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 2009年7月13日 ●ダム問題 その5

カテゴリ : 無題


 ダム問題 その5

 今回は、息抜きに少し怖い話を。
 黒部第四ダムの工事犠牲者171名、関連する仙人谷ダム工事などの犠牲者を含めれば軽く300名を超す。佐久間ダム工事犠牲者96名、奥只見ダム工事犠牲者117名、その他挙げればきりがないが、なぜか人跡未踏の山奥に作られるダム工事現場では、異様なほどの犠牲者が出ることになっている。

 30年ほど前、筆者が働いていた三重県内のある事業所でのことだが、経営者は以前、土建屋をしていたと語っていた。
 当時、1979年のことだが、大台ヶ原・大杉谷で吊橋が崩落し数名が死傷した事故があったが、これを見て経営者は、
 「あれはオレのやった工事だ。実は、鉄筋をかなり誤魔化したから、そのせいだったか」
 と深刻な顔で筆者に言った。
 当時、1960年前後の工事では、まだ日本の産業レベルは、今の中国とほとんど同じ、商業モラルもなく、ひどいインチキばかりで、手抜き工事で鉄筋をくすねる「オカラ建築」など常識だったのだという。
 確かに、当時の記憶をたどれば、「日本製品は安かろう、悪かろう」といわれ、粗悪品の代名詞だったのだ。今、中国の商工モラルを糾弾したり小馬鹿にしたりする人が多いが、あれは、かつて日本人がたどった道であることを、もう一度思い返して見る必要があるのだ。

 その同じ経営者が言った。
 「あのな・・・、佐久間ダムや黒四ダムの犠牲者の半分は、事故じゃなくて殺人の被害者やで、当時は、行くのに歩いて二日もかかる、あんな凄い山奥の工事現場じゃ、警察も来られへんし、医者もおらなんだ。現場監督のボウシンもヤクザばっかりや。
 仕事が終われば、毎日のように酒とバクチしかあれへん。そうなればケンカも当たり前や。警察なんか絶対来んから、やりたい放題や。ちょっと気にいらなんだら、みんな剣ナタやドス持って切った張ったの世界やから、毎日のように怪我人、死人が出る。
 ところが大怪我しても医療がないから、ほとんど助からん。そいで、生きてるうちにダムの底に『人柱やー!』って放りこんでしまうわけや。
 オレの知っている連中で、殺されたのが、どんだけおるか見当もつかん」

 いったい、どうして、そんな乱暴な工事現場が許されるのか? 1980年前後ともなれば、戦後高度成長も一段落し、バブルに向かう一番豊かで安定していた頃だがら、当時の常識から、60年代とはいえ、そんな恐ろしい工事があるとも思えなかった。
 だが、調べてみると、ダム工事現場というのは、我々が想像する百倍も恐ろしいところだったのだ。

 日本のダム工事現場が、信じられないような残虐な暴力に染まったのは戦時中であった。
 ここに、戦時中、陸軍統制派により、朝鮮人強制連行が行われ、日本の戦時エネルギー開発に、ほとんど奴隷労働力として投入された、朝鮮人・中国人労働者の残酷な実態報告がある。

 【[朝鮮新報 2008.1.21引用] 戦時中に各地で盛んに造られたダムや発電所の工事に、たくさんの強制連行された朝鮮人が働かされた。どこの工事現場も機械の使用はほんの一部で、モッコ、リヤカー、トロッコを人力で動かして大工事を進めたため、犠牲者が多く出た。
 北海道でもいくつかの大工事が行われた。その中でも「貯水池の大きさは北海道最大」であり、この貯水池を利用する雨竜発電所は「北海道最大の水力発電所」(北海道大百科事典)と言われた雨竜ダム(朱鞠内湖)の工事では、朝鮮人の犠牲が大きい。このダムは、天塩山地に源を発する雨竜川の上流部に建設された。この工事を施工した雨竜電力は、三井鉱山の傘下にあり、1928年から10年間の調査ののち雨竜ダム建設工事(37~43年)が行われた。工事は、五工区に分かれ、元請けは飛鳥組で、その下請に丹野組、谷組、柴田組、相沢組、長谷川組、安川組などが入っていた。

 この工事に朝鮮人連行者が連れてこられたのは、39年からと言われ、最盛期には2千人から3千人が強制労働をさせられた。朝鮮人の飯場は、一棟に130人も入る大きなもので、窓には逃げないように鉄の桟がしてあり、出入口には、倉庫にかけるような大きな鍵をかけていた。「夜は頭を内側に、通路を挟んで両側に半分ずつねるんだけど、夜中じゅう、真ん中の通路を棒を持った監視人が行ったり来たりして見張っている」(尹永完)ので、隣の人と話をしても棒で殴られた。一つの飯場に監視人が30人から40人もいたという。

 衣服は、中国から着てきたシャツの上に、ミノやムシロを着た。履き物は、ほとんどわらじ、冬は布団の破れたのやボロ切れを紐で足に巻き付けた。マイナス30度を超す厳寒の中で、こんな服装では耐えられず、ほとんどの人が凍傷にかかった。しかし、病院治療は受けられ、飯場で休ませることもなく、工事現場まで連れて行った。

 食事は、飯台の上にアルミニウムのような食器に飯を盛ったのと塩汁が置かれ、立ったまま食べた。夜のオカズに塩マスとたくあんが一切れ出たが、これで重労働を一日に12時間から18時間もするのだから、どの人も空腹に苦しんだ。遠くへ働きに行く時は、弁当持参だったが、朝のうちに組の監視人や親方たちが弁当の中身を食べて、空の弁当を包んで持たせたので朝鮮人たちは、昼食抜きになった。空腹と苛酷な労働に耐えきれず逃走する人がよく出たが、ほとんど捕えられたという。飯場に連れ戻されると、柱に縛り、みなを座らせた目の前で見せしめに棒で殴った。気絶すると水をかけて気づかせ、また殴った。そのまま死ぬ人もいた。

 雨竜ダム工事は、五工区に分けられたが、難工事で、多くの犠牲者が出たのが一工区と四工区だった。一工区は、雨竜川をせき止めるダムの堰堤を、四工区は第二ダムから隧道を掘って雨竜ダムに水を落とす工事だった。雨竜ダム工事の場合は、川の両側の山にワイヤーを張って吊り橋を造る。その上に足場を組んでレールを敷き、コンクリートを積んだトロッコを走らせるが、堰堤は45.5メートルと、目も眩むような高さだ。足を滑らして「何十メートル下のコンクリート打ち場に落ちるともうダメです。落ちるのが悪いというのでだれも助けない。そのまま上にコンクリートを流して埋めてしまう。ケガをして仕事ができないとなると、もう終わりです。どこかへ連れて行かれて行方がわからなくなった」(「朝鮮人強制連行・強制労働の記録」)という。

 また、トロッコで運んだコンクリートが「流れ込んでくる下では、コンクリートを平らに馴らすために多くの人が働いていた。途中でトロッコがひっくり返って大きな石を含んだコンクリートが、下で働いている人たちの上に落ちた。下では必死に逃げるが、足元がコンクリートの生なので思うように動けず、石に当たってケガをしたり、死んだり」(「雨竜ダムを探る」)した人も、コンクリートに埋められた。堰堤には、多くの人が埋められていると、地元には伝わっている。

 四工区は、隧道を掘る仕事だが、落盤事故が多く、一度に何人も死んだ。また、工事が難航したので、人柱にされた人もいたという。難工事中にどれほどの犠牲者が出たかは、はっきりしていない。58年の「幌加内村史」では犠牲者数が175人と記録されているだけで、日本人と朝鮮人の区分けは不明である。「笹の墓標展示館」パンフレットには、日本人168人、朝鮮人45人の犠牲者が出たとある。また地元では、「3日おきぐらいに一つの葬式が出た。工事期間中には、日本人、朝鮮人を合わせて千人ぐらいは死んだんじゃないですか」と言う推測を語る人もいるという。】

 冒頭に挙げた、経営者は若い頃、佐久間ダムの工事に参加した。
 その様子を語ってくれたのだが、上に書いている雨竜ダム工事現場の情景とまったく同じことを言った。
 すなわち、ダム堰堤コンクリート打ち現場では、巨大な足場(当時は木製)のなかで、上から生コンがバケットで流し込まれる。すると、ときどき足場が崩壊して作業員がコンクリートに埋まってしまう。しかし誰も助けようとしない。そのまま生きているのに、上からど、どんどんコンクリートを注いで埋めてしまうのだという。 これを人柱と呼んでいた。
 また終業後、ケンカをして傷ついたり死んだりした者も、片っ端から堰堤のコンクリートに放り込んで埋めた。
 「いったい、どれくらいの人柱が埋まっているのか? オレの知ってるだけで50人は超えるんとちがうか」
 と彼は語った。
 佐久間ダムでは、1953年から、わずか3年余りのもの凄い突貫工事をやった。このため、人の命など屁とも思わず、死のうが怪我をしようがいちいち工事を中断せずに、強引に貫徹し、死者はそのまま報告もせずに埋めてしまったのだという。生き埋め者も多数いたという。

 なんで、そんな凄い人権無視の工事ができたのか? といえば、当時、ダム工事に参加した業者は、ほとんど戦時中、上に紹介した雨竜ダムのように、朝鮮人強制連行者を殺害しながら進めたような無茶苦茶な工事を経験していて、それが常識だと思っていた連中だったからなのだ。

 1950年代といえば、戦後5~10年で、まだ戦争の記憶が生々しい時代だ。人間の死骸が路傍に横たわり、遺骨が散乱する光景など珍しくもなく、みんな慣れきっていた。
 人が殺されることも、ありふれた風景だったのだ。ましてや、朝鮮人強制連行者が奴隷のように扱われ、次々に虐殺される光景も、みんな当たり前だと思っていた。
 だからダム工事の現場でも、人権無視が常識であり、怪我人を、そのまま人柱としてダムの堰堤に埋め込んでしまうような暴挙すら、誰も異常と感じなかったのだ。

 こうした異常な人権感覚が、戦後のダム工事現場では長く続いた。もちろん黒四ダムもそうだし、それどころか、関西電力が計画した、若狭湾周辺の原発工事や保守管理でも、同じ感覚で人権無視の凄まじい工事が行われたという。

 1970年前後、筆者が土建工事で入り込んだビルの基礎に血が滲んでいるのを発見したことがあった。
 「何だろう?」というと、近くにいた男は、「人柱だ」と答えた。
 そんなことは、当時としては珍しくもなかった。

 若狭のある原発では、初期の頃、信じられないほどの猛烈な放射能漏洩と被曝が繰り返された。
 作業員が高レベル放射性廃棄物プールに落ちたりして死ぬと、あまりの高レベル放射線に近づくこともできず、クレーンで死体を吊ってドラム缶に入れ、コンクリートで固めて、そのまま日本海に投棄したという信憑性の高い噂が伝わっている。
 当時、原発作業員たちは、実は関電のダム工事労働者が連れてこられていたのだ。
 彼らが行方不明なることは、ありふれたことで、警察も労基署も何の関心も持たなかった。

 すなわち、戦時中の朝鮮人強制連行の虐殺ともいえる工事の常識が、戦後の佐久間ダムや黒四ダム、そして若狭の原発工事や管理にまで連綿と生き残っていたわけだ。
 だから関電の人権無視感覚に驚かされる事態があった。それが2004年、8月9日、美浜原発で起きた蒸気配管破断による11名の死傷者を出した杜撰管理事故である。
 詳細は、字数の関係で以下のサイトを参照されたい。

 http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0410_5.htm

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