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利己主義から利他主義へ その3

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 利己主義から利他主義へ その3

 我々のいる、この世界では、あらゆる出来事が偶然、現れるように思える。だが、本当は偶然など皆無だ。すべての事物現象が因果関係をもって必然的に起きるのである。したがって、そこには法則がある。

 広島の橋桁落下事故による大事故で亡くなった人たちも、偶然、通りがかったのではなく、それぞれ意味を持って集まってきて、死ぬべくして死ぬと書いた。生きなければならない運命の者たちは、橋桁に差しかかる直前尿意を催し、パチンコ屋のトイレを借りていて助かった。交差点で止まったタクシーも、信号無視して暴走し、助かった。
 日航123便に搭乗していた人たちも、決して偶然ではなく、乗るべくして乗った。坂本九は乗って死亡したが、乗るはずだった逸見政孝や稲川淳二、明石家さんまは、なぜか乗らなかった。
 それは、おそらく、彼らが、まだ死の運命に至っていなかったからだ。生きねばならない必然性があったからだ。

 この世に偶然など存在しない。すべては必然である。そして、必然を貫く法則がある。
 それは『カルマの法則』である。年齢を重ねるごとに、失敗と反省を重ねるごとに、それが真実であると深く思い知らされ続ける。カルマとは何か?
 それは人生の本質である。人はカルマによって登場し、カルマを克服して消える。人の一生、人の運命を定める本質はカルマである。
 人生とは何か? それは、カルマを克服するプロセスである。すなわち、対象世界の真実を見抜くことである。自らを自然の摂理に一体化させ、ムダ、無益な幻想から解放され軽やかに宇宙に同化してゆくことである。
 カルマを消し去ったとき、人は宇宙に溶け込み、人生は意味を失う。もう人間という不自由な肉体を捨て去ることができるのだ。

 人は愚かな生物であり、過ちを犯す存在である。たくさんの失敗を繰り返し、人生の本質を体で思い知らされてゆく。失敗するたびに、余計な思いこみ、幻想は消え、真実の中味がはっきりと見え始める。
 自分の愚かさを思い知るたびに、世界が透き通るように見えるようになり、あらゆる煩悩・懊悩から解き放たれ、無意味な欲は消え、すべての運命を受け入れることができるようになる。

 我々は、宇宙の光、天空の意志から誕生した。そして、我々は輝く意志から放り出され、暗黒の荒野に投げ捨てられた。
 それは、何一つ見えない無知蒙昧であり、何一つできないデクノボウであり、それは、苦難と苦悩に満ちた愚かしい人生であった。
 我々の人生は、失われた自らを探して彷徨う旅路であった。
 愚かな失敗を繰り返して学び続け、真実を知り、もっとも高い合理性を獲得し、結果として、すべての欲から解放されたとき、自らを再発見することができる。
 このとき、再び宇宙に戻り、溶け込むのだ。

 我々は利己主義に囚われ、人生の真実を見失う。逃げ水のように際限のない権力や金、贅沢の幻想を求め、他人を出し抜くことの救いのない愚かしさを思い知らされ続ける。
 人から奪い、人を傷つけ、人を犯し、人を殺し、利己的な金儲けや権力、権威、地位に邁進し、それが結局、自らに、その数百倍もの苦悩をもたらす愚行であると、繰り返し思い知るのである。
 そうして、やっとの思いで地獄の利己世界から抜け出し、利他の合理性を見いだすことができるのだ。

 利己の愚劣さを知り、利他の真実を見抜くために、我々は何をしたらよいのか?
 それは、偶然の連続のように見える対象世界が、必然に貫かれている真理に気づくことだ。

 我々が、目にし、感じ、触り、歩むこの(対象)世界は混沌に満ちて、何もかも雑多な偶然に支配されているように見える。
 しかし真実は違う。無秩序な混沌しかないならば、我々は、この世界で生きることさえ不可能だ。我々は、この世界に「秩序」を見いだすことで生きている。
 秩序とは何か?
 それは、「一定の原因で一定の結果が起きる」という原理であり、原因のない結果は存在せず、すべての事物現象に原因と結果があるという真理である。
 我々は、この因果関係を知ることで、すべての現象を因果の流れのなかで理解することができるのである。

 秩序を知ることで、この社会における苦悩の理由を知り、それを改善し、あるいは問題解決することが可能になる。
 この社会が、かくも間違った方向に進み、人々に耐え難い苦悩を与えている現状を解決するためには、一番、根本にある原因を知り、それを解決しなければならない。
 この社会に苦悩をもたらしている最大の原因は、利己主義である。これを証明する前に、もう少し、「人が知るということ、因果関係を理解し、問題を解決する」ということの意味を深く考えてみよう。

 秩序を見いだすことができるということは、実は、この世界が秩序に満ちているからだ。因果の必然的な流れから一歩も外れていないからだ。デタラメ、偶然が存在しないからだ。
 デタラメに見える対象を解きほぐし、秩序を見いだす行為を認識と呼んでいる。
 「認識」とは何か?
 それは混沌に見える無秩序な対象に、秩序、法則を発見することである。それは共通点を見いだすことからはじまる。
 我々は対象世界の共通点を発見し、「同じ現象」に対して共通の言葉を冠する。

 例えば、火が燃えているところに体を近づければ「熱い」。それは「熱いから火があるかもしれない」という真理を示すものだ。
 熱いには、「暖たかい」 「怖い火傷」 「焼失」 「料理」など、たくさんの事象があるが、それは「熱い」という包括的な言葉(抽象→カテゴリー)の下に、重層的に含めることができる。つまり、「熱い」→「だから暖かい」→「だから危ない」→「だから調理できる」というように「熱い」を生活に利用できるようになる。
 これによって生活の秩序を確立できるわけで、これが因果関係の認識ということだ。

 寒さで死にそうになれば、「暖かい」という意味を知り、火傷すれば「熱い・危ない」という意味を知り、熱で調理した食物から「うまい」という概念も発生する。
 「熱い」という言葉の先に、たくさんの事象を思い浮かべ、「熱いから火事かもしれない」 「火傷するかもしれない」 「暖まれるかもしれない」 「調理できるかもしれない」と連想し、「熱さ」という言葉を利用して生活に役立てるのである。

 「熱い」という言葉一つには、さまざまの因果関係が広がっていることが分かる。これらの現象は偶然ではなく、「火が燃える」という原因の結果として成立するのであって、これが『因果関係』である。
 我々は、原因と結果の流れを理解できている範囲において、これを『必然』と呼ぶのであって、火があれば「熱い」のは『偶然』ではない。

 現象を『必然』と言った場合、『偶然』との本質的な違いは、その現象を利用できることである。
 因果関係を法則として認識すること。「火が燃えて熱ければ火傷する」ならば、「火傷しないために火に近づかない」という論理が成立することになる。
 「火が燃えているなら料理ができる」 と拡張することもできる。
 『偶然』起きることとは、因果関係が理解できないことを指すのであって、理解し、その本質を利用できるときは『必然』なのである。

 『すべての現象は、「心の法則」によって現れる』と指摘してきた。
 命は心の安堵を求めている。例えば『進化』を考えてみよう。
 生物種は、原始的な状態から「進化」し、より合理的、機能的なスタイルに変化してゆく法則がある。ダーウィンは、進化は偶然に貫かれていると指摘した。
 「キリンは首が長い」 首の長いキリンは他の草食生物よりも自由に高い葉を食べられたので、たくさんの子孫を残すことができ、結果として、首の長いキリンばかりになった。
 「マグロは早く泳ぐ」 遅いマグロは、シャチや鮫の餌食になって、早いマグロだけが生き残ることができた。
 これが『自然淘汰説』である。
 だが、この理論には重大な欠陥がある。
 偶然の作用で突然変異が発生し、環境適応だけを理由に、劣位種が淘汰されたという理屈だが、突然変異を偶然だけに求めるならば、足が三本や七本の人間が誕生し、二本よりも生活能力が劣ったから淘汰されたと説明しているわけだが、 我々が、自然界を見渡しても、そんな極端な突然変異など滅多にあるものではない。せいぜい、指が長かったり、一本余分にあったり、耳が大きかったり、目がよく見えたり、見えなかったりくらいが普通だ。ダーウィン論は、突然変異の条件が、とても不明瞭なのだ。

 ダーウィン論に対して、今西錦司は「棲み分け進化論」を提唱した。「棲み分け」は種同士の社会的関係を表す概念である。カゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている。
 「流れが遅く砂が溜まったところに生息する種は、砂に潜れるような尖った頭をしている」
 「流れのあるところに生息する種は、泳ぐことに適した流線型の体をしている」 「流れの速いところに生息する種は、水流に耐えられるように平たい体をしている」
 このようにそれぞれが棲み分け環境に適応し亜種が成立することを示し、もしも、これが突然変異と淘汰だけで動的平衡が成立するとするなら、変異はダーウィンの示した数百倍も頻繁に起き、淘汰も同じように劇的に進むのでなければ、説明がつかないというわけだ。
 今西の観察によれば、変異は決してランダムではなく、生物にとって都合のよい方向性をもち、意志の関与が認められるという。
 このことは、ゆっくりとした突然変異と確率論的自然淘汰を原理とするダーウィニズムと真っ向から対立するものである。

 この意味するところは、生物の進化が、生物自身の要求、心の求めによって起きていることを示すものである。と同時に、ダーウィニズムが偶然に支配される唯物論の原理を生物に、そのまま適用したのに対し、今西は、唯心論の原理を持ち込むことになり、『生命』の根源を巡る、地上でもっとも本質的な対立を示したのである。
 すなわち、「進化は、偶然によるのか、それとも意志によるのか?」

 もし、進化が意志によって支配されるということが真理であるなら、それは、この世のすべての現象に意志が関与する可能性を見いだすものとなる。
 逆に、進化がダーウィニズムどおり、偶然に支配されるものならば、宇宙は物質と偶然の作用だけで成立していることになる。

 『意志が世界を変える』
 このテーゼが真理ならば、冒頭に述べた広島橋桁落下事故や日航123便の被災者もまた、意志の作用を考える必要があることになる。人は潜在意識の求めに応じて死地に向かうこともありうると考えるのだ。
 進化論→唯物論・唯心論とは飛躍的な拡張論理のように思われるだろうが、決してそうではない。
 なぜなら、宇宙の原理はフラクタルな共通性に満ちているからだ。心が先か、物質が先か? という原理は、この宇宙をあまねく貫く究極の原理なのである。

 対象世界を作り出すもの、それは己の心である。
 暖かい世界を求め、暖かさを人に与え続けるなら、世界は暖かく、自分に還ってくるものも暖かい。
 金儲けや地位、権力の価値に幻想を抱き、人を出し抜き、ときには命をも使い捨てにして満たした欲望にが、どれほど人の心を癒すだろうか?
 他人を犠牲にし、その不幸を踏み台にして物質的豊かさを求め続けた人生に待ち受けるものとは何か?
 金融資本が世界中の富を奪い尽くし、人々の生活を破壊し、苦悩と苦難を与え続けていることで、その主役たちは、巨額の富を受け取り、代わりに何を失ったのか?
 人を苦しめ続けた利己主義の彼らに、最後に還ってくるものとは何か?

 この真実を見抜くために、我々は、世界と人生の原理が、物質ではなく心であることを思い知る必要がある。

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