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 ベトナム戦争と私  その2

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 1960年代後半、新聞は連日連夜、ベトナム戦争の記事で埋め尽くされた。
 私は、朝日新聞夕刊に連載される本多勝一のルポルタージュに夢中になっていて、もう他の記事が目に入らないほどで、夕刊が届くと真っ先に、貪るように読み、興奮した。
 この情景は、今でも、詳細な部分まで鮮明に覚えているから、よほど激しく感受性を揺さぶられたのだと思う。

 カナダエスキモーやアラビア遊牧民、ニューギニア高地人などのルポから、それは、突然ベトナムの情景に変わった。
 1968年、「戦場の村」の連載が始まったのだ。
 https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%9D%91-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022608013

 1968年、私は高校受験を控えた中学生だったが、もう勉強そっちのけで、毎日ベトナムの人々の運命に心を寄せていた。
 名古屋の街中では、連日のようにベトナム戦争反対の街頭デモが繰り広げられ、私は、密かに家を抜け出して、デモの隊列に加わった。

 当時のベトナム民衆の運命が、どれほど残酷なものだったか? たくさんの文章を並べるよりも、沢田教一らの写真を見た方が、鮮明に心に染みてくる。

 beto1.jpg

 
beto2.jpg



 
 私は、こうした写真や、たくさんのルポルタージュに、激しく心を揺さぶられ続けた。 「ベトナム戦争に反対し、米軍と戦わなければ人間じゃない」とさえ思った。

 高校に入学しても、すぐにベトナム戦争を語るサークルに加入した。それは、河村名古屋市長が在学中に作った社会科学研だったが、革マル派など党派の影響を受けた者もいた。
 話された内容は、党派的な屁理屈ばかりで、すぐに嫌気がさして寄りつかなくなった。

 学校へは行ったものの、私の心はベトナムにあった。そして、繁華街での激しいデモに参加することに生き生きとした喜びを感じていた。
 やがて、私は東京に出た。とにかく、社会の最前線で、ベトナム反戦の息吹に触れることだけが、私の唯一の喜びになっていたのだ。

 私の世代は、誰一人として、ベトナム戦争の影響から逃れた者はいないだろう。みんな米軍の非道なやり口に憤激していた。
 何か行動を起こさねばやりきれない思いだったのだ。

 私は、多くの縁から、立川の砂川町にある「反戦塹壕」というベトコンを真似た塹壕に向かった。
 そこは立川基地の滑走路の終点に作られていて、ときおり、基地内から銃撃も受けることがあった。 元々、血の気が多い方だったので、危険な臭いがすると入って見たくなって仕方がなかったのだ。
 ここにいると、ときおり右翼の襲撃を受けたりするので、いつでも鉄パイプなどの武器を常備し、身を守る訓練が必要であった。

 私も立川でのデモで、革マル派に襲撃されて、鉄パイプで襲撃されたことがある。体力に自信があったので、「この野郎!」と、どこまでも報復しに行ったのだが。

 クリスチャンの反戦活動家である佐々勝仁という男がいて、ずいぶん自分勝手な人物ではあったが、独善の塊でありながら、どこか憎めない人物だった。彼が塹壕運営の実質的な中心人物であった。
 市民団体もたくさんできていて、加藤克子さんという女性が先鋭的な反戦市民グループを形成していた。、下野純一郎さんという、総会屋をやっていた得体の知れない人物など、たくさんの面白い人物が交錯していて、実に楽しい日々であった。

 集会には、ブント叛旗派や第四インター派が顔を出していたが、そのなかに私と同年の若き副島隆彦がいたような記憶もある。

 当時、すでにセクト主義は頂点に達していて、私は党派の独善が不愉快で、ベ平連グループに接近し、自分で立川ベ平連を勝手に名乗っていた。
 みんな立場は違えども、ベトナム戦争に対する怒りを強く共有していた時代だった。

 仕事は、東京オリンピック以来、自由自在に得られる高度成長時代だったから、金がなくなれば、高田馬場や山谷に顔を出せば、いつでも五千円前後の日当を日払いで稼ぐことができた。
 当時、五千円も稼げば数日間は左うちわで暮らすことができた。

 酒場でも喫茶店でも、若者が出会えば激論が続いたが、心の底にはベトナム戦争に対する激しい思いの共有があったから、コミュニケーションが、これほど強く、深く、心に染みた時代もなかっただろう。

 岡林信康や高田渡など、フォークソングのレベルも、現在とは比べものにならないほど、深い格調の高いメッセージ性を持っていたし、天井桟敷などの演劇にも、強いメッセージ性があり、今の演劇の何十倍もの価値があったと思う。
 もし、日本文芸にルネッサンスという言葉があるとすれば、それは1970年代前半の、この時代の表現を指すのではないだろうか?

 先日、テレビで「ポツンと一軒家」という番組をやっていて、奈良県の山奥で一人暮らしをしていた老人が、国分寺にあった、「ホラ貝」という喫茶店を拠点にした「部族」というコンミューンの出身であることを知って、すでに70歳になろうとしていながら、「この生活こそ、本当のロックンロールだ」という言葉にしびれた。
 反戦塹壕にも、持田君という部族の仲間たちが、日常的に訪れていたので、よく知る者も多かった。

 60年代末から70年代にかけての、あらゆる文化的高揚の、本当の理由が、ベトナム反戦の共有にあったことを、誰が気づいているだろう?

 そのベトナム戦争は、知れば知るほど恐ろしい、人類史上でも希な残酷さを持っていた。

 私が、砂川反戦塹壕にいた一年半の間、毎日数十基の米軍輸送機が立川基地を発着していたが、その飛行機の中は米兵の死体で埋め尽くされていた。
 ベトナム戦争の死者は、8年間で、米兵だけで5万人に上ったといわれるが、それは表向きの数字にすぎない。

 アメリカは、ベトナムに正規軍を派遣しなかったことになっていて「軍事顧問団」という名で派兵されていたが、末期になると、米兵のあまりの戦死者、被害の多さに、韓国や他の親米諸国から、たくさんの志願兵を募ってベトナムに送り込んだのだ。
 彼らの死は正式にカウントされていない。
 戦死者を全部ひっくるめれば、たぶん10万人に近い数字になるだろうし、ベトナム兵側は、その数倍になるだろう。ベトナム民衆の犠牲者に至っては、100万人の単位になるのは確実で、今のイラクよりも凄まじかった。

 ベトナムでの戦死者は、必ず立川の米軍病院死体処理施設に持ち込まれる。重火器による戦死者が大半であるから、ほとんど人間の形をしていない。
 内部を見た者は、屠殺場、畜肉解体場だと言った。

 私にも、遺体処理のアルバイトの仕事の誘いが来たことがある。
 一日日当が2万円だという。当時の平均的なバイトだと、日当が二千円くらいだったと思う。10倍だ。この高さだけで、どのような仕事が想像がついた。

 友人は「やめておけ」と強く忠告した。バイトした者の多くが、精神に異常を来すのだという。なかには発狂する者もいた。
 今から考えると、もの凄い数の霊がいて、遺体処理に関係する者に憑依して、いろいろことをなすのだろうと思った。

 当時の立川基地は、今のようなテロへの警戒もなく、内部に友人がいて通行証を示しさえすれば自由に出入りすることができた。
 もっとも、内部はアメリカ国内だから、精神に異常を来した米兵も非常に多く、ベトコンだと思われて射殺されても、文句は言えなかった。

 内部にPXという売店があって、そこには大麻タバコが自由に売られていた。我々が買っても、何一つ規制がなかった。
 ベトナム戦争中、基地内での麻薬の扱いは極めてルーズで、自由に大麻を購入することができたのだ。
 もし、これを規制してしまえば、ベトナムの地獄に放りこまれた米兵たちが激怒して、米軍上層部に対して深刻な反逆を行うのは分かりきっていたのである。
 
 米兵たちが、ベトナムに派兵されて、何を恐れたかといえば、ベトコンもベトミンも、必ず無数の地下トンネルから湧いて出てくることだった。

 ベトナム戦争は、米軍によるナパーム弾の空爆ばかりが知られているが、本当の実態は、プラトーンやフルメタルジャケットなど、たくさんのベトナム戦争映画に出てくるように、地下との戦いだったのだ。

 深い穴の中にまでナパーム弾の威力は届かなかった。無数に掘られた穴のなかから、無尽蔵にベトナム兵がいて、次々に恐ろしい攻撃をしかけてきた。

 これをみて、「どこかで聞いた」と思うあなたは、硫黄島の戦いを記憶していたのだろう。
 実は、このトンネル作戦は、日本軍の戦法だったのだ。それも、陸軍中野学校の残置諜者に訓練されものだった。

 なぜ、ベトコンやベトミンが日本軍の戦法を使っていたのか?
 それは、太平洋戦争が終結して、各地から兵が帰還するとき、帰還せず、現地の植民地解放運動、独立運動に合流した日本兵が多数いたのだ。
 これは、兵たちの意思ではなく、陸軍中野学校、二俣分校において残置諜者の訓練を受けた兵たちが、上層部の命令によって、現地で独立運動を支援しながら、「大東亜共栄圏構想」に参画組織できる時を待つ作戦だったのである。

 ウィキ引用

[残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した[47]。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる]

 残置諜者といえば、ルバング島に戦後28年間も潜行した、小野田寛郎氏が有名だが、彼もまた残置諜者の訓練施設であった中野学校二俣分校出身であった。
 また、インドネシアにおいて、大戦後、スカルノの独立解放戦線に身を投じた日本兵も数千名に上っているが、多くは中野学校の残置諜者に指揮された者であった。

 つまり、ベトナムの米兵たちが相手にした恐怖のトンネル作戦を指揮していたのは、旧日本軍だった。完璧な秘密が守られていた陸軍中野学校二俣分校は、敗戦後、その凄まじい威力を発揮したのである。

http://www.geocities.jp/bane2161/rikugunnakanogaxtukou.html

4件のコメント

[C803] No title

奴隷国家の確定は明治からだろうよ、東京裁判のやり直しだな。

[C790] こんにちは。

ツイッターいつも見ていました。

とても興味深いお話です。
国分寺にホラ貝、おもしろそう〜行ってみたかったな。。。

立川基地はそんな状態だったのですね。

私の叔父もインドネシアのスカルノの独立解放戦線に参加したのち、インドネシアに残ったと聞きました。

  • 2018-08-07 17:22
  • 投稿者 : miki
  • URL
  • 編集

[C789] No title

ナチス養成にカネを出しいかさま戦争(phony war英和辞典参照)をやらせた銀行カルテル集団は満州事変後、侵略撤退を条件にABCD包囲網を敷き待ってましたとばかりに太平洋戦争に突入させた。大本営作戦課のノモンハン、ガダルカナル、インパールの地獄の敗戦を隠し原爆被害も米軍が隠蔽させた。従軍経験はないが作戦概要は殆ど知識があったしベトナム戦争従軍者のロンポール前大統領候補の話を聞けば、悲惨な戦争の本質はカネ儲けなのだ。陸軍情報機関はその援助をした事を本ブログは証明した。志位共産党委員長は昔ベトナムを訪問した際「自分がベトナムに生まれれば銃を取って米軍と戦った事だろう」と話した由だがホーチミンがレーニンの民族自決理論に共鳴した話は戦争がカネ儲けというのはまずいと言うことか?ブンドや社青同解放派等所謂トロツキスト学生暴力集団が日共に対抗し相互の勢力を弱体化させたのもカネ儲けの為だ。馬鹿な日本も世界の有識者の仲間に入ろう!
  • 2018-08-07 14:24
  • 投稿者 :
  • URL
  • 編集

[C788] No title

武器を捨てることを拒み
仕える国を変えても戦い続けたその生き様
武士というに相応しい
彼ら、見苦しく変節し、奴隷国家と変わり果てた
この国を如何に思うか

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