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天皇の歴史  その4  騎馬民族がやってきた

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  江上波夫が1950年代に発表した「騎馬民族説」は、日本の歴史学会に大きな衝撃を与えた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC

 BC500年頃に、弥生時代が始まり、その本質ともいえる「米作農耕」による定住生活により、ヤマト王権が成立した。もちろん、わが邪馬台国も、その核心部分にいる。

 それから700年後、AD200~600年前後の古墳時代に、王権の古墳が劇的な変化を遂げた。卑弥呼の墓も含めて円墳だった様式が、方墳に変わるのである。
 もちろん、古墳だけでなく、あらゆる生活様式が大きな変貌を遂げる。

 そもそも米作農耕というのは、水に浸かって作業をするのだから、基本的に、裾からげ可能な着物=和服=呉服が適応する。ところが、AD300年前後、前方後円墳が各地に建設された頃から、いわゆる「洋服」に近い、ズボンと上着のセパレート衣類が登場してくる。これは騎馬民族のものだ。

 そもそも、ズボンとは何なのか? これは乗馬による激しいこすれから内股を守るために発明された乗馬ズボンなのである。後に袴に発展するのだが、これも騎馬文化の名残といえよう。
 聖徳太子の絵(今では別人にされている)でも、ズボンをはいてミズラを結う特徴的な姿が描かれている。

 ミズラも、乗馬の風による髪の乱れを防止するための結い方であることが明らかだ。
 米作農耕(水稲耕作)を、ズボンをはいて行ったのでは、たまったものではない。下に挙げた風俗図は米作農耕と完全に無関係な文化であることを意味している。

 また、米作農耕のなかで生まれる刃物は、稲や雑草を刈りやすいように、鎌のような形状をしているので、米作地で使われる戦闘用の武器も、世界的に円月形状をしているものが多い。
 ところが、騎馬民族が馬上で戦う場合は、切るよりも突き刺すことが有利になるため、槍のような形状か、長い直剣形状になってゆく。
 古代史に登場する刀剣類も、騎馬民族のものは直剣が多く、円形はほとんど見当たらない。

 江上波夫によれば、非常に多くの騎馬民俗文化が、この時代AD300年(4世紀)前後に、日本史に突然登場するのである。

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江上波夫は、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満洲の松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする

 この地域は、当時、高句麗と呼ばれ、一部は扶余と呼ばれた。現在でいう満州南部であり、哈爾浜を核としてヌルハチ・ホンタイジ・愛新覚羅氏の活躍した金・清朝の根源地であり、そこに生活した民族はツングース族であり、「女真」と呼ばれた。

 この民族が、匈奴や鮮卑などと異なるのは、モンゴル人のような草原に依存した遊牧生活を送るのではなく、豚を飼育しながら畑作農耕を営むという変形した騎馬民族であったことだ。
 それゆえ、他の騎馬民族が移動生活を強いられたのに対し、定住生活を営むことができた。

 しかし彼らは、漢族と争い、屈強な渤海エベンキ族と争い、辰国=秦国を名乗りながら南下して朝鮮半島に百済という国を成立させる。
 そうして、突然、AD300年頃に、日本史=日本書紀に登場するのである。

 [弓月君]

『日本書紀』によれば、応神天皇14年(AD284)年に弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
 弓月君は百二十県(20万人前後に相当)の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。

 しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。

 弓月君は、中央アジア、キルギスタン付近にあった弓月国を先祖地とし、始皇帝の秦が滅亡後、移動した人々によって建国されたと思われるがAD200年前後の建国後、80余年を経て、秦氏を名乗りながら高句麗(満州)に移動した。弓月国内部で何らかの戦乱が起きたと思われる。
 ここでは扶余という国を作っているが、一部は南下して百済を建国し、やがて唐・新羅連合軍に追われて(白村江の戦い)日本列島に流入した。

 [江上説]

 大陸東北部に半農の騎馬民族が発生し、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、任那と併せて「倭韓連合王国」的な国家を形作った。

 5世紀初めころに畿内の大阪平野に進出、巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立した。

 唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本が百済を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の古来からの伝統的王朝たるかのように主張し、そのように記紀を編纂した。

 『魏志倭人伝』には邪馬台国に「牛馬なし」と記されていた。
 古墳時代後期(5世紀、6世紀)になると、急に多数の馬の飼養が行われるようになり、馬の埋葬事例や埴輪の馬も見られる。
 これは馬だけが大陸から渡来したのではなく、騎馬を常用とした民族が馬を伴って大陸から渡来したと考えなければ不自然である。

 古墳時代前期(4世紀中頃まで)の古墳は、木棺または石棺を竪穴式石室に安置し、副葬品も、鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩の強いもので、魏志倭人伝の倭と類似する弥生時代以来のものであった。これに対して、後期(4世紀終わり頃から)の古墳は応神・仁徳陵で代表されるように壮大であり、石室は大陸系であることが明白な横穴式となり、副葬品も武器や馬具などの実用品に変わり、さらに男女や馬の形をした埴輪が加えられるようになるなど急激な変化が見られること。

 そして、古墳などの壁画や埴輪に描かれた服装や馬具、武器は、魏志倭人伝で描かれた邪馬台国(人は全身及び顔に入墨をした上に穴の開いた青い布を被っており、馬はいなかった)のそれとは全く異なり、大陸騎馬民族によってもたらされた朝鮮半島のそれ(白い服をまとい帯を締め、馬を操った)と同様、大陸騎馬民族の胡族のそれとほとんどまったく同類であること。

 高句麗語のなかで現在に伝わっている語彙が、古代の日本語と似ているとされていること。ただし高句麗語がどういうものであったかは明らかではない。

 高句麗好太王碑文からうかがわれるように、応神の時代には倭軍は朝鮮半島奥深く進出したこともあり、辰王朝の末裔を名乗る百済王家を援けている。このような遠征を農耕民族がすることはありえない。
 天皇家が任那を中心とした騎馬民族である辰王朝の末裔であるが故に戦乱に加わり、百済王家を援けたとみるのが自然であること。

 皇位継承は血統の原理によってなされたが、実は、このように血統を守り(江上は継体天皇も血統が継続していたとみている)、農耕民族に見られるような禅譲による王朝の交替がないのは騎馬民族の特徴であること。また、男子の天皇と天皇をつなぐものとして女帝が現れる古代のあり方は、皇位継承に際して有力者が集まり会議を行う手続を含めて、戦時中に天子が死亡した場合は国会で次の天子を決定するまで后が指揮権を取るという大陸騎馬民族の王位継承のあり方そのものであること。

 平安初期に編纂された『新撰姓氏録』に収録された1059の氏のうち帰化人系統は324で、実にほぼ30%であり、様々な渡来人を受け入れたことが知られているが、農耕民族は他民族を蛮夷視したり蔑視したりする性癖が強く外国人の集団的移住を許容するものではない。このように大量の集団移民を受け入れ、時には強制的に国内に移住させるのは騎馬民族国家に特有のものであること。

『続日本紀』に、渤海の使者に与えた返書の中で、かつて高麗が日本に対し「族惟兄弟(族はこれ兄弟)」と表現したことにふれていること(江上は、天皇氏と新羅や任那の支配者層は同族であるとし、ともに天孫族と呼ぶ)。
14世紀の北畠親房の『神皇正統記』に「むかし日本は三韓と同種といふことのありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり」とあること。

 江上説は、壮大な論理で、多数の傍証を連ねていて、ここに挙げたのは一部にすぎないが、これに対して、万世一系の皇国史観に洗脳された歴史学者たちからは、極めて激しい反発が起きた。
 「天皇家が朝鮮から来た騎馬民族の末裔である」という論理に、感情的に耐えられなかったのである。

 騎馬民族が馬を連れて日本列島に渡るのは、神経質な馬の性質から考えて不可能であるとか、一大民族集団が海を渡って日本列島にやってきた壮大なイベントであるにもかかわらず、古代中国の史書にまったく記述がないとか、さまざまな難癖をつけて、全否定に走った学者が多かった。

 現在に至っても、どうみても合理性に満ちた江上説であるにもかかわらず、史学会の定説としての扱いはなく、空想的な異説の扱いでしかない。
 これは学問的な否定ではなく、平泉澄の皇国史観の呪いによる圧殺というべきものに見える。
 日本人は、万世一系の洗脳から解放されていないのである。

 「神経質な馬が渡海に耐えられない」という意見については、それでは奈良時代まで牛馬のいなかった日本列島に、なぜモンゴル馬系統の、多数の馬(トカラ馬・木曽馬・野間馬など8種)が存在しているのかの理由を説明できていない。

 少なくとも、古墳時代に、これら蒙古馬系統の多数の馬が移入されていることは定説であり、移送ルートが対馬海峡・隠岐の島の渡航ならば、飛び石方式で、一回につき最大50Km以下ですみ、半日そこそこの回航で移動可能であり、牛馬への負担は大きくない。
 中継地島内で牛馬を放牧して安定させることも可能であった。当時は、動物輸送に安定性の高いアウトリガーや双胴船も、すでに使われていた。


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 皇国史観に郷愁を抱く自称史学者でなく、科学的考察のみを思量する史学者ならば、もはや、古墳時代における朝鮮半島からの騎馬民族流入を否定する根拠は存在しない。
 天皇自体が、朝鮮との関わりについて、深い関係を公言しているのである。
https://books.google.co.jp/books?id=HuVUBQAAQBAJ&pg=PA780&lpg=PA780&dq=%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E5%8F%A4%E3%81%8F%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B7%B1%E3%81%84%E4%BA%A4%E6%B5%81%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AB%E8%A9%B3%E3%81%97%E3%81%8F%E8%A8%98%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A7%BB%E4%BD%8F%E3%81%97%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%80%85%E3%82%84%E6%8B%9B%E8%81%98%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%80%85%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%A7%98%E3%80%85%E3%81%AA%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%84%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%8C%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F&source=bl&ots=YdHSt5F_9b&sig=74dyoWLyOZ8ZXBosi47PuAwM0e8&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwigsq73_-jaAhWKI5QKHUIlBLAQ6AEwCXoECAAQaw#v=onepage&q&f=false

 桓武天皇の生母は、百済 武寧王の子孫である和氏である。武寧王=AD462~523については、多数の疑義がある。継体天皇=AD485~527と同時代ではあるが、武寧王は継体の実父であるか、同一人物である可能性もある。(当時の記紀の年代は、実年代との誤差が60年以上あるという研究報告もある)

 奈良時代の人脈の謎は、百済国が、日本にそのまま移住したと考えた方が辻褄が合うケースが多い。なぜ、和氏が大和に定住し、高い地位を保っているかを説明するためには、大和朝廷全体が実は百済王朝そのものであって、記紀の記述は、天武(AD622~686)と天智、桓武(AD737~806)らが、百済王朝の痕跡を記録から消すために編纂、焚書を行った可能性が強いと私は考えている。

 それでは、元々あった弥生人王朝は、このときどうなったのだろう?

 江上説では「軍事征服」があったように示唆されているが、記録がないことから、紛糾するネタになった。
 だが、これこそ、天武や桓武による記紀改竄、焚書の本当の意味ではないだろうか?

 こういうときこそ、民俗学の出番である。

 弥生人文化は、西日本という地域限定である。別の視点から照葉樹林帯文化圏と言ってもよい。
 呉国民が日本に持ち込んだ文化は、実に多様多彩、日本民族の根幹をなす重要なものが多い。
 衣類は、乗馬に依存しないので、ズボンである必要はなく、農耕作業に適した裾からげ可能な「呉服」に類する和服である。
 主食は、もちろん米だが、沿岸地帯、大河川河口の汽水域に拠点を構えることが多かったので、当然、貝類やイカ、雑魚を大量に消費したことだろう。
 乗馬の代わりに、沿岸部での操船文化が高度に発達していた。

 騎馬民族の主食は、米ではなく、蕎麦・稗・麦・大豆・畜肉などであり、海産物はあまり食べない。交通は、騎馬に頼る傾向があるので、陸上内陸部の交通を重視する。秦時代に多用した車両移動も、大切な騎馬民族文化といえるだろう。
 秦時代の習慣から、駅馬制度を持ち込んでいたので、大化の改新による五畿七道、官道駅馬制が整備された。

 弥生文化の風俗としては、歌垣にみられる芸術的な男女交際が行われ、夜這いも盛んだった。これが騎馬民族だと、そうはいかない。
 騎馬民族の場合、「一所懸命」一国一城主義が強く、男女の婚姻まで、権力的に強く干渉を受けていたようだ。
 西日本では貞操など何の価値もなかったが、騎馬民族文化圏では、大切な利権とされた。

 これらの事情から、米を食べ、歌を好み、開放的な男女関係、夜這い文化のある地域を探せば、それが弥生文化圏ということになり、蕎麦や麦、獣肉を食べ、厳しい男女関係、一所懸命思想の地域を探せば、それが騎馬民族文化圏ということになる。

 こうして弥生人と騎馬民族の地域を分けてゆくと、弥生人地域は、九州から始まって、瀬戸内を経由し、大阪から紀州を回り、静岡沿岸部まで達している。
 百済から渡来した騎馬民族は、内陸部を開拓し、最初に東山道を整備し、東北に向かって勢力を拡大していった。

 弥生文化と騎馬民族文化の最前線は京都と大阪の間にあった。騎馬民族は最初、内陸の奈良県に拠点を構えて新、大和王朝を建設したわけだが、山深い奈良では不適な乗馬と車両移動に適した平地を求め、湿地帯だった京都を秦氏が大規模に埋め立て造成を行って遷都した。
 当時大阪も湿地帯だったが、弥生人にとっては淀川汽水域が生活適地だったといえるだろう。

騎馬民族が日本列島に上陸したのは、山陰から北陸にかけての広い海岸線であったが、京都に集まってからは、東山道(後の中山道)を使って、どんどん東に勢力を拡大していったが、それは、あくまでも内陸の沿道沿いであった。

 ここで、邪馬台国の末裔、弥生人王朝の運命を考えれば、奈良時代に至っても万葉仮名の和歌が騎馬民族王朝でも広く浸透したことから、少なくとも巨大なジェノサイド(民族浄化)があった形跡はない。
 弥生人文化は、消されることなく、西日本のさまざまな分野で、現代にまで伝わっている。
 弥生人は塊闘のような部族抗争の習慣を持っていたが、民族の存亡を賭けた戦争は起こしていないと考えられる。

 というのも、照葉樹林帯文化圏には、女性を大切にした母系氏族の伝統があり、女性は生理的体質的に戦争を好まないからである。
 そこで、ヤマト王権から騎馬民族による大和王権への委譲は、それほど深刻な争いを生むこともなく、自然に行われたような気がしている。

 戦争と権力の大好きな騎馬民族=百済人に対して、ヤマト王権は、それほど権力に執着する習慣はなく、百済人のような一所懸命の城作りに邁進する習慣もなかった。むしろ、万葉集に見られるように、毎日恋愛の歌を作って男女交際をしていれば満足したのだろうと私は思う。

 

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