FC2ブログ

Entries

 スペイン風邪のもたらしたもの

カテゴリ : 未分類

 歴史上、微生物パンデミックは、「黒死病」と呼ばれたペストや、天然痘、コレラ禍と数多いが、もっとも世界中に拡散し、もっともたくさんの死者を出したのは、1918年~1920年に全世界を席巻した「スペイン風邪」である。
 この感染力の凄まじさから、同じコロナウイルスであるコビット19に対する強烈な警戒心が生まれている。

 被害推計は、いろいろあるのだが、当時、世界人口が20億人のうち、感染者は80%以上、死者は5000万人~1億人という評価が多い。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%8B%E3%81%9C

 驚かされるのは、人跡未踏のような秘境に住んでいる未開民族から、北極エスキモーにまで激しく感染が拡大したことで、100年前に「日本のチベット」と言われた程度の山奥の集落など、ひとたまりもなかった。

 私の祖母は、今住んでいる中津川市蛭川の隣、白川町黒川の出身なのだが、元々の先住民ではなかった。
 1910年(明治43年)に、三重県の富田町という海辺の町で生まれて、スペイン風邪の流行が収束した後に、一家揃って、黒川に移住したのだ。

 当時の黒川村は、周囲を1000m級の深い山々に囲まれた本当の秘境で、小澤征爾が数年前まで故、ロストポービッチを引き連れて、夏になると若手の音楽家を集めて講習や演奏活動を行ったことで知られるほど自然環境の素晴らしい土地である。

 なぜ、黒川かといえば、パチンコやネオンサインのような世俗から離れた本当の秘境だったからで、ここでは故、辻宏氏が、日本で数少ないパイプオルガン工房を設けていたことでも知られる。
 辻さんは、スペインでの活躍で、国家最高勲章を授与されているほど優れたパイプオルガン制作者だった。2005年に逝去された今は、工房は閉鎖されている。

 祖母が家族揃って、黒川に移住したのは、1920年頃のことらしいが、なぜ、黒川かというと、実は、岐阜県の山中の集落がスペイン風邪により、若者たちが大量死して、人口が急減したことにより、その穴を埋めるように向かったのだ。

 死者数など、正確な資料を得るには黒川村史を閲覧すればよいのだが、今はコロナ禍で、すべての図書館が閉じていて、当時の資料を確認することができない。
 朧気に伝え聞いた記憶では、第二波感染爆発のとき、いきなり致死的毒性が高まり、健康な若者たちが次々に倒れ、感染者の半数以上が死亡したという。

 黒川では中ノ平という村の中心地、黒川中学の真下に住んで、伊勢屋・冨田屋という雑貨店を開業していたのだが、まだ資本主義的な貸借や所有の常識、経験が浅い村人たちが、ツケで買い物をしても代金を支払わなかったために二軒とも潰れてしまった。
 別の見方では、スペイン風邪禍で、当時の黒川村の働き手の中核であった若者たちの多くが死亡したため、村は極度に貧しくなり、ツケの返済どころでなかったともいう。

 当時の若者といえば、すでに120歳前後であり、もちろん生存者はいないので、事情を聞くわけにもいかないのだが、確かに、祖母よりも上の世代が非常に少ないようだ。
 この戦争のような死者は、岐阜県内陸部に共通するもので、黒川村のような医療の恩恵のない地域で、極端な死者が出たようだ。

 1920年代といえば、まだ何もかも人力にしか頼れない時代なので、人がいないという現実は、村の存続にかかわる問題なので、村の長老たちは必死になって人を呼び寄せたのだろうと想像がつく。
 ちょうど、このころ、黒川村は、交通不便な内陸部でありながら「東美館」という生糸の製糸工場まで誘致している。女工哀史の時代だ。
 これも、若者たちを村に呼び寄せようと、長老たちが必死の思いで誘致したのだろうと考えられる。

 そうして、スペイン風邪の膨大な死者による空白を埋めるため、少しでも人口に余裕のある地域から、人口の急減した被害村落に向かって人口の移動が起きていたのだろう。
 その後、太平洋戦争が勃発すると、満蒙開拓団に参加する人が現れたのは、必ずしも黒川村が桃源郷ではなかったからのように、私には思われる。

 満蒙開拓団は、中津川市の坂下読書地区の人々が知られているが、行った人間で、ハッピーエンドを迎えた者は皆無だ。地獄という表現がふさわしかった。
 黒川の女性のなかに、何が起きたのか実名で証言する人がいたので、詳しく記録されている。

 <つなぐ 戦後74年>性接待 満州で1度死んだ 女性、遺族ら 歴史伝える決意 2019年8月14日
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201908/CK2019081402000138.html

 以下引用

 敗戦直後の旧満州(中国東北部)で、岐阜県の黒川村(現白川町)周辺から渡った黒川開拓団の女性が、団幹部の指示でソ連兵に性的な「接待」をさせられた。
 今月一日には地元から遺族会が中国の同団跡地へ墓参。中傷や差別を恐れ、口を閉ざしてきた女性や遺族らは近年「悲劇を語り継がねば」と、行動を続けている。(秋田佐和子、平井一敏、浅井正智)

 「(夫がいる)奥さんには頼めん…。あんたら娘だけ、犠牲になってくれんかと言われた。団の幹部にですよ」

 当時二十歳だった佐藤ハルエさん(94)=岐阜県郡上市=が、自身の体験を公に語り始めたのは二〇一三年。長野県阿智村にできた満蒙(まんもう)開拓平和記念館で講演した。接待をさせられた女性十五人のうち四人が性病などで現地で亡くなっている。今、存命者の中で、佐藤さんだけが実名で取材などに応じる。「満州で一度死んだ。どう思われたっていい」と前を向く。

 吉林省陶頼昭(とうらいしょう)に入植した黒川開拓団は一九四五年八月の敗戦で現地住民らからの略奪に遭った。団の男たちは侵攻してきたソ連軍に警護を頼み、代償に未婚の若い女性を差し出した。

 「怖くても嫌とは言えなかった。女は命を守るために性を提供することもある。そう教えられていた」。性の接待は二カ月ほど続いたという。

 元団員で、敗戦時は十歳だった安江菊美さん(84)=白川町=は、佐藤さんと同時期に証言し始めた女性から、亡くなる前に、語り部になるよう託された。現地で接待をする女性たちのために風呂たきなどを手伝っていた。性病予防と称し、医務室で女性が薬品をかけられていた様子など、見たままを伝える。

 七月二日には岐阜大から近現代史の研修に訪れた学生十二人に、町内に立つ「乙女の碑文」の前で説明。高校の社会科教諭を目指す井戸文哉さん(20)は「重くデリケートな問題だが、自分たちが伝えていかないといけない。使命感を覚えた」と神妙に話した。

 白川町でこうした動きを始めたのは、一一年に四代目の遺族会長となった藤井宏之さん(67)。父は開拓団の団員だった。町では満州で亡くなった四人を悼むため、八二年に会が「乙女の碑」を建立したが説明書きはなかった。語ることがタブー視されていたからだ。

 「罪深い歴史を後世に伝える責任を感じていた」と昨年十一月、会により性被害の実態を詳細に記した「乙女の碑文」を建てた。十五人もの関係者から意見を聞き、四千文字を費やして何があったのかを明らかにした。

 遺族会は今月一日、二年ぶりに墓参りのため旧満州の跡地を訪れた。藤井さんは「子どもたちに二度とつらい思いをさせたくない」と、暗い歴史と向き合う決意を見せている。
********************************************************

 佐藤ハルエさんは、本当に勇気のある女性で、「ウソをついたり隠し立てしたりするのが嫌」で、自分に起きた運命を、後世に伝えるため、証言をかってでた。
 私の祖母は、開拓団募集のときは、すでに出稼ぎ先の知立市で結婚していたので、開拓団に行かずにすんだ。

 多くの女性たちが「バイタ」と誹謗中傷されることを怖れて口を閉ざすなかで、唯一、「自分は一度死んだ、なんと思われても構わない」と、真実を後世に残す証言を決意した。
 幸い、身の上に同情した優しい夫を得て、郡上で幸福な老後を過ごしている。
 
 黒川は、とても貧しい土地で、仕事も少ないので、スペイン風邪禍後、20年もしたら、今度は若者たちが余ってしまい、祖母のように出稼ぎに出るか、当時盛んにもてはやされた外国開拓団に向かうかしかなかったのだ。

 今、私の住んでいる蛭川村でも、戦前は、石材業が盛んになり賑わったので、隣村の黒川村から、たくさんの移住者が来ている。
 黒川の女性たちは、蛭川の石屋に嫁入りすることが多かったという。

 ちなみに、祖母が、一家で富田町から黒川に入ったときは、まだ高山線など開通してなくて、中央線で、恵那駅に降りて、約50Kmの道のり、海抜1000mの峠を越えて徒歩で向かったそうだ。
 その後、修学旅行でも、黒川から徒歩二日がかりで恵那まで出たそうだ。若者たちは、通常、徒歩一日の工程だった。

 江戸時代は、黒川村も苗木藩の一部だったので、中山道の助郷に駆り出された。
 一日がかりで大井村に出て、名主の小屋に泊まり、数日間の助郷働きをして、また一日がかりで里に帰った。
 皇女和宮の将軍家降嫁のときはもの凄いイベントで、近隣の住民にとんでもない重荷を背負わせたことは、島崎藤村の「夜明け前」に詳しく描かれている。

 祖母は、祖父の死後、名古屋で事務員として、一人で生計を立てていたのだが、やはり数奇な運命に巻き込まれた。
 「奥様ジャーナル社」という団地新聞に勤めていて、社の企画で乗鞍に向かったとき、自分の育った白川町で、乗っていたバスが、飛騨川に転落したのだ。

 転落した2台の乗客107名のうち、助かったのは祖母を含めて3名だった。祖母は、土砂崩れで道路が遮断されたとき、伝令として、土砂降りの雨のなか、他のバスに向かった。自分のバスに戻ろうとしたとき、それは、ゆっくりと深さ50mの水量があった飛水峡に呑み込まれていった。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20090926.html

 黒川村は、今は、加茂郡白川町の一部なのだが、やはり大きな産業がないせいか、過疎化の一途である。
 小澤征爾の体調が悪化してからというもの、音楽家たちも来なくなった。

 今、スペイン風邪の再来のようなコロナ禍が始まっていて、調べている限り、感染者は可児市どまりで、まだ白川町には出ていないようだ。
 ありがたいことに、私の住む中津川市でも、まだ出ていない。
 しかし、このまま無事にすむはずがない。とりわけ、スペイン風邪と同じ猛毒化した第二波が迫っているといわれる。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1042.html

 明時代の劉伯温は、8月後半に、恐ろしい事態になると予言している。
 たぶん第二波が、スペイン風邪のように、全国の隅々を制覇して、人々を殺してゆくのだろう。
 私も、肺に基礎疾患がある身なので、助かるはずがないと覚悟を決めて、今は、ゴミ屋敷と身の始末に追われている。
  

Appendix

プロフィール

tokaiama

Author:tokaiama
ツイッターのアカウントは、原発運転による健康被害をとりあげた途端に永久凍結されました

最新記事

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
その他
3位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
3位
アクセスランキングを見る>>

カレンダー

07 | 2020/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

アクセスカウンター

アクセス数