発ブームに沸くようになったきっかけは、将来、戦後最悪の悪法と評されるかもしれないリゾート開発法であった。

 膨大な自然破壊を狂気のように重ね連ね、やっとその成果が具体的に検証されるようになった今日、当然の結果ながら、思惑通りに利益を得た自治体は極小数にすぎず、大部分は貧困な財政に追い打ちをかけるように事業の赤字に苦しみ、残されたものは回復不能なほどの自然破壊と人心の荒廃にすぎなかったという現実が明らかにされてきている。

 すでにその結末が誰の目にも見えはじめたというのに、地元の自治体役人の目は暗黒の住人のように固く閉ざされているようだ。彼らの目を開かせぬものは、土建事業の利益なのだろうか。彼らはもはや、戦前のマインドコントロールされた皇国日本人と同様、何が大切なものかという判断能力を失ってしまった。彼らの目に見える美しいものは、札束だけなのだろう。

 越前馬場、平泉寺からの禅定古道は、法恩寺峠からいったん小原村のワサモリ平に下り、再び小原峠を越えて市之瀬に下り、そこから現在観光新道の通る尾根を経由する複雑なルートがとられた。

 だが、美濃馬場に残る古文書に、泰澄の開いた当時、ここから経ヶ岳、赤兎山を経て石徹白に下り、再び別山を経由するルートがあったことを示唆するものがあるという。この尾根伝いの道は、幸いなことに登山道が整備されていて、現在誰でも通ることができる。

 経ヶ岳へ伝う尾根道はしっかりしていたが、ワサモリに下る古道はすでに荒廃し、深い薮に隠されて登山の痕跡も見えなかった。
 尾根道には背丈を超える潅木が密生しているため、ほとんど展望がなく、約1時間というもの黙々と暑く苦しい道を歩いているうち、突然、森林限界に達した。そこはすばらしく広大な景観で、それまでの道が閉塞的であった分だけ、心身ともに解放されるような何ともいえない思いがした。赤兎山への分岐であった。

 わずかな吊り尾根をたどると経ヶ岳山頂が広がった。そこは期待どおり、遮るもののない360度の広潤な展望であった。
 真正面には別山と白山が、まだ大きな残雪をいたるところに残して神々しく鎮座していた。左右の谷にも豊富な雪渓が残っていた。このうえなく爽やかな景観であった。

 南六呂師高原を望む山腹は異様な地形だったが、後にこれが噴火口であることを知った。経ヶ岳は、白山の兄貴分にあたる火山であった。
 はるか下に林道が見え、そこから延びた登山道に大勢の登山者が見えた。すばらしい日曜日だ。

 六呂師(ロクロシ)という地名は、福井県に多い。山の民俗に関心をもつ方なら、「木地屋だ!」とピンとこられるであろう。

 トチ・ホウ・ケヤキなどをロクロで削って木地椀の製造を生業とした木地屋は、ロクロに関連する工作を生活の糧とした。ロクロといえば、土器を制作する縦型ロクロと木器を制作する横型ロクロがあって、それぞれ大いに関連しているにちがいないのだが、どちらが先だったのかはよくわからない。というのも、土器は保存性がよく遺物も多いが、木器は腐るからである。
 弥生式土器は明らかにロクロを使用していて、この技術が中国江南地方、揚子江下流域の米作地帯から、2500年前に米作農耕とともに伝わった技術であることを窺わせるのである。

 さらに、山岳高地の尾根に居住した木地屋の民俗習慣が、雲南・ブータン系の高地族の生活習慣と極めて似ている点も見逃せないし、現代に到る彼らの子孫の人相も雲南諸民族に非常に似ているような気がしている。

 2500年前というのは、最近ではかなり確定的になってきていて、それも臥薪嘗胆の故事で知られる呉の国の住民が(越に追われて?)集団で日本に移住し、邪馬台国などを開いたのではないかという可能性が、東夷伝の「我らは呉の太伯の後なり」という記録の傍証として考えられるようになっている。

 木地屋は、近江小倉郷(滋賀県永源寺町君ヶ畑)を根元地とし、清和天皇(源氏の祖)の兄にあたる惟喬親王を開祖とする全国的な伝承をもっているのだが、8世紀の天皇家は、チベット・ブータン・中国雲南・江南地方からの渡来人であったはずの弥生人の子孫とは無関係であり、朝鮮半島を経由して渡来したモンゴル系の民族であって、すなわち(源平藤橘姓に代表される)騎馬民族系の天皇家とロクロの関連は薄いとも思えるが、フヨと呼ばれた彼らの祖先が、伝承されるように秦(始皇帝の)の子孫であったなら車輪や鉄製刃物も含めた高度な轆轤系技術がすでに完成していたはずで、それを持参するのも容易であり、なかなか推理が難しい。

 君ヶ畑に伝わるロクロの由緒も、親王が巻経をほどいたとき、なかの軸が回転したことからひらめき思いついたと伝承されているが、これも、轆轤が車輪系技術から継承されたことを窺わせる。

 轆轤技術の発生考察はさておいて、木地屋が、ことさら惟喬親王伝承をもちだして自らを権威づけ、さらに天皇家の菊の紋章を自紋として使ってきた理由は、全国の山中で所有者に無断で伐採をするところから、権威を利用してトラブルを未然に防ごうとした訳にちがいない。

 木地屋は明治初年、全国のすべての土地について地租を確定するために所有権を定める布告が出されたことによって、公的に伐採権を失い、一千年以上にわたる流浪の山岳住民としての歴史的権利と社会的認証を奪われた。
 大部分の木地屋は、半強制的に山奥の土地に定着させられ農耕生活を営むようになった。だが、その伝統的なロクロ技術が重宝され、近代機械の移入とともに旋盤などの技術職に転じたものも多かった。現在の、大蔵鉄工や小椋機械、パイロットやセーラーなどの万年筆工業の創業者が木地屋であったことはよく知られている。

 全国の木地屋の子孫は、現在でも年に一度、その根元地である君ヶ畑に集まって惟喬親王に礼を捧げる祭祁を行うことになっている。その名簿をながめると、やたらにオクラに類する姓が多いのは、開祖惟喬親王の命によってロクロを伝えたとされるのが小倉氏であったことによるものにちがいない。

 したがって、木地屋を開祖とする集落にはオクラ姓が多いことを知っておいたほうがよい。(小倉・大倉・小椋・筒井・佐藤など)
 現在の六呂師の集落で以上のような木地屋の痕跡を見いだすのは困難だが、北六呂師の上には木地山峠という名が残されているところから、関連は疑いない。

 経ヶ岳山頂から南を見渡す眺望は、荒島岳がひときわ見事であった。能郷白山はその背後に隠れて見えない。谷向かいの野伏ヶ岳(1674m)を中心とした油坂峠方面の主稜尾根は、白山山地で唯一踏み跡がなく、原始の風格を残している。だが、この数年、石徹白の大型レジャー施設(ウィング)の開発によってひどく荒廃がすすみ、面影は変貌してしまった。

 おそらく、日本でもっともたくさんの山を登っている東大阪市の宮崎さんは、ここで牛ほどの巨大な熊に出遭ったと書かれている。日本の山を五千回も登ってこられたこの人が、それ以来ザックに鈴をつけるようになったのだから、よほど恐ろしかったのだろう。

 今日、ハンターの高性能ライフルの前に、100キロを超える大熊はきわめて希になったといわれる。過去最大の月の輪熊は250キロ程度と記録されている。野伏山の熊がそれに近いほどに育っているとすればまことに貴重極まりなく、ばかげた射殺の勲章を誇りたがるハンターに撃たれぬように保護してやらねばと思うのである。

 別山 2399m 1990年7月

 別山は白山の真の骨格である。
 数万年前に、水成岩からなる隆起山脈であった別山連峰のうちに噴火活動がはじまり、膨大な噴出物が経ヶ岳、白山、大日山を形成した。

 それらの山は、別山が数千万年という気の遠くなるような時間のうちに、海の底に静かに醸成されたことを思うなら、あまりに僅かの時間で突如出現したのであって、インスタントに成立した軽薄さを免れない。

 人々の印象からいうなら、ぱっとせず、ダラダラとふんぎりのつきにくい水成岩山地の山々よりも、さわやかな容貌をもつ火山独立峰に人気が集中するのは当然であって、日本の名山と称される山々の大部分が、富士山以下の切れ味鋭い火山独立峰になってしまうのは、いたしかたないことかもしれない。

 だが、インスタントに登場したスターの命がはかないのは、どこの世界でも変わらない。日本を代表する火山諸峰の寿命の短さはどうであろう。富士大沢などは、私の記憶のなかにすら、すでに大幅に姿を変えつつある。御岳地獄谷も、白山別当谷もしかりである。

 だが、別山は違う。その上に覆いかぶさった白山の火山性噴出物のメッキが自然のメスによってはがされるにつれて、別山は隠していた重くいかつい正体を現し、凄みをかいまみせるのである。崩壊によって再びこの世に現れはじめた別山の山体は、1万年前に隠されたときといくらも変わらない姿であろう。

 別山の山体の大部分をなすものは、海底に沈澱した水成岩であるが、3億年以上前に古日本海に繁栄した珊瑚礁や放散虫の遺骸も含まれている。そして、それらが隆起し、広大な湿原平野を成立させたとき、そこに琵琶湖の数倍もある巨大な湖が成立し、恐竜とシダ植物を主とする動植物の壮大な楽園になった。それを手取湖という。

 手取湖の膨大な生物性堆積物からなる地層を手取層という。今日、地質学者や考古学者の関心をあつめる手取層基盤こそ白山山地の真の正体であり、真の骨格なのである。

 私は過去4度白山に登った。しかし、いずれのときも別山を踏まなかった。それまで、私は別山を白山中腹の1ピークくらいに軽く考えていた。だが、周辺の山々に登って仰いだ別山の姿は、決して白山の属峰ではなかった。それは、白山から疑いもなく独立した堂々たる大山であった。

 別山に登った日、当初の予定は打波川水系の源頭に位置する願教寺山だったのだが、登路が確認できず、山容があまりに悪絶なので、予定を変更して白山主稜に取り付くことにした。前夜、鳩ヶ湯鉱泉の奥の打波川源流の上小池の駐車場に車泊して、6時に出発した。

 上小池から数百mも下ると林道を歩くようになり、そこにかかる橋を渡れば刈込池である。
 刈込池は、白山を修験道の道場として開山した泰澄が千匹の悪蛇を封じこめたと伝説される三つの池のひとつで、径200mほどの小さな池であるが、日本最大のアカショウビン(カワセミ科)の生息池として知られる。
 悪蛇の伝説とは以下のようなものである。

 泰澄が白山を開いたころ、大蛇が千匹もいて白山に立ち入った大勢の人々を呑んで恐れられていた。
 泰澄は、大蛇たちを集めて言った。
「そのように人を喰ったのでは、人の種がなくなってしまうではないか。しばらくこの池のなかで休めよ。岸に麦を蒔くから、その芽がでたらまた出なさい。」

 といって蛇たちを封じこめ、そこに雪を降らせ、決して麦の芽を出さぬようにしたという。この池は、山頂の千蛇ヶ池と蛇塚池、それにこの刈込池の三つであるとされる。

 さて、この大蛇伝説。私は、これまでありふれた空想と思ってきたのだが、全国各地の民話や、今昔物語などの古文献を調べるうちに、どうにも大蛇の実在を前提としなければ説明のつかない文献が多すぎることに気づくようになった。

 大蛇ばかりでなく、それ以上の頻度で登場する狒々やカッパもそうである。そこで発想の大転換をして、これらの空想的動物がかつてなんらかのかたちで実在し、現在は滅亡したものと考えることにした。

 そのきっかけになったのは日本オオカミの研究であった。オオカミは、幸いなことに明治時代まで実在し、各地の伝承についても実証的な研究が進んでいる。しかし、それが現代に実在せず、証拠も残っていなかったなら、空想的動物の扱いをうけるにちがいないと思えた。

 私は伝承の動物について研究をはじめた。とりわけ狒々については多くの資料を得て、世間がびっくりするような結論に至った。無論、生物学者が一笑に伏すにちがいないことは百も承知である。

 狒々については、その正体がヒマラヤの雪男として知られ、現代に実在するものであり、中国で紅毛人、大怪脚、野人などと呼ばれてきたものと同一であり、先史時代、人類進化の傍流に取り残されたラマピテクスやピテカントロプスの子孫であろうと確信するにいたった。

 しかも、それらは今昔物語(白川郷猿丸の話)や柳田国男の遠野物語(猿の経立)など非常に多くの文献に登場し、実に明治時代まで日本に生存したものと結論づけることになった。

 大蛇についても、さまざまの文献を総合すれば、錦蛇クラスのものが江戸時代初期までは確実に日本に実在したと確信せざるをえなかった。これらについては、いずれ項を改めて語ることにしよう。

 刈込池の付近から登山道を見つけるのには骨がおれたが、結局踏跡の一番はっきりした道で正解だった。山菜取りが大勢入っていた。
 六本桧へ向かう道は予想以上に荒れていた。通行者は少なくないのだが、手入れをする者がいないようだ。6月なので草薮も多い。

 稜線へ出るまで落ちつかない道が続く。稜線に、名の通り六本の合木桧が生えていた。ここで赤兎からの尾根道を併せ、三ノ峰に向かう。
 わずかに登ると、泰澄が剣を刺して悪蛇を封じたとされる剣岩だが、どれがそうなのかよく分からない。このあたりから森林限界を超し急登が続くが、見晴らしもよく快適である。

 登山口から2時間ほどで主稜線に達した。わずかで三ノ峰の立派な避難小屋があり、石徹白からの美濃禅定道を併せる。
 ここから別山がはじめて姿を現した。すでに書いたように、この山は白山連峰主脈のなかで火山体でない最高峰であり、まさに真の骨格である。

 その南面は、雪崩に磨かれた水成岩の大岩壁になっていて、太平スラブという名がつけられている。それが初夏の朝陽を受けてキラキラと輝いていた。
 胸を洗われるようなすばらしい景観であった。別山の風貌は、古武士のように重厚であった。足元にはシーズン最初のお花畑が広がっていた。登山者の多くは三ノ峰で満足して引き返してゆくようだが、私はまだ余裕があり、別山に向かった。

 稜線のあちこちで雪渓の切れ目にお花畑が出現し、心をなごませてくれた。30分ほど歩くと、天上の楽園のような美しい高原に出た。
 無人の広大な高原で、登山の最大の醍醐味を味わえる秘境といっていい。径20mほどの池があり、きれいな水で飲用に利用できそうだが、御手洗池と名づけられていて、どうも連想上よろしい命名とはいえない。

 そこからハイマツ帯になり、30分ほどで別山の山頂に到達した。一面のハイマツの稜線の最高点に、小さなみすぼらしい堂宇があった。拍子抜けするほど質素な山頂である。

 8世紀に、泰澄が修験道の行場としてここを開いたとき、主要な三つのピークにそれぞれ権現を祭った。
 現在では、白山神社はイザナギ・イザナミを祭っているのだが、これは明治の天皇独尊政策に沿って古くからあった修験道の権現を葬りさって神道に変更したものであり、元々は、剣ヶ峰大御前に妙理大権現、大汝峰に越南知権現、別山に別山大行事権現がおかれ、別山のそれは泰澄自身を祭ったものであった。

 権現というのは、仏が神道の神の姿をとって仮に現れたと考えるもので、これを本地垂迹説といい、修験道がそうであるように道教の影響下に成立した仏教の崇拝対象である。

 白山妙理大権現は、本地である十一面観音が菊理姫という女神のかたちをとって現れた(垂迹した)と考えるのである。こうすれば、渡来以来の古い道教系の民俗(古神道)と、百済から新たに導入された新仏教思想(小乗仏教)を融和させることができた。

 それは、明治初年、薩長政権が天皇信仰を国家の基盤とする政策をとり、権現信仰を暴力的に破壊し、全国の神道を天皇崇拝思想のために伊勢神道を中心にして再編統一するまで、およそ一千年以上続いた。

 そのあいだ、神道の実体は権現信仰にほかならなかった。神社の神主は祭主にすぎず、実態は別当と呼ばれた僧に支配されていたのである。神道とは、代表的な八幡信仰に見られるように、もともと朝鮮渡来系の騎馬民族がもちこんだ新羅系道教の祭祀風俗から生まれたものだったが、泰澄の時代、本地垂迹説として仏教の理論に組み込まれ、さらに修験道に包摂され、天台宗系の山王神道、真言宗系の両部神道に系列化されていた。神道でいうところの両部が、すなわち仏教の権現信仰なのである。

 白山権現は、全国の権現信仰のうちでももっとも強力で大きな組織をもっていたことと、神道がもともと新羅系の道教であり、それが「シラ」信仰と呼ばれ、「シラヤマ」と呼ばれた白山が、新羅系神社の総本山のような印象をもたれていたことから、天皇家が朝鮮由来であることを隠蔽し、国粋主義を全面に打ち出した天皇神道(伊勢神道)を国家イデオロギーの要にしたいと考えた明治政府の国学ナショナリスト(大久保利通や山県有朋)から象徴的に激しく弾圧されたのである。

 別山山頂に大きな堂宇をつくって崇拝されていたはずの本地仏も多くは叩き壊され、運がよくても引き降ろされ谷に投げ捨てられた。幸運にも破壊され残った仏像は、山麓の林西寺に保存されている。

 これらの排仏毀釈(迦)と呼ばれた一連の仏教や権現信仰に対する攻撃は、武士階級の政権が仏教(特に禅宗)を国教イデオロギーとしていたために、革命的な思想転換をする必要があった明治政権が、伊勢神道や天皇信仰を利用したものとも考えられる。

 明治維新にいたる倒幕運動のイデオロギー的支柱になっていたのが、本居宣長や平田篤胤の天皇制復活の復古神道であったことを考えれば容易に理解できよう。尊皇擾夷という中国のスローガンが大同団結の要にもちだされた。革命勢力には、美しい名目と、それにふさわしい権威が必要だったのだ。

 帝国主義侵略戦争の時代であった幕末明治、強力な国家主義はナショナリズムに不可欠であった。明治政権は、東アジア諸国が欧州列強に蹂躙され隷属させられて苦しむ姿を見せつけられていた。民主主義は、民衆のうちに赤子ほどにも育っておらず、この時点では、より統一的な権威こそ未来を照らす松明であったといえよう。

 国家主義は、人々の観念の上に築かれる虚構にすぎないから、それを支える見せかけの合理的根拠と観念の教育体制がなければ成立できない。明治政府は、日本国家という虚構の本尊に天皇を祭り、神道思想による教育的洗脳を行うことで、それに絶対的権威を与え、同時に、日本国民に他民族に対する優越感を与えた。

 以来、天皇家に生まれた世襲者は、大東亜で最も優れた国民の、最も優れた大将ということにされたことにより、一生物としての生身の存在を主張する権利を奪われ、気の毒なことに観念のうえで「人」を超越しなければならなくなり(その実態は、自由に泡屋に出入りすることさえかなわぬ独身中年のナントカノ宮の悲劇を思いたまえ)、そんな残酷な悲劇を、国民と自称する妄想集団がおめでたく、かつありがたく担ぐという奇妙にして滑稽な社会的現実が続いているのである。洗脳の、なんと強力であったことか。
 少々、横道にそれすぎた。

 別山の山頂の展望は、いわずもがな絶景である。南白山の下には、神秘的なエメラルド色の白水湖がすばらしく、尾上郷谷には千古の原生林が一斉に新緑の協奏曲を奏で、ひとりで静かに景観を独占できる喜びに酔いしれた。
 山頂直下の太平壁は巨大なお花畑になっていて、名も知らぬ高山植物の可憐な競演であった。まさしく、至福のひとときであった。

 だが、尾上郷に微かに見える林道の荒廃も見逃すことはできなかった。ここには、御母衣ダムの補助ダム建設が進行中だという。
 わが、中部圏の山々のうちで、もっともすばらしい自然の残る白山。人々の子孫にいつまでも美しいままで残してやりたい。


 赤兎山1629m・大長山1671m  90年7月

 白山主脈南稜、三ノ峰で西へ分岐した尾根は、杉峠から赤兎山を盛り上げ、経ヶ岳・法恩寺山を噴出させて大野盆地に消えるものと、小原峠・大長山から1000m前後の起伏を保ちながら延々と50キロ近くも連なり、大聖寺の日本海に消える非常に長大な尾根とがある。

 福井・石川県境をなすこの障壁の途中には、加賀大日山(1368m)・富士写ヶ岳(942m)などの著名な山も含まれている。
すでに書いたように、経ヶ岳は白山本峰と同じく火山性の山体で、地質の関連からも主脈とはいえないが、大日山を中心に置くこの尾根は、大日山自体は白山の兄弟ともいえる大規模な火山であるが、別山と同じく堆積岩からなる古成層(手取層)を基盤としていて、文字どおり白山西稜と呼ぶにふさわしい。

 白山主脈というのは、普通、富山・石川県境および石川・岐阜県境をなす稜線をいい、北は医王山(ブナオ峠からとする説もある)から、南は大日岳・油坂峠あたりまでをいう。それより南は、能郷白山を盟主とする奥美濃の領域に含まれる。

 主脈から西に派生する最大の尾根がこの稜線であって、刈安山(548m)あたりを始点とするのが妥当かと思われる。東への尾根は、無理に考えれば大日岳から鷲ヶ岳へとつなげぬこともないが、蛭ヶ野で終わりとするのが一般的である。

 国土地理院は、白山に関連する山々に加えて、油坂峠以南、伊吹山以北、北国街道以東、長良川以西(武儀郡や郡上郡の山も含める場合が多いが)にひろがるいわゆる奥美濃の広大な山々も含め、どちらの最高峰にも白山の名がつけられているところから、この膨大な山域に両白山地という呼称を与えた。

 白山山系だけでも広さは相当なものなのに、両白山地にいたっては、南北120キロ・東西80キロにも及ぶもので、国内最大の南アルプス連峰に匹敵するかもしれない。
 ところが、この山々は登山の対象としてはひどく渋く、白山本峰や伊吹山を除いてほとんど知られていない。一部のモノズキしか通わないようなパッとしない山が多く、ポピュラーな解説書・案内書も少ない。

 私は、この十数年の間に、おそらく100回以上も両白山地に足を向けたが、エアリアマップの「白山」を除けば参考資料が入手しにくくて、いつも当てにならない2・5万地形図頼りの行きあたりばったりの登山であった。
 それでも積雪期は雪の上を歩けるからよいが、夏季は、猛烈な笹薮に行く手を阻まれて逃げ帰ったことも10回を超えているだろう。この山域では、整備された登山道があることが奇跡と思わなければならない。

 両白山地は日本海と琵琶湖に接し、冬季は日本を代表する豪雪地帯であって、登山適期が短く、しかも薮がひどくて展望が悪く、東北のような美しい高層湿原もあまり見かけない。おまけに、すぐ近所に日本を代表する北アルプス連峰が鎮座しているので、大部分の登山者がそちらにひかれていってしまうのである。

 まことに不遇な山々といわざるをえないが、かえってそれがために、この山域に惹かれる者は、できの悪いわが子を人一倍いとおしむ親の気持ちに似た気分にとらわれ、人知れぬこの山の良さを見いだすことに情熱を傾けずにいられないのではないだろうか。

 前置きが長くなった。白山西稜を代表するピークの赤兎と大長山は、小原峠をはさんで隣り合わせ、良い道が整備され、手ごろな縦走が楽しめるハイキングの山である。
 この山は、両白山地のぼさっとした低山群のなかで、経ヶ岳などとともに、珍しくスッキリした亜高山帯登山の気分が楽しめ、しかも白山主脈の展望台としてこの上なく素晴らしい眺望をもっている。いってみれば、全然両白山地らしくない山なのである。

 前夜、勝山市に来て「みずばしょう」という市営の温泉保養センターを見つけた。夜7寺以降は半額になるとかで、400円払って入った。サウナなどもあって豪勢な温泉であった。駐車場で一夜を明かした。

 朝、金沢へ抜ける国道157号線を行き、地図通り小原の集落に入った。入り口には「資源保護のため入山禁止」という看板がたてられていた。「栽培わさび」と書かれた看板の下のワサビを平然と持ち帰る福井のハイカーの姿を思い起こし、どう考えていいのか混乱したのを思い出した。

 ここで集落の風情を見て驚きに打たれた。それは、明治の田舎がそのまま冷凍保存されているような、異様な懐かしささえ感じるたたずまいであった。だが、ここが文化財として保存されているわけではない。かつての妻篭と同様、貧しいということのみの結果なのである。

 小原の部落から登山口へは、山慣れた私が相当な不安を感じるほどの、狭い未舗装の林道を行く。10数キロ走ると、ワサモリ平と呼ばれる高原に達する。ここは今でも名の通りワサビの栽培地であるらしい。

 法恩寺山からここへ降り、さらにこれから行く小原峠を超えて加賀市ノ瀬に抜ける道が、越前馬場の古道(越前禅定道)であった。したがって、ワサモリ平には、昔は参詣のお助け小屋が建てられていただろうが、今は無人の野である。杉の植林が進んでいた。

 その先に、「赤兎山登山道」の標識柱が立っていて、そこから立派な登山道が続いていた。ブナの多い二次林を1時間ほど登ると小原峠に着いてしまう。苦しい登りもなく、誤る分岐もなかった。赤兎へは、峠から40分ほどであった。ひどくあっけなく感じた。

 山頂の手前で経ヶ岳からの尾根道を併せた。そこからキスゲの咲く高原状の山頂が広がっていた。広々とした快適な山頂広場で、方向指示板や案内標識などがあり、この山の人気のほどがうかがえる。
 300m先に避難小屋が見え、その付近は高層湿原になっているようだった。同じ両白山地とはいっても、奥美濃の山頂とはエライ違いである。冬季の猛烈な季節風が、東北風のこのような山稜をつくるのだろう。

 早朝なので誰もいなかったが、小原峠におりるとものものしい装備の登山者に出会った。私はズック靴にジーパン、軽快第一である。
 大長山に向かうルートは、やや荒れているが登山者は少なくなさそうだ。一時間ほど尾根道をたどると、再び亜高山帯の風貌をみせるようになり、大長山の細長いが大きな山頂の一角に達する。

 山頂は本当に広くて、一面のキスゲのお花畑であった。どこまでいってもキスゲの群落が絶えることがなかった。これまで出逢った山頂のうちでも、もっとも美しいもののひとつといっておきたい。
 寝転がって、眼前の雄大な白山主脈を眺めたくなった。

 白山の眺望も、これまで登った山々のうちで、ここがもっともすばらしい。多くの残雪を纏った白山と別山が好一対の対照をなし、それから四方に向かって無限の山なみが伸びやかに続く姿は、いつまで見ても見飽きない。
 別山の風格が、想像以上にすばらしいことを発見したのもこのときであった。それは、白山と同体の山格であった。

 帰路、小原峠に大勢のハイカーが登ってきた。珍しく若者の多い集団で、明るい男女の笑い声が山々に響きわたっていた。


 白山 2702m

 「白き山」という命名は、いつのころか自然に生まれたものにちがいない。モンブランもダウラギリもその意味は同じであり、日本アルプス最高峰の北岳も甲斐の白峰と呼ばれた。

 白山が名古屋から認められる時期は、大気の清澄な冷たい季節に限られるが、それはいつも白い。
 朝鮮半島からやってきた季節風は、日本海でたっぷりと水蒸気を摂取し、なぐりつけるような暴風になって白山の壁にぶちあたり、そこに激しく雪を雪を降らせる。白山は日本有数の豪雪地帯であって、冬期数十mの積雪さえ珍しくない。ただ、伊吹山のように積雪観測がされていないので、正確な記録は分からない。

 2700mという高度は、日本アルプスを除けば内陸の八ツ岳にしかなく、越前沖の日本海では、沖へ出た漁師たちのよき目印になったにちがいない。
 それどころか、朝鮮半島から日本海に出漁した漁師たちにとっても方位を決める大切な目標であったにちがいなく、古来、この山をめざして日本海を渡った渡来人たちにとっても単なる目印を超えた霊的な存在としてとらえられた。

 白山に霊性をみいだし、修験道の行場として開いた越前の僧泰澄も、そうして白山をめざして朝鮮新羅からやってきた渡来人、三神安角の子であった。
 泰澄の一族が朝鮮からやってきたことなど驚くに値しない。

 日本列島に人類が棲みつきはじめたのは、明石原人や牛川人などの発掘をみれば、数十万年前、すなわちホモサピエンス以前からであることが確実だが、リス・ウルムの氷期には大陸と地続きであったことから、ゾウなどとともに多くの人々がやってきたにちがいなく、同時に、黒潮に乗って、南方から大勢の人々が北上して日本列島に棲みついた。

 彼らは、今日縄文人と呼ばれるようになり、優れた土器石器文化を遺した日本列島先住民であった。彼らが日本列島の主役であった時代は1万年ほど続いたことが分かっているが、2500年ほど前に、中国揚子江下流に開かれていた米作農耕民族国家(おそらくは越に滅ぼされた呉)の住民が高度な文化とともに北九州に移住してきて以来、主役の座を明け渡すことになったようだ。

 今日、弥生人と呼ばれることになった渡来民族は、組織的に移動して、九州、西日本の河口沿岸部を中心に大いに勢力を広げ、原始的な氏族社会を形成していた縄文人を北方や山奥に追いやった。

 以来、日本列島に灯された弥生文化に引き寄せられるように、大陸や朝鮮半島からの民族移動が絶えることなく続いた。
 3世紀から8世紀にかけて、中国北東部に勢力をのばしていたツングース系の騎馬民族まで国家的規模で大量に渡来し、彼らは江南から渡来した弥生人の氏族王権を制覇し、みずからの古墳文化王朝を成立させた。後に、これが天皇家と呼ばれるようになる。

 本来、ツングース騎馬民族の王権継承の基準は、世襲ではなく、王としての能力であった。したがって、8世紀まで天皇家の血脈の交代は数度に及んだようだ。白山山麓の新羅系渡来人の王であった継体が王権を掌握した時代もあった。だが、朝鮮半島南部の百済の王であった聖徳太子の一族が、その圧倒的な教養によって崇敬され、王権を得ることによって、天皇家の血脈に決着をつけたかとも思える。

 太子もまた騎馬民族の子孫であったことは、記録された衣服が乗馬に必要不可欠なズボンやブーツを用いていたことによって証明できよう。米作農耕の民族にズボンは不要かつ邪魔であって、必要なものは「呉服」と呼ばれたスソからげの可能な衣服と、湿地帯に適したワラジであった。ズボンやブーツは、騎馬の必需品であって、スカートしかなかった欧州でこれが用いられるようになったのも、中央アジア騎馬民族の影響に他ならない。

 さらに、古墳時代に用いられた剣などの武具は、すべて騎馬戦争に適した直剣式の突くタイプであることにも注目する必要があろう。農耕民族には切るタイプの曲剣が必要なのである。

 京都を開いた秦氏も、相模や武蔵の先住民となった秦氏、埼玉の高麗人たちも、皆朝鮮からやってきた。というよりは、古墳時代以降の日本文化と称されるものは、おもに朝鮮文化であったと断言してさしつかえないのではないか。さらにいえば、日本という国家そのものさえ、朝鮮から移されたことを旧唐書が示唆している。旧唐書という唐の国史には、日本国が朝鮮半島にあると書かれているのである。

 このような、人と、それにともなう文化の渡来の大規模なものは、鎌倉時代、フビライの元帝国によって滅ぼされた南宋の住民の大規模な渡来によって終止符をうつ。同時期の元冦と、その報復として盛んになった倭冦によって、政権は国境の交通にたいする警戒を厳しくせざるをえなくなったからである。

 8世紀、泰澄の時代、騎馬民族が日本の支配階級として圧倒的な勢力を確立したころ、宗教界を中心とする知識人階級も渡来人とその子孫によって占められていた。天台宗の最澄も、真言宗の空海も、行基も、役の小角も、著名な宗教界の覇者たちはすべて渡来人の子孫であった。

 というより、このころすでに日本先住民は追われて大部分が日本海側か北方に移動しており、本州西部太平洋側では、よほどの山奥か離島にしか残っていなかったと考えられよう。最後の縄文人、日本先住民であった蝦夷(えみし)も征伐殺戮され、その一部は北海道にアイヌ族として残った。縄文人は、非常に気の小さな優しい人々で、おそらく戦争を好まなかったにちがいない。

 歴史に記録された日本は、この時代、権力も言語も民俗も、文化というものことごとく渡来のものになった。渡来人の文化は、すでに中国で体系として確立していた密教・道教・儒教を基礎としたものであっただろう。これらを厳密に区分することは困難で、相互に影響を与えあい不可分の巨大なイデオロギーとして日本にもちこまれた。

 それらは、すでに日本人の血肉として定着し、論ずることさえ不可能な日本的風景そのものになってしまった。つまり、それが日本ということになった。
 日本の精神的原型と主張される神道も、その要素を厳密に追ってゆくならば、明らかに朝鮮新羅系の道教に到達し、天皇家の出自を証明する傍証にもなろう。祝詞も社殿も狛犬も、道教のものであり、その祭神はひとつの例外なく朝鮮のものであった。我々は今日、朝鮮の人々にもっとも近い人相・風俗を天皇家に発見することができるのである。歴史的日本とは、朝鮮に他ならないのである。

 新羅から渡来したと思われる古神道は、同じく百済から渡来した仏教に包摂され、習合し、修験道を成立させたとされる。修験道は、道教の要素をもっとも濃厚に伝えた宗教といわれるが、あるいは、すでに朝鮮の段階で習合成立していたかもしれない。

 それは、道教の山岳修行による神仙到達の思想をそのまま踏襲し、修行者は山々の高き峰のうえで超能力を得て変身し、里に降りて人々を救うのである。

 修験道の開祖は、大和葛木の行者、役の小角だとされる。小角はその超能力を朝廷に恐れられ、やがて日本を去って唐に赴いた。唐にあっては道士(道教僧)として崇敬され、実に唐四十仙のうち第三座を占めたと伝承されている。晩年は、唐の領土であった朝鮮新羅に過ごしたと伝えられる。この伝説は、修験道と神道と新羅の関係について一定の示唆を与えるものである。

 泰澄が白山を開いたのは、それからわずか後のことで、同時代といってよい。泰澄もまた、小角に劣らぬ超能力者であったと記録されている。小角と同様、念力によって自由に飛行し、呪文によって石つぶてを投げることができたとされる。

 また、空海や行基と同じく、虚空蔵求聞持法によって能力を開発した。これは、虚空蔵菩薩に念仏を捧げることによって頭の働きを百倍良くしようという能力開発法である。三カ月間というもの野山をさまよい歩きながら念仏を唱え、満願の日に天空から無数の星が落ちてくる夢を見ることによって成就するという。

 泰澄が越前平泉寺に足場をつくり、やがて美濃石徹白を経由し、別山を経て白山山頂に達したのは養老元年(717年)の夏であった。泰澄は、その頂に朝鮮新羅神社の坐女ともいわれる菊理姫をまつった。本地仏は、夢のお告げとして十一面観音であるとされた。

 以来、白山は今日まで絶えることなく、霊山として人々の信仰をあつめてきた。とりわけ、朝鮮の帰化氏族から崇敬が篤かった。白山が、かつてシラヤマと呼ばれたのは、朝鮮の新羅(シラ)と直接の関係を示唆するものであろう。日本には「シラ」と名付けられた民間信仰が多く遺されているが、これらも新羅そして白山(シラヤマ)との関係を示唆するものにちがいない。

 朝鮮帰化氏族は仏教界にあっては天台宗系の勢力であって、比叡山山王権現の修験者がシラヤマを行場とした。白山修験は、やがて本家であった熊野大峰修験さえ圧倒し、山岳宗教の覇者となった。
今日、白山神社は全国に2700社を数え、圧倒的に首位にある。だが、白山神社は白山修験道の直接の継承ではない。

 開山以来、最大の受難は明治維新に意図的につくりだされた。
 新政府は、天皇家の権威を利用して国家イデオロギーの統一を策謀し、天皇を唯一無二の神格にすえ、それを証明する理論として古事記を教典とする神道神話を絶対のものとして民衆に強制した。それまで天皇は、民衆の意識のなかに伊勢神宮の神主程度のものでしかなかった。それを、いきなり徳川将軍を上回る権力者にして絶対神にでっちあげようとしたのだから、なみたいていの事業ではなかった。

 古事記の虚構を真実らしく糊塗するために、神道にかかわるすべての理屈を統一しなければならなくなった。一番邪魔になったのが、民衆のうちに根強い人気のあった習合神道、つまり権現信仰であった。白山権現は、その代表格であり、最大にして最強のものであった。

 神道は、断じて仏教に包摂されるものであってはならなかった。天皇の権威は唯一絶対のものであり、かつ本源的なものでなければならない。そのために、真実の歴史を曲げ、それを伝える形象としての修験道を弾圧廃棄しなければならなくなった。

 かくして神道を支配するところの仏教にたいして排仏毀釈が行われ、激しい弾圧が行われた。修験道は禁止され、伊勢神道の配下の神社になるか、さもなくばもともとの密教宗派に戻るよう指示された。天台宗の影響下にあった白山修験は、天台宗に帰依し、それらの宗教的形象は廃棄、あるいは破壊された。

 白山権現は十一面観音を本地とする権現であり、菊理姫をまつっていたが、本地仏は破壊され、一部は牛首(現白峰村)林西寺に引き取られ、祭神もイザナギ・イザナミに改められた。
 権現は廃棄され、白山神社に変わった。以来、白山から修験道は消えた。

 私の過去の白山登山は、岐阜県側の平瀬からが多かった。平瀬登山道は白山信仰の古道ではなく、明治初年、大白川湯からの猟師道を整備したものである。しかし、このコースは飛騨方面からの最短ルートであって、古くから白山のエスケープルートとして利用されていたことは疑いない。

 平瀬道は、御母衣ダムの補助施設である白水ダム湖畔まで車が入り、夏期はそこに営林署の経営する山小屋が営業している。以前は通行するだけで恐ろしい道であったが、現在はかなり改良された。

 白水湖の水は酸性の温泉水が多量に湧出しているためか、神秘的なエメラルド色の輝きをたたえている。お花畑を前景に湖に落ちる夕陽を眺めるならば、一種異様な彼岸の情景さえ思う景観であった。
 今では湖畔に露天風呂がつくられ、観光客も多くなり、かつてのような静けさも情感も失われつつあるが、それでも大資本の進出する観光リゾート地とは雲泥の開きがあり、味わい深い原始の風格が漂っている。私の好む場所である。

 かつては、ミルク色の硫黄臭い効能抜群の秘湯としてその道の通に知られ、私もひそかに日本三大名湯と考えていたのだが、十年ほど前の集中豪雨で泉源が崩れ、今では透明のありきたりの温泉に変わってしまったのが残念だ。

 もともとの白水温泉、大白川湯は、名瀑白水の滝の真下にあって、その名が白川郷の名の元になった。今では白水の滝は林道の下におかれて風格を下げ、大白川湯はダム湖の水面下に沈んだ。

 このルートは日本有数の、おそらくは白神山地に次ぐ規模のブナ原生林を抱き、大倉尾根のカンクラ大雪渓は万年雪となり、室堂手前の日本有数(最大ではないかと思っている)のお花畑には無数の黒百合の群落があった。
 山頂まで、登山口からわずか四時間ほどで行ける。

 白山登山道でもっともポピュラーなのが、石川県白峰村から入る市ノ瀬口である。私は、これが当然加賀馬場ルートだと思っていたのだが、調べてみると実は越前馬場ルートであって驚いた。

 加賀の国一ノ宮である白山ひめ神社から手取川を遡れば、当然この市ノ瀬に達するのだが、途中、今では白峰湖に沈んだ牛首村周辺の去就をめぐって幕府と加賀藩とのあいだで激しい領有争いがあったことが原因で、加賀馬場のルートは複雑な変転を経ているようだ。

 加賀馬場のルートは、鶴来町の白山神社(下宮)を起点として、中宮の一里野を経て、長大な長倉尾根にとりついて大汝峰に至る苦しいコースであった。
 加賀禅定道といわれるこのコースは、九世紀にはひらかれていたと思えるが、明治政府の樹立とともに修験道が禁止され、白山信仰が衰退した過程のなかで荒廃し、廃道になってしまった。だが、1988年に、地元有志によって再建されたのだが、長大であるために歩かれず、再び廃道に化す日も近い。

 越前馬場は、平泉寺から法恩寺峠と小原峠を越えて市ノ瀬に下り、現在の観光新道の尾根を登るものである。長いだけでなく、上下の多い苦しいコースで、現在は歩く者もなく、すでに一部廃道に化している。

 白山馬場を代表したのは、長いあいだ美濃馬場の石徹白道であった。
 石徹白の御師は全国の白山神社講中を組織し、白山信仰を喧伝し、このルートは「登り千人、下り千人、宿に千人」といわれたほど繁盛したと伝えられる。

 明治以降、白山信仰登山が衰退し、近代スポーツ登山が勃興すると、その登山口は交通の便の良い加賀方面に集中するようになった。現在では、登山者の大部分が市ノ瀬口を利用するようになった。

 夏のある日、はじめて市ノ瀬口から登った。
 別当の駐車場に前夜遅く着いたのだが、さすがに車泊登山者が少なくなかった。朝4時には、暗いなかを大勢が出発していった。大部分が砂防新道を利用するようだ。観光新道は、大雨による崩落のため通行禁止になっていた。

 5時に出発したが、室堂に着くまでに先発組を追い越して先頭にたってしまった。皆、休憩が多すぎるのだ。
 このルート、やたら林道を横切るので面白くない。車で7合目近くまで行けそうだ。右手に見える不動滝が、一歩一歩近づいてくる。

 甚ノ助ヒュッテの手前、海抜2000m付近で、玉石の多く含まれた砂礫がたくさん露出していた。玉石は石英で、径数センチはある。それは、この付近が、かつて水に洗われる環境にあったことを示していた。

 近ごろ、白山周辺で恐竜の発掘が話題になることが多い。この石は、白山周辺で地質学者や考古生物学者の注目をあつめている手取層に関係している。白山火山体の基盤をなす層は、別山に顕著に現れている堆積岩、水成岩である。その表層には豊富な化石生物が含まれている。これを手取層という。

 3億年ほど前に海底でサンゴや放散虫が堆積した基盤が徐々に隆起し、1億年ほど前に、白山一帯に巨大な湖が出現し、これは手取湖と名づけられた。手取湖一帯は、ジュラ期、恐竜をはじめとする動植物のまれにみる楽園となった。先の玉石は、この手取湖の湖畔で波に洗われたか、もしくはそこから流れ出る河川流域にあったと考えられるのである。

 現在の白山の山体ができあがったのは、わずか1万年ほど前のことで、ひどくインスタントに成立した。その後の激しい侵食によって、ところどころでこのような古白山の景観にお目にかかれるのである。

 手取湖の生物堆積層は手取統ともよばれるが、これは白山周辺の九頭竜川付近や白水湖付近、福井県側など広範に存在していて、学者やマニアの注目をあつめ、化石探索者がひきもきらない。私もその一人である。
 九頭竜川周辺は、手取統のなかでも汽水領域の化石が出ることで知られ、それ以前のデボン期石灰岩からは三葉虫やアンモナイトも発見される。私の好みからいえば、石灰岩化石のほうが好ましい。美しいハチノスサンゴを発見し、磨いたときの感動はたまらない喜びである。

 ひと汗かいて着いた弥陀ヶ原の景観は、すばらしいの一語に尽きる。
 広大な高原のほとんど全部がお花畑といってよい。白山に尽きせぬ魅力があるとすれば、その幾分の一からの部分はこの高原に負っている。このような楽園は、全国600を超える登山を行ってきた私の経験のうちでも、北海道の大雪連峰や苗場山、尾瀬、平ヶ岳などわずかでしかない。

 八甲田や八幡平の高層湿原は、無謀な観光開発によって著しく価値を落としたうえに汚染された。このような楽園を見つければ、ロープウェイをかけて金儲けのタネにしたがる地元の低俗なバカ資本家が、どの町にも例外なくいることを思えば(たとえば、御岳における名鉄資本のように)、私は非力であっても、断固としてこの楽園を守り抜くことをここに宣言しておきたい。ここは、私にとって、神のおわす魂のふるさとである。(ふだんは完全無神論者なのだが)

 室堂の巨大な山小屋には大勢の人々がたむろしていた。かつて小屋の脇にあったはずの黒百合の群落は見あたらなくなっていた。
 白山神社奥宮の若い宮司に話しかけてみた。彼は、廃仏棄釈の意味すら知らない無知無能な(権威をふりまわすことだけが得意な)神主が多いなかで、白山権現の歴史を多く知っていた。

 山頂の桧の堂宇は健在で、純金の金具も盗まれていなかった。が、この付近にあった角閃石の結晶はまったく見あたらなかった。
 南竜ヶ馬場に向かった。
 縦走路をたどった。静かな道で出逢う人はいなかった。エコーラインには大勢の登山者が歩いているのが見えた。あちらは巨大なお花畑だ。誰もいない縦走路のお花畑では、静かに心ゆくまで美しさを堪能した。賑わっているのは皆が歩きたがるところばかり。一歩外れれば、すばらしい静けさのなかに恍惚とする大自然の桃源境が待っている。


 銚子ヶ峰 1990年6月

 白山信仰登山の歴史のうちで、岐阜県側に位置する美濃馬場こそ白山詣を代表する主役であったといえる。美濃馬場は、天台宗長龍寺(岐阜県郡上郡白鳥町長滝)であった。そこには、かつて数百の僧坊が建てられ、中部地方有数の古い歴史をもつ信仰拠点として、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた。

 だが、やがて越前、美濃における浄土真宗の勃興によって民心は天台宗や権現信仰を離れ、明治政府の神道至上政策によって弾圧を受け、さらに明治における大規模な火災が長滝のありし日の栄華を苔の下に埋もれさせた。
美濃馬場、長滝を訪れた権現講中の人々は、そこから阿弥陀滝を経て海抜千mの険しい桧峠を越え、石徹白に向かった。石徹白には白山中居神社(中宮)がおかれていた。

 人々は、さらに、そこから銚子ヶ峰や別山を越えて、白山奥宮に向かって上昇してゆく長く辛い山道を歩いていった。その行程といえば、今日、我々がアルプス山脈の大縦走を行うに等しいほどのものであった。

 往時、「登り千人、下り千人、宿に千人」とうたわれた白山詣の情景は、石徹白のありさまを語ったもので、その賑わいは、全国三千社の白山権現の講中組織を背景にして江戸中期まで絶えることがなかった。
 白山講中の賑わいは、富士講や御岳講に代表されるように、多くの山岳講を啓発したにちがいない。それは、娯楽の少ない民衆にとって大切なリクレーションの場だったのである。

 石徹白には、友人のYさんの実家があった。彼に連れられて、はじめてここを訪れたとき、どんよりと濁った空の下に荒涼たる田園がひろがっている風景を見て、私はロシアの田舎を連想した。

 いったいなぜ、これほどの山深い苛酷な生活条件の地に人里が成立しえたのか、実に不思議であった。だが、Yさんの実家の建物の格式や造作は、とても名古屋あたりではお目にかかれないほどの重厚で立派なものであった。
 そこは、伝統ある白山神社社家の家だったのだ。

 白山神社とは廃仏棄釈以降の呼び名で、それまでは白山権現といったのだが、それは黙っていれば向こうから信者がやってきてくれるほど甘くはなかった。どの権現信仰も、御師(おし)と呼ばれる社家の人々の、懸命な勧誘努力によって支えられていた。御師を大切にしない権現は、たちまち寂れていった。

 御師は、旅行ブローカー・セールスマンのようなもので、全国に散在する権現の講中組織へ出かけていって、あるいは講中そのものを組織し、ご利益を宣伝してまわったのである。

 地方の権現社に付随した講組織を檀那といった。御師は、檀那で白山権現の護符を売り、白山詣を組織し、旅行の段取りを行い、さらに自分で組織した講中の人々を連れて白山に向かい、石徹白にあっては自分の家に泊めた。だから石徹白の家は旅館のようなもので、その格式が御師の格式として認識されることになった。冷涼な山奥の石徹白の集落は、この信仰によって食べることができた。

 詣客が来なければ死活問題であって、米の採れない石徹白ではたちどころに飢えねばならない。だから、石徹白の御師たちは命がけで白山信仰を広めたのである。したがって今日、白山神社が日本最大数を維持しているのは、まったく石徹白の御師たちの努力に負う部分が大きいといえよう。
 だが、石徹白の歩んだ道は平坦ではなかった。江戸時代中ごろ、宝暦年間に、信じがたいような大事件が勃発したのである。

 石徹白は、美濃郡上藩の領地で、郡上藩は宝暦年間まで金森氏が支配した。
 最初、織田信長の家来になり、やがて秀吉旗下に属し、越前大野の領主となった金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨白川郷の内ヶ島氏を攻めた。

 内ヶ島一族は金森氏に敗北して講和を申し入れ、その直後、帰雲城もろとも山津波に呑まれて滅んだ。飛騨一帯は金森氏の所有に帰した。飛騨は鉱物資源の宝庫であり、金森氏はおおいに潤ったにちがいない。

 その経済力は、飛騨の寒村にすぎなかった高山に名城と美街を築き、息子の宗和の時代には優れた茶道の文化をつくりだした。それは、今日まで春慶塗りや宗和膳の名で残されている。金森氏は、名実ともに飛騨高山文化の父であった。

 だが、江戸時代を迎えると、幕府は鉱物資源を領有する諸藩を厳しく監視するようになった。というのも、家康の軍資金供給に功績のあった佐渡の大久保長安が、金山の利益の多くを私物化していたことが死後露見し、その子らが全員切腹させられるという事件があったからである。

 幕府は鉱物資源を独占し、大名に経済力をつけさせないために、外様大名の有力鉱山をとりあげ、天領に変える政策をとった。六代目金森氏は飛騨から追われ、貧しい上ノ山(山形県)に移封されることになった。

 しかし、元禄十年(1692年)、再び元の領地に近い美濃郡上藩が与えられることになった。金森氏は、小笠原家や吉良家とともに茶道礼法の家元であって儀礼に詳しく、将軍の身近にあって特別の配慮を受けたのかもしれない。

 七代頼錦の時代、幕府の儀典役に任命されていた金森氏は、交際上出費が多く、窮乏する藩財政に苦しめられていた。家老は増収にあせり、領民からの収奪を無謀に厳しくした。郡上の農民は悪政に苦しむことになった。

 江戸中期、それまで比較的安定していた気候が火山活動などの影響で寒冷化し、全国的規模で飢饉が発生するようになっていた。百姓の生活は、かつてないほど圧迫される状況が続いた。

 やがて、江戸時代を通じても最大級の一揆が、金森氏の領下で起こるべくして起こった。後に宝暦農民一揆という。郡上周辺の五千名を超す百姓が結集し、金森氏の暴政を糾弾して立ち上がったのである。

 この事件の解決には四年を要し、同じ時期に石徹白に起こった大きな争いの処理をめぐっても幕府の追求を受けるところとなり、金森氏の断絶改易という大きな結果を招いた。宝暦一揆と石徹白の事件を併せて、世に宝暦郡上騒動と称され、長く語り伝えられることになった。

 金森氏は、七代二百余年で滅んだ。金森氏の滅亡を招いた宝暦騒動の一端である石徹白騒動とは、どのようなものだったのか。

 石徹白の村では、江戸初期から社家が二派に分裂対立する状況が続いていた。上在所の上村氏と下在所の杉本氏である。その原因になったのは、白山神道の主導権争いであった。

 当時、神道は、天皇家に近く天台宗の影響下にあった白川家に印可される勢力と、新興で徳川幕府に近い吉田家の影響下にある勢力とに二分されていた。石徹白でも、社家のうちに帰属をめぐって二派の激しい論争があった。
 神道印可支配をめぐる吉田・白川両家の争いは激しさを増し、木地屋の世界でも、氏子の印可帰属をめぐって全国的な対立を起こしていたことを記憶されている方も少なくないであろう。

 この地は、古くから白山権現に頼って暮らしをたててきたことから、全戸が社家かそれに準じる人々であったのだが、戦国時代末期に、越前から美濃にかけて浄土真宗の爆発的な勃興があり、天台宗の傘下にあった寺院に大きな影響を与え、真宗に信仰を変える者が続出していた。郡上一帯の民衆は、ことごとくといっていいほど、争うようにして真宗門徒に帰依しようとした。

 その影響は、石徹白にあっては白川神祇伯家の配下、つまり杉本派に著しかった。。下在所の人々は、社家のなかでは、どちらかといえば格下であって、上村派に比べて貧しかった。

 上村派は、上在所社家の権威を高めるために、幕府権力に近い存在である吉田神道に接近し、郡上藩の家老とも懇意であった。
 騒動の発端は、真宗をめぐるものであった。

 それは、杉本派の社家のうちに真宗に共感するものが多く、道場(現、威徳寺)を改築建立するために社家に寄付を募ったことから始まった。
 上村派頭領であった上村豊前は、白山神道の絶対的拠点でなければならない石徹白に真宗の勢力がのびてきたことに、著しい不快と恐怖を感じた。

 豊前は、京都の吉田家に石徹白の神道が危機的状態にあることを訴え、救いを求めることにした。書簡を送り、神道のすたれている現状を綿々と訴えたのである。
 これに対して吉田家は、自派の勢力拡大の好機だと考え、ただちに金森藩に対して建白書を送り、上村のために尽くした。

 藩の寺社奉行であった根尾甚左衛門は、上村とも懇意であり、この機会に上村派の勢力を味方につけようと考えた。
 そして、藩庁の命令として、杉本派社人に対し「以降、吉田家の支配下に入り、何ごとも上村豊前の命令に従え」と通達したのである。

 杉本派は驚き、反発した。彼らは、何ごとにも権威をカサに着たがる尊大な豊前をひどく嫌っていたのである。そのうちに、杉本派の社人が、真宗本山で豊前の悪行を訴えたという噂が流れた。豊前はひどく怒って、その社人を追放し、社家の持ち山の木を大部分伐採してしまった。

 杉本派頭領の杉本左近は、ただちにこの非道を藩庁に訴え出たが、寺社奉行の根尾はとりあわず、かえって左近を叱りつけた。
 左近はやむをえず、直接江戸の寺社奉行、本多長門守へ訴え出た。

 だが、長門守は時の郡上藩主、金森頼錦と懇意であったので、訴えをとりあげるどころか、金森家へただちに通報したのである。
 金森氏はこれに驚き、ただちに左近以下杉本派幹部を捕らえ、家財を没収したうえに領外に追放した。時、11月26日であった。

 上村豊前は、杉本派の執ような抵抗に怒り狂い、藩庁に対し、石徹白から杉本派を全員追放することを許可するよう迫った。
 時、12月25日、杉本派社人の64名とその家族、併せて400余名は、突然、着のみ着のままで領外への追放を宣告された。その日、石徹白は猛吹雪であった。老人、婦女子ともども人々は行くあてもなく追われた。

 豊前は、「白川伯の手のものなら白川郷へ行くのがふさわしいではないか」と、大声で笑った。
 桧峠には身の丈を超す積雪があり、老人や子供は凍えても暖をとることさえできなかった。途中の集落には、奉行から助けを禁ずる旨の通達がだされ、住民は戸を閉ざした。

 人々は、絶望的な死への行進をはじめた。
 桧峠を下ると、前谷村があった。前谷の衆は貧しかったが、定次郎をはじめ義侠に篤い人々が多かった。彼らは、藩庁に弾圧されるのを覚悟で、杉本派の人々を救おうとしたが、救援も空しく餓死凍死者は70余名にのぼったと記録されている。

 生き残った者の多くは、ただでさえ宝暦一揆のために辛い生活を強要されていた上之保筋(現、高鷲村)の農民の温情にすがったが、騒動終結後、無事に石徹白に戻ることのできたものは少なかった。

 その後、杉本左近による決死の直訴が実り、同じ時期の郡上一揆とともに、この事件が幕府の評定所で裁かれることになった。

 その結果は、一揆の農民側に大勢の犠牲者を出したが、郡上藩側にとってもとりかえしのつかない事態になった。
 事件の首謀者であった上村豊前は死罪になり、それを助けた根尾甚左衛門は切腹を命ぜられた。幕閣の本多長門も処分されたが、杉本左近は一か月の謹慎という微罪ですんだ。

 金森家は断絶改易された。
 後に、金森氏にとってかわって郡上藩を引き継いだ青山氏は、石徹白の宗教争議に関与することを極度に恐れた。このため石徹白は、明治維新を迎えるまで、一種自治共和国の様相を呈したのである。

 石徹白に秘められた歴史は凄惨なものであった。
 わが友、Yさんの家は上村姓である。柳田国男や宮本常一も泊まって取材している。今では、上在所、下在所とも区別のつかない集落になった。人々は助け合って明るく暮らしている。

 事件の原因になった威徳寺は健在である。そんな歴史も、スキー場を中心とする巨大なレジャー開発の鎚音の喧噪にかき消されてゆくようだ。

 石徹白の中心は、上在所の中宮、白山中居神社である。この由緒の古い神社の風景は実にすばらしい。彫刻も、まるで甚五郎作のように躍動感にあふれている。杉林も千年級の特筆に値するものである。わずかに山道をたどれば、巨大な合木の浄法寺杉がある。

 私は、中居神社の脇から、激しい雨の降り続く林道を車で辿った。終点から山道がのび、わずか上に、屋久島の杉にも匹敵する巨大な大杉を見た。
 樹齢1800年、老木の印象はいなめないが、ここに生き続けていることはひとつの奇跡であって、大きな感動をあたえてくれる。

 その脇をかすめて、草深い山道を分けて登った。緩い尾根を登り、後ろを振り返ると、雨あがりのガスのなかに石徹白の盆地が南海の孤島のように見え、神秘的な美しさを感じた。
 やがて神鳩宮の小屋があり、しばらくでガスに包まれた広い笹原にでた。わずかで銚子ヶ峰の標識の立ったピークに達したが、ひどい雨が降り出すなか、それ以上歩く意欲を失った。

 下山後、長滝に立ち寄った。ここには美濃馬場を継承する白山神社と若宮修古館がある。
 かつての長龍寺は、広大な美濃馬場の一角にひっそりと残されているが、主役は長滝白山神社である。明治維新による神仏分離政策までは、両方併せて白山権現であった。

 美濃馬場長滝寺は、廃仏棄釈のとき大きな破壊を受けなかった。その理由は、長滝周辺が白山権現の社家ばかりからなりたっていたこと、それに郡上一帯が熱烈な真宗信徒の拠点であったことによると思われる。これが、山向こうの飛騨川筋だったなら、平田国学徒によって破壊されていたことだろう。真宗は、天台宗の権現信仰を食いつぶしたのだが、皮肉なことに、それが美濃馬場の歴史的に貴重極まりない優れた財産を救った。

 社家の宮司を若宮家という。修古館の主である。実に、1300年の伝統を誇っている。
 ひとくちに1300年というが、これはとんでもない数字である。日本最古とされる血脈は天皇家であるが、これは研究がすすんでいて、現在の天皇家はどう有利に見積もっても推古王あたりまでで、やはり1300年程度といわれる。

 もっとも、本当の血脈などあるはずがない。1300年も遡れば、日本人のかなりの割合が天皇家の血脈子孫である。これは、万世一系という信仰のために強調されただけのことだ。

 私の知る限り、中部近辺の古家は、佐久間ダムの坂部熊谷家、京丸藤原家、水窪の山住家など遠州の古家が、鎌倉室町時代で800年程度。福井の千古の家、堀川家も同じくらい。武家大名でも、薩摩の島津氏、米沢上杉氏でさえ700年程度である。徳川氏など三河松平から考えても500年程度でしかない。

 大峰山脈前鬼の五鬼助家が1200年で、証拠のある家としては格段に古いが、最後の当主、五郎さんは5年前に独身のまま亡くなってしまった。とすると、この1300年はもの凄いといえる。

 ひどい雨足のなか、若宮修古館に立ち寄った。おかげで、観光客は皆無だ。
 門を一歩入ると、かつて見たこともない美しいたたずまいに圧倒された。まさしく日本美の真骨頂といっていい。「すばらしい!」と思うしかない。建築は、天明5年といういわくつきの大飢饉の年だ。

 笑顔の素敵な、気品のある初老の婦人が迎えてくれた。この方が、40代若宮家婦人であった。
 「この建物はね、雨が降らなければだめなんですよ」
 といわれた。なるほど、建物全体から受ける美の印象は、みずみずしい苔の果たす役割が大きいようにも思える。

 陳列品には、道端で蹴飛ばして遊びたくなるようなありふれた陶器が多い。どこかで見た記憶のある薄汚い黄土色の壷があった。

 「これは、重要文化財に指定された黄瀬戸でございます」
 「わたしどもでは値打ちがわからなくて、最近までお味噌なんか入れてましたのよ、フフフ」
 「これほどの黄瀬戸のコレクションならば、唐九郎が来ませんでしたか」
 「お客様、永仁の壷をご存知ですか」
 「昔ね、唐九郎さんがここに見にいらしたとき、隣の宝物殿で見つけた壷、ほら、その棚の上にあるミニチュアのモデルなんですけど、永和の壷といいます。それを見てお造りになったとうかがっております」
 「裏の倉にも、整理のつかないものがたくさんございますが、わたしどもでは分からなくて、よいものが出てくるのはこれからなのでございましょう。」
 「お庭の茶室では、谷崎潤一郎さんが細雪という作品をお書きになりました。わたしどももモデルになっていますのよ。フフフ」

 奥の陳列室には、さらに凄みのある工芸品があった。富士百景と銘ぜられた黒漆の宗和膳である。
 あまりの完成度に、ふるえてしまった。こんな逸品は徳川美術館にさえ多くはない。婦人も、その由来を知らないといった。

 「おそれいりました」と、ひそかにつぶやいた。


 野谷庄司山 1797m 1991年8月初旬

 野谷庄司山は、白山から能登半島へ向かって延びる長大な主稜線の途上にある平凡な突起である。登山ファンにもほとんど知られていない峰なのだが、三角点マニアには欠かすことのできない主要点である。

 約400年前、白川郷保木脇にあった帰雲城を埋めて内ヶ島氏を滅亡させた白山最後の噴火活動に伴う地震は、どうやら、この山の付近が震源地であったらしい。
 付近の山体の崩壊の度合いを調べてゆくと、三方崩山と猿ヶ馬場山(帰雲城を直接埋めた帰雲山は、この山の中腹のピークである)、それに、この野谷庄司山がもっともひどく、帰雲城はこの三山によって構成される三角形の中点に位置したのである。
 ひょっとすると、研究次第によっては、未発見のミステリアスな事実が浮かび上がるかもしれない。

 私は、この山に三度も訪れるハメになった。どういうわけか、この山にはスムーズに登らせてもらえなかった。といって、別段の困難があるわけではなく、単に天候の問題にすぎないのだが。
 最初に出かけたのは四月末で、異常暖冬の続く昨今、残雪があってもたいしたことはあるまいとタカをくくってでかけた。

 白川郷までは、まったく雪がなかった。ところが、御母衣ダムを過ぎて荻町まできたら、たまげたことに国道にメーター級の残雪が残っていた。そこから、冬期閉鎖中のスーパー林道へ向かうと、すでに集団移住した無人の馬狩の集落で、ここでは除雪された道路以外は丈余の雪が一面を覆い半端な雪景色ではなかった。驚くとともに、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。日本有数の豪雪山岳なのである。日本海側の山岳では、太平洋側の常識が通用しないのだ。

 野谷庄司山の登山道は、白川村真狩大窪の鶴平民宿から始まるように地図に出ている。鶴平新道という。
 馬狩(マッカリ)という集落の名は、どう考えてもアイヌ語の印象である。マッカリという語が、アイヌ語で「山のなかに開けた里」あるいは「わずかな水面の里」を意味することはわかった。両方とも真狩の地形に符合しているが、はっきりした結論はだせなかった。

 奥飛騨のこの地は、上代、中国から渡来した弥生人たちの侵出がもっとも遅れた地域であった。弥生人は、米作農耕に依存した関係から、海岸部の照葉樹林に囲まれた湿原平野に拠点を定めることが多かった。もともとの、先住民である縄文人たちは、どちらかといえば山岳地帯に依存して生活していたようで、かなり明確な「棲み分け」があったと考えられる。

 もちろん、19世紀まで米作が不可能であった白川郷は、かなり遅い時期まで縄文人のナワバリだったにちがいなく、さまざまの民俗資料からそれを窺うことができる。
 アイヌは、もともと東南アジアから黒潮に乗って北上した海洋系の古いモンゴロイドだが、古代において、日本海沿岸、東北、北海道、樺太、千島に勢力をひろげていた蝦夷(えみし)のうちの主要部族であったと考えられている。

 人は最初、豊富な食料資源に恵まれる海洋沿岸部に棲みつくのが普通で、アイヌももともと小規模集団で漁撈採取主体の生活形態をとっていたと思われるが、河口沿岸部の湿地帯で米作農耕文化をもち、戦争に慣れた弥生人の大規模で組織的な渡来移住によって北方に追われたと考えられる。だが、一部は山中に残って落葉広葉樹林帯(ブナ帯)に縄文文化の生活圏をもっていたと考えるのが自然である。

 白川郷のような多雪の山岳僻地では米作農耕は不可能であって、弥生人の適応条件は極めて厳しく、したがって蝦夷の子孫が生き残ることができたにちがいない。ただし、太平洋側山岳地帯では、木地屋に見られるように、中国雲南地方の少数民族に似た弥生人の生活があったことに注意する必要がある。

 縄文人の子孫は、人種的に弥生人や騎馬民族とかなり異なった形質を受け継いでいて、海洋系古モンゴロイドの典型的特徴である、 血液はB型が多い  刹那的性格(気が小さく優しい)  毛深い  二重瞼で大きなぱっちり目(騎馬民族系の切れ長の一重目蓋と対照せよ)  べとべとタイプの耳垢  鼻稜が大きく、上部の凹も大きい  乳児の蒙古班が少ない  騎馬民族系人より酒に強いなど、モンゴル・ツングースで寒冷適応を受けた我慢強く残酷な新モンゴロイドや、山岳や低湿地に幅広く適応したチベット・雲南系弥生人と対照が可能である。
 これらの子孫の混血が極度に進んだのは、交通機関の発達した、この数十年にすぎないことに留意されたい。僻地や離島には、いまだ比較的純粋にこれらの形質を受け継いだ人々が現存しているのだ。

 白川郷については、源平戦争や南北朝戦争で落武者として飛騨山中に逃げこんだ騎馬民族の子孫が大勢いるので、以上に述べた特徴はつかみにくく、むしろ、洗練されたそれらの形質が優先的になっているように思えるが、私はこの付近の山中でときおり出会う髭だらけのギョロ目のオヤジを見かけると、「やはり蝦夷の子孫が生きているのか」と妙に安心するのである。

 貴重な高層湿原として知られる大窪沼の手前にある鶴平民宿はすでになかった。かつて大窪の主だった大杉家の名の由来になったと思われる大きな杉の脇に、登山ポストがあった。

 道は分からなかったが、一面の雪原を地図を頼りに見当をつけて適当に登ってゆくと、赤い標識がたくさんあった。登山用の目印かと思うと、「トヨタ自動車」の敷地境界標であった。真狩大窪の周辺は、トヨタによって買収されていた。

 私は、トヨタに対して実に不愉快な印象がある。三河地方から伊那谷に抜ける三州街道の途中に治部坂峠があり、ここに大川入山という希にみる名山がある。地元の手で登山道が整備され、すばらしいハイキングコースになっていたのだが、トヨタ系の会社がこの一帯を買い占めた。

 この会社は、唯一の登山道が自社の所有地に重なるのを嫌ったのか、こともあろうに入り口に金網のバリケードを築き、登山者を追放してしまった。いつのまにか立派な案内標識も撤去されてしまい、登山道は荒廃に任せることになった。トヨタとはこのようなものかと、不快な印象だけが残った。

 後に調べたところ、真狩の集落はこの土地をまとめてトヨタへ売却することを決めたが、大杉家だけはそれを頑強に拒んだ。鶴平さんは、先祖の土地を守り、愛する大窪沼を大切に守り続けたかったのだという。だから、真狩のトヨタ所有地は、大杉家の分だけドーナッツのように穴があいている。

 鶴平民宿は、真狩の人々が荻町などに集団移転した後も、かたくなに大窪を守って営業を続けた。しかし5年前に突然、原因不明の火災で全焼した。それからしばらくして、鶴平さんは亡くなってしまった。だが、息子さんは、父の意志を継いで買収に応じていないという。おかげで、鶴平さんの拓いた鶴平新道に、今のところ金網は設置されていない。

 喘ぎ喘ぎ強引に登った尾根は、幅の広い緩い傾斜で、山スキーのすばらしいゲレンデになりそうだった。ブナのさびた原生林に、雪化粧が美しかった。
 標高1400m地点で急に尾根が狭くなり、そこにネズコの合木があった。ここから、真狩一帯が見渡せ、箱庭のような美しい景観に見入った。
 この日、甘い考えでアイゼンを持参しなかった。ところが冷え込みが激しく、ここから急傾斜のアイスバーンが続いていた。恐れをなして引き返すことにした。登りは問題ないのだが、五体満足で下れるとは思えなかったのだ。
 二度目は6月中旬で、この日、鶴平民宿跡地に車泊したが、豪雨のため一歩も外へ出られなかった。高鷲村の友人のOさん宅に押しかけ、終日飲んで過ごした。私の運動は週に1度だけなので、体調精神状態ともに不良である。押しかけられたOさんは、いい迷惑だっただろう。

 3度目、8月初旬のこの日も終日雨にたたられた。鶴平新道を守護するかのように、大杉家の墓が登山道の真ん中に設けられている。今度は、はっきりと登山道をたどることができた。

 前回登った幅広い尾根は、夢見るように美しい極相のブナ原生林であった。幹回り数mもありそうなブナの表面には、無数の深い筋傷が見える。古い熊の爪痕なのだ。白山マタギとの格闘の歴史が思い浮かぶようであった。

 相当な雨に降られたが、深い原生林の道ではブナの葉に雨が遮られてほとんど濡れなかった。やがて前回到達点のネズコ(黒桧)に達した。そこから上は森林限界で、背丈の低い潅木帯になっていた。右手に三方岩岳の特異な岩屏風があたりの景観を圧している。急に痩せた尾根をどんどん登ると、赤茶けた土のむき出しになった激しい崩壊地が現れた。天正地震の爪痕である。
 ここから三方崩山に向かう尾根を念仏尾根というのだが、この付近で激しい崩壊を起こした場所は、どちらかといえば白川郷に向いた稜線であった。このときの地震は、噴火活動を伴っていたという記録が残されている。以来、400年間というもの、この地域に地震・噴火の記録はないが、火山の年齢から考えれば、400年など昨日のようなものということを肝に命じておきたい。白山は決して死んでいないのである。

 崩壊地の上は痩せた岩稜になり、鶴平宅跡から3時間ほどで白山スーパー林道の三方岩岳方面からの尾根道を併せる。主稜を左手にとり白山に向かって歩くと、美しい庭園風の草原が続き、わずかで山頂に達した。
 細長い山頂で、立派な標識が設置されていた。ガスのため展望はなく、雨は土砂降りとなり、早々と引き返すことにした。
 下山したら晴れてきた。なるほど、普段の行い通りだ。

 帰路、白川村保木脇に立ち寄った。帰雲城の跡地である。保木脇の集落は、埋没事件以前からあったようで、もとは「歩危脇」と書き、これは川筋の街道の危険な断崖部分を指す一般的な地名であると柳翁が「地名の研究」に書いている。
 帰雲山の崩壊地は、ずいぶん遠くからでもはっきりそれとわかる爪痕を晒している。つまり、400年前の大災害が、あまり変わらずに残されている。

 凄絶な崩壊現場は、保木脇から500m以上も上の帰雲山の山頂付近が、縦横300mほどにえぐりとられている。単純な推計で、崩落した土砂はおよそ500万トン、ダンプ50万台分程度であろうか。不思議に思うのは、崩落のズリ面が凹状で、いくら強烈な地震であったとしても、崩落のメカニズムが理解できにくいのである。もう少しいえば、あれほどの巨大な土砂が崩落するために必要な条件としての、明らかな地滑り面が確認できないのである。

 土砂崩れというものは、雪崩と同じで明確な境界面を必要とする。それが凹状をなすことは考えられない。むろん、400年の歳月が地形を大幅に変更するのは当然のことであって、確実な推論はできないが、それにしても何かひっかかると書いておきたい。

 私は一瞬、崩落の原因が採金鉱道のせいではないかと思ったりしたが、この時代は川筋の砂金収拾に限られていたことを思いだし、想像を打ち消した。
 大久保長安が、ポルトガル練金術氏伝来の灰吹き水銀法による不可視金鉱床の採掘に成功したのは、帰雲城埋没の後であった。内ヶ島氏がもし含金鉱床の鉱道採掘を行っていたとしたら、日本鉱業史を書き換えねばならなくなるのである。

 ただ、内ヶ島氏が、米の採れない貧しい白川郷に侵出した理由が、この地域に豊富に産する金を中心とする鉱物資源であったことは疑う余地がない。

 鎌倉時代後期、建長年間に、親鸞の直弟子であった嘉念坊善俊が鳩谷に正蓮寺をおこして真宗の布教を行って以来、白川郷は真宗教団の強力な拠点になり、嘉念坊直系の子孫が代々白川郷の領主の役割を担ってきた。

 内ヶ島氏は、その9世教信(俗名三島將監)を攻め滅ぼして白川郷の主となったのである。彼らは白川郷の法主を殺害して乗っ取ったのだから、真宗門徒のなかに内ヶ島一族を敵視する空気がみなぎっていたにちがいない。
 正蓮寺に立てこもった三島一族は皆殺しにされたが、息子の明心だけは乳母の機転で女児と偽って逃げ延びることができた。しかし、やがて内ヶ島氏と和解し、明心は後の照蓮寺を復興するのである。この寺は、後に飛騨高山に移転し現在に至っている。

 4代、120年にわたって白川郷に君臨した内ヶ島一族が滅亡した天正13年11月29日は、教祖親鸞の命日にあたっていた。したがって、この日付については、いささか背景を考慮する必要がありそうだ。

 内ヶ島氏が、現在価値で数兆円にのぼる金を所有していたことはおそらく確かであろうが、埋没時にそれが城内に存在したかどうかについて論争がある。

 佐々成政に加担して金森氏に攻められ敗北した内ヶ島氏里は、講話を申し入れてあっけなく許された。この時代、いかに秀吉が寛容だったとて、手ぶらで講和することもできまい。おそらく、無類の金好きで知られた秀吉のために、巨額の金を奉納したにちがいない。

 城主氏里は、生きて戻れぬかもしれなかった帰雲城に帰還できた喜びもあらわに、盛大な祝宴をはった。祝宴は3日3晩続いた。そして、その最後の日に、突如、予期せぬ山津波に襲われ、一族もろとも埋没滅亡したのである。
 長滝美濃馬場の古文献には、埋没の7年後に、この付近の庄川で大規模な採掘が行われたと記録されている。また、内ヶ島氏の家老であった山下氏は徳川家康に仕え、後に江州(滋賀県)を拝領し、さらに尾張徳川家の名古屋城普請に活躍している。これらの記録は、埋没金の存在について、悲観的な材料と考えられよう。

 保木脇には、現在住家は2軒しかない。内ヶ島氏の集落跡地には、砂利プラントが稼働している。そこに立派な神社が建てられ、なぜか観音像もあって、公園のように整備され、池には鯉が泳いでいた。

 そこに作業服を着た老人がホウキをもって掃除に励んでいた。話しかけてみると、その人がプラントの田口土建会長の田口勇一さんであった。
 この付近の帰雲城を記念する施設は、田口さんが私財を投じて整備した。田口さんは史実に関心のある私を歓迎し、さまざまの話をしてくれた。

 田口さんの建立した神社には奇談があって、そもそも神社をつくった訳は、庄川河岸にあったプラントを水害の際に現在地に移したとき、田口さんの夢枕に戦国武将の亡霊が現れ、「ここにいる我らの霊を鎮めよ」と指示したのだという。
 私はこの手の話が大好きなので、食い入るように田口さんの話に聞き入った。

 田口さんは続ける。
「ごらんなさい、神社の石垣にね。そのときの武将が現れるんですよ。ほら、その位置に立って、じっと目を凝らしてごらん。見えますか。」
「だめです」
「うーん、見える人には見えるんだがね」
「信心の問題ですかね」

 帰雲城とその城下町の住人は、およそ500人であったと記録されている。一人として生き残った者はいない。たまたま、遠方に出かけていた者が数名あったが、帰りついたものの地形が変わってしまったために、自分の家の位置さえ分からなくなってしまって悲嘆にくれたという記述も見える。
 500人の犠牲者を呑みこんだまま一度も慰霊されたことのないこの地で、はじめて慰霊祭を行ったのも田口さんであった。

 田口さんは、数年前にこの付近をボーリング調査し、埋没前の地表面を確認している。そのとき、当時の民家の梁と思われる木材も出土した。堆積層の厚さは、数十mに達しているという。

 このときの調査結果から、帰雲山に発生した巨大な山津波は、山肌を駆け下って庄川に達してそれを埋めた後、今度は対岸に向かって舞い上がり、標高300m程度の尾根に達しているという。どれほどすさまじいものだったか想像できよう。
 この土砂によって自然のダムが築かれ、数年というものあたり一帯に大きな湖水が現れていたという。このために、歩危脇の地形が変わったと考えられる。

 ところで、帰雲城の位置については諸説あり、いまだ決着がついていない。
 というのも、江戸時代の地図には保木脇の庄川左岸(川の流れ下る方向を見て左右をいう)に城跡が記載されているので、庄川左岸説が一般的である。ちなみに、帰雲山は右岸のはるか高みにある。

 しかし、戦国時代の城は山城が原則であって、河岸に城があるのはおかしいという説もある。見晴らしのよい、攻めにくい場所に城をつくるのが普通であって、だとすれば、帰雲山そのものに城があったと考えた方が合理的というわけである。

 さらに、帰雲山からは白山本峰が見える。一国一城の主というものは、眺望明媚な場所を好むもので、帰雲城帰雲山説にも説得力があるように思える。私もそう思うのだが、田口さんは、常識通り左岸説をとっておられた。


 三方岩岳 1736m 91年3月

 笈ヶ岳をめざして白山スーパー林道に向かったのは3月末であった。
 むろん、スーパー林道は閉鎖されている。豪雪地帯の大山地に無理に造られたこの道が開通するのは、例年6月初旬なのである。

 笈ヶ岳1841mは、深田久弥が「日本百名山」に荒島岳と天秤にかけて迷ったあげく捨てた山で、日本200名山に指定されている。だが、道がなく、山稜は地に足がつかぬほどの深いチシマザサの密生地帯のため無雪期の通過が困難で、雪の締まった早春に登るしかない。

 この山はアプローチが長く、1日で達することが不可能なうえ、途中、どこから入ってもいくつもの峰を上下して尾根を行かねばならない。それらの峰のなかには通過困難な岩峰も多く、多くの危険をクリアしてゆかねばならない。三方岩岳は、白川郷側から入山する場合の途上にある大関門といっていい。

 前夜、スーパー林道の真狩ゲートに車泊した。ここまで道路が除雪されていて、ここから10キロほど先の小屋まで雪上車が走っている。一般人通行止めだが、たまにクロカンを担いで遊びに来る人の姿を見かける。
 真狩には野谷庄司山の登山口があり、何度も訪れている。鶴平新道は、真狩ゲートの手前にある集落のT字路を大窪沼に向かって左折し、鶴平民宿跡の先の大杉脇から登る。大杉家の墓が目印である。

 三方岩岳登山道は、真狩ゲートの手前の川に沿って登ってゆくが、林道開通以来ほとんど通る人がなく、手入れもされず荒廃している。

 翌朝、山中一泊の装備でこのルートをたどった。少し戻って川の右岸を500mほど歩き、左岸に渡渉する。早朝、冷えこんでいたので雪が凍り、沈まずに快適に歩けた。おまけに、幸い下山者の足跡があり、容易にルートをたどることができた。登山靴でないので、狩猟者らしい。

 正面には、念仏尾根が純白の雪を輝かせ、アルプス級の容姿を見せていた。この尾根は大部分、1700m前後の標高を保っている。本来の登山道ルートは荒廃にまかせ、雑木のために通りにくく、適当に尾根を登った。積雪は1~2m程度で、陽が上るにつれて腐りはじめ、膝まで沈むようになった。やむをえず、持参のスノーラケットを使用したが、歩きにくく苦しい。一歩一歩ラケットを雪面に蹴りこんで、確実に登らねばならない。

 いたるところカモシカが縦横にかけめぐるこの尾根、上のスーパー林道に出るのに1時間半を要した。そこから再び三方岩尾根を登るが、上部は風が強く凍っていて、アイゼンをつけた。これなら楽だ。

 やがて、念仏尾根に異様な岩壁をめぐらして、あたりを睨みつける三方岩岳の雄姿が見えるようになった。なにか、一抹の不安感が胸をかすめた。

 1時間ほどで、気象観測ロボットに達する。ここから痩せて急なスノーリッジが続き緊張する。そこに、一條の獣の足跡がついていた。たぶん狐だろう。
 その足跡は尾根のうちの、ここ以外にないと思われる唯一安全な地点を通っている。私は途中何度も地形にだまされてルートを失ったが、戻ってみると、この足跡は必ず最短距離の正しいルートで三方岩岳に向かっていた。

 およそ1時間以上もつきあって歩いているうちに、この見ず知らずの狐に親しみがわいた。三方岩岳の手前で、足跡は別の尾根に降りていった。
 「元気でな」と、つぶやいた。

 途中、地図に記載されている三方岩岳小屋を探したが、とうとう発見することができなかった。数mの積雪に埋もれているのか、あるいはすでに倒壊してしまったのか、おそらく後者であろう。

 ここは、無事に笈ヶ岳に行けた場合、今夜の宿泊予定地として計画していたのだが、残念ながら利用できない。持参のツェルトでは凍えねばならない。

 陽がさしてきていて、やたらに喉が渇く。現代文明によって破壊されたオゾン層を通過してきた紫外線の作用が強烈である。日焼け火傷が心配になった。十年後には、紫外線による皮膚癌や白内症患者が現在の数十倍に達するという。

 レトルトのお粥を流しこんで、三方岩に向かった。わずかな距離だが、高さ50mほどの屏風のような山頂岩壁の基部に立って考えこんでしまった。
 岩壁を登るのは完全なロッククライミングになるが、もとよりその準備はない。基部を回りこんで夏道を登るには、50mほど急な凍結した雪面をトラバースをしなければならなかった。

 ところが、トラバースルートには上部の雪庇からの無数の雪崩の跡があり、一歩踏みこむと凍った堅雪で表面だけズルリと崩れた。アイゼンは、ダンゴになって役に立たなかった。実に嫌な予感が走った。

 というのも、私は過去に南アルプス悪沢岳のトラバースで滑落しているのである。ピッケルは腐雪のため役立たなかったが、露出したハイマツ帯につっこんで助かった。以来、私はトラバース恐怖症になってしまった。
 しばらく考え、「ザイル確保なしには無理だ」と思った。

 しばし呆然とし、回りの景色に見入った。行く手には大笠山の膨大な山体の手前に仙人窟岳が見え、笈ヶ岳を意地悪く隠していた。すべて新雪に光輝いている。ふりかえれば、遠く北アルプス連峰が美しく、白銀の峰が延々と続いていた。笈ヶ岳どころか、三方岩岳すら越えることができなかった。

(このトラバースは、後に、50mほど下にルートがあることが分かった)
 本当は、この山に登るだけならば、夏期にスーパー林道を利用すれば30分で来れるのである。笈ヶ岳のために、わざわざ積雪期に訪れたのだ。残念無念というしかない。

 しかし、抜群の眺望と、誰一人登山者のいないこの山域を独占できたことだけでも幸福であった。冬山では人に出逢わぬほうがいい。本当の自然を、たった一人で満喫できただけで幸せである。

(参考までに、スーパー林道を通れば三方岩トンネルまで、わずが1時間半ほどで行けるが、雪崩の常発地帯を横切り、しかも雪崩のため急傾斜のトラバースになる。後に、笈岳の帰路、無理に通過したが、恐ろしい思いをした。安全登山を心がける人は絶対に通るべきでない。)

 帰路、平瀬温泉で汗を流し、南のはずれにある遠山家を見た。
 遠山家は、白川村大字御母衣という集落があったときの代々の名主の家で、白川郷合掌家屋のうちでも屈指の規模をもっていることで知られる。
 持ち主の遠山氏は、1970年までここにお住まいだったが、現在は向かいの邸宅に移転された。現在は、白川村民俗資料館として公開されている。
 (平瀬の集落は、明治に西飛騨鉱山開発に伴って集落化したもので、合掌家屋はなく、古い白川郷の住人は少ない。)

 私には、柳田国男の紀行文に登場する遠山家が懐かしくてならないのである。
 柳田は、明治42年の旅行の紀行を「北国紀行」と「秋風帖」の両方に書いているが、秋風帖から遠山家に関する部分を抜き書きしてみよう。(6月4日、遠山喜代松氏宅で昼食をとったと北国紀行にある)

 御母衣にきて遠山某という旧家に憩う。今は郵便局長。家内の男女42人、有名なる話となりおれども、必ずしも特殊の家族制にあらざるべし。
 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。

 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。
 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 里の家は皆草葺の切妻なり。傾斜急にして前より見れば家の高さの八割は屋根なり。横より見れば四階にて、第三階にて蚕を養う。屋根を節約して兼ねて風雪の害を避けんために、かかる西洋風の建築となりしなるべし。戸口を入れば牛がおり、横に垂れむしろを掲げてのぼれば、炉ありて主人座せり。

 遠山家の玄関を入ると、受付に若い女性が二人いた。
 壁には、柳田の「クラシックなり白川村」といううたい文句のポスターが貼ってあった。司馬僚の紀行文にも、遠山家に感じのよい娘さんがいたと書かれていたのを思いだした。

 「あなたがたがそうですか」と尋ねてみたが、違うといわれた。
 話を伺ってみると、どちらも平瀬の方で、30才前後と見受けたが、実は私より年上の40だという。平瀬では女性が老けないのだろうか。びっくりしてしまった。
 若いのは外見だけでなく、話しているうちに20才前の初々しいお嬢さんと向かい合っている気分になった。実に楽しいひとときになった。
 白川郷の有名な大家族制についてうかがったが、狭い家のなかの共同生活で問題になる性風紀について、想像を絶する厳しさであったことを知り印象的であった。例えば、女性に生理がはじまると、ただちに別棟の小さな不浄小屋に隔離され、子を産むときも同様であったという。

 通常、父の特定できない関係では母系氏族社会になるのが普通だが、白川郷では、子が母に帰属するのは当然として、その母は生家に帰属し、数十名を養う生家はただ一組の戸長夫婦が氏族を継承するというのである。封建制度も取り入れた変形母系社会とでもいうべきか。

 かつて、(御母衣ダムの完成以前まで)白川郷では、正式に結婚できるのは戸長夫妻に限られ、兄弟たちはその家の作男、下女として働いた。男は他の家の女に通い婚をしたのだが、子が産まれても、その子は母の家の子になった。独立は許されなかった。独立しようにも、土地がなかった。

 ただし、ひとたび契りを結んだ男女の関係について、倫理は厳格なものであったという。もしも浮気をしようものなら、郷一帯で口をきわめて罵られたというから、なみの結婚より厳しかった。

 明治の世界的な建築家であったブルーノ・タウトは、はじめて白川郷を訪れたとき、「まるでスイスではないか」と感嘆し、精妙な合掌造りとそこに住む人々の暮らしを絶賛したという。

 御母衣ダムによって、合掌家屋の大半は取り壊されたが、現存するもののうちとりわけ優れた家屋は、五箇山の岩瀬家、荻町の和田家、御母衣の遠山家と名古屋市東山公園に移築されたものだという。

 遠山家は、白川郷最大の集落の名主であって、合掌家屋として最大級のものである。御母衣ダムの堰堤は、ここから数百mほど上流だから、この家も風前の灯火であった。天明年間に建立、文政年間改築という歴史による保存運動がなされなければ消滅していたにちがいない。

 世間に思われている合掌家屋の印象は、4階建ての構造家屋であろうが、実際には居住空間は1階だけである。2階から上は蚕室に利用されていた。天井はスノコになっていて、イロリの煙を通してススが屋根の防虫防水に貢献するようになっている。養蚕の時期には、煙に神経を使ったであろう。
 入口を入ると、左手に厩がある。便所(べんちゃ)は厩の裏で、外から出入りする。深い升に板が渡してあり、一度に何人もが使える。終わったらワラで尻を拭き、そのまま捨てた。こうするとワラがほどよく下肥になじみ、好気性微生物による分解を促進し、すぐれた肥料になるのである。

 私の親戚の奥さんは白川郷の出身で、「拭くときはオシリが痛かった」と、よく昔のことを言われた。それでも、昔の健康な人の便は固かったから拭き残しはあまり問題にならなかったのだろう。酒飲みの私は軟便で、ワラではたまらない。

 現在では受付になっている最初の広間がオエである。ここに、菊や葵の文様のある立派な茶釜があった。本来、白川郷ではカマドを必要とする釜を用いない。ここは蝦夷文化圏だからである。カマドは弥生人が米作農耕とともに持ち込んだもので、弥生人居住圏に広がったが、縄文人の末えいたちはイロリを受け継いだ。カマドとイロリの分布は、まさしく古代の文化戦争を受け継ぐ象徴といっていい。

 茶釜は、遠山家の先祖が領主の金森家から与えられたものと考えられる。これほどの茶器を所有するのは、金森氏以外に考えられない。
 オエの隣がデイであり、ここに戸長以外の男子全員が寝起きした。その奥が仏間の内陣で、ここに立派な仏壇がおかれている。遠山家は浄土真宗東本願寺門徒である。白川郷は、もっとも早くから真宗門徒の拠点であった。かつて、東本願寺大門の再建のために、巨大な桧材を寄進したことがあるという。

 オエからまっすぐ奥に進むと、上階に登る狭い階段があり、奥がミンジャと呼ばれた勝手場で、ここでミソや名物のドブロクがつくられた。右手がダイドコという食堂であり、ここのイロリですべての調理を行った。

 イロリは、先に書いたように蝦夷文化圏に付属するもので、すなわち落葉広葉樹林帯食文化に付随するものである。白川郷で米が採れるようになったのは、大正時代以降である。明治までの主食は、ヒエ・ソバ・クリ・ヒダミ(ナラドングリ)などであった。

 調理の方法は、鍋で煮る場合が多かったが、イロリの灰に埋めて蒸し焼きにする方法もとられ、これこそ縄文式調理と考えられる。弥生式調理を代表するセイロ蒸しが白川郷に伝わったのは新しい。
 真宗門徒は殺生を禁じ獣肉食を戒めたが、食料の乏しい白川郷では、ウサギを鳥とし(何羽と数える)、猪や鹿をヤマクジラと称し食べ続けた。豊富な川魚も大切な食料であった。ただし、食物には戸長夫妻と長男と他の男女で明確な差別があった。普通の男女はヒエを常食とした。

 ダイドコの奥がチョウダで、ここに戸長妻以外のすべての女が寝た。男部屋のデイとは直接出入りできないようになっている。チョウダの奥に戸長夫妻の四畳半の個室がある。隠居夫婦は、チョウダに設けられた二畳の押入に寝たという。

 個室が許されるのは戸長夫妻のみで、他の人々にはプライバシーもクソもあったものじゃない。しかし、戸長夫妻も、チョウダに寝る女たちが聞き耳をたてるなかでナニを行うには神経を使ったであろう。他の男女は屋外ホテルのみだから、こちらの方がかえって安気だったかもしれない。
 奥のチョウダと内陣の間に奥のデイという六畳間があり、ここは客室にあてられた。廊下の奥には専用トイレが設けられていた。

 遠山家は1827年建築として重要文化財に指定されているが、柱などにチョウナハツリ目が残されているところをみると、実際にははるかに古い建て替え建築であることが分かる。江戸末期には、すでに大部分の建物にカンナが使われ、チョウナが用いられたのは目に見えぬ梁に限られていた。

 柱の材にはクリが多く使われている。杉や桧材にはカンナがかけられている。人の手によってイロリのススをワックス代わりにしてピカピカに磨きあげられている。独特の雰囲気である。
 明治以前の住宅にはクリを使用したものが多い。現在使われなくなったのには重大な理由がある。それは、明治初期に、鉄道建設の枕木に使用するために、全国の優良なクリの大木を根こそぎといっていいほど伐採したからである。

 それまでクリは建築材だけでなく、アク抜き不要の旨くて扱いやすい準主食として貴ばれ、山村ごとに先祖から大切に受け継がれてきた。明治以前のクリ林の規模は、現在とは比較にならぬほどのものだっただろう。伐採が山村民俗の荒廃にはたした役割は極めて大きいといわねばならない。

 さて、ここで重要な未解決の問題を提起しておきたい。
 鉄砲火薬についてである。
 江戸時代、鉄砲火薬の販売元が加賀藩であったことを知る人は、本当の歴史通といえる。さらに、その産地が越中五箇山から白川郷にかけての合掌家屋であったことを知る人は、本物の歴史家であると保証する。

 さらに、その原料が下肥と青草であったことを知る私は、タダの人であった。
 日本に火薬が伝来したのは、種子島であった。鉄砲記という記録にそれが載っているのだが、それによれば同時に火薬の製法も伝授されたことになっている。

 ところが、現在の日本史研究者の定説では、戦国時代、日本に煙硝と呼ばれた火薬原料は存在せず、すべてを南蛮貿易に頼っていたとされるのである。今のところ、この考えに異議を唱える学者はいない。
 だが、この解釈では、日本史に大きな不都合が生じる。織田信長の三千丁にのぼる、当時世界最大数量の鉄砲の製造所有も、長篠の武田氏との決戦も、歴史的背景に疑問が生じるのである。私は、この問題で、日本史学者の程度の低さにウンザリし続けてきた。

 すべての歴史的事件の、背景の物質的条件を証明しなければ歴史研究というべきでない。現在の学者たちは、学問の権威にアグラをかき、恣意的な思いつきで学説をゴマかしているように思える。読者諸士には、タダの人にすぎない私に批判される日本の歴史学のあさはかさを知っていただきたい。

 南蛮貿易が盛んであったといえども、戦国時代すでに万に達していた鉄砲の火薬を、諸大名はどのように調達していたのか。南蛮貿易で、必要なすべての火薬が供給されたと考えるのは事実に反している。
 よく知られているように、初期の鉄砲火薬は黒色火薬と呼ばれ、硝石・硫黄・木炭を混ぜたものであった。硝石の主成分は、硝酸カリウムであって、現在ではナチス化学者の発明した空中窒素電圧固定法によって製造されている。

 それまで、チリなどから輸入された、海鳥の糞が堆積してできる硝石を利用していたことは大くの人が知っておられよう。
 日本では硝石を産しなかった。(実際には、僅かにあったらしい)
 日本では、「煙硝」を代用したのである。煙硝とは、古い民家の便所の付近の床下などに、白く薄い皮膜として被っている代物である。昔の人なら、たいてい記憶を残されているのではないか。なめると塩っぽいので、塩硝ともいわれた。

 種子島で鉄砲とともに伝えられた火薬の製法は、疑いなく煙硝の製法であったと推論することができる。煙硝は、糞尿と家屋につきものだからである。それは人間生活の日常に付随するものであり、どこでも得ることができた。13世紀、元帝国で使用された最初の大砲も、煙硝を原料にしたにちがいない。

 白川郷合掌家屋に伝わる煙硝の製法は、床下を深く堀り、そこに大量の青草を敷き、上に大量の厩肥下肥を積み、さらに青草を重ね、何層ものサンドイッチにして床に達するまで積み上げた。
 数年すると、そのなかに氷のような煙硝の結晶ができた。それに灰を混ぜ、大鍋で煮つめると製品ができあがった。これは非常に水に溶けやすいので、必ず屋根の下で、しかも冷涼な豪雪地の気候が適していた。
 戦国時代、金森氏の領地となった白川郷で、煙硝の製造と合掌家屋の発達が無縁であったとは考えられない。合掌家屋は、まるで煙硝製造のために設計されたようにさえ見える。

 江戸時代、煙硝製造は極秘にされ、加賀藩の専売事業となった。白川郷の煙硝も、ブナオ峠という秘密のルートを使って加賀藩にもちだされた。
 遠山家の床下でも、例外なく煙硝がつくられた。さぞ臭ったことだろう。建物の改築頻度からも、それを窺うことができる。湿度の高い床下があっては、建物の寿命が短くなるのは当然である。

 さて、戦国時代の戦争史を考えるうえで、火薬供給を解明することがどれほど重要か理解されるだろうか。信長は、なぜ三千丁の鉄砲を所有する気になったのか。その火薬のアテをどこに求めていたのか。白川郷の煙硝製造はどのような歴史をもっているのか、興味が尽きないのである。

 平瀬からの帰り道は、御母衣ダムの堰堤を過ぎ、左手に巨大な御母衣湖を見る。この日、冬の渇水期のため極端に水量が減り、満水面から数十m下が現れていた。
 庄川村に入ると、湖の中に大きな平原が見えた。そこに規則正しい石の配列を認め、あわてて車を路肩に寄せた。
 御母衣湖に沈んだ、庄川最大の集落であった岩瀬の里が現れていたのである。

 すぐに薮をかきわけて湖畔に降りていった。
 そこには、池があり、田があり、井戸があり、道があり、肥桶が埋まり、家の礎石が整然とならび、石垣は昨日組んだばかりのように整然としていた。

 私の脳裏には、合掌集落のならぶ岩瀬の里で、縄文のいにしえから続けられてきた、人々の暖かい生活の有り様が浮かんでは消えた。小さな踏み減った石段で、無数の人々が、泣き、笑い、怒り、楽しみ、ふるさとを愛し、人々が助け合って生き、そして死んでいった光景を想った。

 この楽園を、「国民生活の向上」とやらが襲い、人々を追放し、里というかけがえのない宝を葬り去った。
 電力はきた。車も買えた。だが、とてつもなく大切ななにかが消えていった。本当に豊かになったのだろうか。この岩瀬の里にあった、美しいものはなんだったのだろう。私たちは、物質文明によって、実は本当の豊かさを奪われたのではなかったのか。

 分業を歴史の発展の必然段階であるとするならば、分業から生じるすべての矛盾は避けられないものかもしれない。分業がなければ、岩瀬の里は滅びずにすんだ。分業が人々を豊かにし、そして滅ぼしてゆく。
 帰り道、こんなことを想った。


 鷲ヶ岳 1672m 91年11月

 高鷲村にOさんという古い友人が住んでいる。名古屋の会社に勤めていたときに知り合って、もう十数年のつきあいである。
 今は、ふるさとにユーターンして鷲ヶ岳スキー場に勤めているのだが、もう100年も前からそこの主でいるように存在感があって、包容力のある人柄がまわりの人々の信頼をあつめている。

 キノコのシーズンになると毎年訪ねてゆくことになっている。しかし、今年は少々時期が遅いので心配だった。
 11月末、O家に着くと、ちょうどわが友、ご主人様の御帰宅とハチ合わせした。今年、41才になるO氏とひさしぶりのご対面。穏やかな顔の額が、以前より明らかに後退し、てっぺんも白さを増したのが侘びしい。

「よー、やっとかめだなん、元気かい。」
「おいさ、ちっとくたぶれとるわいな、仕事ができんでメシの食いあげよ。」
「キノコがようできとるわい、うめーぞ。」
「もう遅いと思ったけんど、なんだいな」
「ほれ、例のナメコとヒラタケよ。シイタケもええぞ」
「山のキノコはどうだいな。」
「山のはもう遅いわ、ありゃー紅葉までだ。今年はシモフリゴケ(土生菌をコケという)がようとれた、だけど、ロウジはさっぱりだわい。モタセ(木材腐朽菌)はできがええ、アカゴケもあんまりようなかった。」
「そりゃあかん。ロウジ喰いたさにわざわざ来たんだいな。」
「ぜいたくぬかすな。ほれ、あがってナメコ喰え。」
 「ロウジ(クロカワ)とアカゴケ(ショウゲンジ)が悪いのは、いよいよ酸性雨だろうかな。」
 「そうかもしれんなー、杉が痛むようになったでなー。」

 山のナメコは旨い、こいつは醤油をつけて焼くのが一番いい。口のなかにうまみがジューっとひろがるのがたまらない。オガクズ栽培のものとは大きさ、形、味ともに似ても似つかない。ヒラタケも、スーパーなんかで売っているシメジと同じ菌なのだが、原木栽培のものは味が全然違う。うまみがケタ違いである。

 これらは、5年ほど前に私が津市の森種菌から種駒を購入して、Oさんと一緒に種付けしたものである。(種駒は一律千個1袋2400円)Oさんの山では、今では、毎年食べきれないほどのキノコができる。出荷したくても、忙しくてできないのが残念である。

 焼酎をウーロン茶で割って、ぐいぐいやりながら世間話に花が咲いた。聞けば、名古屋育ちの愛妻も慣れぬ田舎暮らしにも馴染み、今度ダイナランドの社員になったという。
 田舎は給与水準が低いので、家族が多いと生活も大変だ。もっとも、通年雇用する側も稼ぎ時が限られ、確実性のある見通しを前提にできない事情もある。(高鷲村のスキー場は、古川興業などの名古屋資本ばかりである。)

 それでも、Oさんも奥さんも名古屋の生活に戻りたいとはいわない。子供達も名古屋のようなイジメもなく、比較にならないほど伸びやかで健やかに成長してゆくのが楽しみだという。

「おい、ぼちぼちこいつを出荷したいのう。」
「そうじゃ、出荷せんと腐らせるばっかりでもったいないわ。来年はなんとかしたいな。どこぞの生協にでも話をつけて、自然食品として出すことにするか。」
「オレとこのは、野菜でもキノコでも薬なんか使っとらんし、みんなうめーぞ。たまにマーケットで買う野菜なんぞ、カスのようで食えんわい。」
「おいさ、来年はやるべさ。」

 翌朝、Oさんの案内で、鷲ヶ岳スキー場からの登山口を教えてもらった。場所は、一番高いトリプルリフトの終点にあるのだが、この時期、そこまで延びている林道を車で利用できる。

 案内を書いておこう。鷲ヶ岳スキー場に向かうと冬季の通行料徴収ゲートがあるが、その先でスキー場へ行く道は左手に曲がってゆく。角に銅板製の鷲ヶ岳由緒の説明看板があるが、そこの直進する狭い林道を行くと、ゴルフ場を抜けてしばらくでT字路になる。それを左に行ったつきあたりがトリプルの終点で、その付近の林道の待避場に車を停めることになるが、4WDでないと危うい。

 この登山口は、鷲ヶ岳から西に延びてスキー場を結ぶ一番大きな尾根を行く道である。立派な標識がでていた。「鷲ヶ岳まで4・5K」と書いてある。
 残念ながら天候には恵まれず、冬型気圧配置特有の、どんよりと濁った空で、いつ雪になっても不思議でない。

 わずかに歩くと、この幅の広い尾根を幅5mほどに伐採してスキーコースがつくられていた。人の歩いた跡は少ない。30分ほどで、1403mの三角点のあるピークに達する。ブナノキ平といい、数本の大きなブナがある。

 すると、左手に延びる尾根の上に4台ものユンボが現れ、尾根をかきむしっていた。あたり一帯に轟音が響きわたっている。左手の鷲見の集落にいたるまで見渡す限り皆伐してあって、むきだしの漆黒の土が空恐ろしい。

 どうやら鷲見集落に、新しい、それもかなり規模の大きなスキー場を建設中で、しかも、そこから鷲ヶ岳スキー場へ抜けるコースとして整備されているようだ。高鷲村一帯は、リゾート開発法が施行されて以来、間断のないすさまじい開発がすすんでいる。長良川源流地帯のかつての原生林の面影は、完全にむきだしのリゾート地に変わってしまった。

 これだけのゴルフ場とスキー場ができるまえの原生林のもっていた保水力保土力は、莫大なものだったはずである。それが失われて、その機能に代わるものが用意されたのだろうか。まったくゼロである。

 ということは、最大級の保水保土能力を要求される大規模降水があった場合、モロに長良川に降水と土砂が集中するのは自明であって、大水害が発生するのも自明である。その対策も「ゼロ」である。いったい、どういうつもりなのだ。

 長良川といえば、土建業者の仕事つくりのための河口堰が問題になっているのだが、この巨大な保水保土破壊の末端で、あのような障害物がつくられることを考えると恐ろしいというしかない。

 かつて富士川であったような、「数千年分の侵食が1日で行われた」といわれたほどの水害がもたらされるのは必至と考えるべきだろう。金欲に目が眩んでしまっている人々には、このような常識さえ見えなくなってしまっているのである。

 そこから道は普通の登山道になって、右手にカーブしてゆく。いくつかの尾根を上下すると左手が広大な皆伐地帯で、杉の植林がされている。右手は、伐採される前の美しいブナ林の様相を残している。小雪が降りはじめた。

 あとでOさんに聞いたのだが、皆伐された直後、ここで地元のおじいさんが座ってブナの林を見つめたまま死んでいたという。おじいさんは何を思って、ここを死に場所にしたのだろう。

 しばらくで、再び林道に飛び出した。これには唖然。どうやら、先のT字路を右折するとここに来るようだが、工事中である。
 わずかで、できたての御堂がつくられていた。「いっぷく平」と書かれていて、鷲ヶ岳の名の由来となった鷲を射抜いた源氏武者をまつっている。今なら、さしずめ特別天然記念物保護法違反で懲役だ。野鳥の会の人たちならメクジラをたてるだろう。

 林道はここでおしまい。道も踏跡程度になった。急なコブをいくつか上下すると、道はいよいよ悪くなって、背丈をはるかに超えるチシマザザの密生を分けながら行くようになる。
 急な傾斜を登る頃になると、踏跡も定かでなく完全なヤブコギである。このあたりからササに雪が載っていて雨具をつけていても体が濡れる。ガスのため、ルートファインディングも困難だ。

 必死になってササを分け、ようやく稜線にでると、庄川スキー場方面からの踏跡を併せるが、こちらの道もよいといえるほどではない。右手20mほど先に、山頂の標識があった。ここまで、登山口から2時間半程度。

 運動靴と軍手で雪を被ってきたので、ガタガタふるえがきて手足が凍えた。あわてて手袋と靴下を替える。
 狭い頂上に「平成元年歩け歩け大会」という柱が立っているが、道は苔むして全然歩かれた跡がない。ここを訪れる登山者は希なようだ。         
 もう寒いばかりで展望はなく、降雪もひどくなったので休むヒマなく下山開始。
 いっぷく平まで戻ると暖かくなり、ほっとした。林道経由で車まで1時間半。どうも、自然破壊のエゲツない場面に悪酔いしてしまって、その夜のOさんとの宴会は盛りあがらなかった。


 大笠山 1822m 1992年8月中旬

 白山北稜を代表する大笠山に登ったのは、暑い暑いお盆の連休であった。
 長期の連休がとれたのだが直前まで予定がたたず、フラッと部屋を出て、思いつくまま、登り残していた会津付近の山々を歩き、次に朝日連峰に向かい、最後に大笠山に登るという気ままな登山旅行を行った。

 どういうわけか、このときは一等三角点の山が多くて、会津駒・浅草岳・大朝日岳に一等標石を見いだし、最後のこの山にも一等点の標石を見いだした。私は測量ライセンスも取得していて、一等点には感慨が深いのである。
 登りはじめの尾瀬平ヶ岳は、体調不良でしんどかったが、最後のこの山も、疲労の蓄積のため、かつてないほどしんどい思いをした。本当をいえば、疲労以上に恐怖心によって、あまり後味のよいものではなかった。

 この山には、五月中旬に一度訪れているのだが、白川郷を経て登山口の桂に出向くと、境川(越飛国境)ダムの建設工事が進行中で、立入禁止区域のため現場監督に追い返されてしまった。(1993年10月再開、但し積雪期には入口の吊橋の踏板が外されている)

 すでに桂の集落など跡形もなくて、ダム工事も大部分が終了し、後は貯水を待つばかりになっていた。古い桂登山道には新築の立派な吊橋がかかっていたが、その先の登山道は工事中であった。いずれ、遊歩道風の散策ルートを整備するつもりかもしれない。

 桂は、越中五箇山(上平村)最奥の合掌集落であったが、すでに30年も前に集団離村して廃村になっていた。越飛国境でもある、集落の背後の小さな尾根を超えると、飛騨白川郷最奥の集落である加須良の合掌集落があった。

 この二つの集落は国が異なるとはいえ、事実上ひとつのカヅラ村(名の由来は双方とも葛橋による)として機能していたが、加須良も桂の後を追うようにして集団離村してしまった。加須良の合掌集落は、現在荻町に移築され、合掌集落記念館として公開されている。

 この二つの集落の離村した時期が、この集落に念願の道路が開通した時期に一致しているのは、なにごとかを物語っているようだ。人々は、開通したばかりの道路を利用して出てゆき二度と戻らなかった。過疎地住民の熱望する道は、彼らを離散させる道なのだ。私はこれと同じ例を全国で聞いている。日本の過疎山村に共通するパターンなのである。

 大笠山には、石川県側の福光を経てブナオ峠から入った。午前中にブナオ峠に到着し、その日のうちに登れるところまで登っておこうと思っていたのだが、ブナオ峠で荷物の支度をしているうちに、なにやら疲労が出て眠くなり、登る気力が失せてしまった。

 会津や朝日の山々では、さんざん虻に苦しめられ、両足はボコボコに腫れあがってしまっていた。ブナオ峠の虻はウシアブよりもクサアブが多かったが、会津といささかも変わらぬしつこさで、うんざりしてしまった。この先、憂欝である。

 早朝、幕営道具一式と、5リットルの水を担いで登り始めた。地図で見る限り、すべて尾根ルートで、水が得られる地形とは思えなかったからである。結局、この予想は正しかった。
 ブナオ峠からは、自然公園として整備された立派な登山道がついていた。この上にある大門山(1572m)への登山者が多いと見えて、しっかりと踏まれた道である。

 しかし、役所仕事を象徴するように無用な整備の度が過ぎていて、高低差の大きい丸太土止めの階段が実に迷惑であった。少し山慣れた方なら日本中の山で同様の経験をされているはずで、役所の事業とは、思いやりとは無縁のものであることを端的に思い知らされるのである。連中は金を使いさえすればよいのだ。

 2時間で、左に赤摩古木山への分岐があり、そちらに向かう。白山主稜尾根で、白山を経て油坂峠をつなげば、実に関ガ原の国道1号線まで尾根が絶えることなく続く。右へ向かえば、延々と能登半島の先端まで尾根が続いている。

 緩い尾根道を上下して、30分ほどで赤摩古木山の山頂に立った。すでに陽は高く、暑苦しい1日を予感させた。手前の笹薮に、赤茶のマムシが3匹出ていて、アブの襲撃とともに憂欝になった。
 山頂には、傾いた木製のテーブルと椅子が設置されていて、なぜか避雷針まであった。自然歩道のように整備されているが、訪れる人は少ない。よく晴れていたが、雲が多く、展望は得られなかった。

 ここから見越山のコルまで150mほどダウンするのがもったいないが、ここまで来る人はさらに希で、まさしく秘境の雰囲気が漂う。気分を損なう伐採地のトラ刈は見えず、実に気分の良い原生林ばかりである。
 道に、真新しい湯気の立ちそうな緑色の大きな糞を見つけた。径3、4cmほどで、体重100Kg以上の動物のものであろう。イノシシか熊のものと思ったが、おそらく後者だろう。この時期、緑葉ないし緑実を食べているのだろうか。

 コルに水場を期待したが、得られそうになかった。ここから見越山頂まで、250mほどの急登がはじまる。
 途中、犀川源流の大笠山にいたる主稜尾根が見渡せ、雄大で美しい原始の雰囲気に酔った。「すばらしい!」の一語だ。これほどの犯されざる山岳景観は、白山全域を通じても白眉といわねばならない。日本人は、これほどの美を21世紀までにどれほど残しておけるのだろう。我々にとっての美は、林野庁官僚にとっては旨そうなエサなのだ。次回来るとき、この景観は望めそうにない。
 左手に、異様な崩壊地の岩磐が見えた。非常に印象的な景観であった。

 見越山の登りは、台風によるものか相当に荒廃していた。階段状の土止めはバラバラになり、急傾斜なのでスリップに神経を使う。おまけに、途中数匹のマムシが顔を出していた。異様に多い。

 持ち帰れば数千円で売れるそうだから結構な稼ぎになるが、私は長いものに巻かれるのが得意でない。本職のマムシ採りは、スルメと女の髪の毛を焼く臭いでマムシをおびき寄せ、一網打尽にするそうである。

 マムシはハブやガラガラヘビと同じクサリヘビ科のマムシ亜科で、毒性はハブより弱いと思われがちだが、実は五倍ほど強い。それなのに、被害がハブほど深刻にならないのは、毒量の多寡によるものである。
 日本では年間数百名が咬まれているが、後遺症を伴う被害は少なく、死亡例は年間数名にすぎないから、それほど恐れる必要はない。

 咬まれたらすぐに血清を、と考えるのはあさはかで、毒による害よりも、血清蛋白による抗原抗体ショックの害の方が重い場合が多いという。したがって、慣れた医師は、よほど症状を見きわめなければ血清を使用せず、殺菌程度にとどめるという。血清は、かなり遅れても有効だという。

 ただし、吸毒については賛否両論あって、切開による細菌汚染を考えれば有害という意見があるが、私自身は、スズメバチやウシアブなどの刺傷の経験を考えれば、絶対に有効だと考えている。ただし、咬まれて30分以内でなければ吸毒の有効性はない。登山用品店にアメリカ製の吸毒キットが売られていることがあるので、おすすめしたい。これは、アブとハチにも有効である。

 マムシの咬害が問題になるのは、夏から秋にかけてである。8月から9月にかけて、マムシは7~10匹の子を産む。マムシは腹中で子が卵を破り、成体で出生する。これを卵胎性という。抱卵期のマムシは神経質で、攻撃的になる。この時期は動作が鈍く、すばやい逃避ができないので攻撃に頼るしかないのである。このようなマムシはトグロを巻き、鎌首をもたげ、追っても逃げようとせず、およそ50センチもジャンプして攻撃することがあるので要注意である。

 温血動物を咬むときは、目と鼻の間のくぼみにあるピット機関という赤外線センサーで相手をとらえ、ジャンプして咬むのだが、これはマムシ亜科に共通する特徴で、赤外線センサーを装着したミサイルがサイドワインダー(ガラガラヘビの別名)と命名されているのは、この原理によるものだからである。

 以前、東北の林道を車で走行中、道端のマムシがマフラーに向かって飛びついたことがあった。
 今回、白山周辺で多くのマムシを目撃するうちに、私は出没地点にある共通点があるのに気づいた。それは笹薮の存在で、それも枯れるか伐採するかして、マムシが身を隠すに十分な笹の葉に覆われた場所であった。普通の薮混じりの樹林では姿を見ず、笹の存在が大きな条件だったのである。

 ところで、マムシは集団生活するということも覚えていた方がよい。つまり、マムシを一匹発見したならば、その付近に数十匹いると思わねばならないということである。
 こんなことを書くと、山に対する恐怖感を煽りたてるようだが、実際には、熊やマムシの害など事実上ほとんど問題にならない。私の知人にも、数十年にわたって千回を超える登山を重ねてこられた方がいるが、マムシや熊の害を受けた話など聞いたことがない。私自身、600回そこそこの登山経験だが、数えきれないほど遭遇経験はあっても、被害経験はない。大部分、向こうが先に逃げてくれるからである。むしろ、虻やヒルの方が問題になるのである。

 それに、登山者たるもの救助設備のない山中を歩くこと自体に価値を見いだすべきであって、いざという場合の覚悟を定め、漢祖劉邦のごとき天命主義を自覚すべきだろう。危険も含めた自然と人生を楽しむべきなのである。危険ばかりを思えば、人間の逞しい想像力は無制限に恐怖をつくりだすものであって、自分自身の空想にがんじがらめに縛られることになりかねない。

 見越山(1621m)の山頂は、狭いが展望雄大。ブナオ峠から3時間半程度、軽量ならもっと早いだろう。赤茶けた火山灰の土質で、テントを設営するスペースはなかった。

 ひどく暑くなり、水を大量に飲んだ。汗のため股ズレをおこし、ジーパンを脱いでパンツ一丁で歩きだす。この広大な山地に人影はない。奈良岳へ向かう下降路でスリップ、倒木で膝を切り出血。心配になるが、これも天命。
 見越山から30分程度で奈良岳(1644m)山頂。2等三角点主点である。立派な標識があった。辛うじて1張り程度幕営可能。帰路の幕営地点候補地だ。

ここに石川県側からの登路が記されているが、荒廃して通過困難。
 いよいよ大笠山へ向かう。すでに昼になった。時間節約のため、食事は黒砂糖とレトルトのお粥で我慢。黒砂糖は非常に良かった。

 奈良岳を下降すると、広い尾根上の湿原地帯になった。ところどころ池があるのだが、水は完全に腐敗し飲める代物ではない。道も不明瞭になり、ルートファインディングを必要とする場所もある。
 しばらく、歩きにくい鋸の刃のような上下を繰り返す。猛暑のせいか、マムシは影をひそめた。笹を伐採してあって、歩きやすかった。感謝。だが、荷物が肩に食い込むのを自覚するようになり、バテを感じた。

 やがて、緩い登りになり、左奥に苫屋に似た笈ヶ岳が見えた。赤摩古木山からみた巨崖が目の前に現れ、岩というよりザレであることを確認した。これも、ことによると天正地震の遺物かもしれない。

 最後に、急登をつめて大笠山の広い山頂の一角に達し、桂からのルートを併せた。そこから10分ほど水平に歩いて、とうとう大笠山の山頂広場に達し、そこに一等三角点標石を見た。
 負傷したヒザは血まみれになり、ひどく疲労を感じた。ブナオ峠から、実に8時間。一人で万歳三唱しているうちに、ジーンときてしまった。残念ながらガスのため視界不良。

 山頂は、立派な広場につくられ、椅子やテーブルが自然公園のように整備されている。こんな山奥に設備をつくっても、利用する人がいるのか半信半疑である。いったい、どういうつもりなのだろう。

 山頂広場は幕営に十分な広さがあるが、残念なことに水が得られない。地図で見ると近くに池があるが、激しい笹薮漕ぎが必要になる。もし得られるとすれば、大畠谷の源頭であろうか。ここは傾斜が緩く、下の方に水音も聞こえた。
 笈ヶ岳方面には、わずかに笹を分けた跡があった。標識テープも付いている。どうやら夏期の縦走者があったらしい。

 この日、余裕があれば笈まで縦走する予定ではいたのだが、少々歩いてみると、猛烈な笹籔のなかに体が浮いて、足が地につかないほどの厳しい籔漕ぎが要求されそうだった。結局、負傷が心配で引き返すことにした。

 山頂で1時間ほど休憩し下山、奈良岳で5時になり幕営を考えたが、涼しくなったせいか、いたるところにマムシが出没しだした。気持ち悪くて、無理にでも帰ることにした。

 これほどにマムシが増えた理由は、一説によれば、麓の山村の住人がいなくなってマムシを採らなくなったこと。それ以上に、マムシを主食する猛禽類が減ったことだという。すなわち、自然破壊のツケなのだ。
 見越山までは元気だったが、赤摩古木山ですこぶる苦しんだ。大門分岐からヘッドランプを使用しなければ歩けなくなった。すっとばして、8時にブナオ峠に帰着。通算14時間の歩行になった。


 笈ヶ岳 1994年4月末

 笈ヶ岳は、私にとって幻の山だった。あるときはブナオ峠から挑み、あるときは馬刈口から挑んだが、過去2度退けられていた。
 遠い、遠い遥かな幻の峰、その姿を望むことすら困難な深山中の深山の名峰、見るものの心を打つ千金の茶碗も、笈に見られるなら恥を知って姿を隠すだろう、と名文調で書きたくなるほど、この山は一癖を自認する山好きたちの憧れの的である。

 これほどに見事な錐峰は、私の知る限り、北アに槍ヶ岳、南アに甲斐駒そして池口岳、北海に利尻、南海に開聞と数あるなかでもベストを争うものであろう。形が中途半端にシンメトリックでないところが実に渋い。実際に登ってみての味わいは、さらに渋い。なんといっても登山道がついてないのである。そのくせ、山頂からの眺望は360度の豊潤な大景観で、期待を裏切らないばかりか、白山連峰の未知の視座をも与えてくれるという至り尽くせりの絢爛豪華な山でもある。

 深田久弥が、笈ヶ岳を百名山から漏らし荒島岳に変えた理由は、ただ彼が登れなかったという事情によるものだが、晩年に中宮温泉から登頂に成功したとも記されている。

 荒島岳も、山頂の電波搭さえなければ決して悪い山とはいわぬが、笈ヶ岳をさしおいて百名山に選ばれるだけの内容はない。それは、両者に登ってみればすぐに分かる。歴然とした風格の差があるのだ。

 私は昨年、一応百名山を完登したのだが、笈ヶ岳の風格は、百名山並べたなかでも上位に位置するものと評価したい。深田久弥は、笈ヶ岳に登った後、百名山の差し替えを行なう必要があっただろうが、あまりに権威化しすぎて本人も手がつけられなくなってしまったのだろうか。

 三度の挑戦にして、雪と藪を分けてようやく立つことのできた山頂は、眺望、景観ともに荒らされぬ大自然の真っ只中にあり、期待に違わぬすばらしいものだった。何よりも、この山がザラにない本物の名山であることを実感することができた。

 単独行専門の私にしては珍しく、この山行には同伴者がいた。アマチュア無線で知り合ったJO2SOX加納さんで、加納さんは54歳になるにもかかわらず、仕事で鍛えた体力にものをいわせたクライミングが得意で、私と連れ立って何度も近郊の岩場に出かけている。

 私が案内役ということなので、コースは勝手知る白山スーパー林道馬刈口からの縦走に決めた。この山には登山道がなく、籔もひどいので、登山適期は積雪期に限られる。以前、大笠山頂から伺った様子では、背丈を超える密生した根曲りの笹藪が行く手を阻み、夏季縦走は厳冬のアルプスより条件が厳しいように思われた。

 5月の連休は、最後にして最高のチャンスである。この時期、全国の秘峰愛好家達が登頂を狙って押しかけてくるので、ルートが明確に示されることになる。
 初日は生憎雨で、白川村とならぶ合掌の里として知られる上平村に遊びに行って、平瀬遠山家と共に最大級の合掌家屋として遺された赤尾の岩瀬家を見学した。

 岩瀬家は、もともと越中上平村、煙硝支配の藤井家が江戸末期に途絶えたときに、これを買取って維持した家系で、先祖はどうやら三河岩瀬からでているというようなことを当年米寿の矍鑠とした当主が説明されたので、ひょっとすると私の父方の遠縁の親戚筋に当たるかもしれない。

 内部の柱は欅の尺角物で、梁は松と桧で、栗材が少ないのは建築年代が新しく(江戸後期であろう)、相当な権力階級に属した家系であった証拠と思われる。
 内部の造作も、簡潔にして機能的にできている。やはり真宗大谷派に属すると思われる絢爛豪華な仏壇があり、脇に棟方志向作、赤尾道宗の版画が掛けてあった。

 当主は、これこそ志向が当家に滞在したおりに道宗の行跡に感動して彫り上げたものと言われた。赤尾道宗は蓮如の弟子で、一向一揆の軍事的指導者であったらしいが、その行跡は埋もれている。いずれ世に紹介されるときも来ようが、誰の手になるか楽しみだ。

 版画に挿入された、「くれぐれも油断あるまじき候」という語句が、この人物の世界観を象徴しているようで、ひどく印象に残った。
 西赤尾から、笈ヶ岳に到る大笠山境川(桂)ルートと加賀に抜けるブナオ峠道があり、様子を見に行くことにした。ブナオ峠は、積雪のため通行止めであったが、境川は通行できた。以前訪れたときはダム工事で通行止めとなっていたのが、その工事も完成し、10年ぶりに登山道入口まで車で入ることができた。

 すでに水を湛えた湖面は青く、周辺には立派なトイレや駐車場など観光施設が整備されていた。登山道入口の日本百名谷、大畠谷(おばたきたん)には大きな鉄製吊橋がかけられていたが、その踏板は積雪期のために外されていた。数十メートル下には雨で増水した濁流が流れ、この谷の過酷な登攀遡行レポートを思いだし緊張させられた。

(後に、このルートは93年10月に登山者に開放されたことを知った)
 翌日、6月中旬まで閉鎖された馬刈料金ゲートに車を駐車し、三方岩岳旧ルートをたどったが、林道開通以来、登山道はさびれ、沢には工事消費目当ての無意味な砂防ダムが増設されていて、膝上の冷たい徒渉を強いられることになった。

 さらに道を失って、前回同様、籔漕ぎ構わずに尾根に取付き、強引にスーパー林道展望台に登りつめた。途中、規模の大きなブロック雪崩が雪煙土煙を巻きあげながら連続して起きるのが見えた。
加納さんは初めて見るらしく随分興奮していたようだ。地こすりと呼ばれるブロック雪崩は春の日本海側山岳の名物なのだ。

 展望台付近には休憩用家屋も建設され、幕営登山者の姿もあった。ここからは根雪の世界で積雪地帯にはトレースもあり、三方岩岳の手前の迷い尾根も難なく通過し、前回引き返したトラバースもあっけなくクリアした。

 ここは、凍ってさえいなければ容易な場所で、前回の失敗は凍結した急な岩場の基部を直接トラバースしようとしたことだった。実際には、それより50mほど下の緩い雪の斜面にルートがあった。ここは、夏道を経験していないと分かりづらい。

 三方岩岳の山頂は広いが風が強く寒い。しかし、笈ヶ岳の軽装往復なら、この付近に幕営するのが負担が軽くてよいかもしれない。
 我々は、瓢ヶ岳を越えて国見山頂に幕営した。極めて広い平坦な山頂で、快適な幕営地である。ここからは仙人窟岳が見事に眺められるが、笈は影に隠れて見えない。大笠山から医王山にかけての犀川源流の荒らされぬブナ帯が、雪に覆われて美しく心に染みいるが、この景観がいつまで保たれるのだろうか。

 臨調以来の林野庁独立採算制が、日本の真の自然を処刑破壊してしまった。中曾根康弘もメザシの土光敏光も、いずれ、劣悪卑劣な自然破壊犯罪人として歴史に記録され処断されることだろう。だが、他国の自然を凌辱して豊かさの幻影に酔う我々日本人が、自分たちだけ美しい自然環境を得るのは、もっとおかしい。日本は滅ぶべきなのだとも思う。

 山頂のテントから、UHF・1Wで島根県と無線交信することができた。距離にして400Km、山岳反射と海上ダクト性伝播などの好条件が重なったのであろう。

 用便に崖を下りると、そこは垂直に300m以上すっぱりと切れ落ちた断崖絶壁で、仙人窟岳に到るまで巨大な垂壁になっていることに気づいて冷や汗をかいた。これほどの規模の岩場が何故知られていないのか不思議に思った。これまで国見山のクライミングなど聞いたこともなかったが、いずれ、奥鐘山や海谷・明神とならぶ未開の岩場として開拓される運命にあろう。岩質は、名張に似た安山岩柱状節理のようだ。

 仙人窟岳は名の通り修験の行場であったことは疑いなく、実に行者好みの風格のある山だ。古には天台宗系白山権現の行者達の拠点となっていたのであろう。おそらく、溶岩洞窟が点在しているのではあるまいか。
 山頂には、どこからともなく熊の独特の体臭が漂っていた。近くに大物の熊がいるらしい。普段、人跡のない場所だけに、熊の縄張になっているようだ。

 翌朝、加納さんと仙人窟岳に向けて軽装で出発した。水をつくるのに燃料を大量に消費し、やや不安が残る。急な雪壁を下りると、途中に相当な大熊の足跡があった。幕営地点から100mほどの場所だ。遭遇できなくて残念だった。

 仙人窟に到る稜線では、遠くに春を告げる地こすりの号砲が絶え間なく聴こえる。我々の足元も、雪の状態が不安定で、雪庇がいつ崩壊するともしれない不安があった。クレバスが至るところに口を開け、転落を誘っているように見えた。

 強烈な日差しに灼かれて、ひどく咽が渇いたが、水が少なく憂鬱だった。仙人窟山頂手前で雪が消え、籔漕ぎを強いられたが、手強い根曲り笹ではなく容易に抜けることができた。これが大笠山からなら、こんな訳には行かない。

 仙人山頂からはすばらしい眺望で、笈ヶ岳のピラミッドが実に見事だ。これほど美しい山の姿は過去にあまり見たことがない。わざわざきた値打ちがあった。
 仙人窟と笈ヶ岳の中間には8mほどの岩場があって、3級のフリーソロでこなしたが、帰り道固定ロープがつけられているのを確認した。それほどたいした場所ではない。

 この付近から稜線の根雪が消え、藪がむきだしになっていた。笹と手強い灌木に悩まされながら、国見山頂から3時間ほどで笈山頂に達した。思ったより遠い。

 山頂は5坪ほどで、笹に囲まれていてあまり広くない。登頂者が多いのにびっくりした。話しを聞いてみると、境川ルートから登った人が多いようだ。あのルートなら、往復10時間もあれば登れてしまう。私は、この時点で桂ルートの開通を初めて知った。

 山頂からの眺望は、ゴールデンウイークらしく黄砂霞に閉ざされ、あまりよいとはいえなかったが、3度目ににして憧れの笈に立つことができ、嬉しさを噛みしめて楽しむ景観には格別の趣がある。

 とりわけ、白山の本峰の視座はこの山独特もので、他とはまったく異なる印象を与える。その雄大なスロープで山スキーを楽しみたい誘惑にかられた。この山域に通った回数も、50回ほどになっているだろう。指呼のなかに過去の記憶が蘇り、なつかしい山を思い起こした。

 ここから、清澄な時期には、日本海の向こうに韓国の漢奴山あたりも見渡せるかも知れない。過去、数千年にわたって、朝鮮半島からどれほど多くの人々がやってきたことだろう。人々は、白山を日本列島の灯台としてやってきたのだ。ゆえに、白山神社信仰こそ、秘密の日本史の鍵となるべきものなのだ。

 同行の加納さんは、無線機を取り出して交信をエンジョイしている。名古屋とは交信できなかったものの、福井に帰省中の知人のNさんとつながり大変喜んでいた。Nさんも、まさか北陸で名古屋の山仲間と交信できるとは思っていなかっただろう。これが無線の楽しいところだ。

 帰路、びっくりするほど大勢の中年パーティとすれちがった。明日は大雨の予報が出ていて、恐るべきブロック雪崩が多発することが確実なのにである。そのなかに、名古屋の知人の姿も見つけた。笈ヶ岳は、もう秘峰とはいえなくなってしまったようだ。

 三方岩トンネルの上に来たとき、休憩中の登山者に、スーパー林道経由で通行すると1時間半で展望台に行けると聞き、雪崩の不安はあったが、たくさんのトレースに誘われて行ってみることにした。午後3時を回っていたので、落ちるべき雪崩は落ちたと判断したからである。

 だが、歩いてみると、当然のことなのだが、そこが恐るべき雪崩の巣であることを思い知らされた。林道は雪の急斜面となっており、いたるところにデブリの痕跡があり、いつどこで崩壊するとも知れぬ不気味なブロックが上部にへばりついていて、命の縮む思いをした。地こすりに遭遇するなら落石津波にあうに等しい。

 トレースは、さきほどの無謀な中年パーティのつけたものらしい。彼らのマネをしていたら命がいくつあっても足らないと思った。
 人を恐れぬカモシカが、私達を見送ってくれた。はげしい渇きに悩まされながら、歯ごたえのある山行になったが、二人とも満足だ。

地震前兆について: NIKEの差別告発CM

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 11月25日、ラドグラフなどに強い前兆が現れ始め、宏観前兆と併せて強い地震に警戒を呼びかけた。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1321.html

 だが、国内では、12月3日現在、目立った結果は出ていない。私は25~28日頃、和歌山県沖でスロースリップが発生したのではないかと疑っている。
 しかし、11月25日から急上昇しはじめたラドグラフは、平常値(30ベクレル前後)から、29日には最大63ベクレルまで上昇し、12月2日から急に下がりはじめ、三日現在、48ベクレルまで下がったが、まだ30ベクレル㎥の平常値に収束していない。
 これが収束すれば、相当に大きな地震が起きるものと予想している。

 清瀬市コスモスさんのガンマ線定点観測データでは、11月30日に強いマイナスが出た。
 http://tokaiama.bbs.fc2.com/

 翌日、12月1日、樺太西方沖で、M6.6が発生している。
 http://www.jma.go.jp/jp/quake/20201130230053395-01075552.html

 このとき満月で、満月誘発地震として、世界で三つの大きめ地震が起きた。
 M6.4  アラスカ州ニコルスキーの41km ESE 2020-12-01 16:22:39 UTC
23.0 km(UTCに9時間を足せば日本時間)
 M6.3 チリとアルゼンチンの国境地域 2020-11-30 22:54:59 UTC147.8 km
 M6.4 ソヴィエツカヤガヴァンの88km SSE、ロシア2020-11-30 22:54:34 UTC
 https://earthquake.usgs.gov/

 これらの地震と、25日からの前兆は、ラドグラフとの相関は少ないと思う。 

 とりあえず、ラドグラフ東大阪データが、30ベクレル㎥に収束するときを注視していただきたい。

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NIKEの差別告発CM

 話題のナイキ広告で噴出…日本を覆う「否認するレイシズム」の正体
  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77893

 NIKEが製作した、以下のCMが話題を呼んでいる。
 https://www.youtube.com/watch?v=G02u6sN_sRc&feature=emb_logo&ab_channel=NIKEJAPAN

 主には、在日ハーフへの社会的差別を告発したものと受け取られているが、ネトウヨたちから、一斉に攻撃を受けているのは、2011年、放射線被曝の危険性を告発した私たちが経験した、無知な連中からの一斉攻撃に似たものを感じる。
 https://mobile.twitter.com/search?q=NIKE%E3%80%80CM%E3%80%80%E5%B7%AE%E5%88%A5&src=typed_query

 思えば、私は名古屋市中村区に育って、小中学校ともに、在日者がクラスの1割以上を占める環境で、在日朝鮮・韓国人に対する差別を直視させられた。
 また、私の住んでいた町内が、かつて未解放部落区域に近接していたこともあり、私は「四つ」(四つ足の家畜という意味で、部落民に対する蔑称)と蔑まれることがあった。

 このCM動画を見ていて、当時を思い出して煮えくりかえるような感情に襲われることがある。
 正直いえば、この程度ならマシなほうで、私の子供時代の差別は、社会全体が関与した恐ろしい人権侵害だった。

 何せ、当時(半世紀以上前だが)、「壬申戸籍」というのが出版されて、大手企業の人事はたいてい保有していた。
 そこには、全国の未開放部落=江戸時代の「穢多・非人」の定着集落(強制的に定められていた)が連綿と伝わる住居地が網羅され、企業の人事課は、それを見ながら就職応募者の品定めをしていた。

 在日朝鮮・韓国人は、真っ先にはねられ、未解放部落住所地の応募者も無条件にはねられた。それが、銀行や一流企業など、大半の就職先だったので、被差別者の就職困難は半端なものではなかった。
 孫正義も、そんな激しい差別に自殺を考えるほど苦しんだ人物だった。
 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/052400004/

 まず、こうした被差別者たちの就職先といえば、みんなが嫌がる3K職場(例えばゴミ収集・汲み取り・土建・清掃)や、娯楽産業・水商売・プロスポーツ、芸能界、ヤクザ界くらいしかなかったのだ。
 だから、被差別者は、いつでも断崖絶壁のような苛酷な人生を強要されていて、みんな強烈な意志をもって生き抜くしかなかった。

 まずは、山口組や稲川界など、日本を代表する暴力団組織の9割は、そうした被差別出身者で占められている。何せ、他に行くところがないのだから、みんな必死で頑張るので、組織内での出世も早い。
 6代目篠田健一氏だけは日本人だが、高山副長以下の大半は在日者だ。
 稲川会は、辛炳圭会長以下、ほとんど在日者だ。とりわけ北朝鮮系が多く、小泉純一郎、進次郎も関係が疑われている。

 私の通った小中学校は、大門という旧赤線地帯が区域に含まれているので、一クラスに数名は、暴力団子弟がいた。そんな子供たちから、同窓会など絶対に生きたくないくらい、私は激しく虐められた。それは生涯のトラウマといってもいい。
 思い出せば、当時のいじめっ子は、殺人罪などで無期懲役になっている者が少なくない。

 同級生に、パチンコ発明者、正村竹一の娘がいた。パチンコ産業というのも北朝鮮系在日者の独占に近い事業で、現在も、全国のパチンコ関連就業者の大半が北朝鮮系である。彼らは、比較的、正業で、暴力団関係者は少なかった。
 
 プロスポーツ界は、読者の想像の100倍くらい凄まじい、在日者の独壇場である。
 プロ野球は、特に凄い。金田正一・張本勲、そして王貞治も中国系在日者の一人だ。
 格闘技は、極真創始者、大山倍達はじめ、大木金太郎など、多すぎて書き切れない。 まず、日本のプロスポーツ界から在日者を抜いたなら、スポーツ界そのものが成立しなくなるほどだ。

 何よりも、戦後、「日本人の星」といわれた力道山その人が金信洛という北朝鮮系在日者で、河内康範、「月光仮面」のモデルとなったのも大山倍達だった。
 芸能界でも、著名な実力者の半数が在日者で占められている。
 五木ひろし、都はるみらで、これも在日者がいなくなれば芸能界が崩壊するとまで囁かれている。

 それなのに、なぜ、日本人は在日者やハーフを差別し、蔑視したがるのか?
 ひとつには、敗戦後、韓国政権は、「戦勝国」として圧力をかけ、在日犯罪者の処罰を放棄させ、「三国人犯罪」と呼ばれた凄まじい犯罪を、戦後保守政権の弱腰で、社会正義が実行されなかったことで、在日者に対する憤懣が激しく高まったことがある。
 https://seesaawiki.jp/w/kokonnoiro/d/%C0%EF%B8%E5%A4%CE%C4%AB%C1%AF%BF%CD%A4%CE%C9%D4%CB%A1%B9%D4%B0%D9

 また、1952年李承晩が勝手に線引きして、竹島を軍事強奪し、島根県などの漁民を50名以上殺害したが、日本政府は、まともな国家としての対応をしていない。これは当時の岸信介ら関係者が、朝鮮韓国と深い関係があって(戦争中、岸は朝鮮でヘロインを売りさばいた)強い対応ができなかったともいわれる。

 こうした事件が、ずいぶんたくさんあって、日本人の半島人に対する心情にやり場のない憤りを与えたことが大きいかもしれない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E5%B9%B4%E8%A1%A8

 いずれにせよ、日本人は、在日朝鮮・韓国人に対して、親近感を持てない、さまざまの事情が醸成され、それは慰安婦問題や徴用工問題に関する韓国側の理不尽な主張から、ますます加速することはあれ、事実上解決不能ではないかと思わせる情勢だ。

 ただ、多くの日本人は、朝鮮系在日者だけでなく、黒人とのハーフなどにも冷酷な視線を向けてきた。
 大坂なおみが、日本を避けてフロリダで生活している事情も、日本人の偏見や差別意識が背景にあるといわれている。

 だが、大坂なおみは、日本人を代表してメジャー大会で優勝した。すると、多くの人がコロリと態度を変えて、大阪を賞賛しはじめたが、もしも三回戦あたりで敗退する程度なら、相変わらず嘲笑的視線を向けていたのではないか?
 それは、冒頭の、NIKECMで如実に表現されている。

 NBAの八村累も同じだ。もしも八村がメジャーに上がれなかったなら、誰も一顧だにせず、奇異な視線を変えようとしなかっただろう。
 日本人は「勝てば官軍」、昨日まで小馬鹿にしていても、名誉を実現すれば、調子よく差別心が消えてしまうのだが、私は本当に消えたのか疑わしい。

 力道山=金信洛という北朝鮮人が、日本人を代表するスーパースターとなった。だが、彼の正体が朝鮮人だと分かったとき、あのもの凄い英雄視、熱狂ぶりは、どこに行ったのだろう?
 今では、力道山を話題にする人も少ないし、50才以下の人たちは力道山といわれても、親近感を持てないだろう。

 だが、1960年前後の力道山の人気は凄まじかった。我が家には中古のテレビがあったのだが、力道山の試合ともなれば近所の人が押しかけてきて、家は大変なことになった。 そのとき、「朝鮮人」というレッテルが貼られていたなら、あれほどの熱狂は起きただろうか?

 大山倍達も、極真会創始者、日本人を代表する空手家として熱狂的に賞賛されたのは、1970年代だっただろうか? だが、彼もまた、崔永宜という韓国人だった。
 今の極真会の、松井章圭館長も文章圭という在日者だが、大山は死ぬまで韓国籍だった。これは、おそらく日本での在日者に対する差別の視線から意地になったものではないだろうか?

 大坂なおみは、世界一の名誉を得たから、それまで白い目を向けていた人も、文句を言わなくなったが、勝てなければ、再び「それみたことか」という罵詈雑言が出てくるに違いない。

 私は、在日者の悲哀という意味で、中学校の生徒会長まで務めた野球少年、Oのことが忘れられない。Oは大門の暴力団O組の子だった。
 知力も高く、天才的な運動神経で、何をやらせてもトップクラスだった。だが、在日系暴力団組長の子供では、まともな就職先はなく、結局、暴力団に活躍の道を求めるしかなかった。

 Oは、山口組系のなかで「二丁拳銃のO」として、名前が通る大物ヤクザとなった。
 だが、彼は、あるとき陸橋の上から身を投げて死んだ。
 私は、山口組某幹部から事情を聞いた。Oは人妻に恋慕したが、周囲が許さず、行き場を失ったとのことだった。
 とても純情な青年だったと、彼は言った。

 在日者への差別は、一番の理由としては、福沢諭吉が、朝鮮人に対して匙を投げた文章に良く現れている。
 https://www.news-postseven.com/archives/20180416_657811.html?DETAIL

 儒教の伝統から、差別と序列を、民族の文化にまで昇華させた韓国の価値観が、韓国人全体に対する強烈な違和感を招いていることが大きいのだが、それ以上に、日本人の異邦人=異民族に対する警戒心と差別心=儒教の呪いから抜け出せていない閉塞的価値観が問題の本質にあると思えるのだ。

 この、相手を見下し、人間関係に序列を求める儒教の差別価値観が克服されなければ、日本から差別が消えることはないだろう。
 それが何によってもたらされるのか? いつもたらされるのか?
 先行きを眺めていても、私には暗い未来しか見えない。

 それよりも、差別や序列の大好きなネガティブ人種は、2050年頃までに地球上から消えてゆくというバシャールの予言に期待をかけたい。
 

人が右傾化する理由

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  テレ朝、羽鳥Mショーは、各種ニュースショーのなかで抜群の視聴率を誇っている。
  https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_200013709/

 この人気は、斉藤ちはる人気だとか、司会者、羽鳥の絶妙なトークだとか、いろいろ言われているが、私は、コメンテータの玉川徹が、はっきりとモノを言うことが支持を得ていると解釈している。

 みんな真実を知りたがってる、権力や権威に忖度せずに、忌憚なくモノを言える人を見ていたい。あらゆるニュースショーが、中立と称して右寄りのコメンターばかりを集め、体制寄りの忖度コメントに終始するなかで、玉川徹だけが、権力に真っ向から切り込んでゆく。そんなイメージが支持を受けている理由ではないだろうか?

 そもそも、テレ朝の母体である朝日新聞社は、今から半世紀前、本多勝一が圧倒的な人気を得ていた時代には、「これぞリベラル」という、反体制派メディアの代表格だった。 それが、いつのまにか少しずつ右傾化が進み、今やテレ朝のCEO、早川洋は、知る人ぞ知る安倍晋三応援団の主要メンバーで、後継の菅(竹中平蔵ダミー)政権でも、支持側に回っている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E6%B2%B3%E6%B4%8B

 本多勝一は、朝日新聞社にとって巨大な売り上げをもたらした大功労者であるにもかかわらず、退職まで出世とは無縁だった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%8B%9D%E4%B8%80

 もちろん玉川徹も、「正直者は企業経営にとって邪魔者」と言わんばかりの冷遇を受け続け、入社後30年間、取材記者やコメンテータとして実績を重ねたにもかかわらず、残り数年の定年を前にして、ただの一度も出世階段を上がれない冷遇を受けている。
 ただ、窓際族に墜とされて毎日草むしりで時間潰ししないですんでいる事情は、視聴者が玉川徹の体制に要領よく迎合忖度しない正義感を愛し、強力な支持を与えていることによる。

 私は、実は若い頃から、ほとんどテレビなど見たことがないのだが……というのもNHKの受信料強要がどうしても許せないからなのだが、一つには、権力に対する忖度報道のオンパレードで、テレビメディアから真実は得られないと確信するしかない事情がある。
 だが、そのなかでも、玉川徹など少数の正義派コメンテータには信頼を置いている。

 その姿勢は、新型コロナ禍報道で際立っている。
 大半のコメンテータが、政府の無能さ、ピンボケ対応の自己正当化に終始する姿勢をぼかして、真正面から批判しないなかで、マスクとPCRローラー作戦による対応を2月段階からブレることなく主張し続けてきた、岡田晴恵と玉川徹の姿勢が光る。

 今では、ネット界でも、コロナ禍を虚構と決めつける極右妄想的倒錯が席巻するなかで、本当に必要な対策を真正面から忌憚なく述べているのは、玉川と岡田、それに児玉龍彦くらいしか見えない。
 コメンテータとして信頼のおけるのは、濱田敬子と青木理くらいしかいない。一茂は体育会系忖度が見える。

 テレビに出続けようと思うなら、まずは、スポンサーの喜ぶこと=電通に気に入られることを発言しなければならないし、ディレクターのバランス感覚、経営判断として、体制側を尊重しなければならない。だから、糞の役にも立たない、自民党代弁者スシローこと田崎史郎が、頻繁に登場してくる。
 中身のないことは分かりきっているが、自民党が気に入らない構成にすれば、BOP告訴で痛めつけられるシステムがあるからだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E9%80%81%E5%80%AB%E7%90%86%E3%83%BB%E7%95%AA%E7%B5%84%E5%90%91%E4%B8%8A%E6%A9%9F%E6%A7%8B

 さて、本ブログの本題は、「人が右傾化する理由」なのだが、我々が人生の指標とする価値観の選択肢として、二つの道が存在している。
 それは、自分自身の善悪の基準を人生の最高指標として、正しいことは正しく、間違っていることは間違っていると認識し、そのように行動を起こすことだ。

 もう一つは、現在の生活を支えてくれているシステムを守り、安穏たる生活を守りたいということだ。
 もちろん、そのためには言いたいことを抑制し、ときには真実も曲げ、システムのより上位の管理者に迎合してゆかねばならないし、1から10まで、システムを守り抜くための忖度に終始しなければならない。

 前者、自分の正邪の価値観を守ってゆこうとすれば、ときにはシステムと衝突することもあり、玉川徹のように出世は望めなくなり、ときには体制側から激しい弾圧を受けることになる。
 ちなみに、私は「原発は悪だ!」と発言していることから、ツイッターを不可解な理由で永久凍結にされ、激しい個人攻撃の嫌がらせを受け続けている。

 まあ最近は、その発信源が自民党青年部であるとか、統一教会であるとか精神異常者の嫉妬によるとかが分かってきたが、彼らに対して、嫌がらせを受ける理由になるようなことは一切していない。あくまでも、彼らが体制に反逆する私が気に入らないから懲らしめてやろうとして、私に関するデマを並べ立て、個人攻撃を繰り返しているだけだ。

 前者、自分の価値観を守り、真実を主張しようとするリスクは、みなさんが想像している何百倍も凄まじいもので、私も、これほど激しく弾圧されることなど、まったく予想もしていなかった。
 だから、体制側のシステムに依存し、与えられた価値観を従順に遵守し、囲われた羊のように管理され、雌牛のように乳を出して与えて入れば、こんなひどい目には遭わずにすむわけだ。

 だが、私は、体制の頂点に立つ、一握りの特権者の利権に奉仕し、原発事故や経済崩壊、人間疎外を見て見ぬふりをして、言われた人生を全うするだけの、牧畜生活は、とても耐えられない。「それは間違っている!」と、どんなに嫌がらせを受け続けても、叫ばずにはいられないのだ。

 ひとたび、人生の最高価値を「真実」に置くならば、その生涯に体制的な意味での名誉や地位や、価値は存在しない。あるのは弾圧だけだ。
 名もなく、カネもなく、貧乏暮らしだけが約束されている。死ねば、すぐに自分は忘れ去られて、人々の意識からも消え失せてしまう。

 私は、合成洗剤反対運動で知られた坂下晴彦夫妻を見ていて、反体制者の悲しい運命を想った。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-76.html

 一方で、私への誹謗中傷を繰り返す、岩田洋介という医師や溝口浩を見ていて、こんな愚かな人生もあるのかと、まことに気の毒に思わざるを得なかった。

 人が、自分のぬくぬくとした座布団を守ろうとすれば、それは体制の守護者となり、右傾化してゆかざるをえない。あげくは、岩田洋介・溝口浩のように、虚偽の誹謗中傷を重ねることで、自分の人生を限りなく汚してゆく。
 もう年齢からいっても、とうてい取り返しがつかない。その人生は悪臭を放つゴミに他ならない。

 テレビ局の出演者を見ていても、自分の人生に後悔せずに、悔悟のない人生を送れる人物が、どれほどいるかと考えると、先ほど挙げた、玉川徹は、自分に嘘をつかないですむ人生を貫徹しているし、同じ意味で浜田敬子、青木理なども、良心を大切にしたまま死んで行けるだろう。
 だが、自分の利権を守りたい一心の、宮根誠司あたりは、死ぬ前に、ひどく後悔しそうだ。

 今やテレビ局右翼の代名詞といえば、宮根と小松靖か。彼らは、自分たちの金儲けシステムを守るためには、どんな人間疎外、人権弾圧でも容認するのだろう。NHKの全アナウンサーが、年収2000万円の社会的地位を守ろうとして、完全に自民党に迎合している。
 彼らなら、中国共産党でも立派な地位を占められそうだ。他山の石というか、人を見て我が身を振り返れというか、カネがあれば、充実した良き人生が送れるなどと幻想を抱くのはやめておこう。 

 どうにも知性が消えた、異様な社会

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 米国大統領戦で、趨勢が決している今、相変わらずトランプ逆転を主張する自称知識人がとても多いのに呆れかえる。
 副島孝彦は私と同年で、その見識には一定の敬意を抱いてきたのだが、以下の論説には、何の知性も感じられないで、わめき散らしているだけの悲惨さを感じる。

 負けたバイデンたちが、命乞いを始めた。
投稿日:2020-11-29
  http://www.snsi.jp/bbs/page/1/view/5720

 内容には、ほぼ説得力はない。アメリカ共和党トランプ支持勢力と同じで、「負け犬の遠吠え」以外の印象は感じられない。

 さいはてメモ帳も、10年前は、そこそこ良い記事を書いていたブログだが、最近は、極右思想の別人が書いているのではという印象さえ受ける。
 https://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/7946a38432fe28ba86acfcf3b8672935

 in deepも、かつては、尊敬されたブログだったが、今では奇っ怪なトランプ支持の宣伝ばかりしている。私は、このブログが、フクイチ事故について、科学的に被害を直視できないことを知って、完全に見切りをつけたのだが、今では新型コロナ陰謀論ばかりで、読む意欲も起きない。
 https://indeep.jp/category/usa/

 井口博士とやらも、どこが博士なのか、知的センスがまるで感じられない。やはり、新型コロナ陰謀論とかトランプ支持とかで、レベルの低さでは上のサイトに共通するものがある。
 https://quasimoto3.exblog.jp/240713506/

 泣いて生まれてきたけれどブログでも、【感染拡大は嘘】医師会も分科会も買収されている。とか書いていて、どこに根拠があるのか探してみても、ただ喚いているようにしか見えない。
  https://ameblo.jp/sunamerio/entry-12639933854.html

 まだ、奇っ怪なトランプ支持勢力のブログはたくさんあるが、上に紹介したサイトは、かつては内容がある情報源として支持を受けていたもときもあるのだが、今見てみると、その無内容さに悲惨というしかない。
 共通するのは、トランプ支持と共に、トランプが主張するような、新型コロナ陰謀論を強く主張し、マスクもPCR検査も無意味な虚構であると決めつけていることだ。

 海外サイトでいえば、法輪功が事実上主催してきた、大紀元と新唐人テレビが、ほぼ同じことを強く主張していて、強力なトランプ支持フリークとして世界的に活動している。このサイトは法輪功の背後に、米CIAが多額の資金援助を行っているとの噂があった。
  https://www.epochtimes.jp/p/index.html

  https://www.ntdtv.jp/

 これらの主張は、トランプを、あたかも救世主であるかのように持ち上げて、トランプが中国共産党と真正面から対決できる人物であるかのように決めつけているが、現実はまるで違う。
 トランプの本質は、ただバクチと駆け引きが大好きな徹底した自尊心肥大、利己主義者であるにすぎず、中国との対立も、北朝鮮と同じように、対決は口先だけで、駆け引き次第で、自分の利権と引き換えに人権を中国に売り飛ばす可能性が強い人物である。

 なぜ、トランプのような見え透いた「人間のクズ」を、上に紹介したサイトが支持しているのか、極めて不可解というしかないが、ひとつには、対立候補のバイデンが、中国に籠絡されている可能性が強かったこともあるだろう。
 バイデンの息子は、中国共産党から莫大な資金を得ていて、民主党の歴代政権、クリントンやオバマも、中共からの援助を受け入れてきた。
https://www.epochtimes.jp/p/2020/11/65006.html

 しかし、だからといって、バイデンが「反中国」の旗の影で、中国共産党と手を結ぶかといえば、それもありえないだろう。我々は、骨粗鬆症と認知症の進んだバイデンではなく、カマラ・ハリス副大統領に注目すべきなのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9

 民主党が、中国共産党の利権に深入りしているのは事実だが、かといって、共和党が中国共産党と真正面から対決できるというのは幻想にすぎない。
 トランプは、自分の利害のためなら、平気で国を売ることのできるビジネスマン博徒なのだ。

 そんなことより、共和党の思想的骨格であるシオニズム(福音派=クリスチャンシオニズム)が、グレーターイスラエル計画の下で、イランを完全破壊する陰謀を準備している現実を知ることの方が大切だ。
 アメリカは、イラン侵略戦争を引き起こす可能性がある。
 中国問題も、「イラン最大の支援国である中国」というシオニズムからの観点で見てゆかないと、本質を見誤ることになる。

 私は、新型コロナ禍も、おそらく、グレーターイスラエル計画の一環としてモサドがセットしたのではないかと強く疑っている。
 それは大イスラエル計画の障害となるイランと中国を弱体化させるために実行された 微生物兵器の陰謀ではないかと予想している。今のところ、証拠を挙げることはできないが、いずれ真実が見えるときもくるだろう。

 そもそも、グレーターイスラエル、ユダヤ教徒にとっての旧約聖書「神との約束」の意味を知らずに、アメリカと中東情勢を語ることなどできない。
 ユダヤは、世界最大、最古、最強、最悪のカルトである。この人類社会は、ユダヤ人の思惑によって動かされているのだ。

 トランプや新型コロナ禍を語る前に、千円札に描かれた「ルシファーの眼」と電通本社の床板に描かれた「プロビデンスの眼」の意味を十分に理解することの方が先決だ。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-397.html

 「ルシファーの眼」やグレーターイスラエルの意味さえ理解できない人たちの論評を真に受けて、トランプやコロナ禍を語るのは、あまりに知性が欠落している。
 「人の知性」を語るには、まず最初に旧約聖書創世記の意味から始めなければならない。およそ知性とは縁遠い、わがままな利己主義者にすぎないトランプに、何かの期待をかけている人たちは、自分たちの意識が操作されていることに気づくべきだ。

 我々が、最期に求める人間社会の理想を、しっかりと理解していないから欺される。
 我々が求める社会は、「人々が誰もが幸せに生きて行ける社会」であり、人々が毎日、他人の笑顔を見て、それを求め、願って生きる社会なのだ。
 それを確乎とした人生哲学として備えていないから、トランプごときに欺されるのだ。

 また、上に紹介したサイトが、コロナ禍に対して虚構であると主張している共通項に関しては、どうにも胡散臭い電通の思想統制の臭いを感じる。
 電通は、単なる広告企業ではない。戦前、麻薬王、里見甫が創始した世界最大の麻薬密売組織であるとともに、満州における最大の思想統制組織だった。
 戦後の自民党の政権安定についても、CIAと連携して、国内の思想統制に関与してきた。

 電通は、出版社・新聞社の経営基盤である広告を完全に掌握し、日本の出版新聞事業の根幹、血液を支配してきたのだ。電通に逆らえば経営基盤が崩壊させられたのだ。
 戦後の言論界は、電通の言いなりになってきたといえよう。
 この意味で、ネット界でも例外でなく、未だに、ネットブログに強い影響力を行使している。

 私のTwitterアカウントが2018年3月に永久凍結になり、未だに回復せず、ツイッター社が相手にさえしないことは、電通を動かしている原発推進勢力の力によるものだ。
 最近では、このブログも、しらないうちに、どんどん削除されている。
 私は、冒頭に引用したブロガーたちの主張が、異様に共通性が高いことに強い不信感を抱いている。
 彼らは、何かに操作されているのではという強烈な違和感を抱いているのだ。 

何が心配かって? 中国・韓国の原発がメルトダウンして、放射能が日本列島に押し寄せることだ

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 私は、このところ、手元にある放射線測定器の整備を行っている。もうフクイチ事故後、10年が経過しようとして、確率の法則から、確実に新たなメルトダウン事故が迫っていると考えるからだ。

 私の測定器は……
 シンメトリックス社 IFKR254 1インチCSI 環境放射線測定器
 https://cdcreation.grupo.jp/free734391

 これは、ガンマ線シンチレーション測定器だが、エネルギースペクトルを記録できるので、標準データと比較しながら、大気中の放射能を検出することができる。
 すでに2014年から6年間、一日も休まず毎日稼働させ、パソコンにスペクトルデータを記録させているが、シンメトリックス社野中社長の天才的な基盤製作技量のおかげで一度も故障がない。
 最近では、2018年9月の北朝鮮核実験によるセシウム三兄弟を捉えた。(古いパソコンのHDが悪くて画像が取り出せない)

 もう一つは、同じシンメトリックス社のIFKR・ZIPで、これは据え置きベクレル計で、ほぼゲルマ機の性能に匹敵する2インチCSIだ。最小測定精度は1ベクレル。
 https://cdcreation.grupo.jp/free734395

 両方とも、何百万円もするので、私が買えるわけがない。これは蕨市の石井さんという篤志家からお借りして、事実上私が保有している。
 他にも、テクノAP社のTA100U、これもエネルギースペクトルが記録できるが、精度が悪くて実用性は低い。
 http://www.techno-ap.com/seihin_TA100.html

 あとは、RDANやRADEXなど携帯GM計が3台、これらは最大で20マイクロ毎時程度しか記録できないので、飯舘村に連れて行ったら、全部ハングアップしてしまった。
 購入してから10年にもなるので、そろそろ老朽化とGM管の特性劣化が起きるころなので、心を痛めている。

 これだけ保有していても、ガンマ線ならいいが、ベータ線核種、ストロンチウム90やプルトニウムXにはお手上げなのだ。トリチウムも測れない。
 トリチウム測定器 日立TPS-313は価格不明だが、100万円以上はするだろう。
 早く、ベータ核種、ストロンチウム90・プルトニウム239の測定器を開発してもらいたいものだ。
 
 さて、原発メルトダウン事故は、チェルノブイリ事故が起きた頃は、日本の原子力村がマスコミ向けに、全世界で1000万年に一度しか起きない、などという馬鹿げた妄想を公表していた。
 https://genpatsu.tokyo-np.co.jp/page/detail/428

 もちろん、こんな荒唐無稽なデマを信用した者は皆無で、これを言い出した電力会社や原子力産業関係者(関村直人・諸勝宗男)も、誰一人本気で信じていなかっただろう。
 現生人類の直系先祖とされるミトコンドリア・イブも、わずか16万年前の女性だ。
 現代文明の前の文明である、アトランティス文明は、わずか10000年前、シュメールも9000年程度、メソポタミアは4000年程度だ。
 1000万年間、原発のメルトダウンが起こらない(つまりメルトダウンは事実上ありえないという)という途方もないデマを、東京電力はじめ原発企業は、何十年も言い続けてきた。

 だが、スリーマイル・チェルノブイリとメルトダウン事故が続き、福島が一気に四基をメルトダウンさせてから、「原発メルトダウン事故は10年に一度起きる」という客観的な評価が定着するようになった。
 だが違うのだ。それは、中国や韓国を含む、未熟国が原発を運転することが計算に含まれていなかった。いわば、幼稚園児にミサイルを与えたようなものだった。

 ここで最新のニュース。私は、これを見て、フクイチ事故に続く巨大原発事故が目前に迫っていることをひしひしと感じた。

  中国「独自原発」が稼働 建設加速、輸出も注力 2020/11/28付日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO66730440X21C20A1FFN000/

【北京=多部田俊輔】中国国有原子力発電大手の中国核工業集団は27日、中国が独自開発したとしている新型原発「華竜1号」が初めて稼働したと発表した。これまで中国は欧米から導入した原発を中心に利用してきたが、今後は独自開発の原発の建設を加速し、海外への輸出にも力を入れる方針だ。

中核集団の福清原発(福建省)の5号機が発電を始めた。華竜1号は米仏の加圧水型軽水炉(PWR)をベースに、中核集団と中国広核集…

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 https://www.afpbb.com/articles/-/3318326

 https://www.afpbb.com/articles/-/3318437

 中国には47の原子力発電所がある。総発電容量は4875万キロワットで、米国、フランスに次いで世界で3番目に多い。また建設中の原発は13と世界で最も多い。 
ということは、100万キロワット級が49基だ。311前の日本(54基)より発電量が多い。

 中国という国は、韓国も同じだが、儒教思想の国家であり、社会的価値の最初に来るのが「名誉・メンツ」なのだ。メンツのためなら、どんな嘘でもつく。
 「中国の原発が安全」という嘘を守るためなら、メルトダウン事故が起きても隠蔽しぬく国なのだ。その技術水準も、「人は嘘をつくのが当然」という価値観の国だから、ありとあらゆる手抜きが横行している。

 だから産業事故の統括法則である「ハインリッヒの法則」=300回の事故が重なれば一回の重大事故が起きる=という統計学上の真理だけが適用される。
 すでに、中国の原発が事故の大パレードという事実は、世界に広く理解されているが、それを300回重ねれば、メルトダウンのような恐ろしい事故が起きる。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20201013.html

 おそらく、2010年の大亜湾原発事故はメルトダウンだっただろう。地元に大金を流して口封じしたという情報がある。
  https://www.epochtimes.jp/p/2016/12/26524.html

 今回、稼働を始めた華龍1号は、中国独自の技術だという。もちろんパクリに決まっているが、本当に中国独自なら最初から最後まで事故の連続になるだろう。
 華龍1号は、原子炉の形式名で、実際の稼働原発は、福建省南東部の1,150メガワットの福清5号機に配備されているようだ。
 これは台北・桃園から台湾海峡を隔てた向かいの泉州市の北にあって、台湾から百数十キロしか離れていないので、事故時にはもろに放射能汚染を受けるだろう。

 tyuugokugenpatu.jpg


日本にとって、もっとも恐ろしいのは、上海周辺と長江沿いの原発群で、総計20基近くも建設されたらしいが、稼働情報に乏しい。
 先の長江大水害でも、浸水した原発が少なからずあったようだ。また、今年、中国政府が、長江の漁撈を全面的に禁止したことは、おそらく冷却水により大規模な放射能汚染を起こしたはずだ。
 https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000173044.html

 三峡ダムが崩壊した場合、長江沿いの原発は浸水メルトダウンを続発させるだろう。「他山の石」どころではない。まさに、日本国内でのメルトダウンと変わらないくらい、恐ろしい被害が出ると覚悟した方がいい。

 中国は、今まさに戦争前夜である。日本の領土である尖閣諸島を実力で強奪しているのをはじめ、数年前から習近平が2020年度に台湾軍事侵攻をかけると表明し、確かに、そのような侵略スケジュールが逐次実現されている。

 そんな緊迫した情勢で、安定した原発運営が可能とは思えない。中国各地の原発群は、すべて戦争標的にされるのだから。
 だから、現在の事故リスクは、平常時に数十倍に達しているだろう。

 次に、その中国さえも上回る危険な原発群が韓国だ。
 
韓国、古里原発の現状 2019年04月16日
  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-712.html

5月10日、メルトダウン寸前だった韓国・霊光原発 2019年05月22日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-750.html

 韓国の原発銀座で惨事なら 「西日本の大半避難」の推定2017年3月7日
 https://www.asahi.com/articles/ASK36451LK36PLZU002.html

 韓国人の精神性、人間性がどれくらい倒錯しているかは、強制労働問題で、日本人が散々思い知らされたところだが、これは実は、すでに100年以上前に福沢諭吉が指摘していて、匙を投げているのだ。
 https://www.news-postseven.com/archives/20180416_657811.html?DETAIL

 韓国は、本家の中国以上に儒教が異常な回転発達を遂げた国で、世界一の差別と序列国家であり、真実よりも正義よりもメンツが上にくる倒錯国家である。
 だから、本来は科学と真理によって運営されるべき原発も、政治的思惑の道具となって利用される。

 今何が問題かというと、韓国経済が自己撞着、矛盾によって大崩壊を起こしていて、これが安定した管理を要求される原発にまで波及し、原発運転員の給与がまともにでなくなれば、運転員たちはメルトダウンを承知の上でストライキを実行する可能性があることだ。

 経済崩壊は、すべての崩壊の根底にあって、あらゆる仕組みをボロボロに崩壊させる。 https://news.yahoo.co.jp/articles/449d9b9789760e2408fc47d0576c5c00cdedc338

 原発運転員が待遇に不満を持ったなら、韓国労組の伝統から、サボタージュやストライキが激発し、事業全体を停滞させる。
 ラインが止まった程度ならいいが、原発の場合は、運転を止めたなら大爆発メルトダウンが起きて二度と取り返しのつかない究極苛酷事故になるのだ。
 韓国人の人間性を見ていると、そんな巨大事故が全然、意外でないように思える。

 韓国の、例えば新古里原発でメルトダウンが起きたなら、能登半島~福岡県、南西諸島まで、大規模な放射能汚染が起きると思うべきだ。
 一年の半分は、朝鮮半島から日本に向けた季節風が吹く。新古里原発の大事故では、韓国自身はほとんど被害を受けないが、日本列島は半分以上が深刻な汚染に見舞われ、数千万人の命が奪われる可能性がある。

 「フクイチ事故では誰も死んでない」と言い張る洗脳されたバカもいるが、フクイチ事故では、数千名の直接被曝死者と、数百万人の晩発性被曝死者が出る。
 嘘だというなら、いくらでも証明してやる。
  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-462.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-837.html

 政府が統計さえも操作して、真実を隠蔽してきたことが分からないか!

だが、いずれ分かるときがくる。それは、中国や韓国の原発がメルトダウンを起こして、日本列島に膨大な被曝被害が出たときだろう。

 放射能に無知なメディアや福島県議を小馬鹿にして欺そうとした東電

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 おしどりマコが、東電の卑劣な欺瞞に満ちた宣伝工作を暴いた。
  
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 東電では、トリチウムの含まれた原発汚染水の「安全性」をメディアや県議に説明するのに、 日立製ALOKA TCS-172 ガンマ線用NAIシンチレーションサーベイメータを持ち出して、プラスチック容器に入った汚染水を視察者に測定させて、何の反応もないから安全だと説明していた。

 私は東電の、大衆を小馬鹿にした欺瞞体質を散々知っているが、このインチキを知って再び激怒している。
 そもそも、TCS172サーベイは、1インチNAIシンチレータサーベイで、私は、これと同等の感度を持ったシンメトリックス社、IFKR254と4倍感度のZIPを保有している。

 私の測定器は、ガンマ線エネルギースペクトルを測定できるタイプで、ある程度核種も推定できるが、東電の測定器は、ただのサーベイメーターにすぎない。

 こうしたシンチレータ測定器で、ALPS処理水を測定させるなんてのは、とんでもないインチキ、欺瞞である。
 問題になっている77万ベクレル/㍑のトリチウムは、わずか18KeVのベータ線しか出さない核種なので、GM計やガンマ線サーベイの測定窓さえも突破できない弱いベータ線は、ベータ線シンチレータ(または電離箱)にトリチウムガスを直接接触させて測定することしかできない。

 問題なのは、このALPS処理水のなかには、環境基準の2万倍に上るストロンチウム90が含まれていると指摘されたことだ。
 https://www.asahi.com/articles/ASL9X6HQ3L9XULBJ014.html

 仮に、㍑60万ベクレルのストロンチウム90が含まれた処理水であっても、これもベータ線しか出てこないので、ガンマ線サーベイでは、まったく測定不可能であり、これをもって「放射線が出ないから安全」として視察者を欺していた東電の悪質な欺瞞に激怒を禁じ得ない。
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 <福島第一原発ルポ>目の前で見た無色透明な「処理水」。突きつけられた問い
福島第一原発の構内はタンクの森が拡がり、注がれた「処理水」は無色透明だった。事故の収束作業が続く現場を取材した。
 https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/syorisui-4

 上のリンク先で、ALPS処理水の測定に使ったのもアロカ・ガンマ線サーベイであり、ほとんど何の意味もない。ガンマ線サーベイで、ベータ線核種は、まったく検出できないのだ。

 おしどりマコによる、福島県議のアロカサーベイによる処理水(汚染水)の測定の欺瞞性の糾弾に対し、東電の御用議員である渡辺康平から以下の反論が出ている。
 https://w-kohei.com/2020/11/29/%e5%85%b1%e7%94%a3%e5%85%9a%e7%a5%9e%e5%b1%b1%e6%82%a6%e5%ad%90%e7%9c%8c%e8%ad%b0%e3%81%8c%e3%80%81%e6%ac%a1%e3%81%ae%e3%82%88%e3%81%86%e3%81%aa%ef%bd%86%ef%bd%82%e6%8a%95%e7%a8%bf%e3%82%92%e3%81%97/

 【さて、神山悦子県議のFBでは
①私たち県議は、まず、放射線を出す鉱物が入っているピンク色のフタのタッパーにシンチレーションをあてて計測器の針が振れるのをみせられ、次にトリチウム水の容器にも測定器をあて、針がほとんど振れないのを見せられました。

処理水のボトルについて、まず東京電力の職員から「このボトルには、汚染水をALPSで浄化した処理水が入っている。処理水の中に、基準値を超えているトリチウム以外の62核種があればガンマ線を発するので、シンチレーションで計測して下さい。」と事前説明がありました。

②そもそも、東電はシンチレーションでトリチウム水は測定器では測れないのを分かっていて、私を含め県議らに実際にやらせとすれば悪質です。

そもそも、誰も「トリチウム水」とは全く言ってないのに、神山県議は「言ったことにする藁人形論法」で印象操作しようとしています。実際は処理水=62核種が危険だというからシンチレーションで測ったのであり、その主張をしてきたのが日本共産党です。

 さらに、神山県議はトリチウム水という表現を使いましたが、日頃から共産党県議団は、処理水を汚染水と呼び、「トリチウム以外の62核種が基準値を超えている」と問題視しているにも関わらず、今回はトリチウムだけ計測出来ないことを問題視しています。つまり、神山悦子県議は処理水はトリチウムが問題であり、ガンマ線を出す62核種については処理されていることを、今回の視察で認めたということになります。

 これで、ようやく処理水問題が「トリチウムに着目し、その線量を管理すれば、安全性の可否判断ができる」という科学的大前提に日本共産党も立つことが出来ました。今後は、雨水や水道水にも含まれ、一年で全部放出しても最大で自然被曝の1000分の1の影響にも満たないとされるトリチウムをどうするか、という議論に集中すべきですね。】
****************************************************************

 上の説明を聞いて、福島県、渡辺康平議員が、放射線や放射能について、とてつもない無知蒙昧であることがよくわかった。
 
【東京電力の職員から「このボトルには、汚染水をALPSで浄化した処理水が入っている。処理水の中に、基準値を超えているトリチウム以外の62核種があればガンマ線を発するので、シンチレーションで計測して下さい。」と事前説明がありました】

 原発メルトダウン事故が起きたのは2011年3月であり、現在は2020年11月だ。すでに10年近い歳月の間に、短寿命核種が次々に消えてゆき、現在、ガンマ線サーベイで測定可能なのは、ほぼセシウム137に限られる。

 もちろん1トン近い重量のゲルマニウム半導体測定器なら、(BGを遮蔽することで)まだ数種類の核種が検出できるが、数十時間という長い測定が必要になる。
 だから62種類のガンマ線核種と東電の職員が言うとき、それは、放射能に関する知識が皆無に近い素人を欺すための詭弁である。
 セシウム137は、事故当時の8割近くが残っている。しかし、問題になっているのは、トリチウムと、それ以外のベータ線核種であるストロンチウム90なのだ。
 渡辺は、汚染水にストロンチウム90が大量に含まれていることの恐ろしさを、まるで理解できない。

 また、トリチウムが、OBT有機化というプロセスで、毒性がトリチウムガス体の1万倍に上がることも、まったく知らないだろう。
 https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_2269.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-106.html

 私は、もしかしたらトリチウムの莫大な環境汚染が、人類や生物を滅亡させるかもしれないと危惧しているのだ。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-722.html

 「汚染水にガンマ線サーベイを当てて、針が振れないから安全」という、子供だましの手品屁理屈に、佐藤康平議員や取材記者らは、コロリと欺されている。
 そんなに安全なら、東電職員になぜ飲ませないのか?
 東電首脳陣に毎日1㍑のALPS処理水を飲ませて、10年後に何も起きないなら、はじめて我々も安全だと認めよう。

 だが、もちろん東電側は、それがどれほど恐ろしい汚染水か知っているから絶対にやらない。もしも飲んだなら、大変な健康被害が起きることを十分承知しているのだ。
 それでもなお、東電が海洋放出の一択に向かっているのは、ただ処理費用を安く上げて東電の株価を守りたいことに尽きる。
 職員たちは、自分たちの退職金を守りたいに尽きるのだ。

 https://twitter.com/makomelo/status/1331872048491028482

 もう一度書くが、事故から10年後の現在、ガンマ線サーベイで測定できる放射線と核種は、長寿命の強いガンマ線を出し続けるセシウム137に限られる。あとは、コバルト60だが、事故時の27%ほど残っているものの、原子炉鉄製容器付近を別にすれば、放出量が少ないので検出は困難だ。

 セシウム134も3%ほど残っているが、これもゲルマ機でないと測定は困難だ。
 東電職員が「63種類のガンマ線核種を計れ」というとき、いったい何を計れと言いたいのか? セシウムXはALPSで比較的除去しやすい。
 人を欺すのもいい加減にしておけ、東電職員は、大衆を「どうせ無知だから、いくらでも欺せる」と小馬鹿にしているのだ。

 本気で放射能に取り組むなら、東電自身がストロンチウムXやプルトニウムXの測定可能な設備を設置しなければならないが、東電は自分たちに不利なことは絶対にやろうとしない。

 キューポラのある街

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  https://www.youtube.com/watch?v=d6k2ybo7Ac8&ab_channel=YouTubeMovies

 歳を食うと、昔のことしか書けなくなる。これは事実だ。
 とりわけ1990年代以降の、テレビ番組とか、歌とかゲームとか、小説とか、社会運動とかは、何もかもちんぷんかんぷんで、私の脳内は、1970年代以前で占められている。
 新しいものが入ってこないのだ……。

 だから映画のことを言われても、私が理解可能なのは、1970年代前半くらいまで、歌も同じだ。
 1962年に公開された、吉永小百合主演の「キューポラのある街」は、私が小学生の頃の映画で、学校で上映会をやったような気がする。
 確か、以前はネットで全編を見られたような記憶があるが、今は、著作権とか、新自由主義の金儲け規制が厳しくなって、60年も前の映画に高い金を払わねば見せてもらえなくなっている。

 この映画が特筆されるのは、一つには「在日朝鮮人帰還事業」の宣伝映画みたいな役割があって、たぶん、この映画にそそのかされて、何万人という在日者が北朝鮮に帰還し、大半が激しい差別を受けて強制収容所に入れられ、生きて帰って来られなくなったこと。
 つまり、社会党や共産党、マスメディアがこぞって協賛し、北朝鮮による在日者大虐殺に手を貸したのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84%E4%BA%8B%E6%A5%AD

 北朝鮮帰還事業の事実上の主宰者は、岸信介総理大臣と槙枝元文日教組委員長である。
 https://plaza.rakuten.co.jp/mz5na/diary/200702050001/

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%99%E6%9E%9D%E5%85%83%E6%96%87

 https://www.sankei.com/west/news/150502/wst1505020012-n1.html

 今から見れば、世界最大の麻薬(ヘロイン)密売組織である昭和通商を作って、朝鮮・満州の全財産を麻薬と引き換えた岸信介と、日教組を事実上、右傾化させて崩壊させた、特高憲兵出身の槙枝元文が、日本の在日者を根こそぎ北朝鮮に送り返して、ほぼ全員を収容所で殺戮した事業だったわけで、これは、戦後史の闇の中で絡まり狂った毛玉のようなもので、どんなに理解しようとしても理解しきれない究極のカオスなのだ。

 私の子供時代は、日本社会は、こんな不可解なカオスのなかにあって、「キューポラのある街」は、そのなかで庶民の断面をリアルに見せてくれて、日本中が、同じような貧しさと苦しさのなかにあったから、広く深く共感された映画だった。

 舞台は川口市の工業地帯で、当時は零細鋳造事業が密集していて、日本の公害のデモンストレーションのような地域だった。
 https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12241979425.html

 東海地方でいうなら、碧南市とか東海市とか瀬戸市なんかのイメージで、街のいたるところに殺風景な零細工場が建ち並び、必ず大きな煙突があって、24時間もくもくと黒煙を上げ続けている。
 碧南や瀬戸は、日本最大の窯業地帯で、昔はB重油を空気噴射させて釜のなかで高温を出す焼成炉を稼働させていた。私は、その重油の運搬をしていたことがある。

 東海市は、新日鉄やら愛知製鋼やら大同製鋼やら、たくさんの製鉄産業が立ち並んでいて、人々の呼吸器を蝕むスモッグの絶えることがなかった。
 実は、私の住んでいた名古屋市中村区も、大同製鋼やら中部鋼鈑やら、愛知製鋼やらの巨大な工場が隣接する中川区に密集していて、その煤煙が、伊勢湾からの南風に乗って、どんどん流れ込んでいた。

 だから私は、幼い頃から喘息に悩まされていて、おかげで激しいアトピー体質になった。今、間質性肺炎に苦しんでいるのも、当時のアレルギー体質の下地があるからだ。
 うちの数軒西側には、確か森川鋳造所という工場があって、その西は日通の車庫だった。家の前の狭い通りは終日、日通の大型トラックが通り抜けていた。

 鋳造所から、溶鉄炉の排煙と、六価クロムが大量に出ていて、母親は洗濯物も干せないと嘆いていた。布団も洗濯物も室内干ししかできなかった。
 子供たちは激しい喘息に悩まされた。
 当時の公害スモッグに満ちた環境汚染を思い出すと、「キューポラのある街」の薄汚れた灰色の映像が、リアルに昔を思い出させるのだ。

 名古屋市南部公害は、1960年代、大同製鋼・東海製鉄による排煙から「柴田喘息」として知られ、四日市では、石原産業やモンサント、三菱化成などが凄まじい煤煙公害を常態化させ、四日市でも名古屋市南部でも、呼吸器疾患による公害病の死者数は400名を超えている。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%8F

https://www.erca.go.jp/yobou/saiban/nagoya/

私は中村区だったが、名古屋市南部から伊勢湾から内陸に向けて吹く海風があって、おそらく名古屋中で被害のない地域は存在していないだろう。
東海地方全体の、こうした公害病による死者は、少なく見積もっても数万人は下らない。私も、子供時代に名古屋にいなければ、現在、アレルギー体質から起きた間質肺炎苦しむこともなかったと思う。

 昔のことを思い出すと、風景はいつでも灰色だった。キューポラのある街予告編リンクを見れば、現在50才代以上の人々は、あの当時の、凄まじい大気汚染を思い出すに違いない。
 https://www.youtube.com/watch?v=VNdulzWO99g&ab_channel=%E3%80%90%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%80%91%E6%97%A5%E6%B4%BB%E9%85%8D%E4%BF%A1%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

 当時、空は灰色だと子供心に思っていた。学校で絵を描いても、空を青く書く子供などいなかったような気がする。
 田舎に行って(祖母の故郷の白川町)空を見上げて、「空は青いんだ!」と知ったくらいだ。青い空が猛烈に感動的だった。
 そして、白川町の空気の素晴らしさ。まだ半世紀前の話だ。
 https://www.youtube.com/watch?v=Awh_0IsP-XU&ab_channel=NTDTVJP

 たくさんの公害犠牲者の屍の上に、大気汚染追放運動が生まれ、石原産業や三菱化成大同製鋼などが激しく糾弾され、少しずつ改善してはいったが、企業の姿勢は、人間の命よりも金儲け一辺倒で、今の中国共産党の独善政策と何ら変わりないものだった。

 結局、企業が追い立てられるように公害防止に取り組んだ理由は、実は身内の被害者からの圧力だった。
 工場内部でも激しい悲惨な被害が続出していたのだ。経営者自身が被害に遭わなければ、資本主義のメカニズムが変わることはない。

 今、企業を退職した人たちが、空気の良い田舎に移住を求める本当の理由は、実は子供の頃からの都市における大気汚染の記憶から、長い時間をかけて「空気のきれいな田舎に住みたい」という潜在的要求を膨らませ続けてきたからだろう。
 田舎には、「人の安全で快適な生活」という幻想が隠れているのだ。

 だが、実態を知れば、過疎の田舎でも、必ずしも「最上の大気」が約束されているわけではない。」
 まずは、①ゴルフ場などが、巨大な噴霧器を使って除草剤(ラウンドアップ)や農薬を大規模に散布し、それが住宅街に流れてくる。これは、非常に深刻な健康被害を生みかねない。

② 「クリーンセンター」なるゴミ焼却施設が各地に建設され、50~100メートルの巨大な煙突を作って、排煙を流しているので、それが数十キロも離れた遠方の、きれいな大気のはずの森を汚染している。
 私の住んでいる中津川市蛭川でも、この数年、やたらと鼻くそが貯まるようになった。これが呼吸器に悪影響を与えている疑いがある。ちょっと原因がわかりにくいのだが、おそらくクリーンセンターの排煙による疑いがある。これは3000度以上の超高温焼却炉にすれば防げるはずなのだが……。

③ 自衛隊や米軍などの軍用機が、ケムトレイルという汚染物質を上空で散布している疑いがある。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1269.html
 民間機でも、余分な燃料を田舎の上空で散布している疑いがある。

④ 現在、政権が、どうしようもない権力主義のバカばかりなので、科学的議論が通らなくなっていて、事実上の竹中平蔵政権が、竹中ら特権階級の利権のために民衆の健康被害を一切考えない愚かな政策を実行している(リニア新幹線が代表だ)

 「田舎に行けば、すばらしい空気」という甘い考えは、もう通用しないかもしれない。 

強い前兆と、その結果

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  本日11月28日、25日に強い前兆が心配だという記事を書いた。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1321.html

 「数日中に強い地震の疑い」と予想したが、三日経った本日に、まだ起きていないし、まだ直前前兆が出ていない。したがって、発生は遅れる。
 こうした前兆の多くは「スロースリップ地震」によるもので、地表で震度が現れず、ずるずると地殻が移動するタイプでは、地震の結果が見えない。

 大きな地震ほど、前兆が長く、発現までに時間がかかる。
 本日は、さほど大きな宏観前兆が見えず、前兆が引っ込んでしまったようだ。だが、もう12月が目前なのに、異様な暖かさが続いている。

 発震の直前前兆としては、観測データが二つある。
 一つは、ラドグラフ、高井氏の東大阪観測点で、以下のように23日から小刻みに上がりはじめ、本日は60ベクレル㎥メートルを超えてしまっている。
 http://www.radgraph.com/?p=EASTERNOSAKA&sy=2020&sm=10&sd=30&ey=2020&em=11&ed=28&mc=0&de=0&dm=4


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 平常値は30ベクレル㎡前後なので、倍に達している。大きな地震が起きるときは、これがストンと平常値に収束してから48時間以内に起きる。
 統計をとっているわけではないが、的中率は6割は超えていると思う。関東の地震には、あまり反応しない。

 もう一つは、清瀬市コスモスさんのガンマ線(RDAN)定点観測で、すでに20年くらい続いている。
 大きな地震の前に、「強いマイナス」が続く。この的中率は9割を超えている印象だ。
 http://tokaiama.bbs.fc2.com/

 
 これは先の22日、茨城沖M5.8のときのデータ


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 私は、毎日、この二つのデータを参照しながら、発生を予測している。
 上の東大阪ラドンデータが、ストンと下がるのを見たら警戒が必要だ。そのときは、コスモスさんのデータも、ガンマ線が低下する「爆縮」が起きていると思う。
 

新型コロナ禍 11月26日現在の概要 その2(後編)

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 https://www.youtube.com/watch?v=if7MQJPjUv0&t=1225s&ab_channel=%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9.

 児玉龍彦
 (24分頃)バイデンがWHO復帰を実現すれば、世界協調で情報を共有して新型コロナ禍に立ち向かう体制ができるが、日本が検査シークエンスも、ゲノム配列も出ていない異常事態というのは、とても恥ずかしいことだ。

 「あらゆる犠牲を払ってでもオリンピックを実現する」という政府の方針は、とんでもないことだ。
 オリンピックは、人の健康と平和のためという理念がある。オリンピックの意義を損なうようなことを言ってはいけない、やってはいけない。
 テレビ会社や電通の都合で、オリンピックをやってはいけない。

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 このウイルス病で重症化が起きるのは、ウイルス自体の病毒性で重症化するのとまったく違う。
感染してから16日目くらいに、突然、免疫暴走(サイトカインストーム)で重篤化が起きる。F1が切られて、F2にあるような配列が呈示され、劇症的サイトカインストームが起きることが(最大の)問題。

 死亡例のうち、重症例に入っていなかった人が6割を占めている。多くの方が、原因不明で死亡後に初めて新型コロナだったと分かる。
 急に悪化して死亡後に検査すると初めて新型コロナだった。これが、もっとも怖いこと。しかも、この死亡例は、最初のクルーズ船のときから現在にいたるまで1~2%であり、変わっていない。

 昨日も東京では4人くらい死亡した。いつも感染早期に軽症者が多いと言われるが、そのうち1~2%は16日後に重症化して死ぬ可能性がある。
 最初にイタリアのベネチア・ベネト州ミラノのロンバルディア州で、病院ばかりを重視したロンバルディアが悪化し、無症状者を検査で抑えたベネト州はロンバルディアの五分の一ですんだ。
 
金子
 大阪では、新型コロナ死者の6割が、重症化の経緯をたどらずに急死している。

 児玉
 軽症という診断に安心して、自宅で療養しているうちに、突然サイトカインストームが始まり重症化して死に至る。
 こういう人は、抗体の産生が中等症の人よりも低い。それなのに、突然ボーンとサイトカインストーム(急性増悪)を発症してしまう。非常に複雑な現象が起きている。

 現在、新型コロナの死亡率が漸減している理由は、ステージ別の治療方法が確立してきたことが大きい。
 無症状でも、感染が分かれば、すぐにアビガンを服用すれば、ウイルスを早く消失させることができる。
 もう少し進めばレムデシビル、サイトカインストーム(急性増悪)が起きたならアクテムラ、それでも悪化するようならエクモ(人工呼吸器)などで対応する。

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 ウイルスが軽症化しているのではなく、こうした治療体制が確立されつつあることで、死亡率の低下につながっている。
 ワクチンも来年後半から使用可否の目処がつく。だが、「この冬をどう乗り切るのか?」を知るためには、感染が波を描く現象の意味を理解しなければならない。
 
 我々は「悪循環サイクル」と呼んでいるが、夏の間、100名くらいが参加して実証試験を行った……社会的検査の試みを続けているが、そこで分かってきたことは、外国から入ってくるウイルスとか、国内でのエピセンターから比較的少ない数のスプレッダーがわーっと拡散させる。
 だから、感染波が起きるたびに、違うタイプのウイルスがわーっと増えてゆく。

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 世田谷で見ていると、子供に広がって、学校や保育園で横に拡がり、家庭に持ち帰られて、今度は高齢者が感染する。
 それから、介護施設や病院に入って死亡者が増える。自主ケアが始まり、いろいろな対応策がとられる。
 なぜか不明だが、ある程度拡大すると、ウイルスが自壊変異を起こすことがあり、感染者が減ってゆくというサイクルを描く。

 世田谷区では、このサイクルのどこで止めるかを考え、圧倒的に保育園や介護施設を重視し、これらの社会的検査を、すぐに始めてもらった。

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 この社会的検査で、1000名ほど終わった段階で、すでに14名の無症状感染者が確認された。先週末には、介護士さんが10名、無症状感染を起こしていたことが分かった。
 誰かスプレッダーがいると、周辺にわっと感染が拡大する。
 介護施設にウイルスが入ってしまえば、高齢者が多いことから、すぐに大量死につながる。
 これを抑えるには、社会的検査(ローラー作戦)をやるしかない。

 世田谷には毎日10名くらいの感染者が入ってくるが、日大八幡山寮では、一度に60名の感染者が出た。
 これでは、とうてい追いつかないので、社会的検査の規模を拡大し、2万人の介護士、1万人の教師への検査を行っている。

 それでも、どんどん拡大して行く場合は、精密医療のモニタリングを進め、たくさん感染者が出ている場合は、住民全体のローラー作戦が必要になる。

 新宿は検査陽性率が十数%、北海道も大阪も。そんな地域と世田谷では対応が異なる。
 感染率はまだら状なので、精密なモニタリングを進める必要がある。これ以上感染率が高くなる場合は、住民の全員検査が必要になるだろう。
 
 田村厚相も、介護施設や病院などでは、定期検査をやるといっているが、政府はPCRローラー作戦に予算をつけない。(32分)
 やる気は、田村厚相一人だけ。総理大臣も財務大臣もまるで関心がない。
 背景には、PCR検査ローラー作戦に意味がないという政府内部の議論がある。

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 世田谷区では大学と連携して、PCR検査のプール化(一度にたくさんの検体をまとめて検査する方式)の実証試験を細かく行っている。
 
 プール化に対しては、感度が落ちるという異議があるが、増幅検査なので感度を上げれば同じシグナルを得られる。
 サイクル数を増やせない理由は、40サイクルを超えるとバックグランドノイズがあがるため。感度の高い試薬を使えば、サイクル数が増えてもノイズが上がらない。

 ノイズが増える原因は、取扱者の人的なばらつきによる。アメリカの検査関係者から、「日本はまだ人力でやってるのか」ということで、世界は大半が自動化の流れになっている。
 (おまけに、PCR自動化機器の多くが実は日本製、厚労省がPCRを軽視してきた自分たちを正当化するため、意図的に認可を遅らせている)

 さらに業者を選んで、ばらつきがおきないようにできる。検査精度は落ちない。時間は短縮され、検査数は増える。
 遅れているのは日本のマスコミだけだ。
 PCR検査否定論のような恥ずかしい議論をやめてほしい。

 なぜ、田村厚相だけが検査拡大を呼びかけている奇っ怪な現実があるのか?
 理由は、政府側に二重の誤謬があるからだ。一つは、厚労省技官が、PCR検査の物理的な量が不足しているといった。
 専門家会議は「無症状の人には検査はいらない」と言ってしまった。(発症前の無症状感染者が、感染爆発の主な原因になっているのに)
 これを正当化するため、PCR検査拡大に消極的になっている。
 これは太平洋戦争で、物理的に敗北しているにもかかわらず「大和魂」を強要し続けた軍人たちの過ちと同じ姿勢。

 精密医療の立場からは、点と線と面ということを言いたい。

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 政府は「クラスター潰し」路線で、点の汚染だけを考えた。世田谷方式では、感染経路の線の汚染を考えて介護施設や学校で止めることを考えた。ところが、さらに大規模クラスターが出てくるようだと、面で対応するしかない。

 7月に国会に呼ばれたとき、新宿区全体の面の検査(ローラー作戦)をやるべきと言ったところ、新宿区は「風評被害」が出るという理由で協力しなかった。
 あのときは、菅(官房長官)が「警察を送り込んで繁華街に立入検査」と言ったところ、新宿の水商売従業員が、こぞって全国の繁華街に逃げ出し、エピセンターが日本中にできてしまい、全国的な感染拡大を招いてしまった。

 こうなると、感染源になっている地域を面で捉えて検査を拡大しなければならない。
 自分は、エピセンターの核心部は、一貫して都心部の繁華街と考えている。
新宿・渋谷・港区のトライアングル、ここからの感染わき出しが、日本全体に影響を及ぼしている。

 もう一つは、外国からの流入と日本の県を超えての移動。この二つの問題が大きい。
 感染の深刻な地域にはPCRローラー作戦で安全地帯を形成する。
 これは武漢でもやったし、シンガポールの外国人街でもやって、相当な制圧に成功している。

 スーパースプレッダーを捕捉すれば、交叉免疫のある日本では拡散スピードが遅いため、パンデミック全体の時間稼ぎができる。
 そうすれば、外から流れ込んでくる感染を、再び捕捉できるようになる。
 
 金子
 東京オリンピックで、海外からの訪問に対する制限を緩めている。抗原検査のような精度の低い検査に置き換えている。これで大丈夫なのか?

 児玉
 これは、非常にまずい対応だ。PCRを複数回やるのが、入国検疫の鉄則だ。これを厳格に行って、外国からの変異ウイルスをシャットアウトするのが急務だ。
 空港検疫でゲノムタイプの解析をやり、どんどん公表することが大切だ。

 現在、病院や学校での感染実態を伏せている(隠蔽している)が、これは非常にまずい。院内で感染が起きたとき、すぐに伝えてくれないため、急な発症をした人が非常に困っている。
 食中毒を起こしたレストランの名前を公表するのと同じ意味だ。
 仲間として、全員が協力するモラルを作ることが大切だ。

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 引用以上
 一部、文章にしずらいため、私の判断で、言葉を換えてしまった文節があります。あしからず。特に、補足する必要もないでしょう。


  

新型コロナ禍 11月26日現在の概要 その1(長大なため分割する)

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 「おおまに」サイトに、羅列された最近の論調は、新型コロナ禍は虚構にすぎない、PC検査もマスクも無意味、トランプは不正選挙で敗北させられているとか、「さいはてメモ帳」とか「DONのブログ」とか「INDEEP」とかが、ほとんど同じ内容の屁理屈を並べているのだが、具体的に主張の根拠=エビデンスを探しても、まともな情報は、どこにも存在しない。
 http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/

 私のブログも転載してくれていたのだが、他のブログのレベルが低いというか、恐ろしいほどの倒錯ぶりで、同列に扱われることが恥ずかしく、二度と転載したくなくなる批判ブログを書いたので、さすがに追放してくれたようで。ほっとしている。

 今日は、一週間前ではあるが、YouTubeデモクラシータイムスの児玉龍彦による概括を紹介したい。日本社会で、新型コロナ禍について、もっとも正しい把握をしているのは、児玉をおいて他には少ないだろう。
 私は、児玉がフクイチ事故で、住民を移住させずに除染の欺瞞で乗り切ろうと主張したことに強く憤っているのだが、東大権威主義の悪臭による不快感を別にすれば、児玉が、日本最高の医療専門家であることに異議はない。

 第3波急拡大 コロナ最新知見とこの冬を乗り切る戦略【児玉龍彦×金子勝 新型コロナと闘う】20201118
 https://www.youtube.com/watch?v=if7MQJPjUv0&t=1225s&ab_channel=%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9.

 児玉
 世界で感染者数が10月末から急増している。 現在、「第三波」といわれているが、実際には、異なるタイプの感染波を考えれば第四波である。
 2月が武漢型、3月から4月がミラノ型、(G614変異型)7月から8月が東京・埼玉型(日本での変異)、10月11月に激増しているのはA20EU1型で、これは夏のスペインでバカンスに来た人が全欧州に拡大した。
 英・伊・仏・米に入って拡大したのは、このタイプで、これまで優等生だった独でもこれが激増した。

 スイスやWHO本部にまで拡大している。A20EU1はSARSよりコウモリのウイルスに酷似、動物と人間の間を行き来している。怖いのは、動物と人間では変異の仕方が異なる。人間では、アソベクという人間酵素から変異が起こるが、ミンクでは違った形の変異が起きる。

 ミンクで拡大したウイルスは、デンマークなどで、すでに200名以上が感染していて、これが起きると、これまでに作られた免疫がリセットされてしまうので、新しい感染波が発生する。
 日本で起きている波は、最初は武漢型だったが、今起きている波の正体がよくわかっていない。欧州では、ミラノ型からA20EU2タイプに変化している。
 世界中で突然変異が進み、異なるタイプのウイルスが、その地域の免疫をリセットしてしまって、新しい感染波を引き起こしている。

 本来は、WHOが世界中のデータを統括して対応すべきが、トランプ政権が脱退したために、ぐしゃぐしゃになり、混乱している。
 バイデンは大統領に就任した初日にWHOに復帰すると言っていて、世界で科学に基づく対策を行うとしている。

 現在、東京・埼玉型からウイルスがさらに別の変異を遂げているかにつては、可能性が高いが、統計疫学上の問題は、たくさんのシークエンスを定めないと分からない。
 英仏で起きていることは、従来型の対策では防げていないこと。
 ドイツのように従来型に厳重な対策を講じていても、簡単に突破されてしまった。だから従来よりも、さらに進んだ感染対応をしないと抑制は困難だ。

 デモクラシー司会者
 日本では、(東アジア型の)交叉免疫があることから欧米のような感染爆発が抑制されていて、春先のうちに厳格な対策を講じなければならなかったが、日本政府は、ほとんど何もしなかった。
 冬を迎えれば、今回のような感染爆発は十分に予測できたはずだ。
 
 金子勝
 だんだん見えてきたことは、戦後日本社会の体質が、コロナ対策の中に弱点が出てきた。
 金融危機や原発事故にも共通するが ①責任をとらない ②空気で決める ③誰が決めているか分からない ④失敗すると、必ずそれを上塗りしてゆき何度でも同じことを繰り返す。

 明確なリーダーが、あるようでないような、よく分からない意思決定が、クルーズ船以来、ずっと失敗しているが、PCR検査でも(官僚のメンツにより)いろいろな屁理屈が出てきて、児玉氏が提案しているような集中検査(ローラー作戦)ができない状態。
 根本的な対策がとれないまま、ずるずると失敗を重ねている。
 
 デモクラシー司会者
 基本的に、PCR地域ローラー作戦を実行しなければ、どこかに潜んだウイルスが何度でも起き上がってくると児玉氏は指摘していた。
 その通りになっているにもかかわらず、政府の基本対策が、まるでピント外れになっている理由は何か?

 児玉
 理由は非常に明確。我々はプレシジョンメディスン=精密医療をやらねばと言ってきた。
 感染が起きたら、なるべくたくさん感染者を同定して、感染のひどい地域、そうでもない中間の地域、安全地域に区分し、きめ細かく対応する。
 そこに、どのようなウイルスが入って、どのような動態を示すかをきちんと把握する。

 ところが、政府の専門家会議を見ると、遺伝子工学の専門家がいないため、ウイルスのゲノム変異の話が、まったく理解されていない。
 計測科学の専門家がいないため、プール式やPCR検査自動化の話が、まったく理解されていない。
 情報科学の専門家がいないため、ココア(アプリ)などを、どのように有効利用するかが、まったく議論されていない。

 こんな(専門的議論ができない専門家会議のなかで)オリンピックを、いかなる犠牲を払ってでもやりたいという話ばかりが出てくる。
 オリンピックは、元々「健康と平和のために」という理念なのだが、(はぐれカラスといわれる)バッハ会長は、自国でも感染が爆発拡大している事態に背を向けて、日本に来て「観客を入れて開催しろ」と強要している。

 (政府に依存せず)地域から、精密な計測を可能にする精密医療を可能にする社会システムを作る必要。行政と研究者、企業が連携しなければできない。
 技術の開発、検査医採取の仕組み、発見された感染者に対応する医療機関がまとまってシステムを構築しなければならない。
 世田谷区では、実際に感染を抑制する結果を出すことをやっている。

 昨日、名古屋でタクシーに乗ったら「夜人が出ないし、遠距離客がいない」と聞いた。
 ゴートゥーとかでカネをばらまいても、感染波が出れば、すぐに人は引いてゆく。だから抜本的な対策を取らねば、大変な経済危機が起きるだろう。

 金子勝
 (政府が)精密医療と大規模PCR検査をサボったことで、「自粛をして感染を抑えるのか、経済活動を再開するのか」という奇妙なジレンマに陥っている。
 政府のカネのばらまき方が異常になっている。


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 3月10日~11月10日までの日銀の金融緩和を見ると、本来、国債を売って予算を得るのに、半分しか売れないことで、60兆円弱が、「貸付金」という、銀行に不良担保を付け替えることでカネを作っている。
 売るに売れないネズミ講、不良債権のようなばらまき方をしている。(14分くらい)

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 この巨額の「貸付金」が市中にばらまかれた結果、(投機のような)バブルが起きている。現在の異様な株価上昇の本質である。
 不動産相場も、春先から下落していたのが、バブルによって上昇している。本来の経済対策は、「コロナ問題を根本的に解決する」ことなのに、ただのカネばらまきから、まるで違う方向に向かっている。

 政府がコロナ対策に名を借りた、無責任なばらまきを続けている結果、バブルが発生し、富裕層は、働かなくともじゃんじゃん懐にカネが転がり込んでいる。ところが一般国民は、コロナ不景気により、雇い止めやリストラに遭い、とんでもない猛烈な格差社会が拡大している。(15分台)
 今、この誤りを糺さねば、日本社会は取り返しのつかない破綻に向かってゆく。

 デモクラシー司会者
 新型コロナ対策の総責任者が、なぜ、経済再生大臣なのか? (他国では医療関係者が総責任者になっている)について甚だ疑問だが、最大の経済対策は、コロナ禍を収束させることのはずだ。
 このため、目先の数字指標を上げるためだけに燃料を投下する、予算を使うだけになってしまって、本来のコロナ禍対策が科学的に行われていない。

 金子勝
 総選挙があるので、(自民党が)「オリンピックまで持たせればよい」という(安易な)方針なので、オリンピック後は、大変な事態がやってくる。

 デモクラシー司会者
 我々は、新型コロナと戦うための新しい武器を手に入れることができたのか?
 
 児玉
 この間、二つ大きなニュースがある。
 一つはアビガンの軽症例のデータが揃ってきた。我々は最初から、アビガンを重症例に治験はダメだ、これは軽症例でウイルスの消失を早くする薬だと言ってきたにもかかわらず、厚労省が絡んで失敗(勝手に重症例を治験、効果がないと決めつけた)してので、会社単独で治験を行って、軽症例における有効性を証明した。(19分台)

 もう一つは、ファイザーとモデルナという会社が作ったRNAメッセンジャーワクチン。これは9割以上の人に予防効果が確認された。
 ただし、メッセンジャーRNAは発現すれば一過性に効くものの、その効果が長続きするかは分かっていない。
 このコロナウイルスは、交叉免疫(東アジアに広く分布)があることにより、かえって、ちゃんとした免疫ができにくくなり、100日くらいで免疫が消えてしまうことが多い。

 変異ウイルスが出てくるとエスケープしてしまうことも多い。このような問題が分かるには、来年の前半までかかるので、ワクチンの本当の有効性は、来年の後半になるまで分からない。(20分台)

 金子
 今出ている日本政府のワクチン法案は、東京オリンピックに間に合わせることを前提に、来年前半までに、6000万人分のワクチンを確保する内容、しかし、本当の効果は来年後半にしか分からない。

 児玉 【もっとも重要21分台】
  ワクチンでも抗原タンパクでも抗体はできる。しかし、変異したウイルスに感染した場合、抗体の存在によって、かえって病状が悪化することがある。
 例えばデング熱、ワクチンを打ったら、子供が何十人も死亡した。
 ワクチンは健康な人に打つので、副作用と健康の持続性が非常に問題になる。
 ワクチンを多数回打つと別問題が発生する。これを見ないで、来年半ばまでに6000万人にワクチンを接種するという国の方針には、まったく意味がない。

kodamma04.jpg


 どのワクチンが、どのように効果があるのか精密に見極める科学がなければ、ワクチン接種は有害無益。会社ありきではない。

金子
 専門分科会にワクチンの専門家がいなくなった。きちんと判断できる人はいるのか?

 児玉
 今の専門家分科会に、ワクチンの専門家はいない。彼らは、(100年前の)スペイン風邪と同じレベルで、「マスクをしなさい」「ソーシャルディスタンス」「隔離」、それだけしか考えていない。
 あとは自己責任でよろしく……という程度。
 
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  非常に長いので、残りは明日に書きます。
児玉龍彦の認識は、現在の日本医療界の最高峰にあり、前半のなかで、非常に重要なことは、ファイザーやモデルナの作った「メッセンジャーRNAワクチン」は、長期的な信頼性が担保されていないこと。効果の見極めがつくのは来年後半であるにもかかわらず、前半まで日本政府が6000万人分、購入し接種すると表明していること。
 これには、デング熱ワクチンのような、大きな危険性を伴うこと。

 通常、ワクチンの完全な安全性が確認できるのには10年かかるといわれていて、日本政府の選挙人気取りのような拙速な対応が、取り返しのつかない結果を招く可能性が強い。
 今年初頭から新型コロナ禍が報道され、日本政府が、クルーズ船対応以来、まともな対応をして拡散阻止に成功した事例は皆無である。
 とりわけPCR検査無用論のような独善が政府専門家会議の委員からも出てくるようでは、日本政府が新型コロナ禍に正しい対応ができる可能性はほとんどない。

 児玉氏も羽鳥モーニングショーの玉川徹も、我々も、一貫してPCR検査のローラー作戦を行って安全地帯を確保し、正確な感染状況を把握することが解決の前提になると繰り返してきたが、官僚たちが、最初にPCR検査抑制、クラスター潰しという愚かしい方針を採用したことで、事態は悪化の一途をたどり、厚労省官僚は自分たちのメンツを守りたい一心で、いまだにPCR検査ローラー作戦を敵視しているようだ。

 日本政府は、世界に恥を晒しているといえるだろう。
 

 少し心配な出来事

カテゴリ : 未分類

 今朝、包丁を洗っていて指を切った。私は研ぎ屋なので、いつもメスのように鋭利にしてあり、微かに触っただけでも深く切れた。
 血が止まらず、水で洗浄し、ラップし、テーピングテープで巻いても、1時間以上出血が続いた。

これは、記憶にあるかぎり初めての出来事。次に、今朝6時40分頃、笠置山物見岩からの曙光景色(画像クリック)
20201224kasagi4.jpg

 
 恵那山に曙光が登ったのはいいが、全方位赤焼け現象が起きていた。赤焼けの中心は、右側の赤丸、おそらく紀伊半島方面だと思った。

 もう一つオマケ、昨夜、千葉の友人が帰宅して、生まれて初めて車庫入れで塀にぶつけたとのこと。

 いったい何の関係があるかというと、実は、2011年3月の巨大震災の年、私は正月に、福島の横向温泉、湯治棟で凍結に滑って尾骶骨を骨折したのを皮切りに、2月には、凍結路のブラックアイスバーンでスリップ、肩を複雑骨折した。
 この年は、滅多矢鱈にトラブルが続き、3月に信じられない巨大震災が起きた。

 つまり、大きな地震の前兆として、トラブルや怪我をする可能性を強く疑っているのだ。
 何か特別なことが起きるときは、前兆=お知らせ、というものがあるもので、身の回りの平安を壊す、予兆がいくつか起きる。これを見逃さないようにすれば、いきなり起きるより、マシな心の準備ができるというものだ。

 下山帰路、やはり普段は姿を現さないキジが車の前を横切った。そして、空に地震雲が現れた。

20201224hirukawa.jpg


 
 地震雲は、それほど深刻なものとは思えないのだが、刻一刻と変化するので、まだ評価できない。
 もしかしたら、太平洋岸で強い地震が起きるかも知れない。

 今日は指が痛くてキーボードがうちにくいので、特別なニュースがあれば、後に追記します。

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19時10分追記

 19時頃長い耳鳴り、M7級の疑い
 東大阪ラドン定点観測 30代収束が長く続いたのに突然、48に上昇
 愛知県観測点に147という異常値
 やはり紀伊半島周辺が怪しい

 私の車はスズキアルトだが、AGSという変わったギアがついてる それがマニュアルモードからオートモードにならない異常が本日2回 10万キロ近い運転で初めてのケース 磁気制御に異常が出ているかも知れない

 http://www.radgraph.com/

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 26日午前4時40分 追追記

 4時半ころ、突然パソコンが警報音 Wi-Fiが切断した
 これは強い地震の前に起きる現象
 トイレに行ったら、INAX洗浄トイレの設定が勝手に変わっていた

 数日中に強い地震が起きるのは確実なので、警戒されたし

乳腺外科事件(柳原病院事件)

カテゴリ : 未分類

 「おっぱい舐めたと、懲役2年の実刑へ」
 2016年、東京都足立区の柳原病院で右胸から乳腺腫瘍を摘出する手術を執刀した外科医師が、女性患者から「術後に左胸を舐めるなどのわいせつ行為をされた」と訴えられたもの。

 2019年2月20日、東京地裁刑事第3部(大川隆男裁判長)は、女性の被害の訴えは、麻酔覚醒時のせん妄の可能性があり、検察が出したDNA鑑定及びアミラーゼ鑑定についても、証明力が十分ではないとして、無罪判決を出した。
 しかし、東京高裁刑事第10部(朝山芳史裁判長)は、2020年7月13日、逆転有罪判決を言い渡した。
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 無知な私が勝手な論評をするより、関係者の証言を羅列した方が真理に迫れると考え、記事を引用する。以下は、一審無罪判決後の論評

 乳腺外科医「わいせつ事件」高裁初公判、出廷した精神科医の証言とは 2020.2.8
 https://diamond.jp/articles/-/227956

 2016年、男性乳腺外科医が手術したばかりの女性患者から、準強制わいせつ罪で訴えられ、検察から懲役3年を求刑された事件があった。昨年、東京地裁は乳腺外科医に無罪の判決を言い渡したが、検察は東京高裁に控訴した。2月4日、初公判が開かれた。(医療ジャーナリスト 福原麻希)

  東京都足立区の民間病院で起きたこの事件は、男性乳腺外科医(当時40歳)が女性患者A子さん(以下、本記事では女性患者)の乳房から良性腫瘍を摘出した手術の執刀直後、病室での診察時、「乳房をもまれたり、しゃぶられたり、自慰行為をするなどのわいせつ行為を受けた」と訴えられた(詳細は、記事『乳腺外科医の「わいせつ事件」で求刑、医療現場悩ます麻酔の幻覚』)。A子さんは全身麻酔の手術を受けていた。

 乳腺外科医は診察時、手術の切除縫合部から血が出ていないか、ガーゼをめくって確認しただけで、時間はわずか数分だった。このため、乳腺外科医1人でベッドサイドに出入りしていた。
 病室は4人部屋が満床で、手術終了後の14時32分~15時半という看護師や薬剤師が頻繁に出入りする時間帯だった。女性患者のベッドはカーテンが閉められていた。

 一昨年から昨年にわたって13回続いた裁判では、客観的証拠をめぐって、検察側・弁護側双方合計23人の証人が立ち、激しい攻防を繰り返した。

  全国の病院の中には「ベッドサイドに立つとき、毎回、必ず看護師を伴っていくことはできない」「緊急時はどうしたらいいか」と訴える医師も出てきて、医療関係者はこの裁判の行方を非常に憂慮している。

 東京高裁での争点は(1)客観的状況によって「せん妄(*)」があったと診断できるか、(2)事件が起こったとされている時刻当時、女性患者が身の回りで起こったことをどのくらい認識できていたか(LINEメッセージを発信できたなどを含めて)、(3)女性患者がせん妄状態だった場合、幻覚や錯覚(刺激または対象の客観的事実を違ったものに知覚すること)が起きた可能性はあるか。

 「せん妄」は病院ではよくあることで、「毎日、新たな複数の患者が発生する」と言われている。だが、これまで一般的な認知度はとても低く、家族が右往左往することもある。せん妄が報道で取り上げられたこともあまりなく、非常に珍しい事例といえる。

 *「せん妄」とは、注意の障害、意識の障害(環境に対する見当識の低下、見当識とは時間や場所等を判断する能力)、認知の障害(記憶を失う、適切に話す、顔や物等を認識する能力)が数時間から数日間現れること(DSM-Ⅴ)。
 一般的なせん妄時の症状には、「(患者が)『ここはどこ』と聞く」「会話のつじつまが合わない」「場当たり的な返事を繰り返す」「その時間に起こったことを思い出せない」「人がいないのに『人がいる』と言ったり、話しかけるようなそぶりを見せたりする」などの症状が起こる(詳細は、記事『「入院中に家族が認知症かもと疑う「意外な症状」の正体」』)

 検察側証人「せん妄状態だったが、幻覚があったとはいえない」

 第1回公判では、検察側が推薦した証人として大学病院の精神科医師(専門は司法精神医学等、以下、検察側証人)が証言した。検察側証人は(1)女性患者にせん妄はあった、(2)女性患者の証言は信用できる。せん妄状態だったが、幻覚があったとは言えない、(3)医師のわいせつ事件はまれでない、の3点について詳しく証言した。これらの証言の概要を紹介する。

 【検察側証人の主な証言】

 (1)女性にせん妄はあった

 手術が終了した時刻から事件が起こったとされる時刻までの28分間、女性患者は麻酔から覚めていく途中だった。特に、手術を終えた13分後、看護師が病室に戻ってきた女性患者に検温をしようと、服を少し上げて体温計を入れようとしたら、女性患者は目を閉じたまま「ふざけんな、ぶっ殺してやる」と小さな声で言った。
 証人は、このときのことを「重度のせん妄状態(過活動せん妄)」と説明する。そして、この手術で使った麻酔薬(特にプロポフォール)の種類とその影響がなくなっていくはずの時間から考えて、事件が起こったとされる時刻も井原教授は「せん妄状態だった」と判断した。ただし、このときは「軽度のせん妄状態だった」と説明する。

 (2)せん妄には重症度があり、患者の容態は異なる

 女性患者は(1)の通り、術後、せん妄状態だったが、時間を追うごとに麻酔から覚醒していたため、証人は「事件後、LINEで知人に助けを求めた時刻は軽度のせん妄状態だった」と説明する。その理由として、事件が起こる前の時刻(術後23分後、患者の「痛い痛い」のうわごとを聞いた医師と看護師が痛み止めを投与した)「患者は看護師からの問いかけに冷静に答えたので、証人はこのときのせん妄は混合型(図2参照)」と判定した。さらに、証人は患者女性が事件時、軽度のせん妄状態だったと判断したことについて「女性は携帯を探して、LINEのアプリを立ち上げ、その操作をして、『たすけあつ』『て』『いますぐきて』と打っている。麻酔が体内に残っているので、すぐ眠りに落ちるとしても、幻覚を見るほど重度のせん妄状態ではなかった」という趣旨の説明をした。

 だが、筆者の別の精神科医への取材によると、「せん妄は短時間のうちに意識が変動することが本質になるため、意識混濁の浅い時間と深い時間がめまぐるしく変わる、その全体がせん妄です」「通常24時間単位の全体像からせん妄の型を判断します。
 このため、短時間内の部分を捉えて、この瞬間は過活動型、次の瞬間は混合型、最後の方は低活動型 などという説明にはなりません」という。

 また、検察側証人は「医学におけるせん妄に関する分類は、法廷で使われることを想定されていない」として、法廷で使われることを想定した「アルコールによる酩酊と刑事責任能力の有無」の文献(*1)を用いて、今回の女性患者の容態を説明した。「アルコールによる酩酊(めいてい)はアルコールによるせん妄状態」と述べた。さらに、「術後の麻酔(特に、プロポフォール)のせん妄と一般的なせん妄を比較することに意味がない」と述べた。

 だが、筆者の別の精神科医への取材によると、「アルコールによる酩酊とせん妄は別です」という。

 (3)医師によるわいせつな事案は増えている

 一審で「せん妄状態のとき、幻覚を見ることがある」という患者の聞き取りを集めた海外の文献が紹介されたが、「近年、それが参考にならないほど、世界的に医師のわいせつ事案が増えている」という趣旨の説明をした。

 そして、証人は海外の文献(「患者に性的暴行を加える医師のタイプ101事例」*2)から分析された5因子を紹介した。(1)男性医師100%、(2)39歳以上(92.1%)、(3)州医医事当局の就業許可証明がない、(4)非アカデミックな医療施設(筆者注:研究機関である大学病院等以外)(94.1%)、(5)患者を医師1人で診察する(85.1%)。(注:反対尋問で、他にも重要な因子があることが明らかになった。記事最後の段落で詳述)

 ただ、これはあくまでも一般論になる。医師と弁護士の両方の資格を持つ、浜松医科大学医学部(医療法学)の大磯義一郎教授は「医師の性的犯罪が問題となっていることと、当該被告人が犯罪を行ったか否かは何の関係もない事柄です。
 このような証言は自然的関連性のない(事実の存否の証明に役立たない)証拠として、刑事訴訟法上排除されるべきです。それに加え、本件のような世間の耳目を集めている事件において、そのような証言をすることにより、一般国民に対しても不当な誤解、偏見を生じさせかねません」と指摘する。

 このほかに、一審のせん妄に関する証言について、おもに次のような趣旨で批判した。

 ◎一審では、がんが専門の医師が証言したが、せん妄の定義が広義な上、グレードに分けられていない。このため、女性患者に幻覚が見えると判断してしまった。

 ◎一審で証言した医師はがんが専門なので、高齢者の患者を多く診ているのではないか。本件は若い年齢の事例となるため参考にならない。また、術後のせん妄(特に、プロポフォール)と、一般的なせん妄は異なる。

 「性犯罪は繰り返される」というデータを言わなかった理由は?

 前述の証言に対して、医師側弁護士は反対尋問でおもに次の点を指摘した。

1.医師側弁護士は「証人が証言したせん妄に関する説明は、学会発表や学会誌に論文として掲載されたことはあるか」「今日の『低活動型のせん妄状態では幻覚は出ない』の意見について出典はあるか」と検察側証人に何度も質問した。

 検察側証人は「発表したことはない」「法廷で分かりやすく説明するために『アルコールによる酩酊と刑事責任能力の有無』の文献内容をせん妄状態に置き換えて説明した」と言った。その理由については「せん妄に関する専門知識を本件に当てはめるのはリスクが高く、理解が難しいと判断した」と説明した。

 このやりとりについて、「学会で発表する」ということは、その内容がすでに第三者からの批判を受けたり議論されたりした可能性があることを意味する。
 「学会誌に掲載される」ということは、さらにそのテーマの専門家が査読し、新たな重要な研究内容と認定されたということになる。だが、検察側証人の見解や理論は、これまで他者が発表したこともないという。つまり、証人は「独自の見解を証言した」と言ったことになる。

 そして、筆者が別の精神科医へ取材したところ「低活動型のせん妄にも幻覚や錯覚が出るのは一般的」と言われた。

 傍聴していた私だけではなかったと拝察するが、被告を有罪と判決を出すための証言でこの独自の見解を述べられるということに大変な憤りを感じた。検察側証人の証言内容が正しいのであれば、きちんと出典を明らかにすべきである。被告は人生がかかっている。議論は学会でやってほしい。

2.医師側弁護士が、海外の文献に「低活動型と混合型のせん妄状態の幻覚は同じくらいの確率で起こる」と記載があることを示した。

 だが、検察側証人は「このデータは、がんの緩和ケアで、平均年齢が70歳前後の患者で、A子さんの事例とはまったく質が異なる」と一蹴した。質的な違いとは、「基礎疾患(筆者注:がん、肺気腫等、体力や体全体の状態)があるかどうかも考慮しなければならない」と説明した。

3.検察側証人は、証言を要約すると「30代で健康な女性が手術の麻酔による重度のせん妄状態に陥っても、時間がたつにつれて、麻酔は覚醒していく。
 低活動型のせん妄状態になったときは興奮せず、見当識(場所や時間の認知機能)は保持され、覚醒時の記憶障害は少しで、あとで思い出せる、幻覚等が起こることはきわめてまれ(ただし、この件は背景因子による個体差もあるとも言う)」と説明した。

 ところが、弁護側証人はA子さんがLINEを送ったあとの時間帯、病室でA子さんが興奮した大きな声で「こんな病院なんか、いやよ。もう帰る」という趣旨のことを叫んでいたことから、これは低活動型のせん妄状態の判定ではなく、過活動型と判定されるのではないかと指摘した。
 一方、検察側証人は「せん妄状態というよりは、A子さんをいらだたせることがあったのではないか」と見解を述べた。

 4.検察側証人は、前述の海外の文献(「患者に性的暴行を加える医師のタイプ101事例」*2)から分析された5因子〈(1)男性医師、(2)39歳以上、(3)州医医事当局の就業許可証明がない、(4)非アカデミックな医療施設、(5)患者を医師1人で診察する〉を紹介した。
 だが、文献には、そのすぐ次の行に結論として「ほぼすべての事例では1年(73%)以上継続した複数の被害者に対する繰り返される性虐待(96%)があることも関係している」と記載されていた。

 一審で被告弁護側は「今回の被告の乳腺外科医は過去500例以上の女性患者の手術をしていたが、今回のような訴えは一度もなかった」と話していた。また、被告逮捕前、検察が被告の自宅から出たごみ袋から証拠を探そうとしても、それに見合う物が何も見つからなかったというエピソードがあった。

 検察側証人はどうして前述の結論を言わなかったのか。この点に悪意を感じた。

 次回の裁判では、この証言を受けて、被告弁護側の証人が証言する。

 なお、本記事では、検察側証人の証言内容について疑問に感じたところを別の精神科医へ取材したが、他にも疑問視されているくだりはある。次回の裁判でもせん妄の専門家が証言するため、そのとき別の見解が出た部分は追って報告していく。

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 引用以上 引き続き引用

 【乳腺外科医事件、高裁で逆転有罪】科学軽視の“だるま落とし判決”が与える衝撃 2020.07.22 江川紹子
 (原発推進派なので私は嫌いだが、刑事事件では一定の活躍がある)
 https://biz-journal.jp/2020/07/post_169579.html

 男性の胸部外科医が手術後の女性患者の胸をなめるなどしたとして、準強制わいせつの罪に問われ、一審で無罪となった事件で、東京高裁(朝山芳史裁判長、伊藤敏孝裁判官、高森宣裕裁判官)は、医師を懲役2年の実刑とする、逆転有罪判決を出した。

 同高裁は、これまでの審理で議論の前提となっていた証言について、判決で突如信用性に疑問を投げかけ、証明力を減殺させた。その一方で、一審で疑問符がつけられた科学鑑定は、技官の経験などから信用できると認定。鑑定の科学性に頓着せず、これまでの議論の積み重ねの前提をたたき出す、だるま落としのような判決に、衝撃が広がっている。

 議論の前提となっていた看護師証言

 裁判では、1)被害者の訴えは、手術後の「せん妄」による幻覚だった可能性があるか否か 2)被害者の胸をガーゼで拭って採取した微物鑑定の科学性、証明力――が争点になった。

 患者A子さんの訴えによると、男性医師は2016年5月10日午後2時55分頃から3時12分頃までの17分間に、2回にわたって病室で、手術をしなかった左側の胸をなめたり吸ったりしたうえ、ベッドサイドで自慰行為に及んだ、という。

 病室は4人部屋で満床。各ベッドの周囲は、床上35センチの高さまで薄手のビニールカーテンで囲われていた。A子さんによれば、男性医師は、1回目は女性看護師がカーテンの中に入ってくると逃げるように出て行き、2回目はA子さんがカーテンの外にいた母親を呼ぶと、やはり逃げていった、とのことだ。

 一審の東京地裁は、A子さんの証言について「具体的で迫真性にとみ、供述の一貫性がある」と認定。供述調書には書かれていないのに法廷証言で語られた事実や、看護師が出入りしたり母親が近くにいる所で医師が自慰行為に及んでいたなどという訴えなどに疑問符をつけながらも、信用性を認めた。

 そのうえで、検温の看護師に「ふざけんな、ぶっ殺してやる」などとつぶやくなどのA子さんの状態や専門家による証言を前提に、手術時の麻酔薬が通常より多く投与される一方、鎮痛剤の投与は少なく疼痛を訴えていたことから、当時のA子さんはせん妄に陥りやすい状態にあり、それに伴う性的幻覚を体験していた可能性がある、と判断した。

 控訴審では、裁判所がA子さんがせん妄状態にあったのかどうかなどを「関心事項」として示し、その訴訟指揮によって、検察・弁護側がそれぞれ推した専門家の証人尋問が行われた。

 検察側証人の獨協医科大埼玉医療センターの井原裕教授は、「私はせん妄研究の専門家ではないが、司法精神医学の専門家である」として、せん妄を飲酒による酩酊の程度にたとえる、独自の論を展開。「ふざけんなよ、ぶっ殺してやる」発言が出た時点では、A子さんは「病的酩酊」「複雑酩酊」にあたる「過活動型せん妄に伴う興奮」状態だったが、その後「単純酩酊」にあたる「低活動型せん妄」に移行し、被害を訴えた時点では、「ほろ酔い」状態で、「ほろ酔いの人が幻覚を見るわけがない」と述べた。
 そして、被害の訴えは性被害者の証言の典型として信用できる、と断言した。

 井原教授がオリジナルな説を展開したのとは対照的に、弁護側証人の埼玉医科大国際医療センターの大西秀樹教授は、国際的に使われている2つの診断基準(DSM-5とCAM)を用いて、A子さんの当時の状況を分析。A子さんの状態は、せん妄に関するDSM-5の5つの診断基準をいずれも満たし、CAMにおいてもせん妄と認定できる、と判定した。

 また、せん妄からの回復は「(酔いが覚めるように)直線的に回復していくとは考えない」として、井原説を否定した。せん妄に関する論文が多く、いわばせん妄の専門家である大西教授は、自身が体験したせん妄の事例も挙げて解説した。

 上記のように、いずれの証人も、看護師3人や同室の患者を含む一審での証言を前提に、主張を展開していた。検察側も、一審では「病院関係者は口裏合わせをしていて信用できない」と述べたものの、控訴審の弁論では、そのような主張はしていない。それどころか、看護師証言を前提にした井原証言を全面的に支持している。

 看護師証言をめぐる高裁の“ご都合主義”

 ところが判決では、「ぶっ殺してやる」という発言がカルテに書かれておらず、A子さんの状態が「せん妄」とカルテに記載されていないことを挙げ、看護師証言は「病院関係者による証言であるから、その信用性は慎重に行う必要がある」と指摘。その証言は「弁護人や病院関係者の影響をうかがわせる」などとして、信用性を減殺させたうえで、一審を含めた専門家証人による「せん妄」との判断も「これらの事実(=看護師証言)が認定できないとすると、各証言の信用性も大きく損なわれる」とした。

 だるま落としで、下のほうの木片をたたき出すように、一審、控訴審と積み上げてきた議論の前提をはじき飛ばした東京高等裁判所。もし、一審の記録を読んで病院関係者の証言の信用性に疑問を抱いたのであれば、裁判所は彼らを控訴審に呼んで、その証言態度を確かめ、偽証しているかどうか自ら問いただせばよかったのではないか。
 
 しかし、高裁裁判官らが控訴審に臨んで検察・弁護側が双方に示した「裁判所の関心事項」には、病院関係者を含む証言の信用性には触れていない。にもかかわらず、自分では見ていない聞いてもいない(しかも一審裁判官らは「概ね信用できる」とした)病院関係者証言の信用性を貶めたのは、弁護側にとっては、予想もしない不意打ちだった。

 ところが、それでは検察側証人の井原氏の証言と矛盾することになる。それを立て直すためだろう、高裁判決の看護師証言についての評価は、その後、さらに揺れる。

 判決は、A子さんが手術後にしきりに不安を訴える言動を示していた旨の記載がカルテにあることを挙げ、「これらは、せん妄の徴候と見る余地もある」と述べる。そして、「ふざけんな、ぶっ殺してやる」発言が認定できるならば、「せん妄という診断がされ得ることは否定できない」と、せん妄の可能性をよみがえらせた。

 さらに判決を読み進めると、「ふざけんな、ぶっ殺してやる」発言があったことを前提に、「この時点でせん妄状態にあり、幻覚を見ていた可能性は否定できない」とも書いている。そして、このように続く。

「麻酔の影響が抜けきっていないとも考えられるから、いささかその場の状況にふさわしくない言動をしても、不自然、不合理ではないというべきである」

「『ふざけんな、ぶっ殺してやる』との言動は、A子自身記憶がないことに照らしても、幻覚によるものとして矛盾がない」

 それでも判決は、被害証言は「生々しいもの」で、これを「せん妄による幻覚として説明することは困難」として、高い信用性を常に維持させた。

 要するに、せん妄による幻覚の可能性があるとする専門家たちの証言の信用性を落とすために、看護師証言を疑問視するが、検察側証人の井原教授の証言を生かすために、同じ看護師証言を所与の事実のように扱っているのだ。これをご都合主義といわずに、なんと呼べばいいのだろうか。

 高裁判決は、専門家証言に対する評価の仕方も、独特である。

 検察側証人の井原教授について、「せん妄に関する専門の研究者ではないが、せん妄に関する豊富な臨床経験を有している」などと高く評価。せん妄を飲酒酩酊と同様にとらえたことは、「学会において一般的に承認された考え方ではない」と認めつつ、それでも「このことから同医師の証言全般の信用性が損なわれるものではない」と擁護した。

 一方、弁護側証人となった大西教授については、「せん妄に関する専門の研究者」と認めたものの、「その研究分野はがん患者のせん妄や末期治療を中心とするもの」であって、(A子さんとは異なる年齢層の)高齢の患者を多く診ている、とケチをつけた。
 これは、井原教授が「(A子さんは)若くてピンピンしていて、せん妄準備因子がない人」として大西証言を批判したのに、裁判所が便乗したのだろう。弁護側は「若年のせん妄と老人のせん妄が異なるという医学的知見はない」と反論していたが、裁判所はそれを、格段の理由を示さずに退けた。

 こうして、大西証言は井原証言に比べて「信用性が低い」と断じたうえで、「A子は本件当時せん妄に陥っていたことはないか、仮にせん妄に陥っていたとしても、せん妄に伴う幻覚は生じていなかった」と結論づけた。

 結局、国際的な診断基準に基づく判断よりも、「学会において一般的に承認された考え方ではない」独自の説に、裁判所は軍配を上げたのである。

 専門家証言を吟味し、より信用できると判断した意見に従って、A子さんの証言を分析するのではなく、A子さんの証言を事実として認定することを決めたうえで、それに添う専門家証言を採用した、ということではないのか。

 「科学的厳密さ」を軽視した高裁判決

 本件では、A子さんの左胸から採取した微物を調べた警視庁科捜研の鑑定結果も争点になっている。
 唾液などの付着を調べるアミラーゼ鑑定では、色調の変化で陽性と判定されたが、写真などの客観的な記録は残されていなかった。DNA定量検査についても記録が残されていない。本件では検出したDNAの量が重要であると検察官に告げられた後、技官は残った抽出液を廃棄しており、再検査ができなくなった。さらに、実験ノートに当たるワークシートを鉛筆で記入し、消しゴムで消して書き直した部分が、法廷で明らかになっただけで9カ所あった。

 一審は、こうした点をふまえて、「信用性には一定の疑義がある」「証明力は十分なものとはいえない」とした。

 ところが今回の高裁判決は、鑑定を行った技官が「相応の専門性、技量、実務経験を有し」「あえて虚偽の証言をする実益も必要性もない」などとして、「信用性を否定すべき理由はない」と鑑定結果に高い信用性を与えた。

 客観的な記録がなく、残余抽出液の廃棄で鑑定の検証機会が失われた点などについては、東京高裁の判断は以下の通りだ。

 「科学的厳密さを損なうことにはなるが、このことからただちに(技官の)証言の信用性が失われるとはいえない」

 「検証可能性の確保が科学的厳密さの上で重要であるとしても、これがないことがただちに本件鑑定書の証明力を減じることにはならないというべき」

 ワークシートの鉛筆書きについても、書き直し部分が「結論に直結」しないとして取り合わなかった。

 要するに、刑事裁判では「科学的厳密さ」は、被害証言に比べて、それほど重要ではないと、高裁は宣言したに等しい。

 これは、恐ろしいことではないか。裁判で科学的な証拠や証言の重要性がますます増していることを考えると、他のさまざまな事件への影響も懸念される。
 医療の世界でも、この判決は衝撃をもって伝えられた。

 新しく日本医師会会長に就任した中川俊男氏は、7月15日の会見で本判決に触れ、「体が震えるほどの怒りを覚えた。日本医師会は、判決が極めて遺憾であることを明確に申し上げる」と述べた。

 麻酔医でもある今村聡・副会長も「このような判決が確定することになれば、全身麻酔下での手術を安心して実施することは困難となり、医療機関の運営、勤務医の就労環境、患者の健康にも悪影響を及ぼす」と危機感を示した。

 被告・弁護側は、高裁判決を不服として、即日上告した。最高裁が、「科学」に対してどのような姿勢で向き合うのか、注目したい。(文=江川紹子/ジャーナリスト)

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 引用以上

柳原病院事件、電車の“わいせつ事件”と同列に扱うな! 2016年11月28日
https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/480772/

  乳腺外科医事件、前立ち医師「被害届に愕然とした」-八巻秀人・柳原病院外科医局長に聞く 2019年4月12日
 https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/671296/

 乳腺外科医事件「高裁は数々の証拠を黙殺」男性外科医「直接・間接の力を皆さんからもらいたい」2020年8月31日 
 https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/817165/

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 私が、柳原事件を知った限りで感想を述べれば、これは滋賀県の西山看護助手事件と同じ、権力によって捏造された冤罪であると断言するしかない。
 http://www.kyuenkai.org/index.php?%B8%D0%C5%EC%B5%AD%C7%B0%C9%C2%B1%A1%BF%CD%B9%A9%B8%C6%B5%DB%B4%EF%BB%F6%B7%EF

 女性が、思い込みによって幻覚を見て、それを信じてしまうということは、とてもありふれたことで、人格的に問題のある女性では、頻繁に起きることであることを還暦を過ぎた者としては、多数経験してきた。

 この場合、江川ノートに書かれているのは、
 検温の看護師に「ふざけんな、ぶっ殺してやる」などとつぶやいた。
男性医師は2016年5月10日午後2時55分頃から3時12分頃までの17分間に、2回にわたって病室で、手術をしなかった左側の胸をなめたり吸ったりしたうえ、(母親のいる)ベッドサイドで自慰行為に及んだ。

 そもそも、この証言自体、あまりにも異様なもので、「自分の母親がいたベッドサイトで、医師が、手術しない側の乳房を舐め、性器を露出して自慰行為に及んだ」
 と言っている。

 これを高裁は、
被害証言は「生々しいもの」で、これを「せん妄による幻覚として説明することは困難」として判決理由としている。
 ちょっと信じられないほど異常な判決で、この判決を下した、東京高裁刑事第10部(朝山芳史裁判長)は、おそらく、まともな人生経験も人間関係もほとんどない司法の鳥籠の密室から出たことがないのではないか?

 現在の司法試験は、裁判官としてもっとも大切な市井の庶民のあり方に極端に無知蒙昧な者ばかりで、司法権力のシステムに純粋培養されている。
 大岡越前など絶対に出てこれない環境なのだ。
 西山事件も同じだが、世間知らずのバカボンが試験だけに受かって裁判官になれば、こうした常軌を逸した判決ばかりになるのは当然のことだ。

 こうした冤罪事件が起きないようにするためには、裁判官に市井の庶民感覚を身につけるインターン制度を作るか、あるいは、警察・検察・裁判所に、判決後の再見直しを専門的に行う、「司法警察」を儲け、すべての事件を再審理し、誤逮捕、誤起訴、誤判を行った司法関係者に厳重な懲罰を科す制度を作るしかない。

 昨日の地震について

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 昨日、茨城沖で、やや大きな地震が起きた。

22日19時06分ころ、地震がありました。
震源地は、茨城県沖(北緯36.6度、東経141.1度)で、震源の深さは約40km、地震の規模(マグニチュード)は5.8と推定されます。
この地震による津波の心配はありません。この地震について、緊急地震速報を発表しています。

この地震により観測された最大震度は5弱です。

[震度1以上が観測された地点]
*印は気象庁以外の震度観測点についての情報です。
茨城県  震度5弱 東海村東海*
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 前兆としては
 ① 11月22日午前7時前に笠置山山頂周辺で、「全方位赤焼け現象」を確認した。
 大きな地震の前には、早朝や夕方、見渡す限り地平線に赤い色がついてみえる。

 以下は、7時前に「物見岩」から撮影 分かりにくいが、赤い楕円の部分は太平洋方面で、赤く染まっている。(画面クリックで全画面)

20201122monomiuiwa2.jpg

  
② やはり、地震の前以外は出てこないキジがたくさん林道に現れた。

③ 数日前から、スマホAUメールが、数件ずつ団子状態で送受信された。

④ 千葉の友人から、19日に強烈な耳鳴りを感じたと連絡。

⑤ 目立った地震雲は確認していないが、前日夕方に、雲底赤焼け現象が見られた。これは揺れる震域で起きる雲の底が赤く染まる現象で、この地震で中津川市は震度1だった。

⑥ 東大阪市のラドン定点観測地は30~33と、今回は反応していない。

⑦ 清須市のコスモスさんのガンマ線定点観測では、地震発生の30分前に非常に強い「爆縮現象」を確認している。その前日にも、強いマイナスを記録。
 http://tokaiama.bbs.fc2.com/

 これは、大きな地震が起きる前に、空間ガンマ線量が収束することを意味していて、理由は、地殻ラドンの収束低下とともに娘核Bis214も低下するためと思われるが、現在メカニズム研究中。

⑧ 地震前日は、雲がまったく出ないピーカン状態。これは大きな地震の直前前兆だ。

M5.8は極めて危険な規模で、巨大地震の前兆現象である。この前駆活動がどれだけ続くはよくわからない。東日本震災のときは5年以上前から続いた。
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 今回は、小名浜沖が震源地で、最大震度5弱が東海村で計測された。
 これが、どれほど恐ろしいことか理解できる人は少ない。

 東日本震災における東海村(大洗町)の震度は5強だったが、東海村には、第一原発と第二原発が設置されている。
 東海第一原発は、正力松太郎が音頭を取った日本最初の原発であるが、当時、すでに効率的な軽水炉が開発されていたにもかかわらず、正力や中曽根が選んだのは「黒鉛炉」だった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80

 理由は、黒鉛炉では核兵器原料であるプルトニウム239の抽出が軽水炉よりも容易であると考えられたからである。黒鉛炉では、間欠的に中性子を暴露することで核兵器用プルトニウム239の兵器用(純度96%)を確保することが可能だった。
 つまり、正力は、日本における最初の原発から、核ミサイル保有を視野に入れていたのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E7%82%89

 問題は、世界の地震の10%を引き受ける世界最大の地震国である日本の、そのまた最大級の地震地帯である茨城県東海村に、もっとも地震に弱いとされる黒鉛炉を導入することの危険性だった。

 原子力推進側は、「このために特殊な六角ブロックによって建設し、耐震性を高めた」と胸を張ったのはいいが、彼らの「設計用最大想定地震」は、東日本大震災のエネルギーの100分の1程度しかない、マグニチュードM6.5、最大想定震度5=わずか350ガルにすぎなかった。

 https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_06-01-04-04.html

 https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_2695.html

 後に540ガルまで想定震度を増やしたが、実際に起きた地震、岩手内陸地震では4022ガルを計測しているので、10分の1程度しかない。
 東海1号機は、1965年に稼働し、1998年に廃炉が決定されたが、この理由も、地震学者たちの指摘によるものだった。
 東日本震災の時に、黒鉛炉が稼働していなかったのは、ほとんど奇跡といってよい。もしも稼働していたら100%メルトダウン=炉心崩壊を免れ得なかった。

 今回の東海村地震M5.8=震度5弱は、黒鉛炉のままだったなら、大変な「事態を招いていたかもしれない。
 この地震は、これから起きる「東日本大震災の割れ残り巨大地震」の前駆活動といえるだろう。
 東海村2号機は、先の震災でも大きなダメージを受け、周辺に大量の放射能を出している。
 私が2011年11月に、現地を訪れたとき、大洗海岸などで毎時2マイクロ近い線量を記録していて、これは、おそらく第二原発がドサクサに紛れて公表しなかったレベル5~6程度の放射能放出を起こしていたものと考える。

 次にM7~8級が、この地を襲うなら、関東一円に東日本震災を超える放射能汚染をもたらすかもしれない。

 魚が怖い

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 私は魚が大好きだ。というより、物心ついてから、食卓に上るうまいものといえば、鰯・鯖・サンマの安魚トリオしかなかった。
 肉など遠い夢物語だった。肉屋に行っても当時、買う物はサービス品であるコロッケばかり。牛肉など、年に一度だけ、すき焼きで食べられたくらいで、超大ご馳走だった。

 それというのも、父親が国鉄の機関士で、夜勤に継ぐ夜勤の苛酷労働なのに、月給が2万円程度しかなかったからだ。(1960年前後)おまけに父親は見栄っ張りな性格から、たびたび詐欺に遭ってカネがなかった。

 母親は、魚を買うとき、売れ残りの、半額以下になった翌日物ばかり買っていたから、生臭くて鮮度の落ちたものを、大量の生姜を入れて濃い味付けで煮付けたものばかりが食卓に上った。
 刺身など無縁だったから、おかげでアニキサス被害には遭わずにすんだ。

 それでも、幼いころ食べていたものはソウルフードとして脳裏に刻まれるもので、成人しても、おかずといえば魚と、パブロフの犬のように連想したものだ。
 今でも、大好物といえば、鯖や鮭の塩焼き、それに締め鯖あたりだ。魚がないと、どうも生活のリズムが狂うような気がする。

 今では、魚屋の魚が高いので、業務スーパーのアミカあたりでノルウェー産の冷凍鯖なんかを買ってきて解凍して食べることが多いのだが、このとき、とても心配で頭から離れないことがある。
 それは放射能汚染だ。ノルウェー産というのは、北海を漁場としている。ここには、セラフィールド(ウインズケール)という使用済み核燃料再処理工場がある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89

 2003年に、この施設は解体が決定したのだが、現在もなお1万人以上の人が働いている。
 理由は、MOX核燃料を再処理可能、恒久保管処理可能になるまで崩壊熱を500年にわたって冷却し続けなければならないからだ。だから放射能汚染も止まらない。
 これは六ヶ所村再処理工場も同じで、施設の解体が決定したって、数百年は使用済み核燃料を強制冷却し続けなければならない。青森県は日本一の発癌県であり続けることを約束されたようなものだ。
 再処理工場は、原発運転よりも桁違いに長期間にわたる厄介な残務処理が要求されることを知るべきだ。


hokkai.jpg



そして、今もなお、莫大な放射能をアイリッシュ海に流し、それは北海を絶え間なく汚染し続ける。だから、それを輸入して大量に食べている日本人にとって、北海のシシャモ・鮭・鯖は安全とはいえないのだ。

 もちろん北海は素晴らしい漁場であり、周辺国、イギリス・ノルウェー・デンマーク・オランダなどの魚介類に危険な悪影響を及ぼし、じわじわと人々を蝕んでいる可能性は非常に大きい。

 使用済み核燃料は、強制冷却しても、核燃料集合体の細管が、ジルカロイ被覆管の老朽化によるクリープ現象などで割れたり、ピンホールが開いたりで、たくさんの放射能を環境に排出する。
 出てくる核種は、まず最初に、トリチウム・クリプトンなどの希ガスとヨウ素Xなどである。これは、被覆管に高圧で閉じ込められていたガス体だ。セシウム137も出てくる。単位はテラベクレルであり、1TBqは1兆ベクレルである。

 以下にフランスのラアーグとセラフィールド再処理工場から排出される核種の一欄を示す。これだけの核種が、1年間に英国や北海を汚染してゆく。

saisyori001.jpg


上の核種で、人体に安全なものなどひとつもない。もっとも人体に親和性の高い危険なセシウム137が、年に1兆ベクレル出てきて海を汚染している。日本の許容値リットル100ベクレルで均すと年間1000万トンだ。
 使用済み核燃料は、長期間の冷却を行うので、短寿命核種は消えて、半減期が数年以上の長寿命核種ばかりになっている。生物濃縮(生態系上位の鯨・イルカ・マグロなど)が進み、海洋生物を捕食する人間などに大きな危険をもたらす。

現在、日本政府は福島第一原発の猛烈な放射能汚染水を海洋放出する方針を決定しているが、漁協や周辺各国からの激しい反発を受けて実行できないでいる。
 しかし、事故直後の激しい放射能汚染に見舞われた魚介類すら、日本では拒否されたため、タイやフィリピンなどに輸出し、それを缶詰などに二次加工させ、日本に逆輸入するなどの悪辣な行為を行っている。

 福島県・相馬沖産の鮮魚が、タイ・バンコクへ震災後初の輸出・販売
 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000012.000045950.html

 福島沖のヒラメ、原発事故後初輸出 「本格操業へ励み」2018年2月28日
 https://www.asahi.com/articles/ASL2W5KPGL2WUGTB00M.html

 私は、漁業関係者の聞き取りから、事故後、漁獲の禁止された福島沖の海域に暴力団系の漁師が入って、禁漁によって増えた魚を大量に捕獲し、関東ではなく、関西の漁港に水揚げしているという話を何度も聞いている。

 福島産の魚介類は、NHKは高値と報道しているが、これが真っ赤なウソで、実際は安値で日本中から敬遠されている実態がある。
  http://www.asyura2.com/17/genpatu49/msg/792.html

 そこで、関西の紀伊長島・尾鷲・大阪湾周辺の漁港に水揚げされて、地元産のようなフリをして、関西に売りさばいているのだ。紀伊長島と尾鷲は名古屋圏へ、大阪湾は大阪市はじめ関西各地へと流れている。
 これが福島産の魚であった場合、非常に危険で、関西における内部被曝は、このルートで起きている疑いが非常に強い。
 (関係記事がすべて削除されている)

 上の報道リンクにあるように、日本で売れない福島産魚介類を政府はタイやフィリピンに輸出して缶詰などに加工してから日本に再輸入している。
 だから、タイやフィリピン産の加工品は放射能汚染の疑いがあると思うべきだ。
 私も、フィリピン産の鯖トマト煮缶詰をたくさん食べているので、とても心配だ。

 日本政府が放射能の危険性、毒性をごまかそうとする理由は、日本にある46トンという世界最大量のプルトニウムを使って、核ミサイルを製造し、それを海外に売り飛ばしてボロ儲けしたい思惑があるからだ。

 戦前、日本政府は、世界の流通量の9割に達する麻薬(アヘン・モルヒネ・ヘロイン)を精製して、東アジア諸国で売りさばいて巨額の利益を得た。このカネで太平洋戦争を行ったのだ。

 今は、麻薬の代わりにプルトニウム核ミサイルを売ろうとしているから、危険性を全力で隠蔽し続けているのである。
 これを計画したのは岸信介や正力松太郎、中曽根康弘だが、全員、日本民族を滅ぼす危険性を無視したまま地獄へ向かった。現在、原子力開発の路線を敷いた年寄りたちは、次々に功なり遂げ、大きな蓄財に満足して死んでいった。
 残された日本国民に放射能汚染が拡大して日本民族が滅亡してゆくことには、何一つ関心を持たなかった。

 現在も、巨大事故を起こして日本を滅亡させようとしている東京電力の経営者たちは、非難を交わしてドバイに逃げ、巨額の退職金を手に、素知らぬ顔で悠々自適の生活を送っているが、被害に遭った福島の人々は、放射能に追われて故郷を失い、ほとんど何も救われていない。
 これが岸信介や正力松太郎、中曽根康弘が求めた日本社会なのだ。 

 因果応報の法則

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 釈迦の8000にも上る経典の大半を占める論理は、「因果応報」の教えであるといわれる。

 行為によって世界はあり、行為によって人々はある。生存するものは行為に束縛される。ちょうど車が楔(くさび)に結びつけられるように。
(「スッタニパータ」第六五四偈)
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-531.htm

 この意味するところは、人が誕生して、意識を有し、行動を起こす=行為……行いがその人にとっての世界を作り出し、行いが、その人を、その世界に縛り付ける。

 人生は、生まれてから死ぬまでの、すべての行為が完全無欠に、自分自身に還元される。
 これは徳を積んだから大金持ちになれるとか、悪事を行ったから地獄に行くとかの単純なものではない。
 徳を積む人は、心優しい人となり、周囲を笑顔で満たすことができ、結果、その人は生きているうちに天国の中で暮らすことになる。
 悪事を行って反省できない人は、自分自身を悪で満たし、周囲の人も悪で染め上げようとするから、人々は、その人を怖れるようになり、不幸の運命しか残されていない。

 「我思う……故に我あり」(デカルト=方法序説)
 唯物論の創始者ともいえるデカルト、「人は考える葦」と言ったパスカルも、思うことが、その人の宇宙の始まりであり、行うことが宇宙の創造である。というような思索を述べている。

 これもまた、思い、行うことで、その人にとっての宇宙が成立し、それが自分に還ってくることを指摘するものだ。
 因果応報という釈迦の言葉は、すべての存在、すべての宇宙は、人の思いからはじまり、人生も対象的世界も、自分の心が作り出す虚構のリアリティであることを意味している。

 簡単にいえば、我々は、他力によって成立し、他力に流されて生きていると思い込んでいる人が大半だが、実は、自力で存在を作り出し、自力で対象世界を変え、自分の人生を規定しているのだ。
 いいかえれば、世界は、その人の心が生み出した茶番世界である。自分が世界に流されて客体的に存在するのではない。自分の心が世界を主体的に生み出しているのだ。
 だから、自分の思いと行いは、完全無欠に自分の人生を規定し、すべて自分に還ってくる。これが因果応報の原理だ。なにもかも、自分が生み出し、自分に還ってくる。

 この世で侵した、どんな悪事も、自分の人生によって完全無欠に償わねばならない。この世で積んだ、どんな善事でも、必ず自分の人生を支えてくれる。

 【まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。
まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福に遇う。

「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。

「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。】
(中村元訳『ブッダの真理のことば』)

 これは「カルマの論理」といいかえてもよいが、悪事を行ったからカルマによって罰せられるというような単純なものではない。
 カルマというのは、それを「悪事」と認識した瞬間に成立するものであり、それからの人生を束縛するものだ。死ぬまで悪事と理解できない人にとっては、カルマが成立せず、それを返すこともできないので、次に与えられた人生のなかで、自分が本当に気づくまで同じカルマを繰り返すことになる。

 例えば、泥棒や殺人を悪と思わないまま死んだ人は、次の人生でも、それを悪と理解できるまで、何度でも同じことを繰り返してゆく。
 例えば、池田小殺害事件の宅間守は、判決後、わずか1年で死刑執行されたことにより、悔悟するチャンスがなかった。

 死から数ヶ月もたたないうちに、中国などで池田小事件に極めて類似した事件が数件も繰り返された。
 これは、宅間の霊憑依とする霊能者もいる。私は、カルマを解消できなかった転生(憑依)により類似事件が繰り返されていると感じている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%84%E5%B1%9E%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B0%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 この原理は、生きている人間のなかでも起きる。他人を悪意に満ちた誹謗中傷をするクセをつけた人物がいて、名誉毀損で送検されたり、損害賠償判決を受けたり、社会的制裁を受けながらも、極度に強い自尊心から一切反省せず、誹謗だけが生き甲斐であるかのような人生を送っている。

 彼には、もちろん気づくまでカルマが発生しないが、一生をかけても気づかないだろうと誰もが思う。とにかく、放火犯のように誹謗行為が人生の快感になってしまっているのだ。
 こんな場合は、どうなるかというと、次の人生は、とんでもない苛酷な一生を選ぶことになるだろう。

 ネット上、とりわけツイッターで、私に対する根拠のない誹謗を繰り返している者がいる。自民党青年部の方針で、原発反対派である我々に対して、人格毀損攻撃を行っているのだ。
 以下は、すでに8年間も連日連夜、私への誹謗中傷を行っている、名東区に住む岩田という医師のアカウントだ。
 https://twitter.com/tokaihomo
 https://twitter.com/otokomizoguti

 彼は、精神上の問題から、病院が対面診察部署を回避させ、暇な検査課にいて、暇つぶしに朝から晩まで上のツイートを更新し続けている。
 やめさせたいが、弁護士に70万円の費用を提示され、賠償金でも取り返せないので放置しているわけだが。賠償を受け取るよりも、桁違いに恐ろしい結末が待っているだろう。
 それが因果応報の原理であり、岩田は、私を誹謗するたびにカルマを積み重ね、自分の人生を崩壊させてゆく。彼は私を誹謗しているつもりで、実は自分を誹謗していることをまるで理解できないでいる。

 以下のアカウントも、自民党青年部の下請け出版社から数個のアカウントで続いている私への攻撃である。
 https://twitter.com/akima125x

 カネをもらって、反原発派への下劣な人格攻撃を繰り返しているのだが、例え、依頼されて出版社の副業としてやってはいても、誹謗アカウントの個人として、恐ろしいカルマを積み重ねていて、やがて、取り返しがつかないほど、自分の人生を汚してゆくのだ。
 彼(彼女?)が、どんな運命に至るのか? 追跡したいと思っている。なお、自民党と分かったのは、私のブログに、IPトラップを仕掛けておいたところに、嫌がらせを書き込んだことにより、アドレスを追跡して分かった。岩田も同じだ。

 どんなに、こそこそと身元を隠して誹謗中傷を繰り返しても、一種のクセになってしまい、ナガラで書き込むために、警戒心が緩み、IPトラップに簡単に引っかかるようになる。
 まあ、多くの身元を隠した犯罪者の正体がばれる理由は、ほとんどの場合、クセになって警戒心が緩み、身元をたどるボロを出すからだ。

 IP探索回避のために公開された架空プロキシを使ってみたところで、使えるのはせいぜい300程度、たくさんの人が虚偽プロキシを利用しているため、しょうちゅうバッティングが起きて、ついつい自分の本当のIPを使ってしまい、身元がばれるのだ。

 嫌がらせ目的の誹謗中傷を行う者は、掲示板に書き込みたくて仕方ないのだが、ほとんどの掲示板にはIPトラップを仕掛けることができる。長年、誹謗を繰り返していると、そんな簡単なことも忘れてしまう。

 岩田がツイッターに書き込むときは、IPの証拠を残さぬよう、自宅を避けて勤務先の病院のWi-Fiを利用しているのだが、それが足がついた原因だった。今は、便利なソフトがあって、Wi-Fiの同時受信をすることも可能なので、現場に行けば足跡をたどれる。

 まあ、たかが100万円程度の賠償を受けても、弁護士に大半をもっていかれるので訴訟を起こす価値がない。それよりも、私に対するたくさんの誹謗中傷が、本人に、どのようなカルマを蓄積するのかを確認した方が遙かにマシだ。
 病院側には、このことを伝えていて、上層部は知っている。どこをどう考えても、私への誹謗中傷は、不幸しか生まない。
 これが「因果応報」というものだ。
 

妄想論説の花盛り

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 トランプと安倍晋三という知性の対極にいる首脳が登場してからというもの、あらゆるネット上の言説に、およそ知性の欠けた妄想が飛び交う時代になった。
 人類総痴呆症になったのかと思うほど、呆れ果てた論理性、科学性の喪失だ。

 「科学」とか「知性」という場合、その定義を考えてみれば分かる。
 これは「認識論」の基本的な哲学なのだ。すべての思考、思惟に共通する方法論である。人間の思考の基礎理論を理解すれば、知性とは何か? が自然に浮かび上がってくる。

 人の思考とは何か? それは対象的世界のカオスのなかに、一定の共通点を見いだすところから始まる。
 共通点が繰り返し確認され、共有されることで、これを「法則」と呼び、その法則を再現できるなら、これが「実証」されたといい、普遍性を持つことになる。
 ここまでくると、「認識」あるいは「言語」の領域に上昇し、人々に共有される段階に達する。

 これを我々は「知性」と呼び「科学」と定義してきたのだ。
 共通点=共有=法則=再現=実証=言語化=普遍化=認識 これが人の知性の一連の流れであることを理解できれば、知性とは、どのようなものか容易に理解できるだろう。
 すなわち、法則は再現されて、はじめて実証され、そして共有されて認識へと発展するのだ。
 別の言い方では、対象的世界のカオスから、共通点を「抽象し」、法則化し、それを演繹して法則の再現性が認められれば、「科学」ということもいえる。

 この一連のプロセスから外れた言説は、もはや知性でも科学でもない。ただの妄想にすぎない。
 トランプ大統領という存在は、こうした知性のプロセスを完全に無視して、まるで16世紀の魔女裁判のような妄想に生きる人物だった。

 ところが、こんな愚かというしかない軽薄の権化のような人物を熱烈に支持する異様な集団がアメリカにいて、それは、人種差別や利己主義の共有と正当化から生まれているように見えるのだが、なぜか、それが法輪功支持団体や日本のネトウヨの一部にも波及して、トランプ支持の熱狂が生まれていることは実に不可解だ。

 私のブログは、大摩邇ブログが転載してくれているのだが、最近の大摩邇の私以外のブログは、トランプに共通する反知性というしかない愚説、妄説ばかりで、彼らは一様に、今回の大統領選が陰謀だといい、トランプ同様に、新型コロナ禍もデマだと決めつけている。
 私が自分なりに真実の情報を提供しても、大摩邇は自分の意見と異なる私の言説は意図的に排除して転載しない。

 最近の大摩邇が転載するブログのレベルのひどさときたら、もうこのサイトが存在理由を失っている壊れたスピーカーであると理解するしかない。
 このところの大摩邇は、大統領選はトランプを排除するための陰謀であり、「不正選挙」だという根拠の薄弱なデマばかりを羅列している。どのような理由で、利己主義の権化であり、人間のクズと断ずるしかないトランプを、ここまで信奉しようとするのか?
 大摩邇は、自民党や維新の支持サイトだったのか?
 http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/

 私は、大摩邇が大本教の支持者で、出口王仁三郎の思想を信奉しているものと思っていたが、まるで違う方向を向いている。出口は、少なくとも科学を否定しないし、新自由主義のような利己主義を容認していない。 
 もちろん私は宗教には何の興味もなく、出口王仁三郎は、科学的視点からのみ判断している。
 また、アメリカ大統領選は3億人以上が関わっている以上、一定の割合で、捏造やデマが出てくるのも当然だが、問題は、時代の変化と大勢を判断する姿勢なのだ。

 よく登場するDONブログでは、 https://ameblo.jp/don1110/
 新型コロナは虚構であって、インフルエンザと変わらないとか、マスクは逆効果であるとか、PCR検査は何の役にも立たないとかの、まるでトランプそっくりの言説が目白押しだが、これらは、とんでもない妄説ばかりだ。

 新型コロナは、後遺症という観点で、これまでウイルスとは、まるで異なる危険性を持ったウイルスである。 
 それは、無症状で完全治癒したように見えながら、実は、激しく体内を蝕んでいて、やがて恐ろしい間質性肺炎を招いてゆく。若者でも同じで、生涯を束縛する疾病なのだ。
 https://www.chibune-hsp.jp/chibune_now/%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%AE%E6%B5%81%E8%A1%8C%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8/

以下引用 【感染者数が増加する中で、重症化のリスク以外にも恐ろしいことがあるということが分かってきました。
 新型コロナウイルスに感染した人の87%が感染から回復後に倦怠感や発熱、呼吸難や嗅覚・味覚異常、胸痛、頭痛などの何らかの後遺症を生じているというのです。特に肺に起こった線維化は間質性肺炎の形でほぼ生涯に渡って残り、日常生活に大きな支障を生じうるというのです。これでは社会復帰も困難になります。】

 私も苦しんでいる間質性肺炎は、IPFという肺線維症に発展した場合、10年生存率0%という致死的疾病である。インフルエンザのもたらす肺炎とは訳が違う。

  https://www.katoiin.info/blog/2020/05/post-89-735448.html

 https://www.jrs.or.jp/modules/covid19/index.php?content_id=1

 「タダの風邪」と決めつけたトランプの軽薄を追うのはいいが、もしも、そんな嘘に欺されて、新型コロナがとるに足らない病気であると宣伝したなら、そのカルマは大きいぞ。
 私自身、感染したら即死亡という恐怖に怯えて生活するしかない状態なのだ。

 そもそも「マスクには感染防止の効果がない」と主張するにいたっては、脳味噌の正常性を疑う。もう一度幼稚園から勉強しなおしたらどうだ?
 マスクは、ウイルスの含まれた空気を物理的なフィルターによって濾過し、ウイルスを削減する効果がある。100%完全でないにしても、極めて少ない数に抑えれば、あとは吸引しても健全な免疫系が体内感染を阻止してくれる。

 日本で新型コロナウイルス感染割合が、アメリカの30分の1以下に抑えられている事情の、最大の立役者がマスクであり、世界的に高い着用率である。そもそも、日本のマスク備蓄率は、世界最大だった。日本ほどマスクが普及していた国は他にはない。

 「マスクはウイルス感染に効果がない」とする説には、何一つ科学的根拠がなく、物理学の基礎知識さえ存在しない妄想レベルにすぎない。
 たぶん、生活に邪魔だという理由で「効果がない」と決めつけているにすぎない。

 「PCR検査には意味がない」という主張も、マスク無用論と同様に愚かな主張だ。
 日本のPCR検査の精度は99%を超える。ただ、ウイルス採取の技術が未熟だったため、初期に総合的な精度が落ちることがあった。唾液法になってからは精度が高いので、問題は解決されている。

 政府がPCR検査を抑制している本当の理由は、感染初期に、費用をケチって、大規模集中検査を拒否し、愚かなクラスター探索に無駄な労力を費やし、それを批判されると、官僚がメンツを守り自分たちを正当化したいために、さまざまな屁理屈を垂れ流したにすぎない。
 官僚は、自分たちの失敗を絶対に認めず、どこまでも正当化することだけに固執する特異な生物なのである。

 だが、PCR検査を大規模に、ローラー作戦で実行した、韓国やニューヨークでは、大きな成果が出ている。日本でも、PCRローラー作戦を実施し、安全地帯を作っておけば、今の感染爆発は存在しない。
 
 11月後半現在、「第三次感染爆発」とマスコミが騒いでいるが、実は、見かけの現象的増減にすぎなくて、原因は政府の馬鹿げた「gotoキャンペーン」のせいであることは疑いようがない。
 これは、自民党議員が自分の支持基盤である、観光業界を救済するため、後先を考えずに強行した結果なのだ。

 本当をいえば、まだ第一波のなかにあって、ウイルス感染が拡大し、ウイルス自身に突然変異が起きて、感染率や毒性が飛躍的に上がったときが、本当の第二波である。
 スペイン風邪のときも、突然変異を繰り返したRNAコロナウイルスが多様化したことで猛毒変異を起こし、それが世界人口20億人のうち1億人を殺したのは、発生から二年後だった。

 RNAはDNAの1000倍のスピードで突然変異する。だから、感染が拡大するうちに、激しく変異し、数百種類ものウイルスが登場してきて、その交叉により、さらに多様な変異が起きる。
 その中に、超絶的な毒性を持った変異株が登場し、感染率も兼ね備えることで、圧倒的に突出して、凄まじい感染爆発=パンデミックを起こすのだ。

 こうした猛毒ウイルスが登場するのは、多様化から必然であって、避けることはできない。私は年末、12月にも、それが登場すると予想していた。
 そのときが、私の最期だと……。もしかしたら、世界中で数億人の死者が出るかも知れない。

 だが、スペイン風邪第二波の超猛毒ウイルスも、第三波に至って、やがて毒性を失って「普通の風邪」=H1N1亜型に変異し、嘘のように消えていった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/H1N1%E4%BA%9C%E5%9E%8B
 今回の新型コロナも、おそらく来年の末あたりには、嘘のように消えてしまうだろう。

 このときは、全面的ローラー作戦によるPCR検査だけが命綱となるにちがいない。何よりも、安全地帯を確保することが大切なのだ。
 問題なのは、スペイン風邪が、絶海の孤島や、文明と隔絶された未開民族にまで感染を拡大したことで、これは長寿命の空気感染ウイルスの出現がなければありえないことだ。

 こうなると、マスクは、ますます厚い、フィルター効果の高いものに変えねばならず、消毒に頼るのではなく、別の何かに救いを求めねばならなくなる。
 それは、私は「交叉免疫」と「自己免疫強化」だと考えていて、ワクチンの普及には期待していない。

 ワクチンは、製造そのものは難しくなく、数ヶ月で完成するが、副作用がもの凄いので、「安全なワクチン」というのは、一般的なワクチン開発とは別次元にある。
 「ほぼ絶対的な安全ワクチン」を開発するには、おそらく10年以上の期間がかかる。
 だが、できたときは、肝心のウイルスは変異してワクチンに適応しないか、または消えてしまっているのだ。

 今回、ファイザーやモデルナのワクチンは現段階では優秀らしいが、本当の第二波、第三波が展開されるであろう変異ウイルスに有効かどうかは、まったく分からない。
 そもそも、アメリカワクチン業界では、軍事技術として開発されてきたので、部隊の戦闘能力を守るという立場から開発されていて、長期的安全性が確保されているわけではないと理解すべきだ。

 巨大な変異力を持つRNAウイルスに立ち向かえる人類の叡智は、まだ成立していない。
 新型コロナウイルスの本当の姿は、まだ解明されていない。絶対に安全なワクチンもできていない。新型コロナウイルスは、まだ10年先に、恐ろしい結果を示すかもしれない。若者たちにIPF肺線維症を大規模に拡大する可能性がある。

 今の段階で、マスクに効果がないとか、PCRは馬鹿げているとか言っている連中には、知性が存在しないと断ずるしかない。
 

 洗脳された虚構の価値観にしがみついている人たち

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 我々の世代より前の世代、団塊世代よりも上の人々に共有された価値観は、「立身出世、末は博士か大臣か」が至上の価値で、みんなが上を向いて地位や蓄財の競争することだけがが正当であるかのように思い込まされていた。

 そうして共有された価値観から外れて、自分個人の自由な価値観に生きようとすれば、社会のどこででも「奇人変人・異端者」と決めつけられて、既存の秩序からつまはじきにされた。

 例えば、性的マイノリティ=「トランスジェンダー」とか「オカマ」とかの類いは、昔から必ず一定数いたが、彼らが人間にふさわしい尊厳を与えられたかというと、普通はゲテモノ扱いされて気味悪がられるのがオチだった。
 今では、これが前世からのジェンダー適合不一致の霊的問題であることを知る人も増えたが、多くの場合、見るからに男性が女装して歩いていたなら石でも投げつけられかねないのが現実である。

 人々は、「共有する価値観の縄張り内で、自分の理解できないものを排除しないと怖くて仕方ない」という習性を持っていて、普段は、誰に対しても優しい女性ですら、初めてオカマを見ると拒絶反応を示して、誣告、投石でもしかねない。

 西日本には、1960年代くらいまで「夜這い」の習慣があった。
 http://oohaman5656.hatenablog.com/entry/2015/12/08/120000

 これは2500年前、上海近郊の蘇州にあった呉という国が越に戦争で敗北して、国ぐるみ皆殺しにされるというとき、水郷地帯だった呉の人々は、船で脱出し、朝鮮南岸や南西諸島、九州に上陸移住したのだが、この人々が弥生人となった。
 この弥生人たちが、照葉樹林帯文化圏の風俗習慣を日本列島に持ち込んだ。そのなかに、歌垣とか夜這いとか、自由な男女の交際文化があって、とりわけ九州から瀬戸内沿岸に伝えられた風俗なのだ。

 ちなみに、彼らは「水の民」であり、瀬戸内など沿岸部に沿って文化圏を拡大した。しかし、平安時代には、四国山岳地帯、岐阜県内陸部(徳山村、白川郷)や静岡県沿岸にまで拡大したことが分かっている。
 これは、女性が13才くらいに初潮を迎えると、戸長が赤飯を炊いて近所に配る。これは「うちの娘に夜這いをかけてください」という意思表示である。

 ちなみに、夜這いは、茶室の原型である離れに娘を寝かせ、小さな「にじり戸」から村の若者が忍び寄ってゆく。このにじり戸こそが夜這い文化圏である。これは白川郷の合掌造りなど岐阜内陸部や岡山県などの古民家に普通に見られる。
 これが後に「茶室」の文化と融合した。

 誰でも忍んでよいわけではない。村の若者で、その娘をもらってよいと覚悟を決めた者だけだ。もしも既婚者が夜這いをかけようものなら村八分の制裁を受けた。
 娘が妊娠したなら、娘は自由に夜這いの若者から婿を指名できた。ただし子の父である必要はない。指名された婿が断ることは許されなかった。

 西日本の昔の田舎では、地位を誇る者は少なく、一種の共同体であり、生まれた子供は「村の子供」であり、遺伝上の父親が誰であろうと関係ない。「みんなの子」だったのだ。
 この習慣は、今の80才以上の西日本出身者なら誰でも知っていて、夜這いの経験のない者も少ないだろう。ただし、権力を我子に伝えたい者(武家)だけは、血筋を確定するために夜這いを避けた。

 だが東日本では違う。東日本では武家の文化が優位であり、個人ではなく家を守り受け継ぐために、父の血統が問題にされたから、夜這いなど、とんでもない破戒行為だったのだ。
 静岡県の島田市や金谷町は、幕府崩壊とともに旗本が移り住み茶の栽培を生業にした地域なので、武家の価値観が一般的だ。また旗本の子女、美男美女が多い。

 だが近い浜松では、弥生人気質の末裔たちが大昔から住んでいて、根本的に異なる価値観があって、夜這いをめぐって深刻な対立があった。
 島田市に移住した江戸旗本のなかでは、夜這いは破戒であり、許される習慣ではなかった。だが、先住民にとって、夜這いは常識的民俗なのだ。

 こうして、「夜這い」を巡って、西日本と東日本では真っ二つに分かれた評価が成立していた。西日本では、夜這いの体験から、男女の関係は頗る自由であり、親子の血統を気にする人も権力者以外、少なかったが、東日本では、個人よりも「家」を大切にする文化があり、これは儒教による序列や格差と結びついていたから、男女の関係は厳しいものだった。

 性風俗に厳格な東日本社会の人々は、トランスジェンダーの存在が許せないのだ。逆に、寛容な西日本社会では、性転換を見ても、それほど大きな抵抗が起きない。
 現実問題として性転換者は、やはり、東京圏の人が多いが、これは東京では比較的、多様で自由な価値観が受け入れられているからで、一般には静岡以西の弥生人地域である沿岸部出身者が多いと思う。

 性転換を否定する人々は、「家」を大切にする文化に洗脳された人が多い。
 幼い頃から、「家のために生きる」という価値観をゴリゴリとすり込まれるので、自由度の少ない思考法になってゆき、価値観に合わない異端者を迫害する者が多い。
 もちろん、最近は、とりわけ大都会では、メディアの影響で自由な思考法が浸透するようになっている。

 そのメディアだが、トランスジェンダー以外の価値観では、まだまだ儒教的な硬直が多分に残っている。
 今でも「他人を見下し、自分だけ権力や蓄財を勝ち取った者が勝者」という幻想は多分に生きていて、テレビドラマでも、池井戸潤の脚本が受けるのは、利己主義的な競争を主題にしているからだ。

 本当の意味での人生の勝者とは何か? と問われても、本質的な受け答えのできる者は非常に少ない。
 そんなものありゃしないとか、周囲の人たちを幸せにした者が真の意味での勝者だとか、序列や蓄財、差別から自由な思考法を見ることはとても希なことだ。

 これは何度も書いているように、徳川幕府の始まりに儒教朱子学が導入され、身分秩序(序列)と差別が人々を洗脳して以来、連綿と引き継がれてきた儒教社会の価値観であり、すでに幼稚園の頃から子供同士の競争が導入され、子供たちに順位をつけ序列化し、「下の者は上の者を尊敬し従え」という心理的洗脳が繰り返されてきたことによる。

 今、この社会で、若者たちが安倍晋三や菅義偉のようなクズに喝采を送る理由も、そうした競争主義の価値観を洗脳されて、無条件に受入れ、そうした価値観への同調圧力が作られているからである。

 今の若者たちは人に優しくない。とにかく他人に少しでも問題があるとみるや、寄ってたかって虐めて、相手が傷つくことを喜ぶような下劣な人間観を持っている者が少なくない。
 また差別も大好きだ。他人をリスペクトしない。逆に小馬鹿にすることで、自分の優位性に陶酔したいと思っているように見える。

 これは、もちろん、親が立身出世競争を強要し、自分自身が序列価値観のなかで虐められてきたからで、差別されてきた者は、それをやめさせようとするのではなく、自分が差別する側に立ちたいと願う。例えば、代表格が竹中平蔵だ。
 逆にイジメを受けない者は、イジメの加害者になりにくいのだ。

 私に対しても、相当にひどい誹謗中傷を繰り返している者がいるが、これも調べてみると、大半が、たくさんの人々から小馬鹿にされている者ばかりだ。本人は、自分の方が優越しているから、私をバカにしてもかまわないと信じているのだが……。
 なかには、他人に対する誹謗中傷だけが生き甲斐で、たくさんの怒りをかい、名誉毀損の賠償判決を数回も受けながら、自宅などを母親名義に換えて、賠償支払いを免れている者さえいる。

 この人物は、完全に自己撞着エクスタシーのなかにいて、他人をイジメ倒す快感だけに特化した狂人と定める以外にない。なお、この人物は、昔、同性愛専門のAV男優でもあった。
 自尊心と名誉欲が人一倍強いのに、それを自ら否定させ、自分を追い詰めてゆく愚行を繰り返している。もう病気というしかないだろう。

 今回の主題は、若者たちの価値観についてだ。
 
 若者たちの主要な価値観が、いまだに学歴社会の呪いを受け続けていることは間違いない。国立大卒とレッテルがつけば、中身のないクズでも周囲が持ち上げてくれて、就職でも有利になる。

 1980年代以降は、パソコン・ゲーム機の普及で、ゲーム価値観という新しい世界が確立されて、ここでは「ゲームの達人」が尊敬されることになった。
 今世紀に入って、コンピュータ知識が人の序列を決めると勘違いした若者たちが増えた。相変わらず儒教の序列主義なのだ。
 コンピュータは、それを操れるかどうかで、新しい序列価値観を生み出している。
 
 多くの若者たちが、序列にこだわりながら礼節を失い、知的優位に思い上がるようになった。
 ネット上のQ&Aを見ていても、知識の少ない人を罵倒し、小馬鹿にする若者が増えて実に不愉快だ。私の若い頃は、他人を小馬鹿にする者は少なかった。
 こんな若者たちが、ホームレスに投石したり焼き殺したりするのだと感じた。

 これは、時代が進みながら、儒教の序列差別主義だけが一人歩きをして、弱者、貧者に優しくない傲慢な若者を生んでいると思うしかない。
 とりわけ、コンピュータ操作による序列価値観は、人間性の著しく劣った者でも、コンピュータを操れれば、自分が他人に優越していると勘違いさせる妄想を生み出した。
 上に紹介した私への誹謗者も、自分が小さなプロパイダを経営したことで、自分が他人に秀でていると勘違いしてしまった愚かな人物なのだ。

 だが、本当に人々に必要な価値観は、コンピュータを操れることではない。最高の人間的価値は「他人に笑顔を与える」ことである。
 このことを理解できない者が、金儲けや技術や権力に夢中になって、利己主義の泥沼の中に溺れてゆく。
 底なし沼で溺れかけていても、「自分は優越している」と叫ぶことしかできない。

 こうした、新自由主義がもたらした拝金主義の価値観にどっぷり浸かった者たちが、理屈を述べて理解できるとは思えない。彼らは、行き着くところまで行き着かねばならない。
 社会の道理を理解できなければ、結局、地獄に墜ちてゆくしかない。

 洗脳された価値観の桎梏から解放され、自分自身で、何を選ぶべきか理解するためには、たくさんの失敗と、たくさんの経験を積まねばならない。
 他人に優越することだけを人生の目的にしている若者たちは、愚かな事故で人を死なせたり、重大事故を起こして取り返しのつかない障害を負ったり、たくさんの失敗を繰り返すことだろう。結局、この人生では、良いことなどひとつも起きないだろう。

 それでも来生には、今生の失敗を糧にして、カルマを解消してゆくしかない。
 

麻薬王 岸信介

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 麻薬王といえば、中国・満州・朝鮮で莫大な麻薬を密売し、巨額の利益を日本軍の戦費として調達したといわれる里見甫・二反長音蔵・岸信介があげられる。
 だが、岸信介に関しては、戦前の活動について徹底的に隠蔽され、彼の指揮下にあったアヘン密売は、ほとんど語られないし、文献から削除されている。
 おそらく実孫の安倍晋三一味がやったことだろう。隠蔽は安倍晋三の十八番なのだ。

 以下のウィキ解説にも、麻薬との関わりは一切出てこない。記述されても、編集後、いくばくもしないうちに身元不明の再編集が行われ、麻薬や戦前の活動が削除されてしまうのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B

 岸信介の正体を暴く記事は、ことごとくといえるほど隠蔽され歪曲され、戦後の首相としての活躍にすり替えられている。だから、この男が、戦前、いったい何をやった人物なのか、調査することが著しく困難なのだ。
 今回は、ネットに出回っている記事を、できるかぎり集めてみた。
 国会図書館と神田界隈古本屋を十日ほどかけて岸信介の資料を集めれば、真相に近づくこともできるだろうが、今の私に、そんな条件はない。

岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた? 魚住 昭
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49375

 安倍首相が心酔するおじいちゃん・岸信介の戦争犯罪! アヘン取引でブラックマネーを集め戦争を遂行 リテラ2015年8月16日
 https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_1396/

以下全文引用

 後世の歴史家たちはこの2015年という年をどう評価するだろう。「戦後70年」という節目の年に、先の大戦でA級戦犯の容疑がかけられた人物の孫が内閣総理大臣を務め、その孫は再び日本を"戦争のできる国"にしようとしていることを、だ。

 そう、今さら説明するまでもないが、安倍首相の母方の祖父は、昭和の妖怪と呼ばれた岸信介元首相だ。安倍首相は日ごろからこの祖父について、敬愛の思いを隠さず、"おじいちゃんコンプレックス"ともいえるほどの心酔ぶりを示している。

 安倍首相が集団的自衛権行使と改憲に向かってひた走っているのも、激しい反対の中、日米安保条約改定を断行したおじいちゃんを見習い、そしておじいちゃんのやり残した仕事をなしとげようとしていることが最大の動機になっているのは間違いない。

 だが、そのおじいちゃんは、戦後、内閣総理大臣をつとめただけの人物ではない。戦時中、東条英機首相(当時)率いる内閣の閣僚として戦争遂行の一翼を担い、一時は「A級戦犯」容疑者として拘留されていた戦争犯罪者でもある。

 いったい岸信介とはどんな人物だったのか。戦時中、何をしたのか。終戦から70年、もう一度、おさらいしてみよう。

 岸信介は日清戦争が終わった翌1896年、山口県に生まれた。元首相の佐藤栄作は実弟だ。兄弟の父は岸家の人だが長州藩士に連なる佐藤家の娘と結婚したため、佐藤家の分家の形で佐藤姓を名乗った。中学生のときに岸が父の実家である岸家に養子入りして、「岸信介」が誕生する。

 地元の高等小学校を卒業した後、名門岡山中学から山口中学に転校し、いずれも首席を続けた。東京帝国大学入学後も、後に民法学の大家となる我妻栄と首席を分け合う秀才ぶりだったという。
 卒業後の岸は商工省の革新官僚として統制経済(経済・産業を国家の統制下に置こうとする社会主義的政策)の旗手となるが、それは国粋主義を唱える大学の恩師、上杉慎吉と大アジア主義(日本を盟主とするアジア諸民族連帯の思想)の大川周明、国家社会主義の北一輝の強い影響だったと言われている。

 若手官僚として頭角を現した岸を一気に飛躍させたのが1936(昭和11)年に満州官僚へ転出したことだった。満州国という実験国家を自らの「作品」と呼び、実質的な最高首脳の一人としてソ連の計画経済を模した統制経済(産業開発5カ年計画)を強力に推進することになる。同時にそれは、岸が戦争に手を染めるきっかけにもなっていった。

 わずか3年の在任だったが岸は満州で3つの"財産"を手に入れている。統制経済による国家経営のノウハウ、東条英機(当時、関東憲兵隊司令官)を筆頭とする関東軍人脈、そして湯水のごとく使える金脈だ。岸に関する評伝、研究書は数多あるが、いずれも明確に指摘しているのが、後に東条英機を宰相にまで持ち上げたのは岸の資金力があったからだ、という事実だ。

〈のちに東京に帰った東条が陸軍次官、陸相、総理へと中央の階段を昇り詰めていくにつれ、今度は岸が集金力にものをいわせて、東条に莫大な政治献金をした〉(太田尚樹『満州裏史』講談社文庫)

 岸と東条は満州時代に公私に絆を深めていく。毎日新聞記者の岩見隆夫氏が書いた『昭和の妖怪 岸信介』(中公文庫)には、満州事情通の小坂正則の次のような証言が紹介されている。

「岸さんは日本に帰ってきてから、ずいぶんと東条さんのために政治資金をつくってやった。翼賛選挙でも莫大な選挙資金を必要とするのに、首相である東条さんはああいう男だからカネがない。そこで岸さんが鮎川に頼んだ。鮎川は日産の株を満州投資証券へ譲渡する時、七千万円、確かな数字ではないが、そのぐらいを浮かせて鮎川の財団である義済会にプールしてあった。このうち三千万円ほど抜いて岸さんに渡し、岸さんはこれを東条に回してやったりした」

 ここで出てくる「鮎川」というのは日本産業(日産)財閥の総帥で岸の遠縁に当たる長州出身の鮎川義介のことだ。岸は日産を満州に誘致し、南満州鉄道(満鉄)に対抗する満州重工業開発(満業)を設立させた。
 一方、当時の満鉄総裁は岸の母方の叔父に当たる松岡洋右(後の外相)で、このふたりが表向きのスポンサーだったと言われているが、実はそれだけでは説明がつかない。

 岸に長時間インタビューをした岸研究の第一人者、東京国際大学名誉教授の原彬久氏は『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書)でこう書いている。

〈巨額のカネを動かして人脈と権力を培養し、人脈と権力を動かしてカネを集めるという手法はまぎれもなく岸のものだったのである。(中略)
 当時、岸の部下であり、戦後明治学院院長となる武藤富雄は、次のように回想している。
「私は岸さんから毎月二〇〇円(現在の約二〇万円)の小遣いをもらっていたことを覚えています。当時の満州といえどもカネの使い方は予算で決まっていましたから、領収証のとれない使途不明のカネを自由に捻出することは、たとえ総務庁次長でもそう簡単ではありません。
 私は毎月二〇〇円ものカネをポンと渡してくれる岸さんをみて、『これはなかなか豪気な人物だな』と思うと同時に、『何かの名目をつけて、ある程度のカネを自由に使う方法を知っているんだな』と感じました」
 岸は同僚官吏はもとより、民間人、それもいわゆる満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えていたといわれる〉

 資金の源は何だったのか。多くの研究者やジャーナリストが指摘するのがアヘン取引による利益である。
 当時の満州国は表向きはアヘン吸飲を禁じていたが、満州専売局を通して登録者に販売できるシステムを採っていた。事実上、野放しだ。にもかかわらず一方で売買が禁止されているため、価格は吊り上げ放題で、巨額の利益が上がる仕組みになっていた。

 満州を抑える関東軍はこの収入に目をつけ満州国の西隣りに接する中国熱河省へ侵略の兵を進めた(熱河作戦)。熱河にはアヘンの原料となるケシ畑が広がっていたからだ。「満州の背後を固める」というのは口実で、アヘンを求めての進軍だったというのである。消費地も満州国内だけでなく北京、上海、広東、厦門へと拡大していった。

 こうして得た莫大なアヘンマネーを岸ら首脳陣は、国家経営や戦争遂行、謀略工作に回す一方、一部を私的に着服していったという。

 近衛文磨の女婿で細川家の当主に当たる細川護貞氏(細川護煕元首相の父)が戦時中、裏の政治情報を日記の形で残していて、岸関連の書物にたびたび引用されている。1944(昭和19)年9月4日付の記述はきわめて示唆的だ。岸に関する部分を抜粋する。

〈岸は在任中、数千万円、少し誇大に云えば億を以って数える金を受け取りたる由、然もその参謀は皆鮎川(義介)にて、星野(直樹)も是に参画しあり。結局此の二人の利益配分がうまく行かぬことが、(東条)内閣瓦解の一つの原因であった〉(『細川日記』中央公論新社)

 星野直樹は大蔵省から満州に派遣された官僚で岸の上司に当たる人物だ。当時の数千万円といえば、いまの数百億円に匹敵する。これだけでも驚くが、同年10月16日付の箇所にはこんなことも書かれている。

〈朝、K君を訪問、談たまたま東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直ちに重役以下釈放となりたることあり。是はその金が東条のものなりしを以ってなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条にしばしば金品を送りたるを知り居るも、おそらく是ならんと〉(同)

 要は、アヘン利権を巡って岸や東条を始めとする満州人脈が複雑に絡み合い、時には利益分配で揉め事も起きていたということである。そして、岸はそこから少なく見積もっても数千万円、"少し誇大にいえば"億単位のカネを手にしたというわけだ。

 ところで10月16日付の『細川日記』に出てくる「里見某」は、里見甫という元新聞記者で、中国に渡って里見機関という特務機関を率いていた。実態は、陸軍の依頼でアヘン取引を扱うブローカーだ。中国では「アヘン王」の異名で知られていた。

 1948(昭和23)年2月の極東軍事裁判(東京裁判)の法廷でA級戦犯被告となった星野直樹の国際検事団による罪状朗読の中に「一九三八年(昭和十三年)から一九四五年(同二十年)まで、北支派遣軍の特務部の下で、中国においてアヘン作戦を実行した証人サトミは、一九四〇(同十五年)まで彼によって販売されたアヘンは、ペルシャ製のものであったが、その後彼は満州産アヘンを販売したと証言した」とのくだりがあるほか、里見とアヘンに関する証言は数限りない。

 その里見の墓が千葉県市川市の総寧寺という寺にあるが、墓碑銘を揮毫したのは誰あろう岸信介その人だった。「アヘン王」里見と岸の浅からぬ関係を示す証拠のひとつだ。

 満州国のアヘン政策は日本軍の戦争遂行資金に深く関わっていた。それどころか、陸軍が中国大陸を深く侵し続けた理由のひとつにアヘン利権拡大の側面があったことは見逃せない。

 こうしたシステムを動かしていたのが、岸ら満州官僚であり、ここから吸い上げられたカネが対米主戦派の東条英機を首相に就任させる原動力になっていたという構図である。それだけではない。「満州は日本の生命線」とは岸の叔父、松岡洋右が初めて唱えたスローガンだが、実際にこの言葉を用いて日本を戦争へと導いたのが岸だった。

 満州着任後、岸は産業開発5カ年計画の実行を進め、日産の誘致にも成功し、裏ではアヘン政策を拡大させたが、それでもまだ満州国の経営資金は足りなかった。そこで岸が打ち出したのが、日本が戦時体制にあることを最大限に利用することだった。岸は日中戦争が始まるや「戦略・兵站基地満州」を前面に押し出すことによって、5カ年計画への資本導入を日本政府に強力に働きかけたという。岸にとっては持論の国家統制経済遂行のまたとないチャンスだった。前出の原彬久氏は前掲書でこう書いている。

〈日中戦争、いや日中戦争ばかりでなくそれに続く太平洋戦争への道は、国家主義者岸信介にとってはそれほど不都合な時代状況ではなかった。それどころか、岸にとって日本の戦時体制は、ある意味では自らの野心と才能を時代に投影し検証していく格好の機会となっていくのである〉

 だが、岸が信奉した統制経済は満州国が掲げた「五族共和」を実現したとは言い難い。東京裁判の証言台に立った元満州国皇帝、溥儀はこう証言している。

〈溥儀証人 専売されていた最も主なものはアヘンでした。その他、例えば綿花とか糧食というような種々雑多なものが専売されておりました。統制経済が行われてから一切の物資は日本人によって接収されて、鉱業あるいは工業などは全部日本人によって統制され、中国人は経営することができなくなりました。

 検事 綿布統制法は実際的に、強制的に実施されたものですか。

 溥儀証人 これらの統制法は全部実施されて、その結果中国人は冬になっても綿や綿布を手に入れることができなくなったために、寒さで多くの人が凍死し、あるいは病気になるような状態でした(後略)〉

 岸が在満時代に入手したアヘン金脈と人脈をフルに使って東条内閣をつくり上げたことは前述した。帰国後、岸はその東条内閣で商工大臣として、あるいは軍需次官として東条とともに対米戦争を指導していくことになる。岸が内地で辣腕を振るったのも統制経済の実行だったことは言うまでもない。再び、原氏の前掲書より引用する。

〈岸が、まず最初に考えたことは、「日本の置かれている情勢から、国防産業を中核として国防国家を考えなければいけない」ということであった。つまり、「国防国家」実現のためには「国民生活がある程度不自由になってもやむを得ない」ということである〉

 こうして日本はドロ沼の日中戦争から太平洋戦争へと転げ落ちていくことになる。そして岸は、その戦争遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を国家が統制運用できる国家総動員体制、国家統制による軍需生産増進、大東亜共栄圏の自給自足体制確立など戦時経済体制推進の先頭に立って旗振り役を務めていた。当然、戦争責任を問われても不思議はない。

 ところが岸は、満州時代の盟友東条英機、松岡洋右、星野直樹、鮎川義介らとともにA級戦犯容疑で逮捕されるが、不起訴処分によって釈放される。なぜ、岸は戦犯被告から逃れることができたのか。それは、今、安倍首相が安保法制を強行しようとしていることと、根っこのところでつながっている。次回は、この昭和史の謎に迫ろう。(野尻民夫) *************************************************************
 引用以上

 ここでは、岸が核心的に関与した、朝鮮の昭和通商について書かれていない。また二反長音蔵も出てこない。岸信介と昭和通商の関わりについては、私が20年前に調べた情報の大半がネット上から消されている。

  岸信介の「作品」 アヘン中毒の悲惨な実験国家 2013.5.11 11:30週刊朝日
  https://dot.asahi.com/wa/2013051000039.html

 以下引用

 「革新官僚」として統制経済を唱えた戦前の岸信介は、満州国という実験国家を自らの「作品」と呼ぶ。しかし、満州国のベールをはぎ取った実態は、戦費のために人々をアへン中毒に追い込み、ぼろぼろにする悲惨なものだった。

 岸が満州国の実業部総務司長に転出したのは1936年10月。翌年には産業部次長兼総務庁次長に昇進、満州国の実質的な最高首脳のひとりとなった。最高首脳として推進した政策は、産業開発5カ年計画の実行と日本産業(日産)の満州国誘致だった。

 岸は遠縁に当たる日産の総帥、鮎川義介(よしすけ)を説得するために、軍用機を使って満州国の新京と立川飛行場の間を往復した。鮎川は、日産コンツェルン全体の満州国移駐を決め、満州重工業開発(満業)を誕生させた。満州国経済は文字通り、岸の「作品」となった。

 しかし、5カ年計画や満業が「作品」の表の顔だったとすれば、裏の顔はアヘン政策だった。岸は「満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった」と言っているが、実態とはかけ離れている。

 ここで、「アへン王」と呼ばれた男、里見甫(はじめ)の証言を聞いてみよう。

 1946年3月1日、里見は、国際検察局(IPS)に逮捕された。IPSは極東国際軍事裁判の法廷に、日本最大の戦争犯罪のひとつであるアヘン政策を告発するために里見の身柄を確保、同月5日から尋問を始めた。尋問にあたったのはIPS検察官のウィリアム・ホーナディ陸軍中佐。

 筆者は、ワシントン郊外にある米国国立公文書館別館を訪れ、同館所蔵の里見尋問調書全文を入手した。

 調書の中には、尋問中に里見が書き、IPS速記タイピストがタイプし直したチャート図が1枚あった。まさに「アヘン王」自らが示す中国大陸アへン流通の概略図だ。

 図を解読してみると、アへンは満州国と蒙彊(もうきょう)政権管内で生産され、北京と上海を中心に広東、厦門(アモイ)、関東州、日本で消費される。この流れを東京・霞が関で監督しているのが、1938年に設置された興亜院だ。

 アへンは芥子(けし)の実から採れる。原料アへンからモルヒネやヘロインができるが、原料アへンを少し加工したものでも、その煙を吸うとあらゆる苦痛が鎮まり、多幸感が得られる。アへン吸飲は容易に中毒となる。アヘンが切れると中毒者には厳しい禁断症状がやってくる。その苦痛のために気絶することもまれではない。このため、中毒者は妻子を売ってまでしてアヘンを手に入れようとする。アヘン売買はまちがいなく大きな儲け口になる。

 満州国はアヘン吸飲を断固禁止する政策を採らず、登録した中毒者には販売する漸禁政策とアへン専売制を採用した。しかし、登録制度は機能せず、だれでもアへンを買えた。戦前日本のアへン政策を追究した元愛知大学教授、江口圭一の『日中アへン戦争』によれば、満州国のアヘン専売利益金は、岸が赴任した1936年度には全歳入の5.0%だったが、岸が帰国する1939年度には5.6%にまで伸びた。
※週刊朝日 2013年5月17日号

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 引用以上

 上の記事では、岸や里見が扱ったのは「アヘン」であるとしているが、実態は違う。
 二反長音蔵という天才麻薬技術者が日本軍に協力するようになってから、アヘンは、「ヘロイン」にまで精製されて、完全な麻薬として密売されているので、岸や里見を「アヘン王」と呼ぶのは間違いであり「麻薬王」と呼ぶのが正しい。

 中国における麻薬精製工場は、北京郊外の通州にあった。ここで、アヘンはモルヒネやヘロインに精製され、電通や昭和通商を通じて東アジア全域に送られたのだ。

 通州事件~昭和史の謎を追う⑯
 http://kazurinn-2012.blogspot.com/2017/04/blog-post.html

 以下一部引用

 (通州の日本人)
 ところで通州の日本居留民はそこで何をしていたのか。彼らの中には密輸品や麻薬などの禁制品を扱うものが少なくなかった。冀東地区が緩衝地帯になってから、密輸品は大連から海路で運びこまれるようになった。

 そして冀東政権成立以降、「冀東特殊貿易」(1936年12月)という政策でピークを迎えた。すまわち「査検」のためとして国民政府の1/4相当の特別税を新設して密輸を合法化した。
 その税収は冀東政権の財政収入に匹敵する。のみならず国民政府の関税収入に大きな打撃を与えた。
 国民政府と中国人は国土を奪われることより、税収を盗まれることに怒りを覚えた。

 また熱河省のアヘンは坂田組のトラックで公然と冀東地区を通過した。山内三郎によれば、通州はヘロインの密輸基地の観を呈したという。「徴兵検査前の日本人の青少年がヘロイン製造と販売のいずれかにちょっと手を染めるだけで、身分不相応な収入を得ることができ」(山内三郎「麻薬と戦争」)、製造から中卸までは日本人が、小卸から先の販売はすべて朝鮮人が行っていた。

 「通州事件」は天津・北京では失敗したが、「「同時多発テロ」というべきものであった。上記のような日本居留民と、北京議定書や塘沽停戦協定に違反して駐留する日本守備隊がその標的とされた。然しこの保安隊の暴虐は後に「南京」で高い代償を払うことになる。

 日本の新聞は「通州事件」を「第二の尼港事件」として中国人の残虐性を呼号し、反中感情を煽った。鈴木茂三郎や神近市子の冷静な意見はあったが、それは少数に過ぎない。「通州事件」の遠因は支那駐屯軍の所謂「華北分離政策」の「空想性」の露呈に起因するのだが、日本国民の憤激は収まらなかった。「防支膺懲」と「抗日救国」の空疎なスローガンが飛び交い、停戦交渉は頓挫して、日中両軍は全面戦争に突入する。
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 通州事件とは?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 上の記事でも、通州基地が、麻薬製造工場であったことが、ほのめかされているが、ウィキの記述では、つい最近、麻薬製造に関係する大半の資料が削除された。この早業には驚かされたが、通州事件が南京大虐殺を招いた記述は残されている。
 文内、「麻薬汚染への報復説」参照

 以下一部引用 「南京大虐殺の原因」

 1948年、田中隆吉は『裁かれる歴史』で、1938年4月の初め、山砲二五の連隊長をしていたとき、三月の移動で咸興の歩兵七四の連隊長になり団隊長会議に列席するため羅南に来ていた長勇が自身を訪ね、「自分は事変当初通州に於て行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと喜んだ」、「自分は之に依って通州の残虐に報復し得たのみならず、犠牲になった無辜の魂を慰めたと信ずる」と語った、と主張した。

 1953年、滝川政次郎は、南京虐殺の原因として、「通州事件による中国兵の残虐行為が南京攻囲軍の将兵の間に知れ渡ったことも亦その一因がある。」と主張した。
 1958年、梨本祐平は「この時の通州守備隊は間もなく中支に移動した。南京の開城に参加し、有名な南京の大虐殺事件をひきおこした。

 このことは、あまり知られていないのではないかと思う。彼らは通州で言語に絶する中国軍隊の日本人の大量虐殺を眼の前に見て、憤怒の感情の消えていないままに、「通州の日本人を見ろ」「通州の日本人の敵討ちだ」と言いながら、虐殺の刃を指ったのだった。」と主張した。

 中村粲は「もし通州事件なかりせば、五カ月後の所謂南京事件は発生しなかつたであらうと考へてゐる。」、「済南事件や通州事件など、支那側による日本人虐殺事件がなかつたならば、"南京事件"はいかなる形でも起こらなかつたであらう」と主張した。

 秦郁彦は「事件の直後に華北に派兵された第一六師団 (京都) が南京虐殺事件の主役となったのは、通州事件に影響されたのではないかとの憶測もある。」と主張した。
 半藤一利は「通州事件でやられて、その後始末をした部隊が『今度は復讐だ。こんなことやられて黙っていられない』とそのまま南京攻略戦に入っていったから、虐殺を起こしたんだと」いう話を聞いたことがあるが、「どうもこれはデマらしいんです。」と主張した。

 太田尚樹は、「のちの南京事件も、通州事件の異常性が、兵士たちの心理に影響した可能性も否定できない。」と主張した。阿羅健一は、大西一が「長さんの話は話半分に聞いていいよ」と言っていたことを紹介し、通州の復讐だという話も面白く話したものの一つで、「通州事件があったから日本軍が南京で虐殺をやったことはないと言える」と主張した。
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 引用以上

ここには書かれていないが、国民党が通州基地に残虐な襲撃を加えた理由は、第一に、蒋介石総統が頭目を務めていた「青幇」=古い中国のヤクザ組織で、アヘン売買で収入を得ていた=の利権を、二反長が指導した「モルヒネ」製造販売によって侵したこと。
 モルヒネ精製基地だった通州が狙い撃ちにされたのだ。

 もう一つは、1937年7月7日盧溝橋事件が起きて、7月29日に通州事件が起きた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 日本軍の傀儡政権だった冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)は、実質、国民党支配下にあり、大半が青幇の構成員だった。彼らは、盧溝橋事件と麻薬利権侵害の両方への報復として、史上希な残虐襲撃を行ったと考えられる。
 命令したのは蒋介石しかいない。

 これによって、日本軍による中国人への扱いが変わった。第十軍司令官、松井石根は陸軍内でも親中国派で、孫文・蒋介石らとも交流があって、中国人への非礼な扱いを強く戒めていたが、松井は通州事件以降、陸軍内で孤立することになる。
 しかし、敗戦後、南京大虐殺の責任を取らされて処刑されたのは松井石根だった。

 岸信介は、こんな状況下で、満州と朝鮮における麻薬密売の総責任者、指令者となった。
 https://my8686.exblog.jp/31286456/

 だが、岸と昭和通商のかかわりをよほど消してしまいたい勢力(孫の安倍晋三)が、徹底的な資料削除を行っていて、当時の記録を参照することが困難になっている。
 現在、系統的に岸と昭和通商のかかわりを調べられる資料は非常に少ない。

 https://kichijoji.blog/history/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%80%9A%E5%95%86/

 ウィキからも昭和通商と岸信介の関わりが削除されてしまっている。昭和通商は、岸信介が作った巨大な麻薬密売組織なのだ。こうした編集改悪は、ほとんど安倍晋三が首相在任中に行われている。よほど祖父の悪行を知られたくないのだろう。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%80%9A%E5%95%86

 http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/17_colonial_morphine.html

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-6.html

 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=318203

 
 

 アメリカの大半で大麻が合法化されていること、日本にも合法化の大波が

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 「大麻合法」の州がアメリカで続出している事情 ついにニュージャージー州が住民投票で合法化 2020/11/1 東洋経済
 https://toyokeizai.net/articles/-/387609

 11月3日、アメリカ、ニュージャージー州で大統領選挙と同時に住民投票が実施され、同州では嗜好品としての大麻の使用が合法化されることになった。
 これまで同州議会では何度も法案が否決されてきた。今年は合法化支持者たちが、マイノリティが大麻の所有により白人よりも多く逮捕されているとして声を上げていた。

合法化決定により、ニュージャージー州ではその後のプロセスが始まるが、それは長く困難なものになるかもしれない。そこでは、大麻に関する統制や検査、免許の発行などに関するルールを制定し、免許に関しては、誰に何枚発行するかなどを決めることになる。

他州にも広がる合法化の波

また、近隣のニューヨーク州やペンシルベニア州は、ニュージャージー州での合法化によってさらに追い込まれることになる。
ニュージャージー州は全米で最大級の大麻市場になると予想されており、ニューヨーク州などで合法化に賛成する議員たちは、すぐに行動を起こさなければニュージャージーに負けてしまうというプレッシャーを受ける。

ニューヨーク州議会上院議員で、同州の大麻合法化法案の1つを起草したリズ・クルーガーは、州知事のアンドリュー・クオモと州議会議員にとって、ニュージャージーの住民投票が何年もの行き詰まりを打開するきっかけになるかもしれないと話す。

 私はニュージャージーに声援を送る」と、クルーガーは言う。「だが、ニューヨーク州も負けてはいられない」。彼女はマンハッタンを地盤とする民主党員だ。

 アリゾナ州とモンタナ州でも、嗜好品としての大麻使用合法化を問う住民投票が行われ、サウスダコタ州でも同様の住民投票が実施された。
 これらの州でも合法化が認められれば、大麻を医療的な理由なしに使える州や都市に住む人の数が、全米の人口の3分の1に達する
(編注:住民投票の結果、これら3州でも大麻使用が合法化された)。
 アメリカでは、8年前にコロラド州とワシントン州で初めて大麻の使用が合法化され、それ以降、ほかの州でも合法化が進んだ。

 ニュージャージー州の有権者の承認により、大麻の購入には6.625%の州税が課され、州内の自治体はさらに2%の税金を上乗せできることになった。
 購入できるのは21歳以上だ。しかし、これ以外の実施に関する詳細は、議会と大麻規制委員会でこれから決めていかなければならない。大麻規制委員会のメンバーは5人だが、まだ1人しか任命されていない。

 マサチューセッツ州では、有権者が大麻の医療用以外の使用を承認してから、最初の合法的な販売薬局ができるまでに2年がかかった。

 新型コロナによる財政難が背中を押す

 ニュージャージー州では、税収増と新規雇用の増加が期待されていることから、もっと動きが早まる可能性もある。同州では、9カ月に及ぶパンデミックで予算不足となっており、それを埋めるのに苦労している。大麻市場が確立されれば、年間に約1億2600万ドルの創出が期待できる。

 州議会上院議員で、元地方検事でもあるニコラス・スクタリは、長年、医療用と嗜好用の両方での大麻使用合法化を推進してきた。スクタリは、州内に9つある医療用大麻会社が、あまった大麻を嗜好品として販売できるよう、法案に最後の調整を加えているところだと言う。

 「医療用の大麻販売店が、ただちに一般の人たちに大麻を販売できるようにする法律を実現するため、すばやく動こうと考えている」とスクタリは言う。彼はユニオン郡を地盤とする民主党議員だ。「ニューヨーク州の人たちにも、ぜひ買いに来てもらいたい」。

 合法化を支持する人たちは、大麻に関する法律を修正する重要な理由の1つとして、人種間での逮捕率が大きく異なることを挙げる。ニュージャージー州では、黒人と白人の間で大麻の使用率はほぼ変わらないのに、大麻所持で告発される確率は、黒人が白人の3倍以上にもなっている。

 嗜好品としての大麻使用は、今回合法化された以外の州では、すでに11の州と首都ワシントンで合法化されている。昨年には、ニュージャージー州、ニューヨーク州、ペンシルベニア州、コネチカット州の知事がニューヨークで会合を開き、大麻政策の調整を試みた。なお、4人とも民主党員で、大麻の合法化を支持している。

 クオモは今年1月に、大麻の合法化が優先事項であると述べた。ニューヨーク州ではパンデミックにより財政が大打撃を受けて、新たな課税対象を探すべき理由が強まったが、クオモの発言はそのかなり前だった。

 かつてクオモは、大麻を「ゲートウェイ・ドラッグ(ほかの薬物への入り口となる薬物)」と呼んでいたが、著書の発売を宣伝した2019年10月のインタビューでは、ニューヨーク州が直面している財政危機によって、合法化に向けての勢いが強まるのではないかと話した。

 変化する争点

しかし、大麻合法化の議論は、財政問題を越えて大きく広がっている。

 かつて議論の中心だったのは、幅広く使われている製品への課税と統制から生じる金銭的メリットだった。しかし、いまでは人種的平等の問題が議論の中心となっている。2018年のアメリカ自由人権協会の報告によると、黒人は大麻の所持によって告発される確率が、同じ地域に住む白人に比べて3.64倍だという。

 この夏、警官によるアフリカ系アメリカ人殺害に抗議するデモが全米で展開され、それによって合法化推進運動の柱の一つが強化された。つまり、警官が薬物関連の理由で市民を足止めすることが減れば、暴力的な対立が生じる機会も減るということだ。

「これは明らかな勝利だ。私たちは人種的な正義というメッセージを打ち出し、それが成功につながることを示した」。こう話すのは、合法化を支援するグループの連合体を率いるACLUニュージャージーのエグゼクティブ・ディレクター、アモール・シンハだ。「私たちはいま、より公正なニュージャージーの未来に向かって歩んでいる」。

 住民投票を実施するという決定は、合法化法案の可決に何度も失敗したあとに下された。同州知事のフィリップ・D・マーフィーは自称「進歩的民主党員」で、大麻合法化を公約としてきた。

 2019年12月には、州議会上院で、わずか1票差で合法化法案が否決された。

 10月28日午後4時20分に、マーフィーはツイッターにメッセージを投稿し、有権者に合法化への支持を訴えた。4時20分だったのは、大麻文化では「420」という数字が好まれているからだ。
*********************************************************

 引用以上

 すでに大麻問題の欺瞞性について何度も書いてきた。
 大麻の毒性はタバコ以下といわれるのに、日本では、未だにまるでヘロインのような扱いを受け、吸引が暴露された芸能人は、多額の違約金を強要され、あらゆるメディアに寄ってたかって袋だたきに遭っている。

 大麻とは何か? 2018年06月22日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-391.html

 再び大麻問題 2019年05月26日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-755.html

 今回ニュージャージー州で合法化されたことには深い意味がある。実は、アメリカでは、大麻で逮捕起訴されるのは大半が黒人で、その割合は、黒人4に対して白人が1である。全米での人種構成比では、白人が約72%、黒人が13%なので、大麻取締法は、黒人弾圧の武器として利用されてきたといえるだろう。

 ニュージャージー州は、ニューヨークとフィラデルフィアに挟まれた、全米でもアメリカの文化知性を代表する州なので、この州が、黒人弾圧のためというしかない馬鹿げた大麻規制法を撤廃することには、「時代の進化・差別からの解放」という肯定的な意味がある。

 同時に、大麻の毒性が、ほぼタバコと同等か、それ以下であり、規制することに科学的、合理的理由が存在しないことが広く知れ渡ってきたこともある。
 日本で、大麻合法化が進まない最大の理由は、メディアが大麻の毒性に関する虚偽情報を妄信し、広く拡散し、大麻取締法で摘発された芸能人らを、寄ってたかってメディア上で迫害してきた愚かしい歴史がある。

 実は、日本の場合、異様なほど非科学的な大麻に対する偏見がまかり通ってきた事情の背後には、私は、戦前、世界の麻薬の9割を日本が密売して、超巨額の利益を東アジア侵略戦争に費やしていながら、日本国民に対しては、その秘密が漏れないように厳格に禁止規制を行ってきた事情があると考えている。

 日本政府の麻薬密売事業は、おそらく後藤新平から始まり、台湾で行われたのが嚆矢であって、1900年前後と考えられる。以来、敗戦の1945年まで、日本は世界一の巨大な麻薬密売帝国としてアジアに君臨した。
 こんな歴史がありながら、日本共産党が後藤新平の麻薬密売政策を糾弾、断罪しなかった理由は、実は、日本共産党の創始者のうち、佐野学ら複数が後藤新平の親族だったからだろう。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3

 日本政府・軍部は、戦争費用として麻薬密売を大規模に進めたが、この秘密がバレないよう、日本国内では麻薬使用を厳禁していた。
 だから、日本人は、まさか日本政府が極悪マフィアの麻薬密売総元締めであったことを知る者は、ほとんどいない。
 戦前の日本政府は、まさに麻薬王国、「悪の帝国」だった。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 麻薬(モルヒネ・ヘロイン)の原料はアヘンであり、二反長音蔵という天才麻薬技術者を得て、里見甫や岸信介が、ヘロインなどに精製加工した麻薬を、昭和通商や電通などの密売組織を通じて、中国・満州・朝鮮で密売した。
 この歴史的事実を隠蔽しようとして、ウィキなどでは、激しい編集合戦が起きていて、昭和通商が麻薬密売組織であった事実を記述すると、たちまち、それを消してしまう編集が繰り返されている。これは厚労省官僚が自民党の指示を受けてやっているのだろう。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%80%9A%E5%95%86

 日本国民には秘密にしてきたつもりでも、二反長の作った北朝鮮や満州における巨大なケシ畑や、モルヒネ・ヘロイン精製施設などは、日本人が管理したもので、帰還後、その秘密を知る者が多数存在し、日本の戦後は、凄まじいヘロイン中毒の嵐となった。
 https://www.arban-mag.com/article/50270

 日本におけるヘロイン精製は、星製薬(星新一の実家)を軸に、三共や武田など一流製薬会社の多くが軍部の命令によって手を染めていた。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/17_colonial_morphine.html

 私も、子供時代、近所の畑で、アヘンの取れるケシ坊主が栽培されているのを繰り返し目撃している。確か、痛み止めにケシ坊主の汁を飲んだような記憶もある。
 ケシ畑が見られなくなったのは、おそらく1960年代だろう。だが、そのときも、麻栽培は続いていて、日本中の田舎で麻(大麻)を見ることは珍しくなかった。
 鈴鹿などの廃村では、1990年代まで野生化した麻畑が普通に見られた。

 1960年代まで、日本では、ケシも大麻も、普通に栽培され、嗜好品として利用していた人も多数いた。大麻は日本人の歴史的な文化に深く溶け込んでいた。
 それが、GHQの指示を受けて1948年の旧麻薬取締法が成立し、1953年に新麻薬取締法が成立したものの、実際に、日本中の隅々まで麻薬植物の探索と廃棄が強行されたのは1970年前後である。
 理由は、おそらく山口組や稲川会など暴力団が資金源として麻薬密売に手を染めた事情があるのだろう。

 もう一つの重大な麻薬、覚醒剤についても、1951年に取締法が制定されたが、それ以前は、朝鮮特需などで、労働者を一日20時間も働かせていた時代があり、覚醒剤=メタンエタミン(ヒロポン)は必需品だった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%86%92%E5%89%A4

 実は、私が大型トラック運転手で全国を走り回った1970年代、東名のパーキングで寝ていると、夜中に男が忍び寄ってきて、「シャブいらんかね」と声をかけられることが珍しくなかった。
 タクシー運転手だった1980年代も、車庫の近くで、地元のヤクザ(山口組傘下)がシャブを売りつけていた。

 誰も信じられないかもしれないが、旅客機や軍用機のパイロットにとって、覚醒剤は必需品であり、軍組織や管理企業が秘密裏にパイロットに手渡していた。
 緊急事態で睡眠不足で叩き起こされたパイロットは、朦朧としながら操縦するため、事故を起こしやすい。
 一機数十億円の機体を破壊されることを思えば、シャブを与えることには大きな意味があったのだ。たぶん、今でも米軍パイロットには支給されているはずだ。

 よくJALなどのパイロットが飲酒過多で摘発されているが、これは会社がシャブ支給を禁止したためなのだ。シャブ無しに、パイロットが無事故で飛ぶことは無理筋なのである。相当昔に、東京湾に落ちた「逆噴射旅客機」のパイロットは、典型的なシャブ中の症状だった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA350%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

 こうして考えれば、麻薬は、メディアの大げさな拒絶反応がありながら、実は、日本人の生活に深く関与してきた。とりわけ、戦前の日本帝国は、まさに麻薬で成り立っていたというべきだ。

 そのうちで、もっとも毒性が低く、パーキンソン病をはじめ、たくさんの病気に著効を示す大麻を、まるでヘロインやコカインのように=蛇蝎のように危険視し、排除し、あまつさえ芸能人の人権を破壊するようなやり方を続けているメディアは、社会的犯罪者と断罪すべきだ。
https://medleaf.jp/cannabis-risk/

 今回、アメリカ51州のうち25州が、事実上大麻解禁となり、12州が嗜好品として合法化した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5e0111e3d252ce6d8e4013beb5122b258578a116

 実は、これは表向きの話で、実態はそんなものではない。1971年前後に、私が昭島市東中神にいたとき、立川基地は、今のようなテロ対策はなく、知人さえいれば自由に出入りできるほど緩やかだった。
 このとき基地内PX(売店)では、米国産品が並び自由に購買できた。そのなかに大麻タバコがあったのだ。

 基地内では、大麻タバコが自由に吸われていた。もちろん厳密には非合法なのだが、ベトナム戦争の渦中に、米兵に麻薬を禁止したなら、戦闘中、司令官が背後から撃たれる可能性があった。
 私も一度だけ、経験したが、吸っている内に、視界が緑色に染まり、実にゆっくりと時間が過ぎてゆくような印象だった。それだけのことだ。
 アメリカでは半世紀前から、戦争中は実質、兵士たちに麻薬解禁だったのだ。

 私は、大麻問題を本質的に解決するためには、日本の戦前の麻薬帝国ぶりを暴くことこそが必要だと考えている。
 日本の麻薬密売を支えた人物、後藤新平、陸軍統制派、石原莞爾、里見甫、岸信介、二反長音蔵らの研究を深め、電通、昭和通商の実態を完全に暴くことで、初めて麻薬の持つ意味、犯罪性、そして大麻取締法の無意味さが理解されるものと考える。

 アメリカ盲従しか知らない日本政府は、アメリカが解禁したのに、日本だけ厳格な取り締まりを続けることはできないだろう。
 もうすぐ、大麻が自在に吸引できる時代がやってきそうだ。

中国が本当に戦争を仕掛けるかもしれない

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   中国、「戦争準備」本格化 制服組トップ、態勢転換に言及 台湾などの緊張にらむ 11/16(月)
  https://news.yahoo.co.jp/articles/0b3a5520159b2cdc27f9165fd773b6da0c0c836c

  【北京時事】中国で先月下旬に開かれた重要会議を受け、中国軍が「戦争準備」の動きを強めている。

 制服組トップの許其亮・中央軍事委員会副主席は「能動的な戦争立案」に言及。習近平国家主席(中央軍事委員会主席)は、米国の新政権発足後も台湾や南シナ海をめぐる緊張が続くと予想し「戦って勝てる軍隊」の実現を目指しているもようだ。

 10月下旬に開かれた共産党の第19期中央委員会第5回総会(5中総会)は、軍創設100年を迎える2027年に合わせた「奮闘目標の実現」を掲げた。目標の具体的内容は明らかではないが、5中総会は「戦争に備えた訓練の全面的強化」を確認した。

 これに関連し、許氏は今月上旬に発行された5中総会の解説書で「受動的な戦争適応から能動的な戦争立案への(態勢)転換を加速する」と訴え、中国軍が積極的に戦争に関与していく方針を示唆した。

 国営新華社通信によると、陸海空軍などによる統合作戦の指揮、作戦行動などに関する軍の要綱が7日に施行された。要綱は軍の統合運用を重視する習氏の意向を反映したもので、新華社は「戦争準備の動きを強化する」と伝えた。
 党機関紙・人民日報系の環球時報英語版(電子版)は、今後の軍事演習では、敵国の空母による南シナ海や台湾海峡の航行阻止を想定し、海軍の潜水艦、空軍の偵察機や戦闘機、ロケット軍の対艦弾道ミサイルが動員されることになりそうだと報じた。

 また、人工知能(AI)などの新技術を使い米軍に勝る兵器を開発するため、軍と民間企業が連携する「軍民融合」がさらに強化される見通しだ。5中総会で採択された基本方針には「軍民の結束強化」を明記。5中総会解説書は「国防工業と科学技術の管理で軍民が分離している状況が見られる」と指摘し、国家ぐるみの兵器開発体制の促進を求めた。 
*************************************************************
 引用以上

 習近平は、数年前から2020年度中に台湾侵攻を行うと、事実上の政権公約を述べていた。
 https://www.sankei.com/world/news/171118/wor1711180016-n1.html

 今年に入ってから、ますます加速し、台湾侵攻を実現する可能性が高まるばかりだ。
 尖閣諸島に毎日のように軍事的強奪を前提に、領海侵入を繰り返している事情も、台湾侵攻のため、尖閣諸島に軍事拠点を建設する計画といわれていた。
 https://newsphere.jp/world-report/20200826-1/2/

 中国・習政権、台湾侵攻作戦を準備か!? 尖閣強奪“同時決行”も…防衛省関係者「異例の事態だ」 識者「中国のスパイ、日米分断に総力」2020.9.15
  https://www.zakzak.co.jp/soc/news/200915/pol2009150003-n1.html

 中国が、台湾侵攻を焦っている理由は、いくつかあるが、切羽詰まった事情としては、今年夏の蝗害や集中豪雨禍により、年末から来年の食料危機が避けられないことだ。
 中国には「民を食べさせることのできる政権は、どんなにひどいものでも支持されるが、食べさせられなくなれば、どんなに良心的政権でも倒される」という古い諺がある。

 「民衆を食べさせている限りは、どんな悪質な政権でも倒れることはない」
 近年、中国共産党が、法輪功やウイグルに対する凄まじい人権侵害や悪事を重ねていても、経済拡大によって、民衆がたらふく食べている限りは政権が倒れる心配はなかった。
 しかし、今は事情が違う。本当に中国国民が食べられなくなりそうなのだ。

 このことを習近平政権はよく知っていて、必死になって、「食料を節約せよ」の通達や、外国から大量のトウモロコシを買い集めたり、来たるべき食料危機への準備を始めている。
 https://www.dir.co.jp/report/column/20200910_010529.html

 だが、食料危機のスケールは、そんな場当たり的な対応で解決できるレベルではない。そこで、民が飢え始めれば確実に内乱が始まると予想し、「内憂を外患に置き換える」という方策を採り始めた。
 つまり、中国内部の食料危機による民衆の不満を、外国との戦争による大混乱のなかにすり替えてゆくというやり方だ。

 戦争ならば、国内の内乱を武力で踏みにじっても隠蔽しやすい。日本やアメリカに戦争を吹っかければ、米軍による爆撃は避けられず、たくさんの人が死ぬ。
 これは食料危機どころの騒ぎではないのだ。

 今なら、アメリカも日本も新型コロナ禍によって疲弊していて、中国が大規模に軍事侵攻をかければ耐えきれないだろうとの読みがある。
 また、バイデン新大統領? は、中国共産党と深い利害関係があって、中国による民主党への政治献金も莫大なものがあった。
 このしがらみによって、アメリカは中国の軍事作戦に二の足を踏むだろうとの読みもある。

 さらに、習近平という人物は、自分を毛沢東や始皇帝になぞらえる誇大妄想狂で、「偉大」と言われる功績を残したいと焦っている。
 習近平は、本来、中国共産党主席の任期を超えていながら政権を譲ろうとせず、共産党の秩序を破壊し続けているため、多数の敵を作っている。
 こうした状況を打開し、圧倒的な実績を作ろうとすれば台湾強奪しかない。
 https://www.youtube.com/watch?v=chu4zhEQtzM&ab_channel=%E7%9C%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%90%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%91%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3

 そんななかで、昨日公表された冒頭のニュースは、台湾侵攻が極めて接近したことを意味している。
 中国にとって最大の重荷は、アメリカと台湾の連携だが、そのアメリカで大統領選の帰趨が、トランプの抵抗によって混乱を極めていて、この時期に台湾に軍事侵攻をかけても、アメリカが、はっきりした態度を示せないという計算がある。
 「やるなら今だ」

 中国にとって、トランプ政権というのは、表向き、大げさなことばかり言うが、実際には、見せかけの人気取りと駆け引きばかりで、利権次第でどのようにも操れるという目論見があり、熱烈にトランプ大統領再選を願っていた。
 しかし、現実にはバイデン新大統領が濃厚になった。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76982

  バイデンは、息子のハンターが、中国にドロドロに引き込まれていて、もしも、中国との戦争になれば、ハンターを断罪しなければならなくなるが、それでも、人気取りのために中国を叩く道を選ぶのは確実であって、中国にとっては好ましからざる人物である。
 https://news.biglobe.ne.jp/international/1022/jbp_201022_7530410834.html

 もしも、中国が実際に台湾に軍事侵攻をかける素振りを見せれば、アメリカは、中国との全面戦争の決意を国際的に示すしかない。
 バイデン新大統領の最初の仕事が、中国との戦争ということになる。
 これが、どのようなきっかけから始まるかは、まだ分からないが、一つだけ、アメリカの常套手段として、必ず戦争相手国に奇襲攻撃させる陰謀を仕掛けるということだ。

 よく知られているのが、ベトナム戦争介入の口実としたトンキン湾事件で、これは完全にアメリカによる、議会を欺すための捏造、陰謀であったことが知られている。
 http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%9B%9E%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E6%B9%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 実は、真珠湾事件も同じだ。これはルーズベルトが、ニューデール大恐慌からの脱却を目指して、ケインズの助言を受け入れたことからだった。
 ケインズは「戦争が経済を回復させる」と言った。ルーズベルトは、この指摘に乗り、日本への石油輸出を停止するなど、対米開戦させる陰謀を行った。

 開戦の契機である真珠湾への攻撃は、アメリカによって完全に掌握され、湾内にいた新鋭空母のエンタープライズは直前に逃げた。老朽戦艦であるアリゾナには、アメリカ全土から「不良兵士」が集められていた。
 日本軍が奇襲攻撃をかけて撃沈させた戦力は、ほとんどがアリゾナのような老朽艦だった。
 しかし、数千名の乗組員が死亡した事実だけがメディアによって大宣伝され、米国議会は激昂し、日本への対戦機運を盛り上げた。

 2001年に起きた911テロ事件も同じだ。これはイラン・イラクを「悪の枢軸国」と決めつけたブッシュ路線により、モサドが、航空機をハイジャックしてツインタワービルに突入させ完全破壊した大げさな演出により、全国民にアラブへの敵対心を洗脳し、後にイラク侵攻を行う段取りとしたのだ。

 これが完全な演出、自作自演の虚構であることは、旅客機が突っ込んだとされた国防総省の被害がデマであったことから世に知られることになった。
 https://www.youtube.com/watch?v=It-al4YXydA&ab_channel=meukokoro

 アメリカを支配しているのは、少数のユダヤ人特権階級である。アメリカの資産の95%は、ユダヤ人のものといわれている。大統領も大半にユダヤ人の血が流れているといわれる。
 https://www.diamond.co.jp/_itemcontents/0201_biz/17057-6.html

 ユダヤ教徒は、13才までに旧約聖書トーラー五書を全文暗誦し、ラビの前で一字一句の間違いもなく語る義務を負っている。これを行わなければ成人と認められないのだ。
 トーラーのなかには、人を欺く陰謀で目的を遂げる話がたくさん出てくるが、代表的なものが、創世記34章だ。
 娘のデナが、地元の男に強姦されたシケムは、一計を案じて、相手の一族の男に割礼を求め、その痛みのなかを襲撃して皆殺しにする陰謀話が出てくる。
 https://shinozaki-baptist.jp/ms-video2/2002%E5%B9%B411%E6%9C%8813%E6%97%A5%E7%A5%88%E7%A5%B7%E4%BC%9A%EF%BC%88%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%9834%E7%AB%A0%E3%80%81%E3%82%B7%E3%82%B1%E3%83%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E3%83%99%E3%83%86%E3%83%AB%E3%81%B8/

 旧約聖書の創世記に描かれていることは、ユダヤ民族への預言であり義務である。聖書が陰謀による皆殺しを教えている以上、これを忠実に実現するのがユダヤ人である。
 アメリカを支配するのがユダヤ人であり、シオニズムを信奉するのがプロテスタント福音派であることにより、アメリカが陰謀国家となっているのである。

 この意味を理解していれば、中国との戦争においても、アメリカは必ず、中国に先手攻撃させ、その被害を大宣伝して、議会に核ミサイル使用を決断させることが分かるはずだ。
 私は、このとき中国のIT・AI兵器を無力化するためのEMP爆弾が使用されると予想している。これは、すでに地球上を周回している軍事衛星によって行われるだろう。

 なお、中国は、食料危機を前提に、軍需物資としての穀物備蓄も進めるはずなので、本当に米中戦争が勃発するならば、必ず、世界市場における穀物価格が暴騰してくるはずだ。
 米・麦・トウモロコシなどの価格が、信じられないほど暴騰する可能性がある。
 畜産飼料は、大変な事態になるかもしれない。

 

一晩苦しんでも何も得られなかった

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 一昨夜の夜半、突然、腹痛が起きて、症状としては10年ほど前から頻繁に起きる腸閉塞に似ていたので、早速、強制排便をかけたりしたが、一向に腹痛が治まらない。

 私が腸閉塞を起こす原因は複数あるが、一つはエダマメ・落花生・コーン缶詰を大量に食べたりすることで、これが腸内でカタマリを作って移動しにくくなり、栓ができたような状態となり、腸閉塞の症状が出る。
 あとは締め鯖のアニキサス症やホタルイカの線尾線虫、鱒寿司からサナダムシが入ったときなどだ。

 とりわけ生ホタルイカを食べると、ほぼ確実に寄生虫にやられる。
 https://schoowell.jp/plus/spiruria/
 私は、安いこともあって、ホタルイカ刺身が好物だった。
 だが、症状は似ているものの、今回は時期が異なるし蛍イカも食べていない。

 しかし思い出してみると、5日ほど前に、田瀬の三河屋で、ワタ付き、カワハギ刺身を買って食べていた。
 田瀬三河屋は、月曜定休日なので、日曜の17時過ぎに半額値引きサービスで生ものの売り尽くしバーゲンをやり、賑わう。

 今年の夏過ぎから、この時間帯は、主婦によって凄まじい争奪戦が繰り広げられるようになり、5時5分前には店に入っていても、店主が半額シールを貼った瞬間に女性たちが奪うように持ってゆく。
 たぶん、コロナ禍で、主婦層の懐具合が悪化しているのだろう。以前は、余裕を持って買えたのに……。

 これで目を付けていた鶏肉が買えずに、悔しくて、勢いで半額のカワハギ刺身を買ってしまった。
 当地は、内陸部なので海の魚を知らない人が多く、売れ残ったのだ。もしかしたら、肝に寄生虫が入っていたかもしれない。

 いずれにせよ、発症から30時間以上経た今も、腸内に激痛が走ることがあり、こうなると、ネットで情報収集していても、なかなか集中できないので、昨夜は、とうとう半年ぶりに休載してしまった。

 60才を過ぎたころから、腸閉塞が起きるようになったのだが、同時に、嚥下機能が衰えて誤嚥を起こすことが増えた。
 もう一つは「追っかけ漏れ」だ。尿の切れが悪く、完全に排尿したつもりでも、しばらくして漏れてくるので、尿漏れパッドを、いつもパンツに貼り付けていなければならない。

 こうした現象は、誰にでも起きてくる老化現象の一種で、上記の症状に完全に無縁という人は滅多にいないだろう。
 私は間質性肺炎を患ってから、呼吸トレーニングを目的に、毎日1時間半、標高差200メートルの昇降散歩をもう数年以上続けているのだが、そんな運動をしていても情け容赦なく老化現象が追いかけてくる。

 体の機能の衰えだけならいいのだが、何よりも目や脳がやられてくることで、文章にミスが頻発し、前後関係の論理性が不明瞭な文章ばかりになり、本当に困っている。
 私は、若い頃から、分かりやすい文章を書いている自負があったので、支離滅裂な文章しか書けなくなるのは悲しい。

 この文を書いているうちに便意が起きてトイレにゆき、かなり楽になった。
 今日は、ブログの主題を探していても、まるで心に留まらないので、仕方なしに現状を書き綴るうちに、何か見えてくるものはないかと思ったのだが、見えてくるものは、自分の命が終末に向かっている、たくさんの兆候だけだ。

 ちょうど、ナイヤガラの滝の上で流されているようなもので、あといくばくかの時間で、ドボンと行くことになるわけだ。
 こればかりは、誰も避けることのできない、すべての人に課された運命なので、諦めるしかないのだが、果たして、この人生で自分は、どれほど満足を得たのかと問えば、とても心細い、情けない答しか得られない。

 一晩、腹痛に苦しんでも何も得られなかった。この24時間、ひたすら寝続けても何も得られなかった。
 自分に与えられた能力は、毎日少しずつ萎えてゆく。目も脳も限りなく衰えてゆく。
 社会を洞察し、我々は何をすべきなのか、思索する力も失われてゆく。

 実は、このブログを書きながら、たくさんの調べ物のなかから、日本という国が、明治政府以来、麻薬を他国に売りつけることで莫大な資金を得て、その金で戦争を起こしたことを知った。
 一時期は、世界の9割の麻薬を日本が販売したのだ。

 明治政府・大正・昭和政府ともに、日本人だけには麻薬を禁止していながら、他国民(インドネシア・タイ・ベトナム・中国・朝鮮)に麻薬を売りつけ、その心を萎えさせ、資産を奪い取り、日本人だけが東アジアで優越する特権民族にする計画だった。

 こんな日本には、「民族のカルマ」が取り返しのつかないほど強力に刻まれている。
 敗戦後、日本は麻薬という金づるを失い、代わりの金づるを原子力に求めた。
 47トンという世界最大のプルトニウム備蓄を、核ミサイルに加工して他国に売りつけることで、戦前の麻薬のように、巨大な利益を上げられるという皮算用が自民党の目論見だった。

 だが、そのために準備した、プルトニウム精製施設、もんじゅ、常陽、六ヶ所村再処理工場は、すべて失敗し、破綻に追い込まれている。
 私には、福島第一原発事故の巨大な放射能被曝事故も、もんじゅや六ヶ所村の失敗も、すべて、「民族のカルマ」が発現したように思える。

 日本人には、再び取り返しのつかない放射能汚染のカルマが覆い被さってくるだろう。
 そのカルマの源をたどれば、明治政府からの海外への麻薬販売の犯罪が見えてくる。
 巨大なカルマの負債を支払わねばならないときが、やってきたのだと思うしかない。
 

11月14日 体調不良のため休載します

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気候変動の最大の原因は、原発温廃水である

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  以下に、日本における年平均気温の偏差を示す。
 https://tablo.jp/case/news003580.html

 日本の高温化の始まりが1980年代であることが分かる。1990年代以降は、高温が常態化している。(画像クリック)
heikinnkion 01


 以下のグラフは、突出した(30年に一度の)異常気象を示す年別グラフ。
 https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/riskmap/heavyrain.html

kikouhendou03.jpg



 1981年が突出しているが、これは五六豪雪による大規模な被害を反映している。
 https://energy-shift.com/navi/%E8%BF%91%E5%B9%B4%E5%A2%97%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E7%95%B0%E5%B8%B8%E6%B0%97%E8%B1%A1%E3%81%AF%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96%E3%81%8C%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%97%E3%81%A6/

以下は、世界の原発発電量の推移

 kikouhendou01.jpg


 2011年以降、アジアを中心にガクンと発電量が減っているが、これは2011年の福島第一原発巨大事故ににより、多くの原発が停止したためだ。

以下は、日本の原発稼働推移

https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_02-05-02-04.html


kikouhendou02.jpg


 日本の原発は、1965年の東海1号機の臨界をもって嚆矢とする。軽水炉は、1975年に、若狭原発群の高浜・美浜原発(PWR)から始まる。 

 2020年11月11日現在、54基のうち玄界4号機のみ稼働している。再稼働した川内や若狭原発群のうち、大半が定期点検やテロ対策改造などで運転を停止している。
 https://blog.goo.ne.jp/tanutanu9887/e/a43bbf55884c7e6832943f79a7f56b72

 2011年以降、日本中の原発の大半が停止した結果、何が起きたのか?
 以下は気象庁の三ヶ月季節予報
 
kikouhendou04.jpg


東北以南(西日本)の11月~1月の長期予報は、この10年滅多に見なかった寒色で描かれている。つまり、平年より寒くなる。

 どうして、急に日本列島が涼しくなったのか?
 それは、54基の原発の大半が停止して、温廃水を出さなくなったせいではないのか?

 原発温廃水とは何か?

  原発温廃水が海を壊す 原発からは温かい大河が流れている
 https://imidas.jp/jijikaitai/k-40-059-10-03-g112

 以下引用

  原子力発電所の稼働に不可欠な冷却水は、その膨大な熱とともに放射能や化学物質をともなって海に排出される。この温廃水の存在、あるいは環境への影響が論じられることは少ない。
 地球温暖化への貢献を旗印として原子力回帰が叫ばれる中、けっして避けられない温廃水の問題を浮き彫りにする。

 蒸気機関としての宿命

 地球は46億年前に誕生したといわれる。その地球に人類が誕生したのは約400万年前。地球の歴史を1年に縮めて考えれば、人類の誕生は大みそかの夕方になってからにすぎない。その人類も当初は自然に寄り添うように生活していたが、18世紀最後の産業革命を機に、地球環境との関係が激変した。

 それまでは家畜や奴隷を使ってぜいたくをしてきた一部の人間が、蒸気機関の発明によって機械を動かせるようになった。以降、大量のエネルギーを使うようになり、産業革命以降の200年で人類が使ったエネルギーは、人類が全歴史で使ったエネルギー総量の6割を超える。その結果、地球の生命環境が破壊され、多数の生物が絶滅に追いやられるようになった。その期間を、地球の歴史を1年に縮めた尺度に合わせれば、大みそかの夜11時59分59秒からわずか1秒でのことである。

 今日利用されている火力発電も原子力発電も、発生させた蒸気でタービンを回す蒸気機関で、基本的に200年前の産業革命のときに誕生した技術である。その理想的な熱効率は、次の式で表される。

 理想的な熱機関の効率=1-(低温熱源の温度÷高温熱源の温度)
(※それぞれの温度には「K(ケルビン)」の単位で表す絶対温度を用い、「℃」で表す摂氏温度の数字に「273」を加え、たとえば0℃=273K、100℃=373Kとなる)

 だが、現実の装置ではロスも生じるため、この式で示されるような理想的な熱効率を達成することはできない。火力発電や原子力発電の場合、「低温熱源」は冷却水で、日本では海水を使っているので、その温度は地域差や季節差を考慮しても300K(27℃)程度であり、一方の「高温熱源」は炉で熱せられ、タービンに送られる蒸気である。

 そのため、火力発電と原子力発電の熱効率は、基本的にそれらが発生しうる蒸気の温度で決まり、その温度が高いほど、熱効率も上がることになる。現在稼働している原子力発電では、燃料の健全性を維持するため冷却水の温度を高くすることができず、タービンの入り口での蒸気の温度はせいぜい550K(約280℃)で、実際の熱効率は0.33、すなわち33%しかない。つまり、利用したエネルギーの2倍となる67%のエネルギーを無駄に捨てる以外にない。

 想像を絶する膨大さ

 この無駄に捨てるエネルギーは、想像を絶するほど膨大である。たとえば、100万kWと呼ばれる原子力発電所の場合、約200万kW分のエネルギーを海に捨てることになり、このエネルギーは1秒間に70tの海水の温度を7℃上昇させる。日本には、1秒間に70tの流量を超える川は30筋もない。原子力発電所を作るということは、その敷地に忽然として「温かい大河」を出現させることになる。

 7℃の温度上昇がいかに破滅的かは、入浴時の湯の温度を考えれば分かる。ふだん入っている風呂の温度を7℃上げてしまえば、普通の人なら入れないはずである。しかし、海には海の生態系があって、その場所に適したたくさんの生物が生きている。その生物たちからみれば、海は生活の場であり、その温度が7℃も上がってしまえば、その場では生きられない。

 逃げることのできない植物や底生生物は死滅し、逃げることができる魚類は温廃水の影響範囲の外に逃げることになる。人間から見れば、近海は海産資源の宝庫であるが、漁業の形態も変える以外にない。

 途方もない環境破壊源

 雨は地球の生態系を持続させるうえで決定的に重要なもので、日本はその恵みを受けている貴重な国の一つである。日本には毎年6500億tの雨が降り、それによって豊かな森林が育ち、長期にわたる稲作も持続的に可能になってきた。雨のうち一部は蒸発し、一部は地下水となるため、日本の河川の総流量は年間約4000億tである。

 一方、現在日本には54基、電気出力で約4900万kWの原子力発電所があり、それが流す温廃水の総量は年間1000億tに達する。日本近海の海水温の上昇は世界平均に比べて高く、特に日本海の温度上昇は著しい。原発の温廃水は、日本のすべての川の水の温度を約2℃温かくすることに匹敵し、これで温暖化しなければ、その方がおかしい。

 そのうえ、温められた海水からは、溶け込んでいた二酸化炭素(CO2)が大量に放出される。もし、二酸化炭素が地球温暖化の原因だとするなら、その効果も無視できない。
 もちろん、日本には原子力発電所を上回る火力発電所が稼働していて、それらも冷却水として海水を使っている。しかし、最近の火力発電所では770K(約500℃)を超える高温の蒸気を利用できるようになり、熱効率は50%を超えている。

 つまり、100万kWの火力発電所の場合、無駄に捨てるエネルギーは100万kW以下で済む。もし、原子力発電から火力発電に転換することができれば、それだけで海に捨てる熱を半分以下に減らせる。さらに、火力発電所を都会に建ててコージェネレーション(cogeneration)、すなわち無駄に捨てるはずの熱を熱源として活用すれば、総合的なエネルギー効率を80%にすることもできる。
 しかし、原子力発電所は決して都会には建てられない。

 熱、化学物質、放射能の三位一体の毒物

 温廃水は単に熱いだけではなく、化学物質と放射性物質も混入させられた三位一体の毒物である。まず、海水を敷地内に引き込む入り口で、生物の幼生を殺すための化学物質が投入される。なぜなら海水を施設内に引き込む配管表面にフジツボやイガイなどが張り付き、配管が詰まってしまっては困るからである。

 さらに、敷地から出る場所では、作業員の汚染した衣服を洗濯したりする場合に発生する洗濯廃水などの放射性廃水も加えられる。日本にあるほぼすべての原子力施設は、原子炉等規制法、放射線障害防止法の規制に基づき、放射性物質を敷地外に捨てる場合に濃度規制を受ける。

 原子力発電所の場合、温廃水という毎日数百万tの流量をもつ「大河」がある。そのため、いかなる放射性物質も十分な余裕をもって捨てることができる。洗濯廃水も洗剤が含まれているため廃水処理が難しい。原子力発電所から見れば、苦労して処理するよりは薄めて流すほうが得策である。

 たとえば、昨今話題となる核燃料サイクルを実現するための核燃料再処理工場は、原子力発電所以上に膨大な放射性物質を環境に捨てる。ところが、再処理工場には原子力発電所のような「大河」はない。そこで、再処理工場は法律の濃度規制から除外されてしまった。逆にいえば、原子力発電所にとっては、温廃水が実に便利な放射能の希釈水となっているのである。
****************************************************************

 引用以上

 ここで指摘されている核心問題は、
【100万kW原子力発電所の場合、約200万kW分のエネルギーを海に捨てることになり、このエネルギーは1秒間に70tの海水の温度を7℃上昇させる】

 100万キロワット級原子炉が、毎秒70トンの海水を7度上昇させる温廃水を出すことだ。
毎秒70トン→ 毎時252000トン、毎日605万トン、毎年、22億トンの海水を7度上昇させる。もちろん、この中にはトリチウムや熱交換器からピンホール漏洩したセシウム・ストロンチウムも含まれている。

 これが54基、稼働すれば、日本列島全体で、年間1200億トンの海水を7度も温めてきた。琵琶湖の水量が275億トンだから、4.4倍にもなる。

 よく、海水は膨大だから、それでも微々たる量に過ぎないという原発推進側の弁明を聞くが、7度高いと比重が軽くなるため、海の表層に温廃水が浮いてゆくので、海水の表面温度には大きな影響を与える。
 年間、琵琶湖の4倍半もの海水が7度も温められて、それは主に表層を熱することを考えれば、海水表面温度に影響を受ける気象に異変が起こらないはずがない。

 近年の台風の強大化が、原発温廃水によるものである可能性は大きい。
 また、都市部での40度を超す異常気象も、原発温廃水からの影響であることを誰が否定できるのか?

 ところがメディアは、こうした巨大な温廃水による悪影響について、ほとんど取り上げない。取り上げようとすれば、原発推進勢力である電通によるメディア支配から、メディアを支える広告収入を取り上げられるため、恐怖して絶対に書こうとしない。

 逆に、原発温廃水がもたらした可能性が高い地球温暖化は、地上における炭酸ガスのせいとして、「炭酸ガスを出さない原発を増やせば解決する」と完全に倒錯した狂人のような逆説を展開している。

 こういうバカがいるのだ。
 https://twitter.com/ayanakamura0702/status/1325728098256527361

 そもそも、海水を温めれば、それだけで海水中に膨大に含まれる温室効果ガスである炭酸ガスやメタンが大気中に放出されるのである。
 だから、地球の炭酸ガス増加が温暖化をもたらしたのではなく、温暖化(原発温廃水)が、海水の炭酸ガスを解放した結果なのだ。

 http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/100/seminar/No72/TCD981222.pdf

http://www.asyura2.com/0311/genpatu1/msg/243.html

 原発が温暖化の主な原因である可能性が強いにもかかわらず、あたかも原発を増やせば温暖化が収まるかのような詭弁を弄しているのは、日本政府・自民党・維新、それに世界のユダヤ系金融資本、ダボス会議(ビルゲイツ・アルゴア・竹中平蔵ら)である。

 彼らの大半が、原発建設に利権を持ち、アルゴアに至っては、地球温暖化問題でノーベル平和賞を得たにもかかわらず、アルゴアは世界最大級のウラン鉱脈の保有、利権者なのだ。ゲイツも、過去数十年、原発開発に血道を上げてきた。
 http://titibu.sakura.ne.jp/chichibujin/algoa.html

 他方で、原発温廃水問題を研究しようとすれば、日本政府のような原発推進利権勢力から激しく弾圧を受け、学問界から追放されてしまうのだ。

 現在、行われている世界温暖化対策=二酸化炭素抑制議論は、完全な詭弁であり、真っ赤な嘘であり、その目的は、原発を大規模に増設して、ユダヤ人アルゴア、ゲイツらの持つ巨大なウラン利権を実現することなのだ。
https://www.jaif.or.jp/190108-a

 【子育て罰の厳罰化】児童手当の特例給付を削って待機児童対策にあてる日本では、少子化解消しない

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 末冨芳 | 日本大学教授・内閣府子供の貧困対策に関する有識者会議構成員
11/8(日) 6:30
 https://news.yahoo.co.jp/byline/suetomikaori/20201108-00206784/

 今日は、重要な記事をそっくり転載する。日本政府は「消費罰」に加え、「子育て罰」まで厳罰化している。自民党政権は、全国民に激しい懲罰を与えながら、自分たちはお手盛りで歳費を上げ続け、平均年収4000万円を超える、議員特権を謳歌している。(表向き平均年収は2200万円だが、政党助成金などを勘案した場合)
 https://www.asahi.com/articles/ASKDL3JZSKDLUTIL00Y.html

 以下全文引用

 「児童手当の特例給付、廃止検討 待機児童解消の財源に」(産経新聞・11月6日報道)という報道に、多くの国民が怒りを感じています。

  私のコメントへの「いいね!」は、1日で2万を越えました。

 コメント欄を見れば、子どもの有無や、年代にかかわらず、子どものことを大切に考えてくださる方が多く、こんな政策で少子化が改善しないであろうという見方をしてくださっていること、心強く感じています。

 子どもの貧困問題の改善に取り組んでいる私ですが、子育ての当事者として、大学生の経済問題にも関わる大学教員として、この国では貧困層でなくとも子どもを育てることがとても大変であることは、我がこととして痛感してきました。

 もともと日本の子育て層は、所得にかかわらず税金・年金・社会保険料の負担が高齢者世代より高く、子どもまで育て社会に貢献しているのに、児童手当や授業料無償などの恩恵を受けられない子育て罰を受けている状況です。

 今回報道された特例措置の廃止がされれば、子育て罰の厳罰化となってしまいます。

1.子育て罰の厳罰化で25%の家族が年12万円減収(子ども2人の場合)

 今回の政府案は、簡単にいえば、現在の中高所得層に対する児童手当(中学生までの子ども1人あたり月額5000円)を削って、待機児童解消に充てようとするものです。

 また、所得のカウントも共働きの場合には夫婦合算となり、より厳しい所得制限となります。

 具体的には扶養親族が2名(親2人子2人の場合)で年収約900-1000万円以上が児童手当が廃止となります(自治体によって基準は少しずつ異なります)。

 子育て層の約25%、4世帯に1世帯が該当します(国民生活基礎調査)。

 中学生までの子どもが2人いる場合、来年度以降、家計の収入が月1万円・年12万円減ります。

 子育て世帯の25%(4世帯に1世帯)の月5千円の児童手当を削って、待機児童解消のための保育園増設・保育士増員の財源ににするというその発想自体が、少子化を解消する気がない政権の姿勢の表れではないかと、不安を禁じえません。

 「2015(平成27)年度少子化社会に関する国際意識調査報告書」では、「子どもを産み育てやすい国かどうか」について、日本では「そう思わない」(どちらかといえば+全くそう思わない)が52%と、調査対象となった日英仏スウェーデンの中で唯一、否定的回答が過半数となった国でした。

 同じ設問について、イギリスは23.8%、フランスは25%、スウェーデンは15.2%にすぎなかった状況とは、対照的です。

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 菅総理は所信表明演説で「長年の課題である少子化対策に真正面から取り組む」と強調しました(東京新聞10月26日報道)。

 しかし、子育て罰とも称される日本の子育て世帯に厳しい状況を、さらに加速させることで、どのように少子化解消が可能になるのでしょう?

 菅政権が進めようとしているのは、少子化対策ではなく、子育て世代内での分断を進め、子育て世帯を追い詰める子育て罰の厳罰化なのではないでしょうか。

2.子育て罰とは

 そもそも子育て罰とは、研究者によって指摘されてきた、子育て世帯にあまりに厳しい国である日本の状況を批判する概念です。

-桜井啓太,2019,「“子育て罰”を受ける国、日本のひとり親と貧困」(SYNODOS記事).

-大沢真理,2015,日本の社会政策は就業や育児を罰している(家族社会学研究,第27巻第1号).

 もともとは、以下のように、子育てする保護者の賃金上の不利を示す社会学・労働経済学の用語であるチャイルド・ペナルティを和訳したものです。

 子どもを持つ親と子どものいない成人には、賃金格差が存在し、それはそのまま貧困率の違いにあらわれる。このように子どもを育てることによって背負う社会的(特に賃金上の)不利を“チャイルド・ペナルティ”と呼ぶ。もちろんペナルティは労働市場における男女の賃金格差や、雇用慣行、育児支援制度によって国ごとにその度合いが異なる。

 出典:桜井(2019)より

 しかし、それだけでなく、とくに低所得子育て世帯に対する所得再分配が「冷遇」とも呼べる厳しい状況であることを批判する視点が、桜井(2019),大沢(2015)に共通しているものです。

・日本では、所得再分配政策がもともと逆進的(とくに子育て中の就業低所得層に不利)である。

・とくにひとり親世帯への再分配は政策的に失敗している。

・そのため先進諸国において、日本はひとり親世帯の貧困率が突出して高く、シングルマザーに猛烈に厳しい国と言われている。

 ここまでだと、子育て罰はひとり親(シングルマザー)の問題だと思われる方は多いでしょう。

 しかし、子育て罰を受けているのは、ひとり親や低所得層だけでなく、年収800万円以上の中・高所得層も同様である、ということが、この記事で私が指摘しておきたい事実なのです。

 内閣府が2015年に示した分析結果からは、年収800万円以上の子育て世帯では、税・保険料などの負担が受益を上回っていることがわかります。

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 この状態でさらに来年度から年12万円(子ども2人の場合)の受益が減少すると、子育て世帯はどうなるのでしょうか。

 就労し、納税し、年金や社会保険料を支払っても、教育や保育でのメリットがない上に児童手当まで削減される。 

 子どもを産み育てるほどに生活が苦しくなっていく、低所得層やひとり親だけでなく、中高所得層まで追い詰められている状況こそが子育て罰大国・日本の実態なのです。

 中高所得層の児童手当を削って待機児童対策にまわすことは、子育て世代内部での分断を深めていきます。

 とくに現在小学生2年生以上の子どもを持つ世代は、幼児教育の無償化の恩恵をまったく受けていないため、純粋な負担増になる「はずれくじ世代」となってしまいます。

3.稼ぐほど切り捨てられる「子育て罰」で進学できなくなる若者が出てくる

 中高所得層だからといって子育て世帯が楽な暮らしをしているかといえば、まったくそのようなことはないのです。

 Yahoo!ニュースへのコメントの中でも、以下のような現役子育て世代の悲鳴があがっています。

 子ども四人います。

 児童手当は一人5,000円です。

 所得が多くてもほとんど税金にもってかれていて食費は月に7万くらいです。

 正直毎月キツイです。

 所得制限で私立の補助制度も受けられません。

 児童手当は学費のため貯金してましたが

 削られてしまったら、今後が不安でしかないです。私たちばかり削らず自分たちも削ったらどうでしょうか?

 所得が多いイコールお金持ちではないです。

 出典:Yahoo!ニュース・コメントより「児童手当の特例給付、廃止検討 待機児童解消の財源に」

 共働きで世帯年収1000万円、3人子供がいて、高校無償化の恩恵も全く受けられず、これならひとり親家庭になったほうがよっぽど良い。児童手当まで受けられないなんて。たくさん納税しているのに、子どもの望む教育を我慢させなければいけないなんて…。離婚届出すべきか…本気で悩んでいる家庭はうちだけではない。

 出典:Yahoo!ニュース・コメントより「児童手当の特例給付、廃止検討 待機児童解消の財源に」
 そもそも年収910万円以上の相対的高所得層は、第二次安倍政権のもとで高校無償化の対象外となり、大学の貸与奨学金も借りられないなど、まったく支援の対象となっていません。

 すなわち、日本の中高所得層にとっての「子育て罰」とは、稼げば稼ぐほど支援から切り捨てられていくことにほかならないのです。

 だからこそ、こうした世帯では小中学校での児童手当を計画的に貯蓄し、高校や大学・専修学校等の進学費用に充ててきたのです。 

 そうしなければ、とくに高額な大学・専修学校の卒業までの費用は、奨学金利用ができない高所得者層ほど乗り切ることができないのです。

 来年度から、突然この政策がなくなってしまうと、今の中学生までの世代の子供たちが、進学費用の不足のために、希望する進学先に進学できない可能性すら出てきます。

 実際に大学生の経済的相談にも乗っている私ですが、保護者が高所得であるために、日本学生支援機構の貸与奨学金も利用できず、やむを得ず民間金融機関のローンを組んで授業料を払う例もありました。

 また、高所得に見える世帯でも、家族の介護や、保護者のビジネスの運転資金のために家計にお金がなかったり、保護者や家族の誰かが病気の治療で多額の医療費がかかなるなど、決して楽ではない家族も少なくありません。

 何が言いたいかというと、親の所得で子ども・若者が受けられる支援に線引きをすることで、切り捨てられてしまう子ども・若者もいる、ということです。

 来年、児童手当を削ってしまうのであれば、少なくとも教育に関するすべての支援制度の所得制限を撤廃するべきです。

 そうでなければ、進学機会を失う若者が出現し、わが国の人的資本育成にとってもマイナスです。

 具体的には、高校就学支援制度の授業料無償化の所得制限撤廃、高校生等奨学給付金と大学・専修学校の無償化の所得制限の大幅緩和、日本学生支援機構奨学金の貸与奨学金の所得制限撤廃、です。

 そもそも、親の所得で、子ども・若者への支援を「差別」することは許されることなのでしょうか?

 専門用語でいうと、選別主義(低所得世帯など、厳しい世帯の子ども若者にだけ支援をする)、普遍主義(すべての子ども・若者を支援する)、どちらが良いのかという課題です。

 子どもの権利の視点からは、親とは関係なく、子どもを独立した権利主体と見なします。

 親の所得によって子どもを差別することはあってはならないことなのです、だからこそ普遍主義の子ども・若者支援策が重要になります。

 現在の日本は、児童手当と幼児教育の無償化でベースラインで普遍主義を保ちながら、低所得世帯により手厚い選別主義的支援が行われている状態です(児童手当の低所得加算・児童扶養手当、高校無償化、大学無償化)。

 しかし、児童手当の特例給付の廃止は、普遍主義のベースラインを切り崩し、「親の所得による子どもの差別」を強める方向に作用します。

 もちろん低所得層に手厚い支援は子どもの貧困対策の基本です。

 しかし、だからといって中高所得層の子ども・若者を切り捨てていい理由にはなりません。

 このまま子育て罰の厳罰化を見逃していいのでしょうか?

 それで日本の少子化は解消し、子育てしやすい国になるのでしょうか?

 その2、では普遍主義・選別主義をどのように組み合わせれば、少子化解消につながっていくのか、これまでの先行研究や、海外の事例、日本の自治体の取り組みなどを参考にしながら、考えてみたいと思います。

 (その2は今週中に配信する予定です) 

末冨芳
日本大学教授・内閣府子供の貧困対策に関する有識者会議構成員
専門は教育行政学、教育財政学。子どもの貧困対策は「すべての子ども・若者のウェルビーイング(幸せ)」がゴール、という理論的立場のもと、2014年より内閣府・子どもの貧困対策に有識者として参画。教育費問題を研究。家計教育費負担に依存しつづけ成熟期を通り過ぎた日本の教育政策を、格差・貧困の改善という視点から分析し共に改善するというアクティビスト型の研究活動も展開。多様な教育機会や教育のイノベーション、学校内居場所カフェも研究対象とする。主著に『教育費の政治経済学』(勁草書房)、『子どもの貧困対策と教育支援』(明石書店,編著)など。
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 引用以上

 何度も書いているが、菅義偉は、新自由主義の総元締めともいえる竹中平蔵の子飼いであり、100%コピーであり、ダミーと言ってもよい。
 竹中流新自由主義の核心部は、日本社会に、恒久的なあらゆる差別分断、序列化を持ち込むことである。

 https://www.youtube.com/watch?v=bH28sifjuQ4&ab_channel=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%81%AE%E6%9C%A8%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E9%BB%92%E5%B7%9D%E3%81%82%E3%81%A4%E3%81%B2%E3%81%93%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

 https://www.youtube.com/watch?v=k9eheb0xJcc&ab_channel=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%81%AE%E6%9C%A8%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E9%BB%92%E5%B7%9D%E3%81%82%E3%81%A4%E3%81%B2%E3%81%93%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

 その根源的な思想は、私には儒教であるように思える。
 儒教社会は序列差別社会であり、格下の者は格上の者の言いなりになり、従順に仕えることを強要される。その秩序が侵されたとき、格上の者は「無礼な!」と怒るのだが、これを言う者こそ、儒教を信奉する者の特徴といってよい。
 https://www.youtube.com/watch?v=rC7HTE6PWsA&ab_channel=FUNFAN

 竹中平蔵は、和歌山市の被差別民(履物屋)出身である。普通は、理不尽に虐げられた被差別者は、差別や序列の存在に憤るものだが、竹中兄弟は違った。
 自分たちが与差別者となって、社会差別に君臨する道を選んだのだ。
 竹中はハーバード大のロックエラー経済研究所で、フリードマン直系の新自由主義を学び、その思想で日本を再編しようと考えた。

 自民党員には、中曽根が持ち込んだ新自由主義に同調する者が多かった。それは、自民党が与差別の金持ち階級を代表していたからだ。
 とりわけ小泉純一郎と意気投合し、小泉政権下で閣僚として、新自由主義の思想的根幹、「小さな政府」主義から三公社五現業の解体に邁進し、全国のすべての労働者の権利を剥奪して、派遣臨時労働者=ルンペンプロレタリアートの地位に貶めた。

 2020年現在では、全国の労働者の半数近くが、正社員の地位を奪われ、竹中の経営する人材派遣事業=パソナなどからの派遣社員や臨時労働者としてしか雇用されず、ボーナスも退職金もない低賃金の苛酷な労働環境にある。
 一方で、竹中は、自分が実現した、労働者の権利剥奪を利用して、労働者の給与をピンハネする派遣事業でボロ儲けしている。

 冒頭に引用した、「子育て罰」こそ、竹中新自由主義の基本方針である、国民の社会福祉、基本的人権の剥奪から導かれた政策である。
 これは、日本国民の消費に対して「消費税」という10%の厳罰を課したこと。そして、健康保険や介護など、あらゆる社会福祉を段階的に廃止して、日本国民は、すべての生活の困難を自助努力で解決せよというのが、菅義偉政権の基本方針なのだ。

 さらに恐ろしいことには、年金を廃止して毎月7万円支給のベーシックインカムと称する制度に変えること、国民健康保険を廃止して、欧米の金融資本が経営する民間健保に転換することさえ示唆している。

 こうなれば、一般市民の健保支払額は、毎月10~20万円に高騰するのは確実で、健保に加入できるのは、全国民の1割程度、あとは現金払いというアメリカと同じ社会がやってくる。
 毎月7万円で生活できる人は、おそらく数%もいないし、ありとあらゆる増税厳罰化の締め付けが同時にやってくるのだ。

 これによって起きることは、竹中平蔵の目論見どおり、日本社会が、特権支配階級と奴隷階級に分断されることである。
 ここまで切羽詰まっても、なお、若者たちは、安倍政権を支持したように、竹中ダミーの菅政権を支持するつもりなのだろうか?
 このマゾヒズムの行く末は絶望しかない。もう、旧来の一夫一婦制戸別独立社会は諦めた方がよいだろう。

正力松太郎を振り返る

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 戦前の日本国が、繊維産業以外、まともな輸出産業を持たなかったにもかかわらず、太平洋戦争における現在価値にして数百兆円の超巨額の兵器製造、戦費を調達できたことは、世界近代史最大級の謎であった。
 https://ironna.jp/article/3827

 この謎を調べてゆくと、後藤新平・里見甫・二反長音蔵・岸信介らのアヘン・モルヒネ・ヘロインの、当時世界流通量の9割にも及ぶ莫大な密売にあったことを、前編にて紹介した。
 日本政府による麻薬販売が始まったのは、実は、江戸時代末期、アヘン戦争を見てからのことで、後藤新平らの献策により明治政府、台湾総督府で行われたのが始まりらしい。

 この後藤新平と、「原子力の父、テレビの父」と呼ばれるCIA工作員、正力松太郎が深い関係にあった。
 警視庁ナンバー2の警備局長だった正力は、虎ノ門事件で責任を取らされて警視庁を退官させられ、民間人となったが、このとき巨額の資金を提供して、読売新聞社を買い取らせ、世論統制工作をさせるお膳立てをしたのが後藤新平だった。読売は朝日を抜いて日本一の発行部数を持ち、日本国民の戦争鼓舞世論に大いに貢献した。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39038

 民間人とはいえ、正力は、戦前、「大政翼賛会」の会長となった。これが理由で敗戦後、A級戦犯となったが、岸信介が巨額の麻薬密売資金で米軍と取引し、自分と、里見甫・正力・笹川良一、児玉誉士夫らのA級戦犯を釈放させた。
 岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・正力松太郎らは極右思想(陸軍統制派)の同盟者で、いずれも朝鮮における巨大な麻薬密売組織=昭和通商に関係していたといわれる。

 わけても、里見甫は「上海アヘン王」と呼ばれ、上海・満州・朝鮮におけるアヘンの供給を担ったが、実は、天才麻薬技術者であった二反長音蔵の協力により、北京通州(蒋介石に襲われ残虐な被害を受けた)麻薬製造工場で、アヘンを精製して、モルヒネ・ヘロインの製造販売を行ったことが明らかにされていて、アヘン王ではなく「麻薬王」と呼ばれるべきである。この販売資金が日本陸軍の主要な資金源になっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

 なお通州麻薬(ヘロイン精製)工場は、国民党の指示によって襲撃を受け、恐るべき残虐な皆殺し破壊を受けたが、これに怒った日本軍は、蒋介石軍に対する報復のため、第十軍を再編し、南京大虐殺を引き起こした。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1290.html

 電通は里見甫が創始者だが、設立目的は、中国・満州における世論工作にあるとともに、里見の麻薬密売網の中核であった疑いが強い。一種の諜報工作機関だったといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A

 日本政府は、自国では麻薬の製造販売を厳禁していたが、インドやパキスタンなどから莫大なアヘンを輸入し、それを輸入港で積み替えさせ、東アジアの諸国、インドネシア・ベトナム・中国・朝鮮などに輸出して、超巨額の利益を得た。
 麻薬を密売した目的は、巨額の利益とともに、現地での日本に対する報復や独立を抑制し、人々を麻薬中毒にして抵抗を奪うことだった。

 一部は里見甫の麻薬精製工場に送られ、中国などでモルヒネ・ヘロインとして販売された。
 朝鮮では、岸信介の昭和通商が、麻薬と武器の巨大な密売網を作った。
 これが日本における帝国主義侵攻の資金となり、満州や朝鮮で鉄道、市電などを大量に敷設し、戦闘機や船艦などを大量に製造した。

 こうして考えれば、日本が朝鮮や中国で「いいこともした」という、広く浸透した日本帝国主義の正当化が、本質的に間違っていたことが分かる。
 確かに、日本政府は麻薬密売資金を利用して、朝鮮や満州で学校や病院を建設し、鉄道を敷設し、現地の文化水準を飛躍的に向上させたが、一方で、人々の主体性を奪い、日本国の領土を拡大する目的で、「天皇の臣民」として馴致し、麻薬漬けにして抵抗を奪ったのだ。

 さて、今回の本題は、正力松太郎である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

 正力が、その交友関係である里見甫や岸信介、児玉誉士夫ら、そして何より後藤新平との深い関係から、戦前の日本政府による麻薬政策の根幹に関係する人物であることは明らかだ。

 正力は、日本国家の国威発揚、拡大を求める帝国主義者だった。それは正力買収後の読売新聞社の姿勢をみればはっきりしている。
 正力は、日本敗戦後、それまで日本国家を支えてきた、中国・朝鮮における麻薬密売資金が得られないことから、それに替わる基幹産業を創立することに腐心していた。
 そして目をつけたのが原子力産業だった。

 https://www.news-postseven.com/archives/20160902_438114.html?DETAIL

 正力は、日本の未来のために新しいエネルギーを導入したという類いの美談化が見られるが、それは嘘だ。正力は、第五福竜丸事件が起きて、日本の反米反核世論が高騰したとき、「原発の平和利用」を持ち出して、反核アレルギーを洗脳しようとしたが、実際には、正力自身は核物理や生物学に関して完全な無知蒙昧だった。
 広島の被曝被害を知りながら、それを一切学ぼうとせず、空前の破壊力だけに目を奪われた。

 「この新兵器を、なんとか日本のものにしたい」
 それだけが、正力を日本における核開発に駆り立てた動機だった。
 だから、原子力発電という新しい文化が登場したとき、正力が欲しかったのは、同じ核エネルギーを利用した核爆弾だけだった。
 そのために、原子力発電という綺麗事を利用しようとしたのである。

 日本で最初の原発は、正力が導入させた東海村1号機である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96

 実は、戦時中、日本軍は、陸軍が仁科芳雄に、海軍が湯川秀樹に命じて、ウラン濃縮に当たらせていた。仁科は成功できなかったが、湯川は遠心分離法によってウラン235濃縮に成功し、一個分の核爆弾原料を抽出していた。
 これを長崎原爆被害の一報を聞いた関係者が、証拠隠滅のため、理研濃縮工場のあった朝鮮、興南道沖合に持ち出し、我が身もろとも核爆発させた。

 https://twitter.com/atsuhik007/status/944141928580374528

 https://blog.goo.ne.jp/xenaj/e/b84906973e9debd41e8b81ab0aaacb5a

 この一連の核開発を、正力は知っていた。そして、平和利用の原発を口実にすれば、プルトニウム239、長崎型核爆弾の原料を確保できると判断し、東海村1号機には、当時、すでに発電用軽水炉が実用化されていたにもかかわらず、あえて地震に弱く非効率な黒鉛炉を導入した。
 理由は、黒鉛炉によってプルトニウム239を増殖し、抽出できると考えたからである。

 なぜ、プルトニウム239なのか? それは、当時すでに米軍が開発していた核ミサイルの核弾頭原料として最適だからだ。
 つまり、正力は、日本で核ミサイル核弾頭を作らせようとした。その最大の理由は、日本の核武装はもとより、核ミサイルが超高額で外国に売れるからだ。
 正力は、麻薬密売に替わる資金源を核ミサイルに求めようとしていた。

 2020年現在、日本には47トンのプルトニウム239があり、6000発分の核爆弾原料と言われている。しかし、現在では、核ミサイルはプルトニウム2Kgあれば十分な破壊力があるので、23000発分のミサイル核弾頭の原料である。
 なぜ、これほど大量に溜め込んだかといえば、正力が核ミサイルを外国に売ることを計画していたからだ。

 以下は、原発推進派の諸葛宗男の文章だが、相当に嘘が多い。
 http://www.gepr.org/ja/contents/20180710-01/

 まず、核弾頭には兵器級の93%純度のプルトニウム239が必要で、47トンの大半が純度60%程度の原子炉級と書かれているが、これが最大の嘘だ。
 純度が高くないとプルトニウム240が核暴走するリスクがあって、まともなミサイルができないのは事実だが、この純度を高める方法がある。

 それは、既存の原子炉内に、低純度プルトニウムを入れて、短期間の間歇的核分裂を繰り返すことで高純度になる。原子炉級が兵器級に変えられるのである。
 これを、2011年3月、福島第一原発4号機炉内で行っていた疑いがある。定検中で熱が出るはずのない原子炉を米軍が撮影すると、ありえない大量の熱がサーモ写真に写ってしまったのだ。
 つまり、東電は、秘密裏に日本政府の命を受けてプルトニウム純度を上げていた疑いがある。

 日本の原子力政策が、最初から純粋に電力需要から定まったものではなく、実は兵器用プルトニウム蓄積を目的にしていた疑いは、事故後の東電の対応にも良く現れている。
 原発を止めれば電力不足が起きると吹聴して、311後、関東の電力を停止させて世論洗脳を図ろうとしたのもその一つであり、このとき、東電本社や皇居は、一切停電しなかった。

 事故後、日本政府が、再稼働させるすべての原発に危険なMOX燃料を使うよう強要している理由も、プルトニウムの核兵器疑惑を払拭しようとする意図からである。
 日本政府(自民党)は、311事故が起きなければ、三菱重工に核ミサイルを製造させる計画だったようだ。
 それが事故で核ミサイルを、戦前の麻薬密売のようなボロ儲けネタにする計画が吹き飛んだ。三菱重工も、今は瀕死の状態で倒産まで視野に入る事態になっている。

 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/12292

 戦後、正力や中曽根、岸が企んだ、麻薬密売に替わる核ミサイル密売路線は、現在脆くも崩れ去っている。しかし、安倍晋三らをはじめ、まだ極右自民党グループは、まったく諦めていない。
 日本政府に巨額のカネが入れば、戦前のような帝国主義の野望が復活するのは間違いないところだろう。
 これを阻止するために、戦前の日本が麻薬密売で戦争に至った真実を暴露することは、何よりも大切だろう。
 

 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)

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 「日本凄い病」の患者たちよ、太平洋戦争のすさまじい戦費は、どこから降ってきたのか?
 戦艦ヤマト、零戦、膨大な兵器は、どうやって購入したのか?
 戦前の日本は貧しかった。日本には、繊維産業以外、これといった金づるなど、どこにもなかった。それなのに、あの莫大な兵器をどうやって調達できたのか? 天照大神や神武天皇が、空から金塊を撒いたのか?
 違う……日本の資金の大半は、モルヒネやヘロインを東アジアで売りさばいて作られたのだ。


 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

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 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
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以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

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 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

  霊界への扉

カテゴリ : 未分類
 東日本大震災で、東北太平洋岸のタクシー運転手たちは、たくさんの幽霊との接点を持った。不可思議な死者との接点を民話として調べて回った工藤優花さんという若い女性がいて、タクシー運転手の実体験を卒論にまとめて公開している。

 私は、彼女を民俗学研究者として深く尊敬している。民俗学を霊界にまで連れていってくれる価値ある仕事だ。
 今回は、ネット上から、当時の霊体験の文献を集めてみた。

 石巻のタクシー運転手は、なぜ幽霊を見たのか? 工藤優花さんが語る被災地の「グレーゾーン」
 https://www.huffingtonpost.jp/2016/03/07/yuka-kudo_n_9398868.html

 東日本大震災から3カ月ほどたった、ある深夜の出来事だった。タクシー運転手の男性がJR石巻駅(宮城県石巻市)の近くで客を待っていると、もう初夏だというのに、真冬のようなふかふかのコートを着た30代くらいの女性が乗車した。

 目的地を聞くと「南浜まで」と一言。震災の津波で、壊滅的な被害を受けた地区だった。運転手は不審に思って「あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか?」と聞いた。
 すると女性は震える声で答えた。「私は死んだのですか?」。運転手が慌てて後部座席を確認すると、そこには誰も座っていなかった。

 これは怪談ではない。1月末に発売された「呼び覚まされる霊性の震災学」(新曜社)に収録された女子大生の卒論に書いてある内容だ。東北学院大学教養学部4年生の工藤優花(くどう・ゆか)さん(22)は、震災の死者数が約3500人と最多となった宮城県石巻市の人々に「幽霊を見た経験がないか?」と聞いて回る実地調査をした。

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 「私は死んだのですか?」東北被災地で幽霊が出現した意味
生者と死霊の遭遇が意味すること
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54664

宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが霊と遭遇したという事例は、社会学を学ぶ大学院生の調査としても話題になった。

石巻駅で乗せた30代の女性は、初夏であるにもかかわらずファーのついたコートを着ていた。目的地を聞くと、大津波で更地になった集落だった。

「コートは厚くないか?」とたずねたところ、「私は死んだのですか」と答えるのでミラーを見ると、後部座席にはだれも坐っていなかった……。

夏の深夜、小学生くらいの女の子がコート、帽子、マフラー、ブーツなどの厚着をして立っていた。「お母さんとお父さんは?」とたずねると「ひとりぼっち」と答えた。

女の子の家があるという場所の近くまで乗せていくと、感謝をあらわし降りたと思ったら、その瞬間に姿を消した……。

私自身、被災地になんども足を運んでいるが、霊体験を聞いたことはない。またなにかしらの怪異な出来事に遭遇した経験もない。
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 「霊体験」に隠された被災地の病理~ただの不思議体験ではない
ルポ・東日本大震災から6年
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51144

「被災地で、炊き出しのためのオニギリづくりが行われていた。その中で、地元に暮らす女性が、Fさんと楽しく話をしながらオニギリをにぎっていた。トイレへ行ってもどってきたところ、Fさんがいなくなっていた。
どうしたのかな、と思って別の人に尋ねたところ、『いるわけないよ。だってFさんは津波で流されたんだから』と言われた」

「Gさんという女性が津波で流された。何日しても遺体は見つからなかった。恋人だったH君も捜索に加わって、なんとか彼女の携帯電話だけは見つけることができた。
H君はその携帯電話を形見として手元に保管していた。

ある日、彼は何気なく携帯電話を耳に当ててみた。すると、電話の向こうから、Gさんの声が聞こえてきた。『私のこと毎日思ってくれてありがとう』。
天国からGさんがメッセージをくれたのだと思った」

「I君は、お父さんとおじいさんを震災で亡くした。お父さんの遺体は見つかったが、おじいさんは行方不明だった。
春に葬儀を終えた後、1匹の野良猫が家にやってきた。餌をやっていると、野良猫は庭にいついた。かわいいな、と思っていた。

ある夜、その猫がI君を呼ぶように手招きをする。ついていったところ、おじいさんがよく着ていた服が一枚だけ落ちていた。I君は喜んで、その服を骨の代わりに骨壷に納めて供養してあげた。その猫はその日以降姿を見せなくなった」
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  大宅賞作家が記録した3・11後の「霊体験」
 https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20170809-OYT8T50014/

  宮城県石巻市の遠藤由理さん(42=年齢は取材時)は、津波で3歳9か月の長男・康生こうせいちゃんを失った。
 康生ちゃんは目がクリクリとした、とても愛らしい子どもだった。震災から約1か月後、遺体は見つかった。震災後、遠藤さん一家は「みなし仮設住宅」に住んでいたが、不思議な体験をしたのは、震災から2年たった頃。
 「康ちゃん、どうしてるんだろ。会いたいなあ」という思いが頂点に達したときだったという。

 「二〇一三年のいつでしたか、暖かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の四人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、
『康ちゃん、こっちで食べようね』
 そう声をかけて『いただきます』と言った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」

 (中略)

『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃ動かして見せて』
 心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ。

 『康ちゃん、ありがとう』
 こんな近い距離で私たちを見てるんだ。そう思ったとき、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね。そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです」

(「『ママ、笑って』――おもちゃを動かす三歳児」から)
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 【私の経験談】震災後に多発した心霊現象
 https://note.com/beitogabaito/n/n8fdb88eb2e39

 実話系・怖い話「東日本大震災の体験」
 https://xn--u9jv84l7ea468b.com/kaidan/133wa.html

  携帯に届いたメール『ありがとう』――被災地での「霊体験」を初告白。遺族たちはこうして絶望から救われた
 https://www.dailyshincho.jp/article/2017/03101830/?all=1

 遺族が経験した「3.11後の霊体験」とは何か
亡くなった時間に、お別れのあいさつに
 https://toyokeizai.net/articles/-/160974

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 まだまだ、たくさんあるのだが、今回は、この程度にしておこう。
 実は、東日本大震災後、私も何回か霊体験をした。これは何度がブログに書いているが、2012年、札幌の講演会に講師として招かれて、エブリという自分の車で向かった。これは車泊できるので、宿泊代を節約できると思ったからだ。

 その後、網走に走り、開設されたばかりの「網走監獄博物館」に入った。ここで、たくさんの写真を撮影しようと思ったのだが、突然シャッターが押せなくなったり、撮影したはずの写真が、すべて白いカーテンのようなものが写っているだけで、完全にカメラが壊れたと思ったのだが、帰路、再び写すと正常に戻っていた。
 網走監獄の教誨礼拝室と処刑台を一生懸命、観察したのがまずかったかなと思った。

 それから大間を経由して、45号線を南下したのだが、久慈から田老に出て、立ち小便して車に戻ると、車内が、猛烈に魚とたばこ臭い。
 もちろん私は非喫煙者だ。釜石まで来て、また立ち小便に出ると、今度は臭いが消えていた。
 私は、「津波で亡くなった漁師さんが乗り込んで、釜石で降りたのだ」と思った。

 今回、このブログを書こうと思った理由も、千葉の友人から、「部屋にオーブが出現した」と数回、電話がかかってきたからだ。
 オーブとは、どのようなものか? 知人の故、生島秋雄さんからいただいたCDをYouTubeに投稿してあるので紹介する。(コントラストが薄く見えにくくなっている)
 https://www.youtube.com/watch?v=wWEklIVIqcA&ab_channel=%E3%81%82%E3%81%BE%E3%81%A0%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%8B%E3%81%84

 私は、若い頃から霊感が強い方で、撮影した写真にオーブが写り込むのも珍しくなかった。紹介しようと思ったが、古いパソコンが動いてくれない。
 田辺鶴英と一緒に仕事していた当時は、ずいぶん、たくさん写ったものだ。
 大本教、亀山城址に行ったときは、まるで星空のようなオーブ写真が撮れた。それ以来、なぜか大本教信者との縁がたくさんできたのが不思議だった。

 だが、なぜか数年前から、オーブと無縁になり、写真にも写らなくなった。神社を参拝しても、まったく写らない。霊感体質が変わったのかもしれない。
 実は、冒頭に紹介した霊体験については、古い民話にも、似たような故事がたくさん記録されている。以下の百物語は、リアリティのある霊民話が並んでいて、私には、どれも、本当の体験に見えるのだ。

 http://hukumusume.com/douwa/pc/100monogatari/002.htm

  むかしむかし、ある村に、一軒のアメ屋がありました。
 ある年の夏の事、夜も遅くなったので、アメ屋さんがそろそろ店を閉めようかと思っていると、
 トントントントン
と、戸を叩く音がしました。

「はて、こんな遅くに誰だろう?」
と、アメ屋さんが戸を開けてみますと、一人の女の人が立っていました。
「あの、アメをくださいな」
「あっ、はい。少々お待ちを」
 アメ屋さんは、女の人が持ってきたうつわに、つぼから水アメをすくって入れました。
「へい。一文(いちもん→30円ほど)いただきます」
「ありがとう」
 女の人はお金を払うと、消えるように行ってしまいました。

 その次の日。
 今日もアメ屋さんが戸締まりをしようと思っていると、また戸を叩く音がします。
「あの、アメをくださいな」
 やはり、あの女の人でした。
 女の人は昨日と同じようにアメを買うと、スーッと、どこかへ帰って行きます。
 それから毎晩、女の人は夜ふけになるとアメを買いに来ました。
 次の日も、その次の日も、決まって夜ふけに現れては、アメを買って行くのです。

 さて、ある雨の夜。
 この日は隣村のアメ屋さんが訪ねて来て、色々と話し込んでいたのですが。
「あの、アメをくださいな」
と、いつものように現れた女の人を見て、隣村のアメ屋さんはガタガタ震え出したのです。
「あ、あ、あの女は、ひと月ほど前に死んだ、松吉(まつきち)のかかあにちげえねえ」
「えっ!」
 二人は、顔を見合わせました。
 死んだはずの女の人が、夜な夜なアメを買いに来るはずはありません。
 しかし隣村のアメ屋は、間違いないと言います。
 そこで二人は、女の後をつけてみることにしました。

 アメを買った女の人は林を抜け、隣村へと歩いていきます。
 その場所は、
「はっ、墓だ!」
 女の人は墓場の中に入っていくと、スーッと煙のように消えてしまったのです。
「お、お化けだー!」
 二人はお寺に駆け込むと、和尚(おしょう)さんにこれまでの事を話しました。
 しかし和尚さんは、
「そんな馬鹿な事があるものか。きっと、何かの見間違いじゃろう」
と、言いましたが、二人があまりにも真剣なので、仕方なく二人と一緒に墓場へ行ってみる事にしました。

 すると、
 オンギャー、オンギャー
と、 かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。
 声のする方へ行ってみると、
「あっ、人間の赤ん坊じゃないか! どうしてこんなところに?!」
 和尚さんがちょうちんの明かりをてらしてみると、そばに手紙がそえられています。
 それによると、赤ん坊は捨て子でした。

「手紙によると、捨てられたのは数日前。それから何日もたつのに、どうして生きられたんじゃ?」
 ふと見ると、あの女の人が毎晩アメを買っていったうつわが、赤ん坊の横に転がっていたのです。

 そして、赤ん坊が捨てられたそばの墓を見ると。
「おお、これはこの前に死んだ、松吉の女房の墓じゃ!」
 何と幽霊が、人間の子どもを育てていたのです。
「なるほど、それでアメを買いに来たんだな。それも自分の村では顔を知られているので、わざわざ隣村まで」

 きっと、自分の墓のそばに捨てられた赤ん坊を、見るに見かねたにちがいありません。
 和尚さんは心を打たれて、松吉の女房の墓に手を合わせました。
「やさしい仏さまじゃ。この子は、わしが育てるに、安心してくだされよ」
 こうしてお墓に捨てられた赤ん坊は、和尚さんにひきとられました。
 それからあの女の人がアメ屋さんに現れる事は、もう二度となかったそうです。
 ******************************************************************

 小泉八雲の霊体験物語は、どれもリアリティがあって、実話を土台にしていることがよく分かる。
 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person258.html

 うちの近所にも、いわゆる心霊スポットがたくさんあって、とりわけ恵那峡大橋では、遺体が大井ダムに上がった翌日、紅岩山荘に行ったら、全身金縛りに遭って怖い思いをした。
 また恵那峡源済橋でも怖い思いをした話を聞く。

 これらは、我々の世界の、あちらこちらに霊界との接点があり、扉が開いていることを意味していると思う。
 誰だったかは忘れたが、今年の11月を過ぎたら、霊界と現実界の距離が近づいてきて、霊的感受性の強い人は、霊界との障壁が薄くなって、両者の交流が深まると言っている人がいたと思う。

 今回、私はトランプが相当に汚い手(モサドという諜報機関の力を借りて)で大統領選に勝利すると思っていたが、どうも結果はバイデンになったようだ。
 これも、時代が本質的に変化していることの反映かもしれない。
 ただし、バイデンは、中国共産党と関係があって、今後、予断を許さない。むしろ、カマラ・ハリスの時代が来るのかも知れない。

 なお、大紀元や新唐人が、民主党に対して激しく誹謗中傷し、露骨にトランプを擁護しているのを見て、吐き気を催すような嫌悪感を抱いた。これでは、彼らが宣伝してきた法輪功弾圧の真偽まで疑問になってしまう。
 いったい、どうして彼らは、極右暴走を始めたのだろう?

 何か、時代の背後で、理解できないほどの変化が起きているような気がする。
 

世襲利権のたらい回し 2006年・2007年の古い記事から

カテゴリ : 未分類
  大マスコミが書かない 「二世」、「三世」議員による総理たらい回し(1)
 2006年、青山禎一

 ここ数ヶ月、連日、大手メディアは自民党の総裁選挙でもちきりである。福田氏が降りてからは、実質、安倍晋三官房長官の独走となっている。

 佐藤清文氏の言ではないが、「今度の自民党の総裁選の立候補者の顔つきが社長ではなく、課長を思い起こさせてしまうように、今の日本政治のさびしい現状をよく表わしているのでしょう。」ということになる。
 保守なら保守でもよいが、敢えて敵をつくり単に国民の関心をひきつけるだけで、何ら理念のかけらも感じられない一国の総理では、国民は浮かばれない。

 その安倍官房長官の総理としての資質、資格等、たとえばまったく経済・財政・金融オンチであるといったことについては、「独立系メディア」でもあれこれふれてきたので、ここではでは個々にふれない。

 ここで敢えて問題にしたいのは、福田康夫氏や河野太郎氏を含め、9月選挙の自民党総裁(総理)選の候補となっている(なった)ひとの大部分が三世議員であることだ。

 以下のコラム(データ)は昨年の衆議院議員選挙の前に書いたコラムである。データ中、黄色で示した議員が今回の総理候補及び小泉首相である。

 それらを以下に書き出してみた。

 麻生太賀吉  → 麻生太郎
 安倍寛     → 安倍晋太郎  → 安倍晋三
 小泉又次郎 → 小泉純也 → 小泉純一郎
 河野一郎 ・河野謙三 → 河野洋平  → 河野太郎
 谷垣専一 → 谷垣禎一
 福田赳夫 ・福田宏一 → 福田康夫

 これは何も総理候補に限らない。現職の大臣にしてもそうだ。たとえば、文部科学大臣の小坂憲次氏(長野一区)についてもそうだ。

 小坂善之助 → 小坂順造  → 小坂善太郎・小坂徳三郎 → 小坂憲次

 一体、今の日本はどうなっているんだ、と思わざるを得ない。国会が小泉チルドレンのようなひとびとと、二世、三世の巣窟となっている実態を危惧せざるを得ない。
 もちろん、これは何も自民党だけの問題ではない。民主党とておなじことだが、まだ野党という立場にいる分、許せないことはない。

 昨年も書いたように、本来、多種、多様で多彩な人材が国政に議員として行くべきと私は常々思っているが、日本では安易な世襲によって、議員のみならず大臣、総理までが二世、三世議員で占められ、それらのポストがたらい回しされている。

 小泉政権で短期間のうちに日本社会が格差社会となったことについて、安倍氏は格差を是正すると提起している。しかし、政治の世界では、数10年も前から各社社会ができあがっている。

 衆参ともに、二世、三世議員が政治家としての条件、資質、能力をよそに、ポスト利権を手にし続けている。

 こんな現実を直視すると、本来、国政でがんばってもらいたい、いわばまともな人材が二の足を踏むことは言を待たない。

 しかも、大マスコミの政治部は、9月のデキレース総裁選でバカ騒ぎするばかりで、二世、三世議員による総裁たらい回し問題など、総理候補に嫌われるテーマはハナにもかけず、記事にもしないありさまだ。

 小泉政権で日本社会は、「社会経済的弱者切り捨て」、まさにあっという間に激しい格差社会となった。

 今後、安倍政権が誕生すれば、間違いなく、「戦争ができる普通の国」に向かって一直線、まっしくぐらとなるだろう。

 ここ10年、さらにここ数年の日本の状況なら欧州諸国、韓国なら若者の暴動が起きてもおかしくない。

 この国の国民は、一体どこまでお人好しで忍耐強いのだろうか? 小泉8月15日靖国参拝支持率が高いのは20歳代の若者だという。

 巨額の累積債務を返済し、戦場に送られるのは若者なのに! お任せ民主主義、観客民主主義の弊害が来るべきところまで来たと言うことか。

末期的症状を呈する自民

その5 「二世」、「三世」議員 2005.8.14

 長期に政権、権力に居座ることの一つの大きな弊害は、官僚出身議員とともに、二世、三世議員が増えることである。これは特に政権政党である自民党において顕著である。

 本来、より多様で多彩な人材が国政に行くべきだが、安易な世襲によって多くの二世、三世議員が誕生している現実を直視するば、まともな人材が二の足を踏むのも分かるというものである。

 事実、給与以外に政務調査費、旅費交通費などを含めると年間一人当たり3000万円近くの税金が政権与党の世襲議員に払われることになる。世襲そのものが一種の利権構造を生み出す土壌を醸成していると言ってもよい。

 以下、あいうえお順に、自民党の二世、三世議員をリスト化した。リストの見方は、左端から右端に向か曽祖父・曽祖母―祖父・祖母─父・母─息子・娘の順となる。

 自民党(衆院、参院)の二世、三世議員リスト

逢沢寛      → 逢沢英雄  → 逢沢一郎
愛知揆一    → 愛知和男 (養子) → 愛知治郎
赤城宗徳    → 赤城徳彦(孫)
麻生太賀吉  → 麻生太郎
安倍寛     → 安倍晋太郎  → 安倍晋三
甘利正     → 甘利明
池田勇人   → 池田行彦(娘婿)
石原慎太郎  → 石原伸晃
石破二朗    → 石破茂
伊藤宗一郎  → 伊藤信太郎
稲葉修     → 稲葉大和
臼井尚一   → 臼井日出男
宇野宗佑    → 宇野治(娘婿)
浦野幸男    → 浦野休興
江崎真澄    → 江崎鉄磨 ・江崎洋一郎  
江藤隆美    → 江藤拓
大石八治    → 大石千八 → 大石秀政
大野伴睦    → 大野明・大野つや子(明の嫁)
小此木彦三郎 → 小此木八郎
小渕光平   → 小渕恵三  → 小渕優子
奥野誠亮   → 奥野信亮
梶山静六   → 梶山弘志
加藤精三   → 加藤紘一
加藤高蔵   → 狩野昭男(娘婿)・狩野安
金子一平   → 金子一義
亀井善彰   → 亀井善之
唐沢俊樹   → 唐沢俊二郎
川崎克     → 川崎秀二  → 川崎二郎
岸信介     → 安倍晋太郎 (娘婿) →岸信夫 (安倍家から岸家へ養子入り)
岸田正記   → 岸田文武 → 岸田文雄
北川石松   → 北川知克
北村義和   → 北村直人
木村文男   → 木村守男 → 木村太郎
倉成正     → 倉成正和
小泉又次郎 → 小泉純也 → 小泉純一郎
河野一郎 ・河野謙三 → 河野洋平  → 河野太郎
河本敏夫  →  河本三郎
久野忠治   →  久野統一郎
高村坂彦   →  高村正彦
小坂善之助 → 小坂順造  → 小坂善太郎・小坂徳三郎 → 小坂憲次
後藤田正晴 → 後藤田正純(正晴の甥の子)
近藤元次   → 近藤基彦
桜内幸雄  → 桜内義雄
左藤義詮  → 左藤恵 → 左藤章
佐藤栄作  → 佐藤信二
斉藤滋与史→ 斉藤斗志二
斎藤昇    → 斎藤十朗
塩崎潤    → 塩崎恭久
塩谷一夫  → 塩谷立
島村一郎  → 島村宜伸
鈴木善幸  → 鈴木俊一
砂田重政  → 砂田重民 → 砂田圭佑(重民の甥)
住栄作    → 住博司
関谷勝利  → 関谷勝嗣
世耕弘一  → 世耕政隆 → 世耕弘成(政隆の甥)
園田直    → 園田博之
竹下登   → 竹下亘(弟)
谷川昇   → 谷川和穂
塚原俊郎 → 塚原俊平
田中角栄 → 田中直紀 (娘婿)
谷垣専一 → 谷垣禎一
田村元一 → 田村憲久(甥)
土屋義彦 → 土屋品子
戸井田三郎 → 戸井田徹
渡海元三郎 → 渡海紀三朗
中川一郎  → 中川昭一
中川俊思  → 中川秀直 (娘婿)
中島知久平→ 中島源太郎 → 中島洋次郎
中曽根康弘→ 中曽根弘文
中村庸一郎→ 中村正三郎
中山榮一  → 中山利生
中山福蔵・中山マサ → 中山太郎 ・中山正暉 → 中山泰秀
西銘順治  → 西銘順志郎・西銘恒三郎
丹羽喬四郎→ 丹羽雄哉
野田武夫  → 野田毅 (娘婿)
野田卯一  → 野田聖子 (孫)
橋本龍伍  → 橋本龍太郎
初村滝一郎→ 初村謙一郎
服部安司  → 服部三南雄
葉梨新五郎→ 葉梨信行 → 葉梨康弘
鳩山和夫  → 鳩山一郎  → 鳩山威一郎 →鳩山由紀夫 ・鳩山邦夫
浜田幸一  → 浜田靖一
林大幹一  → 林幹雄
林平四郎  → 林佳介 → 林義郎 → 林芳正
原田昇左右→ 原田令嗣
平井太郎  → 平井卓志 → 平井卓也
平沼騏一郎→ 平沼赳夫 (兄の曾孫→養子)
福田赳夫 ・福田宏一 → 福田康夫
福永健司 → 福永信彦
藤井丙午 → 藤井孝男
元田肇   → 船田中 ・船田享二 ・藤枝泉介 → 船田譲 →船田元
藤本捨助 → 藤本孝雄
古屋善造 → 古屋慶隆 → 古屋亨 →古屋圭司
細田吉蔵 → 細田博之
保利茂   → 保利耕輔
堀内光雄 → 堀内一雄 → 堀内光雄
松永東    → 松永光(東の養子)
町村金五   → 町村信孝
水野清     → 水野賢一(中尾栄一 の息子→養子)
三ツ林幸三 → 三ツ林弥太郎 → 三ツ林隆志
三原朝雄   → 三原朝彦
御法川英文 → 御法川信英
宮沢裕    → 宮沢喜一 ・宮沢弘 → 宮沢洋一
宮下創平   → 宮下一郎
武藤嘉門  → 武藤嘉一 → 武藤嘉文
森矗昶 ・岩瀬亮 → 森曉・森清・森美秀 →森英介
大平正芳  → 森田一(娘婿)
保岡武久  → 保岡興治
山下元利  → 山下英利
山本富雄  → 山本一太
渡辺美智雄→ 渡辺喜美
綿貫佐民  → 綿貫民輔
***************************************************************

  大マスコミが書かない「二世」、「三世」議員による総理たらい回し(2) 2007

   海外メディアは、この間安倍政権、安倍首相がしてきたことを酷評している。

 生けるしかばね、翼が短かったタカ、日本流のハラキリ……。安倍首相の辞意表明を受けた海外主要メディアの報道ぶりは辛口だった(朝日新聞)。

 日本のメディアはどうだろう? 2007年9月12日以降、誰が新総理となるかでメディアは持ちきりである。

 以下のブログを見て欲しい。昨年秋に書いた「大マスコミが書かない『二世』『三世』議員による総理たらい回し」である。

 以下のブログの安倍を麻生なり福田に読み替えれば、そのまま今でも通用することが日本で起きている。

 私が『二世』『三世』議員問題をブログに書くのは、4回目だ。一回目の「末期的症状を呈する自民、「二世」、「三世」議員」を書いたのは、小泉郵政民営化衆院選挙直前、すなわち2005年8月14日であった。

 わずか2年の間に4回も『二世』『三世』議員問題を書かなければならないほど、日本の政治、とくに総理や大臣の資質、素質、能力はどうしようもない状態にある。

 以下は昨年9月21日に書いたブログで指摘した総理たらい回しのもととなる基礎情報だ。

 麻生太賀吉  → 麻生太郎
 安倍寛     → 安倍晋太郎  → 安倍晋三
 小泉又次郎 → 小泉純也 → 小泉純一郎
 河野一郎 ・河野謙三 → 河野洋平  → 河野太郎
 谷垣専一 → 谷垣禎一
 福田赳夫 ・福田宏一 → 福田康夫

 いつものことながら、大メディアは『二世』『三世』議員による総理たらい回し問題を書かず、まして批判していない。

 だが、いわば世襲で実質数1000万円の歳費、報酬が得られる国会議員、それも幼少から回りにちやほやされ、世間知らずのまま子供がそのまま大人になった二世、三世議員に、国民年金問題、格差社会など参議院議員選挙の一大争点となった国民生活の実態、実情などわかるはずもないのではないか?

 まして、世間知らず、リーダーとしての資質も素質もない総理に、大臣や幹部になりたいがために国会議員が取り入るさまは、見たくもなく、無様(ぶざま)である。

 まして.....チルドレンなど論外だ。主体的、自主的に判断できない人間が何で国会議員に、と思わざるを得ない。教育上もよろしくないのは言うまでもない。

 これは自民党から脱出した小沢、鳩山など民主党幹部にも妥当することである。しかし、実質的に半世紀以上、自民の一党独裁状態がつづく日本の国政を憂慮し、敢えて与党から抜け出て、背水の陣で闘っている彼らと自民の二世、三世とは違うだろう。
 
 いずれにしても、日本の国政、とくに自民党政治では、我々は北朝鮮を嗤えない。

 二世、三世議員が総理や大臣はもとより、国会議員を「世襲する」日本の政治風土を根底から変えないと、日本の将来は危うい。
 これは有権者、マスコミが肝に銘じなければならないことでもある。

大マスコミが書かない 「二世」、「三世」議員による総理たらい回し 2006.8.27、9.21

 ここ数ヶ月、連日、大手メディアは自民党の総裁選挙でもちきりである。福田氏が降りてからは、実質、安倍晋三官房長官の独走となっている。

 佐藤清文氏の言ではないが、「今度の自民党の総裁選の立候補者の顔つきが社長ではなく、課長を思い起こさせてしまうように、今の日本政治のさびしい現状をよく表わしているのでしょう。」ということになる。保守なら保守でもよいが、敢えて敵をつくり単に国民の関心をひきつけるだけで、何ら理念のかけらも感じられない一国の総理では、国民は浮かばれない。

 その安倍官房長官の総理としての資質、資格等、たとえばまったく経済・財政・金融オンチであるといったことについては、「独立系メディア」でもあれこれふれてきたので、ここではでは個々にふれない。

 ここで敢えて問題にしたいのは、福田康夫氏や河野太郎氏を含め、9月選挙の自民党総裁(総理)選の候補となっている(なった)ひとの大部分が三世議員であることだ。

 以下のコラム(データ)は昨年の衆議院議員選挙の前に書いたコラムである。データ中、黄色で示した議員が今回の総理候補及び小泉首相である。

 それらを以下に書き出してみた。

 麻生太賀吉  → 麻生太郎
 安倍寛     → 安倍晋太郎  → 安倍晋三
 小泉又次郎 → 小泉純也 → 小泉純一郎
 河野一郎 ・河野謙三 → 河野洋平  → 河野太郎
 谷垣専一 → 谷垣禎一
 福田赳夫 ・福田宏一 → 福田康夫

 これは何も総理候補に限らない。現職の大臣にしてもそうだ。たとえば、文部科学大臣の小坂憲次氏(長野一区)についてもそうだ。

 小坂善之助 → 小坂順造  → 小坂善太郎・小坂徳三郎 → 小坂憲次

 一体、今の日本はどうなっているんだ、と思わざるを得ない。国会が小泉チルドレンのようなひとびとと、二世、三世の巣窟となっている実態を危惧せざるを得ない。もちろん、これは何も自民党だけの問題ではない。民主党とておなじことだが、まだ野党という立場にいる分、許せないことはない。

 昨年も書いたように、本来、多種、多様で多彩な人材が国政に議員として行くべきと私は常々思っているが、日本では安易な世襲によって、議員のみならず大臣、総理までが二世、三世議員で占められ、それらのポストがたらい回しされている。

 小泉政権で短期間のうちに日本社会が格差社会となったことについて、安倍氏は格差を是正すると提起している。しかし、政治の世界では、数10年も前から各社社会ができあがっている。

 衆参ともに、二世、三世議員が政治家としての条件、資質、能力をよそに、ポスト利権を手にし続けている。

 こんな現実を直視すると、本来、国政でがんばってもらいたい、いわばまともな人材が二の足を踏むことは言を待たない。

 しかも、大マスコミの政治部は、9月のデキレース総裁選でバカ騒ぎするばかりで、二世、三世議員による総裁たらい回し問題など、総理候補に嫌われるテーマはハナにもかけず、記事にもしないありさまだ。

 小泉政権で日本社会は、「社会経済的弱者切り捨て」、まさにあっという間に激しい格差社会となった。

 今後、安倍政権が誕生すれば、間違いなく、「戦争ができる普通の国」に向かって一直線、まっしくぐらとなるだろう。

 ここ10年、さらにここ数年の日本の状況なら欧州諸国、韓国なら若者の暴動が起きてもおかしくない。

 この国の国民は、一体どこまでお人好しで忍耐強いのだろうか? 小泉8月15日靖国参拝支持率が高いのは20歳代の若者だという。

 巨額の累積債務を返済し、戦場に送られるのは若者なのに! お任せ民主主義、観客民主主義の弊害が来るべきところまで来たと言うことか。

新大臣も「世襲」で「族」
青山貞一
 掲載日:2007.6.1


 2007年5月31日、松岡前農水大臣の自殺に伴い新たに就任した大臣の赤城徳彦衆議院議員は二世議員である。

 それよりまえ、政治資金の収支報告書の虚偽報告問題で国務大臣を辞任した佐田行革大臣の後任である渡辺喜美衆議院議員も二世議員である。

 その他、安倍総理はじめ各閣僚や自民党三役なども二世、三世議員ばかりである。

◆青山貞一:大マスコミが書かない二、三世議員総理たらい回し
掲載日:2006.8.2007、9.21更新

 松岡前大臣の後任となった赤城大臣は、以下のプロフィールを見れば分かるように、農水省官僚出身の族議員でもある。


赤城 徳彦(あかぎ のりひこ、1959年4月18日 - )

 元官僚の政治家。自由民主党、番町政策研究所(旧名称:新政策研究会、通称:河本派~高村派)所属の代議士6期目。座右の銘は「政治家は一本のろうそくたれ」。松岡利勝の死をうけ、2007年6月から農林水産大臣。

 1983年(昭和58)東京大学法学部卒業。同年農林水産省へ入省。林野庁林政部、大臣官房企画官等を経て退官。祖父赤城宗徳の後を受け、1990年(平成2)2月の総選挙で旧茨城3区から立候補以来6連続当選。以後、政府では総務政務次官、防衛副長官などを歴任。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 「世襲」と「族議員」は自民党議員の最大の特徴といってよいが、この場に及んでもなお「世襲」と「族議員」を大臣にするところに、安倍総理の人事の無神経さと人材の枯渇状況があるのではないか。

 国会議員の数は多いが、国民の代表としての見識、知性など素質と資質をもった人材がいないのだ。

 人材豊富と豪語する自民党だが、なんでかくも二世、三世議員ばかり登用するのか?

 国民の感情を逆撫でする多くが、世襲議員のボンボンや利権に通ずる族議員には、まったく理解されていないこともある。これでは北朝鮮を嗤えない!

 
末期的症状を呈する自民
その5 「二世」、「三世」議員
青山貞一
 掲載日2005.8.14

 長期に政権、権力に居座ることの一つの大きな弊害は、官僚出身議員とともに、二世、三世議員が増えることである。これは特に政権政党である自民党において顕著である。

 本来、より多様で多彩な人材が国政に行くべきだが、安易な世襲によって多くの二世、三世議員が誕生している現実を直視するば、まともな人材が二の足を踏むのも分かるというものである。

 事実、給与以外に政務調査費、旅費交通費などを含めると年間一人当たり3000万円近くの税金が政権与党の世襲議員に払われることになる。世襲そのものが一種の利権構造を生み出す土壌を醸成していると言ってもよい。

 以下、あいうえお順に、自民党の二世、三世議員をリスト化した。リストの見方は、左端から右端に向か曽祖父・曽祖母―祖父・祖母─父・母─息子・娘の順となる。
 

 自民党(衆院、参院)の二世、三世議員リスト

逢沢寛      → 逢沢英雄  → 逢沢一郎
愛知揆一    → 愛知和男 (養子) → 愛知治郎
赤城宗徳    → 赤城徳彦(孫)
麻生太賀吉  → 麻生太郎
安倍寛     → 安倍晋太郎  → 安倍晋三
甘利正     → 甘利明
池田勇人   → 池田行彦(娘婿)
石原慎太郎  → 石原伸晃
石破二朗    → 石破茂
伊藤宗一郎  → 伊藤信太郎
稲葉修     → 稲葉大和
臼井尚一   → 臼井日出男
宇野宗佑    → 宇野治(娘婿)
浦野幸男    → 浦野休興
江崎真澄    → 江崎鉄磨 ・江崎洋一郎  
江藤隆美    → 江藤拓
大石八治    → 大石千八 → 大石秀政
大野伴睦    → 大野明・大野つや子(明の嫁)
小此木彦三郎 → 小此木八郎
小渕光平   → 小渕恵三  → 小渕優子
奥野誠亮   → 奥野信亮
梶山静六   → 梶山弘志
加藤精三   → 加藤紘一
加藤高蔵   → 狩野昭男(娘婿)・狩野安
金子一平   → 金子一義
亀井善彰   → 亀井善之
唐沢俊樹   → 唐沢俊二郎
川崎克     → 川崎秀二  → 川崎二郎
岸信介     → 安倍晋太郎 (娘婿) →岸信夫 (安倍家から岸家へ養子入り)
岸田正記   → 岸田文武 → 岸田文雄
北川石松   → 北川知克
北村義和   → 北村直人
木村文男   → 木村守男 → 木村太郎
倉成正     → 倉成正和
小泉又次郎 → 小泉純也 → 小泉純一郎
河野一郎 ・河野謙三 → 河野洋平  → 河野太郎
河本敏夫  →  河本三郎
久野忠治   →  久野統一郎
高村坂彦   →  高村正彦
小坂善之助 → 小坂順造  → 小坂善太郎・小坂徳三郎 → 小坂憲次
後藤田正晴 → 後藤田正純(正晴の甥の子)
近藤元次   → 近藤基彦
桜内幸雄  → 桜内義雄
左藤義詮  → 左藤恵 → 左藤章
佐藤栄作  → 佐藤信二
斉藤滋与史→ 斉藤斗志二
斎藤昇    → 斎藤十朗
塩崎潤    → 塩崎恭久
塩谷一夫  → 塩谷立
島村一郎  → 島村宜伸
鈴木善幸  → 鈴木俊一
砂田重政  → 砂田重民 → 砂田圭佑(重民の甥)
住栄作    → 住博司
関谷勝利  → 関谷勝嗣
世耕弘一  → 世耕政隆 → 世耕弘成(政隆の甥)
園田直    → 園田博之
竹下登   → 竹下亘(弟)
谷川昇   → 谷川和穂
塚原俊郎 → 塚原俊平
田中角栄 → 田中直紀 (娘婿)
谷垣専一 → 谷垣禎一
田村元一 → 田村憲久(甥)
土屋義彦 → 土屋品子
戸井田三郎 → 戸井田徹
渡海元三郎 → 渡海紀三朗
中川一郎  → 中川昭一
中川俊思  → 中川秀直 (娘婿)
中島知久平→ 中島源太郎 → 中島洋次郎
中曽根康弘→ 中曽根弘文
中村庸一郎→ 中村正三郎
中山榮一  → 中山利生
中山福蔵・中山マサ → 中山太郎 ・中山正暉 → 中山泰秀
西銘順治  → 西銘順志郎・西銘恒三郎
丹羽喬四郎→ 丹羽雄哉
野田武夫  → 野田毅 (娘婿)
野田卯一  → 野田聖子 (孫)
橋本龍伍  → 橋本龍太郎
初村滝一郎→ 初村謙一郎
服部安司  → 服部三南雄
葉梨新五郎→ 葉梨信行 → 葉梨康弘
鳩山和夫  → 鳩山一郎  → 鳩山威一郎 →鳩山由紀夫 ・鳩山邦夫
浜田幸一  → 浜田靖一
林大幹一  → 林幹雄
林平四郎  → 林佳介 → 林義郎 → 林芳正
原田昇左右→ 原田令嗣
平井太郎  → 平井卓志 → 平井卓也
平沼騏一郎→ 平沼赳夫 (兄の曾孫→養子)
福田赳夫 ・福田宏一 → 福田康夫
福永健司 → 福永信彦
藤井丙午 → 藤井孝男
元田肇   → 船田中 ・船田享二 ・藤枝泉介 → 船田譲 →船田元
藤本捨助 → 藤本孝雄
古屋善造 → 古屋慶隆 → 古屋亨 →古屋圭司
細田吉蔵 → 細田博之
保利茂   → 保利耕輔
堀内光雄 → 堀内一雄 → 堀内光雄
松永東    → 松永光(東の養子)
町村金五   → 町村信孝
水野清     → 水野賢一(中尾栄一 の息子→養子)
三ツ林幸三 → 三ツ林弥太郎 → 三ツ林隆志
三原朝雄   → 三原朝彦
御法川英文 → 御法川信英
宮沢裕    → 宮沢喜一 ・宮沢弘 → 宮沢洋一
宮下創平   → 宮下一郎
武藤嘉門  → 武藤嘉一 → 武藤嘉文
森矗昶 ・岩瀬亮 → 森曉・森清・森美秀 →森英介
大平正芳  → 森田一(娘婿)
保岡武久  → 保岡興治
山下元利  → 山下英利
山本富雄  → 山本一太
渡辺美智雄→ 渡辺喜美
綿貫佐民  → 綿貫民輔
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 引用以上

 何分にも、上記、青山禎一氏の有意義な論評は、今から15年も前のものなので、我々の世代では、現在よりはるかにリアリティがあるのだが、今の20才代では、名前を見てもイメージも浮かばないかも知れない。
 だが、ところどころ、例えば岸信夫とか、山本一太とか石原伸晃とかの現役で知られた名前も出ているものの、小泉進次郎の名前はない。

 実は、小泉家こそは、議員利権巣窟のなかでも、岸・安倍家とともにトップで出てくるべきブランドなのだ。

 初代、小泉又次郎は、全身に刺青を掘ったホンマモンのヤクザ総元締めで、西の山口組に張り合う東の小泉組の親分で、鳶職・口入れ稼業だった。もちろん、稲川会の創始者の一人でもある。
 明治末には衆議院議員となり、以来38年間を関東政界の顔役として大臣を歴任しながら過ごす。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%8F%88%E6%AC%A1%E9%83%8E

 この又次郎の養子となったのが、小泉家の本当の先祖、小泉純也である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E7%B4%94%E4%B9%9F

 事情は上のリンクに書いてあるのだが、1930年代に又次郎の娘と駆け落ちしたのはいいが、又次郎の養子となって小泉に改名後、すぐに岸信介の配下となり、朝鮮における日本陸軍の麻薬・武器販売秘密組織「昭和通商」の事務員になったことが分かっている。

 このとき不思議なことがあった。上のリンクでは、目出度い苦労話が描かれているが、実際には、加世田の網元、名家だった鮫島家の子供なら、加世田役場の記録にあるはずだが、純也の記録だけは探しても見つからないのだ。住民票、義務教育共にだ。
 その後、鹿児島信金の職員、昭和通商の職員としての記録はある。

 実は、純也は、児玉誉士夫と同じ、朝鮮李王朝の両班階級から、日本人の戸籍を買ったのではないか(背乗)という疑惑が持たれている。
 それが、小泉純一郎訪朝の人間関係に生きたのではないかという観測もある。
 だが、資料が少なすぎて断定には至らない。

 純也の長男である小泉純一郎に関しても、不可解な疑惑が複数ある。彼は、殺人犯ではないかというものだ。
 https://ameblo.jp/worldforumnet/entry-10313315719.html

 これも、防衛相だった純也が純一郎の犯罪を隠蔽するために、彼を英国に留学させたという告発が、たくさん提起されている。(上のリンクの下の方にある)

 また純一郎の長男、進次郎についても、稲川会大幹部が同席した写真が出回っていて、日本最大級の暴力団と直接のつながりを暴露されている。
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4791082&id=54664293

 このように、小泉家は4代にわたって、異様な疑惑を抱えながら世襲の議員利権を享受していて、青山禎一氏が、岸・安倍家とともに日本を代表する議員利権一族と評するのも当然であろう。

 稲川会というのは、通名、清田次郎(辛炳圭)という日本を代表する博徒暴力団組織だが、構成員のほぼ全員が北朝鮮系在日者で占められている。
 つまり、小泉純也・純一郎・進次郎という一族の血統は、北朝鮮と深い関係を持っていることを意味している。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E7%82%B3%E5%9C%AD

 この意味では、岸信介・安倍晋三一族も同じで、秀吉が朝鮮侵攻にあって陶工を連れ帰って住まわせたことで知られる、鹿児島県の加世田(田布施)、山口県の田布施が、深い関係にあって、日本の明治以来の政権人脈を生み出していることを知る人なら、田布施という地名に特別の意味があることに気づいているだろう。
 https://blog.goo.ne.jp/thinklive/e/bcb6b3e28d6e97172f4d1b1b0a98891a

 実は、岸信介もまた、李朝両班出身で、日本人戸籍を買ったのではないかという疑惑を持たれている。
 それどころか、甥の安倍晋太郎は、もしかしたら李家の直系血統=李晋ではないかとの噂まで出ている。
 https://togetter.com/li/1436652

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45140

 今の段階では、与太話にすぎないが、拉致問題の李方子=恵の伝説と併せて、あまりにも話ができすぎているので、もしかして真相が暴露されたら、とんでもない近代史の奇っ怪な謎が解けるかもしれない。
 田布施人脈は、「与太話」ではすまない、恐ろしい背景が見えているのだ。
 https://www.youtube.com/playlist?list=PLEg3kOHD6vL94wc5CKxujI3sS-_ePrKfO

 実は、青山禎一の、日本議員利権問題は、田布施人脈と切り離すことができない関係がある。山口県熊毛郡田布施における権力者の集中問題は、これまでも何度もブログに書いた。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-333.html

 もしも、仮に、田布施人脈が存在しなかったなら、おそらく日本の議員世襲利権問題は、ずいぶんと矮小なものになっていたはずだが、大室寅之佑・岸信介・佐藤栄作関係者の凄まじい利権の相姦を原点として、日本の議員特権界隈には、近代史における巨大な謎が伏魔殿のように横たわっているといわざるをえない。

 これは、北朝鮮という国の存立にも関係していて、さらに昭和通商という岸信介・里見甫・二反長音蔵・小泉純也・文鮮明らが関与した麻薬販売巨大組織が関係している。
 北朝鮮も中国も、北の国境付近で、二反長音蔵の作ったケシ畑を今でも栽培し続け、世界の麻薬市場の大勢力となっているとも噂されている。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kohyoungki/20190906-00141424/

  https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

このアヘン利権を構築した中核人物は岸信介であり、小泉純也も深く関わっているといわれている。
 資料が不足しているので、まだ明確に断定できる段階ではないが、いずれ、朝鮮のアヘンと日本の議員利権の関係について書くときもくるだろう。

 追記 「西の山口組に張り合う東の小泉組の親分で」という表現は不適切でした。小泉組は昭和初期に横浜港の荷役口入れ稼業で隆盛し、山口組は、戦後、神戸港など全国の港湾口入れを取り仕切っていましたが、時代が違います。訂正してお詫びします。

地震警戒の呼びかけ

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 昨日、青森東方沖地震(最大M5.8)が発生。次いで、先ほど小笠原M6.2が発生

2020年11月 7日10時11分 小笠原諸島東方沖 M6.2 震度2 11月 7日10時14分
2020年11月 7日04時59分 島根県東部 M2.9 震度1 11月 7日05時02分
2020年11月 7日02時17分 青森県東方沖 M5.2 震度2 11月 7日02時20分
2020年11月 7日01時14分 青森県東方沖 M4.4 震度2 11月 7日01時18分
2020年11月 6日18時17分 青森県東方沖 M4.6 震度1 11月 6日18時20分
2020年11月 6日17時56分 青森県東方沖 M5.7 震度3 11月 6日18時00分
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 この地震の前兆は鮮明だった。

 ① 11月4日頃から体調が悪化、5日は終日、強い疲労感があり、全身に痛みが走った。(前兆体感)
 千葉の友人は、大地震の前に夜中に目覚めて眠れなくなる。今朝未明も同じ状態。

 ②  4~5日は、スマホのAUメールが止まってしまい、送信は可能だが、受信が完全不能になる事象が24時間続いた。
 また、スマホの暴走、誤作動が頻発した。

 ③  5日朝は、5時半頃、笠置山に向かう林道で、キジが私の車に飛び込み自殺をした。見たこともない数のキジが騒いで攻撃的になっていた。

 ④  6日朝、笠置山から見て、東と南方面の空が見渡すかぎり、赤やけ現象を起こした。(写真は自動補正が働いて正常に見えるが、実際は猛烈に赤かった、全景はクリック)

202011060540kasagi.jpg


 上は、笠置山パラグラ展望台から朝の5時50分頃に南を撮影

 202011060634kasagi.jpg



 上は、笠置山物見岩から6時半頃、東南方面を撮影 


202011060635kasagi.jpg

 

上も同じだが、大きな山は恵那山

 これらは、大きな地震の前に現れる「全方位赤やけ」と呼ぶ現象だ。赤さの中心は関東方面に見えた。

 ⑤ 空には、私が「切り裂きジャック」と呼んでいる、空をナイフでスパッと切ったような雲に類似した地震雲が出ていた。以下は6日7時半頃、笠木林道から


202011060720kasagi.jpg



(この雲は、「切り裂きジャック」の不適切な類例だが、ホンモノはまさに空をナイフで切り裂いたような雲が出て、震度3以上の地震が起こることが多い)

 なお、カラスなどが激しく騒ぐ生物前兆は、今回、あまり確認していない。

 青森東方沖地震は、東日本大震災の直後から北大教授が発生を指摘してきたもので、宮城沖M9.1巨大地震の余震ともいうべき、日本海溝の割れ残り巨大地震である。
 また千島~日本海溝で発生する疑いの強い地震の規模は、M9.3である。
 この場合、東日本震災を桁違いに上回る巨大津波発生の疑いがある。
 
https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_kaiko/rs_aomorioki_iwateoki/

 https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200501-00176128/

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%99%B8%E6%B2%96%E5%8C%97%E9%83%A8%E5%9C%B0%E9%9C%87

昨年12月には、青森東方沖でM5.5 震度5弱が発生している。
 https://www.jma-net.go.jp/sendai/jishin-kazan/j-kaiset/20191219_aomoritohooki.pdf

 1年後ではあるが、M5.8と規模を大きくしているので、いよいよ本震が切迫してきたと考えるしかない。
 小笠原もM6を超えており、このまま活性化が進行する疑いがある。

 青森東方沖地震では、東日本大震災の割れ残り、正断層型プレート地震が予想されていて、このとき、高さ30メートルを超える巨大津波の発生が指摘されている。
 https://www.asahi.com/articles/ASN4P72D8N4PULUC00S.html#:~:text=%E5%8C%97%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%B2%96%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%BA%9D,%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%82%99%E3%81%88%E3%82%92%E6%80%A5%E3%81%90%E3%80%82

 だが、メディアは、なぜか青森東岸の津波について、及び腰であり、深く切り込んだ記事が出てこない。
 理由は、私は、六ヶ所村、再処理工場と東通原発の存在があり、危険性を隠蔽したい政府が報道を抑制しているのではないかと考えている。

 政府側は、再処理工場が海抜55メートルにあり。5kmも離れているので、津波の遡及の恐れはないと勝手に判断しているが、八重山地震では、高さ85メートルの津波に襲われている。
  http://www5a.biglobe.ne.jp/~genkoku/failes/junbi-syomen/reprocess/reprocess-113-20120907.pdf


rokkasyomura01.jpg


 上の地図を見れば一目瞭然、太平洋と、六ヶ所村再処理の間が5Km離れているとはいうが、間には尾鮫沼があって、陸地などないも同然、東通村に上陸した津波は、そのまま一気に再処理工場に押し寄せて、駆け上がる地形になっている。
 これを指摘されたくなくて、政府は、青森東方沖地震に伴う巨大地震と津波に口をつぐんでいるのだろう。

 もしも、再処理工場内部に大津波が侵入した場合は、とてつもない放射能汚染が起こるのは確実である。
 ここには、莫大なプルトニウムとマイナーアクチノイドを含む、猛毒放射能廃棄物が山のように屋外プールに積まれている。
 もし、核燃料集合体が津波で散乱破損したなら、下北半島は、取り返しのつかない恐ろしい放射能汚染を受ける。これらの放射能寿命は、数万年~数億年であり、人類が死滅しても、なお猛毒汚染が続くのだ。

 巨大地震が起きる前にはM6前後の地震が続くといわれ、青森東方沖地震は、今、まさにその状態にある。小笠原の活性化とともに、東日本大震災に似た前駆状態になっているので、このままM9近い本震が発生する可能性がないともいえない。
 他の前兆現象に、十分に留意されたい。  

 もう成長とか発展とかの幻想に欺されなくなった人々

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 大阪市廃止のうたい文句は、「大阪都になれば日本が成長する」だった。
 大阪市が、市民に投票を呼びかけるための宣伝カーは、「ヒョウ柄のおばちゃん号」だった。
 そこには、なぜか「大阪市廃止」のスローガンがが描かれていた。

 大阪都構想、否決の要因は投票を呼びかけた「ヒョウ柄自動車」だった!?
 https://news.yahoo.co.jp/articles/a2c50d7478367bcc4772c9e655054e8f2e724215

 戦後の保守政治、自民党政権のスローガンは、すべて「成長、発展、前進」とかかけ声をかけて、人々を休ませず、尻を叩くものだった。
 竹中平蔵と橋下徹が共謀してつくった維新もまた、「大阪の成長のために」だった。
 もちろん、竹中を知る人たちは、また竹中が「特区大阪都構想」を私的に利用してボロ儲けするつもりだとしか思わなかっただろう。

 だが、戦後日本社会で、成長とか発展とかのうたい文句に踊らされて生きてきた日本国民にとって、そんな言葉が胸をときめかせるどころか、逆に、「いつまで性懲りもなく成長だ発展だ、と嘘をついてるんだ?」 成長や発展のかけ声で、日本人の心に本当の豊かさをもたらしたことなど一つもなかったと思うしかない。
 「我々は、成長発展して、贅沢に大量消費したいのではなく、みんなが幸せになりたいだけなんだ!」

 何によって大阪を成長させるというのか?
 維新の成長戦略と称するものは、バクチ都市化、IR計画だけだ。
 人々を狂気の依存症=バクチ病に駆り立て、人間関係を破壊し、社会を荒廃させる結果しか生まないバクチ都市化で大阪が救われるのか?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87

 もちろん誰も信じていない。関心のあることは、その利権で、自分たちがどれほどトクするかだけだ。
 だが、新型コロナ対策で、人が集まるすべての施設、事業に規制をかけざるをえないのが実態だ。「人を集めて金儲けする」すべての企画、事業が行き詰まっているのだ。
 そこに、バクチ巨大施設を作ったって、人を狂気に駆り立て、疫病を蔓延させ、治安を悪化させ、人間社会を根底から腐敗、荒廃させることしかできない

 少しでも思慮ある人ならば、維新のIRバクチ都市の妄想が大阪を成長させるとのうたい文句は真っ赤なウソだと判断するはずで、仮にできたとしても、大阪の治安や400年を超す歴史的伝統が次々に破壊されることが一目瞭然だった。
 
 もう少し、大阪府=維新が計画している「大阪成長計画」の中身を見てみよう。
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 変貌しつつある大阪港~IRという“バクチ”で儲かるのは誰か?
 https://www.data-max.co.jp/article/36646

IRのツールは観光立国と地方創生
 IR(統合型リゾート)推進法が国会で成立したのは、2016年12月。17年7月には、IR実施法も成立した。日本政府では、IR誘致を「観光立国」と「地方創生」のためのツールとして位置づけている。

■IRの定義「カジノ施設と(1)国際会議場施設、(2)展示施設等、(3)我が国の伝統、文化、芸術等を生かした公演等による観光の魅力増進施設、(4)送客機能施設、(5)宿泊施設から構成される一群の施設((6)その他観光客の来訪・滞在の促進に寄与する施設を含む)であって、⺠間事業者により一体として設置・運営されるものとする」
■ 基本方針の作成、区域整備計画の認定(有効期限10年間)、カジノ事業者の毎年度の評価は、国土交通大臣が行う
■ 区域整備計画の上限は全国3カ所(認定日から7年間)
■ カジノ管理委員会によるIR事業者の免許の有効期限は3年(更新可)
■ カジノ事業者に業務方法書、利用約款、依存防止規定、犯罪収益移転防止規定の作成を義務付け(免許申請時にカジノ管理委員会が審査)
■ 入場回数を連続7日間で3回、連続28日間で10回に制限(マイナンバーカードなどによる本人確認を義務付け)
■ 日本人(日本在住者)の入場料・自治体入場料は1回(24時間)各3,000円(合計6,000円)
■ カジノ事業者からの国庫納付金は粗利益の15%+カジノ管理委員会経費負担額
■ 自治体納付金は粗利益の15%

 IRは、大阪府市のほか、横浜市、長崎県、和歌山県の4自治体が正式に名乗りを上げている。
 負の遺産「夢洲」府市、IRで再生狙う
 大阪府市は全国の自治体に先駆けて、人工島・夢洲へのIRの誘致を進めている。その狙いは、1兆円以上と試算される経済波及効果だ。その源泉はカジノ。関係者には「IRは全体としてはリゾート施設であって、カジノが占めるのは総延床面積の3%以下。一部の機能に過ぎない」という言説があるが、これはいささかミスリードが過ぎる。MICEやエンターテインメントなどの施設は、どんなに多くの面積を占めようと、収益構造を考えれば、カジノ抜きのIRは考えられないからだ。

 大阪IRをめぐっては2010年以降、大阪府がIRに関する研究会を立ち上げた後、検討会やシンポジウムなどを重ねていた経緯がある。府市が連携し、IR誘致に本格的に動き始めたのは、IR推進法の成立がきっかけ。同時に「大阪府市IR立地準備会議」を設置して課題や対応策などに関する検討を行い、候補地として「夢洲を軸とする大阪市内ベイエリア」を盛り込んだ基本コンセプト案づくりなどを進めていた。

 府市は19年12月、「大阪IR基本構想」を策定。構想では、大阪IRのコンセプトに「世界最高水準の成長型IR」を掲げ、投資規模9,300億円、年間来場者数1,500万人、年間売上高4,800億円を想定。経済波及効果として、1兆2,400億円(建設時)、7,600億円(運営時、年間)などと景気の良い数字を並べた。

 大阪府市がIR誘致に動いた背景には、長年未利用のまま取り残されていた夢洲の存在があった。「夢洲は負の遺産、大失敗した開発事業。これを有効な資産につくり変えるためのツールとして、IRを誘致したい」という思惑があった。

 府市は19年12月、民間事業者の公募を開始。20年2月、米・ラスベガスのMGMリゾーツ・インターナショナルとオリックス(株)(大阪市西区)のコンソーシアムを事業者候補に選定した。今後、事業者からの提案書を審査し、9月ごろに事業者決定を行う予定だ。事業者決定がなされた後、府市は事業者と共同で、IR区域整備計画を策定。国土交通大臣に対して計画の認定申請を行うことになる。計画決定は21年8月以降の見通しだ。

MGMリゾーツ・インターナショナルは、1986年に創業。世界に27以上のカジノホテルを所有し、従業員7万8,000人以上、年間1兆円以上を売り上げる世界有数のカジノ企業。トップはジェームス・ムーレン会長&CEO。2014年に日本法人((同)日本MGMリゾーツ)を設立している。同社は19年10月、オリックスと「大阪ファースト・大阪オンリー」パートナーシップを締結。大阪への強いコミットメントをアピールした。大阪IRの事業者公募にMGM以外のカジノ企業の応募がなかったのは、MGMとの競合を避けたためとの見方もある。
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 上の説明には、夢のような数字(取らぬ狸の皮算用ともいう)が並んでいるが、年間4800億円の売り上げを見込んでいる事業主体として想定されているのが、世界最大のバクチ企業、MGMリゾーツとともに、ここでも関空同様に、竹中平蔵が取締役であるオリックスが共同で運営を担うと書かれている。

 関空の場合は、オリックスとバンシエアポート社だったが、結局、運営主体は地元の利権を独り占めする竹中平蔵の会社ということになる。現実に、関空の委託企業、勤務者の多くが竹中のパソナから派遣されている。
 まあ、バンシやMGMは、竹中平蔵オリックスの隠れ蓑というのが正しいだろう。
 計画予定地域のなかに「和歌山」という土地が書かれていることだけでも、この計画が竹中平蔵のために作られたことが、はっきりと分かる。

 竹中平蔵のパソナは、淡路島の大部分を二束三文で買い集めた。その理由は、淡路島・和歌山海峡大橋(紀淡道路)を建設して、万博会場、IR夢州、関西空港、淡路島を結ぶ、新たな一大観光産業を国や大阪府の金を利用して建設させ、儲けは自分たちがかすめ取ろうと考えていることなど一目瞭然だ。

 また竹中平蔵がダボス会議の運営メンバーで、2021年ダボス会議のテーマ「グレートリセット」の仕掛け人の一人であることを考えれば、間違いなく、関空~淡路島に「スーパーシティ」が建設されることになる。リニア駅もできるだろう。
 竹中平蔵は、全関西経済界の最強ボスになろうとしているのだ。まさに、戦後最大、最悪の「政商」の面目躍如だ。

 結局のところ、自民党が大声を上げて日本国民の尻を蹴飛ばし続けた「成長・発展」のスローガンが、何を生んだかといえば、自民党議員と、竹中平蔵の金庫の中身を増やしただけだった。

 それでは、日本国民は成長・発展路線で、何か一つでもトクしたのか?
 車は普通車が買えなくなって軽自動車ばかりになった。大学は授業料が上がりすぎて、普通の庶民の子弟には、とてもじゃないが進学できる条件はなく、就職しようとしても、有名大学以外では、パソナに登録した派遣社員がせいぜいになった。
 もう一戸建てなど作れる若者はおらず、大半がアパート住まいになった。
 これが自民党がもたらした、「成長・発展、夢の社会」のなれの果てなのだ。

 「もう欺されないぞ!」

 人間社会に、もしも「成長・発展」があるとすれば、それは同時「退化・衰退」もあるはずだ。この宇宙では、すべてのものが対等のバランスに収束してゆくからだ。
 上り坂があれば、必ず下り坂もある。それが地球の大地というものだ。
 自民党や維新は、「上り坂」ばかりを宣伝し、人々の生活が永遠に進化してゆくような幻想ばかりを口にしてきたが、現実は違う。
 世の中は、良いことばかりで成り立ってはいない。成長の次には衰退がやってくる。

 これは、長い人生を経験し、自然の摂理が見えている人にとっては、誰にでも容易に分かる真理であって、「良いことがあれば悪いことがある」という人生観がなければ、人生は破滅するしかないことを老人たちは誰でも知っている。
 調子の良いきれい事ばかり言う連中は、基本的に詐欺師なのだ。まさに、維新や自民党は、調子のよいことしか言わない詐欺師であると、大阪の人々は見抜き、だから投票に反対したのだ。

 これからの時代は「成長とか進化、発展の時代」ではない。もう日本社会のピークは前世紀末にやってきていて、それから30年間、日本という国は斜陽坂を転がり落ち続けている。
 もうバブルのような時代は、二度と訪れない。だが、維新の計画した「カジノによる成長」という妄想は、まさにバブル時代の妄想から逃れられない愚かな執着にすぎない。

 そんなことより、我々に必要な人生観・社会観は、「みんなが幸福になり、笑顔で覆われた社会にする」ことなのだ。
 IRカジノは利己主義社会の慣れの果ての破滅妄想である。我々にカジノはいらない。我々に必要なものは、人の愛に満ちた利他主義社会である。

 私は、たくさんの動物たちと、無農薬自然栽培の農場で、命の大切さを知るような人生観、社会観を育てることだと書いてきた。
 いわば「アルプスのハイジ」のような生活が、利他主義の素晴らしい社会を生むと考えてきた。

 大都会のコンピュータに囲まれた「スマートシティ=スーパーシティ」に追い立てられながら生きるのではなく、過疎の深い山中で、みんなで共同体を作って、動物たちと一緒に、のんびりと、ゆっくり生きて行くことが人間の本当の幸せをもたらすと、固く信じている。
  

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