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大家族生活 その1 白川郷

  辻パイプオルガン工房で知られた白川町黒川出身の百歳になった祖母が先日、逝去した。
 このとき、老衰で動けない私の両親や、遠方居住の兄弟姉妹に代わって、親身になって世話を焼いていただいた親戚がいた。
 祖母の甥の嫁にあたる縁戚女性であった。痒いところに手が届くような素晴らしく献身的介護をしていただき、心から感謝するとともに、一方で、失礼ながら、彼女は、どうして、これほどまで人に親切にできるのか、民俗学的興味も湧いていた。

 彼女は合掌造りで知られた白川郷で昭和初期に産まれた。岐阜県には北の白川村と南の白川町がある。白川神道のご縁でもなさそうだが、不思議な因縁で祖母の甥と結ばれることになった。
 彼女の実家も荻町に近い合掌造り、医師の家だったらしいが、あの平沢勝英とも血縁があるらしい。
 白川郷出身者は、医師や牧師が多いという。他人を救うような職業だ。終生クリスチャンだった祖母の最期を看取り、葬儀ミサを行ってくれたのも、親戚筋の白川郷出身、木下牧師であった。

 白川郷は、1930年代末に、ナチスの迫害を逃れて日本に亡命したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの著書『日本美の再発見』のなかに、『この辺の風景は、もうまったく日本的でない。少なくとも私がこれまで一度も見た事のない景色だ。これはむしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ。』と紹介され、その僻遠さもあって、秘境マニアの聖地となった。
 
 もう一つ、白川郷を世に広く知らしめたのは、柳田国男である。柳田は、明治42年の旅行の紀行を「北国紀行」と「秋風帖」の両方に書いているが、秋風帖から遠山家に関する部分を抜き書きしてみよう。(6月4日、遠山喜代松氏宅で昼食をとったと北国紀行にある)

 【御母衣にきて遠山某という旧家に憩う。今は郵便局長。家内の男女42人、有名なる話となりおれども、必ずしも特殊の家族制にあらざるべし。
 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。
 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。
 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。
 里の家は皆草葺の切妻なり。傾斜急にして前より見れば家の高さの八割は屋根なり。横より見れば四階にて、第三階にて蚕を養う。屋根を節約して兼ねて風雪の害を避けんために、かかる西洋風の建築となりしなるべし。戸口を入れば牛がおり、横に垂れむしろを掲げてのぼれば、炉ありて主人座せり。】引用以上

 白川郷は、日本における代表的な大家族制度の村であった。ここでは一軒の家に42名の男女が居住していたと書かれているが、70代後半の親戚女性の記憶では、すでに大家族制度の思い出がほとんどない。
 
 すでに戦前、白川郷における大家族居住習慣は崩壊していた。それは、おそらく、徴兵制と学校教育により外の世界の情報が知られたことにより、戸主以外の男女が封建的束縛を受ける不条理な因習に対する反感が満ちていたせいであろう。
 明治の繊維産業勃興により、飛騨の女たちは「女工哀史」で知られる信州岡谷周辺の紡績工場に出稼ぎに連れ出されるようになり、苛酷な重労働でありながら、賃金労働と自由の片鱗を知っていった。
 とりわけ白川郷の女たちにとって、監獄的奴隷労働とさえ言われた紡績女工の仕事でさえ、故郷の毎日の生活を思えば、苦痛とも思えなかった。
 紡績女工は一日の拘束が14時間とも言われたが、白川郷の娘たちは、一日18時間もの、物心ついてから死ぬまで続く、プライバシー皆無の拘束労働を強いられていたからである。

 とりわけ、江戸時代中頃、養蚕産業が白川郷に持ち込まれてから、戸主夫婦以外の同居人たちは、あたかも奴婢のような存在となった。人生のすべてを奴隷労働に費やす悲惨な境遇に置かれた。
 冬期、積雪により、半年近くも外部と隔絶される苛酷な自然環境、狭い住居に数十名もの男女が同居するため、彼らは何よりもプライバシーに飢えていた。
 娘たちは高山の酒造・紡織産業が起こると、それに憧れて勝手に出奔するようになり、戦前には大家族が廃れていたのである。

 白川郷の由緒は、「平家の落人」といわれているが、山下 和田 小坂 新井 松古 木下といった名字から考えると、隣村の五箇山ほど確実性はない。しかし、鎌倉仏教勃興期、親鸞・嘉念坊善俊・赤尾道宗らが、この地方に真宗を布教し、大規模な拠点としていた歴史がある。
 平安時代以降、江戸時代までの日本では、権力の支配を受けない自給自足共同体が、むしろ都に住むよりも暮らしやすかったと考えられ、深い山々と豪雪によって隔絶された白川郷には、真宗がもたらした思想学問もあり、むしろ、桃源郷のような、穏やかで素晴らしい生活拠点だったのではないだろうか。

 この白川郷の住民を苛酷労働で苦しめるようになったのは、戦国時代、この気候風土が煙硝を製造するのに適していることが知られてからである。
 それは加賀藩前田家の領地であった五箇山で始まり、白川郷に伝播した。民家の縁下に屎尿と青草を積み上げておけば硝酸カリの結晶が採集できることが知られ、ポルトガル商人からの高価な輸入に頼らずとも、自前で鉄砲火薬が製造できることになり、各藩は目の色を変えて、この製造を強要することになった。

 それまで、あまりの山深い僻地ゆえに見返られることもなかった、この地がにわかに宝の山となり、高山藩も加賀藩も合掌村落住民たちに極秘の重労働を強いるようになった。
 白川郷のような大家族生活は、平安~室町時代の田舎では決して珍しいものではなく、鎌倉時代に領地を与えられた「一所懸命領主」の館では、ほとんどの一族・使用人(兵士・小作人)が大きな家で共同生活をしていたと考えられる。
 ただ女性の生理や妊娠・出産といったイベントを「穢れ」として嫌った(血にまみれるため)男たちによって、別棟を建てて住まわせたことから、徐々に、戸別生活が拡大したと考えることができる。
 ところが白川郷では、5メートルもの積雪があり、合掌家屋以外での生活が不可能だったため、遅くまで大家族共同生活の習慣が残ったのであろう。

 江戸時代、家康による民衆統治システムの要であった「五人組制度」により、そうした集団生活がバラバラに切り離され、一夫一婦制度が持ち込まれるまで、日本各地に、多夫多妻制度に近い共同体生活が残っていた。
 本来、一夫一婦制度を必要としたのは、我子に権力や財産を相続される必要のある武家階級や上流階級だけであった。妻が自由に誰とでも寝たのでは、我が子の特定ができなくなってしまうから、厳重な一夫一婦制の束縛を持ち込む必要があったのだ。

 ところが、一般庶民、地位のない農民にとっては、受け継がせるべき財産も権力もなく、ただ男女の自然な営みにより、勝手に子が産まれ、それを、みんなの力で育てるというスタイルで十分であった。
 これは極めて効率的であり、困ったときも、即座にみんなの力を借りられるから、楽しい気楽な共同体生活を送ることができた。
 このため、江戸期まで「持たざる民衆」の多くが、そうした共同体スタイルで生きていたと考えられる。それを、年貢納税管理のために「一戸独立」と「五人組連帯」制度を強要したのが家康であった。
 したがって、江戸時代以前の、自然環境の苛酷な地方では、白川郷のような巨大家屋による大家族共同体システムは決して珍しいものではなかった。むしろ、共同体なくして過疎地方の生活は成り立たなかったと考えるべきだろう。

 白川郷は、硝煙製造要求と苛酷な自然環境に加えて、深い山々に囲まれた狭い土地のため、分家が困難であったことなどにより、効率的な大家族共同生活を強いられてきたのである。
 だが、先に述べたように、村人たちは藩の要求により煙硝製造・養蚕などの激務を強いられるようになり、苛酷な生活に苦しむようになった。そこに文明開化がやってきて、明治、徴兵と学校教育が持ち込まれるようになり、他所の生活事情が知られるようになると、奴隷労働に甘んじていた下層生活者たちは、自由の天地を求めて高山や諏訪・岡谷、日本海沿岸などに飛び出すようになり、大家族生活は実質的に崩壊していったのである。

 だが、千年近い大家族生活で育まれた価値観は簡単に廃れるものではなく、合掌造りにたくさんの人が住まなくなっても、助け合い生活の風土風習が残ることになった。
 大家族ではプライバシーが損なわれるのは事実だが、一方で、上に引用した秋風帖に柳田が述べているように、白川郷に住む人々にとって「孤独」という概念は存在しなかった。
 その人生の価値観は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」であって、「人助け」こそ人生最大の喜びであった。

 冒頭で述べたように、白川郷出身者たちは「人助け」が大好きだ。
 「人を助ける」ことを人生最大の価値と認識しているのである。だから医者や牧師になる人が多い。あの平沢勝英も、最初は警察官として人助けを目指したのだろう。(現場の警官よりも警察官僚になってしまったことが、躓きだったが・・・)
 それは、大家族共同体生活のなかで育まれた価値観なのである。もっとも、世界文化遺産に指定されてから観光産業でボロ儲けの味を知った村人が増えてから、白川郷の人情も変わったといわれることを苦言として添えておかねばならないのが残念だ。(昨年、久しぶりに訪れたとき思い知らされることになった)
 余談ながら、白川郷同様、山深さ、僻遠さではひけを取らない『遠山郷』には、まだ人情が風化せずに残っていることを書き添えておく。風化は「カネの風」によるものだから。

 筆者は、アメリカの虚構経済というパイの存在によって成り立っていた「砂上の楼閣」である浪費経済体制が崩壊した今、国民の孤立した不経済な浪費生活スタイルが許されなくなり、再び効率的な大家族生活スタイルに帰るしかないと確信している。
 このため、世界各地の大家族共同体生活や、日本における大家族の歴史研究を通して、今後、我々が目指すべき大家族共同体のあり方を研究したいと考えている。
 我々は、もはや今年から、これまでにように孤立させられた一夫一婦制小家族分離生活を捨てて、大家族共同体生活に回帰しなければならないと考えている。
 
 これまで人間不信、人間疎外によって、孤立した家族、利己主義の価値観に洗脳されてきた我々が、大家族のなかで、上手に他人とつきあって共同体生活を運営してゆくのは、極めて大きな困難が伴うと覚悟しなければならない。
 人間不信、疎外感に洗脳されて、他人を信じられない人たちを、どのように大家族共同体生活に導いていったらよいのか、シリーズで問題提起しようと考えている。sirakwa.jpg

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