FC2ブログ

Entries

 ブータンと日本

カテゴリ : 未分類


 私は、どちらかといえば外国に興味はあまりない。外国観光に注ぐ資金があれば、その金で日本の良き山々や温泉を巡っていたい。
 この10年は、皮膚病に著効のある乗鞍高原温泉や近郊の山々など、限られた地域ばかり行っている。

 しかし、そんな私でも、行ってみたい外国が少しだけある。
 その筆頭がブータンである。
 知立出身の実父が、たぶん第18師団に徴兵され、中支戦線からビルマ、地獄のインパール作戦に送られたのだが、少しだけ英語が話せたので、割合、早い時期に通訳として英軍との交渉にあたり、そのまま捕虜になったことで生き延びることができた。

 その実父が、ビルマ北部について語ってくれたことがある。
 そこは、夢のような桃源郷で、まるで日本の田舎、例えば、四国の山岳地帯のような険しい土地に、日本人とまるきり同じ民族に見えて、女性たちが心優しく親切で、ひどく魅力的で美しい地域だったという。
 このあたりは、プエラリア芋の産地なので、たぶん、地元の女性たちは、それを常食としていて、女性ホルモンの作用で優しく、美しかったのではないかと、後に考えた。

 ビルマ北部から西に向かってジャムナ河を渡れば、そこからブータンが始まる。女性たちがひどく魅力的なのは、プエラリア芋を産する、これらの地域に共通することだ。
 大きさは九州ほどの小国だが、亜熱帯の海抜100mから寒冷な海抜7600mまでの険しい山岳国家であり、その民俗を調べると、まるで四国や静岡の木地屋集団、あるいはサンカと似た文化があり、日本人にとって、とても外国とは思えないという。
 
 ブータンは、小国ながら、日本の最友好国である。ブータンは、おそらく確実に日本人と同じルーツを持っていて、ブータンの人々も、日本文化の知識を得るに至って、ほとんど日本ファンになるというのだという。
 先の東北大震災では、貧しい小国であるにもかかわらず、厳しい国家予算から100万ドル=1億円以上の支援を行ってくれた。これは同国の外貨準備高の一割にもあたる。

 ブータン人が日本人を身近に感じている最大の理由は、1964年からブータンの農業支援を行った西岡京治の業績によるものが大きい。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E6%B2%BB

 西岡は、ブータンと日本の気象条件が似ていることから、日本の野菜を導入し、大成功を収め、野菜文化の乏しかったブータン人の食生活改良に多大な貢献をしている。

 西岡が目をつけた、ブータンと日本の気象条件の類似について、実は、国立民族学博物館館長だった佐々木高明・中尾佐助らが、「東亜半月弧」照葉樹林帯文化論という概念を提唱し、そこに共通する文化、民俗が存在するという学説を提起していた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E8%91%89%E6%A8%B9%E6%9E%97%E6%96%87%E5%8C%96%E8%AB%96

 私は、若い頃から、宮本常一らの民俗学に傾倒していたから、佐々木高明の単行本が出たときは、貪るように読んで、ひどく興奮し、激しく納得したものだ。
 理由は、私が日本中の山を歩く過程で、遠州や四国の山岳地帯に居住する人々、木地屋の不可解な存在理由について、やっと理解できたからだ。
 しかし、彼らは、ブータンと日本の東亜半月弧における文化民俗の同一性について、「環境条件が同じ民俗をもたらした」と決めつけていて、私は「これは違う!」と憤った。

 ここに、ブータンに関して、優れたテレビ番組があったので紹介しておく。この番組中に、ブータンにおける数字の呼称が、まるで日本語と同じであることや、和服=呉服を着て、日本人と同じ食生活をしていることが紹介されている。民族性としての心優しさも共通するものであった。
  https://www.youtube.com/watch?v=HgqFpq0TZyw

 実は、こうした日本類似文化は、ブータンよりも、むしろ「レプチャ族」というシッキム地方の先住民から伝播した可能性が指摘されている。
 シッキムは、ブータンの西側にあって、チベットに挟まれている。注目すべきは、その言語が、万葉仮名にひどく類似していて、あまりにも日本的であることだ。
 その村落景観も、人々の人相も、四国地方の山岳地帯居住者が見たら、自分の故郷と勘違いするくらい日本的であって、区別がつかないほどだ。

 私たちの祖先 3
 http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.43.html

 レプチャ語と日本語
 https://ameblo.jp/central1961/entry-11085790088.html

 https://www.youtube.com/watch?v=7BuDbVipT_g

 佐々木や中尾は、東亜半月弧における照葉樹林帯という環境風土が似た民俗文化を生み出したと結論づけているが、私は賛成できない。
 食文化が似てくるのは仕方ないとしても、文字や数字、仮名の読み方まで同じになるとは思えない。どうみても、東亜半月弧の文化は、西側で発して、民族移動とともに東側に伝播したとしか考えられないのだ。

 ブータン・シッキム地方のレプチャ族が、3000年以上前に、雲南から上海周辺に移動してゆき、やがて海を渡って、台湾や日本列島にも伝播したと、私は予想している。
 それは、東亜半月弧の照葉樹林帯の特性が誘ったと考えるのが自然であろう。
 「海を渡る」という大イベントについては、三々五々、思いつくまま移動することなどありえず、これは戦争による民族滅亡から逃れるために、海を渡って逃亡したものである。

 記録された歴史によれば、2500年前に、そんな大イベントがあった。それは、史記に描かれた呉越戦争である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)

 この記述は、日本文学の一部にも採用されていて、知らない者は少ないだろう。当時、呉越の100年近い争いが、呉(蘇州)の敗北で決着したのだが、当時の敗戦は、「国ぐるみジェノサイド」で終わることが多かった。
 「坑刑」というジェノサイド刑罰があって、敗戦国民は皆殺しに遭う可能性が高かった。そこで、蘇州の水郷地帯に展開していた呉国民は、得意の操船技術を生かして、国ぐるみ脱出を図ったのだ。

 行き先は、おそらく台湾であり、朝鮮半島南岸であり、そして九州西岸であっただろう。ちょうど、この時期に皇紀2600年と称して、神武天皇が高千穂に降臨したことになっている。
 平泉澄の「万世一系・皇国史観」は、未だに多くの右翼系史学者を拘泥させているが、神武が呉から来たことを、いい加減認めないと、世界史認識から取り残されるだけだ。

 呉については、中国史や日本史にたくさんの記述がある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
 
 中国では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があった。
 『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。

 より詳しい記述が南宋の『通鑑前編』、李氏朝鮮の『海東諸国紀』や『日東壮遊歌』等にある。

 南北朝時代の禅僧・中巌円月が、日本を太伯の末裔だと論じた。イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は、神武天皇は太伯の2番目の弟である季歴(虞仲と季歴を混同したものか)の第6代の子孫であるとしている。
 儒学者の林羅山が『神武天皇論』で神武天皇の太伯末裔説を肯定した。
 鹿児島神宮(大隅国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。
『新撰姓氏録』では、松野連は呉王夫差の後とある。

 東夷伝の、「日本人は呉の太伯の末裔」という記述は、中国史学界では相当昔から、「日本国が呉の子孫」という認識をもたらしている。
 だから、和服といえば「呉服」 なのである。他にも呉の文化は、日本文化に多数の影響を与えている。
 先に述べたレプチャ万葉仮名も、実は呉を経由して平安貴族に伝播している可能性が強い。

 私は、3世紀に高句麗に発した女真族=騎馬民族が、日本列島の征服王朝を拓いたという江上波夫説を高く支持しているが、そうすると、日本列島には、東亜半月弧の民俗文化をひっさげて移住してきた米作農耕の弥生人と、中央アジア騎馬民族の弓月由来のツングースの2系統が存在して混血しているという結論に至る。

 実際に、私は、この理論を前提に全国の山々を登りながら、地方の民俗を調査したことがある。そして、弥生人が、もしも蘇州に似た風土の有明海に上陸し、大川市や柳川市に邪馬台国が成立していたなら、魏志倭人伝の記述が示すように北九州から瀬戸内に入り、大阪に移動し、最終的には静岡県に拠点を構えた弥生人の移動軌跡が鮮明に見えてきた。

 また、女真ツングース族は、釜山から対馬、隠岐の島を経て、出雲から福井沿岸に上陸し、近畿に騎馬民族王朝を成立させ、東山道を経て奥州にまで至った経路も確認でき、途上に住む人々の人相や民俗が、間違いなく高句麗由来のものであることを確認した。

 そして、この二つの民族は、近代に至るまで大きな混血はなく棲み分けてきた。もっとも接近した関西にあっては、京都が女真族であり、大阪は弥生人なのである。
 私の住む、中津川市は、今でも明瞭な女真族文化が残されている。東京・神奈川は確実にツングース由来の人々であった。

 そうした日本民族の構造が理解できてくると、次に、弥生人の原点であるはずのレプチャ族を調査してみたい意欲が抑えられない。しかし、何分、貧乏暮らしで、いつか行ってみたいくらいの願望ではある。

 日本人とそっくりの民族としては、日本書紀に記載された弓月氏の国、キルギスタンがある。キルギスタンとレプチャ族の関係については、「いずれも日本人に酷似している」という以外、何の資料もない。
 遺伝学分析も、はっきりしない。だから、まったく無関係かもしれないし、あるいは、同じルーツなのかもしれない。

 私がブータンを見たいという理由は、私にとっての民俗学最期の謎、ミッシングリングとしてのレプチャとキルギスタンの関係を知りたいということである。

 近年、キルギスタンがシルクロードの要衝であり、「失われたユダヤ十支族」が定住した地であると指摘されるようになり、これが秦の始皇帝を生み、秦氏を産み、女真族=天皇家に連なっていることが確実視されるようになっている。
 だからこそ、なおさら、ブータン・レプチャが日本人に酷似してい謎を深く知りたいのだ。

Appendix

プロフィール

tokaiama

Author:tokaiama
ツイッターのアカウントは、原発運転による健康被害をとりあげた途端に永久凍結されました

最新記事

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
その他
2位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
2位
アクセスランキングを見る>>

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

アクセスカウンター

アクセス数