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それぞれの山の物語  第四話  白山巡礼(83~92年)前編

それぞれの山の物語  第四話  白山巡礼(83~92年)前編

 白山の見える街 

 私の通った小中学校は名古屋駅に近い中村区にあって、もう今ではビルに囲まれて昔の面影はないが、通学した当時は、広々とした田園地帯のなかにあって、遮るもののない展望に恵まれていた。

 私は授業に集中できないで教師に怒られてばかりいる問題児童だったから、学校の授業が大嫌いだった。かといって学校をサボルほどの知恵もなく、授業中は、教室の窓から遠くに広がる風景をキョロキョロ、ときにボーッと眺めて過ごすことが多かった。

 まじめに授業に取り組んだ記憶はあまりないが、それでも昔はのんびりしたもので、暇つぶし程度に教科書をながめてさえいれば十分にテストについてゆけたから、今の子供からみれば羨ましい時代だっただろう。

 教師も、まわりの大人達も、激しい戦争に苦しみ、身内を失った人たちばかりで、みんな大らかで包容力があった。「何でもいいから、生きてろよ!」そんな感じだった。

 学校の2階の窓からは、中村区を象徴した豊清神社のコンクリート製の赤い大鳥居と、パルテノン神殿風の水道塔が見えた。
 というより、名古屋駅の西には、この二つ以外に目立つものはなかった。中村区には零戦のエンジンを作っていた三菱岩塚工場があって爆撃の攻撃目標にされたのだ。

 軍需都市のため、戦災で微塵に破砕された殺風景な名古屋に似つかわしく、これらは、ひどくやすっぽい名所であった。

 その水道塔の向こうの意外に近くに、屏風のようにそそり立つ山々を眺めることができる。それが、多度山と呼ばれる養老山地の端っこの山々であった。

 子どもの頃、すぐ近くに見えるこの山に向かって何度も自転車を走らせたが、結局途中で挫けて一度もたどり着くことができなかった。
 というのも、途中には日本有数の木曾三川の大障壁があって、その広大な河原に立つと、そこから先ははるかに遠い異国のように思え、恐れを抱かずにいられなかったからである。

 豊国神社の大鳥居は、当時(たぶん今でも)日本一大きいもので、名古屋市内のどこからでも真っ赤に目立って見えたのだが、今でははるかに大きなビルに囲まれてしまって、目の前の道路以外に見える場所はない。

 当時は、この鳥居の背景が、鈴鹿山脈の藤原岳か伊吹山であった。それらの山は東海の名物であって、濃尾平野のどこからでも仰ぎ見ることができた。でも、今ではもう、学校の窓からこれらの山も見えなくなっただろう。

 伊吹山は、今でも中村区から見える山々のなかで、もっとも派手な鋭峰である。我が地方では、冬の季節風のことを「伊吹おろし」と呼び、この風の吹く日は、骨の随まで凍りつくような底冷えが名古屋を覆うのである。

 近所の鹿島屋という酒屋の奥さんは、京都市左京区の出身だが、名古屋と京都の気候の比較について尋ねると、
 「夏の暑さは京都も相当なものですが、冬の寒さは名古屋の方が上です。北風の吹く日は、いてもたってもいられまへん。」
と言われた。

 以前、札幌から転勤してきた同僚も、名古屋の方がケタ違いに寒いとボヤいていた。北海道の気温は低くとも、住宅は名古屋より防寒設備に優れているので、実際の生活空間は暖かいのである。

 ちなみに、伊吹おろしの体感温度は、真冬の釧路に匹敵するという新聞記事を見たこともある。
 伊吹おろしの正体は、西高東低の気圧配置のもとで、日本海とその延長にひとしい琵琶湖をわたった気団が伊吹山地にたっぷりと雪を落としたのち、乾燥して冷気ばかりになって濃尾平野に吹き降りる気流である。

 この冷たい下降気流をボラーといい、もしも暖かい下降気流ならフェーンと呼ぶ。日本全国、なんとかオロシなどという名のついた季節風は、およそ同じメカニズムだと思えばよい。

 この伊吹山と、好一対をなして濃尾平野に君臨するのが木曾御岳山である。濃尾平野にはじめての季節風が吹いた翌朝は、清澄な空気がピーンと張りつめて平野を取り囲む山々の壁が姿を現すのだが、そんななかで目だって白くなっているのは、いつも御岳山と伊吹山であった。

 御岳山は、山の高さといい懐の深さといい神秘的な原生林といい、まさしく大名物というにふさわしく、私はこの山に惹かれて登山・山スキー・キノコ採りに20回以上も登っている。

 何度登っても、奥の見えない神秘的で巨大なマッスだ。私は、御岳とともにあることを心から誇りに思う。だから、今日の名鉄グループによる御岳の無惨な破壊は耐え難いほどに辛い。

 あの、すばらしい原生林が、自然保護の機運の高まるこの御時世に、斜陽化しているスキー場開発(JR東海チャオ)のために次々に伐採されてゆくのだ。これは御岳を観光産業に利用するため、公園保護規制を政治力で阻止した名鉄グループの努力の賜である。

 東へ目を転ずれば、中央アルプスと恵那山がひときわ高くそびえ、際だって白いが、中村区からは名古屋市街を挟むので、やや見える地点が限定されるのが惜しまれる。

 御岳山と伊吹山の間に、あまり世間に知られることのない地味な奥美濃・両白山地が、それこそ海の波頭のように延々と続いているのだが、そのなかでも春先から初夏にかけて、いつまでも白さの残る山がいくつかあった。

 伊吹山の雪が消えてもなお白さを保ち続ける一頭抜きんでたピークは能郷白山であったが、御岳山の雪が消えてからでさえなお白い小さなピークに気づいたのは最近のことである。

 大気の澄みきった早春の日、長良川の堤防道路を走りながら、あるいは名古屋港に近い臨海工業地帯から奥美濃の山々を同定していて、高賀三山の付近に異様に白い山を見いだし、何であるか考えた末に、これは白山ではないかと思うようになり、どう検討しても白山以外ありえないと結論した。

 「名古屋から白山が見えた」
 これは思いもよらぬ新鮮な衝撃であった。私は、白山に対する思いを新たにせざるをえなかった。

 そして、それまで窓外の山といえば御岳か伊吹山という固定観念で考えていたものが、格段の広がりを与えられることになった。白山もまた、自分たちの山ということになったのである。

 それだけでなく、私と白山はある特別の縁を結ぶ機会があった。
 個人的なことで恐縮だが、私の友人に、以前の会社の同僚で、郡上高鷲出身のOさん、Yさんがいる。Oさんは、名古屋の会社を辞して故郷にユーターンし、高鷲村のスキー場に務めているが、今でも年に何度もお邪魔して、お世話になっている。私が白山に深くかかわるきっかけになったのは、この人たちの存在であった。

 私がスキーを覚えたのも、スキーを乳母車のようにして育ったような彼らの指導のおかげといっていい。O家やY家をたびたび訪ねるうち、やがて山スキーの楽しみも覚え、石徹白や平瀬の山々にも登るようになった。Oさんのお母さんには、六厩や鷲ヶ岳周辺のキノコの穴場も教わり、それらの山の殖生にも詳しくなった。

 白山には、太古から手つかずの自然が豊富に遺されている。そのすばらしさは、とても文章に表せるようなものではない。
 だが、この数年というもの、過疎脱却にあせり、土建屋事業で目先の利益を追う自治体の手によって、激しく喰い荒らされ、無惨な変貌をとげるようになった。

 もはや決して失ってはならない人類の遺産としての残り少ない原生林でさえ、目先のゼニに釣られ、そのかけがえのない価値を理解できない人々の手によって、あたかも雑草を刈るように葬り去られてゆく。
 私は、白山周辺の山を登るたびに、自然に触れる喜び以上に、人災に対する激しい憤りを覚えざるをえなかった。その感情は、自分の慕う人が権力をカサにきた他人に辱められることの怒りに共通するかもしれない。

 三方崩山 2059m 1989年6月

 白山は日本海側に位置する山でありながら、日本海と太平洋の分水嶺をなしている。その規模は想像以上に巨大で、関連する山々全部を合わせれば関東山地、奥秩父連峰や中央アルプスを上まわり、飯豊朝日連峰に匹敵する規模をもっていよう。

 この雄大な山岳地帯から、豊富な水量をもつ大河川が流域を潤している。そのうちで代表的なものは、太平洋に向かって長良川があり、日本海に向かって九頭龍川、庄川、犀川、手取川などがある。

 わけても長良川は、その流域が広大であること、日本で唯一(この原稿を書いている1990年の時点では)本流にダムがないため、自然の生態系が保たれ生物相が豊富であること、人家の多いわりに水質が非常に良いことなど、特筆すべき美点の多い川である。

 長良川は、古来、美濃に住む人々にとっての誇りであった。
 その長良川に沿った郡上街道を北上し、高鷲村の大規模なスキー場群を左右に見て、最後にゆるやかな蛭ヶ野高原を過ぎると、そこはすでに飛騨の国、合掌造りの民家で知られた白川郷である。

 大日岳(1709m)の裾野にひろがる蛭ヶ野は、長良川と庄川の源流にあたり、太平洋と日本海との分水嶺である。とはいっても、ここは広くゆるやかな高原地帯なので、分水嶺も飛騨美濃国境もまことに明確さを欠いたありふれた林のなかにある。

 このため、水源地帯の小河川が複雑に入り組み、狂ったようにデタラメの方角に流れ、この山々に入った人々を惑わせ、恐れさせてきた。古く、旅人や行商人は、おそるべき難所を越えねばならない白川郷を、さいはての魔境のように思い、覚悟を決めて立ち入った。

 飛騨といっても西飛騨白川郷は、越中庄川の奥深く山また山の秘境であって、匠の名を轟かせた建築職人の里、高山・東飛騨とは深い山地によって隔絶していて、明治初期に高山と庄川村を結ぶ六厩(むまい)・軽岡峠と、白川村荻町と高山を結ぶ天生(あもう)峠が整備されるまで、とりわけ雪の季節には事実上飛騨とは無縁の孤立した地域だったといっていい。

 白川郷は、むしろ越中や加賀の国と真宗や煙硝製造を通して深い関係にあったようである。
 建築様式や民俗についても東飛騨とは疎遠で、文化的には越中・加賀に共通するものがある。ただし、この地域は日本有数の貴金属鉱床に恵まれ、内ヶ島氏滅亡後、飛騨金森氏の領下に入ってからは、東飛騨との間に密接な関係を持つようになった。

 東飛騨を結ぶ軽岡峠は、かつて辞職峠と呼ばれ、つい戦前頃まで、高山を経て白川郷に赴任する教員や行政官があまりの山深さに恐れをなして、ここで辞職を決意し引き返す者が多かったのだという。(ただし、辞職峠の伝承は全国の山村僻地にある)

 冬季には豪雪に閉ざされ、越後・信州の秋山郷と同様、完全に孤立するのが常であった。
 冬季、白川街道が完全除雪されるようになってから、まだ30年ほどしか経っていない。除雪されるようになったのは、大規模な御母衣ダム工事によって道路が整備されてからである。

 そして、そのとき白川郷はすでに消えてしまっていた。というのも、本来存在した白川郷の主要部分が御母衣ダム湖の下に沈んでしまったからである。

 現在残っている白川郷は、当時の面影を僅かに残すにすぎず、数分の一にも満たない集落が観光用に残されているだけである。
 かつての白川郷の住人たちは、年に一度だけ移植された庄川桜に集い、かつての賑わいを偲ぶという。

 明治や昭和初期の飢饉は相当に辛い状況だったらしい。享保・天明の大飢饉のおりには壊滅的なダメージを受け、秋山郷と同じく大部分の人が餓死した部落もあった。

 後に述べる天正地震とこの飢饉では、白川郷は一新されるほどの変貌があったといわれる。
 白川郷の住人は、飢饉におびえて暮らさねばならなかった。そこに東洋最大のダム計画がもちあがったとき、反対運動は興ったが、それは豆腐に包丁を入れるようにすみやかに実現してしまった。

 この地域では、封建的な家父長制に縛られ、底辺の人々の声は上に届かない時代が続いた。それを利用して、国家権力は民衆の歴史的生活を自在に蹂躙したのである。

 庄川村から岩瀬橋を渡り、御母衣ダム湖の沿岸の洞門の連なる危うい道を行くと、ダム堰堤を右手に見て白川村平瀬の集落に入って行く。

 途中、もしも残雪期ならば、平瀬部落の真上にひときわ高くそびえ、際だって白く輝く鋭峰に心を奪われぬ人はいないだろう。気の早い人は、「あれが白山か」などと思ったりするのである。

 それが白川郷を直接とりまく山々のなかでもっとも高く、もっとも鋭く、もっとも白い、それ故もっとも美しい三方崩山である。

 私が登ったのは梅雨期のさなか、晴れたかと思うと突然土砂降りになったりする不安定な天候の日であった。前日、麓の平瀬温泉まで来て浴場前の広場に車泊した。
 この山のありがたいところは、なんといってもこの温泉である。山とペアになった温泉ほど心を豊かにしてくれるものはない。立派な公衆浴場が設置されていて、230円で入浴できる。微かな塩味のある良い温泉で、この周辺の山々を訪れたおりに何度入浴したかわからない。

 源泉は白山平瀬登山口にある白水湖の湖畔に湧き出ていて、100度を越す高温蒸気を冷やして、平瀬部落まで管送している。その間、15キロ以上もあるのに、湯口では60度の高温が保たれている。

 登山口は、公衆浴場の広場脇の神社から林道を上がって行く。大きな砂防堤が車の入る限度で、その先は崩壊していた。とことこ歩いて行くと、立派な舗装道路になり、トンネルの手前に左手に山肌を登る階段があった。

 雨の強く降り注ぐあいにくの天気で、急な草むらは、いかにも蛇の多そうな雰囲気で気持ち悪かった。しばらくで、白山らしい超500年級の深いブナの極相林を行くようになる。

 白山山系にはまだ林野庁の手にかからない原生林が多く残されていてほっとした気分になるが、この森もいつまで官僚の魔手から無事でいられるだろうか。軽薄な使い捨て文明の餌食にならぬよう祈らずにはいられない。

 三方崩山の荒谷は昔から熊の名所で、新しい熊のテリトリー標識(爪痕)を探したが視界にはまったく見あたらず、他の動物達の棲息痕もほとんどなかったのが妙に気にかかった。極相林はよいが、動物のいない原生林というのもどこかおかしい。

 ジグザグのブナ帯を抜けると尾根道になり、森林限界が早い。このあたり、ため息の出るほどの美しさである。潅木にときおりヒメコ松・黒桧(ネズコ)・コメツガなどの針葉樹も混じる。
 ひどく急で滑りやすい尾根を辿ると、2時間ほどでガレ場が多くなり、尾根が痩せて左右に崩壊し、神経を使う場所もある。地元では刃渡りと言うそうだ。ガスの切れ目の左奥に三方崩の立派な山体が見え、南アに似た崩壊地が荒々しく迫り異様な迫力を与える。

 「こりゃ、見事に崩れたもんだ。」とため息をついた。
 この大崩壊は風化ではなく、400年前の地震によるものであった。

 伝承によれば、天正13年(1582年)11月29日、日本史に記録された大地震が白川郷一帯を襲った。

 このとき、三方崩山東北の保木脇にあった白川郷領主の内ヶ島氏の帰雲城とその城下町が、三方崩山と対岸の猿ヶ馬場山から発生した大規模な山津波に呑まれ、一瞬にして城主の氏里以下、城下町300戸・住民500名もろとも土砂に埋まって全滅したのである。(城を埋めたのは、猿ヶ馬場山中腹の帰雲山の崩壊である)

 この時の地震で埋没し滅亡したのは、帰り雲と呼ばれたこの城下町の他に、折立(高鷲村西洞)、みぞれ(明方村)の3カ所であったが、中部地方有数の不便な山中の事情のために、天正地震と帰雲城埋没が世に知られるようになったのは古い話ではない。

 戦国時代、戦いに破れて滅んだ大名は多いが、地震で滅んだ大名はこの内ヶ島氏をおいて他にはない。だが、四代百年余も続いた内ヶ島氏でありながら、西飛騨の山深さに隠されて戦国正史には登場しない。しかし、この史実には、人々の興味を引きつけずにはおかないミステリーを含んでいた。

 かつて、作家の佐々克明氏が帰雲城について調査し、内ヶ島氏は豊富な砂金に目をつけて白川郷を領土にしていたので、この土砂の下には推定5000億から10兆円にのぼる金塊が埋まっているかもしれないと発表して話題になった。そして、この歴史的財宝に注目する人々が大勢でてきたのである。

 だが、史実をあたってみると、豊臣秀吉に敵対した佐々成政についたために、秀吉輩下の武将、金森長近に攻撃された内ヶ島氏は、戦い破れて金森氏に講和を求め、大量の金を持参して許しを請うた可能性が強い。

 しかも白山長滝神社に残された古文書には、地震埋没後のわずか7年後に、金森氏によってこの付近で大量の金の採取が行われたと記録されているので、埋没金の残存については懐疑的にならざるを得ない。

 ましてや、荻町城主で内ヶ島氏の家老であった山下大和守時慶(後に家康の武将となり、江州蒲生郡を与えられ、徳川義直の名古屋城築城に携わった。大久保長安の採金にも関係している。)など多くの家臣が無事で、金森氏の家来になっているのである。
 みすみす埋没金を見逃すことは考えられない。だが、今なお確定的史実は明らかでない。

 いずれにせよ、おそらく白山の爆発的噴火にともなって一カ月間続いたこの地震で三方崩山も甚大な破壊を受け、今日見るように、猿ヶ馬場山とともに凄惨で大規模な崩壊地を荒々しく晒すことになったし、付近の山々に崩壊地が多いのも、この天正地震によるものと考えられる。

 頂上へは、崩壊地の尾根を辿って着く。山頂はコメツガなどの低い針葉樹林に囲まれていた。さほど広くないが立派な標識がある。晴れていれば御母衣湖の雄大な眺めが見えるはずだが、この日はガスに視界を遮られていた。

 登山口からおよそ3時間程度の行程であった。もちろん、絶好の登山日和にすらほとんど登山者を見かけないこの山に、こんな日に登る物好きがいるはずがない。いつ来ても、静かな登山を満喫できる山である。

 山の風格といい荒らされていない自然の美しさといい、掛け値なしに素晴らしい名山で、その魅力は100名山の荒島岳など遠く足元にも及ばない。私は、この山が白山山系のなかでもっとも素晴らしいと思っている。

 この先に1時間ほどで最高点の奥三方岳があるが道はなく、雨がひどくなって行く意欲は起きなかった。日本最多登山者の宮崎日出一さんは、奥三方を天上の楽園と表現されておられているから、きっと素晴らしい場所なのだろう。いつか、ここから白山北稜(マナゴ頭)へ抜ける山旅を予定している。

帰路は急な尾根で何度もこけた。登山者が少ないので土が浮き、雨でヌルヌルになっていた。トラロープが各所に設置されているが、ほとんど役にたたない。夢中で下って、平瀬温泉にたどりついたときには全身泥だらけになっていた。

 日照岳 1751m 1990年4月

戦国時代、茶道の創立者として名を残した金森宗和の父は、越前大野を経て飛騨高山の城主となった金森長近である。
 長近は尾張中村に生まれ、抜きんでた有能さを買われて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。その生涯は、なぜか白山を巡るものであった。

 天正13年(1582年)、飛騨白川郷の領主、内ヶ島氏は、情勢を見誤り豊富秀吉に叛意をもつ佐々成政に連携してしまった。その結果、自ら大軍を率いて佐々討伐にあたっていた秀吉は、越前大野城主であった長近に内ヶ島氏攻めを命じた。
 8月2日、長近軍三千名は内ヶ島氏の意表を突き、白山別山の尾根を伝って白川郷に攻め入った。

 長近軍は内ヶ島氏を激しく攻めたが、岩瀬橋(庄川村)で内ヶ島方の尾神氏の頑強な抵抗に遭い、大きな損害を被った。一時は、壊滅的な敗北を喫するかにみえたが、美濃白鳥から迂回して攻め入った可重の軍勢に助けられ、苦戦の末辛うじて尾神氏に勝利し、内ヶ島氏を降参に追いこんだ。
 内ヶ島氏は秀吉に和を請い、許されて金森氏との講和を終えた直後、山津波に埋没したのである。以来、白川郷の豊富な鉱物資源は、金森氏の領有に帰すことになった。

 この時、長近軍が通ったと思われるのが、別山東稜尾根であって、日照岳はその上のピークである。
 日照岳と大日岳にはさまれた大きく深い谷を尾上郷谷といい、アルプス級のすばらしい渓谷に恵まれた秘境である。

 現在は岐阜県大野郡庄川村に含まれる尾上郷は、戦国時代には比較的開けていたようで、内ヶ島氏の家老を務めた屈強な尾神氏の支配下にあった。ここに人が集まった理由は、豊富な砂金の存在であっただろう。

 戦後、御母衣ダムが完成するまで、尾上郷は白川郷の一部として少なからぬ居住者もいたようだが、現在はすでにその面影もなく、人気のない白山有数の秘境として、野生動物の楽園の趣をみせている。

 もしも白山周辺で、最後まで熊が生き残ってゆける地域があるとすればこの一帯であろうといわれていたのだが、近年、御他聞に漏れず林野庁の猛烈な収奪にさらされ、さらに御母衣ダムの補助ダムの建設も進行し、野生動物への打撃はすくなからぬものがある。

 別山東稜を含む尾上郷ルートは、白山信仰が最盛期の頃、白川郷へのエスケープルートとして利用され、また、白川郷から越前への間道としても使われたようだ。「登り千人下り千人」とうたわれた全盛期の白山の稜線には、多くの道が開かれていたであろう。
 この道の存在は、柳田国男の白川郷紀行文にもわずかに紹介されているが、現在ではすでに痕跡をとどめず、正確なルートはわからなくなってしまった。

 私の訪れたのは、まだ残雪の点在する4月末であった。2・5万図に途中まで破線路が記載されているので、それを辿ってみようと思った。

 まず登山口を探すのが一苦労であった。岩瀬橋を渡った御母衣ダム湖沿いの、トンネルとスノーシェンドのある国道を行ったり来たりし、地形図とにらめっこして、やっと右手に大きな切り開きの広場があり、左手の沢筋に木製の梯子のかかった登路を発見することができた。

 入り口は頼りないが梯子の上からは立派な登山道となり、わずかに登ると営林署の作業小屋として使われているパオのようなテントがあった。その上は送電線の巡視路として整備されているようだった。

 送電線の付近は、白山を象徴するブナの純林など跡形もなくて、根こそぎの皆伐地帯になっていた。この付近で営林署の原生林略奪が進行中のようだ。2キロほども登り、3番目の高圧線を過ぎてしばらくでいつのまにか道が消えてしまった。

 そこから尾根を外さぬように薮を分けて登ると、ピンクのヤシオツツジが咲き乱れ、心をなごませてくれた。

  高度1200m前後から残雪が出現し、雪のない山肌にも一面に雪と見誤るような、綿のような白いものが大量に目についた。この時期、雪のような花に包まれる木といえば、コブシ・モクレン・ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)などだが、それはタムシバの花であった。

 香りの素晴らしいタムシバはモクレン科の落葉木で、白山山系の二次林に非常に多く見かける。ただし、私にはコブシとの区別がつかなかった。
 手元にある薬草辞典でひいてみると、コブシはガクが小さく緑色で3枚、花弁は6枚、葉は卵を逆さにしたような形で裏は緑色になっている。

 タムシバはガクが花と同質、葉は針を押しつぶしたような形、裏は白い。
昔はカムシバ、またはサトウシバと言ったそうだ。葉を噛むと芳香があり、甘い液が出るからである。この花は辛夷(しんい)という生薬名で、その香気成分を利用して漢方では蓄膿症の薬にしている。

 ただし、タムシバ・コブシともに日本特産種で外国には存在せず、中国ではモクレンが辛夷である。だから漢字名がないのだが、「多虫歯」なんてのはどうだろう。

 タムシバは移植栽培が非常に困難で、生薬業者がこのような場所を見つけると、花の時期に根こそぎ採取してしまい、群落が消滅することも多いという。例えば、長野県水内郡などにそうした例がある。

 尾根筋は完全に雪が消えていたが、切り開かれたばかりの枝の下から、4月末というのに大きな赤マムシが這い出てきてびっくりさせられた。今年初めて見た毒蛇で、その先からビクビクして歩く羽目になった。

 白山には、泰澄大師が1000匹の悪蛇を封じ込めたと伝説される池がいくつかあり、古来から毒蛇の多かったことを示している。マムシは、歩行振動の出る登山道では逃げてくれるが、ゆっくりした薮漕ぎでは咬まれる確率が高くなる。道無き頃の白山では、さぞ咬傷が多発したことだろう。

 道が消えた後は、尾根の微かな踏跡をたどり薮を分けた。破線路は左手の谷筋になっているが、どうやら消滅しているようだ。
 やがて1410mのピークに達すると、上に真っ白な日照岳のピークが現れた。しかし、その先は濃密な根曲がりの笹薮になった。

 薮に突入して笹を分け、しばらくで後ろを振り返ると、ほとんど進んでいないのにショックを受けた。残雪さえ残っていればヒダリウチワの行程のはずだが、チシマザサの密生地帯は私にとって谷川岳一ノ倉沢に等しいのである。

 京都の78才になられる超人的登山家の伊藤潤治さんは、この猛烈な薮をスイスイと分けて鼻歌まじりに奥日照岳まで行かれたそうである。
 私は100mでダウンした。もう一歩も進む気力が失せた。恥知らずにも、そこで引き返すことを決めた。

 日照岳という名前からは、麓の白川郷の雨乞祈願所といった印象を受けるが、白川郷のような重畳たる山岳地帯で水に不自由するというのも考えにくいし、ここで水稲作が行われたのは大正以降だから、あまりややこしく考えないで、「よく日の当たる山」とでも解釈すべきなのだろうか。
帰路はマムシの影におびえ、棒で薮を叩きながら帰った。われながら情けない奴だと思った。

 追記、このとき私は鉈で笹藪を切り開いたが、後に、これは絶対行ってはならない過ちだったことを知った。竹笹類を刃物で切ると、切り口に必ず槍のように危険な刃を作ってしまう。それが通行者にとってきわめて危険な罠になる。これによって命を落としたり、失明する者も多い。絶対やってはいけない。笹藪は、泳ぐように手で分け、乗り移るのである。藪山を行く読者は十分に注意されたい。

 経ヶ岳 1625m 1990年6月

経ヶ岳は、白山信仰の歴史のなかで、加賀馬場・美濃馬場とならんで栄えた越前馬場・平泉寺の背後にそびえる名山である。平泉寺から経典を奉納したのが経ヶ岳山頂であった。

 中央アルプスの経ヶ岳もそうなのだが、この名のついた山では、古く修験道の修行のうちでも法華経典にある如法経修行というものが行われていたことを示している。それは、法華経28章(品)のそれぞれに対応する経塚を設け、写経を奉納埋没する修行であり、天台宗の慈覚大師がはじめたと伝えられる。

 したがって、麓に天台宗系の修験道寺をもっていた山に経ヶ岳という名が与えられることが多いと考えてもよい。
 馬場というのは、そこに馬を繋ぎ徒歩で歩きはじめねばならない登山口に相当する広場である。それぞれの馬場に、白山を祀った寺社と禊場(みそぎば)がおかれ、牛馬、ときに女性も、それ以上立ち入ることができなかった。

 中世の修験道による白山信仰登山で、もっとも古く開かれたのがこの越前(白山)馬場であったようだ。平泉寺の歴史は古く、泰澄が白山を開いた8世紀にすでに開山していたと考えられるが詳細はわからない。往時の登山ルートは、ここから石徹白を経由したと考えられる資料もある。

 12世紀には、美濃馬場・長龍寺と同じく天台宗・比叡山の傘下に入り、白山修験道が行われた。その頃には平泉六千坊といわれ、数万人の僧徒が居住し、当時の比叡山に匹敵し、現在の高野山のような広大な寺院都市であったらしい。

 しかし、この寺の僧衆徒は地民を奴隷のように支配し、暴虐をはたらくのでひどく評判が悪く、耐えかねた農民は、加賀一向(真宗)一揆の余勢をかって、一六世紀、天正年間に平泉寺勢力を攻め滅ぼしてしまった。
 このとき、一向一揆・農民兵の拠点であった村岡山は、勝利を祝って勝山と改められ、それがこの地域の地名になった。

 現在の平泉寺は、その後、金森氏などの庇護を受けて細々と再興されたものである。しかし、江戸期には徳川家菩提の上野寛永寺の系列に入り、幕府の保護を受けることができた。
 そのおかげで寺の格式は高く、大いに威張っていたのだが、明治の平田国学派による排仏毀釈の際、白山権現をまつっていた平泉寺は仏教を放棄して白山神社になった。長年の徳川家の恩を蹴飛ばして、一転天皇家側についたわけである。

 江戸期最後の住職であった義障は平田派の尊王思想に影響され神職に衣変えし、その孫の東大史学部教授、平泉澄も右翼皇国史観学者として有名になった。

 平泉澄については、偉ぶって硬直した人物像など、多くの不快な逸話が残っている。東大教授時代、民俗学を志向した学生が農民の生活レポートを提出したところ、「農民や家畜の生活は歴史ではない」と一蹴し、権力者の歴史のみ、それも皇国史観に都合の良い歴史以外、絶対に評価しようとしなかった。

 この男こそ、岸信介・石原寛爾らとともに、思いあがった帝国主義者たちによる太平洋戦争の最大の戦犯に他ならなかった。

 神職、平泉一族の頭の堅さのおかげかどうか分からないが、由緒の立派なわりに、平泉寺の周辺は永平寺のような喧噪もなく、静かで落ちついた自然環境が保たれている。散策には素晴らしい場所である。

 白山や経ヶ岳に登る道は、ひと昔前まで、ここから法恩寺山を経て長い道程を辿らねばならなかった。しかし今では、経ヶ岳にはいくつかの直登ルートが整備されている。
 現在、平泉寺からの尾根には法恩寺林道が横切り、そこに法恩寺山経由の立派な登山道があり、林道を南に下ると、保月山尾根コースと谷コースもあり、どちらも3時間かからずに登頂できる。

 私の登ったのは法恩寺コースだった。前夜、小京都と讃えられ、歴史的景観の残る勝山市街の旨い焼鳥屋でいっぱいひっかけた後、平泉寺付近に車泊し、翌朝、女神川沿いの林道を車で遡ると、スレ違い不能の恐ろしく頼りない道になった。

 ハラハラしながら詰めるとゲートがあって、カンヌキを抜いて進むと、立派な法恩寺林道になった。この道は南六呂師から良い道が通じていたことを後に知った。

 登山道の知識はなかったが、平泉寺からの尾根に決まっていると踏んでいたのでそちらへ向かうと、はたして道標と立派な登山道があった。しかし、このルートが経ヶ岳のルート中最長コースであることまでは気づかなかった。

 朝五時に出発するとき、すでに初夏の陽光がきらめき暑い一日を予感させた。 法恩寺峠に登る古い禅定道(修験登山道)は尾根のうえに緩くつくられ、丈の低い潅木に展望を遮られた道を害虫の攻勢に悲鳴をあげながら登ってゆくと、すぐにひどく立派な山小屋があり、そこから1時間ほどで法恩寺山の山頂に達した。

 途中、新しい伐採地がやたらと目につき、よく見ると、そこに「リゾート開発」と書かれた測量杭が打ちこまれていた。
 「ここもか・・・・・・」と、思わず苦い思いでわらった。
 スキー場に手ごろな傾斜の地形で、ここが数年後にどのように変貌するのか調べなくとも容易に予想できた。

 自治体が目先の利益を追って狂ったように開発ブームに沸くようになったきっかけは、将来、戦後最悪の悪法と評されるかもしれないリゾート開発法であった。

 膨大な自然破壊を狂気のように重ね連ね、やっとその成果が具体的に検証されるようになった今日、当然の結果ながら、思惑通りに利益を得た自治体は極小数にすぎず、大部分は貧困な財政に追い打ちをかけるように事業の赤字に苦しみ、残されたものは回復不能なほどの自然破壊と人心の荒廃にすぎなかったという現実が明らかにされてきている。

 すでにその結末が誰の目にも見えはじめたというのに、地元の自治体役人の目は暗黒の住人のように固く閉ざされているようだ。彼らの目を開かせぬものは、土建事業の利益なのだろうか。彼らはもはや、戦前のマインドコントロールされた皇国日本人と同様、何が大切なものかという判断能力を失ってしまった。彼らの目に見える美しいものは、札束だけなのだろう。

 越前馬場、平泉寺からの禅定古道は、法恩寺峠からいったん小原村のワサモリ平に下り、再び小原峠を越えて市之瀬に下り、そこから現在観光新道の通る尾根を経由する複雑なルートがとられた。

 だが、美濃馬場に残る古文書に、泰澄の開いた当時、ここから経ヶ岳、赤兎山を経て石徹白に下り、再び別山を経由するルートがあったことを示唆するものがあるという。この尾根伝いの道は、幸いなことに登山道が整備されていて、現在誰でも通ることができる。

 経ヶ岳へ伝う尾根道はしっかりしていたが、ワサモリに下る古道はすでに荒廃し、深い薮に隠されて登山の痕跡も見えなかった。

 尾根道には背丈を超える潅木が密生しているため、ほとんど展望がなく、約1時間というもの黙々と暑く苦しい道を歩いているうち、突然、森林限界に達した。そこはすばらしく広大な景観で、それまでの道が閉塞的であった分だけ、心身ともに解放されるような何ともいえない思いがした。赤兎山への分岐であった。

 わずかな吊り尾根をたどると経ヶ岳山頂が広がった。そこは期待どおり、遮るもののない360度の広潤な展望であった。

 真正面には別山と白山が、まだ大きな残雪をいたるところに残して神々しく鎮座していた。左右の谷にも豊富な雪渓が残っていた。このうえなく爽やかな景観であった。
 南六呂師高原を望む山腹は異様な地形だったが、後にこれが噴火口であることを知った。経ヶ岳は、白山の兄貴分にあたる火山であった。

 はるか下に林道が見え、そこから延びた登山道に大勢の登山者が見えた。すばらしい日曜日だ。

 六呂師(ロクロシ)という地名は、福井県に多い。山の民俗に関心をもつ方なら、「木地屋だ!」とピンとこられるであろう。

 トチ・ホウ・ケヤキなどをロクロで削って木地椀の製造を生業とした木地屋は、ロクロに関連する工作を生活の糧とした。ロクロといえば、土器を制作する縦型ロクロと木器を制作する横型ロクロがあって、それぞれ大いに関連しているにちがいないのだが、どちらが先だったのかはよくわからない。というのも、土器は保存性がよく遺物も多いが、木器は腐るからである。

 弥生式土器は明らかにロクロを使用していて、この技術が中国江南地方、揚子江下流域の米作地帯から、2500年前に米作農耕とともに伝わった技術であることを窺わせるのである。
 さらに、山岳高地の尾根に居住した木地屋の民俗習慣が、雲南・ブータン系の高地族の生活習慣と極めて似ている点も見逃せないし、現代に到る彼らの子孫の人相も雲南諸民族に非常に似ているような気がしている。

 2500年前というのは、最近ではかなり確定的になってきていて、それも臥薪嘗胆の故事で知られる呉の国の住民が(越に追われて?)集団で日本に移住し、邪馬台国などを開いたのではないかという可能性が、東夷伝の「我らは呉の太伯の後なり」という記録の傍証として考えられるようになっている。

 木地屋は、近江小倉郷(滋賀県永源寺町君ヶ畑)を根元地とし、清和天皇(源氏の祖)の兄にあたる惟喬親王を開祖とする全国的な伝承をもっているのだが、8世紀の天皇家は、チベット・ブータン・中国雲南・江南地方からの渡来人であったはずの弥生人の子孫とは無関係であり、朝鮮半島を経由して渡来したモンゴル系の民族であって、すなわち(源平藤橘姓に代表される)騎馬民族系の天皇家とロクロの関連は薄いとも思えるが、フヨと呼ばれた彼らの祖先が、伝承されるように秦(始皇帝の)の子孫であったなら車輪や鉄製刃物も含めた高度な轆轤系技術がすでに完成していたはずで、それを持参するのも容易であり、なかなか推理が難しい。

 君ヶ畑に伝わるロクロの由緒も、親王が巻経をほどいたとき、なかの軸が回転したことからひらめき思いついたと伝承されているが、これも、轆轤が車輪系技術から継承されたことを窺わせる。

 轆轤技術の発生考察はさておいて、木地屋が、ことさら惟喬親王伝承をもちだして自らを権威づけ、さらに天皇家の菊の紋章を自紋として使ってきた理由は、全国の山中で所有者に無断で伐採をするところから、権威を利用してトラブルを未然に防ごうとした訳にちがいない。

 木地屋は明治初年、全国のすべての土地について地租を確定するために所有権を定める布告が出されたことによって、公的に伐採権を失い、一千年以上にわたる流浪の山岳住民としての歴史的権利と社会的認証を奪われた。

 大部分の木地屋は、半強制的に山奥の土地に定着させられ農耕生活を営むようになった。だが、その伝統的なロクロ技術が重宝され、近代機械の移入とともに旋盤などの技術職に転じたものも多かった。現在の、大蔵鉄工や小椋機械、パイロットやセーラーなどの万年筆工業の創業者が木地屋であったことはよく知られている。
 全国の木地屋の子孫は、現在でも年に一度、その根元地である君ヶ畑に集まって惟喬親王に礼を捧げる祭祁を行うことになっている。その名簿をながめると、やたらにオクラに類する姓が多いのは、開祖惟喬親王の命によってロクロを伝えたとされるのが小倉氏であったことによるものにちがいない。

 したがって、木地屋を開祖とする集落にはオクラ姓が多いことを知っておいたほうがよい。(小倉・大倉・小椋・筒井・佐藤など)
 現在の六呂師の集落で以上のような木地屋の痕跡を見いだすのは困難だが、北六呂師の上には木地山峠という名が残されているところから、関連は疑いない。

 経ヶ岳山頂から南を見渡す眺望は、荒島岳がひときわ見事であった。能郷白山はその背後に隠れて見えない。谷向かいの野伏ヶ岳(1674m)を中心とした油坂峠方面の主稜尾根は、白山山地で唯一踏み跡がなく、原始の風格を残している。だが、この数年、石徹白の大型レジャー施設(ウィング)の開発によってひどく荒廃がすすみ、面影は変貌してしまった。

 おそらく、日本でもっともたくさんの山を登っている東大阪市の宮崎さんは、ここで牛ほどの巨大な熊に出遭ったと書かれている。日本の山を五千回も登ってこられたこの人が、それ以来ザックに鈴をつけるようになったのだから、よほど恐ろしかったのだろう。
 今日、ハンターの高性能ライフルの前に、100キロを超える大熊はきわめて希になったといわれる。過去最大の月の輪熊は250キロ程度と記録されている。野伏せ山の熊がそれに近いほどに育っているとすればまことに貴重極まりなく、ばかげた射殺の勲章を誇りたがるハンターに撃たれぬように保護してやらねばと思うのである。



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