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インターネット社会の功罪

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 私が初めてパソコンを入手したのは、1980年頃、シャープのMZ80という機種で、値段は忘れたが、軽自動車の中古が買える程度の価格だったような気がする。
 当時はマイコンからパソコンに、やっと進化した時代で、メモリーなんて数十キロバイトしかなくて、ソフトらしいソフトも少なかった。
 しかしBASICだけが動いたので、電卓程度のソフトを自作して喜んでいた。

 まあ正直いって、数十キロバイトの幼稚な計算ソフトを、朝から晩まで張り付いて、やっとの思いで作って運用できただけで、天にも昇る心地だった。
 BASICを覚えた程度でコンピュータを制覇したつもりになることができて、十分すぎるくらいの満足感が得られた時代だった。

 当時のパソコンには、人が「支配した」と征服感を味わえる程度のわかりやすさがあって、決してブラックボックスではなく、間違いなく人間の手の延長としての「人間らしさ」を感じることもできた。

 インターネットは、当時、すでにニフティなどを通じて、「パソコン通信」というものが世に出たばかりで、まだカタカナなどのキャラクターに限定されていたが、ちょうどテレタイプ無線程度の情報交換ができた。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97%E7%AB%AF%E6%9C%AB
 これも、アマ無線でモールス信号打鍵に夢中になっていた私にとって、人間らしさを感じられた通信方式だった。

 それから10年くらいで、ネット通信は、恐ろしい変貌を遂げた。当初300BPSだった電話回線の通信速度も、あっというまに万単位に変わり、現在のネット通信とさほど遜色のない64KBPSという通信速度が確保されたのは、1990年代の半ばだったと思う。
 それからブローバンド方式が始まり、21世紀に入ってメガBPS単位の光通信が始まった。

 パソコンは文字通り「日進月歩」、わずか半年で時代遅れになるような猛烈なスピードで進化を遂げた。
 当初は機械語の上にDOSというオペレーションソフトがあって、そのコマンドを覚えてパソコンを支配するのは容易だった。
 しかし、MSDOSからウインドウズV3あたりに進化すると、手に負えない複雑な代物に変わっていって、パソコンを支配するのではなく、逆に支配されるような立場に変わっていった。
 つまり、自由自在に自分の手の延長として、思い通りに利用できる代物ではなくなった。

 これが1990年代の初めの頃であり、ウインドウズの登場によって、ネットの接続も、他者との通信も、極めて便利になったのは事実だが、すでに、自分が支配しているという印象はなく、「パソコンに使われている」という没主体の従属的立場に変わってしまい、これでは「ウインドウズシステムによる形を変えた人類支配ではないか」と感じるようになった。

 もう一つ文句を言いたいのは、CPUの速度が飛躍的に上がっているにもかかわらず、実用ソフトの運用速度が同様に早くなったとの印象が持てなかったことだ。
 これは、高速CPUと巨大メモリを利用しながら、その多くをセキュリティソフトなどが食い潰してしまう時代になったことが大きい。
 ネット通信の拡大とともに、これを利用して金をだまし取ろうとする詐欺師たちが跳梁跋扈するようになり、また面白半分のイタズラウイルスも蔓延し、これに対する対策ソフトが膨大な代物になっていったため、肝心の実用ソフトの速度が上がらない、いつまでたってもプラウザが動かないということになった。

 この頃になると、インターネットは完全に市民権を得て、ネット情報を知らない者は、社会についてゆけない孤立感を味あわされることになった。
 私のネットに対する知識は、MSDOS V3で停止し、凍結したままになってしまった。
 CやCOBOLも多少は覚えたのだが、ウインドウズ上でソフトを自作して立ち上げようとすると、高価なウインドウズ用言語を購入して、訳の分からないたくさんのコマンドを覚えないと実用ソフトにならないし、そんなヒマがあれば、他に関心のある時間のかかる趣味がたくさんあったので、もう睡眠時間を削ってまで覚える気力も失せてしまった。

この時代、ネット社会の普及によって、人間社会のあり方は根底から変化したように思える。一言でいえば、「パソコンに使われる時代がやってきた」ということである。
 1980年代から2000年までの20年間で、パソコンの持っている本質的な意味も大きな変貌を遂げた。
 80年代のマイコンに毛の生えたパソコンは、決してブラックボックスではなく、PC98ノートあたりまでは、BASICにしがみつきながら、なんとかパソコンを自在に使う立場にあったと思う。
 しかし、DOSVとウインドウズが世界制覇を果たした後は、ソフト作成に自分の主体性を発揮することは不可能になり、完全に立場が逆転し、ブラックボックスと化したOPウインドウズの下で、マイクロソフトの望むままに使われる隷属的立場となった。

 このような変遷のなかで、ネット社会は、何をもたらし? 何を変化させたのか?
 この視点で、社会の流れを把握しておかないと、人間の本質を見失うことになりかねないと私は思う。
 ネット社会になって何が問題か?
 たくさんの指摘がネット上にあふれている。

 インターネットの功罪  http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8A%9F%E7%BD%AA

http://www.kanteishi.net/kantei/opinion/009nowalls.html

https://ameblo.jp/chikarablog/entry-10021364604.html

 なかには、「知らなくていいことを知ってしまうこと」が一番のデメリットと、恐ろしく馬鹿げたことを書く者もいるのだが、ネット最大の「功」は、あらゆる情報が多重多層に検証できるということで、情報の整合性という観点から、真実性の担保が飛躍的に上がった(はずだった)ということである。

 つまり、ありとあらゆる情報は、真実という一点で整合性を保っていて、それから外れる情報は、すべてウソであることを理解できるのである。だから、どんなに情報がたくさんあっても、真実は、神棚のように、いつでも同じ核心に鎮座していて、ウソや捏造を寄せ付けないわけだ。
 こうした情報の多様性と整合性の検証を、インターネットが人類社会に持ち込んだことで、あらゆるウソが排除されるはずだった。

 ところが、我々は福島第一原発事故で、放射能被害が徹底的に隠蔽され、真実が遠く隠蔽されることを目撃し、それは、事故から8年を経ても正されることがない。
 これは恐ろしい現実だった。そんなはずではなかったのだ……。
 この理由について考察すると、正しい真実の情報をウソと決めつける巨大な虚構捏造のパワーがネット社会を席巻していることが挙げられる。

 それは自民党や安倍政権の支持率が、理論的にありえないほど高かったり、事前調査で勝っている選挙が、結果が出ると劇的に敗北してみたり、安倍政権をヨイショする目的のウソ情報、自民党に雇われた工作員の情報だけが、ヤフーやグーグルに選択的に示されたり、私の政権批判ブログが連絡もないまま勝手に削除されたりと、真実に真っ向から敵対し、人間の知性を嘲笑するかのような、社会の背後にいる勢力による、権力と利権を維持するための情報操作を実感するものであった。

 もちろん、こんな「白を黒と決めつける捏造」自体が、やがて真実の整合性によって追放されるに決まっているのだが、まさか8年を経ても、いまだに被曝が存在しないかのようなウソが社会全体にまかり通るという現実は、まったく予想外だった。
 つまり、情報の真実性による社会変革は、権力のなかで利権を守ろうとしている者の力に及んでいないという現実を思い知らされるものだった。

 これには、「放射能被害を隠蔽しなければ核開発が進まない」という権力側、産業側の巨大な命題があり、このテーゼのために、日本社会のアカデミーや医学界、自治体などを事実上、買収して被曝の真実を隠蔽する巨大な力が働いているのである。
 例えば、福島県甲状腺評価部会が「福島を汚染したフクイチ原発放射能と、福島県下で激発している子供たちの甲状腺癌は無関係」と、信じがたいウソ八百が平然とまかり通っている現実を見せつけられると、情報の真実性は、権力の情報操作の前に無力なのだと敗北感さえ禁じ得ない。

 一方で、ネット社会の問題点として、パソコンの前に座っていれば、世界中の情報が手に入ると信じ、自分で、外の現実社会を体験しに行く意欲が薄れている事情があり、これが、人々の情報操作に対する抵抗力を貶めているのではないかということだ。

 真実は、ネット情報だけでは分からない。自分の足で現地に行き、自分の目で実際に起きている現実を目撃し、自分の頭で、どのような理由で何が起きたのか分析するという、もっとも大切で基本にあるべき科学的方法論が、パソコンやインターネットの登場によって希薄になり、いつでも与えられる情報だけを参照し、自分の力で問題を再構築、再点検してみようとしないということが、権力による卑劣な情報操作に客体的に流されて行く事態を招いているのではないだろうか?

 私の若い頃、寺山修司が「書を捨てて街に出よう」という本を出版したが、今のネット社会では、情報が面白すぎて、ネットという書のなかに、どっぷりと浸かったままで、誰も外の街に出て行かない。
 スマホ片手に、街に出かけることはできるのだが、せいぜい「どこに美味しい店がある?」とか「どこにインスタ映えするイベントがある?」とかの興味は満たしてくれるのだが、自分の力で、美味しい料理を作ってやろうとか、社会の現実を直視するルポルタージュを書くために情報収集しようとか、独創性のある情報を提供できる人々は極めて少数になってしまっている。

 確かに、スマホ時代になって、携帯性・利便性からネット社会と外の現実世界の接点は拡大したように思えるが、ネットに満ちあふれた、権力維持のためのウソ情報を暴く真実の探求という視点は、ほとんど見当たらない。
 それに、私などは、これ以上スマホのような高額の料金を支払う余裕がないので、10年前のガラゲーは持っているが、未だにスマホを購入したことさえないのだ。

 最初に述べた、インターネット社会がもたらす最大の利点として、莫大な情報の整合性という自浄作用から、真実の情報だけが残るという本質が、原子力産業や権力の巨額の資金力によってよってねじ曲げられているものの、しかし、真実だけが淘汰され残るという本質が失われたわけではないと思っている。

 これからのネット社会の課題としては、グーグル・フェイスブック・ツイッターなどSNSメディアが、軒並み支配勢力、国際金融資本の闇に飲み込まれ真実を伝えず、我々を追放しようと画策するなかで、真実を大切にする勢力が団結して、捏造を許さない、新しいメディアを自主的に生み出してゆけるかが問題になると考えている。

 まずは、ネットの情報洪水に飲み込まれず、価値ある真実を求めてゆけるグループの、例えば、私が若かった頃のベ平連運動のような、正義感にあふれた、人権を第一に要求してゆける勢力を作り出し、その核心に、「我々のメディア」を構築する必要があるだろう。

 

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