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旧約聖書Vs 新約聖書

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 1970年代はじめのことだが、吉祥寺に医院を開業していた、物部長興さんという方が「ベトナム戦争反対提灯デモの会」を主宰しておられた。

 当時のベ平連グループの文化人として、とても篤い信頼を得ていた方で、毎週のように物部邸には若者たちが詰めかけて議論を交わしていた。

 あるときの物部邸の集会に、ベトナム戦争を報道した写真家として著名だった岡村昭彦が来て、講演を行った。
 このときは立川にいて反戦活動を行っていた私も参加して、憧れの岡村昭彦の講演に胸を躍らせて聴き入った。

 話題は進み、パレスチナの問題に至って、私は岡村氏に
「世界を動かしているのは、人の政治意識なのか、それとも宗教的理念なのか?」
 と質問した。
 このとき、彼は
 「世界を動かしているのは宗教です」
 ときっぱりと答えた。

 当時の私は宗教を軽視し、人間は頭で考えて、より合理的な方法と結果を選択するものだと信じていたので、岡村氏が言ったことの意味が釈然としなかった。
 しかし、それから半世紀近くを経て、今では私ははっきりと分かるようになった。

 「世界を動かしているのは宗教である。それも旧約聖書である」 と。

 人は、現実を見て法則を見いだし、より合理的な解決を模索する思考様式に動かされていると信じていたのは30歳くらいまでで、その後、ユダヤ問題を知るようになり、人類社会の根底には、論理的思考ではなく、オカルティックな旧約聖書による契約(=旧約というのは「旧い訳」ではなく「古い契約」という意味)があると確信したのである。

 「人は、思考によって動くのではない。幼い頃からの聖書の刷り込みによって動くのである」
 と、マルクス主義唯物史観を、かつて信奉したはずの私は、非常識な帰結に至ってしまい、自分でも驚く羽目になった。

 しかし、これが非論理的かといえば、そうでもない。
 人の人生における衝動、方向性をもたらしているのが、実は、論理的思考ではなく、意識への刷り込み(洗脳といってもいい)であるという観察的事実は、社会全体に認知されていない(隠されている)だけで、十分に客観的であり、科学的結論かもしれないのだ。

 その後、ユダヤ問題=フリーメーソンやイルミナティの活動を知れば知るほど、また、イスラム諸国の異様な観念的束縛を知れば知るほど、宗教、とりわけ旧約聖書が人類に与えている凄まじいまでの影響について、確信を深めるばかりになった。

 また世界中の宗教を調べるほどに、あらゆる宗教が旧約聖書に行き着くことを知った。
日本神道も儒教も、もちろんユダヤ教も、カトリックも、モルモン教もエホバも、福音派も、あらゆる宗教が旧約聖書から発して、未だに人の心を深く、がんじがらめに束縛し、社会に巨大な影響を与え続けていることを確信したのである。

 旧約聖書に対して、新約聖書の影響は、まだ小さい。カトリックはキリスト教を名乗ってはいるが、実は、中身はユダヤ教に他ならない。
 モルモン教もエホバも、戒律上の過酷な規制を見れば分かるように、本当は旧約聖書から生み出されたユダヤ教と同じなのである。儒教も神道も、同じである。
 プロテスタントといわれるキリスト教宗派の多くも、実はユダヤ教をそのまま信奉しているようにしかみえない。

 もし、旧約聖書の勢力と、新約聖書の思想を明確に区別する基準があるとすれば、死刑制度と女性隷属化への姿勢(旧約聖書は、家父長制封建社会のなかから生まれた)だろうと思う。
 人々を恐怖で支配するか、それとも愛で導くかの差だと私は考えるのである。

 旧約と新約を隔てる最大の特徴は、ヨハネ福音書 8章7節であろう。
 https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B88%E7%AB%A07%E7%AF%80

 旧約聖書では、姦淫した女は投石によって殺さねばならないと教えるが、キリストは、それを否定し、「あなた方自身に罪がなければ、石を投げよ」と言い、誰一人投げる者はいなかった。

 この世界観こそ、旧約聖書を否定するために地上に登場したイエス・キリストの本当の意味であり、死刑制度否定の根源にある論理である。

 この論理を真正面から受け入れる宗教こそが、新約聖書を信奉するホンモノのキリスト教であり、これを曖昧にしたり否定するような自称キリスト教はニセモノであって、多くの場合はキリスト教の仮面を被ったユダヤ教に他ならない。

 だから教会に敵対する人々(例えば十字軍を見よ)を、殺害してきたようなカトリックは、キリスト教ではなく、実は旧約を信奉するユダヤ教であるといえるのである。
 この意味で、モルモン教もエホバも福音派も、決して本当のキリスト教ではない。

 欧州において、全ての国が死刑制度を廃止した理由は、おそらく新約聖書の示した人間愛を本気で考えた人々による人間解放運動の影響であろう。
 世界の死刑廃止の潮流こそ、旧約の人殺し論理と訣別した新約聖書の影響であると私は思う。
 死刑廃止国にはカトリック教国も、相当数含まれるが、このカトリックは、人殺しの論理と訣別した本当のキリスト教によって押し切られたということを意味するのだと思う。

 本来のカトリックは、死刑制度絶対推進派であった。
 十字軍が示すように、自分たちの教義に敵対する勢力は皆殺しにするというのが、キリストの道であると説いていた。

 かつて、ドイツのカトリック教会の多くに、入口の上に籠が吊されていたが、これはカトリックへの反対者を生きたまま閉じ込めて餓死させるか、処刑後、骨になるまで吊して民衆に見せしめにして、教会権力に対する恐怖を与えるための鉄籠であった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3

 ドイツにおいて死刑が廃止されたのは、まだ1987年のことであり、それまでは、人を処刑することの好きな権力者や宗教者が、たくさんいたのである。
 この恐怖による支配こそ、旧約聖書の本質であるといってもよい。
 だから、新約聖書の精神=人を恐怖ではなく、愛によって導く、という方法が、本当に実現しはじめたのは、この30年程度にすぎないと考えた方がよい。

 フランスにおいても、ギロチンによる死刑制度が廃止されたのは、まだ1981年にすぎず、これも欧州全体で、1980年代に、大きな死刑に対する意識改革があったことが分かる。
 2006年段階で、意識調査を行ったところ、フランス国民の52%が死刑制度反対、復活派は42%である。

 スペインで最後の死刑が執行されたのは1974年であった。
 ガローテと呼ばれる鉄輪で絞首刑を執行する残酷な方法だったが、冤罪による執行が明らかになり、激しい批判が巻き起こって1978年正式に廃止された。

 私は、1970年代に、欧州全域で、非常に大きな意識改革、旧約的倫理観から新約聖書の倫理観への移行が起きたと考えているが、原因がなんであるのかについては、もう少し研究が必要であるものの、ベトナム戦争とアフガン戦争、それにスペイン内戦が大きな要因になっていると考えている。

 世界で、一番人を殺している宗教といえば、アメリカにおけるユダヤ教(キリスト教を名乗る福音派とモルモン教を含む)だと思うが、それに次ぐのはイスラム圏におけるイスラム教、とりわけサウジアラビアとイランであろうか。

 そして儒教による中国、日本である。
 世界の死刑国家は、1に中国、2にサウジ、3にイラン、4に日本、5にアメリカである。これらの国を、「下劣国家=人類の恥」と評するべきであろう。
 この原因を根源的に探ってゆけば、人々を恐怖支配しようとする旧約聖書に必ず行き当たるのである。

 旧約聖書を教典とする宗教は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の世界三大宗教であるが、とりわけユダヤ教にとっては生活のすべての規範であり、ユダヤ人は13歳になるまでに旧約聖書トーラー五編を暗記してラビの前で暗誦できなければ一人前と認められないのである。

 旧約聖書は人殺し教書といってもいいほどで、それを作ったのは堕天使ルシファーであるとするのが、今、流行している新説である。
 確かに、キリストが登場した本当の意味とは、ルシファーの作った旧約聖書を否定するためだという説には、強い説得力がある。
 アブラハムやモーゼが契約した神とは、実は「悪魔」だったのだ。

 日本では、鎌倉時代に儒教が移入されてから、とりわけ江戸時代に朱子学という形で国教化されていた。これは、武家社会における権力による民衆統治に実に都合のよい思想であった。
 明治時代に入っても、そして現代、自民党政権に至っても、統治思想の根源にあるのは儒教である。
 儒教は権威と死刑制度によって国民を恫喝し、恐怖支配しようとするのである。
 恐怖支配といえば旧約聖書であり、儒教が旧約から来ているのは間違いなさそうだ。

 今回、オウム真理教の幹部たち7名を一気に殺害した根底にも、儒教思想による民衆への恐怖支配を見せるという自民党=安倍政権の傲慢な権力的意思が明確に働いていたと考えるべきである。
 公明党も維新も政権側に加わって殺害を容認しているのは、創価学会もまた実は儒教に他ならないことを意味していると私は思う。
 
 儒教は2500年前に孔子が作ったともいわれるが、実は、この頃、すでに中央アジアには大きな交易ルートが成立しており、地球上でもっとも繁栄していた中東から中国に、たくさんの情報が伝わっていて、当然、旧約聖書も入り込んでいて、孔子は、それを元に儒教を生み出したとも考えられる。

 日本の場合、神道も、秦氏によって持ち込まれたネストリウス派キリスト教に大きな影響を受けていて、これは7世紀でありながら、内容は、新約ではなく旧約に近いもので、新約聖書に見られるような人間愛を教えるものではない。
 もう旧約ユダヤ教のコピーというべきではないかと思うほどだ。

 イスラエルで1980年以降、失われた十支族を探す国家プロジェクト、アミシャーブで、日本における十支族の痕跡証拠を探すために来日したユダヤ教のラビたちは、日本神道が、あまりに旧約聖書、ユダヤ教との共通点が多いのに驚愕し、日本こそ失われたイスラエル十支族の末裔に違いないと断定したといわれる。

 つまり、神道はユダヤ教そのものなのだ。儒教もまたユダヤ教であって、国家権力による恐怖支配を容認する統制思想なのである。
 我々は、死刑制度を前にして、これが実は遠く中東から伝えられた旧約の思想であることを知っておく必要がある。

 儒教の本家といわれる韓国では、実は死刑制度を1997年の金泳三政権を最後に、事実上、廃止しているのである。
 となると、もはや韓国は儒教国家ではないことになる。実際に、韓国で最大の宗教はキリスト教である。全人口の三割がキリスト教徒で、二割がプロテスタントであり一割がカトリックである。
 わが統一教会は、キリストの名を騙ってはいるが、実際にはキリストとは縁もゆかりもない儒教に近い新興宗教である。

 つまり、韓国で死刑が行われない背景には、新約聖書の強い影響があることを意味している。
 韓国では、権力優先の格差社会で、サウジアラビアやイラン、中国のような恐ろしい独裁社会に思われているが、実際には違う。
 死刑が大好きな日本の政権と違って、権力者が死刑を恐怖支配の手段に使う前時代的なやり方を脱し、より民主的な社会に前進していると思うべきであって、この意味では日本の方が遅れているのだ。

 世界の政治が、旧約聖書に殉じるか、それとも新約聖書の世界に向かって歩み出すかを見る指標は、まさに死刑制度である。

 死刑を推進して、国民を恐怖支配しようとするか、それとも愛と笑顔の社会を目指すのかが問われている。
 この意味で、ずいぶん遅れているように見える韓国が、死刑制度に限っていえば、実は日本よりも進んでいることに気づくべきだ。

 日本社会は、いまだに権力が暴力で人々を脅して支配している、極めて遅れた、世界に恥ずべき後進国である現実に気づくべきだ。
 何が「日本凄い」だ! 「日本恥ずかしい」というのが真実ではないか!

 死刑制度の恥ずかしさが理解できない者たちには、未来は存在しないと、はっきりと言っておきたい。
 いずれ、日本人は韓国人にさえ置いてきぼりにされるだろう。民族の低俗性でいえば、中国人と肩を並べることになるかもしれない。

 

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