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年をとるということは

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 ことあるごとに、「自分は老いた」ことを自覚させられる毎日だ。
 50歳を過ぎたころから、肉体が悲鳴をあげはじめた。どれだけ寝ても、体の痛みが取れない。朝は、全身が痛むので、周囲につかまらないと起き上がれない。
 「これが老人になるということなんだ……」
 と思い知らされてきた。

 体中が一斉に反逆を始める。私の場合は、血尿が1年以上も続いたり、なんともいえない重く不快な腰痛が続いたり、酒で痛みを誤魔化そうとして肝硬変の症状が出たり、腎不全を起こしたり、挙げ句は間質性肺炎ときやがった。
 生きてるのが不思議だが、毎日必死に山歩きを続けていることで延命しているのかもしれない。

 だが、人生のろうそくも残り少ない。だから、ろくでもない人生ではあるが、自分に気づいたことを書き遺しておきたいと思って、このブログを始めた。
 還暦を過ぎたあたりから、物忘れがひどくなって、ごくあたりまえの固有名詞が出てこなくなり、指示代名詞(あれ、それ)ばかりになってしまった。
 ネット時代のおかげで、忘れた名詞を検索しながら思い出すことができるのだが、一昔前だったなら、書斎に、たくさんの情報文献を用意しておかねばならないところだ。

 アイデアはたくさん湧くのだが、すぐに忘れてしまって、「何を書くつもりだったんだっけ……」と、夕方になっても、独り言さえ出てこなくて焦る。
 もう、若い頃のように、他人に評価されたいとか、一旗揚げたい、有名になりたいとかの邪念からは解放されているはずなのだが、それでも「みっともない文章は書けない」とかの自縄自縛があって、どうせたいした内容は書けないくせに、背伸びしたがるクセから抜け出せない。

 ネトウヨの世にも下劣な人間性は、思い出すだけでも不愉快なのだが、何か書けば、必ず、絵に描いたような悪罵がコメントとして書き込まれ、こんな低俗なゴミどもにしか読んでもらえないなら、書く意味などまったくないと、ますます、文筆意欲を削がれるばかりなのだが、それではネトウヨの思う壺なので、無理をしてでも書かねばと意欲に鞭を打つのだ。

 私の文章に価値があるとするなら、たぶん還暦過ぎまで生きた長い経験から、真実を見抜く力が、若者よりも多少はあるということだろうと思っている。
 若者たちに比べて情報量が違う。受験勉強はろくにやらなかったが、読書量は大きい。
 物心ついた頃から、我が家には小さな図書室程度の蔵書があったから、私は子供たちどうしの遊びよりも、本を読みあさることに夢中になっていた。

 だから、国語の成績はまあまあで、みんなが敬遠する、難解な論文も喜んで読んでいた。不思議なことに井上靖や中島敦が好きだった。
 だから、四書五経なんか、三国志や水滸伝、西遊記などとともに、スラスラ読んでいたおかげで、現代中国の分析に大いに役立っていると思う。

 私は、習近平や文在寅と、ほとんど同世代で、安倍晋三より一つ上、金子勝より一つ下というあたり。
 「花のにっぱち」といって、優秀なスポーツ選手をたくさん輩出した。例えば、落合博満、梨田昌孝、麒麟児、北の湖、先代若乃花ときらびやかだ。
 習・文、それにプーチンも同年になる。

 私と同年といってもいい、習や文の思想を考える上で、彼らが少年時代、青春時代に参照した文学の存在が、彼らの思想の根源にあると私は考える。
 習が青年になるまで読んだ本は、おそらく三国志・水滸伝・四書五経だろう。青年になったとたんに、彼は下放といって、未開の田舎に追いやられ、文学とも情報とも無縁の生活を強いられた。

 だから、習の思想、人生観の根底には、壮大な史記や三国志の世界があり、わけても秦の始皇帝に憧れていることが、彼の言動や政治姿勢から手に取るように分かるのだ。
 習の原理的政策としての一帯一路・南水北調計画なんてのは、秦の馳道・長城そのものではないか?
 習近平が、どれだけ始皇帝に憧れていたのか、丸見えの政策だと私には思えるのだ。

 同じ意味で、文在寅の思想の根底にも、高麗の三国史記が見えている。これは日本人には馴染みがないが、韓国人には必読書であり、現代韓国の思想性を理解する上で欠かせない。
 逆に言えば、こうして、彼らの幼少期の思想形成期の情報が、これから起きる事態を予想する上で、とても役に立つのである。

 こうした情報の引出しは、長い経験のなかで積み重ねられてゆくもので、たくさんの情報があることで、「検証力」が高まるという作用がある。
 30歳程度で、一流大学出を鼻にかけて思いあがっていても、人生経験の少なさは、「何が起きるのか?」という情報量、判断力の厚みが不足し、自分の軽薄なプライドを守りたい焦りから、ますます誤った分析、予測に引きずり込まれてゆく。
 これが、周囲にいる長老たちの経験則を重要して参照できるほどの心のゆとりがあれば、誤りも犯しにくいだろうが、得てして若者は功労評価を焦るものだ。

 老人は、情報の膨大な引き出しから、起きうる事態の共通性が浮かび上がってくるので、「何がどうなる」という予想についての検証力が若者より大きく、正しい判断ができるのである。
 もちろん、脳味噌や視力の退化があるから、微細な情報分析は若者には敵わないが、大局観においては、ほとんどの場合、若者より正しい予測が可能である。
 年老いても、結構捨てたもんじゃない。若者は老人の大局観を馬鹿にするべきではない。大局さえ間違わなければ、人間は正しい方角に歩んでゆけるのである。

 中国や韓国を分析する上でも、メディアがまき散らす目先の膨大な情報に惑わされている者が多いが、長い経験を重ねれば、「人間がどのような法則で動くのか」という視点から、習の場合は見栄とメンツと名誉欲、文の場合は、儒教の長幼序列洗脳であると本質を正しく見抜くことができる。
 相手の本質さえ見抜いておけば、大局を見誤ることはない。これは長い経験の上に立ち上がった老人でなければ見えない視点なのだ。

 かくして私は年をとった。目もかすむ、全身が悲鳴を上げている。脳味噌も腐りはじめ、パソコン将棋をやっていても、王手さえ認識できないときがある。
 それでも、私の長い経験と、たくさんの引き出しは、人生と人間社会の本質、正体が、人が人を愛することだと告げている。

 AI社会だ、IT社会だ、金融資本主義だ、新自由主義だとほざいていても、この世の本質は、人間しかない。人間が人間を愛することしかないと、長い経験が告げているのだ。
 どんなにロボットが進化しても、AI自動車だとか、電気自動車だとか、原子力社会だとか、人の向こう側、はるか彼方に幻想を見ようとしても、我々は、生身の人間から一歩も踏み出すことができないのだ。

 メシを食って、臭いウンコをひねり出し、可愛い子に惹かれて、エッチして子供を作り、食べ物を生産し、寝床を確保する人生以外、何一つ存在しないのである。
 コンピュータや機械で、人が生きることはできない。愛がなければ一歩も先に進めないのである。

 このことを理解できるようになったということが、「年を取った」ということなのだ。

  

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