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2009年6月12日 ●司法と利他主義

カテゴリ : 無題


 

 これまで、数多い死刑判決について、司法はもとより、犯人に死刑を望む遺族の姿勢についても強い批判を書き続けてきた。

 「悲しみ、悔しさにうちひしがれる被害者を批判するとは何事か!」

 という反論、糾弾も多いが、それでも筆者は、光母子殺人事件の本村氏、名古屋闇サイト殺人事件の磯谷氏、江東区神隠し殺人事件の東城氏など、「被害者家族」が加害者に強く死刑を要求している姿勢に対し、「その姿勢は間違っている!」と大きな違和感を抱いている。

 犯罪で家族を失った悲しみ、犯人に対する憤りが理解できないなどとは言っていない。筆者も同じ人間として十分に同情しているつもりだ。
 しかし、だからこそ、加害者の処刑殺害を要求することで、被害感情が癒されるなどと勘違いしてほしくない。
 特に身内の女性は、どうみても理性を喪失し、復讐心に囚われているようにしか思えない。あれでは、犯人が死刑執行されてから、自分もまた人の死を要求した加害者としての自覚が芽生えたとき救われないことになると、とても心配だ。

 彼女らは、復讐にいきり立つあまり、自分たちが国家という看板に隠れて、新たな大きな殺人犯罪に荷担しようとしている自覚が欠落している。だが、国家であろうと個人であろうと、殺人は殺人、それは人生を貶める愚かな行為でしかないことを、周囲は冷静に指摘してやらねばならない。
 女性は、理性よりも感情に走りやすいものであり、冷静になって理性を取り戻させてくれる人が周囲にいないのは不幸だ。見る限りでは、復讐を焚きつけるような人物ばかりに取り囲まれているようだ。

 犯人を処刑せよと要求し、司法がそれを受け入れて、絞首殺害された後、「ざまーみろ」、復讐が成ったと喜ぶことができるならいい。だが、ほとんどの人は決してそうはならない。人の死を要求したという事実、すなわち国家に隠れた新たな殺人に荷担したという事実は死ぬまで消えず、それからの人生を凍らせるものでしかない。

 だから筆者は、この意見が、巡り巡って彼女らの目にちらりとでも留まって、復讐心に凝り固まって人の道を外れている自分に気付いて欲しいと切に願っている。
 だが、死刑廃止論者に聞こえてくるのは、「遺族感情を踏みにじる馬鹿者」というような罵倒ばかりだ。

 人は、例え加害者であろうとも、決して他人の不幸を願ってはいけない。それは人を呪うことだ。
 呪いの諺は「人を呪わば穴二つ」という。すなわち、呪われた者と、呪った者の二人とも地獄に堕ちることを意味している。
 被害者が加害者を呪うことしかできないのは不幸だ。復讐しか思い浮かばないのは悲惨だ。それでは事件からもたらされた苦悩を、ますます悪化させるばかりであり、死ぬまで前向きな問題の解決も、心の整理もできなくなるではないか?

 前向きな問題解決とは何か?

 我々が願うべきは、同じ悲しみを繰り返さないということであり、子供たちの未来を、幸福感に満ちた明るく暖かいものにすることである。
 自分が味わった悲惨や苦悩を、これ以上増やさないよう、子供たちを同じ悲しみに遭わせないよう、何が問題だったのか調べ、それを本質的に解決することなのである。
 一言でいうなら、自分の苦しみを、他人の幸福に変えるモチベーションである。

 この核心にある姿勢は、利他主義こそ人生の価値であると理解することだ。
 これまで筆者は繰り返し主張してきた。人生のあらゆる苦悩は利己主義によって成立するものであり、あらゆる幸福は利他主義によって導かれるものであると。
 すなわち、家族を殺害されて悲しむのは当然だが、その悲しみを復讐心に変えて、加害者の殺害をもって自己満足する姿勢は、利己主義以外のなにものでもない。
 こんな姿勢では、この世のすべてのできごとが自分を苦しめるものであり、人生のすべてを悲しみと苦悩に塗りつぶすものだ。
 人の苦悩は利己主義とともにあるのだ。

 逆に、自分の人生を利他主義に置けば、どのような結果が生まれてくるのか?

 自分の人生は、人様、他人の幸せに奉仕するためにあると考えるのが利他主義である。他人の幸せが自分の喜びである。他人の悲しみが自分の悲しみである。同情こそ利他主義の原点だ。
 こうして、いかなる苦難、苦悩があろうとも、自分の人生が他人の役に立てば、それが最高の価値であり喜びであると考えるなら、その瞬間、あらゆる苦悩は消滅することになる。苦悩は利己主義の属性であり、喜びは利他主義の属性である。
 
 仮に、身内を殺人鬼に殺されたとしても、利他主義の立場からは、他人が同じ悲しみを味わうことのないように、事件の原因を調べ、どうしたら、それを防ぐことができるか考え、問題があれば、それを発見して解決する行動に変えることができる。
 決して犯人への復讐で自己満足などしない。犯人に対しては、憎悪で対するのではなく、どうして、そんな愚かな行為に走ったのか調べ、やはり原因があれば解決する。
 それは教育であり、治療であり、訓練であるが、決して復讐や制裁、処刑ではない。
 
 これが利他主義の人生であり、これが前向きの問題解決である。
 人を呪ったり、復讐制裁しようとしても得られるものは新たな苦悩の再生産だけだ。
 前にも書いたが、殺人犯だって彼を愛する家族がいる。彼を処刑することで、その家族に新たな悲しみの再生産をするだけではないか?
 それは利己主義であり、苦悩の再生産であり、何一つ未来を明るくすることに役立たないのだ。

 多くの場合、犯罪の本質は社会の悪化にある。素直で優しい心を見失った加害者たちは、元々、凶悪で愚かな人間だったわけではない。家庭・学校・会社などで人間疎外に苦しみ、苦悩し、その解決法を間違えて犯罪に走ったのである。
 犯罪の真の原因は社会の問題にあるのだ。だから、犯人を制裁しても、彼を犯人に仕立て上げた社会の問題を解決しない限り、次々に犯罪が湧いて出てくるのである。

 今、この社会を見よ! 日本の死刑囚は戦後最大の数に達し、次々に処刑殺害されている。だが、どれほど犯罪者を殺害しても、人間疎外、人を追いつめて暴走させるこの社会を正そうとしなければ、犯罪は無尽蔵に湧いて出てくるのだ。
 だから、犯罪の結果だけを見て、それを制裁することで問題が解決できるはずがない。犯罪を産み出した原因を調べ、根本的に解決しなければならない。

 貧富の格差が人間疎外、イジメを生み、精神の変形と殺意を生んでいるとするなら、まずは犯罪より先に貧富の格差をなくさなければ、真の問題解決ではない。
 犯罪を産み出す社会差別の土壌を改善しないでいて、生えてくる犯罪を刈り取っても、次から次へと際限なく湧いてくるだけであり、最期には国民全員を処刑しなければならなくなる。
 北朝鮮という愚かな国家が、今、それをやろうとしている。みんな見ているはずだ。

 死刑制度は北朝鮮のやっていることと同じだ。それは徹頭徹尾、利己主義から生み出されるものだ。
 我々が向かうべきは利他主義なのだ。
 他人の幸福を自分の幸福として喜べる社会を作り出そうとしているのだ。

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