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人は死なない

 死刑を執行されれば、肉体は維持機能を失い朽ちてゆく。だが、これは肉体の死にすぎない。
 もう一つの自我=個性を定める属性=魂は生き続ける。ならば、本当に人の個性を定める属性は、実は簡単に滅び行く肉体ではなく、永遠に生き続ける魂なのである。

 人生は、一つの肉体の誕生と死で終わるほど単純なものではない。魂というものの実在を認めるなら、それが永遠不滅の存在であることが知られている。
 人間の本体は、肉体ではなく魂である。魂は、何千世代という肉体を支配し続ける。

 ほとんどの人は、「魂」の実在について懐疑的である。肉体が滅亡すれば、意識もすべて終わってしまうと信じている人が大半なのだ。
 だが、もし本当に、肉体の死で、すべて終わってしまうなら、死後を祀る、あらゆる歴史的な形象=例えば寺社教会墳墓の類い、葬送儀礼などは、すべて人間の想像あるいは妄想の産物ということになってしまうが、決してそうではない。

 死後の世界に対する宗教的儀礼の存在は、死後の世界の実在を反映したものである。本当に死後の世界があるから、それを示す施設や祭祀の歴史があるのだ。
 幽霊が出るから、それを鎮めるために社や祠や神社ができるのであり、何も起きないのに、多額の費用と多大な手間をかけてまで、死者を祀るほど人間は暇ではないのである。

 私は幼い頃から、実家のなかを動き回る肉体を持たない人外の存在に気づいていた。それが発する音、臭い、なんともいえない背筋が冷たくなる不快感などに否応なしに気づかされていたからである。

 世間には、それが見える人がいた。山伏行者や、霊能者と呼ばれる人なのだが、ちょうどテレビに出てくる宜保愛子・江原啓之・木村藤子のような「霊の見える人たち」である。
 彼らは、一様に、私の実家に恐ろしい存在がいると言った。
 緑風荘に現れるような「めんこい座敷わらし」ではない。白髪を振り乱した恐ろしい老婆なのである。

 「この土地には絶対に住んではならない」

 と彼らは言った。母親は恐怖し、父親に移住を哀願したが、父親は断固として拒絶した。
 少ない給料から、節約に節約を重ね、自分で石炭ガラを投入して田を埋め立てた土地、やっと購入した一国一城なのである。悪霊ごときで追い出されてたまるものか……。

 そこで、毎日、誰もいないのに、バタンパタンと開閉するドアや、何もいないはずなのに奇っ怪な音の出る天井と向き合い、家族全員が次々に病気になったり、父親が警察に連れて行かれたり、近所の娘が自殺したり、隣家の青年が異常行動を起こすようになったり、自分自身も、かなりひどい運命に巻き込まれたりの、まさに異様な人生を送る羽目になった。

 「世の中に恨みを持った霊がいて、この周辺に住む人々に祟りをなしている」

 と霊能者は言った。
 母親は恐れて宗教団体に入ったり、大規模な除霊祈祷を行ったりしたが、運命が好転することはなかった。

 これ以上当時のことを語ることはやめておこう。
 世の中には、自分の理解できない事象に対しパニックに陥り、とんでもない暴走をする愚かな人々がたくさんいる。

 また、不安から、暴力的な同調圧力をかける人も大勢いる。「わけの分からないこと」に対し、怯えて自分を見失うのである。
 もしかすると、私の実家の周囲で、パニックを起こして暴走する人も出てくるかもしれない。

 ちょうど、フクイチ事故で、放射能汚染された地域の住人のうち、汚染に対する不安を口にした人に対し、暴力的な同調圧力による口封じを強要した例がたくさん報告されているのと同じである。
 フクイチ事故の放射能汚染は、霊障など比較にならないほど深刻で恐ろしい事態なのである。霊など怖がってる暇があれば、放射能を怖がれと私は言いたい。


 今でも、私は肉体を持たない人=霊が近づいてくると、目には見えないが、背筋が寒くなることで感覚的に分かるし、ときどき、この人の生前の「臭い」を感じ取ることがある。

 震災後、北海道から国道45号線を使って南下、帰宅したとき、田老のあたりで立ち小便をした。
 車に戻って走らせようとすると、車内に強いタバコの臭いと魚の臭いが漂っていた。私は20歳になってタバコをやめて以来、吸っていない。
 「津波で死んだ漁師の霊が乗ってる」
 と思った。宮古まで来ると、その臭いは消えた。おそらく宮古から流され田老に遺体が漂着した漁師なのだろうと思った。

 霊が臭いを連れてくることは、決して珍しいことではない。

 放射能汚染よりマシな霊障ではあるが、ときに恐ろしい現象をもたらすことが知られている。
 あるとき、突然、人格が豹変して、その人ではない、別の人格が乗り移ったような行動をすることがある。
 これを「霊憑依」という。

 社会の憎悪を一身に受けて、死刑判決確定後、わずか1年で宅間守が処刑されたのは2004年9月14日であった。
 その後、何が起きたのか? ほとんどの人は何も知らない。

 だが、私は1年という拘置の後に、自分と向き合う時間もないまま、世間に対する憎悪、怨念を増幅させて殺害された宅間の霊が何をしでかすのか?
 想像しただけで恐怖するしかなかった。「必ず恐ろしいことが起きる」と。
 人の死が肉体の死ではないことを本当に知ってる人々は、みんなそう思ったはずだ。

 これを読んでほしい。
  http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20100512/214371/

 中国で、子供8名が殺される(後に9名)事件が立て続けに起きた。それは宅間の処刑後から始まった。つい最近、今年も3月に起きた。

http://www.epochtimes.jp/2018/04/32871.html

https://ameblo.jp/unarigoe/entry-11857792289.html

 私は、報道されたときの「児童8名殺害」という言葉を見て「宅間だ!」と、いつでも思うのだ。「8」という数字を見せることで、自分だと誇示しているのだ。
 おそらく宅間の前世は中国にあったのだろう。中国社会に復讐せずにはいられなかったのだろうと思う。
 宅間の霊憑依による「児童8名殺し」は、まだまだ終わっていない。というより、もしかしたら、宅間事件以前に、同じような犯罪を行って処刑された霊が宅間に乗り移っていたのかもしれないとも思った。

 日本での死刑判決後、平均的な処刑までの待機時間は10年近いはずだ。なぜ、そんなに待たせるのかというと、死刑囚をじらして恐怖を煽るわけではなく、自分と向き合う時間を与えて、納得して死なせるためである。
 そうしなければ、処刑後の魂が平将門のような怨霊と化して、世間に復讐を始めることを、制度を作った当時の官僚たちは知っていたのだろう。

 だから、私は、死刑制度など、霊憑依によって新たな犯罪者を作り出すだけであり、社会復帰が危険すぎて出せない者は、死ぬまで自分を見つめながら生かしておくのが一番良いと思っている。
 日本には、それだけの国力もあるのだから、なんで無理して手のつけられないような悪霊を生み出す死刑制度など残しておく必要があるのか?

 「犯罪者を長期間、養っておくのは無駄」

 と考える知能の不足した短絡的な人物も多いが、それならば、社会にある、すべての目に見えない御利益の信仰、無駄無益な宗教と施設を全部廃棄したらどうだ?
 金儲けのシステム以外、何一つ存在しない社会を作ったらどうなんだ?
 そんなことをすれば、真っ先に排除、消滅させられるのは自分自身だということが分かっていない。 

 人の最高の属性は「失敗」である。すべての人が、たくさんの失敗をするのだ。失敗しない人など、この世に一人としているものか!
 失敗があるから成功がある。我々が未来に向けて、よりよきものを生み出してゆくために失敗が絶対に必要なのである。

 失敗は、小さな物忘れから、運転ミスで他人を怪我させてみたり、ときには人殺しをしてしまうことだってある。
 すべての人が、大なり小なりの失敗から逃れることはできない。しかし、一つの失敗を咎めまくってみたって前向きな未来、失敗を生かしてよりよきものにつなげる成果など生まれない。

 失敗を全身全霊で咎めまくり、処罰し、制裁することに何の意味があるか真剣に考えるべきである。
 失敗=制裁しか頭に浮かばない人には、成功もなければ未来さえないのだ。ただ、周囲にいる人々は、愚かな制裁愛好者を恐れ、二度とつきあいたくないと思うだけだろう。よき未来など何一つ生まれない。

 「失敗こそ成功の母」であることを知る者は、処罰や制裁など考えない。失敗を生かして成功してほしいと願うのみである。

 翻って、死刑制度とは何か?
 人の失敗を、二度と取り返しのつかない制裁、処罰、報復によって終わらせる制度である。そこには、何一つ明るい未来も希望もない。その人生は完全に否定される。
 その人生は憎悪に包まれる。その死は恨みと怨念に包まれる。

 「被害者の無念をどうするんだ!」

 と言いたい人がたくさんいる。自分が被害者でもないのに、被害者に成り代わって加害者を糾弾したいのだ。だが、被害者が加害者に対して本当は何をしてもらいたいのか、自称代理人には、まるで理解がない。
 彼は、想像力を働かせ、加害者に対する憎悪を爆発的に膨らませ、加害者に対し、考えられる限りの制裁を行おうとするのである。

 それは、おそらく被害者の心を代弁するのではなく、事件に対する自分の恐怖心を埋め合わせたいということだろう。自分が、もし被害者の立場になれば、何をしたいのか? 加害者に対する処罰、制裁を求めるのであり、更生してもらいたいなどとは絶対に思わない。
 
死刑制度の本質は、事件への恐怖であり、加害者への憎悪であり、復讐感情であるが、決して、被害者に成り代わっての処罰などではない。

 その加害者が、自分の家族であったなら? 被害者側に大きな落ち度があったなら? 加害者の犯罪を本当に生み出したものは、加害者の個性ではなく、実は社会の矛盾であったなら? 責任は加害者個人ではなく、社会全体に帰せられるべきものであったなら?

 このような視点で、加害者を見ることのできない者たちが、死刑制度を支持しているのである。
 そして、人の死が、処刑によってすべて終わるという勘違いが彼らの目を塞いでいる。

 処刑や殺人によって人生が終わるわけではないのだ。人には、その後の世界がある。このことを理解できないと、死刑制度の本当の議論は始まらないのである。

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