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我々は、本当に必要な数百倍もの浪費生活を強いられていること

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 「ポツンと一軒家」というTV番組を見てると、とても考えさせられる。
 90歳を超えたような老人が、人里遠く離れた山中に暮らしている。そこは、集落から数十分車で恐ろしい林道を走り、さらに徒歩で数十分も山道を歩いて行かねばたどり着けない。

 いわゆる「限界集落」では、高齢老人たちばかりになった集落が、集落としての機能を失って、人々が山を下りて、全体が廃屋化してゆくのだが、「ポツンと一軒家」では、たった一軒取り残された生家で、死ぬまで淡々と生活を続ける老人たちの姿が描き出されている。

 これを視聴していると、山暮らしの想像力をかき立てる柳田国男の「山の人生」を思い起こさざるをえない。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html

 「ポツンと一軒家」には、多くの場合、電気は来ているが、水道も下水道も、プロパンもない。だからエネルギーは、周囲にある大自然の恵みである薪を利用している家が多い。
 水は、自然の表流水や井戸を用い、食料の多くが畑作による自給自足である。

 実は、このところ、エネルギー問題を考えていて、これから日本では、どのようなエネルギーを利用すべきかという立場で、もちろん強硬な反原発の私は、再生可能エネルギーを考えていたのだが、ポツンと……を見ていると、何か、自分の考えに、とんでもない間違いがあるような気がして、エネルギー問題を哲学的に根底から考え直さざるをえなくなったのである。

 本当のエネルギー問題を考えて行くと、実は、資本主義における、我々の生活の浪費問題こそ、もっとも必要な視点ではないかと確信するに至った。
 ポツンと……の生活は、実に合理的である。これまで見てきた範囲で、クーラーが敷設された家は確認できなかった。
 森を吹き抜ける自然の風があれば、人工的な冷風は無用であり、クーラーというものは、大都市のなかで他人の廃熱から身を守るために必要なものであろうと思った。

 山の上だから厳冬期は猛烈に寒い。ほとんどの家に薪ストーブがあり、家の外には大きな薪小屋があって、大量のストックがあった。秋までに、せっせと近所の木を切って薪を確保乾燥しておくのである。(普通は乾燥に2シーズンかける)
 私も薪ストーブを利用しているので、大きな森林環境のなかでは、ほぼ無限に薪が供給可能であることを知っている。
 調理も、プロパンガスなどではなく、薪ストーブを調理器具として利用している場合が多かった。
 確かに、ストーブ上には一つの煮炊き口しかないが、昔の食生活を考えれば、決して不便はないように思える。囲炉裏を併設している場合も多く、この場合は二つ使える。

 ポツンと……に登場する多くの老人たちに不満、不便、不自由は見えない。生まれたときから繰り返してきた日常生活を死ぬまで続けるだけのことだ。
 排泄物も、昔通りに肥だめに入れて発酵させてから畑に散布する。水洗便所もEM菌も必要としていない。

 たぶん電気も、灯火に使いテレビを見る程度で、停電しても、灯油ランプでもあれば十分で、大きな困難は起きないだろう。
 NHKの集金人も、大きなコストのかかるポツン家には来ないだろう。
 こういう環境で生活していると私のようなビチグソでなく、トイレ紙も必要としないほどの立派な固形便が出るようになるから、「お尻シャワシャワ」も必要ないのだ。

 自然に包まれ、自然の恵みを最大に活用する省エネ生活を見ていると、我々の生活エネルギーの数十分の一以下しか使っていないように思え、生活全体の無駄を考えると、おそらく我々の標準的な「文化生活」の数百分の一の消費なのではないかと思った。
 逆に言えば、我々の生活は、ポツンと……の数百倍、無駄が積み上げられているようにさえ思えるのである。

 最大の理由は、商品を手に入れ販売店に簡単にゆけないということだ。多くの場合、月に数回、町に出て必需品を買う人が多いが、ほとんどの人が自給自足体制を確保しているので、購買内容も非常に少ないだろう。
 逆に、いつでも簡単に資本主義商品を購買できる我々は、その安易さゆえに、本当に必要ないものまで、宣伝による洗脳によって無理矢理買わされているような気がする。

 我々は、生活に必要ないものまで「買わされている」という、資本主義社会、競争主義の原理に支配されていることに気づく必要があると思う。
 資本主義社会というのは、企業の金儲けだけが社会最大の価値と信仰される社会のことである。それは、「我々の生活の必要にして十分なニーズ」を満たすのではなく、一円でも多くの金儲けを求めて、消費者を騙してでも、たくさん、高価な、無駄なものを買わせることが本質になっている。

 「必要ないものまで買わされる」とは、どういうことだろう?
 それは、メディアを利用して、「買いたい、買わねばならない」と製造企業が洗脳工作を繰り返していることで、例えば、朝のモーニングショーなどを見ていると、購買を刺激する商品紹介のオンパレードで、これは生活の必要情報ではなく、買わせるための洗脳工作と言ってもよいほどだ。

 我々の潜在意識は、資本主義競争による、この種の洗脳工作の餌食となり、必要のないものまで買わされる生活をしている。
 それが、ポツンと……では、そうはならない。家に戻るのに、イノシシや熊の徘徊する大変な道を、無駄なモノをたくさん担いで登るわけにいかないから、本当に必要な最低限のモノしか買うことができないのである。

 このことが、購買欲洗脳メディアの陰謀から解放されるために大切な条件になる。私は、月の生活費が5万円程度なので、「できるだけ安くあげる」を至上命題として商品を購入し、「必要ないものには手を出さない」という原則を守る生活をするようになって、少しは「資本主義の呪い」から、我が身を守ることができるようになったと思うが、最近のシングルマザーや年金生活者たちは、どこも生活が大変で、スーパーの値引き販売に殺到するような人たちは、やはり資本主義浪費の呪いから抜け出すことができるようになっているように思える。

 今、スーパーで値引き品ばかり購入するライフスタイルになってみて、これまで、どれだけの無駄を重ねてきたか身につまされる感覚が出てきて、メディアの購買欲を刺激するような商品には一切手を出さなくなった。
 すると、生活費もずいぶんと節約できるようになった。買う前に「おっ、良さそう」ではなく「これが本当に必要か?」を先に考えるのである。

 私の家は、水道・下水道は利用していない。水は井戸で十分だが、ラドンが含まれているので、飲料用だけは安いペット水を利用している。
 排泄物は、すべてEM菌で処理して畑に流しているが、このEM菌がひどく高くつくのが悩みの種だ。毎月、モルトだけで2160円もかかる。

 問題は電気だ。太陽光パネルを購入して設備を作ったのだが、超高価な交流転換装置が簡単に壊れて、おまけにバッテリーの寿命が短く(4年程度)、供給電力に太刀打ちできないのである。ずいぶん無駄な浪費をしてしまった。
 もっとも、本当に必要な電力は、灯火と井戸ポンプ程度で、巨大震災で電力供給が止まっても、それほど深刻な事態にはならないと思う。
 ポツンと……でも、電力が停止して本当に困る家は少ないだろう。

 私は、エネルギー問題を考える上で、もっとも基本的な問題点は、スケールメリットという資本主義の発想になると思う。
 人間社会の進化という哲学的命題を考えると、これからの進化・合理化は、反スケールメリット・反金儲け主義にあると考える必要があると思う。

 例えば、スケールメリット=大量生産・大量消費というシステムが、技術の進化と価格の低下を保証するという発想によって、近代エネルギー産業が成立し、原子力発電も、そうしたスケールメリットを前提に作られている。
 だから原発は、社会のニーズに応じた出力調整ができず、いつでも一定の熱量を製造するという前近代的なシステムである。これに対し、火力は、ニーズに応じて生産調整が可能であり、水力は、降水量という制限のなかで出力を確保できる。
 太陽光は、太陽の出ているときだけ発電可能で、これも原発と同様の課題を抱えていて、風力も、風が吹いているときしか発電できない。

 原発が、一定の出力しか生産できない巨大な足枷を抱えている事情によって、昼間のニーズ増大時に必要な電力供給源として、揚水発電所が建設されているが、これは、日本の場合、実働効率は、わずか7%前後で、このダムは経産省の官僚たちの箱物利権によって造られたに過ぎないのである。
 なぜ利用効率が極端に悪いかというと、揚水発電の効率が25%しかなく、原発で製造した電気の7割以上をドブに捨てる仕組みになっているからである。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E6%B0%B4%E7%99%BA%E9%9B%BB

 揚水発電こそは、究極の無駄、無用の長物施設、官僚腐敗の象徴といえるだろう。
 このような無駄、不合理の極みのような電力調整システムに換わるものがあるかというと、実は、ほとんどないともいえる。
 今、経産省官僚たちが大声で推進しているのは、水素・燃料電池発電であり、夜間の原発余剰電力と昼間の太陽光余剰電力を利用して、水を電気分解して酸素と水素を製造し、これを燃料電池の燃料にして発電するという考え方で、この場合、発電効率が60%程度あるので、一見合理的に見えるが、実は大きな落とし穴がある。
 水素の化学的活性が強すぎて機器を腐食させるため、燃料電池発電機の耐久性が10年程度しかないという問題で、これは致命的である。
 http://rechargeable-battery.asia/fuelcell/know/merit.php

 実は私も、燃料電池、水素発電システムこそ、人類救済の電力であると数十年前から信じていたのだが、これが原理的に間違っていたことが分かってきた。
 社会の進歩という哲学的観点から見ると、エネルギーは、スケールメリット、大量生産から分散製造・分散消費、つまり、「エネルギーの必要な場所で、必要に応じて発電する」という向きに発展してゆくのが必然で、これはエントロピーと同じ必然性と考えてもよい。

 この切り札が燃料電池だと信じていた。それは、燃料電池コジェネレーションというものが、スケールメリットに依存しない本質を持っていたからだが、家庭用の場合は、わずか10年で高価な機器を交換してゆかねばならないというのなら普及は不可能である。

 いわゆる現場発電「必要な場所で、必要なだけ発電する」というシステムに使えるのは、今のところ原動機発電だけである。
 これは、スケールメリット発電が、巨大な送電ロスを抱えている事情から考えると、ロスの分だけ有利なのだが、それでも燃料が高すぎて、スケールメリットに勝てないのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%81%E9%9B%BB

 (直流送電がロスが少ないというが、非破壊検査に携わった者なら、直流がどれほど恐ろしいか身にしみて分かっているので、これを送電に使うと何が起きるか想像がつき、とても実現不能だと知っている。
 直流では、致命的な電解腐食が起きるのである。送電塔の厚さ10ミリのアングルが、わずか数年で腐食して倒壊してしまうのだ。これは絶縁を越えた漏洩電流によるものなので、アースなどで対応できる問題ではない。)

 そこで、冒頭に紹介した「ポツンと一軒家」の生活を思い起こしていただきたい。
 我々の生活には、無駄が多すぎるのである。電灯だって、本当に生活の必要な光で十分ではないか?
 浪費に満ちた生活水準を維持しようと考える前に、もっと自然界のエネルギー=薪炭や太陽光、風を活用することを考える必要がある。

 今から明治時代の生活に戻れとはいわないが、もっと自然に依存した合理的なライフスタイルがないか、きちんと調べ直した方がいい。
 節約できるものは節約し、自然エネルギーに転換できるものは転換すべきである。
 薪を採れば自然破壊になるか? というと逆である。
 現在の山林は、昔のように薪炭利用しないせいで、老廃木が増えて、森が荒れ、これがイノシシなど野生動物の増加を招いている。
 薪を消費することで、森は整理されて合理的な姿へと変わるのである。また、採取のエネルギーを考えれば、不必要な薪の浪費もできなくなるだろう。
 自然界に人間の管理が及ぶようになり、手入れされた美しい森に変えることができる。

 こうした実例は、ポツンと一軒家の周辺の自然環境から学ぶことができるだろうと私は思う。
 

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