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2009年9月26日 ●祖母の死

今春、親族が集まって百歳の祝いをしたばかりの祖母が23日他界した。
 最期は老衰により経口で飲食物を摂取できなくなり、後期高齢者医療制度により、病院がカネにならない延命治療を嫌がるようになったため、祖母は意識のないまま病院で死を迎えることもできず、老人ホームに戻された。
 ホームでは強制栄養注入も不可能で、本人の延命治療否定誓約があったために結局、餓死という形になった。しかし、死に顔はやすらかで満足そうだった。

 数年前から老いた両親が世話をできる状態ではないため、老人ホームに入所し全面的介護だったが、転倒すれば骨折という状態になり、矢も尽き刀も折れて人生のすべてを全うして他界するという末期であり、ここまでくれば、葬儀も哀しみではなく、めでたい転生の祝いということだ。

 彼女を身近に見てきた孫の一人として、その人生は、後に続く我々に、人生の本質を考えるうえでの大きな指針を示してくれたと思う。
 人生は生まれた入口から死という出口に向かってのみ歩いてゆく。それ以外の選択肢は許されていないのである。人生の本質は、「どのように死を迎えるか?」にある。
 彼女は決して人生を飾らず、あるがまま、なすがまま、さらさらと流れゆく小川のように惜しまず見せてくれた。その死に顔には微塵の後悔もない。毛ほどの虚飾もない。ただ真実だけを見せてくれた。
 
 人は何のために生まれ、何を行い、どのように死に、どこへ行くのか? 人生とは何か? 人生とは何か? 人生とは何か? 「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」
 限りなき疑問に、ひとつの答えを示してくれた祖母の一生だった。

 彼女は1910年(明治43年)9月1日生まれだから、実際には99歳だが、数えで百歳ということで親族で祝った。昔は生誕日をそのまま届けるより、吉日に合わせて届けたことが多く、本当の誕生日と戸籍上の誕生日が一致することの方が少なかったようなので、数ヶ月程度の違いなどありふれていた。

 生まれは現在の四日市市富田町だが、幼いうちに一家揃って岐阜県加茂郡白川町黒川というところに引っ越した。元々親族がいたらしいが、事情は定かではない。黒川では富田屋という雑貨店を営業したが、やがてツケ債権回収不能で倒産する結果となった。貧しい寒村の黒川ではツケでしか売れず、そのツケも回収できなかったのだ。
 小学校は、辻パイプオルガン工房があるので有名な旧黒川小学校で、実家は、そのすぐ下にあった。今行っても、本当に山深い、平家落武者伝説の残る奥の奥の山里だ。ここでは人口よりも狸やキツネやウサギの数が圧倒的に多い。 今では温暖化によって静岡と立場が変わって緑茶と椎茸で有名になっているが、かつては内陸気候の寒さで、苛酷な生活を強いられた貧村だった。長寿村だが、彼女と同級生は、たった一人しか生き残っていないと聞いていた。

 彼女の生まれた1910年という年を調べてみると、幸徳秋水らが検挙された大逆事件が起こり、平沼騏一郎らによるでっち上げ弾圧で数十名が冤罪処刑された。以来、日本の社会主義運動は戦後まで沈滞を強いられた。 そして8月22日、日韓併合があった。1945年のポツダム宣言まで、35年間、朝鮮半島は日本の領土となり、後に、大勢の朝鮮人が奴隷に等しい扱いで日本に連れてこられ、炭坑やダム工事現場で辛酸を嘗め、多くが殺害された。

 1918年、祖母が黒川小学校生のころにスペイン風邪が全世界に流行し、中国やアフリカの未統計国を含めれば、一億人を超す死者が出たともいわれている。当時の世界人口の5%程度が死亡したとみられ、黒川でも多くの死者が出たと記録されている。
 1914年から勃発した第一次世界大戦も、このスペイン風邪(新型インフルエンザ)によって戦闘員500万人が死亡したことで、参戦国が戦意を失って終結することになった。

 祖母は、尋常小学校を卒業すると、名古屋に洋裁を学びに出た。当時、「日本のチベット」ともいわれた山深い黒川の里を出て名古屋に向かった。徒歩で峠をいくつも超えて、9時間もかかって恵那(大井)駅に向かったと語っていた。

 80年近い前だが、やがて知立の造り酒屋の事務員となり、家の妻が病死した後に後妻となった。そこには父を含む先妻の幼子が三人いた。だが、主人、つまり祖父が奔放な性格のために酒屋は倒産し、夜逃げを繰り返すことになった。年齢の近い父を連れてさんざん経済的な苦労を重ねて育て上げた。そして、泣きながら父を出征に送り出したこともあった。
 父は生還率数%の陸軍歩兵特殊部隊から無事に帰還したが、母との結婚後、年齢の近い姑として特異な苦悩があったようだ。 年齢の近い嫁姑が同居すると激しい軋轢が生じることになる。このため彼女は息子の家を離れて自立の道を選んだ。
 以来、多くを会社員で過ごし、洋裁や細工物造りの教師も行いながら、我々孫や親族、キリスト教会で知り合った若い娘たちの面倒を見続けて静かに老いていった。

 彼女の人生で、一番凄いことといえば、おそらく飛騨川バス転落事故だっただろう。
 1968年8月18日、奇しくも彼女の育った白川町の国道41号、において乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち2台が、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した事故で、日本バス事故史上における最悪の事故となったものだ。

 これは、当時、祖母が勤務していた奥様ジャーナルという団地新聞社が主催した乗鞍岳観光バスツアーで、750人以上が参加した。このなかに主宰社係員として彼女がいた。しかも、彼女の乗っていたバスこそ、転落した五号車だった。
 当時、凄まじい豪雨のために白川口から名古屋に引き返す事態となり、上麻生に向かうと、すでに土砂崩れが始まり、通行車両が立往生していた。
 この連絡のために、彼女は土砂降りを厭わずバスを降りて他のバスに向かった。このとき、突如、崩れ落ちてきた土砂に押し流されて107名の乗車した二台のバスが飛騨川にゆっくりと転落していった。助かった者は、わずか三名だった。

 いかな気丈な祖母といえどもショックは凄まじいものだったにちがいないが、社長も家族を失うにとどまらず、その後会社も破綻した。その上、法的な後始末のために、彼女は無給で長期間、苛酷な仕事を強いられることになった。
 しかし、一言も文句もいわず、最後まで担当者社員としての責務を全うしたのである。
 この事故は、その後の日本の道路行政に巨大な影響を与えることになった。また日本災害史上でも伊勢湾台風や洞爺丸台風と同様、重大事件として防災関係者にとって大きな指標であり続けている。
 祖母の人生にとっても、あまりに強烈な打撃であり、その後、数十年も慰霊に奔走する日々が続くことになった。そして、彼女一人だけが生き残っている重みをもって、その後の人生を支え続けたにちがいない。

 孫として彼女の印象を一言でいえば、一度として「辛い、苦しい、悲しい」という弱音を聞いた記憶がない。本当に強靱な女性だった。
 母は正反対に、ひどく弱い、すぐに悲鳴をあげるお嬢様タイプの女性だったので、祖母としては面食らうばかりで、相当に強いことも言ったようだ。これを母は最近まで恨んでいた。
 しかし、亡くなった時間に、霊能者である甥の元に現れ、母に対して「きついことをいってゴメンね」と繰り返し謝罪したと聞いて、心の底から宥恕(ゆうじょ→わだかまりを許すことで解放)したようだ。

 ちなみに、甥のY君は高校生だが霊の見える子で、今回も葬儀にすべてつきあってくれて、死んだ後にも祖母の霊通信を伝えてくれた。親族に霊能者が一人いるだけで、周囲は本当に助かり、救われるものだ。
 彼の話では、葬儀の最中、教会の棺の上に光り輝くイエスの姿が見えたということで、驚きを隠さなかった。また、棺の周囲に数十名の霊の姿が見えたそうだ。
 筆者は遺体の上に覆い被さるような青いオーラが見えて、死んだ人がオーラを出すことを知らなかったので驚いた。みんながいたから、挨拶したさに霊が肉体に戻りたかったのかもしれない。見ていた家族は、みな祖母の口が動きそうだったと証言している。

 彼女は、第一次世界大戦からはじまって、日中戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と激動の時代を強靱に生き抜いてきた人だ。
 彼女の生きた、この百年は、人類史にとっても最大の激動だったと断言できるだろう。彼女の生まれた年に地球上には16億人の人間がいたが、死んだ今年には70億人の人間がいる。実に4倍以上だ。かつて、これだけ猛烈に人間が増えた時代はなかったように思う。

 その一人一人が誕生の扉からこの世に登場し、人生の軌跡があり、感動があり、やがて必ず死の扉を叩かねばならない運命を持っている。
 そう誰一人、その運命を免れる者はいない。死はやがて必ず自分にやってくる。祖母のような自然死であろうと、病死であろうと、死刑の刑死であろうと、昭和天皇のような無理で悲惨な死であろうと、事故死であろうと、すべて同じ死であり、差別に満ちた人類社会でありながら、誕生と死という側面において、一切の差別の存在しない、完全無欠の平等が保障されていることを知っておかねばならない。

 祖母はまれにみる強靱な心と肉体の持ち主だったが、若い頃にクリスチャンとなり、以来70年間、欠かすことなくプロテスタント系教会で信仰を続けた。
 筆者も幼いとき、祖母に連れられて毎週、教会の日曜学校に通ったものだ。40年前から行っている死刑制度廃止運動も、この頃、必死に読んだ聖書の影響があるのかもしれない。
 彼女らが設立した守山区の教会は事情があって消滅してしまったが、最期に出会った代官町のキリスト教会で親戚筋の牧師らに看取られて幸福な最期を迎えることができた。遺体は本人の遺志により献体に供された。

 親族最長老であり、最長寿記録を作っての死だったが、彼女の人生を振り返れば、人の一生の本質を余すところなく語ってくれているような気がするのだ。
 「人生、立って半畳、寝て一畳、天下をとっても二合半」
 やるべきことをすべてやっても、たくさんやり残しても、人よりも余分に生きても、短くても、不足でも、余っても、人の一生はたかがしれているし、同時に長く、重く、辛く、切なく、嬉しく、心暖かいものだ。
 100の部屋を持つ豪邸に住んでも、寝るのは一部屋だけだ。たくさんの美人妻を囲っても、寝るのは一人だけだ。ベンツに乗っても、軽自動車と同じ時間でしか走れない。どんな絶世の美女を妻にしても、三日で飽きる。どんなブス妻でも三日で慣れる。
 よく、よく考えてごらん。人は人でしかない。人を超えることは絶対にできない。どんなにカネを貯めても、権力を得ても、人を一歩も超えることはできない。みんな最初から最後まで平等なんだよ。

 彼女は小さな贅沢すら好まず、欲の極めて薄い人だった。爪に火を灯すようにして貯めた金を、すべて教会や親族に分け与えて静かに去っていった。
 趣味といえば海外旅行と洋裁、細工物造りだったが、1970年代に、北朝鮮やソ連、東欧諸国を繰り返し訪問していたのが唯一の贅沢と言えるかもしれない。しかし、細工物の材料は、いつも古新聞や広告紙など廃棄物を利用していた。
 子供が大好きで、86歳まで幼稚園の手伝を続けていたほどだ。
 本当に丈夫な人で、90歳を超えてから老人ケア施設にボランティアに出かけた。そして自分より20歳以上も若い「老人」たちの車椅子を押し続けたのだ。
 施設に行ったとき、みんな被ケア者だと思った。しかし、彼女は自分をケアボランティアだと言った。
 そして誰よりも、元気よく車椅子を押して長い時間歩いた。今、天国に行って、また他人の車椅子を押して歩いているにちがいない。

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