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大台ヶ原と大杉谷 台高の山々

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大台ヶ原と大杉谷 (95年5月)

 台高山脈こそ記録された日本狼の終焉の地であった。
 その生存が最後に確認されたのは、1905年(明治38年)、現在の奈良県吉野郡東吉野村、国見山の山麓にあたる小川村鷲家口で、大英博物館の資料収集に来日していたマルコム・アンダーソンというアメリカ人の求めに応じて、地元の猟師が売り渡した日本狼の遺体によってであったから、すでに一世紀近い前のことである。

 だが、今尚、日本狼の生存をかたくなに信じている人々がいる。
 もう十年以上も前、私は台高、国見山の下山途中、山中で出会った初老の登山者とオオカミの話に夢中になった。この人は、日本狼の生存の証拠は毛玉糞と水かきのある足跡で、自分は大峰でそれを見たと言った。私には、そのときの毛玉糞という語の印象がひどく強烈で、以降、山中でこれに類するものを発見するたびに、この人のことを思いだす。

 この方は、芦屋市在住の斐太猪之介さんであった。斐太さんは朝日新聞記者を辞めてからの後半生の大部分を失われた狼の調査に費やされたが、とうとう狼の実在を証明する確かな証拠にめぐりあうことなく亡くなられた。無念だっただろう。
 斐太さんとの出会いの後、しばらくして、大台山麓の三重県勢和村にオオカミを疑われる異様な動物の死骸が発見された。斐太さんは飛んでいってそれを手にとり、「これこそ私が長年捜し求めた日本狼かもしれない」と語ったのが新聞に報じられた。その後の鑑定では、脱毛性皮膚病を患ったホンドキツネということになったようなのだが、結局のところ何だったのかはっきりしない。

 斐太さん亡き後、東吉野村で失われた日本狼を探す人々の集いが催され、多くの研究者が集まった。まるで、斐太さんの亡霊が日本中のロマンチストたちを台高山脈に招き寄せているように思える。

 私はその後、南アルプス池口岳で大きな毛玉糞を見た。苗場山頂の森のなかでも、乙妻山頂でも、狼に食われたとしか思えぬ動物の遺骸を見た。その度に「もしや」と思った。だが、社会的生活をするオオカミの種の保存絶対数は最低30頭以上と考えられるので、理論的には滅亡を断言せざるをえない。30頭もいるなら必ず人目に触れるはずだが、その姿を見た者はなく足跡も見つからない。ほとんどの学者は、戦後、狼と誤認された動物の大部分は野性化した犬だったと考えている。

 だが台高山脈では、その後も、日本狼の特徴を備えた野犬や、獰猛な紀州犬の原種と疑われる野犬の存在が撮影され、確認され続けている。狼の痕跡は確かに実在している。
 秘境と呼ばれた台高山脈も、高度成長・列島改造の狂騒に煽られるように、反対者をブルドーザで蹴散らすように開通させた大台スカイラインをはじめ、お定まりの開発の美名のもと、ダムや皆伐による破壊がすすみ、その神秘的な山深さ、豊かさは遠い過去のものとなった。

 松浦武四郎が明治18年に大台ヶ原に登頂したときでさえ、「修験者さえ入らぬ」といわれていたほど人跡希だった秘境にも、いつのまにか伐採用林道が網羅され、国家公務員による作業はひどく金のかかるものらしく、作業者のための通勤用レールリフトまで設置されるようになった。ひとたび迷ったなら容易に抜けだせないといわれた広大な原生林樹海も無惨に皆伐され、まるで現代日本を象徴するような無個性の味気のない杉の植林にとって代わられてしまった。果てなき原生林によって、神秘的幽玄を誇った大台の景観も、ありふれた山並みの光景に変わりつつある。

 もちろん、これは台高山脈に限ったことではない。しかし、山々へのこうした「開発」の結果もたらされた荒廃が、人々の心にどのような影響をもたらしているのか考えてみたい。
 わたしたちの祖先は、人の力の及ばざる神秘的な大自然に対して大きな畏敬をもち、遠い先祖から受け継いだ豊かな自然の恵みを、はるかな子孫に受け継ぐことを義務として、細心の注意をはらって質素倹約の無駄のない生活に勉めてきた。
 だからこそ、四代、五代先の子孫の利益のために、自分の世代の得にならない植林を行なうことができたのであり、人々の生活の視野には先祖と子孫の顔がはっきりと見えていた。破壊された山々は、そうした伝統精神の破壊の反映にほかならないと私には思えるのである。人々は過去も未来も見通すことができなくなり、目先の利害しか見えなくなった。言い換えれば、「目が近くなった」のである。

 近代工業の勃興は、それまで故郷の集落共同体に埋もれていた「里人」を独立させ、個人化し、共同体からひき剥がした。集落の共同利害の制約をかえりみる必要のなくなった人は、自分個人の利益のために、所有権という法の虚構をタテに、皆のものだったはずの土地を自由に凌辱できることを保証された。目先の金銭的利害の前に、「みんなの」自然を大切にしなくなるのも当然の帰結であった。

 山菜・キノコ・川魚などの山の幸を、集落の同胞・子孫と共有するために根絶やし採取をしないといった昔ながらのモラルは顧みられなくなり、山村に住む山仕事の職人でさえ平気で谷に空缶を投げ捨てるようになった。人は、破壊された山々に先祖の顔を見ることができなくなり、そして、誰も子孫に豊かさを残そうなどとも思わなくなった。すなわち、山を畏れず、敬わず、そして愛さなくなった。そうして、深い山中に幻の狼が人知れず生き残っているかもしれないと思うロマンも、いつのまにか、わたしたちの想像力から奪い去られようとしているのである。

 歴史上、多くの都会人が想像するように日本狼は民衆から忌避されてきたのではない。逆に、深く畏敬され続けてきたのである。オオカミとは大ロの真神と呼ばれた「大神」の意味であった。
 山村に住む人々にとって最大の敵は、作物を根こそぎ荒らす猪であり、山野の草を食べ尽くす鹿であった。「狼が一声唸れば猪が三日は寄りつかない」といわれた天敵の狼の存在は歓迎されるものであった。日本狼は、明らかに日本の山野における生態系の頂点の捕食者だった。

強い繁殖力をもつ鹿・猪・猿など大型動物の生態系バランスは、狼によってコントロ-ルされていたと考えられる。オオカミはまさしく神の使徒として自然界に君臨していたのである。
 畜産放牧を行なう外国地域では、狼は人間の生産物に対する直接の害獣として憎まれ駆逐されたが、肉食が忌避された鎌倉仏教以後の日本文化にあっては、主食類の競合者であるイノシシ・シカを退治し、それらの遺体も清掃してくれるありがたい大神様として崇められたと考えられる。

 余談になるが、日本列島先住民たるアイヌには、死者の遺体を草叢に置き、自然界で最上位の神、ヲセ(ホ-ケ)カムイと呼ばれた狼に喰ってもらうことによって天に帰すといった草葬思想があった。それはチベットの鳥葬にも似た崇高な儀式であった。
 だが、3~7世紀頃、日本にやってきて支配階級となった渡来系住民達は先祖祭祀を重視する道教思想の影響下にあった。おそらく、狼に埋葬した遺体を喰われて困ったはずで、そのことへの対策が今日の墓石民俗を産んだにちがいないと私は考えている。つまり、狼に掘り返されないための重石として墓石がつくられたと考えられるのである。このことは、古墳遺跡民俗を考える上でも大切なキーポイントになるのではないか。

 狼に人間を襲う習性はないと言われるが、遺体を喰い荒らした狼は人の味を知り、生きた人間も襲うようになる。古代人にとっては外界の脅威が増すことになり、それは氏族内部の団結を高める要素になり、首長やシャーマンの権威を増すに好都合である。だが、渡来系住民のように、氏族社会から階級社会へと進化を遂げていた人々にとっては、外界を安全にすることのメリットの方が大きかった。

 民衆は、大神様である狼の出産を知ったときはそれを祝い、赤飯を炊いて狼の産屋に供え、また、夜間に道中で送り狼に遭遇したなら、無事の帰還の礼として必ず食を寄進したと記録されている。人々は狼を畏れたが、同時に、それを奉って守り神としたのである。実際、遠州や秩父など山の神社には、狼を祀っているものが少なくない。
 ゆえに、日本人の山岳への畏敬の伝統と、墓制を含む民俗習慣の大きな部分について、日本狼の寄与はきわめて大きかったといえるのではないか。逆にいえば、狼を失ったわれわれは、大切な山の一部をも失ったのではないか。日本山岳は、狼という大切なコントローラを失ったことによって、その荒廃を刻みはじめたともいえよう。守護神であった狼が失われた後に跋扈するものたちは、鹿・猪・猿そして人も、山々を食い尽くし荒らすものたちばかりではないか。

 歴史上、日本狼が人間に危害を加えた例は少なくないが、それは江戸時代末期の全国的な滅亡の前、数十年間に集中的に記録されている。大災害や戦争によって野山に死体が氾濫した時代を除けば、狼害は主に病狼によると考えられていて、健康な狼が人を襲う例は希であった。
 優れた狼研究家の故平岩米吉翁の著作によれば、狂犬病によると考えられる狼害の嵐は、1732年(享保17年)に出現した病狼を端緒とし、西海道(九州)から順次東上して東北に到っている。以前、京都博物館で開催された洛中洛外絵図展中に、私は享保年間の長崎オランダ貿易府から幕府への献上道中図を見た。それには、各種物産とともに檻に入れられた多数の珍動物が描かれていた。これによって、私は日本狼の滅亡に関する大切なヒントを得た思いだった。感染源についてである。平岩翁は、明治末期の最終的な絶滅の原因をジステンバ-の蔓延とされているが、狂犬病を中心とした伝染病こそ、社会生活を営む狼絶滅の主因となったことを疑う余地はない。鎖国政策をとりつづけた日本ではあったが、狼にとって、わずか一頭の感染動物が絶滅へのひき金になったかと思える。

 全国に数万頭いたと推定される江戸時代初期の飽和的存在から、完全な絶滅までに要した年月は200年に満たない。天は、大自然の守護神たる狼に鹿や猪なみの強靱な繁殖力を与えなかった。そして、頂点の捕食者はあっけなく滅びたのである。
 平岩翁は、これが没社会的なヒグマだったなら絶滅には到らなかったかもしれないと書いている。滅亡のキーは狼独特の発達した社会性にあった。集団なくして生きられない彼らは、集団ゆえに滅びた。このことは、今日のわたしたちにとっても十分意味のある教訓といえよう。
 狼を失ったわれわれは、それによって何を失ったのか考えてみたい。

 台高山脈は広大な紀伊山地の核心部、大峰山脈の東にあたる。台高で分からなくとも、世界最大級の降雨と、それによって育まれた苫苔林と雄大な渓谷美で知られる大台ヶ原を抱く山脈といえば分からない人はいないだろう。
 台高の範囲については、西に伯母ヶ峰峠で隔たる熊野の国、紀州の屋台骨たる大峰山脈、南東にリアス式海岸の美しい熊野灘・志摩半島を抱く伊勢の国(江戸時代は、紀州に含まれていた)、そして北には大和の国、室生古火山群と伊勢青山高原があり、これらに囲まれた山域である。

 この山々の北部は、和歌山街道(伊勢南参宮街道)が山腹を通過することで古くから知られた高見山の名をとって高見山地といい、さらに、東に連なる最高山塊、大台ヶ原の台をとって両者を併せ台高山脈と呼ばれる。本来いわれそうな奥伊勢山地という名を聞かない理由は私にわからないが、あまりに入り乱れた区切りのつきにくい地形のせいかもしれない。いずれにせよ、これはなじみの薄い名称で、よほどの山好きでも台高山脈でピンとくる人は少ないのではないか。

 台高山脈は、その西側の東熊野街道を隔てて大峰山脈に接し、さらにその南に果無山脈をつなぐのだが、私はこの近辺の山上から紀伊山地全体を眺めるにあたって、この「果無」という地名こそこれらの山々にもっともふさわしい呼び名だと、いつもため息をつきながら思う。
 早朝、これらの山々の頂きから果てのない山なみをぼんやり見ていると、突如、東の尾根の上が垂直にきらきらと輝き、あたりが金色に染まる。一体なにごとが起きたのかと思うと、それが熊野灘の日の出なのだ。
 それは、まるで極楽浄上を思わせる神々の光の宴のようで、この、しびれるように魅力的な光景は、私の知る限り、紀州中央のこれらの山々からしか見ることができない。

 伊勢湾に流れこむ櫛田川と宮川を取りまくようにそびえるこれらの山々は、最大標高も日出ヶ岳の1695m、多くは1200~1400m前後の低山のピ-クが連なっている。しかし、大都市からの交通の不便なこともあって、大台ヶ原以外の入山者は極めて少ない。比較的多いのは、国見山、高見山、三畝山だが、それら以外の山々はルートも心もとないし廃道化した道も多い。
 この山域の沢は、世界最大級の降雨によって、特異な渓谷美を形成しているものが多い。代表的なのが宮川上流の大杉谷で、これは瀑布とゴルジュの規模からいっても黒部渓谷の第一級の景勝に劣らない迫力をもっている。東ノ川渓谷や池小屋山の宮の谷、江馬小屋谷、ヌタワラ谷などからなる奥香肌峡も巨瀑の多い優れた渓谷美を見せる。

 これらは北アルプスの渓谷に比肩するいわれてきたが、実際に沢登りに歩いてみると、なるほど滝のスケールは黒部に匹敵しているが、黒部ほどの困難さは少なく巻道も多いので、一部を除いてグレードは4級どまりだろう。雪渓の崩落に気をつかう必要もなく、快適な沢登りを満喫できる。

 だが、この地域は世間に知られていない隠れた自然であるためか、林野庁官僚による無謀で恥知らずな原生林破壊が急速に進み、極相の原生林は極めて希になってしまった。
 紀伊半島に残された極相林は、那智の滝周辺と、池小屋山、大杉谷の一部にあるにすぎないが、それさえ虎視眈々と狙われる危うい状況にある。未来に遺すべき偉大な自然は、「独立採算性」という先進諸国から自然保護政策上侮蔑されるシステムをとった林野庁によって大部分を食い尽されてしまっている。

 大台ヶ原 

 大台ヶ原は、関西地方の山好きたちにとって、今日の日本アルプスに匹敵する深山として、あるいは大和平野の最後に秘められた奥座敷として、戦後長く畏敬されてきた。
 敗戦の混迷のなかで、今では想像もできない過酷で長い労働に拘束され、心と体を苛まれた労働者たちが、やっとの思いでとった休日、狼の伝説に彩られ、神秘的な山深さの残るこの地をめざしたのである。

 すでに30数年も前、東京オリンピックのカウントがはじまった1961年に、大台スカイラインが有料道路として開通した。これで、大和上市から3時間余りでバスが直接乗り入れることになり、大台は乗鞍や上高地とともに登山者の聖域ではなくなった。
 この時代は、がむしゃらに働きつづけた日本人に、ようやく余暇を旅行で過ごすというゆとりが生まれかけたころで、モータリゼーション観光の爆発的需要を受けて、自然保護の観念の育たないまま無謀な林道開発が全国的に行なわれた。それらは、わずかに尾瀬と白神が辛うじて阻止されたが、大部分は工事業者と結託した行政によって実施され、後世に遺すべきかけがえのない人類の遺産は、回復の望みのないほど凌辱されていった。

 このころの日本経済といえば、まるで急な雪原をころがり落ちる雪ダルマのような膨張ぶりで、大衆生活に自家用車や電気による贅沢文化が浸透する一方で、水俣や四日市に代表されるように公害による悲惨な犠牲者が大量に生みだされていた。自然開発も、このような「両刃の剣」的性格を免れることはできず、余暇を楽しむための施設が、とりかえしのつかない自然破壊の礎になったともいえよう。

 大台スカイラインは、秘境大台ヶ原に大量の観光客と使い捨て物資を送りこみ、自然環境の悪化にこのうえない寄与をした。屋久島とともに世界最大級の雨量を誇るこの地域には、モスフォレストとよばれる特異な温帯性蘚苔林のなかに珍奇植物も多く、メタセコイアに匹敵するトガサワラ林など天然記念物的価値の森林といわれたのだが、開発の邪魔になるため法的保護から外された。

 そして、それらの運命は、車に乗ってスコップを携えてやってくる「観光客」の前に、説明するまでもない結果をもたらされた。大台に限ったことでないといえばそれまでだが、原自然保護の観念が育つまでには大変な犠牲を必要とすることを思い知らされるのである。まして、それが利権と絡むものであれば救いのない結果を避けられないのが「先進国」日本の現状である。

 大台ヶ原は、古い大和地方の文献にはなかなか顔をださない。まとまった紀行は、伊勢、三雲村出身の探検登山家、松浦武四郎の、優れた写生絵を含んだ乙酉掌記、丁亥前記、丙戊前記の三編により、明治中期、世に知らしめられることになった。
 北海道の民俗探検者であり、その名付け親として、また国学勤皇の志士として高名でありながら、アイヌに対する暴虐な支配を拒否したため、北海道開拓の高級官僚に君臨する道を棄てた武四郎が1885年(明治18年)に市井の遊行者として初めてこの山に登ったとき

 「優婆塞も聖もいまだ分けいらぬ、深山の奥に我は来にけり」
 と詠んだとおり、この山には修験の遺構さえ存在せず、地名にも歴史的事象に関連のあるものは少なかった。南朝や義経の逃避行にかかわる伝説が少しばかり遺されていたが、近畿地方の山々のなかで、これほどの大規模な山容でありながら、これほど歴史記録から疎遠な山も少ないが、これも台高山脈の山深さの証明なのだろう。

 それでも、江戸時代中期には、いくつかの登山が行なわれた模様で、1721年(享保6年)と26年には幕府の採薬使、野呂元丈、植村左平次らの医官が登山し、これが大台登山の最初の記録になっているようだ。野呂元丈は伊勢出身の蘭学の先駆者として知られるが、後に本邦初の狼による狂犬病治療の専門書を出版し、台高山脈との因縁を感じさせる人物である。
 1834年(天保5年)紀州藩士、仁井田長群が、本居派国学徒によるナショナリズムの高揚をめざした地誌編纂運動の影響下に、紀州藩の「紀伊風土記」編纂の命を受け、大台ヶ原を視察した。

 仁井田らは、山蛭を避けた晩秋の10月中旬、紀伊長島方面から便山(海山町)を経て大台ヶ原に至り、「登大臺山記」という紀行文を遺している。当時の呼び名は、大平山、あるいは大台山というのが普通だったようだ。
 大台山記には、「山麓までは松杉檜柏あれども、中腹より上は石楠花、篶竹のみにて希に五葉松あり、峰原は悉く武那、樅にして、他樹なし。鳥獣羽蟲の数もまたなし。風烈きをもて木皆伸びず、幡属して林泉の樹の人為を以て作りなすが如し」と、植生の特徴を記録している。

 山上についても、「絶頂三峰あり、第一を日本ヶ原、その南を片原台、南にあるのを大禿という樹木なき赤峰なり」とし、堂倉に小屋があると記され、牛石などの地名や伝説も紹介していることから、地元の猟師や木地屋にとっては、すでに疎遠な場所でなかったことが知れる。ただし、この地名は山麓の村ごとに少し異なっていたようで、北山方面では、今日使われるとおりの地名が用いられていた。ここには、大台下の三之公八幡平に南朝方の子孫が住み続けてきた。

 武四郎の大台紀行には、経ヶ峰の付近に、明治三年に開いた開拓の跡と、その小屋が遺されていたと記されている。武四郎の一行は、この小屋を足場に大台ヶ原を探検したようだ。これは京都興正寺の家来、脇谷、高橋、内田の三名が、やはり便山、木津村から、案内をつれて大台ヶ原に至り田畑を拓いたが、二年目にして棄てられたと記されている。
 武四郎は、この高原地を大台随一の膏沃の地と尊び、棄畑を惜しみ、案内に立った岩本、射場の両名に、
 「山上にこのように広いな平原があるのはここと高野山だけだ。どちらにも水利がある。儂はここを終焉の地と定め、大台原山を開拓して農産を起こしたい」
 と、最後の人生をこの地の開拓に捧げる強い意志を示していた。

 たしかに、この高原の気象は東海や関西の人々にとってはいささか厳しすぎるように思えるが、蝦夷地方の過酷な探検生活で培った武四郎の能力からみれば、十分に適応できる確信が持てたのだろう。だが、武四郎は、四度目の大台行を控え、開拓を準備していたある日、脳溢血によって71年の類希に充実した生涯を終えた。その分骨は、武四郎の遺言によって、この開拓場の一角にあたるナゴヤ谷、御霊ヶ岡に葬られている。松浦武四郎は大台の守護霊となった。

 私にとって四度目の大台行は、武四郎の足跡をたどり、その墓碑を訪れることが目的だった。過去三度の登山は、大杉谷堂倉経由のものと、スカイライン経由の東大台散策、および小折湯から笙ヶ峰の山行だったが、いずれも武四郎には無関心だった。 
 95年5月の連休、激しい渋滞に辟易しながら、ひさびさに大台ヶ原の一角に車を停めた。4月中旬から、まるで梅雨のような長雨が続いていて、この日もときおり激しい俄雨に見舞われ、世界有数の降雨量を誇る大台ヶ原では半端な事態ではあるまいと腹を括っていたのだが、到着した夕方には青空が見え、翌日の山行に期待が持てた。

 スカイラインの終点の駐車場に車泊すると他車がうるさいので、手前の尾根ぞいの空地に停め食事の支度をはじめようと空を見上げると、異様に赤く染まった夕空のなかに、東西に伸びる地震雲がくっきりと出現していた。
 かなり強力な白帯雲だが長さはさほどでもなく、大地震ではないと考えられた。方角は西か東のどちらかだろう。私は、最近アマチュア無線の仲間に呼びかけて地震雲の観測会を設立したばかりなので、あわてて無線で知人を呼んでみたが、位置が悪くつながらなかった。

 地震雲は、20年ほど前、当時奈良市長だった鍵田忠三郎さんが提唱し、多くの地震を予知してみせたことにより、中日新聞社が「これが地震雲だ」という本を出版し、これを契機として広く世に知られるようになった。
 しかし、鍵田氏が権威機関の学者でないせいなのか、一度として地震を予知したことのない地震予知判定会や気象庁はこれを無視し続け、気象庁が地震雲の存在を公式に否定してからというもの中日新聞もこれを取り上げなくなり、世界的価値のこの本も廃版にされてしまうという愚かしい事態になっている。鍵田氏はいずれ巨大な評価を受けるにちがいないが、そのとき公式に地震雲を否定した馬鹿学者の「権威ある」顔をぜひ放映してもらいたいものだ。

 気象庁も、「地震雲は飛行機雲だ」と決めつけ公式にその存在を否定したのだが、これによって、気象庁は自ら初歩的な雲の観測能力すらないことを暴露したのである。さらに、このような権威機関に盲従するマスコミの愚かさも特筆すべきだろう。阪神大震災についても、鍵田氏の啓発により、地震雲による予知に成功した人が私を含め大勢いたのだ。鍵田氏の偉大な功績が正しく評価されていたなら、あれほどの大災害にならなかったはずなのだ。学歴差別による権威主義こそ、大災害の張本人であったと言わねばならない。

 このとき(4日)の地震雲は、同日と5日に神戸と飯田で震度3を記録している。4月中旬に東海大地震の震源域に想定される相模湾で震度4があり、私はいよいよ東海大地震の前震と疑っているのだが、この一連の長雨も、東海地方の地殻に異常な歪みが生じていることから来ているように思える。地震と雨は大いに関係があると鍵田氏も特筆していて、雨は地の気(ピエゾ効果とする中松義郎説あり)に引き寄せられるとされる。これらは、権威に盲従し、自分で思考する能力のない馬鹿学者どもには理解不能であろう。

 5日は、どんよりと曇り、いずれ降りだすことは確実に思えたが、とりあえず武四郎の碑をめざして西大台ルートをたどった。こちらは人気のある東ルートに比べて実に静かでおちついた散策ができる。
 駐車場を下るとすぐに神習教大台教会で、1950年代まで大台唯一の人家であり宿泊施設であったこの教団が、大台ヶ原の真の開拓者なのである。ちょうど神主さんの奥さんが洗濯ものを乾していたので話を伺った。

 神習教については予備知識がなかったが、奥さんの話では、明治36年頃、もともと伊勢神道系の山岳宗教である御嶽教から分派した教祖が設立し、大台を信仰拠点にするため開拓したそうで、神道十三派のひとつに認められており新興宗教ではないと強調された。ときどき、新興宗教が道場破りの祈祷競争をもちかけてくるそうだが、いまだ破れたことがないともいわれ、是非その現場を見たいとも思った。

 教会本殿では、ちょうど信者にお祓いをしている最中で、神主の衣装や祝詞は純神道と変わりないが、社殿の様式は神道系ではなく両部の権現寺に近い。私は気功を行っているので、参拝口で掌を上に向けてみると強い祈りの気が感じられた。
 奥さんに松浦武四郎について聞くと、「松浦さんのお墓はうちでお守りしているんですよ」と言われた。武四郎は晩年、神道に力を注ぎ、自分を高野山開拓の空海になぞらえていたほどで、大台ヶ原開拓も山岳的色彩の強い神道の拠点として考えていたにちがいなく、大台教会関係者は、あるいは武四郎の遺志を嗣いでいるのかもしれない。

 正確な碑の位置を聞き、カメラと三脚を担いで散策に出た。大台教会から500mほどで、笙ノ峰から木和田方面に向かう二本のルートの分岐になり右をたどる。左が本道で木和田に至る。右は散策道として新しく拓かれた迂回路のようで、大台特有の美しい蘚苔林の間を気分よく散策できるが、右手に見え隠れするスカイラインがなんとも憂鬱でならない。道路から赤い蒲団が投げ捨てられていて、不快にさせられた。遺体が包まれていなければよいが。

 10分ほどで名古屋谷源頭に出会い、コバイケイソウの美しい新芽が目を愉しませる美しい小平地に武四郎の碑があった。名古屋谷の名は、この地の杣の頭が名古屋出身だったことで名付けられたと仲西政一郎版地図に書いてある。
 武四郎は、この地に分骨埋葬するよう遺言し、養子や知己によって碑が建立されたが、それは台風によって壊れ、今では古い石組が残されているのみで位置も定かでない。幸い大台教会による祭祀の木札が遺っていて辛うじてそれと分かる。武四郎は、最初の大台行の際に、ここにマンサクの木を見つけ、夜中、松明を灯して訪れ、
「マンサクよ、蝦夷の山で見たおまえもこの山におったのか」
と、涙を流し頬擦りをして喜んだと案内者の子孫に伝えられている。

 ここから30分ほどで、七ツ池のすばらしい平原樹林に達し、原生林の大台情緒を満喫できる。大台ヶ原ほどの規模の蘚苔林は同じく世界有数の雨量を誇る屋久島にしかなく、屋久島の特異な植生景観に比べれば劣るとはいうものの、モミ・ツガ・トウヒなどの針葉樹が地衣類に包まれた独特の景観は本州の山岳地帯では貴重なものである。ただし、道路開通後、珍奇植物や高山草は盗掘壊滅させられている。

 原生林が残り少なくなったこの期に及んでも、なお原生林皆伐をやめない、盗掘者の親玉に恥じぬ日本政府のありさまを見るに、あるいはこの僅かばかりの森が日本最後の森になる恐れさえ危惧せざるをえない。
 数年前、林野庁は白山ブナ極相林を1ヘクタール300万円という値段で皆伐し、パルプ会社に叩き売った。彼らは、大台ヶ原や北アルプスに僅かな原生林を保存していることを免罪符として暴挙を続けているのであり、臨調以来の、独立採算制による林野会計の圧迫が、信じられぬほど馬鹿げたこれらの愚挙の根拠になっている。1ヘクタールの原生林の生み出す価値が300万円だというのか! 「猫に小判」どころでない価値を知らぬ愚者の手から政治を奪いかえさないかぎり、日本の未来などあろうはずがないのだ!

 経ヶ峰の下、高野谷に開拓という地名の平原がある。ここに明治3年、京都の寺が開拓を試みたが失敗に終わった。案内板には、馬鈴薯と大根はできたが、稗と蕎麦は実らなかったと書かれている。
 雨が桁外れに多く気温も低いので、農産物も寒冷多湿地向けの品種改良されたものでなければ育たないだろう。武四郎は棄畑を惜しんだが、蝦夷の地で鍛えられた武四郎ほどの人物でなければ開拓は無理だったにちがいない。武四郎が50代であったなら、今日この地は高野山のような活況を呈していたかもしれない。だが、71歳の武四郎は、鍬をもつこともなく逝った。

 大台教会の奥さんの話では、冬期、この付近では地下1メートル以上凍結し、ものすごい霜柱ができるそうである。そのため、明治に建てた居住家屋は、基礎が霜柱によって持ち上げられガタガタになってしまっている。こうした理由で、十数年前に再建された社殿は、地下2メートル近く掘り下げたコンクリート基礎に建てられたとのことで、北海道内陸に匹敵する自然環境に、開拓者たちの苦労も並大抵のものとは思えない。

 開拓地は100年以上を経過して、今では二次林となった。ところどころで樹皮が鹿に食い荒らされた樅が目立つ。針葉樹の甘皮は、熊・猪・鹿・猿と大抵の動物が喜んで食べるようで、糖分かなんらかの薬効があるのかもしれない。
 この先、中ノ滝の見える展望台まで行って引き返した。他のルートは過去に一巡していて、観光客が充満する東大台に行く気にはなれなかった。展望台には、混雑する東大台を避けた賢いアベックが数組いたが、静けさを破るほどではない。
 展望台から、東ノ谷源頭の中ノ滝は上部しか見えないが、右手の尾根上から落差270mの全貌が見える。ただし、樹林に遮られている。南ア精進滝より大きく、立山称名滝より小さいが、日本百名瀑にふさわしい巨瀑といえよう。ここからは滝見尾根からほどの迫力はない。

 この先、歩きやすい平坦な古道が木和田や小折に続いている。3月中旬に、小折温泉からこのルートを笙ノ峰まで辿った。車は崩落により通行不能だったが、林道が稜線まで達し、それが大台ヶ原に向かってきていて驚いた。いずれ、スカイラインまでこの尾根上を林道を通す計画なのだろう。なるほど、林野庁らしい立派な原生林保存計画だ。これは視察のための道に違いない。
 道は笙ノ峰の肩を巻いてつけられているが、笙ノ峰自体は登山道がなく、微かな踏跡を辿って藪を漕ぐ。二等三角点峰と本峰の双児峰だが、本峰の方が数十メートル高い。

 登山口の小折温泉は実に良い温泉だ。500円で入湯できるし、バンビというロッジで宿泊もできる。
 3月28日開湯なので前回は入れてもらえず、今回、大台に登る前に立ち寄った。ところで、温泉の良さは気感によって決まると私は思っている。深山の気に恵まれた温泉に浸かると、体中を生命エネルギーたる気がぐるぐる回り、ちょうど気功による周天功と同じ効果をもたらし、発熱して冷えないのである。これは、科学的分析によって理解できるものではない。温泉の成分を科学的に決定し、化学薬品によって忠実に再現しても決して本物の温泉効果は得られない。それは気が含まれていないためである。小折温泉の気感は、希に見る強いものであった。

 大杉谷 
 三重県多気郡宮川村より 95年4月中旬

 大杉谷は、黒部渓谷に肩をならべる名渓として古くから評価が定まっている。
 伝説の遡渓者というべき冠松次郎も大杉谷を絶賛している。深田久弥も何度もここを訪れ、尽きせぬ魅力を語っている。ひとたび山歩きに足を染めた者なら、生涯のうち一度は必ず歩きたい谷といえよう。
 大台山系は最大標高1700メートル程度と中級山岳でありながら、年間5000ミリを超す雨量を誇る山で、その最も大きな集水域を持つ渓谷が大杉谷である。

 年間5mを超す降水量は、大台ヶ原の他に屋久島やヒマラヤ山麓が知られるが、地球上にそれほど多くはない。だから、この付近では他の地域ではあまり見ることのできない多湿地帯特有の蘚苔林景観と、狭い谷に極端な降水が集中するために特異な渓谷が発達している。
 この谷は秩父古生層からなる硬質の岩盤に恵まれ、激しい水流による浸食に堪えて奇岩怪石の渓谷美をなし、深いゴルジュと巨瀑が連続し遡行者を飽きさせない。
 私は大杉谷に惹かれ、過去4度歩いているが、この谷には四季折々に離れがたい魅力があり、深い原生林の仙峡に浸り、常に新鮮な感動を得ることができるのである。
 
 谷歩きは遡行するのが普通だが、大杉谷は比較的足場が良いので、大台ヶ原から宮川ダムに下降してバスで松阪市に出る人が多い。しかし、車を利用する場合、どうしても宮川ダム湖からの往復になる。
 伊勢自動車道の勢和多気インターの開通によって宮川村への道路事情が著しく好転したが、まだまだ宮川村を訪れるマイカー観光客は少なく、静かな仙峡の雰囲気が残されていて、この付近は近畿有数の観光穴場である。 大台町で国道42号線から分かれ、小一時間も走れば宮川ダム湖に着く。湖畔にバスの終点の大杉という集落があり、登山センターが設けられ、二軒の茶屋が営業している。

 ここが宮川村大字大杉で、合併前の大杉村の中心地だった。大杉村の大部分はダム湖の底に沈み、ここに30世帯ほど取り残されたのだが、その後も移転が相次ぎ、今ここで生活しているのは8世帯になってしまったと茶屋のオバさんが語ってくれた。
 オバさんと世間話に興じていた近所の奥さんも、人恋しいのか、遊山客の私と話すのが楽しそうに昔話をしてくれた。
 「私は三河から騙されて嫁に来たんですよ、まさかこんな山奥だなんて知らずにね、フフフ」と、奥さんは嬉しそうに話した。騙されて損をしたわけでもなさそうだ。

 この茶屋の名物は、なんと秋刀魚寿司である。オバさんの手作りで実に旨かった。実は、ここから直接、熊野灘の海山町に抜ける険しい峠道が通じているのだそうで、毎日魚屋が新鮮な魚を売りに来るという。
 「わざわざ、名古屋から食べに来るお客さんもいるんですよ」、オバさんは眼鏡の奥の優しい目を細めて自慢気に言った。
 かくのごとき深山の幽境にて秋刀魚を食するとは、これオツといわずになんという。訳を訪ねて後からこの峠道を走ってみた。水呑峠というのだが、最近大部分を舗装したばかりのようだが、すれちがいもままならぬ険しい林道であった。こんな厳しい峠を経て来る行商人は、損得抜きの意気というものだろうと感じ入った。

 宮川村と合併して、この小集落の地名になってしまったが、大杉村の大杉の名は、もちろん大杉谷から伊勢神宮の用材として大杉を伐り出した由来による。だが、もうひとつ、ここに正真正銘の大杉が存在することも由来の一つである。その名も「大杉さん」という。
 茶屋から少し戻った分岐路を上に行くとキャンプ場があり、立派な民俗資料館が建っている。その駐車場に車をおいて大杉神社の参道を歩けば、巨杉の森のなかにひときわ高く大きな古木が目につく。注連縄の張られた一番立派な杉が「大杉さん」である。
 目測、高さ40メーター、胸高回り8メーターの巨木で、樹齢は千数百年といったところだろう。縄文杉や石徹白大杉には劣るが、加子母や山住神社の大杉に勝る日本有数の巨杉である。普通、超千年級の杉は老木の印象が否めないものだが、この杉は痛んだ部分が少しもなく、まるで青年期のように生き生きと充実している。環境がすばらしいからだろう。私の知るかぎり紀伊半島随一の杉である。

 茶屋から湖に降りる石段があって、そこに立派な観光船が係留されている。夏のシーズンに、ダム湖の一番奥の大杉谷登山口まで一日数往復している。大台ヶ原から下山すると、宮川第3発電所で乗船して、ここに到着し、松阪行きのバスに乗って帰ることになろう。
 昨年の異常渇水で水位が極端に低下したために長期間運行が中止されているそうだが、5月に再訪したときには長雨と集中豪雨でダムは久方ぶりの満水になっていた。今年の夏は大丈夫だろう。
 大杉谷の登山口は、ダム湖途中の吊橋を渡って狭い道路を終点まで行く。途中、ロッジが一軒通年営業している。その先に、小さな駐車場とトイレの設置された六十尋滝がある。

 落差60メートルで、一直線に落ちる見事な直瀑である。この滝が大杉渓谷探勝の最初の滝になるが、安易なマイカー観光で見物できるのでは値打ちも落ちるというものだが、百名瀑に選ばれても遜色はないだけのスケールがある。
 宮川第3発電所の脇から大杉谷に入渓すると、すぐに巨大なナメ状岩壁をくり貫いたトラバースになる。ここからは黒部渓谷の棧道に似た、高度感のあるトラバース道が続く。迂闊なスリップが致命的事故につながる険路であり、高所恐怖症の人は気の休まる場所がないので入山はやめたほうが無難だ。事実、毎年、数人が事故死し続けている。

 道はところどころに吊橋をかけ、渓谷ぞいを上下しながら続いているので体力がいる。40分ほどで、ほっと一息つける広い川原に出る。ここは絶好のキャンプサイトに見えるが、雨の日は蛭が出るという。ここにはハナヒルという動物の鼻腔中にとりついて成長する固有種の奇天烈な蛭が生息しているが、特別天然記念物には指定されていないようだ。

 取水堰があり、再び上下の多い苦しい道が続く。やがて前方に、まるで天上から落下するような巨大な滝がかかっているのが見える。わずかで、滝見物のため作られた立派な小屋に入ってゆく。登山道は小屋の中を通っているのである。ここには5人程度が寝られる板敷の広さがあり、避難小屋を兼ねているようだ。小屋の中から滝を眺めると、まるで稜線の上から雪崩落ちるような大滝で、圧倒される。これが落差140メートルといわれる千尋滝である。

 千尋滝は大杉谷最大の滝だが、実際にはナメ状3段の連瀑で途中に段落があり、水量が多く幅も非常に広い。だが、なぜか大杉谷から日本百名瀑に選ばれたのは、この滝でなく七ツ釜の連瀑であった。水源の向こうが広い棚地になっているために尾根からいきなり落下するように見える滝の景観は珍しく、独特の迫力がある。

 このあたりから七ツ釜にかけて大杉谷の核心部で、登山道も本格的に険しくなる。道は岩壁をくり貫いた棧道が多く、十数年前の吊橋落下事故以来、安全施設が整備されたとはいうものの気を緩めることはできない。
 苦しい上下を続けるうちに、両岸の狭まった深い淵が見える。これがシン淵と呼ばれる巨大なプールで、昔は雨魚がうようよ泳いでいたが、今では見ることは希になった。

 遠くに白い一条の大滝が見える。険路を慎重に歩いて近づくと、轟音につつまれた滝の全貌を見渡す急な尾根上に再び展望小屋が設けられている。見事な大滝だ。
 これはニコニコ滝とよばれ、3段で落差130メートル、下段は70メートルの直瀑である。豊富な水量や迫力では千尋滝を上回り、大名物といえるのだが、なぜかこの滝も百名瀑から漏れている。

 日本有数の雨量と、それによる立派な渓谷で知られる台高山脈には幾多の名瀑が知られているが、百名瀑に選ばれたのは七ツ釜滝のほかには大台ヶ原から東ノ谷に落ちる中ノ滝だけであった。他にも、中ノ滝のとなりの西ノ滝や、迷岳に懸かる布引滝なども日本有数の数百メートルの落差を誇っていて、ニコニコ滝も十分に日本を代表するスケールの名瀑といえるが、華厳滝や那智滝のような観光名所は知られても、いずれも容易に人の近づきがたいこれらの滝があまり話題にされないのは残念なことだ。

 百名瀑には、ちょうど深田百名山の筑波山や荒島岳に相当する養老滝や袋田滝などの問題外の滝も含まれていて、知名度優先になっているようだが、品格、スケール、インパクトによって選ぶなら、台高や黒部には候補が無数といえるほどにある。わけても格別の品格という点で、私は宮川村から登る古ヶ丸山の煉瓦滝を推しておきたい。この滝も、最近では車で行けるようになってしまったので俗化が心配されるが、落差わずか25メートルでありながら、その煉瓦状岩壁の美しさはすばらしいもので、それだけでも百名瀑の値打ちが十分にある。

 ニコニコ滝を過ぎると、吊橋を渡って道は右岸に変わる。ここから山紫水明を絵に画いたような大岩壁と深淵の奇観が続く。見渡すかぎり原生林のまっただなかで心が洗われるような気がするが、気がするだけで、実は国立公園自然保全地域・大杉谷の、左手の堂倉山から千尋峠にかけての山稜一帯は無惨な皆伐地帯であり、現在もなお奥山の原生林に向かって林道敷設と伐採が継続していることを、20年前の初山行時から確認している。

 大杉谷最高の絶景地、平等くらの大岩壁を望む展望台に「大杉谷・環境庁」と書かれた馬鹿げた大看板が設けられている。原生の自然環境を保護する気などさらさらないのはこの看板を見れば一目瞭然だが、自分たちの宣伝だけはしたいのだろう。愚かな連中だと嗤わざるをえない。こんな馬鹿官僚どもに血税をむしり取られるのは無念窮まりない。オウムとかカラスとかの宗教も、地下鉄の毒ガスは困るが、霞ヶ関を狙う分には佳としておこう。長生きしたけりゃ役人になるなってことだ。

 登山口からきつい道を3時間ばかり歩くと桃ノ木小屋がある。この日、宮川登山口を午後1時に発って4時過ぎに到着した。しかし、4月中旬のため小屋は営業していなかった。留守番の女性は、「装備をお持ちでしたら、ここから30分ほど上に七ツ釜の小屋があります」と教えてくれた。

 少し歩くと、七ツ釜の最初の滝を望む尾根の上に三つ目の立派な避難兼展望小屋があった。他の小屋同様、まだ新しい。ただし屋根と土間だけで、窓は七ツ釜滝を見るための吹き抜けである。居心地の良さそうな4畳ほどの細長い木製の床に寝ることにした。水場はすぐ下にあり、滝の轟音がうるさいことさえ我慢すれば十分に快適な宿だった。
 夜半、妙に暑くて寝苦しい思いをした。熊の吠え声らしき音が聞こえて緊張し、あまりよく寝られなかったが、翌朝目覚めると土砂降りの大雨になっていた。雨音は滝の音に隠されてまったく気がつかなかった。

 早朝、ガスに包まれて眺望は得られなかったが、空身で七ツ釜上部まで往復して下山することにした。初めて訪れた20年ほど前と較べて、吊橋事故の後の安全整備がきいてか、ずいぶん気楽に歩けるようになった気がする。
 15年ほど前の大杉谷吊橋事故のとき、久居市在住の、その昔土建屋だった知人は、
 「あれは俺たちのやった工事だ、材料の鉄材をくすねていい加減な工事をやったから落ちたんだな、あの当時はあれがあたりまえだったんだ」

 と感慨深げに語っていたが、この人は、あまり反省していない様子だった。ついでに聞いた話も身の竦むようなものだった。
 「昔のダム工事現場ではな、人夫がもめ事を起こすと、生きたまま人柱としてコンクリートに埋めこんだものだ。宮川ダムでは、どれだけ殺されたかな、ハハハ」
 これも懐かしそうに言った。
 例の吊り橋は、人が通るにはもったいないほどの吊橋に代わっていた。場所も変わった。それでも、下を覗きこむと、切れた橋のワイヤに必死になってぶら下がり、やがて力尽きて落ちて死亡した人の姿が蘇るような気がして背筋が寒くなった。
 沢登りのときは、単独で20mくらいの滝ならノーザイルで登ってしまう私も、大事故の現場に残る、重く寂しく辛い気には弱い。
 帰路、大雨のなか、スリップの恐怖を感じる場所が何カ所もあった。これでは、今後も死亡事故が続くだろう。ずぶぬれになって車に到着して、ホッとため息が出た。





 修験業山 1094m (一志郡美杉村奥津より 89年4月中旬)

 伊勢奥津はなじみ深い里である。国鉄時代、いつもローカル線廃止の第一候補にあげられた名松線(名張松坂線)の終点の駅で、とうとう名張と接続する事はかなわなかったが、それでも生きながらえて、第三セクターの管理下に命脈を保った。
 ここには地質学的に興味深い室生古火山群があり、室町以来の歴史に名をとどめる古い集落も多いが、どこも過疎に悩む山村であることについて例外はない。

 奥津の旧道の狭い街並に入ると郵便局があって、その前のT字路を南へ4キロメートルほど行くと、行き止まりに若宮八幡宮の立派な社がある。鳥居の前の広い駐車場に車を停めて一夜を過ごした。
 八幡宮といえば九州宇佐を本拠とする朝鮮半島渡来人系(騎馬民族系)の神社の代表格である。つまり、源平藤橘姓の末裔による武家支配階級の神様ということで、この社の多い地域は武家の子孫の居住地ということになる。なるほど、美杉村に多い人相は、弥生人の子孫たる大阪系のひらべったい顔だちより、騎馬民族の子孫たる京都系の小振りな公家顔が多いようにも思える。
 地域の祖神を調べることで、そのルーツに関するヒントを得られるもので、私の旅先の楽しみの一つなのだが、他人の顔を眺めてにんまりと笑う私は、ずいぶん危ない人間に思われているにちがいない。

 奥津若宮八幡宮は随分と大きな古社で、参道も立派でトイレも整備され、いくつもの建物がある。神社のなかに薬師堂などがあるのは、明治維新で打毀され残った両部神道のなごりであろうか。
 早朝、凍みわたる寒気をかきわけるように登山道とおぼしき沢沿いを歩いて行くと、すぐに滝で行き止まりになってしまった。社務所の人達はヒマをもてあまして羽子板で遊んでいて、赤い袴の可愛い巫女さんに道を尋ねると、横から可愛くない神主が親切に道を教えてくれた。
 修験業山の登路は、社務所の手前で右手から合流する白山谷に沿ってつけられている。気づかずに参道を歩くと梯子谷で、300mほどで行き止まりになる。この登山道の入口は、ややわかりにくい。

 良い道が続き、手入れされた美しい杉林を行く。杉は見事に垂直に立っている。多くの若木に、何やらプラスチックの棒のようなものがタテにぐるりと巻つけられていた。どうやら、人工的に絞り杉の床柱用銘木をつくっているようだ。こんな銘木をありがたがる日本人はまことにおめでたいが、大切な美杉の特産品ということだそうだ。

 40分ほどで沢道は消え、踏跡が左手の杉林に続いた。しばらくで痩尾根に達し、ここから尾根の急登になった。ちょっと例のない急勾配で、平均40度を超すと思われる。木の根につかまって四つんばいでなければ登れないが、最近開いたばかりの道と見えて、雑木の切り口も生々しい。上部には昨夜降ったばかりの新雪が積もり、スリップを恐れて慎重に登った。

 この山域は杉の植林が進んでいる。しかし、原生林を無謀に皆伐してしまった無惨な山肌が目につく。このような里山での林業を否定するつもりはないが、これでは山火事の被害が心配だ。ブナ科の原生林を植林と同程度に残せば、それが強力な防火帯になる。とりわけミズナラは、大量の水分を含んでいて延焼を食い止める。東北地方の極相原生林がミズナラ主体になっている理由は、度重なる山火事に淘汰されて、燃えにくい樹種が優勢になったと考えられないだろうか。原生林は、多種多様な生物を温存してくれる。多くの生物の存在は、人間の生存をも保証してくれるのである。

 人は木の家に住むべきだと私は思う。コンクリートや石の家は放射線被曝量が多く、長期的健康に有害であり、「気」もよくない。なんといっても、針葉樹の香り高い家に勝る環境はない。林業はその意味で大切な生活産業なのだが、林野庁官僚主導の現代林業は、硬直した狭い採算主義によって自ら墓穴を掘っているとしか思えない。

 この地域でも例外なく、植林サイクルが100年程度と長い檜は敬遠され、50年程度と短い杉が主体になっているようだが、このように偏った植林は、山火事だけでなく、さまざまの弊害をひきおこすにちがいない。
 近年の極端な円高は、輸入産品の値段を驚くほど引き下げ、国内産品の価値もついでに引き下げてしまったが、林業もそのあおりを端的にうけた。採算べースの極端な低下は、森を大切に育てる経済的条件を失わせ、大量伐採、大量出荷による合理化をつきつめざるをえなくなった。こうした圧力のまえに、原生林の環境的、文化的価値などは顧みられず、猛スピードでかけがえのない原生林破壊が進行してゆくばかりだ。二度と取り返しがつかないというのに。

 しかし、考えてみよう。こんなに異常に腐熟した、誤った経済がいつまで続くだろう。我々は、限りある地球資源の中で、限りのないネズミ講的な繁栄の幻覚に惑わされているだけではないか。いずれ自業自得の瓦解は避けられない。だが、木々の寿命は、我々の繁栄幻想の時間よりもはるかに長いのだ。

 1時間ほどで、ゆるやかな稜線に達した。エアリアマップ(赤目・倶留尊高原)のルートは、白山谷を詰めてゴマ尾根から頂上に向かうようになっているが、そのルートは見いだせなかった。地図にないこの踏跡は、栗ノ木岳側の稜線に突き上げた。
 滑りやすい雪を踏んで右手に歩くと、10分ほどで頂上に着いた。頂上には、大きな社が設置されている。若宮八幡宮の奥宮であったが、山名の示す修験道の行場の遺物はなかった。私の辿った新しい踏跡は、この宮の祭礼のために切り開かれたのかもしれない。

 山頂の景観に見覚えがあった。数年前に三峰山(三畝山)からピストンで縦走したのを思いだした。たしか、激しい笹ヤブ漕ぎをした記憶が残っていたが、こんな社がなければ、気づかなかったに違いない。。
 この寒さで休む気にもなれず、かといって、今登った雪の急な尾根を降下するのも気後れして、栗ノ木岳に向かった。すぐにひどいササヤブになって後悔した。踏跡もところどころ消滅して大変な縦走になってしまった。山頂にたどり着くまでひどく長く感じ、その栗ノ木山頂も眺望に恵まれず、魅力的な場所でもなかった。そこそこに、若宮峠から八幡宮への帰り道を行くと、またひどく荒れていた。

 ルートファインディングは至難だった。道は荒廃して分からず、ほとんど勘で大宮谷を下ると、ゼンマイ道らしき踏跡が現われた。やがて道も明確になり、しばらくで林道に達したが、飛び出した場所は、なんと自分の車を停めた駐車場の一角だった。
 行動時間は、登り2時間、縦走1時間、下り1時間半程度である。朝8時に出発して昼前に下り着いた。登山者の痕跡は、ほとんどなかった。
 修験業山の属する山域は、広義には台高山脈北部だが、このあたりでは高見峠から三峰山を経て修験業山に至る稜線を、主峰の名をとって三峰山脈、あるいは高見山地とも呼ぶ。

 高見山と三峰山との間には、比較的しっかりした道がついているが、修験業山付近の稜線は荒廃していて、丈の高いスズタケが密生して普通の道なし尾根よりも始末が悪い。しかし、ケモノ道らしき踏跡が所々に残っているので、縦走は可能である。
 この山域に多いダニと蛭を避けるには、夏場を避け、早春、晩秋を選ぶのがよいと思う。 (89年5月)


 迷岳 1309m
 (飯南郡飯高町奥香肌峡温泉より 91年11月23日)

 私は「秘峰」と呼ばれる山が好きだ。人の立ちいらない場所に行くことは人生の快感のひとつである。「ざまーみやがれ」という気になる。未踏峰への憧れなんてカッコつけなくてもいい。どうせ、コンプレックスの裏返しなのだから。
 台高山脈の秘峰といえば、大台北部から池小屋山、それに迷岳への稜線だろう。この山域に立ち入ったハイカーは少ない。ただ、1973年と75年に国体の登山競技ルートがこの山に開かれたので、荒廃していてもかろうじてルートは残っている。エアリアマップ仲西政一郎編「高見山・香肌峡」が参考になる。仲西さんは最近亡くなられたが、紀州山地の右に出るもののない通人として知られている。(91年現在、仲西版は廃刊になり、吉岡編「大台ヶ原」に代わったが、やはり仲西版の方が桁違いに情報量が多い)

 前夜、松坂経由で奥香肌峡温泉の付近に入った。すると、私の古い地図にはない新しいダムができていて、そこで車泊した。これは蓮(はちす)ダムと名づけられていて、大方完成していて、あとは水を溜めるばかりになっている。前回、池小屋山登山に来たとき通った県道は通行止めになり、やがて水没することになるようだ。これもまた、日本列島改造の各論なのか。
 翌朝、近所の人に登山道の様子を尋ねると、本来のルートである唐谷川の道は台風のため崩壊して通過不能で、飯盛山のルートも消滅し、唯一、布引谷のルートが通行可能ということだった。しかし、台風で荒廃が進んでいるともいわれた。

 教えられた道は、県道を蓮川沿いに登り、すぐに左に分岐する新設された蓮ダムの堰堤の下に出る工事用道路(旧県道)を行く。500mほどで堰堤下に一軒屋があり、ここは高山さんというお宅である。詳しいことは、高山さんに尋ねてくれとのことだった。
 ちょうど御主人が出て行かれるところで、道を尋ねると、ルートは高山家の真向かいにある川向こうの杉林にあるとのことだった。ここに行くには蓮川を渡らねばならないが、やや下流に危うい丸木橋が渡してあった。教えられた近道を強引に登ったが、道を誤ってひどいロスをしたので、読者には正規のルートを説明する。

 小橋を渡り、ダム堰堤に向かって川岸をへつると、200mほどで杉の幼林と成林の境界の明確なところがあり、この間に沿って登山道がつけられている。ここにはピンクのポリプロテープを結んだ。行き過ぎると、すぐに高さ2mほどの堰がある。杉林の道を見失わないように辿ると、しばらくで高山家のテレビアンテナが設置されている。ここまでくれば道はしっかりしている。

 尾根に出るとトタンぶきの小屋がある。ここからは稜線を行かずに、布引谷に沿った水平トラバース道を行く。道は割合しっかりしているが、桟橋はすべて朽ちているので決して乗らぬこと。やがて沢を2回横切ると道は荒廃し、踏み跡程度になる。2、3箇所、崩壊したガレのトラバースが危険な場所があるが、技術に不安のある人を同行するときは、ザイルを持参して確保した方がよいかもしれない。

 このあたりまでサルやシカの鳴声が騒々しいが、よほど多く棲息しているとみえる。イノシシのフンも多い。入山者が少ないとみえて、生物密度は濃い。最近、三重県下の山で、何度もサルに投石されたので警戒を要する。テキもサルものだ。
 しばらく荒廃したトラバースを行くと、右手に全国7位、落差240mの布引滝の一部が見える。この滝は、巨瀑の多い台高山脈のなかでも首位を争う。台高1位の東大谷、中の滝も落差270mといいながら実際には3段で、1段落差は最大150mほどである。この滝の最大落差は不明だが、全部を見るには危険を覚悟で沢に降りねばならないので遠慮することにした。

ルートは滝の高巻道に入るが、ここは雑木があって不安感はないものの、足を滑らすと、滝を取り巻く岩壁の上に転がってしまうので十分に注意して歩かねばならない。特に下りは要注意である。登りきったところの尾根には標識テープがあって、ここからも頂上へ行けると思われたが、地図のルートを辿ることにした。

 沢を渡ると造林小屋があるが、荒廃して使用に耐えない。沢沿いに行くと二股になって道は消滅するが、これは行き過ぎで、本来のルートは小屋から200mほどの左手から小沢が合流する地点で、左に沢を渡って小さな尾根に取りつく。もうここから、道はほとんど消滅している。
 尾根は痩せているので忠実に辿れば良いが、シキミやアセビ、シャクナゲなどのミカン科・ツツジ科の常緑樹がうるさい。この木が多いということは、シカが多いということの証明でもある。シカはこれらの毒葉を避けるので、必然的に優勢林となるのである。
 上部は迷岳の名前にふさわしく、ひどく複雑な地形となった。5~10m間隔で、標識テープを結んで登った。私以外の標識は、ほとんどない。

 天候は不安定で激しい風が吹き、ときおり雨やミゾレがパラつく。ガスで視界もなくなったので下山しようかと迷ったが、結局登山口から4時間を費やして頂上に立った。ここは、スズタケに囲まれた10畳ほどの頂上で、大峰山岳会や飯高山岳会のプレートがつけられてていた。しかし、ガスとミゾレのため、休憩もせず早々に立ち去った。
 下山は、標識テープのおかげで速やかに降りたが、標識がなければとても元に戻れそうもないほどの、小さな尾根や沢の錯綜した複雑な地形である。十分に注意されたい。

 2時間半ほどで下山し、当然のことながら奥香肌峡温泉に行った。これは、この地域に少ない貴重な天然鉱泉である。下山後に入る温泉は、なによりの喜びだ。県道から蓮川の橋を渡り、ゴルフ場の手前を左折すると、国民保養所の奥香肌荘がある。入浴料金は、銭湯より安い200円で、本当にありがたかった。ここに、松坂からバスがきているので、公共交通の便もよい。ここから高山家まで、徒歩15分である。

 さっぱりした木造建築の風呂は、立派な岩風呂だった。正確にいうと、ここは温泉ではなく鉄分を含んだ炭酸性の冷鉱泉で、沸かして用いている。飲んでみると、サイダーのような炭酸風味にキド味があった。よく暖まる良い風呂だ。
 (追記、吉岡版「大台ヶ原」には、このルートは記されず、飯盛山ルートだけが紹介されている。道は荒廃していると書かれているが通行可能で、尾根道なのでこちらの方が安全かもしれない。それに、登山口は温泉宿から目と鼻の先だ。 その国民宿舎、奥香肌峡温泉は1995年1月廃業してしまい、代わりにリゾ-ト施設と高級ホテルが建設され、入浴料は800円になった。私でも泊まれる良い宿だったのに実に残念。)
 91年12月著


 池木屋山 1396m (飯南郡飯高町蓮川宮谷より 91年11月25日)

 迷岳を下山して部屋に帰り、ひさしぶりにテレビをつけると、NHKで「ミスターマリックの不思議な世界」という番組をやっていた。
 「超能力」的奇術の実演だったが、指輪のテレポート移動というのは普通の奇術テクニックのように思えた。イスの人間持ち上げやテーブル上げも物理的に不可能でない。しかし、スプーン曲げなどは本物だと思った。なぜかというと、私自身たかのしれた超能力を自覚しているからである。

 私の超能力は、第一に予知能力で、これは未来を予知できるというよりは、未来の自分の感情を予知できるのである。例えば、山中の狭路で対向車や人と出会うときは、相当な確度で事前に知ることができる。事前に、表現しにくい不安な感覚に見舞われるのだ。だから、自分の身の上について近い将来起こることがらも、深刻な事態であれば、ほとんど予知できる。「虫の知らせ」というやつだ。

 5年ほど前、私の運転するトラックに、子供どうしで競争中の自転車の幼児に飛びこまれた。大事故になり、ノイローゼでひどく苦しむことになったが、この事件などは小学生の頃に将来こんなことがありそうだと予知した記憶が、明確に残っていた。
 こうしてみると、人生とは、すでに描かれた絵巻物を拡げてゆくだけのような気がしてならない。未来は、記憶の中に存在しているのである。

 超能力の第二はテレパシーで、ある程度つきあった人ならば、言葉を交わさなくとも考えていることが読み取れ、本心が見えてしまう。とりわけ、感情はよく読める。単純な交信もできる。これにはコツがあって、相手の記憶をできる限り思いうかべ、次に心の底から嬉しい気分になるのである。脳を、いわゆるアルファー波の状態におくわけだ。対話は言葉でなくイメージで行なう。

 これは、脳に電磁波を送受する能力があるのではないだろうかと考えている。経験的に、その証拠が多くある。テレパシーは電波の到達域でしか交信できないように思うし、ノイローゼ気味になっていたとき、FMラジオが頭の中で鳴ったことがあった。
 第三に念力だが、これは極端に好不調の波が大きい。最近はからきしダメだ。以前は、ロウソクの火を遠くから意志でコントロールする訓練を行ない、少しはできた。スプーン曲げくらいはなんとかなりそうな気がしているが、これはきっかけが必要なのだ。

 このような能力は誰にでも普遍的に存在すると私は思っているが、他人の顔色を見ながら生きている人には、考えることすら恐ろしいことだろう。常識外のことを「あるはずがない」と決めつける視野の狭い人は気の毒というしかない。天から与えられた能力に気づかぬまま人生を終えるなど、不幸の極みではないか。
 常識の規範としての「権威ある学問」が、いかに超能力を否定しようと、それで消滅するものではない。学問がこの宇宙のどれほどを知りえたかと問えば、本当に僅かな知識しか知らないというしかないのだ。学問は、断じて現実世界をフォローするものではない。

 それにもかかわらず、人間は科学技術を弄び、なんでも知ってしまえるかのように錯覚し、あたかも科学技術が人類の幸福な未来を保証するものであるかのような信仰が人々を支配している。
 だが、この信仰的価値観は、国家権力と産業によって利益を得る、権威による安定を欲す人々の特権を保証するためにつくられたものであることに気づくべきだ。
 今日なお科学技術の恩恵を受けず、未開の原始生活をおくる人々が、劣っていて不幸だと決めつけるのは傲慢浅儚で愚かなことだ。問題は物質ではなく、心の豊かさにあるのだ。我々は、科学技術によって物質の豊かさを得ることと引きかえに、心の豊かさを失ったのではないか。
 科学技術は、知識人の優越感を満足させた代償に、人々に健康が科学によってもたらされるかのような錯覚をもたらし、そのことによって野生の健康を忘れさせ、ついには人工的病魔を蔓延させ、どれほどの人々を殺していることだろう。科学、つまり学問は、1人のマラリアや結核患者を救った見返りに、10人のガン患者をつくりだし、殺している現実をどうしてみることができないのだろう。

 迷岳で、昼過ぎに人間の不安な感情を聞いた。翌朝、ラジオのニュースは、池木屋山で松坂のグループが遭難したらしいと告げた。迷岳と池木屋山は直線距離で4キロである。おそらく、これだったのだろうと思った。しかし、イヤな予感はなかったので、たいしたことにはなるまいと感じた。彼らは、その朝無事に下山した。

 その夜、迷岳と同じ蓮川の県道を遡り、15年前の国体で開かれた宮の谷ルートに入った。宮の谷の林道に入ると、100mほど先で道路が陥没崩落していて危うい思いをした。出会いで一夜を過ごした。
 朝、一昨日の疲労の残っているせいか、6時半まで寝込んでしまった。それでも体が重かったが、7時に出発した。
 今年、三重県はいくつもの台風の直撃を受けたが、この林道の被害は想像以上にひどかった。いたるところで、沢の土石流によってズタズタに寸断されていた。

 林道の終点からは、歩道は左岸につけられていて、渓谷探勝の遊歩道として整備されている。危険な場所には、ほとんど立派な鉄製の橋や梯子が設置されているが、上下が多い。このルートを通るのは2度目だが、前回は見事に整備された直後だったので、よけいに荒廃が目立つ。
 やがて道は左手の右岸に変わり、1時間ほどで立派な滝が見えた。高滝という。目測落差およそ40m、一気に落ちる直瀑で、実に見事な景観だ。しかし、この手前の枝沢にある風折滝こそ、香肌峡中最大の落差を持つ名瀑として知られる。日本最大級の降雨に磨かれた台高山脈の渓谷は、黒部渓谷に匹敵する内容がある。

 ルートは高滝の滝壷の手前で対岸に渡り、左岸の岩壁を高巻く。すぐに急に道が悪くなり、踏跡程度で荒廃している。約100m以上も高巻くので、上部は危険な箇所が多い。
(94年4月に、このルートを無線仲間と再登したとき、危険地帯の核心部に地蔵が祀られていた。数年前、ハイキングの女性が滑落死したという。)

 もはや、ここからは山慣れた登山者だけの世界になる。高滝を越えると、もう一つ落差30mの猫滝があった。赤標をひろって河原を歩くと、再び右手の左岸を大きく高巻くようになる。沢にはドッサリ滝があるはずだが見えない。荒廃した踏跡をたどって、しばらくで奥の出合に着いた。

 ここから右手の尾根に取りつけば、秘峰コクマタ山(1394m)方面で、沢を渡って、左手に進めば目的地の池小屋山である。この沢では、石灰岩の接触変成岩(スカルン)が目についた。探せば、面白い鉱物がでるだろう。
 このあたり、割合としっかりした踏跡がついている。やがて、急な尾根に取りついた。迷岳に比べれば、はるかに登山者が多いと思われる。尾根は、珍しくヒメシャラの優勢林に包まれていた。そして、もう一直線に頂上に向かう急登となった。
 途中、優に500年を越えるコメツガの巨木やヤシオの古木も多く、シャクナゲのアーケードの原生林が見事で、これほどの値打ちの森も、東海地方にどれほど残っているだろう。

 1時間ほどの寡黙なアルバイトで達した頂上付近は、快適なブナの疎林だった。美しい良い山並みで、この山域では高見山ほどではないが、国見山に似た原生林になっている。この頂上の素晴しさはどうだ。独立峰の大眺望こそないが、このうえなく静かで、深山のなかでの安らかな落ち着きをもたらしてくれる。ゴミやアキカンを平気で捨てる愚かものたちもここまでは来れないようで、実に清潔で美しい山頂だ。

 山頂を取り巻くヒメザサと呼ばれる小笹の絨毯も素晴しい。これは、結節のあるミヤコ笹の特徴をそなえていて、同じ場所に長期間生え続けて自家中毒を起こしたり、風環境に適応して矮小化したのだろう。いつまでも離れがたい、美しい笹原である。東に、この山名のもとになった小さな池があるはずだが見えない。
 池木屋山という名は、この山が鈴鹿山脈西部に根拠地を持つ木地屋と関わりがあることを示している。木地屋は稜線伝いに南下し、奥山に勢力を拡大し、やがて平家の残党とも合流することになったのだろう。彼らは、この尾根から紀勢町崎に入り、そこで一大拠点を構えて今日に至っている。この山には、なぜか源義経の伝説が遺されているが、義経は木地屋となにか関係があったのだろうか。

 この山には、かつて明神平から稜線を辿ったことがある。そのときは、千石山のあたりまできて、あまりにマムシが多いので気味が悪くなって逃げ帰った。このようなヤブ山は、今頃くるのが一番良いようだ。頂上まで3時間余を要した。
 下山は、猫滝の手前で道を誤った。沢沿いに戻るべきところを、営林署の標識に釣られて左手の稜線に飛び出してしまった。昨日遭難した人々も、ここで道を誤ったのではないかと思われた。この道は上部で廃道化しているが、誤った赤標がつけられているので要注意である。もちろん、正規の荒廃した踏跡にテープを結んだ。
 下山後、一昨日行ったばかりの奥香肌峡温泉を訪れた。一昨日は自分一人だった温泉も、この日は大勢入っていた。実に快適な湯だったが、ひどく疲労感を覚えた。連休帰りの渋滞した道を、抜け道を駆使して部屋に帰ったら、赤ワイン色の小便が出た。

 追記、94年3月、宮川貯水池から焼山尾根を経て積雪期登頂したが、一帯は林野庁による凄惨な皆伐の修羅場と化していた。伐採通勤用のモノレールまで施設されていたのにはあきれた。ルートはモノレールの線路に沿ってついているが、荒廃して不明である。鹿たちが、ねぐらを追われ彷い歩く様がかわいそうだった。遺された最後の原生林、大杉谷と宮の谷の尾根一つ隣の風景は、すべてこのようなものなのである。これでは狼どころではない。

 翌4月にも、宮の谷から無線仲間とともに5度目の登山を行なったのだが、樹林帯の美しい開花にもかかわらず、この原生林の将来を思うと憂鬱でならなかった。
 日本人はどこまで愚かなのかと思うが、諸外国の自然を蹂躙することで我々の豊かさが支えられているならば、むしろ、これらの豊穣な大自然も、残るべきでないような気もしている。



 伊勢辻山  1290m
 (飯南郡飯高町高見峠より 90年12月2日)

 土曜日は、仕事を終わると目的地の登山口に直行して、そこで一夜を明かすのが最近の習慣になっている。この山域へは、名古屋から3、4時間程度で行ける。

 台高山脈も、南部は大台ヶ原を除いて魅力のある山は少ない。北部でも、登高意欲をそそられる山はとっくに登ってしまっていて、行先の山を定めるのに苦労する。この日、体調の優れぬこともあって、割合しっかりした登山道で、あまり厳しさのないコースを選んだ。主稜に踏み残した伊勢辻山である。できれば国見山まで行くつもりで、高見峠から往復することにした。
 三重県には、この秋、実に4個の台風が通過した。気象学的には、低気圧の通過コースには習慣性がつきやすく、それほど異常ではないという。4個目の通過が、11月30日であった。これは、遅い上陸の日本記録になった。ただ、台風通過後にも前線が残り、この夜も、寒冷前線の通過に伴って山は大荒れになっていた。

 高見峠は、トンネルの開通に伴って幹線道路から外れ、通る車は高見山の登山者か観光客が多く、一般の通過車両はない。旧道への分岐を過ぎると、凄じい荒れようとなった。狭い舗装道路には、一面に杉や桧の枝葉が散乱し、あちこちで道路が崩壊していて緊張させられた。でも、なんとか無事に峠の駐車場にたどり着くことができた。
 この夜は、激しい風雨で一晩中車が揺れた。いつもなら、とうに出発している朝7時になっても、黒雲が空を覆い、明るくならなかった。そして、真冬と変わらない冷たい北風が吹きすさんだ。

 7時半を回って出発するのには、決断を要した。最初から凍えるような強風に曝され、よほどでなければ着ることのない軽羽毛服を羽織って歩いても、寒さが骨髄にしみた。
 さすがに主稜だけあって、道はよく踏まれ、東吉野村の設置した台高山脈北部縦走路の標識が多く取り付けられている。しかし台風は、稜線の寿齢100年以上もの桧を傾けさせていた。相当な強風に曝されたようだ。
 不調なのでゆっくり歩いたが、1時間で、最初のピークの雲ヶ瀬山(1075m)に着いた。ある程度の展望はあるが、それほど魅力的な場所でない。ササヤブを分けて歩かねばならないが、たいしたことはない。ここまできて、このルートは10年ほど前にやってしまっていたこと思いだしたが、いまさらしかたない。

 かなり下って、南タワという10mほどスパッと切れた鞍部を通過する。しばらくでハンシ山(1137m)で、樹林の中にあって展望は皆無である。このあたり、地名に他の山域にない特異性があるが、由来は知らない。ササに鹿の食み跡がある。ところどころに、石灰岩が熱変成して石英と化合し、大理石になりかけた岩が露頭している。

 池のタオと呼ばれる鞍部にキハダがあって、誰かが樹皮を剥いたので鮮烈な黄色を曝している。キハダはミカン科に属し、日本の歴史的医薬として最も重要な木である。生薬名をオウバクという。
 この山の南に位置する、奈良県吉野郡洞川のオウバク宗大本山、萬福寺に伝わる秘薬、ダラニスケと、木曾御岳山の百草、鳥取地方に伝わる練熊、それに富山の置薬のクマノイなど、日本で胃腸薬として著効性を認められた飲み薬は、ほとんどがキハダを原料としている。これ以外で信頼される薬といえば、わずかにゲンノショウコとセンブリがあるくらいだ。

 これらの薬は、オドロオドロしい伝承を交じえて、各種の霊薬を調合したと宣伝されたが、どの薬も実際の有効成分はオウバクだけであった。ところが宣伝文句の中に、百草は御岳山頂に生える霊験あらたかな秘薬のコマクサを原料として作られたとしたために、マトモに信じた御岳講の信者によって、コマクサは御岳から根絶やしにされ、自動車道のついた乗鞍、ロープウエイの木曾駒も同じ目に遭った。

 コマクサには、ケシ科特有のモルヒネ系鎮痛成分が含まれているというが、微量すぎて有効成分にはならないとされる。有効なほど摂取した暁には、一帯の駒草が絶滅するだろう。
 オウバクの主成分は、アルカロイドのベルベリンである。これは、副作用の少ない優れた下痢止めとして、今日でも多くの胃腸薬に利用されている。

 戦後、田辺製薬・チバガイギー・武田薬品の3社によって、ベルベリン以上の効果を示すキノホルムという薬品が製造された。医化学は、自然から学び自然を超えたかに見えた。だが、天は人間の浅儚な思い上がりに凄惨な報復を加えたのである。
 キノホルムが用いられるようになった日本では、世界に例を見ない神経症状を示す奇病が発生し、深刻な症状の患者数は全国で1万人を上回った。それはスモンと呼ばれ、数えきれない人々に機能障害を引き起こし、数千人に不随をもたらし、数百人から視力を奪い、数十人を自殺に追いやった。ほとんどの場合、治療回復は不可能だった。

 原因解明を進める研究機関は、患者の緑色の舌苔にキノホルムの結晶を発見し、犬にキノホルムを投与することで、人工的にスモン病をつくりだすことに成功した。さらに、厚生省がキノホルムの使用を禁止してから、スモン病の発生は止まった。
 この中毒は、サリドマイドとならんで、戦後薬害の双璧をなし、新薬発見の栄誉を誇る製薬会社に、膨大な賠償債務をもたらすことになった。
 ところが田辺製薬だけは、世界中の疫学者が嘲笑するスモンウィルス説を唱え、賠償を拒否している。そして、チンピラライターや医事評論家に依頼して、もっともらしいウィルス説を出版させた。さらに最近、裁判所は、あろうことか一審の患者勝訴を破棄し、田辺製薬の悪逆卑劣な欺瞞を支持したのである。

 日本の裁判が、世界的に稀なほど権力と企業利益の御用機関に成り下がっていることは、例えば神戸の甲山事件などでイヤというほど思い知らされているが、このようなことでは、我々はもはや権利の守護を裁判所に期待することが不可能ということになる。
 私は、田辺製薬の全社員とウィルス説の提唱者に、彼らが安全だというキノホルムを強制服用させるべきだと思う。このような企業の横暴を許すことは、水俣病の教訓がまったく生きていないことの証明に他ならない。

 天然生薬のベルベリンは、強い抗菌作用があるが副作用は少なく、キノホルムを含んでいたワカマツやキャベジンなどの人気胃腸薬は、再びオウバクのベルベリンを使用している。だが、科学技術が人を救うといった信仰が消えた訳ではない。野生の健康でなく、科学技術による健康を求める人々がいるかぎり、田辺製薬のような卑劣無恥な会社につけこまれ続けることだろう。
 キハダの利用法は、夏に樹皮を剥いて内皮を乾燥させ、粉末にして食後服用する。この木は大木であっても、多量に樹皮を剥かれると枯れてしまうので、育成に繊細な注意が必要である。ついでに言うと、最高の胃腸薬はオウバクでなく、活性炭(消し炭で十分だ)だと私は思っている。

 地蔵の頭というなんでもないピークを過ぎると登りが続き、わずかで伊勢の辻に出る。ここは古い峠道で、おそらく伊勢南街道の間道なのだろう。通行禁止の標識があり荒廃しているが、伊勢辻山の正規ルートは、奈良県吉野郡東吉野村大豆生、大又から又迫谷を詰めて、ここに至るものである。

 ここは旧小川村の領内にあたり、1905年、最後の日本狼が、この峠の付近で捕獲されたと伝えられる。松浦武四郎の三度の大台紀行に、狼に関する記述がほとんどないことは、すでに明治中期には日本狼はほとんど絶滅していたとも考えられる。
 ここから頂上まで数百mで、木々に名物の霧氷がかかっていた。ここまで凍える強風を避ける場所はほとんどなく、軽羽毛服を脱ぐこともなかった。この稜線は、風をまともに受ける。だから、当然山火事にも弱いはずで、事実、古い森はなく、ほとんどが植林か二次林である。

 高見峠から3時間かかった。不調なので、珍しくコースタイムを超える時間だ。もっとも、山歩きのコツは歩行リズムに尽きるので、どんなに調子が悪くとも、リズムに乗ってしまえば必ずなんとかなってしまうものだ。あとは、リズムを崩さないことだ。
 山頂は低い笹原で、ここまでの稜線で一番の好眺望がひろがる。大峰山脈のシルエットが美しいが、大台山系は国見山からアザミ岳の1400m級の稜線に隠されている。国見山は目の前だ。登り口の高見峠では目の前にそびえ立っていた高見山は、はるかに霞むほど遠くなった。もしも晴れて風がなければ、ここは素晴しい山頂であろう。
 遠い昔、満月の夜、この山頂から狼の遠吠えが台高山脈に響きわたったかもしれない。そんな、際だった好眺望のピークである。

 この日、あまりの寒さに温泉が恋しくなって、既登の国見山へ行くのはやめて引き返すことにした。
 帰路、湯気の立つようなシカのフンがあった。池のタオにライフルを持った一人の猟師がいた。犬は連れていない。12月1日からは、大物撃ちが解禁になる。毎年、不愉快な射撃音を聞かされるイヤなシーズンが始まっていた。
 私は趣味猟師が嫌いだ。生活のために猟に生きるのならやむをえないが、滅びゆく野生動物の保護を思いやらず、ただの血生臭い趣味で、動物を殺すことに快感を求める連中は不愉快だ。この山域から、すでにカモシカとクマが完全に姿を消しているのだ。

 以前、神奈川県のヤブ山で誤射されたことがある。ヘタのおかげで当たらずにすんだ。だが撃った男は、誤るどころか、「なんでこんなところを歩くんだ!」と怒鳴ってよこした。それ以来、猟師を見るだけで不快になる。
 猟師は50年輩で、誰もこない山の中なので挨拶を交わした。付近にシカがいることが確実なので、わざと大声で話しかけた。
 話しながら一緒に歩いた。持っていたライフルは30口径で、シカに当たると、径20センチほどの穴が開き、頭に当たれば半分ふっ飛ぶ、といった。朝からシカの姿は見ていないといった。

 意外なことに、この人は深田百名山をやっていて、年間40回程度の登山をこなし、来週も雲取山に行くと語った。山のことは、私以上に詳しかった。登山者で狩猟を趣味にする人を、初めて知った。猟師の悪口を言ったので不愉快になったのだろうか、この人はハンシ山で三重県側のヤブに降りた。(この方、後に「ひと味違う・・」登山案内書を出版されたNさんにそっくりだった)
 すぐに、奈良県側で犬の鳴き声とライフルの発射音がした。さっきのシカだろうか。なんとも憂鬱な気分にさせられた。
 帰りは、峠まで2時間だった。


 薊岳 1406m 94年3月

 薊岳は、明神平から手ごろな距離にある奈良県側の枝脈の山で、台高山脈北部で1400mを超す貴重な標高をもっている。この他の1400m峰は、主脈上に、水無山・国見山・明神岳があり、ややはずれて桧塚峰があるが、いずれも大又から明神平を経由して登ることができる。

 明神平は台高ファンにはポピュラーな名所だが、登山口が東吉野村大豆生(まめお)大又という山奥の集落で、道も狭く分かりにくいので、東海・近畿の大都市圏から訪れるには少しばかり困難がある。ここを訪れるハイカーも、橋本・桜井・名張といった近郊の住人が多いようだ。
 これらの山々は、休日にはハイカーも少なくないが、普段は落ちついた静けさに包まれ、この地方に少なくなったブナ林や、四季折々の花や紅葉にも恵まれた近畿有数の桃源郷の趣がある。
 薊岳は、バス終点の大又から直接とりつき、尾根を辿って明神平に抜けることができる。私は、まだ根雪の残る3月初旬に大又から登った。

 大又付近に車泊し早朝登山口を探したが、道路が凍結していて狭いうえに路線バスが通行するので、大又の集落には車を駐車する余地がなかった。やむをえず、かなり手前の林道の空地に駐車し、登山口の笹野神社に出向いた。
 笹野神社はバス終点の大又停留所の前にあり、脇の石段が登山口である。やや登ると村道に合流し、驚くほど立派な民家があった。大又の庄屋だったのだろうか。その脇の未舗装の狭い林道の入口に、アザミ岳に至ると記された標識や赤テープが残されている。一帯は杉の植林地になっている。

 植林地には作業道が交差していて、新雪に隠されて登山道が分かりにくい。赤テープに導かれながら登ると、やがてはっきりした踏跡が現れた。かなり上部の小平地に古池辻と書かれた標識を見ればすぐに緩やかな稜線にいたり、このあたりから深い根雪になった。
 変哲のない笹と雪の尾根を、先行者の足跡に導かれて40分ほど歩くと大鏡山だが、これは尾根上のコブにすぎない。山頂の南に小池があるように地図にでているが、確認できなかった。ここで先行者の足跡は消え、スズタケのなかの深いラッセルになった。
 持参のスノーラケットを履くと、それまで膝上までのラッセルだったものが足首までですむようになった。私のはオレンジのプラスチックでできたラッキンクという名のフランス製で、これは面積が広いので沈みにくいが、爪が浅いため堅雪の急斜面でズリ落ちる欠陥がある。冬山登山も20年を超すのだが、いまだ文句のないラッセル用具を入手できない。これは軽量で扱いやすいため多用している。

 ルートは比較的広く、分かりやすい尾根上を進む。薮もなく、樹林帯の尾根である。小さなコブをいくつか越えてゆくと痩尾根になり、少々手強い岩場のキレットに出くわした。両側とも切れ落ちた雪のリッジになっていてザイルがほしいところだが、ピッケルを深く刺しながら慎重に通過した。
 ここから2級程度の岩場が続き、急な稜線を登るとアザミ岳の山頂に達した。眺望も良く、落ちついた雰囲気の山頂である。ラッセルのため大又から約3時間以上かかったが、無雪期には2時間程度で来られそうだ。アマチュア無線を取り出し、CQによって数局と交信してから明神平方面に向かった。

 ここから明神平に到る尾根は緩く広い快適なブナの疎林で、歩きやすく危険もない。雪上に踏跡もついていて気分の良い散策道だった。1時間ほどで明神平に着き、ここで、この日初めて若いアベックの登山者に逢った。
 「どちらへ」と聞くと、もう午後2時をまわっていたが、「これからアザミ岳へ行きます」と言う。明神平に幕営して、あちこち登るつもりらしい。暇と元気のある若者がうらやましい。
 最近、山で見かける登山者は中高年ばかりで、元気な若者を見かけることは少ない。私自身、中年の域にさしかかってしまったのだが、やはり山は若者の世界であってほしい。若者はどこへ行ってしまったんだろう。
 下山は、明神平からよく歩かれている登山道を経て大又まで2時間であった。

 明神平は台高山脈に多い尾根上の小平地で、ちょっとした運動場くらいの広さがある。その昔は、源義経が馬を駆ったという伝説のある深い笹原だったが、かつて、ここにロープトウのスキー場がつくられたことがある。今でも、その頃利用された天理大学のスキー小屋が残っているが、すでに荒れてしまっている。
 ここまで約2時間の登山道をスキーを担いで登ってこなければならず、昔に比べて積雪も少なくなったので、今では、ここでスキーをする酔狂者もいないが、最近、地元の自治体の手によって公園風に整備され、休日にはハイカーで賑わうようになった。
 明神平から登る山々は、いずれも1400mを超す標高をもっていて、わずかながらブナ帯の原生林も残り、近畿に残された数少ない秘境といえよう。

 1419mの国見山は、高見山に向かう縦走路上の秀峰である。明神平からスキー場の斜面を登りつめた、台高北部最高峰のコブである1441mの水無山を越えて、30分ほどでブナの美しい樹林に包まれた国見山に達する。
 ここは、高見峠からも主脈の良い散策道を4時間ほど歩いて到ることができるが、そこそこハードな行程になる。途中、伊勢辻山から国見山にかけて馬駈場と呼ばれる小平地があり、そこは、春先にはドウダンツツジが咲き乱れ、鹿が駆け回っている姿を見ることもできる静かな秘境である。北部で一番良い場所と紹介しておこう。
 1432mの明神岳は、水無山の反対側の笹原を頼りない踏跡に導かれて登る。ここは迷いやすいので、千石山方面の主脈に引き込まれないよう、コンパスに頼って強引に笹薮を突破する。山頂は尾根上のコブというイメージで眺望にも恵まれないが、そのまま尾根を1時間ほど歩けば、1420mの桧塚奥峰に到ることができ、この山はすばらしい眺望と美しい原生林に包まれた名峰である。

 桧塚奥峰は県境尾根でない三重県単独の最高峰で、紀州山地に僅かに残された月ノ輪熊の貴重な生息地でもあり、いつ行っても静かな秘境である。また、奥香肌峡の名渓として知られるヌタワラ谷を遡行すると、この山頂に到るので、沢屋には知られているかもしれない。私も93年に遡行したが、巨瀑の続く充実した沢だった。
 明神平から桧塚に至る尾根には明確な登山道がない。踏跡らしきものはあるが、獣道と交錯しているので、枝尾根に引き込まれないよう注意する必要がある。

 明神平から主脈を南に辿れば、千石山(1380m)を経由して秘峰、池小屋山(1396m)に行くことができる。明神平に一泊すれば余裕のある山行になろう。
 この尾根は上下が少なく比較的歩きやすいが、スズタケの薮が多くルートファインディングに苦労する。枝尾根が多いのでガスの日は苦労するだろう。私は十数年前に辿ったが、途中マムシが多いのに恐くなって千石山から逃げ帰った思い出がある。
 池小屋山の登山ルートは、今では蓮ダムから宮ノ谷遊歩道を経由するのがポピュラーだが、高滝見物につくられた遊歩道のできる前までは、この主脈尾根を往復するのが一般的だった。昔は大又から日帰りで池小屋山を往復する豪の者が大勢いたが、今ではあまり聞かなくなった。

 私は美しい原生林に惹かれて池小屋山に5回登り、宮川ダムから焼山尾根ルートも登ったが、そこに恐ろしいほど広大で凄惨な原生林の皆伐現場を見て唖然とした。大和谷には長期の伐採作業のために通勤用モノレールさえ設置されていた。近畿最後の池小屋山原生林の余命もあと僅かなのだろうか。
 台高山脈北部では、明神平から歩く以上の山々のほかに、高見山脈の山々があるが、こちらは植林が進みすぎて、かつての台高の面影は消えてしまった。むしろ、大台ヶ原以南から熊野灘にかけての山々に、狼の跳梁した深山の面影が残っているかもしれない。


 あとがき
 私が台高山地に通いはじめたのは83年頃で、最初に行ったのが大又経由の国見山だったと思うが、以来、通算で50回以上は行っていると思う。主立ったピークは、一応一通りこなしたはずである。沢も、ヌタワラ谷から檜塚奥峰に抜ける山行など、数回行っているが、私は単独行主体なので、下降ルートの少ない台高では鈴鹿ほどこなしていない。この山域は急峻な崖地が多いので、下降が難しいのである。むしろ、大峰の方が参考資料が多いので遡行回数も多い。

 台高山地の良さは、なんといっても人気の少なさ、静かさと、荒らされていない原生の自然が残っている点である。原生ブナ林の美しさには比類なきものがある。都会地から遠いため、ロープウェイなどの観光開発も進んでいない。飯南郡や吉野郡の自治体も、「開発」の虚名に踊らされ、本質を見失う愚者に主導権を握られているようには見えない。投資に見合う収益がないことが一番大きな理由だろうが、そのことが先祖から受けついだ自然を子孫に残そうとする心の豊かさを浸食されずにすんでいるのである。
 願わくば、いつまでも貧しいままでいてほしい。木曽の妻篭を見てほしい。新築する経済的余裕のなかった事情が江戸時代の旅籠の雰囲気をそっくり遺し、それが、かけがえのない国民的財産に変貌したではないか。一発屋、ハッタリ屋の政治家に騙されず、落ちついて人の道を歩いていれば、必ずそれに見合うものが帰ってくる良い例ではないか。

 人の道を外れた政治家・事業・施設、そして国家体制そのものまで、それらは今、悉く音を立てて崩壊しようとしている。所詮、見せかけの繁栄など虚構に過ぎなかった。砂の上に築かれた幻に過ぎなかった。誰もが心の底で危惧し、それを分かっていたのにバブルの激流に流されてしまった。ありもしない虚構に踊らされたのだ。

 取り返しのつかない負債は、われわれに平等に被さってくる。98年末で、勤労者一人あたり2000万円を超える。もはや誰も支払うことができない。金利さえ払えない。日本国民全員が裸足で夜逃げしなければならない時代が来たのだ。
 財産や地位を失っても命を取られるわけではない。食べてさえいれば生きてゆける。そんなとき、このような自然を抱えた地域の人々は、真の豊かさを享受できるのである。最後には、美しい山河が心の拠りどころになるのである。  98年末

Appendix

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