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私と民俗学

 

 もう40年も前のことになるが、高校に入学して上宝村栃尾にあった夏期宿舎に行くことになった。このとき、私は、はじめて登山を体験した。
 登ったのは焼岳だが、当時、まだ活発に活動中で、群発地震が収まらず、盛んに噴煙を上げており、中尾峠までしか登ることができなかった。
 しかし、この集団登山で、登山というものの楽しさ、素晴らしさが心に刻みつくことになった。以降、私は夢遊病者のように山を彷徨うようになり、今に至るまで山の虜になり続けている。

 高校在学中に天皇を絶対視する右翼思想の教師(後に自殺)とそりが合わず、退学して東京に向かった。
 当時の東京は、ベトナム反戦運動、全共闘運動の全盛期で、とてもじゃないが勉強の雰囲気ではなく、思想的少年であった私は、たちまち反戦運動の興奮の渦に巻き込まれることになった。
 毎日のように都心はデモや争乱の嵐で、私は歴史の大きな転換点の現場にいることに興奮し続けていた。

 東京の高校に転入もしたが、気がつけば高田馬場の日雇い立ちん坊でメシを食うようになり、当時は、爆発的な高度成長の時代だったから、とてもカネになり、一日働いて三日休むというような生活だった。
 こんな暮らしを覚えると、毎日拘束される工場勤めなど馬鹿馬鹿しくてやっていられない。せっかく入った高校もいくらも出席しなかった。

 仕事は、まだ省力機械が未発達な時代で、すべて人力で運搬しなければならなかった。しかも、荷役の梱包単位は50キロだった。
 セメント・アスファルトなど建材は50キロ、米や麦など食料は60キロ、輸入原料は100キロがザラで、ドンゴロス(麻袋)に入った商品を手鉤で引っ張って肩に乗せて、狭い足場の坂道を行き交う、本当に辛く激しい苛酷作業だった。
 それでも肉体労働の単価は高く、最低の片付け仕事でも時間給500円、日当4000円くらいもらえたと思う。根切りという土方仕事なら6000円以上、今なら2~3万円くらいの価値があり、一泊500円が普通だったから、山谷や釜ガ崎では月に数回仕事に出て、あとは将棋や野球観戦で暮らす人たちがたくさんいたものだ。

 しかし、作業を終えれば若い私でも体中が悲鳴をあげて、のたうちまわるような状態で、とてもじゃないが、二日も三日も続けて仕事をできるものではなかった。
 カネをもらった翌日は、いつも山へ行った。

 一番安くあがる登山といえば奥多摩で、中央線や青梅線に揺られて月に5~6回は通ったものだ。高尾山から陣馬山へ、氷川駅から数馬へ、石尾根の長い散歩道、奥多摩のあらゆる尾根道を駆けめぐり、ワラジをつけて沢を登った。
 持っていた5万図は赤鉛筆で真っ赤になった。
 どういうわけか、名前も知らないのに、いつも山中で顔を合わせる人がいた。「また合ったね・・・」と何度も繰り返すことに不思議さを感じた。

 登山のなかで、否応なしに山麓の民俗を見聞する機会が増えた。
 先に書いた高校夏期研修で、私ははじめて栃尾集落の民俗調査に取り組み、その学問の大切さを知り始めていた。
 当時の栃尾民家の多くの屋根が、まだ板葺きの石押さえだった。多くの家の暖房が囲炉裏だった。それから二十年ほどして再訪したとき、信じられない変わりようで、栃尾は温泉街になり、すでに板葺きはほとんど見あたらず、トタン屋根が主流だった。もちろん暖房は灯油ストーブになっていた。

 こんな内陸の極寒地では、瓦は凍結のため割れて役に立たない。トタン板だけが最良なのである。屋根葺き材料や積雪対策民具を見れば、その土地の積雪量、気温など特異的気象条件が分かることに気づいたのもこの頃だ。
 囲炉裏が廃れて、屋根に突き出た煙窓もない家が増えていた。当時の田舎には、必ず排煙出窓があったものだが、トタン屋根板と灯油ストーブの普及によって、そうした古い家屋民俗が激変する時代だった。
 この頃の、あまりに激しい民俗変化は、私に危機感を抱かせていた。
 今、古い民俗の意味を調べておかないと、いくらもたたないうちに消えて見えなくなる・・・ 実際にそうなった。

 奥多摩の氷川や数馬の集落で特異な形状の屋根や変わった生活スタイルの意味を考えながら、私は登山とともに陽が当たり始めたばかりの民俗学に深くのめり込むことになった。
 とりわけ、当時、まだたくさん存在していた本当に山奥の不便きわまりない集落が、どのような理由で成立しているのか不思議で、バス停や駅から徒歩数時間もかかる集落を選んで訪れ続けていた。
 社会や利便性に背を向けた、こうした集落の秘密を柳田国男や宮本常一などの本を読みあさりながら考え続けた。
 あらゆる光景に、ゴーギャンの命題、「我々はどこから来て、どこへ行くのか、我々とは何か?」 を見ようとした。

 私に、一つの大きな確信を与えてくれた民俗学上の大問題は、「木地屋」であった。古い登山道をたどれば数多くの廃村に出くわすが、そこには、まだ数十年前までの生活痕跡がくっきりと残されていた。(寸又峡登山道に多く残る)
 急斜面に危うく建った家の基礎、斜面に転がる食器類、そして轆轤細工の破片、これは山奥に居住した木工職人たちのものだ。

 遠州の山奥、佐久間や水窪を夜間通行すると、どうみても不便きわまりない高く深い山の尾根の上に、まるでクリスマスツリーの飾り灯のように住居の明かりが点在していた。
 こんな光景は、鈴鹿山地周辺、遠州、四国、会津などの山奥で見られるが、いずれも古い木地屋の里である。そこに住む人の名字も「オクラ」小椋や小倉、大蔵、などで、神社は必ず筒井社や太皇大社である。
 彼らのルーツをたどることで、私は日本民族の根源について考えることになった。そして民族移動の理由、日本国家が崩壊した後に、どのような経緯をたどるのかについても想像力を巡らせることになった。

 木地屋集団は、木工轆轤を使う工人集団で、少なくとも奈良時代には、その存在を示す木工品が確認されている。彼ら自身の伝承によれば、清和源氏、惟喬親王(844~897年、文徳天皇の第一皇子)を始祖とする伝説が存在しているが、轆轤木工は、ブータンから雲南、日本に至る東アジア照葉樹林帯文明の核心になる技術で、水車や車輪の原型であり、日本の伝統民俗文化の骨格にあたるものだ。
(山上憶良660~733)は木地屋根源地の永源寺町に近い甲賀の人、名前から木地屋に関係した人物だと分かる)

 木に依存した家屋、集落の求心力になる塔頭、轆轤で削った食器と、水車文化、ヒエ食、そば粉、はったい粉、こんにゃく、豆腐、納豆などの食文化は、照葉樹林帯圏に共通するもので、たとえば、雲南のトン族に代表されるものだが、そこに住む人たちの民族的形質、民俗習慣の多くに特異な共通性があり、実は、同じルーツを共有していることを示すと考えられた。
 つまり、木地屋の居るところ、実は大昔に同じ民族だったということを意味している。

 そこで、木地屋のルーツをたどれば、我々日本人の源流が、どこにあったのかも推理できるわけで、たかが民俗学といえども、実は人類学の骨格に位置すべき大切な学問であることを知った。
 同時に、木地屋が「森の民」であるとするなら、対照的に、赤道方面から黒潮に乗って移住した海洋族「海の民」がいたことも明らかであって、彼らは沖縄人やアイヌ人に、その痕跡を留めている。
 さらに、騎馬文化を持つ人々、ツングース族の人々など、現代日本は、そうした、いくつかの民族的源流を持つ多民族国家なのである。

 民俗学的観点から日本民族のルーツを調べるなら、中曽根康弘が言った「日本人は単一民族」などという説は陳腐な「日本は偉大でなければならぬ」とする拡大優越妄想家たちの思い上がった妄説である。
 真のルーツに隠された秘密を紐解くならば、日本列島に住む我々には、世界人類の運命に関係する大きな秘密が隠されていることまで分かってきた。

 わが「日本人」は歴史的な移民の混血体であり、移民の理由を考えるなら、多くの場合、それは戦争難民であり、実は日本列島には、大陸や南方から多数の難民が逃げてきて、混血しながら形成された日本国家だと分かる。

 このことの意味は非常に重要で、我々が戦争や気象による難民の末裔であることが明らかならば、これから朝鮮半島や中国で大規模な戦争や気象激変が起きれば、再びもの凄い規模の難民が押し寄せ、日本列島に新しい血がもたらされることを意味している。
 なぜなら、人類における戦争は、現代に至っても、とどまるところを知らず、ますます危機は深まり、一触即発で大戦争が勃発する危機を孕み続けているからであり、気象はまさに激変に次ぐ激変、わずか数年で人々の命運を左右するほどの異常気象が続くおそれが十分だからだ。

 今、政治的に安定せず、爆発的崩壊を内在している国家は多い。その代表は北朝鮮よりも、むしろ中国である。
 中国では、官僚権力と人民の矛盾が頂点に達し、環境は破壊され、もはや人民の安定した生存条件が失われつつある。たとえばチェルノブイリ事故のような巨大事故が起きるなら、たちまち大混乱から内戦に向かう必然性があると考える必要がある。

 先に、木地屋が証明するように、我々の先祖の一源流は照葉樹林帯文化圏であるとしたが、これは実は越(香港~上海に至る沿岸部)と呉(上海~蘇州)の戦争によって難民となった呉国民がもたらした可能性が強い。
 呉の中心、蘇州は水都で、優れた操船文化によって国民丸ごと九州に逃亡し、有明海に上陸して弥生人となった可能性が強いと考えている。
 つまり、我々は中国人難民の末裔だったのである。

 このことは、文献上は確認されなくとも、さまざまの民俗学上の推理によって証明されるのである。長くなるので、いずれ別に書くつもりだが、まずは、民族が大規模に移住するには、よほど大きな理由が必要であることに気づいていただきたい。
 これまでの史学会が説明してきたように、三々五々、貿易や交流の拡大によって移住、混血が起きたとするのは陳腐もいいところで、そんなものが大きな民俗的変化の理由になったケースなど歴史上存在しない。
 ある国家にあって、非常に激しい変化が起きる理由は、「食べていけなくなること」・・・・つまり大規模な戦争と気象激変以外、考えられないのであり、日本にあって、弥生人、騎馬民族、オロッコ、縄文人などが移住した理由も、それぞれ大規模な戦争や気象の激変が関係していたと考える必要がある。

 そこで、現在の極めて不安定な中国・北朝鮮情勢を見る限り、これから数年以内に、中国の大規模な政変・内乱が発生するに伴って、驚くほどの難民が一斉に日本列島にやってくる可能性が高いのである。
 我々自身が中国難民でありながら、日本人の多くは、これを恐れ、彼らを武力で追い返そうとするに違いないだろう。
 しかし数の恐るべき力に勝てる者はいない。数十万人の難民を殺害できたとしても、その屍を乗り越えて、数千万人の人々が日本列島に到達し、新しい主人公になる可能性が強いと思うべきだ。

 これは民俗学を学んでゆけば、世界の歴史の中に普遍的に存在する事変であることが分かる。何一つ珍しいことではなく、必然であると理解すべきなのである。
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