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美杉村の坂下晴彦さんを訪ねて

カテゴリ : 無題

美杉村の坂下さんを訪ねて(1999年著→2017年改訂)

 98年暮れも迫った12月18日の夜、私は美杉村伊勢奥津に隠棲する旧知の坂下晴彦さんを訪ねた。

 美杉村は三重県一志郡の山奥の村(2006年から津市に編入)で、津市や名張市・松坂市などから車で1時間以上かかる僻村なのだが、ローカル鉄道があるので近隣の同条件の村よりは恵まれているかもしれない。

 名前の通り、全村が1000m前後の山また山、植林・杉林が多く、花粉症の方には身の毛もよだつほど恐ろしい地域でもある。

 坂下さんの両親はもともと美杉村出身で、後に四日市市に出て、そこで育った。
 一家を構えてからは津市に居住したのだが、故あって夫婦離別した後、ふるさと美杉村に骨を埋める決心をし、故郷の集落に近い奥津の小さな空き家を借りて独りで住んでいる。

 二人の息子も独立して外国や地方に住んでいて、滅多に人が訪ねてこないのを私は知っているので、標準米を10キロと、少しの味噌と、野菜や牛肉を手土産に持っていった。

 独り暮らしは自堕落になりやすい。何事も面倒くさくなり、ろくに掃除もせず、あげくゴミのなかに棲息する風になりやすい。
 私自身がそうだからよく分かる。だから、たまに訪ねる客人が生活態度を立て直す良い刺激になるのである。

 風情のある竹林に囲まれた古い小さな借家は、美しく澄み切った雲津川に沿って、名張に向かおうとして果たせなかった名松線の終点、伊勢奥津駅の近くにあり、川沿いの借家の対岸にその線路がある。
 県道はバイパスが開通しているので、借家前の狭い旧道は昔と違って車もほとんど通らず、凍り付いたような静けさに満ちている。

 新月の夜、名古屋から車を飛ばし、ダンプの行き交う狭い街道を4時間かかって奥津にたどり着いた。
 借家の隣の空き地に車を停めてライトを消すと、周りは暗黒で何も見えない。
 本当に何も見えない漆黒の闇なのだ。見えるのはネオンと見まごうばかりの絢爛たる天の川ばかり。

「これは困った」と思っていると、玄関を開ける軋んだ音がして灯りが漏れた。

 「ひさしぶり、元気でしたか」

 と、明るい嬉しそうな声がした。いつもの優しい声だ。

 「今日は、少しばかりの手土産を持ってきました、上等ではありませんが」

 「気を使わないでください。お風呂沸いてますからね」

 重い土産荷物を坂下さんに持たせて、珍しく表玄関から中に入ったが、戸が閉まらなくて閉口した。坂下さんが閉めると抵抗なく閉まった。

 築後100年以上経つ古い家の天井は低く、170センチくらいしかない。
 今時の大柄な青年なら、決まって鴨居に頭をぶつけるだろう。
 建築当時の、この地方の人々の背丈が伺い知れようというものだ。

 旧陸軍の徴兵官は、集められた青年たちの背丈や肉付きを見ただけで、彼が海辺の出身か山奥の出身かを間違いなく見分けられたそうである。

 海辺はタンパク質の豊富な食生活に恵まれ、地引網や漁船漕ぎなど力仕事が多いことから筋骨隆々の大柄な青年になる。
 対して山奥育ちの若者たちはタンパク質の食生活に恵まれず、全体に小柄だが敏捷な者が多い。
 農村部育ちは、豊富な食料があって体格も悪くないが、漁師町の若者ほどの引き締まった剛毅な体躯はなく、敏捷でもない。

 美杉の人たちは、知る限りでは大柄な者は滅多に見ない。奈良県に近い山奥の村の食糧事情がうかがい知れようというものだ。

 通り一遍の挨拶は抜きにして、「飲むでしょ、先にお風呂入ってよ」と坂下さん。

 「こちらこそ気を使わせて申し訳ない、それじゃ遠慮なく」

 風呂場は台所の脇にある。裏口を出たところに風呂釜の焚き口があるのを私は知っている。
 坂下さんは、周りの竹林の廃材や段ボールで風呂を焚いている。
 風呂桶は昔懐かしい五右衛門風呂で、と書いても若い人は知らないだろうが、風呂桶が鉄でできていて、ちょうどドラム缶の下から火をくべるように沸かすのである。

 当然、そのまま入ったのでは足裏を火傷するから木製の床がついている。豊臣秀吉が石川五右衛門を鉄釜で煮殺した故事に因んで五右衛門風呂と名付けられているのである。
 たしか、東海道膝栗毛の弥次喜多道中にも出てたような気がするが。

 ここの風呂は見た目は普通の家庭風呂と変わらないが、四角の風呂桶の大部分はコンクリートで固められ、やっと一人が入れるほどの穴が開いていて、そこに鉄桶が填め込まれている。

 オーバーフローした湯は上部の枠内に納まる仕組みである。穴が小さいので、体重100キロを超える人は、まず入浴不可能であろう。
 坂下さんも小柄な人だが、この地方の昔の人は本当に小さかったのだと思う。ゆったりとした浴槽に慣れた都会の私たちは、誰も面食らっておちおち入浴していられないだろう。

 入浴後、坂下さんは野菜と牛肉で鍋物をつくってくれて、昔話に興じながら、私は持参の薩摩無双を湯で割ってグイグイとやりだした。
 坂下さんは井筒赤ワインだ。冬の鍋には湯割りの焼酎が似合う。気持ちの良い時間が過ぎてゆく。

 居間のガラス窓から、雲津川の土手に生えている竹林が、室内のわずかな灯りに照らし出されて見えている。川は急な土手を20m以上下ったところにあって、せせらぎの音もここまでは聞こえてこない。

 そのとき「ゴトゴト、ゴー」という大きな音が響きわたった。一日に何本しか通過しない名松線の電車が対岸の線路の、小さな橋を渡っているのである。

 「名松線の運行も、あとどれくらい続くだろうね」

 坂下さんは困った顔をした。
 旧国鉄の有名な赤字線であった名張松坂線も、今では第三セクターの運営となり、細々と生きながらえているが、この不景気で累積する赤字の始末が問題になれば、どうなるかわからない。

 名松線が廃止されるなら、この鉄道を頼りに生活を築いている美杉周辺の人々の暮らしが取り返しのつかないほど凋落することは間違いないのである。
 20年ほど前、全国的に地方バス便の合理化ブームがあって、その後、「地方」が激しく崩壊していったことを思い出した。

 美杉村の主要産業である林業も、輸出産業の利益と引き替えに政府が輸入譲歩を重ね続けているために農産物同様、衰退の一途だ。
 台風による風倒木の処分が追い打ちをかけている。政府は大企業の輸出利益のため、一次産業に依存する地方を円高によって売り渡したといえるだろう。
 (2012年頃から円安と外材の高騰から、再び国産材の需要が高まり、美杉地区も至る所で伐採が始まって、山肌はみるみる風通し良く禿げてしまっている。)

 坂下さんは、ここに移り住んで、すでに10年になる。もともと写植屋を開業していたが、コンピュータの発達で需要が激減し、それでは食えなくなった。
 しかし、最初のうちは村内に家庭教師などのアルバイトが結構あって、不自由ながらも最低限の収入はあった。だが、数年前から村の経済が急速に落ちこみ、今では坂下さんの生活を支えてきた細々とした仕事も消えてしまったのである。

 そうした事情が一度に浮かんできたのだろう。急に口数が少なくなった。

 私が、この日、坂下さんを訪ねた目的のひとつは、かつて押しつけた私の古いパソコンに高速のインターネット・モデムをつけてメールのやりとりをしようと考えていたのだが、表情を見ていて私はそれを止めることにした。

 インターネットも月々数千円以上の経費がかかる。今の状態では、これ以上無用の負担を押しつけることはできないと思った。

 その日、気持ちの良いほろ酔い気分で、夜遅くまで語り合った。世界情勢や経済の見通し、この地方の民俗に至るまで話題は尽きなかった。

 私は興奮して
 「いま、莫大な負債によって政府の信頼が揺らぎ、エンゲルスが指摘したように国家が死滅しようとしている。これからは地方と百姓の時代が復活するのだ!」

 と酔った勢いで力説すると、

 「そう思って美杉村に帰ってきたんだけど、早すぎたみたいですね」
 と寂しそうに答えた。

 坂下さんは3DKの借家の大部分が埋まるほどの蔵書を抱えている。何かの話題が出るたびに、その情報の含まれた書籍を出してくれた。蔵書の整理は行き届き、正確に引っぱり出すことができた。

 坂下晴彦さんは1937年生まれ、京都大学で全学連に加盟し、60年安保闘争に携わった。
 三重県庁に就職した後は、三重県内で四日市公害訴訟や芦浜原発反対運動をはじめ、さまざまの住民運動に携わってきた。

 私との縁は芦浜原発反対運動だった。
 70年代半ば、最初は、名古屋大学の河田昌東さんが創設した反原発キノコの会に参加しようとしたのだが、行ってみれば、エリート意識の強い参加者ばかりに、ひどい違和感があって、とても一緒にやれないと思った。

 (2017年注釈=河田さんも、当初は名古屋市科学館のウランイエローケーキの展示が危険だとして公開中止させるなど反原発市民運動の旗手といえる存在だったが、だんだん「科学産業」側の利権に沿った立場に変わっていった。
 放射線ゲノムの研究を始めると妊婦研究員を参加させ、通算5ミリ以下の被曝だったから安全と発言したことで、私は河田さんに対し一気に不審が高まった。
 被曝に閾値など存在しない。5ミリを被曝した胎児には大きなリスクが発生することを知っていたからだ)

 各地の反原発運動の場で知り合った坂下さんは、いつでも心優しい誠実な人で、この人となら一緒にやってゆけると思ったのだ。
 そこで私は反原発運動への意欲を、彼が主導していた芦浜原発反対運動に傾注することにした。

 毎週のように芦浜原発予定地の紀勢町錦に通い、一緒にビラを投函しつづけた。

 坂下さんと、妻になった栄さんとの出会いも、市民運動だった。

 四日市公害訴訟などの運動のなかで、合成洗剤シャンプーの毒性に気づいて警鐘を鳴らそうとしていた三重大学医学部教員の栄さんと知り合い、結婚された。

 正義感に溢れ、誠実で親切な人柄は誰からも好かれ、坂下さんの存在が、この地方の反権力運動を行う人々にとって、どれほど心の支えになってきただろう。誰に対しても優しく、私利私欲のカケラもない人物である。

 「いくつになったんですか? もう知り合って20年以上になるけど、最初見たときと印象が全然変わらないですね、頭に白髪も出ないし、苦労が足らないんと違いますか」

 「私は、もう61歳ですよ。最近ね、やっと白髪が出てきたんですよ、ほら、これ見て」

 「ダメだね、それじゃ苦労色じゃないね。年相応に白く染めたらどうですか」

 坂下さんは私のために、布団乾燥機で寝床を暖かくしてくれた。やがて夜も更け、私たちは深い眠りについた。寒い田舎の一軒家だが、狭い部屋で二人で寝ると、とても暖かく過ごせる。

 翌朝、突然、バイオリンの美しい音色で目が覚めた。ブラームスだっただろうか。目覚まし代わりにCDをセットしてあるのだ。

 窓の外に、深い森のなかの爽やかで神々しい朝日が煌めいている。
 竹林の鮮やかな黄緑が朝日に透き通り、かぐわしい緑の香りが立ちこめているような気がする。
 坂下さんは、こんなすばらしい朝日のなかに棲んでいるのだと、ひどく羨ましく思った。

 坂下さんはとっくに起きて、私のためにパンを焼き、コーヒーを入れてくれた。昨日の夕刊と一緒に配達された朝刊を見ながら、コーヒーの深い香りに酔った。
 ここは水がすばらしく良いので、コーヒーも茶も、とても美味しい。

 外は朝日に輝く峰々が美しく、とても気持ちよかったが、私の車の窓ガラスは厚い霜にびっしりと覆われていた。しばらくエンジンをかけ放しでガラスを暖めないと出て行くこともできない。

 坂下さんの20万キロ近く走った軽バンも霜で真っ白になっている。軽自動車の維持経費は安いが寿命が短い。
 買い換えることができるだろうか。彼は、この車で芦浜に近い紀勢町の干物・鮮魚卸屋さんから仕入れて伊賀地方の反原発家庭に干物を配送しているが、利益がほとんど出ないボランティアになっている事情は、これを最初に始めた私がよく知っている。

 朝から、この地方の戦国領主である北畠氏などの話をはじめ、話題が尽きなかったが、窓ガラスの霜が解けた頃を見計らって、私は一宿のお礼を述べ辞することにした。

 「また、来てください。でも、本当に気を使わないでね」

 「いや、私が食い詰めて転がり込むときの布石なんですよ」

 いつもの暖かい表情で、いつまでも私の車を見送ってくれた。

 一志街道を走る帰路、心優しい坂下さんが夫婦別れした事情を考えていた。

 坂下さんたちが離婚したと聞いたとき、夫婦を知る誰もが、「あの夫婦が!」と絶句した。でも、私には思い当たることがあった。

 奥さんの坂下栄さんは、三重大医学部で検死解剖官として三重県下の不審遺体の解剖を一手に引き受けていた。
 合成洗剤に反対する市民運動の学者としても著名だったが、決して自分勝手な人ではない。
 やはり晴彦さん同様、優しく誠実な人だった。どこにも別れる理由などなかった。

 坂下さんの仕事先で、何か不倫的女性関係があったということを聞いたこともあるが、彼の性格を知る人なら誰でも笑い飛ばす程度のありふれたものだろうと思えたし、実際にそうだった。

 本当の原因は、もっと深いところにあると思えた。

 二人の仲を本当に引き裂いた、ある事件を私は思いだした。

 それは、とても人懐っこくて可愛い、真っ黒な飼犬クロのことだった。
 クロは高茶屋の坂下家に飼われて数年、飼い主に似て裏表のない素直な犬で、訪れる皆に可愛がられていた。ある日、クロに野良犬の恋人ができた。シロとしておこう。

 坂下夫婦はこのカップルを飼うことにした。クロとシロは優しい飼い主の元でのびのびと愛しあい妊娠した。

 しかし、坂下家では生まれる子犬達を育てて行く条件がなかった。引き取ってくれる家も簡単に見つかるとは思えなかったし、仕事が忙しくて駆け回る暇がなかったのだ。

 次第に腹の膨れるシロを見て夫婦は焦り、思いあまって辛い決断をした。彼らを、飼犬処分場に送ることにしたのである。

 クロとシロに別れを告げ、彼らを処分場に連れていった。彼の性格から考えて胸を引き裂かれるような思いだったにちがいない。

 坂下さんは泣きながら家に帰ってきた。取り返しのつかない罪を犯したのではないかと悔やみ続けた。以来、夫婦はめっきり言葉を交わさなくなった。

 この話を聞いたとき、私は「この夫婦は別れるのではないか」と漠然と予感した。

 愛してやまぬ飼犬を、自らの手で処分場に送った夫婦。どんなに合理的思考の持ち主であろうと、心の奥底に、取り返しのつかないほど、回復の見込みのたたないほど絶望的なダメージが生じたはずである。

 二人は、人生にとってもっとも大切な愛の世界に過ちを犯した。守るべき順位を見失ったのである。
 クロシロ夫婦を守るためには、迷惑にならない土地に引っ越したり、ペット団体に連絡して子犬の引き取りを依頼したりの努力をすべきだった。

 坂下夫婦には重苦しい厳冬がもたらされた。見えるもの、聞くもの、触れるものすべてが、自分を責めているように感じられ、そして他人を責めずにはいられなくなる。
 自分を愛せない人が、どうして人を愛することができるだろう。

 夫婦にとって、離別の表向きの理由は何でもよかったのだ。ただ、何かに憤懣をぶつけずにはいられなかった。

 孤独になって、時間をかけることだけが癒される唯一の道だった。

 それから10年、坂下さんにも深刻な老いが近づいてきた。妻であった栄さんも一人暮らしで埼玉に住んでいる。二人とも10年という静かな癒しの時を経て、元の優しく誠実な、落ち着いた人柄に戻っているのだが・・・・・・。

 2017年追記

 2007年の夏、突然、坂下さんから電話がかかってきた。

 「栄が死んだ」

 私は思わず絶句した。
 この年は比較的穏やかで、大きなニュースもない平和な夏が始まっていた。
 栄さんは埼玉の生協研究室に入ったという情報は得ていたが、その後、まったく連絡も途絶えていた。
 栄さんから預かったRDANというGMカウンターは信頼性が高く、これを使うたびに彼女のことを思い出していた。

 合成洗剤の毒性を初めて告発し、たくさんの著書を出版されていた栄さん。日本における市民運動の旗手として、これからも多くの活動を期待されていた。

 埼玉にいると聞いていたが、亡くなったのは大月市に借りていた自宅だった。

 すぐに、私は車に乗って大月に向かった。
 教えられた住所は、大月から奥多摩側に向かう国道を30分ほど走った場所だった。

 小さな家の中に葬儀祭具が並び、息子のアンリ君も来ていた。
 高茶屋にいたときに会ったときは彼は、まだ小学生だったが、いつのまにか立派なオッサンになっていた。
 もう一人の息子ルイ君は外国にいて来られないとのこと。
 遺体は、すでに通夜も済ませ、しかるべく手当されていたようだ。

 私は、玄関に入った瞬間に、家中に、何かもの凄い喜びの感情があることに気づいた。
 実は、私は若い頃、気功を修練した経験があって、その場に漂う気を感じ取る能力を身につけたのである。

 「この、強い喜びの気は栄さんのものですね」
 と私は言った。

 坂下さんも、何か嬉しそうな表情だった。
 みんなが一同に集まり、いまや霊となった栄さんが喜んでいることが、はっきりと分かった。

 もう、わだかまりもない。夫婦の愛情が、やっと元に収まったわけだ。

 その後、坂下さんとは、月に一回程度、メールのやりとりがあった。

 そして2011年3月の巨大震災と放射能事故。

 我々が40年以上前から危惧していた通りの事態が起こってしまった。
 芦浜原発は北川知事らの決断もあり、もはや建設は絶望的になっていたが、一番危ないと予想していた福島第一がやってしまった。
 ついでに言えば、30年も前から、もし原発が巨大事故をやるとすれば福島第一か若狭の美浜と我々の意見は一致していた。

 私は東日本大震災の発生を事前に予測していた。20代後半から始めた地震予知の研究も、地震雲などの宏観では結構なレベルに達したと自負していたが、2003年に移住した蛭川村の我が家は谷底にあり、周囲の宏観が、ほとんど観測できない場所にあって、予知制度は著しく低下した。

 それでも行徳データや、体感異常(巨大地震が近づくと夜中の2時頃に目が冴えて眠れなくなる現象が起きる=これを「丑三つ時の亡霊」と名付けていた)が続いていた。

 (なお、追記を書いてる2017年2月は、ずっと同じ現象があって、再び東日本震災の再来が近づいていると確信している)

 ネットでは私は、トンデモ、デマ人間と決めつけられ、私の予測を信用する者も滅多にいなかったが、私自身は確信があり、原発事故も起きるだろうと予想していたのである。

 坂下さんに何度も電話し相談したが、彼は、重い病に蝕まれ、すでに視力も失いかけていた。

この原発事故が日本の未来を暗黒に彩るであろうことは容易に想像できた。それを2010年から始めたツイッターで、連日連夜、大量に情報発信してきたが、私の主張を信用する者も多くなかった。

 10年前の坂下さんなら、私を励まし、一緒に大きな行動を起こしたことだろう。私の周囲にいた反原発活動家たちは、みんな疲れ切って、病に伏せる者も多かった。
 私自身も、2011年2月に凍結路でスリップし、肩を複雑骨折し、二度と回復せず、行動に大きな制約が生まれ、クライミングも不可能になった。

 それから、しばらく坂下さんからの連絡が途絶えた。
 噂では、病気治療のため名張市に移住されたとのことだった。

 2015年頃、ネットで検索していて坂下晴彦さんが死亡したとの情報を発見した。
 私には一切連絡がなく、正確な死亡日も原因も分からないままだ。

 あれほど三重県民への公害被害に憤り、巨大企業に人生をかけて圧力をかけ続け、人々の健康を守ろうとしてきた坂下夫妻の死は、ほとんど誰にも知られないまま、二人とも忘れ去られようとしている。

Appendix

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