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ものごとの本質とは?

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 ものごとは、複雑怪奇に見えながら、その「本質」は実に単純であることが多い。
 「本質を見抜く」という能力は、詐欺やペテンの横行する現代社会にあって、宣伝に騙されずに、これから何が起きるのか?を見極めるために大切な力である。
 今や、政府の宣伝や、マスコミ・メディアの解説は99%嘘に満ちているといっても過言ではない。本当に悪いのは誰なのか? 何を正さねばならないのか? これを行うために「本質を見抜く」ことが必要なのである。

 「本質」というのは「認識論」という哲学的アプローチからは、物事の根本的な性質ということだが、「認識」という概念は、「無数にある対象の共通点を抽象することで対象を特定すること」であり、言い換えれば、これを「本質」といってよい。
 さらに、認識から科学へ普遍化すれば、ものごとの共通点を抽象して理解し、それを法則化し、法則を利用して、共通の現象を再現させられれば、それを科学というのである。

 「知る」ということは、本質を知って現象を「再現できること」と言い換えてもよい。
 「ものごとの本質」というとき、それを理解できている者は、同じ現象を再現することができるのである。逆に、再現できない者は、「本質を理解できていない」のだ。

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安倍晋三が、「国民のため」とか、「これまで誰も解決できなかった懸案の課題を一気に解決する」とか、口先だけの能書きを垂れて北方領土交渉にあたってみても、誰の目で見ても、その本当の動機は、在任中に実績を作って、「立派な首相」として顕彰されたい、という私利私欲だけが「本質」なのだから、「国民のため」であろうはずがない。

 安倍は自分の名誉のためだけに動いているのである。 安倍の場合は、能力が劣ることへの強烈なコンプレックスがあるせいか、名誉欲だけがひときわ強く、自分も叔父の佐藤栄作のように、ノーベル平和賞をもらいたいとか、偉大な首相と呼ばれたいとか、懸案の外交課題を解決して中曽根康弘のように敬われたいとか、相当に低俗で露骨な欲望が上滑りしていて、この足下をプーチンや、金正恩、トランプに見透かされて、いいように利用され、北朝鮮拉致被害者交渉も、北方領土交渉も、巨額の金だけ吸い取られて成果はゼロになっている。
 要は、安倍晋三は、世界中のリーダーから軽薄な名誉欲だけの人物として嘲笑され、引き出しの容易なATMとして利用され続けているのである。

 そもそも、これほどのお粗末なトップを戴く自民党が支持されている本当の理由は何か?
 それは、資本主義社会が民衆にとって有益であるかのような思い込みを、多くの日本人がすり込まれ、洗脳されていることが原因であり、本質である。
 資本主義体制を守るためには、自民党を支持しなければならないと思い込まされているわけである。

 幼い頃から、幼稚園・義務教育・高校・大学、あらゆる他人と共同する機会のなかに持ち込まれた原理は「競争」であった。
 運動会も、お絵かきも、テストも、すべて点数をつけて、人を序列づけるものであり、「社会は序列付けのためにある」と、すり込まれてしまうのである。
 こうなってくると、人生の目標は、序列の上位に駆け上がることであり、最低限、序列の中位以上にいて、差別好きの人たちから見下されない人生を送りたいという人生観、社会観ができあがる。

 そうすると、「みんなで仲良くして、誰もが平等に生活し、金儲けや権力などは無意味で、ただ人々の笑顔だけが最高の価値である」とする社会主義的な価値観が、ひどく間違っているように思い込まされてしまう。

 人は全力で競争し、他人を蹴落とし、財産と権力を得て、他人を睥睨し、畏れられる人生こそ最高の価値であると信じ、こうした体制を基本に据える自民党だけが、真実の政党であり、社会党も共産党も、個人が競争に勝つ権利と、その成果である私有財産を破壊する、とんでもない悪党であると思い込んで、一生懸命、自民党に投票することになる。

 これが、日本では自民党の、アメリカでは共和党の、「保守層」(リバタリアン)と呼ばれる人々の一般的な信念であって、何はなくとも、人は競争して、自分だけ利権を手にすることが人生最大の価値であると思い込んでるわけだから、私有財産への規制に対しては憎悪しかない。平等とか社会保障なんて有害無益であり、競争に勝つことだけが唯一の真実であると信じ、勧善懲悪劇に夢中になって、正義の味方は金持ちだという具合になる。

 「競争に勝つ」という刷り込みは、やがて美学として、恒久的な、人間としての普遍的な価値にまで昇華してゆき、何でもいいから勝つことが大好きになる。
 最初は、自分の人生で、金儲けや権力の競争に勝つことを願っていた人たちは、自分の集落でも、所属する組織でも、そして国家でも、競争に勝つということが唯一無二、至上の価値と信じるようになって、自国の権益や世界における地位に一喜一憂し、「国家の体面」を守り、その地位を高めて他国を睥睨することが国家の目標であると信じ、他人にまで、そんな価値観に同調するよう迫ってゆくのである。

 およそ競争なんかに興味のない人たちに対しても、「勝て! 勝つことだけが価値なんだ」と、いびつな強迫観念を要求し、渡邉美樹のようなブラック企業が世間に幅をきかすようになる。

 こうして、現代社会における矛盾の共通点を抽象し、その本質を見極めようとすれば、それらの根底に、人と仲良くしたいという、ごく自然な人間性を、いびつに疎外させた競争主義が横たわっていることがわかる。

 そもそも、無意味な学歴競争や、蓄財競争、立身出世競争は、人生を良き価値に変えるものでは決してない。
 それは、人を追い詰め、ストレスを与え、ときには自殺させ、社会をも、暗く、不自由に変えてしまうものである。
 人生の価値が、蓄財や物資的所有であるかのような錯覚に追い込み、物事の本質を見失わせる悪しき要素である。

 戦国武将たちは、愚かしい陣取り合戦、権力拡大戦争に夢中になりながらも、その馬鹿げた愚かさにも気づいていた。
 https://ameblo.jp/hidamari1970/entry-12087240222.html

 人間には、立って半畳、寝て一畳あればいい、食べても二合半ですむと諺になっているのだが、人が、どんなに強欲になって、あらゆる物資を私有したくとも、自分のために使えるモノには限りがあると言うわけだ。
 テレビが50台あっても、本人が見えるのは一台だけ、車が50台あっても、本人が乗れるのは1台だけ、豪邸が50棟あっても、ベッドが100あっても、寝られるのは一棟一台だけ。食事が100人前あても、食べられるのは一人前だけ。
 つまり、人は「身の丈以上のことはできない」という本質を持っているということだ。

 身の丈の人生を送っているかぎりは、過不足もなく、強欲によって道を誤ることもない。 自分の身の丈に合わせて生産し、消費していれば、世界に強欲戦争は生まれない。しかし、人はそうではない。自分の身の丈の何千倍の財産が欲しい、世界一の車が欲しい、世界一の美女が欲しい、他人から羨まれたい……。

 身の丈以上の要求を抱くことを「強欲」という。 
 人類の馬鹿さ加減、愚かさ加減の、すべてに強欲という本質が鎮座している。
 強欲さえなければ、世界ははるかに美しく、ゴミもなく、戦争もなく、すべての人が人を愛して、楽しい人生を送ることができるに違いない。
 まことに、人類の悲劇の本質は強欲である。
 その強欲は、どこから生まれるんだ?

 その本質を考えれば、最初から何度も引用しているように、競争主義によるトラウマの強迫観念が横たわっているのである。
 他人を出し抜いて、自分が上を行きたい。人から褒められたい、羨まれたい。100人前の食事を並べさせて、99人前の食事を捨てるような贅沢人生を送りたい。
 もともと、普通に生まれて、普通の人間関係のなかで育っていれば、こんな馬鹿げた発想は、どこからも出てこない。
 しかし、競争に追い詰められて、他人を出し抜くことに強迫観念を抱いてる人たちには、あらゆる無駄と愚行が、自分の人生の勝利を賛美する拍手となるのだ。

 人類は、母系氏族社会から男系の封建家父長制社会に移行して、はや4000年以上。ここで競争という悪魔のアイテムを選んでしまった以上、こうなるのは必然であったかもしれない。
 しかし、こうした人間疎外社会がもたらすものは、人類滅亡以外のなにものでもないのだ。無益な競争のもたらすものこそ「滅亡」である。
 

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