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二分化社会がやってくる。そして田舎学校のカリキュラム試案

カテゴリ : 未分類

 私は、大都会の小中高校は、必ず年間数ヶ月、過疎山村の廃校を利用した、集団合宿=林間授業を行う必要があると思う。
 大自然と直接肌で触れあう喜びを感じながら、自然の摂理を見いだす体験は、人間にとって最大級の教育的成果をもたらすに違いない。

 そのなかで育む友情も、都会の受験競争、蹴落としあいの冷たい人間関係に比べれば、生涯を飾る素晴らしい体験であり、死ぬまで続く真の友を作り出すことができるだろう。
 ここでは、ブランド学歴を獲得するための不毛な技能ではなく、本当に人生に役立つ経験と知識を教えることで、子供たちの大きな財産として一生を豊かにするために役立つだろうと思う。

 保護者も含めて、本当は、このような田舎暮らしに憧れる者は多いのだが、この種の企画が嫌われる理由は、「学歴競争に落ちこぼれたくない」という強迫観念に保護者が洗脳されているため、自分の子供に無益な時間を費やさせる疑いから、学歴ブランドを与えられない不安で拒絶反応を起こすのである。
 ただ、ひたすら他人を蹴落として、自分だけが優位に立つ差別社会の価値観を維持したいわけだ。

 社会が特権階級と一般階級に二分化してゆくなかで、我が子を特権階級に位置づけるのは、差別社会を容認する親たちの悲願でもある。
 私の父は、総評の幹部だったが、それでも私に対してブランド学歴を身につけさせて、他人を睥睨する特権階級に立たせる道を執拗に私に強要した。
 しかし、私は本能的に、そんな人生観に嫌悪を抱き、差別とは無縁の大自然に包まれる人生を求めた。

 だから学歴社会が大嫌いになったが、今また、私のネット発信に対して嫌がらせを繰り返す自民党工作員たちの理屈が、揃って私を「中卒」と見下し、嘲笑するものばかりで、彼らのおぞましく腐乱した人間的下劣さを見せつけられていると、私が求めた道の正しさに納得するしかない。

 おおむね、学問の理解に乏しい者ほど、私を軽蔑・侮蔑したがるようで、彼らの知的レベルの低さを見せつけられるにつけ、学歴権威信仰に生きる者たちの愚かさを思い知るばかりだ。
 ちなみに、私に対する誹謗者の学問的水準は、例え大学教授であっても極めて低い。「おまえら、何を勉強してきたんだ?」と怒鳴りつけたい連中ばかりである。(例えば、菊池誠や早野龍吾をあげておく)
 スポンサーの利権のためには、真実をも平気でねじ曲げる者ばかりで、まさか、これほど程度が低かったのかと思い知らされたのは、フクイチ事故の評価をめぐってであった。

 私は、これまで何度も「社会の二分化」について触れてきた。やがてパラレルワールドのように交差しない二つの社会が併存し、さらに、そのうち一つは、いつのまにか消えてゆくだろうと予想しているのである。

 学歴差別社会を無批判に受け入れ、コンピュータ・デジタル化社会を受け入れて、人間でなく金や機械が社会の主人公になると勘違いさせられ、自分たちだけ特権階級を目指し、社会に君臨する利己主義の道を選ぶ人々

 そして、この世界の真実が、最初から最後まで人間だけにあることに気づいていて、差別のない利他主義こそ未来を作り出すことができることを知っている人々。

 とに、完全に二分化し、両者は相容れず、交流も失われ、それぞれが「カラスの勝手」で道を歩んでゆく二分化社会が成立すると指摘してきた。

 冒頭に書いた、過疎の林間学校は、もちろん後者の価値観を理解できる人たちと、その子弟が向かう道である。
 前者の、差別的学歴社会や、コンピュータ社会の価値観を信じている人たちは、「豊かな自然」「人間の原始的な能力」などには何の興味もなく、ひたすら他人を蹴落とすための受験勉強以外には目もくれない。
 だから、田舎暮らしや自給自足体験など、何の喜びも感じられないだろう。彼らは、EMP爆弾一発で、この世から消えてゆくと何度も書いた。

 「田舎の学校」に来る子供たちは、大自然のなかに融合して生きることに喜びを感じられる者たちだけである。
 山羊や鶏や牛を飼育し、動物たちと触れあう楽しさを知り、自分で切り開いた畑に作物を植えて、それを自分で収穫し、自分で調理して食べる喜びに人生の価値観を見いだせる者たちだけである。

 特権階級を目指す人生観は、大都会の生活を何でも金で買うライフスタイルで、エネルギーやコンピュータにどっぷりと浸かって、現代文明に依存しきった生活から一歩も外に出られなくなっている。
 だが、そんな与えられるだけの家畜のようなライフスタイルに疑問を感じ、野生の人生に憧れる者たちが激増している。

 アウトドアライフ・登山・キャンプ生活の人気が、それを物語っている。そして、自分で育てて、自分で調理するというライフスタイルに強烈な魅力を抱く者たちも激増している。
 人々は田舎に憧れ、定年退職すると、高い山々に包まれた過疎の田舎に向かってゆく。

 すでに、二分化社会は成立していると思っていい。
 昔ながらの野性的な田舎暮らしに憧れる人々と、痒いところに手の届くような、ゆりかご社会から出られない人々の分離が鮮明になり、日本社会は真っ二つに分化し、やがて相互に交流できなくなるだろう。

 子供たちも真っ二つに分かれるだろう。学歴社会での勝者を目指す者たちと、大自然に包まれた人間愛の社会に向かう者たちの二つだ。
 両者は、それぞれ、まったく別の価値観、別の道を歩んでゆく。集約して言えば、「利己主義と利他主義」の社会に分裂するのだ。

 すでに子供時代に分裂分離が始まることになる。それが冒頭に書いた、林間学校における共同体社会の訓練であり、そんな体験を目指す子供たちには、利他主義の価値観が開けてゆく。
 動物たちとの交流を通じて、本当の友達は人間だけでないことを学ぶ。人間だけが世界の主人公ではないことを知る。

 私は14年ほど前、移住後、鶏の放飼いを目指したことがある。150羽ほど後藤紅葉の雛を飼育して育てた。
 ところが、その騒音が、当初の予想をはるかに超えていて、近所迷惑のレベルだったため、飼育を諦めて群馬県上野村の、ある学校に引き取ってもらった。
 その学校は、「引きこもり自閉児童」のための学校だったが、後藤紅葉という鶏は、もの凄く人懐っこく、人間に慣れるので、子供たちは、すっかり鶏を気に入ってしまった。
 おかげで、当初、少しずつ食べられるはずだった鶏は、一羽も潰されず、卵を産み続けて天寿を全うすることになり、子供たちの情操教育に大きな役割を果たしたのである。

 私は、このとき、田舎の学校で共同生活を送る子供たちが、山羊や鶏と触れあう喜びが、子供たちの人間性を大きく育てることを知った。
 大自然のなかで、さまざまな命を大切にする心が、人を愛することのできる健全な人間性を育てると確信した。
 むしろ、過疎の田舎の大自然のなかで、動物たちと触れあいながら、共同で農作業することなくして、宇宙の真理を見いだすことはできないとさえ思った。

 ジム・ロジャーズは、これから日本に残された産業は、観光・農業・教育だと指摘したが、田舎の学校は、まさに、その三要素を備えているのである。
 教育も、もう大都市のぬくぬく座布団の学校などいらないのだ。共同して自給自足ライフスタイルを作り出せる教育施設こそ、もっとも価値の高いものだと私は思う。

 田舎の学校で、子供たちが学ぶカリキュラムとはどういうものだろう?

 とりあえずは、いきなり全面移転する前に、期間を定めた林間学校としての田舎暮らしを体験して慣らした方がいい。
 期間としては、4月~5月の、種まき・苗作り、土作り、そして7月~9月の収穫、避暑の、通算5ヶ月前後がいいのではないかと考える。

 都会の学校が空白になる時期は、逆に過疎地方の学校をそのまま都会に移動して都会生活を体験させればよいい。いわば、大都会と田舎の学校を、季節ごとにチェンジさせるのだ。
 田舎の方が、共同生活にコストがかからないので、田舎暮らしが主体になると考えればよい。逆に、田舎の学校が、都会で子供たちを生活させるにはコストがかかりすぎるので、何かうまい手を考える必要がありそうだ。

 基本概念としては、農業共同体生活の体験をイメージすればよい。
 農業としては、まずは主食である、米作・麦作・芋作を基本に、キャベツやトマト・キュウリなど副食野菜を作り、さらにピクルスや漬物で保存食を学ばせる。
 もちろん鶏や山羊や牛を飼育して、卵や乳を採取するのは大切な体験だ。

 私の子供時代、まだ小学校では、男女平等思想で、男子も裁縫を学ばされたものだが、このとき購入させられた裁縫道具と裁縫の基礎知識は、還暦過ぎた今日でも人生の大切な基礎知識として役立っている。
 農業それも自給自足農業を体験することは、地球で生活する上で、生涯、絶対的な自信を与えてくれるものである。
 ジャガイモやサツマイモ、米や麦の生産を学べば、どんな凄まじい天変地異が来ても生き抜く自信になるのだ。

 コンピュータやAIプログラミングなんてのは、基礎教養の一部で学んでおけば十分だ。私は1980年頃からパソコンを扱い、当時はソフトなんて全部自分で作ったものなので、今でも、基本的な数学プログラムは自作して利用することができる。
 それができれば十分で、そんなことより、美味しいトマトを作る技術の方がはるかに大切なのだ。

 何よりも、山々に囲まれて、共同生活し、自然のなかに分け入ってゆく体験が、大きな人間性を育ててくれる。
 人生で一番大切なものは、権力や金ではない。知識や能力も大切だが、何よりも人間性なのだ。
 心の広い暖かい人間性を子供たちに育ててゆかねばならない。このためには、都会の汚れた環境ではなく、大自然を実感できる未開の自然になかで、さまざまな発見をしながら、知識を拡大してゆくことが必要なのである。

 私が人間性を育てる哲学としてもっとも大切だと思うのは、自然の循環サイクルを体験的に理解させることである。
 例えば、私は2004年からEM完全自己完結浄化槽トイレを自作し、今は屎尿排水を全部EM菌で浄化させて畑に流しているが、これで作った作物は、相当に美味しい。

 何よりも、最も汚いと思わされている屎尿などが、EM微生物の働きによって、飲めるほど美しい水に変わり、素晴らしい野菜を育ててくれる。いわば、もっとも汚いものが、もっとも美しいものに変化してゆく自然の摂理を体験的に学ぶことは、人間性哲学の基礎を作ってくれる。
 どんな厄介な欠点があっても、それを克服できるという自信につながるのである。

 これを上下水道の完備した大都会で、体験的に学ぶのは不可能で、大自然に囲まれた田舎でのみ、それが可能なのである。

 このような自然から学ぶカリキュラムのなかで、みんなで力を合わせて困難を克服する体験を重ねれば、本当に骨太の、すばらしい人間性を備えた子供たちができあがると私は確信している。
 勉強やテストなど二の次でいい。何よりも、自然と触れあう楽しさを謳歌する経験が必要なのだ。 

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