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最期の革命 5 今こそ内なる利他主義の革命を

 我々は資本主義社会に生み落とされ、その経済体制に育ち、幼いうちから資本主義教育制度によって、その価値観をすり込まれ、洗脳され続けてきた。
 そして、その究極的本質は、「競争社会を無条件に受け入れよ」ということであっただろう。生まれ落ちて死ぬまで、人は競争し続けよと・・・・。

 「人として生まれたなら他人と競争し、他人を蹴落として階級階層の階段を這い上がり、自分だけ良い思いをしなければならない」
 「立身出世こそ人生の目標」 これが我々の与えられてきた教育的テーゼのすべてであり、価値観の本質であった。

 その成果は現実社会を見れば一目で分かる。
 「貧しい家の子供でも、一生懸命勉強して試験に勝ち上がれば、官僚や資本家になり権力・贅沢を謳歌できる」
 こうして、民衆は特権階級を目指して死ぬまで続く、長い長い競争に追い立てられることになった。それは、親の代で成し遂げられなければ、子の代、孫の代にまで引き継がれねばならなくなった。
 若者たちは、衣食住の現実社会を支えてきた底辺の農漁林業や職人、下町の工場には見向きもしなくなり、華やかなスポットライト、注目を浴びる「カッコよくキレイな」仕事ばかりを求め、また特権を得て社会に君臨できる官僚や大企業幹部を目指すことになった。

 こうして獲得した地位と蓄財こそ、競争社会のウイナーとして誇るべきものであり、その証として豪邸・高級車・美人妻、贅沢生活が与えられなければならず、競争を勝ち抜いて苦労して得た地位から、苦労に見合うだけのリターンを求めるのが当然と考えられるようになった。見返りのない努力など考えられないと・・・・。
 官僚たちは自分の地位と権益を極限まで肥大させ、退職後までも、特権を利用して税金をかすめ取る天下りの利権を構築していった。
 大企業経営者たちも、その地位、権力に見合う、収益を求め、そのために競争社会の敗者たちを家畜として使役し、搾取し、使い捨てするのは当然と考え始めた。
 そこまで至らない人たちは、せめてブランド品を身につけることで、特権を得たつもりの夢を見ようとするようになった。
 だから、国家は無謀・無益な浪費を重ねる構造に定着し、当然の帰結として急速に疲弊し、そしてサラ金に追われた庶民のように破産破滅のときが迫ってきた。
 国民は上から下まで、ただカネだけが、この社会の勲章であり、何よりも価値の高いものであると洗脳されていったのである。

 だが、学校や家庭での、こうした勝ち抜き、蹴落としの教育姿勢に対し、それを最初から素直に受け入れることができた者が一人でもいただろうか?
 母に甘え、友と遊ぶ、幼く純粋な心に生きる子供たちの誰が、他人を蹴落として自分だけの特権を得たいだろう?
 勝者として褒められ、敬まわれることよりも、成績など悪くとも、目の前の友達と暖かい気持ちを共有していたい、人に優しい気持ちでいたい。これが子供たちの自然な感情だったはずだ。
 人は心の底から湧き出でる喜び、感動を求めて生きているのだ。特権を得れば人生の感動が待っているのか? 地位・蓄財・豪邸・高級車で他人を睥睨し、高笑いすることが人生の感動をもたらすのか?
 それが愚かな妄想にすぎないことを子供たちはよく知っていた。

 しかし、人を差別する競争選抜を重ねるごとに、バカにされて辛い思いを重ねるごとに、テストや運動会で競争を評価されるごとに、人を畏れ、人を蔑む機会を重ねるごとに、他人を蹴落として自分が優れていると褒められる快感が、友情を陵駕してゆくことになった。
 競争に勝てば愛する家族が喜ぶという現実が、競争を当然のものして受け入れるようになる洗脳の決め手であった。

 純粋な子供の心は知っていたはずだ。カネや権威、権力よりも、友情、愛情の方が何万倍も価値の高いものだということを。
 「いい大学なんかいかなくてもいい、いい会社なんか入らなくてもいい、地位も金もいらない、ただ過不足のない生活、友と笑顔で語らう穏やかな人生がほしい」
 それが、いつのまにか、密かに友の転落を願い、自分だけが高笑いする場面を望むようになっていった。 どうして、あれほど嫌だった、他人の不幸を望むような卑劣、卑屈な性格になってしまうのか?
 それは、おそらく与えられた競争のなかで、敗者が惨めに侮蔑される現実を見せつけられることによるものだ。
 負け組になって転落していった者たちの、惨めで悲惨な境遇を見せつけられ、競争を否定する者たちへの疎外、弾圧を見せつけられ、権力に従わない者たちへの苛酷な刑罰を見せつけられてきた恐怖によるものだろう。

 どうして人間社会に競争主義がもたらされたのだろう?

 競争は人間の本能であって、社会は、その延長に作られる自然な姿だと解説する者が多いが、本当にそうなのだろうか?
 人間は、競い、争うことで進歩しなければならないのか? 世界中のカネを独占し、膨大な人類を破滅と飢餓に追いやろうとしている金融資本家(ゴールドマンサックス経営者)たちが言うように、競争によって淘汰されることが、本当に人類の発展・繁栄を保証することになるのだろうか?
 我々は、競争主義による人間社会の破滅を目前にして、もう一度、この命題を根底から問い直す必要がある。

 まずは、人類史において競争主義の思想が生まれてきた経過を振り返る必要があるだろう。それが本当に、人間社会の克服しがたい属性なのか?
 そして、民衆に差別を持ち込み、コンプレックスを持ち込み競争で追い立てることで、大きな利益を得てきた一群の集団に注目する必要がある。

 歴史上、最初に選民主義による差別体制を主張してきたのは、旧約聖書を掲げる地域における国家権力の成立とともにある。アフリカとユーラシアをつなぐ回廊、チグリス・ユーフラテス河畔に登場した国家群、そしてエジプト・ローマ帝国。
 この国家群のなかで、領土争奪戦争が繰り返され、国家間の激しい競争文化が成立し、世界中に拡大していったわけだが、その根源となった思想・宗教である旧約聖書に注目しなければいけない。ここにこそ、競争主義を肯定する選民思想の原点があることを知るべきである。

 旧約とは「神との旧い契約」の意味で、これを読めば、男性が女性を暴力で支配し、奴隷として利用する「男性権力社会」を導く思想であることがはっきりと分かる。
 不倫女性は投石で殺害され、盗人は手足を切断され、旧約を否定するものは殺害される。社会秩序は男性と権力者のために存在している。この掟によって新約をもたらしたイエスも殺害された。
 いわば、人々を処刑の恐怖で支配することで権力者の既得権益を守る思想といえよう。

 これは、現在の人類が登場した30万年前のアフリカから中東での繁栄に至るまでの大部分の歴史が、実は旧約の示す処刑の恐怖とはほど遠い、平和な母系氏族社会であったことを理解するならば、その崩壊とともに男性氏族社会すぐれて国家形成に至った歴史的転換を意味する思想である。
 旧約の成立前までは、人間社会は女性、母を中心とする母系氏族社会であり、今起きているような差別、競争、処刑の恐怖支配を原理するような社会運営は存在していなかった。
 旧約は、母系氏族社会のなかで男性が権力と財産を蓄積し、母系にとって代わって男系社会を構築しはじめたとき、それを支えるイデオロギーとして成立したのである。

 すなわち、集団における自由な性交が保証されるとき、子供は母の子としてしか特定できず、その父親を特定できないため、母系氏族社会の本質とは、多夫多妻制の集団婚であることが分かる。
 しかし、男性が力を蓄えて集団を率いるようになると、自分の子を特定して、権力と財産を相続することを求めるようになる。このため自分の子を産む母を、自分に隷属させ、他者と性交させないシステムが必要になり、これが一夫多妻制の始まりであった。
 このとき、長である男性の意志を無視して不倫した妻に対し、処刑の恐怖で支配することが必要であり、自然な人間性を無理矢理抑圧して、新しい男系社会のシステムに従わせるために、思想教育が必要であった。このためのテキストこそ旧約聖書の本質であった。

 妻を隷属させ、また男系氏族社会を刑罰の恐怖によって統制するために聖書と法が用いられることで、人々を氏族集団の奴隷として使役する体制が構築された。これによって氏族社会は、強制力を得てやがて国家へと飛躍することになる。
 国家の成立の条件とは、まさしく女性の男性への隷属、制裁・処刑システムによる恐怖の統制であり、人々の個人的な意志を無視して氏族・国家の目的のために邁進する集団が成立するようになる。そうして、氏族集団や国家群が多数登場してくると、その争いは激化し、競争、闘争が社会の全面に出てくることになる。

 人間の個人的欲求ではなく、名誉欲に導かれた集団イデオロギーが人々の生きる目的と化すようになり、人は国家の奴隷、家畜として命を捧げる道具になってゆく。
 この意味で、旧約聖書の示すものは、母系氏族社会から男性権力社会に変化してゆく社会、闘争、競争のない穏やかな氏族社会から、激しく領土争いをする国家社会へと変化していったなかで新たな秩序として登場した思想であった。

 そして、我々は歴史のなかに、「パリサイ人」という一群の人々が登場したことを知る。彼らは、史上、おそらく最初に通貨を支配し、金利を発明し、資本主義の骨格を作り出した。
 「カネ・金利」という経済システムが登場したそのときから、人は金儲けの競争社会に叩きこまれ、見栄を張り合い、国家間の膨張競争、そして絶え間なき贅沢競争・戦争社会に突入することになった。
 その本質は、「人の外に価値を見いだす」ことであり、人々は自らの内にあるはずの真の宝を見失い、自分の外に、ありもしない宝物の幻想を求めて彷徨いはじめた。

 我々は、「カネ」のシステムによって、あたかも価値が自ら作り出すものではなく、カネで買うもの勘違いさせられるようになり、自らを磨き、友と支え合い、手を携えて生きる思想を見失い、地位と権力、蓄財だけを価値を勘違いした愚かな妄想に生きることを強いられるようになった。
 このとき、自然にあったはずの人間性、すなわち利他主義を見失い、人々は徹底した利己主義に埋没することになった。

 今、拡大再生産のなかでしか生きられない資本主義がとうとう限界を迎え、そうした利己主義が、利用できる資源も植民地も失い、世界全体が発狂したかのような利己的金儲け思想に炎上し、まさに人類破滅のときがやってきた。
 もうすぐ、利己主義の楼閣は炎上し、崩壊し、人々には恐ろしい天罰が下されるようになる。
 利己主義の崩壊は、利他主義の導入によるものでは決してない。それは、食物が腐るように、自滅し、自身に内在する毒、腐り果てて崩壊しているのである。

 今、人類社会の巨大な崩壊を見つめ、我々がなすべきことは、この大崩壊が、人の内なる宝、「利他主義」を見失い、人の外に幻想を求めた結果であることを知ることのなのだ。

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No title

いつもみてます。

No title

全く同感です。で、これからどうする?

Re: No title

まだブログの使い方がよくわかりません 失礼しました
コメントありがとうございました
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