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修験道 その1

カテゴリ : 無題

 修験道  92年2月著 その1

(これを書いてから25年も経て、今では内容を変えるべきと思う箇所も多い。
 私は、これを書いた当時、修験道が密教であり、それは利他行よりは利己行の性格を帯びたものであり、大多数の民衆の幸福を祈念するという大乗仏教というより、むしろ個人的救済を求める小乗仏教の性質を強く持っていたと考える。
 学問的には密教は大乗に包摂されているが、私は誤りであると考えた)
 

 日本の高峻山岳に初登の栄誉を求めて登った岳人や測量者たちは、人跡未踏と思われていた日本屈指の険しい山々、例えば北アルプスの剣岳などでさえ、苦難の登頂に成功して喜んだのもつかのま、山頂にまさかと思われる修験道の遺物を発見して愕然とした。

 私自身、20年このかた日本全国の数百の山を歩いた経験からいっても、どの地域の山へ行っても、山岳信仰やその痕跡を見いださない場所はないといっていい。このことは、おおかたの山歩き愛好家が同意されるであろう。

 日本ほど豊かな食糧をもたらしてくれる山野に恵まれた地域は地球上に決して多くないのだから、山岳地帯に人間生活に伴った歴史的遺物が多く残されていても全然不思議でないのだが、それにしても隅から隅まで、よくもこれほどの宗教遺産が存在するものだと感心できるほど多く、かつ古い伝統をもっているのは、山岳信仰こそ日本文化の特異な本質に関わるものといえるかもしれない。

 そのような意味で、山岳信仰については民俗・考古学者の関心を集め、これまでにも優れた研究書が多く出版されているが、一般受けする面白さには欠けるので、山旅を好む人々に読まれることも少なかった。

 だが、山旅愛好家が、単に歩くことに満足するのでなく、人と山との歴史的な交歓の視点に気づくようになると、自然の野山にすぎなかった光景の背後に、山岳信仰の巨大な歴史的骨格がおぼろげに見えてくるのである。

 それは、まるで、路端のつまらぬ石コロがダイヤモンドの大きな原石であることを知ったときのように感動的である。そこには、麓の里人にさえ知られぬ謎に包まれた特異な宗教的風景があった。
 また、それは日本国家の成立にも関与した考古学上のミステリーも含んでいる。山岳信仰こそは、柳田国男が最後までこだわった縄文式文化の継承者としての日本先住民(山人)の謎に迫るものであるともいえるかもしれない。


 先史、古代史から

 おそらくは数十万年も前からインドネシア・ジャワ島付近にあったはずの巨大島に棲息したと思われる人類の祖先(ホモエレクトス・ピテカントロプス)の子孫の一群は、ユーラシア大陸東部を北上してモンゴロイドとなった。

 また別の一群は、黒潮海流に流され、あるいは航行して北上し、台湾・南西諸島や日本列島東岸沿いに棲みつき定着した。ここで、リス・ウルムの氷期に接続した大陸から渡来した人々と混血を重ね、今日、縄文人と呼ばれる日本先住民になったと考えられる。

 海洋系ともいえる縄文先住民の外見上の特徴は、乳児の蒙古斑が少なく、ねばっこい耳垢をもち、体毛が濃く、四角い顔に大きな目と二重瞼をそなえ、その彫りは深く、額と鼻の間の明確にくぼんだ特徴をもった人々。
 性格は、あまり我慢を好まず即物的であるが、ツングース地方で寒冷地適応を受けた騎馬民族系モンゴロイドに比較すると、対照的にひどく気が小さく、優しい。

 だが、一方で古い時代から食人習慣をもっていたのは、一種の離脱精神に陥りやすい、つまり暗示にかかりやすい特徴があったからのように思える。

  台湾山岳部や南西諸島、隠岐島などの離島、あるいは中部・東北の日本海側の山村に、いまだこの形質を色濃く残した人々が大勢いる。アイヌ民族もまたそうであるが、むしろ、これらの人々は、アイヌと総称しても誤っていないほど、言語・地名・民俗など古代アイヌ文化に包摂されていた。

 彼らのうち、さらに北上したものはアイヌ族として北海道・千島・樺太に定住し、また、その一部はベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に流入し、今度は南下して南アメリカにまで進んだ。今日、インディアンと呼ばれる南北アメリカ大陸先住民がそうである。

 アルゼンチンやチリには多くの縄文遺跡が発掘されていて、これがベーリング経由か、太平洋経由なのかについては議論が分かれている。 原住民の形質は縄文型日本人とほとんど変わるところがない。

  だが、現在のようにラテン形質が普通になってしまったのは、近世のスペイン人による残酷な侵略によるものであって、コーカソイドの形質が移入されから、まだ400年ほどしかたっていない。

 縄文人は、海岸から深く野山に分け入り、日本列島中北部の落葉樹林帯のなかで小規模な集団で採集遊猟の生活を営んでいたと考えられ、石器の材料や食料を求めて、非常な奥地にまで生活圏をひろげていたことが知られている。(たとえば、八ツ岳周辺は、縄文石器文化の一大中心地であった)

 彼らが深い山奥で、天を突く高峰に神秘的な神格を見いだしたであろうことは想像に難くない。
 しかし、言語記録のない時代ゆえに、当時の山岳信仰を正確に調査するのは困難である。今日知られる縄文信仰遺跡は、各地で発掘される土偶や骨角器・石板などの呪具、信州周辺で見つかる配石遺跡などがあげられるが、その具体的な意味はよくわかっていない。

 紀元前五世紀から紀元三世紀にかけて、米作農耕生活を基本とし、高度な漢字記録文化を身につけた大陸モンゴロイドの弥生人や騎馬民族が、黄海や朝鮮半島からやってきて日本列島南西部(九州・山陰・瀬戸内海沿岸・畿内)の常緑広葉樹林帯の湿原平野に流入し定着すると、彼らは稲作文化にともなう土俗信仰をもちこんだ。

 弥生人とは、3000年ほど前に、雲南・チベット・ブータンの山岳高地に居住していた人々が、楊子江下流の呉越地方に勢力圏を広げ、その後、2500年前の呉越戦争などで日本に避難した人々の末裔ではないかと私は考える。

 彼らの最も基本的な特徴は、モチ米系の稲作を主作物とし、アクの強いドングリをもつ照葉樹林帯に依存して生活した人々であって、背負い型ではなくテンビン型の運搬をし、イロリではなくカマド型の炊飯をし、極めておおらかな性生活(例えば夜這い習慣のような)をエンジョイし、歌垣を楽しみ、法や道徳に縛られない自由な生活風俗をもっていたと考えられる。

 人相は、タイのミャオ族に見られるように、大きなぱっちりとした目、厚い唇、丸い顔、鼻梁上部は凹み、鼻のアグラは大きい。全体に小柄で、性格は天真爛漫で心も広いが放縦である。 西日本から太平洋岸で一般的な顔立ちであろう。

 今日、四国山岳地帯や愛知・静岡県山岳部に特異的に見られる山岳高地の尾根に設けられた家屋に居住する木地屋やサンカの子孫は、民俗上の共通点から雲南系の高地族の直接の子孫であるような気もしている。
 雲南の食習慣である、味噌・納豆・モヤシ・コンニャク・餅米・木地椀・轆轤などが直接継承されていることがそれを端的に証明しているし、人相・性格も実に似ているからである。

 それに対して、3世紀から8世紀、古墳時代を築いた朝鮮半島系の渡来者である騎馬民族の子孫は、その圧倒的な教養と武力で、たちまちのうちに日本列島の支配階級に君臨し、武家階級となった。

 彼らは、フヨ(扶余)呼ばれ、始皇帝の秦の子孫を自称した満州(文殊)地方の騎馬民族と同一の流れの人々と思われ、典型的な寒冷地適応の北方モンゴロイドの特徴を備え、乳児に明確な蒙古斑があり、体毛は薄く、のっぺりした寒気に強い顔立ちで、眉と鼻の間が狼のようになめらかでケルト人のように高く、ややつりあがった切れ長の目と一重瞼の人が多い。

 また、長州地方に典型的に見るように、長頭形の頭蓋骨をもつ人も多い。耳垢は乾燥型であって、性格は極めて我慢強く理性的で、戦争を得意とし、支配階級に向いている。ひとことでいうなら、朝鮮人の形質である。

 今日、その最も典型的な人相風貌を保存している古家が天皇家である。
ツングース系モンゴロイドは、朝鮮半島以外にも、沿海州から津軽地方と交流があったことが知られていて、東北地方の人種形質に関与していると思われるが、大和朝廷との関係については明かでない。

 日本には、朝鮮の戦乱によって、8世紀頃まで渡来人の大規模な流入が相次いだ。百済などは、新羅に攻められて事実上国ごと日本に移住し、言語文化能力に優れた人々が多かったので渡来地でも敬われ、大和朝廷権力に加わった者(あるいは乗っ取った?)も多かったと思われる。
 
 それどころか、実は、日本という国家、つまり大和朝廷は、唐の国書(旧唐書)に、朝鮮半島に存在していると記録されている。日本は、国ごと朝鮮から移住したとさえ考えられるのである。

 このことは、弥生人国家であった日本列島の「倭」を、騎馬民族の大和朝廷、つまり南朝鮮にあった「日本」が乗っ取ったようにも思われる。

 別の視点では、「倭」とは南朝鮮から九州山陰の広い範囲の海岸住民を指す形容で、我々が考える日本人のカテゴリーとは、まったく異なる存在かもしれない。

 騎馬民族が日本列島に洪水のように数次にわたって流入した理由は謎だが、当時、中央アジアから朝鮮半島にかけて猛威をふるった同じく騎馬軍団・匈奴やエベンキ族の圧力に押し出されたと考えるのが妥当であろう。

 修験道をかたちづくる土台の、民族的考察はこのようなものであり、すなわち、修験道が、どのような渡来人によって日本列島にもちこまれかを理解することができよう。少なくとも、これは縄文先住民のものではなかった。

 渡来系民族の信仰のうちで、もっとも大切なものは、稲作の成否にかかわる水にまつわる信仰であった。それは水分(みくまり)信仰と呼ばれるもので、水源地帯の山の神々に豊穣の願いと礼を捧げるものである。

 これが、農耕社会における山岳信仰の原初的形態であっただろう。この信仰が神道の原型になったと思われ、西日本や畿内には水分神社が多く残っている。

 しかし、弥生文化には、縄文文化には見られぬ一定の様式を備えた宗教儀礼が成立していたと考えられる。
 例えば祭器を見ても、銅鐸・青銅鏡・剣・矛など精密多様であって、呪術などが著しく発達していた様子は、中国の史書などからも窺うことができる。

 また、かなり早い時期から、大がかりな古墳造営や呪術が知られていたことは、彼らのうちに、すでに自然発生的土俗宗教を超える宗教イデオロギーが成立していたことを示している。

 騎馬民族が朝鮮半島から移住した当時、すでに中国・朝鮮は周・秦・漢・三国・唐などの封建的王朝支配が確立していて、唐代に道教として体系化される土俗信仰も、それらの王朝の庇護を受けて一定の様式で確立していたにちがいない。

 それらの文化の影響下にあった移住者たちは、日本海を渡る海運能力も含めて、分業社会組織による国家主義観念をもち、漢字による言語文化、祭礼宗教文化などを成立させていたであろう。それは、最初から儒教・道教のイデオロギーに影響された高度に組織的、観念的なものであったと考えられよう。

 日本先住民の縄文人は、その当時、国家主義観念を成立させるほど成熟しておらず、原始共産主義に近い母系氏族社会を形成していたと考えられ、つまり、共同幻想としての自分達の帰属する国という観念はなく、あえて帰属を意識するとすれば、自分達の集落単位のグループ程度ではなかったか。

 したがって、彼らの世界観は、アイヌ民族がそうであるように、断じて私物化されざる母なる大地と、「ウタリ」すなわち仲間達がすべてであって、権力を必要とせず、したがって共同幻想たる絶対神も必要としなかったのである。

 ゆえに、生産・戦闘などの民族的能力で、農耕によって集団力を鍛えあげられた弥生人には及びもつかず、最初に弥生人、後には騎馬民族の侵略にあっけなく山奥に追い散らされていったにちがいない。

 その一部は農耕文化を受け入れ、弥生人(倭族)の国家社会に帰属していったであろうが、弥生人権力社会に隷属するのを潔ぎよしとしない誇り高き部族は、主に中部・東北の山岳地帯に拠点を構え、蝦夷(えみし)と呼ばれ、弥生人の国家に強力に対抗した。
絶対神すぐれて絶対権力をもちこんだ渡来人と、私物観念のない、したがって権力を必要としない縄文人は、決して相いれぬものだったのである。

 彼らが国家権力に屈服するのは、騎馬民族、大和朝廷国家が幾多の内紛を経て強力に成立し、鎌倉幕府の武家戦闘集団の出現まで待たねばならない。さらには、元の侵略によって極度に強靭化された武装権力の出現によって、鎮圧されたのであるが、蝦夷のうちのアイヌ族は、北海道に逃れ、江戸時代初期まで独立した強力な氏族社会をつくっていた。

 弥生人部族国家は、騎馬民族の流入とともに彼らの支配下に入り、そのうちの最強の王が朝廷の大君という地位を確立し、9世紀には天皇を名乗るようになり、日本(南西部)の支配権力として揺るぎのない地位を確立し、大和朝廷として独立国家権力を成立させることになる。以降、彼らは、今日まで一貫して日本の支配階級として君臨するのである。

 彼らは、中国王朝との国交樹立に際し、属国ではない独自性を主張するために、性急に史書(古事記・日本書紀)を編纂し、史書の内容に合わせて記録を改ざん破棄した。(神皇正統記に記述されている)また、朝鮮からもちこんだ道教的土俗信仰を記紀にミックスさせて独自の宗教を成立させ、これが神道と呼ばれるようになる。


 道教

 騎馬民族の権力信仰の象徴とでもいうべきものは、古墳であった。古墳は、強大な国家権力の成立にともなって、道教の山岳信仰がもちこまれたものと思われ、朝鮮・中国の倭族の影響下にあった地域にも多く残されている。

 その意味は、道教が山岳修行によって不老不死の永遠の生命と超能力を獲得すること、つまり普通の人間の超人化を目的とするものであったことから、死んだ権力者を古墳という人工山岳に移して葬ることにより、甦りを期待するものであっただろう。

 あるいは、断片的に中国に伝えられていた仏教の転生輪廻の思想もミックスされていたかもしれない。いずれにせよ、古墳に葬られた王は、再び王として甦ることができると考えられたにちがいない。

 このような、権力者の遺骸を巨大構造物に保存して再生を願うという信仰は、エジプト・ピラミッド文明やメソポタミア文明、インカやアステカなどの古代文明にも一様に見られる。
 中国における道教の再生思想も、死者に赤い衣を着せ(赤は甦りを意味した)、防腐剤として朱砂(水銀)で覆い巨大墳墓に葬った。ただし、広大な平野を舞台とした王朝に、山岳墳墓の発想はない。

 日本で、還暦を迎えた老人に、赤いチャンチャンコを着せて祝う風習は道教のものだし、還暦そのものも、道教の形而上学である陰陽五行説によるものである。また、埴輪・絵馬・人形(テルテルボウズなど)・鬼・龍・化物などの形而的信仰も道教によってもたらされた。

 さらに、神道伝承の舞台が高千穂のように山岳地帯であるのも、道教の発想といえよう。神道自体、道教を原型としていることが明らかだが、道教文化のなごりは、日本の民衆生活のいたるところに広がっているのである。

 道教は権力史にも大きな影響を残している。例えば「天皇」という呼称は、8世紀末の中国派遣使節によって、道教の神である「天皇大帝」が持ちこまれたものであり、それは、天界の星座のうちで唯一不動の中心である北極星を意味するものであった。

 それまで、天皇は「大君」と呼ばれていた。また、三種の神器も、道教の護璽器であった鏡と剣に玉を加えたものである。
 道教は、中国使節によって何度も日本に持ちこまれたと思われるが、体系として日本には定着しなかった。

 それは、おそらく同時期に仏教(密教)がはるかに魅力的な体系として輸入されていたことに加えて、中国支配階級のイデオロギーであった道教を日本で普及させれば、最高位の神が中国に存在し、したがって日本の最高支配者も中国の皇帝であることにされてしまうのを恐れ、抑圧したのではないかと思われる。

 道教の本質を端的にいえば、普通の人間が山岳地帯で修行することによって超人的な仙人になり、不老不死の生命を得て、呪術によって人々を救うというものである。

 これが他の大宗教と異なるのは、神になるのは普通の人間であって、キリスト教のゴッドのような絶対的存在が想定されていないという点である。(最高神に近いものも想定されてはいるが、極めて多様で不安定である。)

 これには、明らかに当時中国に伝えられ、独自の進化を遂げた密教の影響が含まれているように思える。
 密教は大乗仏教の中の一宗派という考え方が常識的だが、本来の意味を考えれば、私は容認できない。

 大乗の本質を「利他行」と捉えるなら、密教は必ずしも利他の教えに沿っていない。むしろ、特定の集団や個人の異能を開発するという意味で小乗に近いものであるような気がする。

 釈迦の唱えたような大乗仏教の哲学規範による民衆全体の救済志向(顕教)とは異なり、修行者個人の超人化に主点をおく密教の思想が道士・道術の発想に色濃く現れている。

 紀元前後の中国思想形成期には、密・儒・道が相互に不可分の影響を与えあったと見るべきであろう。

 道教の呪術(道術)にともなう護摩行も、密教と同様、オリエント文明のゾロアスター教(拝火教)の護摩焚きがシルクロードによって伝えられたものであると考えられる。
 つまり、道教や密教もまた、シルクロードの交易のなかで、多様な思想が混ざりあったるつぼのうちに結晶したものであるといえよう。

 道教は、中国に古くから伝承された自然発生的な土俗宗教である易経・陰陽道・五斗米道・太平道などが、3世紀頃に「道蔵」として体系化され、当時の中国支配階級の庇護を得て体系的宗教として成立した。

 老子は、孔子らの儒学への批判のうえに道学を構築したともいわれるが、その形而上学は、儒教と同じく弁証法的な事物現象の陰陽二元論と、当時発見されていた五つの惑星の運行に帰納する「陰陽五行説」であった。
 その不老不死願望は、漢方医療の源流となり東洋医学の基礎をかたちづくった。始皇帝に派遣された徐福や華陀の伝説にもそれを知ることができる。


  ゾロアスター教

 道教や、同時期に中国で体系化された密教に見られる拝火思想は、オリエント文明の古代ペルシャ(イラン)に、紀元前5世紀頃に成立したゾロアスター教の影響を濃厚に受けている。

 ゾロアスター(ザラスシュトラ)の説いた宗旨は、世界には善なる光の神アフラ・マヅダと、暗黒の悪の神アーリマンが存在し、絶えず争いを繰り返しているとする単純明快な二元神論である。光の神を信じ善行を重ねれば天国に導かれ、暗黒のうちに悪行を行えば地獄に落とされるという。

 したがって、ゾロアスターの宗徒は闇を恐怖し、光を求めて絶えず火を焚くことになる。つまり、拝火教といえる。あるいは、ゾロアスター宗徒の焚火による森林破壊が、メソポタミア地方の砂漠化に関与していたかもしれない。

 人類最古のメソポタミア文明が成立した頃、西域には非常な数の猛獣が徘徊していた。当時、欧州やインドまでもライオンやハイエナの王国だったようだ。それどころか、史上最凶暴の猛獣であった剣歯虎さえも、最後の生き残りの遺骸がこの時代の地層から発見されている。

 それらが闇に出没して人々を襲い続けたにちがいなく、民衆は防衛のために火を焚き続けなければならなかったであろう。その習慣が、やがて拝火思想となっていったと思われる。

 これがシルクロードによって中国に伝えられると、道教・密教の護摩焚行になり、さらに日本の修験道にも取り入れられるのである。

 アフラ・マズダを崇拝する儀式には、牛を犠牲として捧げ、ハオマ酒を供える。ハオマ酒には麻薬成分が含まれている。それはデューラ・ウシャと呼ばれ、その意味は「遠くを見させるもの」、つまり幻覚陶酔作用を示しているとされる。

 ゾロアスターの宗派に「アサシン」という教団がある。これは暗殺を専門にする教団で、ハオマ酒に耽溺した者を刺客にしたてた。つまり、麻薬の力によって暗殺者をつくったのである。
 この教団の名が、暗殺(アサシネーション)の語源となった。また、不思議な術を用いるアサシンの司祭をマギと呼び、マジックの語源となった。

 アサシン教団は、現在でもイランに存在しているといわれる。先頃、ホメイニによって暗殺宣告された作者による「悪魔の詩」の翻訳者であった筑波大学助教授が、アサシンの伝統的な暗殺手法である「ナイフによる頚動脈切断」にのっとって首を切られて殺されたが、これには明らかにアサシンの影が見え隠れして不気味である。日本には、大勢のイラン人が流れこんできている。

 松本清張は、現代に生き残るゾロアスター宗徒の儀式に立ち会い、司祭のつくったハオマ酒を飲んだ。それにはアルコール分は含まれず、赤っぽい茎をつぶした汁が主剤だったという。原料を問うと、司祭は「フーム」と答えたが、それがなんであるのかは教えなかった。

 ハオマ酒の原料については諸説あり、ザクロの根とする説が一般的だが、耽溺性の説明にはなりにくい。耽溺性麻薬の原料は当然ケシであり、ついでコカがあるが、コカは南米原産で、この時代イランにあったとは考えにくい。もうひとつ、漢方の葛根湯に処方されるマオウがある。この主成分はエフェドリンだが、これを覚醒剤メタンフェタミンに変えるのは容易である。

 ザクロは中近東原産で、その根は漢方で石榴皮と呼ぶ生薬である。主に寄生虫の駆除に使用するが、古代では極めて重要な薬だっただろう。ただし、毒性の副作用があるという。あるいは、幻覚作用も含むのかもしれない。

 古代ガンジス文明の、アーリアン教の聖典「ヴェーダ」に登場するソーマ酒も、ハオマ酒と同じものだとする説がある。ソーマ酒の原料についても諸説あるが、ベニテングタケ(幻覚成分ムスカリンを含む)、あるいはインド大麻とするのが有力だが、おそらくはケシを含む複合的な幻覚麻薬剤ではなかっただろうか。

 これらがシルクロードによって東方に伝えられ、道教・密教・修験道の護摩行のうちに陶酔性薬物が使用されるようになった。シャーマニズムには、薬物による陶酔が不可欠なのかもしれない。


 神道

 5世紀頃、仏教が日本に渡来すると、すでに一定の様式が成立していたいた道教的な稲作信仰儀礼と融合しながら修験道の原型となった山岳宗教が発生する。

 持ちこまれた仏教は、釈迦の哲学の普及による民衆救済をめざした大乗仏教(顕教)の法華経典だったと思われるが、実際の解釈は、すでに中国において主流を占めていた自己修行に重きをおく密教であっただろう。

 小乗とは乗り物が小さいという意味での大乗側からの蔑称であるともいわれる。
 本来、密教は大乗仏教のなかの宗派であるが、その内容は極めて小乗的、閉鎖的なものであって、本来の、あらゆる輪廻転生を容認し、利他思想を根源とする大乗仏教とは言い難い。

 密教側でも、それ以前の大乗小乗の枠を超えた第三の教えであると称するようになり、いわゆる大乗としての密教という概念は、おそらく誤りであろう。

 日本では、鎌倉時代に顕教が大衆化されるまで、仏教といえば密教であり、空海がその体系を輸入するまでは雑部密教と呼ばれ、呪術による現生利益を求めるという点で、本質的に道教と変わることのない土俗的なものであった。

 密教の特徴は、曼陀羅に見られるように非常に多数の仏が存在し、自分に縁をもった仏の元に修行して即身成仏するというものだが、本来、釈迦の説いた教義には四天王など多数の仏は存在せず、また伽藍儀式や偶像仏崇拝とも無縁であった。

 四天王や阿弥陀などは、もともと中央アジアの土俗信仰であり、それが中国の事大主義によって仏教を修飾し、道教の土俗的な神々とも結びついて権威主義的な密教の体系に変わっていったのである。

 輸入された仏教は朝廷権力と結びつき、百済人であった蘇我氏や聖徳太子の一族の強力な支援を受けて事実上国教となり、飛鳥・天平文化のうちに大きな華を咲かせるが、古墳時代後期から朝鮮渡来人によって形成されていた大和朝廷は、仏教などの中国文化の輸入にともなって、中国王朝、とりわけ強大な中央集権国家主義を確立した唐の領土拡大主義の圧迫に苦しまねばならなかった。
 
 中国王朝は唯一最高の支配権力であることを欲し、朝鮮などの近隣諸国を属国と見なしていた。したがって渡来人による大和王朝も中国の属国ということになり、それが侵略の口実にされる恐れがあった。
 だから大和朝廷は、中国との国交を開くなかで、中国に対して独自の歴史をもった由緒ある独立国であることを示さねばならなかったのではないか。

 7世紀から8世紀にかけて、朝廷はあわてて独自の歴史を示す史書(古事記・日本書紀)の編纂を強引に行い、遣唐使によって中国に送った。都合の悪い、天皇家の朝鮮渡来の事実関係を隠ぺいする作業も行った。

 さらに、中国の侵略に備えて国力を充実させ、それを示威するために、日本中北部の蝦夷(えみし)も平定し、領民として税を収奪する必要に迫られた。

 宗教についても、大和朝廷の正当性を主張するために、当時独自の発展を遂げつつあった密教に古事記などの史書との整合性を求め、弥生時代から伝えられてきた土俗的信仰を基盤として、中国文化から独立した権威ある新教をつくりだす必要があった。

 9世紀、天台宗は山王一実神道をつくりだし、真言宗は両部神道をつくりだした。神道における神々は、大日如来以下の諸仏が姿を変えて(権現として)現れたものにされた。これを本地垂邇説といい、仏教系神道の本質をなしている。
 ここに、道教の濃厚な影響下で稲作農耕にまつわる水分(みくまり)などの土俗的農耕儀礼を発展させた信仰に、はじめて「神道」という名が与えられることになった。
 ゆえに、神道の原点は稲作祭礼であるが、宗教となったはじまりは、神仏を同じとした権現信仰であった。神道は仏教によって形造られ包摂された。

 これらが仏教と一線を画した独立した宗教体系として成立したのは鎌倉時代の伊勢度会(わたらい)神道とされるが、実際に今日見られるように仏教から独立した神社神道が確立したのは、明治政府による作為的な国家神道の強制によるものであった。

 明治政府は、江戸時代、武家支配権力に苦しんだ被支配階層から登場した、本居宣長・平田篤胤らの尊皇復古思想を、維新による激動のなかで政権安定の基盤に利用しようとした。

 それは、欧米列強に対抗するための強大な国家主義を確立するために天皇信仰を利用したのであって、天皇制を神格化し、宗教イデオロギーによる日本統一を図ろうとしたものであっただろう。

 その目的のために、古来からの神道である神仏習合の権現信仰を破壊し、仏教を堕しめて神道を独立純粋化し、天皇制を唯一至高の価値として最高位に位置づけ正当化しようとしたのである。

 明治初期、平田国学徒による排仏棄釈の嵐はすさまじいもので、苗木藩(岐阜県中津川市)や石川県白峰地方のように、再建が絶望視されるほど藩内の寺院をすべて破壊し尽くしたところさえあった。

 また、冨士講のように、修験道でありながら宗派対立のために平田派にくみして習合神道を敵対視するようになった宗派もあった。純粋神道と唱えてきた伊勢度会派や吉田派神道も、情勢に便乗して仏教破壊に走った。

 習合神道を代表した修験道は、天皇の権威に敵対する邪教として憎まれ、その活動を禁止された。それらが、実体上復活できたのは、天皇が神の地位を滑り落ちた戦後のことである

 歴史上、神道を最初に確立したのは密教系の仏教宗派であったが、仏教は民衆の平和を願うものであり、戦争を正当化できる思想ではない。

 ところが、古代権力の確立したこの時代、国家主義あるいは覇権主義の目的で、中部東北の縄文人の末裔を征服するために戦闘的なイデオロギーが要求され、かつ中央集権権力の正当化のために、唯一の絶対神を必要としたと思われる。

 そこで、戦争と民衆管理に必要な「神」の思想が生みだされたと考えるのは不自然ではない。「神」は、いつでも、どんなときでも、戦いと管理のために生まれるのである。

 かつて両部神道の影を色濃く残した天台密教=比叡山も、戦前、国家主義に迎合して戦争を翼賛して大失敗したのに懲りず、再び、今、戦争推進の日本会議に加わっているのも、その例というべきだろう。

 神道には体系的教典がないが、あえて原典というなら、それは8世紀に編纂された紀記である。これは、中国に対して天皇家の独自性・正当性を主張するための史書であり、都合の悪い事実はすべて切り捨てられ、王権の元祖を紀元前6世紀におくなど、相当部分がひどく捏造されたものであった。

 いずれにせよ、記紀の虚構から神道の枝葉が伸びていった。しかし、実体として神道が成立するのは平安時代の山王・両部(習合)神道であり、体系化するのは鎌倉時代の度会神道である。今日見られる神社神道は、室町時代の吉田神道によって築かれた。

 平安時代に、延喜式という政道百科事典がつくられ、神社の格式が定められたが、神社神道が明らかに成立したのはこの時代であって、それ以前のものには明確な根拠がない。しかも、そのほとんどは権現信仰にもとづくものであって、仏教に包摂され、仏教の下におかれたものであった。

 ただ、権現造りと呼ばれる神社も含めて、拝殿の建築様式は、米作農耕のために浸水しやすい湿地帯に住んだ弥生人の高床式住居を直接継承したものであって、イロリが掘れないために設けられたカマドや、副次的な食品のうちで大切な保存食であったスルメ・コンブなどが祭物として受け継がれているのは弥生文化の継承を示唆するもので興味深い。

 このことは、神社神道が弥生人の稲作農耕の生活に密着した風俗から発生した事実を示すものであって、必ずしも騎馬民族独自のものでないことを示すものである。さらに、仏教によって両部神道として権威化される以前には、渡来人の精神的支柱として、実体上大きな意味をもっていたことを窺わせるのである。

 すなわち、仏教(密教)系神道が成立する以前に存在した農耕儀礼こそ、疑いもなく弥生人の基幹宗教であって、本居宣長の考えた「古代神道」は、確かに存在したともいえよう。

  神道をイデオロギーの観点から見れば、権力の統治者はカミ(神・上・守)を称することによって、民衆の信仰心を利用して支配を企てようとしたと考えられる。
 このことは、好戦的な騎馬民族の末えいであった日本武士階級が、カミ(守)を称する風習を伝えていたことからも窺えるのである。
 神道の神は、道教と同じく人間の変化したものであった。例えば、天皇は人間のまま神であり、秀吉は死後明神となり、家康は死後権現となった。明治以降の戦争のなかでも、功績をあげたものはやたら軍神にされ、戦争で死んだ者を靖国神社に祭るといった発想も同じである。
 したがって、この思想は、支配階級が民衆を戦争に駆り立てるのに非常に役に立つものであった。
 「神が栄えれば仏は沈む」と書いた僧がいるが、まさしく妙理で、神道はいつでも戦争とともにあるのであって、神道の栄える時代は、すなわち争いの時代といえよう。
 修験道が密教によって誕生しながら、中世以降しだいに神道の要素が高まっていった理由は、山伏の軍事集団化と関係しているように思えるのである。


 役の行者 

 役の小角(えんのおづぬ)と呼ばれた、日本史上のもっとも魅力的な一人であるこの人物は、修験道の開祖と位置づけられている。

 小角が活躍したのは、紀元700年前後のことである。この当時の日本史の事情を見てみよう。
 7世紀、推古大君、聖徳太子をはじめ、飛鳥朝廷の大君以下の主要人物は、戦乱によって朝鮮を追われた百済出身者で占められていた。
 その故郷の任那(伽羅)も、この当時は倭国に含まれていた。というよりは、百済にあった王朝が、5世紀から6世紀にかけて海を渡って日本列島に引っ越してきたと考えるほうが合理的である。

 彼らの文化能力は、飛鳥文化に見られるように際だって優れたものであって、それ以前から部族抗争を繰り返してきた弥生人の部族を短期間のうちに統一したと思われる。
 620年前後、唐が勃興し、強力な中央集権国家主義が台頭すると、新羅は唐の支配下にはいり、しきりに倭の領土を纂奪しようとする。

 百済は、領土の多くを失い朝鮮の南端、伽羅に押しこめられたが、645年の内乱(大化の改新)と蝦夷平定戦争によって弱体化した倭王朝を見て、660年、新羅は大挙して伽羅に攻め入った。

 中大兄皇子(天智大君)は兵を伽羅に送ったが、白村江で大敗を喫し、とうとう倭国は父祖の地から追われてしまった。百済に残っていた倭人は日本に渡った。以降、倭寇や秀吉の侵略にも耐え、昭和初期の日本軍部による帝国主義侵略まで、朝鮮は外見上、独立を保つことになる。

 同じ時期、おそらく百済人に似た理由で、高松塚古墳に見られるように高句麗文化を身につけた人々も、多く日本に渡来してきたにちがいない。それに騎馬戦闘文化をもたらした人々も含まれていたことは、後期古墳の出土品から明らかである。

 彼らは、いずれも高度な文化人であって、支配階級に融合してゆく。
 この時代の権力者にとって、人としての認識に堪える者は、中国の先進文化を身につけ、高度な生産能力を持った者に限られたであろうことは、後の律令体制における差別体系によっても明らかである。したがって、朝廷権力にとって、人とは渡来人のことであったに違いない。

 672年には、大海人と大友の争いによる壬申の乱が起きる。大海人(天武)は天智の弟だが、王位を弟が嗣ぐ風習をはじめ、この当時の権力構造は、中央アジア騎馬民族の習慣が直接受け継がれていることに注目しておきたい。

 700年頃には、律令制度が発足し、公地公民制による口分田・班田収受法などが施行される。
 これは唐の律令を手本にしたものだが、まことに日本的に不徹底で非現実的なものであったため、民衆の逃散が多く、後には豪族の出現を招き、天皇王政崩壊の直接原因になった。

 710年には、奈良に都が置かれ、唐の長安にならった平城京が成立する。712年には古事記がつくられ、720年には日本書紀がつくられた。

 740年には、国分寺が制定され、東大寺・薬師寺の建立がはじまった。天平文化が頂点を迎えるのである。
 この前後の100年ほどは、日本史の、すさまじいばかりの黎明期であって、時代の進展速度は今日でさえ及びもつかない。

 「続日本紀」西暦699年、5月24日の項に、役の小角が登場する。その記述は、「日本霊異記」など他の文書と同じく畏敬に満ちたものである。

 これらに見える小角の姿は、超絶的な超能力者である。小角は、大和葛城茅原に棲む優婆塞(うばそく)と呼ばれる私度僧であった。

 藤の皮を身につけ、花汁をすすって30年の間、孔雀明王の呪をとなえて修行し、鬼神(この当時の鬼とは、大和・熊野山中に棲む非弥生人のうちで、戦闘的な部族を指したと思われる)を使役し、空中を飛行し、対した者を呪縛してみせた。
 (孔雀明王とは、雑密曼陀羅の仏で、孔雀が悪喰で毒蛇や蠍を食っても平気なことから、悪を消化する仏にされ、密教を代表したが、もともとは中央アジアの土俗信仰に含まれる。)

 その能力のすさまじさのゆえに、渡来人の呪術者であった一言主(韓国連広足)に讒訴され、伊豆に流される。
 朝廷は、どうしても小角を捕らえられず、母を捕らえて小角を縛るのである。伊豆では、毎夜富士山に飛行して修行したとされる。

 大峰の「金峰山本縁起」には、伊豆から帰った小角は、母を伴って唐に渡り道士(道教僧)となり、唐四十仙中、第三座の仙人とされ、鬼神を使役したと記されている。
 遣唐使の道昭という僧が新羅の山寺で法華経を講じたときに、質問した道士が日本語を使ったので不思議に思って尋ねると、「自分は役の小角である」と言ったという。

 この伝承は、修験道の正体について、端的な回答を与えているように思える。これは、山岳信仰・呪術(超能力修行)・護摩行など主要なファクターで共通する道教に、紛れもなく一致するものなのである。

平安末期、小角の伝承は修飾され、修験道の開祖として同時代の行基と同様、誇張を交えて伝説化されることになる。

 上記の「金峰山縁起」もそのひとつであるが、大峰山に依った密教修行僧たちは、修行の具体的なモデルとしての役の行者像を成立させるのである。
 飛鳥時代、仏教が国教化される過程で、百済人によって占められた官人は朝廷によって建設された官寺に修行する僧を厳選し、今日の大蔵省官僚でも及びもつかないほどの権威を与えた。

 これらの官僧になれる者は渡来人系のエリートに限られ、仏教を信仰し修行しようとした一般民衆は私度僧になるしかなかった。
 当時、文字を解する者は希だったはずだから、一般民衆といっても実際には、言語文化に触れる機会を得た上流階級の子弟であっただろう。

 官寺は彼らの受け入れを認めず、当時輸入されていた雑密と道教の断片的な知識を依りどころにした求法者たちは、険しい山岳地帯に篭もって道教の符呪や密教の陀羅尼の呪や、小角のように孔雀明王の呪を唱え、念力を磨いていたのである。

 後に、この時期に中国で不空三蔵や恵果らが体系化した密教を、完全な形で日本に持ち帰った大天才の空海でさえ、若き日は雑密修験者として山岳地帯で求法修行し、呪を唱えて歩いた。

 空海ほどの人物でも、遣唐使に僧として加わることは許されなかった。彼が帰国後、不動の地位を占めるのは、中国最新の流行文化であった密教体系の輸入という実績が評価されただけにすぎない。

 輸入された密教体系が朝廷によって評価されるとともに、それは再びエリート官僧によって独占されるものとなり、私度僧は、あいかわらず雑密の断片的な知識をもとにした修行に終始した。

 官僧以外の求法私度僧は、国家権力に厭われることはあっても評価されることはなく、したがって重く用いられることもなく、その存在理由は、呪術による民衆の具体的な(たとえば、病気治療などの)救済による自己満足と名声の流布しかありえず、自らの依拠する権威を自ら構築するしかなかった。

 このような修行僧には依拠すべき体系規範がなかったから、当時評判を得ていた役の行者の伝説をモデルにするのがてっとりばやかった。つまり、修行僧は、教義理論ではなく役の行者の名声をめざしたのである。

 山岳地帯での呪術修行を好んだ雑密僧のうちから、やがて密教や密教系神道を基盤にした独自の宗風が生じ、それに修験道という名が与えられてからも、官によるエリート理論に無縁だった彼らには、教義としての理論的な体系はつくられたことがなく、また必要とせず、役の行者の行風をモデルにした土俗的、習慣的な修行スタイルが続いたと思われる。

 いいかえるなら、官による東大寺、薬師寺、あるいは比叡山、高野山を仏教の表街道とするならば、修験道は、まさしく裏街道をゆくものであった。
 しかし、それは権力権威による評価と無縁だったという意味で、それらの呪縛から解放され、真に民衆の具体的な救済に威力を発揮しただろうと思われるのである。

 もう少し、モデルにされた役の行者像を見てみよう。
 役の行者の伝説は、小角が大峰で修行するうちに(本当は葛木の修行者だったが)、修験道の本尊である金剛蔵王権現を感得したとされる。

 それは不動明王に近いがそれよりも激しく、その本地仏は大日如来である。その激しい怒りの形相は、修験道の修行の苛酷なエネルギーに対応するものであった。いったい、何に対する怒りなのか。なにゆえの修行なのか。

 山岳は縄文人の舞台であった。
 当時、九州の縄文人系土民(海洋族)であったクマソや隼人族は弥生人権力に対して反乱を繰り返し、ようやく平定された時期であったが、紀州大和の非弥生人系の土民も熊野山岳にいたらしい。

(縄文人は黒潮に乗って南からやってきたのであるから、薩摩、土佐、南紀、房総などには、縄文人が最も早くから棲みついていたはずである。しかし、紀州には、徐福やユダヤの伝説もあって、簡単に縄文人と決めつけられない。)

 また、九州から奴隷として連行された土蜘蛛とよばれる種族もいたらしい。初期渡来人であった大国主らに追われた出雲原住民(サンカか?)もいた。

  小角は、葛木の非弥生人に生まれたのかもしれない。(黒岩重吾もその説をとっているが、出自とされる賀茂氏は渡来人系である)とすれば、山岳の激しい修行も、金剛蔵王権現の怒りも、弥生時代後期から、弥生人権力に奴隷として使役され、古墳造営の苦役に苦しんだ非弥生人系の民衆の怒りを代弁する行者の姿勢として読み取れるのである。
 すなわち、小角の修験道は、反権力の砦をめざしたのではなかったか。

 このことは、後の修験道が南西地方よりも、むしろ蝦夷の拠点であった出羽地方を中心に大いに勢力を広げたことにも窺えるような気がする。
 いずれにせよ、弥生人圏の宇佐八幡や山陰大山・大峰でも、修験道は弥生人の居住地域の湿原平野には無縁であり、したがって弥生人文化と修験道文化は相入れないものである。

 大和朝廷に隷属馴致されるのを拒否する者は山岳に逃げるしかなく、そこには弥生人による苦役から逃れようとした非弥生人の民衆が存在し、修験者がその人々となんらかの形で結びついていたのは明らかである。だが、現段階では、このあたりの事情は謎に包まれている。

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