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セキュリティ社会 その3

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 危機の妄想

 「セキュリティ」という思想は、どのように社会に登場したのか?

 人間の暮らす環境は、あらゆる危険に満ちている。「地震・雷・火事・親父」、天災に人災、事故・強盗・戦争・陰謀・ストーカー・詐欺・誤謬・強欲と、我々は生まれてから死ぬまで身の危険を感じ続けて生き続けなければならない。
 この意味で、人生は、まさしくサバイバルゲームだ。だから、セキュリティという思想が、人間社会の根幹に大きく根付くのもやむをえないかもしれない。

 だが一方で、セキュリティという考え方は、「人間が悪意を持って自分を襲う」という前提で、「自分の身を守る対策を講じる」という姿勢であって、人を「性悪説」に押し込めるものである。
 それは、人間社会と、その未来に対する明るい希望を曇らせるものであり、人を人間不信の絶望に閉ざすものでもある。
 そこには、「なぜ自分が襲われるのか?」という視点は問題にされず、「襲われる前に、そうならないよう問題を解決する」という視点も存在しない。「襲われる」という恐怖だけが勝手に一人歩きしているのだ。
 恐怖だけを問題にするならば、「人は悪さをするものだ」と決めつける、偏狭で矮小な思想、人に対して心を開けない頑なな人を、たくさん生み出してゆくことになる。

 世界には、「人は悪さをするものだ」と決めつけ、「だから悪さをした人間を見せしめに懲らしめることが必要だ」と、予防的制裁の思想を人生観・世界観の基礎に置いている人たちがたくさんいる。
 イスラム教・ユダヤ教・キリスト教・儒教などでは、民族ぐるみ、国ぐるみで、制裁の思想を人々に強要しているのが現実だ。

 宗教の本質は「戒律」にあり、人の自由な意志、行動を、ある特定の目的のために制限する機能がある。人類史を顧みるならば、宗教の本当の目的は、人民の幸福とは相容れない、政治・支配体制の正当化、維持にあることが分かる。
 だから、宗教の多くは、人の自由に寛容ではなく、政治目的に障害となる要素を取り除くために、信仰者を刑罰の恐怖で縛り付けるものが多いのである。

 たとえば、旧約聖書を信奉するユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、旧約に記されている通り、女性が自由に生きることを極端に嫌う傾向があり、男性にとって好ましからざる行動を女性がとれば、ただちに残酷な報復、制裁を行って殺害してしまうことが多い。
 とりわけイスラム教では、いまだに男性の束縛から離れて、自由な恋愛を求めた女性を敵視し、親の定めた結婚をせず、自由意志で恋愛しただけで、土に埋められて投石で殺害されるケースが後を絶たない。
 これは、主に、女性たちに対する見せしめであって、恐怖で人間を縛ろうとする矮小卑劣な姿勢というしかない。こんなものは人間の尊厳に敵対する愚劣な思想である。人の勇気を辱め、誇りを奪うものだ。イスラム的制裁思想は、人間として断じて許し難いものだ。
 
 なんで、こんな残酷なことをするかといえば、女性が男性の意志を無視して自由に性交し、父親の特定できない子を産むとすれば、男性が自分の子を特定して、その権力や財産を相続させるという男性権力社会→王権→イスラム家父長社会の倫理的基礎が崩壊してしまうからである。
 こうして、イスラム圏全体では、女性に対する愚かで不当な制裁、虐殺が年間、数万人~数百万人にも上っていると指摘されている。
 女性の自由な性欲を封じ込めるための「割礼」により性器を縫合された結果、妊娠・出産による裂傷感染で死亡してしまう深刻な事態も、北アフリカを中心に想像以上に多発している。
 http://www.asyura.com/0505/holocaust2/msg/394.html

 旧約聖書が、なぜ女性の性的自由を敵視するかといえば、それは男性支配権力を維持するために作られた思想宗教だからである。
 女性が社会の主人公になるのは好ましくないという思想は、社会全体に救いのない差別と対立の連鎖構造を定着させることになる。
 差別は人間にとって耐え難い屈辱感を与える。差別・侮辱された人は、その悔しさを他人に対する逆差別・蔑視で置き換えることが多い。だから差別は連鎖し、ネズミのように際限なく増殖を始めるのである。
 女性差別の結果、その次に社会の底辺にいる人々を差別するようになり、主人公にさせないようにする。すると彼らも、また新しい差別を作り出す。次々に差別を連鎖的・重層的に構造化することで、人々の連帯感情を奪い、階級・階層間の孤立反目をもたらしてゆくのである。
 こうした差別対立の増殖は、支配階級を利するもので、支配者にとって、これほど都合のよいものはない。
 一番トクをするのは、差別の一番上にいる支配階級ということになる。だから旧約の思想は、そうした支配階級トップによって生み出されたものであることが分かる。

 このように、権力者の利益を守るため、人と人との自由な連帯を疎外する思想体制は、本来人間に備わった自由、連帯、愛の思想を抑圧して成立するわけで、必ず、反体制思想を生み出すことになり、それを、さらに激しい残酷な権力で弾圧するという負の連鎖を生み出すことになる。
 体制は暴力で民衆を弾圧するようになり、恐怖によって萎縮させ、体制の物言わぬ家畜にしてしまうおうと考えるから、残酷な刑罰、死刑制度を作り出すのである。

 こうした懲罰・制裁を国是とする差別国家の共通点は「死刑制度」が生きていることだ。死刑制度の有無は、その国家の自由、民主、愛、人間解放のバロメータであり、人間の尊厳を計る物差しである。
 死刑制度の堅持されているアメリカや中国、日本のような国家では、人間が解放されていない、つまり家畜として扱われている社会なのである。そこには、人の勇気、愛情、誇りを大切にする尊厳思想は存在しない。
 こうした国家では、「人が間違いを犯す弱い愚かな存在である」という大前提に考慮が払われることはなく、愛情をもって人を育てるという「優しさ」の視点もなく、ただ、国家に都合の悪い結果をもたらした者は、厳罰に処し、その命を奪い、国民を恐怖で統制しようとするのである。

 そうした国家を支えている官僚やトップの連中は、国家の利益に適うか、あるいは敵対するかという尺度だけで民衆を見るわけで、間違いや失敗に対しては、制裁・報復によってでしか報いることはない。
 支配体制に貢献した者に対しては、「名誉」という一番安上がりなレッテルを貼ってすませようとするだけだ。

 だから、支配者は「人は国家に敵対する」という「性悪説」だけに支配されることになる。これこそ「セキュリティ」という愚かな思想を生み出した本質というべきである。

 「セキュリティの思想」は、このように、底辺の人たちに対する愛情が根源的に欠落した者たち、つまり、「国家、あるいは、国家システムによって利益を受ける立場の人が、利益を守るために、人の間違いを制裁する」という発想によって生み出されるのである。
 セキュリティを本当に必要とする人は、「人が自分を攻撃する」という被害妄想に囚われた人たちである。すなわち、人を攻撃に駆り立てさせるような理不尽な扱いを強いている張本人たちなのである。

 逆に考えれば、金持ちや役人たちに家畜のように使われ、飼育され、骨まで利用される立場の民衆にとって、セキュリティなど自分たちの怒りから金持ちや役人を守るためのものでしかない。
 貧しい人民にとって、セキュリティなど何の役に立つのか? 盗まれるものもない。これ以上、奪われるものもない。すなわち守るもののない民衆にセキュリティなど何の必要があろうか?

 セキュリティが必要な人たちは、「持てる人たち」だけだ。財産と権力、地位を持ち、それを公平に分配してほしいと望む人たちから隠し、守り抜くためのシステムがセキュリティなのである。
 
 ここで、「セキュリティ」というものが、民衆にとっては、何の役にも立たない無用の長物であっても、実は、国家における特定の階級の利益を守るために必要なシステムであるという本質が浮き彫りになる。
 この世に存在するセキュリティシステムの意味をもう一度考えていただきたい。
 セキュリティ・システムが、本当にあなたの生活を守ったことがあるのか?
 いったい誰から、いったい何を守ったというのか?
 あなたの家のセキュリティが、あなたの財産を泥棒から守ったというのだろうか? これは、セキュリティ思想信奉者が一番強調したい視点だろう。だが、よく考えてごらん。

 日本人、一般市民が、これほどまでにセキュリティを問題にするようになったのは、1960年代あたりだろう。
 それまで、貧しかった市井の家々には鍵を必要としない時代さえあった。泥棒が入っても、金目のものなどなかったからだ。人々は、地位や財産に頼って生きていたのではなく、一緒に住んでいた地域の仲間の人情に支えられて生きていたのだ。人情に鍵は必要ないのである。

 だが、そんな貧しかった時代から、日本の高度成長によって豊かになって行くにつれて、人々は、財産や地位を得ていった。
 人情は失われ、連帯も失われ、人々は互いを羨み、侮蔑し、孤立化していった。泥棒から守るべきものを所有するようになっていった。そうして、人が自分の財産を奪うのではと恐れるようになり、セキュリティが必要になったのだ。

 よく考えてもらいたい。泥棒のいない社会にセキュリティは必要か? 守るべき財産のない社会にセキュリティは必要か?
 そこに住むみんなが家族や兄弟のような愛情、連帯感に支えられている社会に、「他人に奪われる」という恐怖が存在するのか?
 どんなセキュリティが必要とされるというのか?

 アメリカという世界最大のセキュリティ国家は、戦後、「共産主義の脅威」なる危機意識をでっちあげた。
 「共産主義者が自由で豊かなアメリカを襲う」という巨大な危機意識を宣伝し、これを錦の御旗にして、朝鮮を侵略し、ベトナムを侵略し、数百万人の人たちを虐殺していった。
 我々は911テロ以降、同じような錦の御旗、セキュリティを掲げたアメリカが、「テロの脅威から国家を守れ」というスローガンの元、民衆の自由、権利、民主主義を拘束し、破壊し、人々の命を虫けらのように奪ってゆく姿を目撃してきた。

 「イラクは大量破壊兵器を所有し、人類を大虐殺しようとしている」
 とブッシュが高らかに演説し、アフガンやイラクに進軍し、大規模な軍事攻撃を仕掛けた。
 これによって、貧しい民衆から徴兵されたアメリカ兵も5000名の命を奪われ、イラクやアフガンでは、100万人をはるかに超える命が奪われていったではないか?

 それでは、全世界に宣伝した「大量破壊兵器」は、どこにあったのか?
 これこそ、アメリカ流セキュリティ思想の本質を余すところなく示しているではないか!

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