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利己主義から利他主義へ その5 群体と帰属意識

kizoku.jpg
 
 「群体」という生物形態がある。
 数が増えても、そのまま集合している動物体で、我々の目から見れば、巨大な生物に見えるが、その実体は、とても小さな虫の集合にすぎない。
 ヒドロ虫類、管クラゲ類、サンゴ、コケムシ類、ホヤ、サルパなどがあり、サンゴの場合ほとんど群体で、群体ではないものは特別に単体サンゴと呼ぶ。
 群体サンゴは、群れから離れて生きてゆくことができない。さまざまな意味で共生関係にあり、また群れでありながら大理石のような美しい統一構造体を持ち、珊瑚宝石として我々を魅了してやまない。

 最近、北極の深海で発見されたmarrus orthocanna というクラゲは、数十尾が連結し、それぞれが推進・捕食・消化などの役割を分担していて、全体で一尾の生物として生きる共生関係にあるらしい。何かの事情で、一部が死んでも、すぐに他のクラゲが役割を受け継ぎ、共生が生き続けてゆく。
 高等生物にあっても、狼などは社会性が極めて高い動物で、群れなくしては生きてゆくことができない。群れこそ狼の本質である。
 狼は個体が役割分担して、生殖・子育て・食料確保などを行っていて、単独になれば、生きるモチベーションを失ってしまう。そして、この社会性の故に、日本狼はジステンパーや狂犬病が浸入して、わずか60年程度の短期間に絶滅してしまった。

 さて、人間はどうだろう? もちろん、人間も狼以上に社会性の強い動物であって、群れから離れたら生きてゆくことはできない。
 柳田国男が追求した、社会から背を向けて、山奥の孤立生活を求めた人たちは、どうなったか?
 おそらく、むしろ都会生活者の何倍も人恋しくなり、人に憧れたにちがいない。また、本当に数十年もの間、孤立し、社会から隔絶したなら、それは精神の停滞、廃人化をもたらしたにちがいない。人と相対し、刺激を受けることこそ、生きるモチベーション、源泉なのだから。

 人は、決して一人では生きられないのだ。筆者は中津川市の山奥で、一人で誰にも会わず、対話もせずに長い時間を過ごすことが多いが、こんな体験を積んでみれば、人が人によって生かされているという真実を思い知らされる。
 自分にとって、人の存在が、どれほど大切なものか、大都市の雑踏のなかでは、うっとおしいばかりで見えなかったが、山奥に住んでみれば、寂しい孤独感のなかに、それを実感することができる。

 また、人恋しさゆえに、他人から疎外されたくないという思いがあり、誰かとつながっていたい、共通の価値観、アイデンティティのなかにいたいという思いを強く抱く。
 そうなれば当然、利己的な行動を慎み、全体のために奉仕する利他的モチベーションも生まれてくるというものだ。
 利他主義というものは、人を愛する気持ちだけから芽生えるものであって、利己主義を強いられる荒んだ人間関係から生まれるものではない。人が恋しいという気持ちは、利他思想を育む上で一番大切なのである。

 逆に考えれば、利己主義が発生する原因は、人が増えすぎて人恋しさを失ったという事情も無視できない。利己主義の蔓延は、増えすぎた人を淘汰するための自然発生的メカニズムと考えることもできるかもしれない。
 つまり、増えすぎた人を減らし、人恋しさを回復するため、人が利己的になって人に敵対し、競争し、淘汰しあう必然性が生まれていると解釈することもできる。そうだとすれば、これは生物本能であって、『天の摂理』という他はない。

 例えば、バッタの幼虫は、低い密度だと単独生活を送るふつうの成虫になるが、幼虫が高い密度で生息すると群生相という飛翔能力と集団性が高い成虫に変化する。群生相の成虫は、孤独相の成虫にくらべて後脚が短く、翅が長いスマートな体型となり、体色も黒くなる。
 こうなると、巨大な集団で遠い地域に飛翔するようになり、いわゆる飛蝗害、パールバックが「大地」のなかで描写したイナゴの大被害が発生し、次に集団自滅も起きる。バッタの繁栄と自己淘汰メカニズムといってもよい。

 同じように、齧歯類も大規模な増殖と死滅を繰り返す。ネズミの仲間は、生息密度が高くなりすぎるとストレスが高まって遠くに移動し、レミングで有名になった大量死に至ることがある。
 人間も同じで、大都市のように人口密度が大きくなりすぎる地域では、ストレスが高まり、結果として人が優しさを失って苛酷になり、ときに凶暴化して、大量殺戮が起きることがある。

 21世紀の現代に至っても、この問題は解決するどころか、ますます深刻化していて、人類は未だに大量殺戮(ホローコスト・ジェノサイド)の危機に直面しているといわねばならない。
 例えば、人口密度が高く、民主主義思想が浸透していないアフリカ地域、スーダンのダルフールでは、過去40年間に600万人中、200万人以上の民族浄化思想による大量虐殺死者が出ているし、この数年でも50万人を超える死者が出ている。
 ルワンダでも過去20年間に100万人以上の虐殺死者が出ているし、アメリカが侵攻したイラクやアフガンでも100万人規模の犠牲者が出ているといわれる。
 みんな分かっていないようだが、日本だって本当は安閑としていられないのだ。政府が崩壊すれば治安が失われ、必ずセルビアで起きたような大虐殺が起きると覚悟すべきなのだ。警察が消えたそのとき、人殺しが一斉に湧いて出てくるかもしれない。
 日本では、つい70年前まで、朝鮮・中国人・被差別者などが大量虐殺に遭っていたことを思い起こすべきだ。ネットウヨクの低俗な知性を見る限り、同じことが必ず繰り返されるはずだ。

 少し歴史を遡れば、人口過多といわれる中国では、文革中、国民集団発狂といえる事態で3000万人~1億人の死者、日本人が侵略者だった太平洋戦争では1000万人を超える死者が出ており、ソ連でもスターリン指導下で6000万人の反体制側虐殺死者が出たと指摘されている。
 わが日本では、大戦中に300万人を超す死者が出た。この残酷、悲惨を昨日のことのように記憶している人だって少なくない。
 愚かとしかいいようがなく、人類の知的レベルのお粗末さを端的に表すような、こうした非日常死の本質的な理由を探すと、一因として人口過多によるストレスを上げたとしても不自然ではない。

 「地球は苦悩の惑星である」
 と筆者は度々書いているが、苦悩の理由は、必ずしも人間性の愚劣さだけでもなく、人口過多ストレスという視点を抜いて考えることなどできないのである。
 人口密度が少なく、人恋しい地域で、こうした大虐殺が発生した例は、たぶん少ないだろう。

 地球上に人類が、まだ少なかった時代。例えば西暦元年あたりの人口は3億人くらいだったが、この当時の分布と生産能力から考えれば、すでに人口は過剰に飽和しており、絶え間なき戦乱と民族淘汰の嵐に直面していた。
 だが、一万年前には400万人ほどの人口で、さすがに、この頃は遠く旅しても、なかなか人間に出会うことは少なかっただろう。
 こうなると、生殖・捕食・環境・種の維持という生物的モチベーションによって、人は人恋しく、人の群れだけが生きる支えとなったことだろう。

 この頃の人類は、普遍的に母系氏族社会であったことが明らかで、人には個体の自我という観念も成立していなかったと思われる。おそらく利己主義などという概念は想像すらできなかったにちがいない。
 人の意識にあるのは、群れのなかに生まれ、群れと共に生きる自分であって、自分の所属する群れこそ、一個の珊瑚のようなものであり、自分そのものである。自分は群れの部品にすぎず、個体の生死など問題にならず、その群れの維持、持続こそ、所属する人たちの最終目的であった。すなわち、群れが全体で一個の人格であったと断言してもよいと思う。
 したがって群れある限り、個体の生死を超えて、それが一個の人格として続いてゆくことになる。

 このとき、群れに属する個体の意識を支配する概念は、群れに依存する『帰属意識』である。
 自分の属する群れの持続が価値のすべてであって、群れを維持することだけが人生のすべてであった。
 この『帰属意識』は人類の本能に刷り込まれ、個的自我の確立した現代社会にあっても、我々の本能を固く束縛しているのである。

 今、我々が、資本主義の利己的な世界にあって、孤立し、分断され、個的な自我を強要され、「自分は自分、人は人」という疎外された価値観を抱かされているとしても、潜在意識や本能には、「群れに依存する」という習性が深く刻み込まれている。
 人は帰属する群れなくしては生きることができない。孤立した人間関係でありながら、我々は無意識に帰属すべき群れを探し、彷徨い続けるのである。

 その「群れ志向」を悪しき立場で利用しているのが偏狭なナショナリズムであり、国粋主義である。
 人が帰属すべき群れを探しているという本能をタテにとって、教育システムを利用し、「我々は日本人だ、日本国家に帰属し、その命を国家に捧げる」というような低俗なナショナリズムで洗脳しようとする。
 現在、ネットを徘徊する在日外国人に対する低俗な偏見に満ちた排外主義を喚き散らして回る連中がこれだ。
 朝鮮人だろうが中国人だろうが、その本質にあって、我々日本人と一つも違わないのに、あたかも日本人が優越的であって、外国人が劣っているかのようなケチな幻想に酔っている阿呆どもが、日本人を悪しきナショナリズムで洗脳し、80年前に起きた排外主義、帝国主義侵略の道を再び用意している。
 だが、彼らは、しょせん人間の本質を何一つ考えたことのない無知性な連中にすぎず、結局、韓国や中国の愚劣なナショナリズムを喚起し、新たな戦争による大量殺戮に陥ってゆくしかない運命だ。

 また、我々が、学校や企業などに入ると、やはり帰属習性が顔を覗かせる。
 学生時代、ヘルメットを被って全共闘なんかやってた若者が、大企業に就職したとたんに、コロッと方向転換して、企業の社員として忠誠を尽くすなんてのも、帰属本能のなせる業だが、帝国主義や搾取反対のマルクス主義者を標榜していた者が、社員になったとたん、「利益率が低いよ・・・もっと合理化できんのか」なんて言い出すのを筆者は散々見聞してきた。
 帰属意識は、民族意識や会社や学校のような明確なものだけではなく、社会的な概念での帰属もあり、一人の人間がいくつもの帰属を持っている。
 例えば、「中産階級」 「中年男子」 「初老」 「男」 「ニューハーフ」 「オフィスレディ」 「大卒」 「知識人」 なんて概念も、無意識に帰属する指標となるもので、人は、自分に共通する集団を探し出し、帰属する集団の価値観に迎合することで安心しようとするわけだ。

 このため、自分の姿形、服装の好み、発音や表現方法、判断基準まで、そうした帰属集団の価値観に埋没することになり、国母のように「オリンピック選手」という帰属から外れると、よってたかって糾弾し、制裁し、価値観を強要することで安心を求めることになる。
 筆者の地震予知HPで、地震予知が成功することを喜ぶと「不謹慎」といって批判したがる連中も、似たような帰属概念で、自分を全身がんじがらめに束縛していないと安心できないことになる。
 
 次回に続く
プロフィール

Author:tokaiama
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