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利己主義から利他主義へ その2 想いから生まれる、この世界

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 イエスの有名な一節 『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん』「マタイ福音書」
 (念のために言うが、筆者はキリスト教の信者ではない。キリスト教は、キリストの名を利用した反キリストのインチキ宗教だと確信してる。イエスは旧約を破棄するために登場したが、『キリスト教』は、すべて旧約を復活させていることに注意)

 この言葉の意味は、「この世界は、願い、想いの実現する世界」ということだ。「想い」が先で「結果」が後だと言っているのだ。言い換えれば、「想う心」が先にあり、それによってのみ結果が生みだされると明確に述べている。
 これが唯物論者なら、結果は「想い」と無関係に、すべて偶然に左右されると考えるわけだから、「求めたって、尋ねたって、門を叩いたって、与えられる、見いだされる、開かれるとは限らんわい!」と冷たくあしらうことになる。

 人間が住んでいるこの世界は、ダーウィンが指摘したように偶然の累積・確率によって定まる世界ではなく、すべて意志の関与した必然の世界だとイエスは言っている。この世に起きることには偶然はなく、すべて心が求めた結果であるということだ。
 これは進化論の世界で、偶然による淘汰法則(ダーウィニズム)を否定して、生物は意志の作用によって進化したと主張した今西錦司と同じことを言っているわけだ。

 ヘーゲルは、同じ立場で、最初の意志を「絶対精神」(イデー)と名付けた。そして人類史とは、それが否定されて唯物論に傾き、さらに、もう一度否定されて唯心論のイデーに戻った段階で完結、オシマイになると考えた。
 人類史にあっても個々の人間にあっても、イデーによって人が誕生し、たくさんの人生で自己否定(カルマ)を重ねて、ついには人生の意味を終わって宇宙に溶け込むと考える。この世は、意味のある「合理性」によってのみ存在が成立し、意味がなくなれば消えてしまうとヘーゲルは指摘した。
 これを「否定の否定」 「対立の統一」という弁証法法則で解明しているが、興味のある方は、自分なりに弁証法を学ばれたい。ただし、アカデミーの推薦する哲学書や解説書の大部分は、「哲学者」と呼ばれたさに、知ったかぶりの屁理屈を並べただけのゴミばかりなので、既存の学問を学ぶことはやめて、自分の人生経験を統括して、その法則を自分のアタマで抽象しなければ絶対に理解できないと忠告しておく。

 イエスもヘーゲルも今西も、最初に絶対的意志が存在し、その作用で進化が起きていると考える唯心論である。進化の本質は「合理性」である。合理性、つまり意味が消えれば進化も終わり、滅びがやってくる。
 だが、ダーウィンやフォイエルバッハ・マルクスなど唯物論者は、まず物質ありきと正反対の主張をしている。物質は偶然によって支配されているから、合理性など無意味だ。また、それは合理性、意味とは無関係に永遠に存在し続けると考える。
 こんなわけだから、唯心論VS唯物論という論争は、人類思想のなかで一番重要な本質なのである。この、どちらの立場で、ものを考えるかによって、世界が逆さまになってしまうことも起きる。

 筆者も、昔、(高校生の頃だが)マルクス・エンゲルス・毛沢東に夢中になっていた時代があって、学校教育による洗脳の土台があるから、当然のように唯物論者であった。
 社会を動かす原理は、物質の過不足であり、人間の原理は肉体存在であって、物質や肉体に規定されて心が生じると絶対的確信をもっていた。すべての意志は物質によって成立するというわけだ。
 神などいるはずがない。そんなものは人間の空想・妄想が産み出した金儲けのための利権詐欺だ! 筆者は実家の仏壇を叩き壊してやろうとさえ考えたが、母親に泣かれてやめた。

 唯物論は分かりやすい理屈だが、物質が心を生みだすとすれば、肉体の死によって心も、すべての意味も消えてしまうわけだから、今の肉体を極度に大切にし、自分の肉体と心だけを絶対価値と考えて行動するしかないわけだ。
 こうなれば、死ぬのは絶対に嫌だ。誰が人助けのために危ないことなんかやるもんか! 徹底的に自己利益を追求し、面白おかしく人生を終わりたい。死によってすべてがオシマイ・・・・チーン。
 「自分さえ良ければよい」 徹底的な利己主義だけが、唯一の正しい価値観ということになるわけだ。逆にいえば、利己主義は唯物論の慣れの果てなのである。

 ところが、イエスはそうではないという。
 我々の生きているこの世界とは、願ったこと、求めたことが叶う世界だとイエスは指摘している。ただ受動的に流されているだけでなく、能動的に問題を解決したいなら、まずは願いなさい、求めなさいと言っている。
 つまり、世界を作っているのは心だ。社会も人間の肉体も、すべて心が作っているのだと。極端に飛躍すれば、今、我々が向き合っている対象的世界は、いわば、心の作り出した幻影であるともいえよう。

 心次第で、対象的世界は、いくらでも変わるのだと言っているわけだ。
 こうなれば、自分の肉体も心の産物であって、肉体よりも心を大切にしなければならないことになり、利己主義は通用しないことになる。
 酒池肉林に囲まれて、どんなに究極の贅沢が実現できたとしても、そんなことは無意味だ。「飲める酒には限度があり、胃袋には容量があり、美しい女も飽きればブスより劣る」であって、贅沢など心の平安に比べれば何の価値もないことだと・・・・物質ではなく、心の喜び、心の平安、心の満足こそが、最高の価値なのだと指摘しているわけだ。
 自分の肉体と、それに付随した財産や権力よりも、その元になる心を大切にしなければならず、自分の心を生みだしてくれた周囲の愛情こそ、この世で一番大切な価値であるという思想が成立することになる。
 そうして、北朝鮮・中国のような圧政・暴政や不合理により、心を苦しめるような事態が起きれば、肉体の保全よりも、心の満足をを優先させるために、己の肉体を滅ぼすことだって当然だと諭している。愛のためなら死など問題にならないということだ。

 これこそ利他主義の核心にある論理だ。「ニワトリが先か、卵が先か?」 「心が先か、物質が先か?」の論争にあって、明快に「心が先だ」と確信することによって、利他主義が成立するのである。
 「心が現実を産み出す。物質的世界を産み出す」
 という唯心論の原理が正しいとするならば、これまでの常識は天地大逆転だ。
 この意味するところを、ひねくれて考えるなら、この世では、願わないことは決して実現しない世界であり、どんな、残酷で理不尽な結果が与えられたとしても、それは自分の願いが産み出すものだということにもなってしまう。
 つまり、道路に飛び出して、車に轢かれるのも、轢き逃げの加害者になるのも、猟奇殺人の被害者になるのも、交差点で橋桁が落下して下敷きになるのも、津波に流されるのも、女房が他の男と浮気することも、すべて自分が想い願った運命が実現したのだと指摘しているのである。

 「そんな馬鹿な!」
 筆者も、最初、こうした結論をもたらす唯心論などバカバカしくて話にならないと拒絶していた。
 「人は、良い思いを求めるはずだ。不利益になること、自分の死を願う者など、どこにいるんだ・・・・馬鹿にすんじゃねえ!」
 と考えるのが当然だ。資本主義による戦後教育を受けてきた我々の大半が、「物質が心を規定する」 「現実は偶然によって左右される」 と確信しているはずだ。学校で、そう習ってきたのだから。心が世界を作るなどとテストの答案に書いたら零点を付けられた上、オチコボレにされたあげく、精神病院送りになるような社会だったから。

 だが、我々は真実を見抜く力を奪われてきたことに気づかねばならない。
 テレビやマスコミや、芸能やスポーツや受験競争などによって、思惟・思索の時間を奪われ、自分のアタマで考える姿勢を弾圧され続けてきた。我々は与えられた結果だけが見える盲人にされ、自分の足で歩き、自分のアタマで考える能力を奪われ続けてきた。
 我々は国家や支配者の定めた回答だけを書くように強いられてきた。教育体制の指定したシナリオから一歩でも外れれば、国母のように朝青龍のように弾圧され追放されてきた。
 我々は国家に利用されるだけの愚かな家畜として飼育され、見ざる、言わざる、聞かざるの愚民に洗脳されてきたから真実が見抜けなくなっていたのだ。

 自分の真の願いがどこにあるのか? 願いには真と偽があることを分かっているか? 教師に定められ、国家に強いられた回答が、あなたの本当の願いなのか?
 もう一度、よく考え直してごらん。
 人は平気でウソをつく。自分に対してもだ。高度に洗脳された現代人の心には複雑な裏表構造があるのだ。だから、あなたの見せかけの願いは、あなた自身をも欺いているウソかもしれない。だとすれば、それは自分の真の想い、願いではなく、ゆえに、本当の心は、それが実現しないことを願っていることになる。

 ユリゲラーがテレビの前で、「さあ、みんなスプーンを持って、曲がれと念じよう」 と呼びかけたとき、本当にスプーンが曲がってしまった人がたくさんいた。しかし、どんなに念じても決して曲がらなかった人も大勢いた。
 このとき、心に裏表のない人はスプーンが簡単に曲がった。しかし、表では曲がれと念じても、裏の心が「曲がってしまったら怖い・・・・学校では超能力など存在しないと教えているではないか・・・・・曲がれば、これまでの価値観が崩壊してしまう」と恐怖する複雑な心の持ち主は、「曲がれ」とかけ声をかけながら、心の奥底では「曲がるな」と念じていたことになる。
 「曲がらなかった」やはり超能力はインチキだった・・・と安心したいわけだ。
 真の心が「曲がるな」と願っているのに、どうしてスプーンが曲がるだろう?

 「願いが実現する世界」に生きているとは、どういうことか? 
 と言ったって、フォアグラを食いたいと願えば、目の前に飛び出してくるほど単純なものではない。心とは何かを理解しないと、この言葉の意味は分からない。
 実は、求める心、実現している想いとは、人間の皮相の願い、想いなどではなく、深奥の心、想いである。いわば潜在意識といってもよい。
 人の心には大きく分けて二種類ある。顕在意識と潜在意識だ。

 顕在意識とは、潜在意識に操作された心であり、現実の世界のなかで、自分が人生の規範と信ずる観念によって洗脳された心である。教育やら、常識やら、宗教やらの観念によって粘土細工のように作り出されたものだ。
 潜在意識とは、深奥にある真実の心である。「自分が本当に願っていること」というものは、この潜在意識である。

 例えば、20年前、広島で交差点の橋桁が落下して、信号待ちしていた車が潰されて15名が死んだ。
 この事故で死亡した人々は偶然の不幸と片付けられたが、先に述べた「想いの実現」という論理でいうと、死ぬために、ここに集まってきたことになる。そして、それぞれが死ぬ理由を抱えていたということになる。
 実は、下敷きになる運命だった幼稚園の送迎バスがあったが、現場に差し掛かる直前、園児がトイレに行きたいといったので数分遅れることになり、被災を免れた。
 後に調査したが、いったい、どの園児がトイレに行ったのか、誰も思い出せなかった。記憶を辿って特定した園児は、事故前に転園していた。

 我々の置かれている、この世界では、あらゆる出来事が偶然、登場してくるように思える。だが、本当は、偶然など皆無だ。すべての事物現象が原因と結果の因果関係をもって必然的に起きるのである。したがって、そこには法則がある。 次号に続く

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