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 奴隷は自分の鎖を自慢する

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 これは、1968年NYハーレムで書かれた、リロイ・ジョーンズ(BP党)の言葉である。

以下引用
人は、自由であるか、もしくは自由でないかのいずれかである。
自由の見習修行といったことはありえない。

奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、
驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢を始める。
どちらの鎖が光っていて重そうで高価か、などと。
そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じ鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。

過去の奴隷は、自由人たちが軍事力によって征服され、やむなく奴隷になったものだった。
彼らは、一部の特権奴隷を除けば、奴隷になっても決してその精神まで譲り渡すことはなかった。
その血族の誇りや、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは反乱を起こして、肥え太った主人を血祭りにあげた。
ところが現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着て、足や首に鎖を巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷の多くは、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。

https://sekihi.net/writers/3884

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 私は、社会に出る年齢になって、皆が一斉にドブネズミ色の服を着て、苦痛に耐えて満員電車で通勤し、インフルエンザにかかっても会社の全員に感染させるために出勤し、たかのしれた学歴を自慢しあい、誰が定めた訳でもないのに、誰もが共有する「常識」の獄舎に自ら入り、鍵のかかった狭い部屋での人生を選ぶ人たちの人生観・社会観に疑問を抱いてやまなかった。

 背広を着るのが、たまらなく不愉快で、できるだけ背広とは無縁の職種を選び、社会秩序の強制=同調圧力から逃げ出したくて、暇さえあれば山ばかり歩いていた。
 当時の人生観は、まるで「泳げ鯛焼き君」のようで、定められた配合で、みんな同じ型にはめられ、みんな同じ味になるように焼かれて、購入者を満足させる味でなければ許されないような、人生のすべてが同調圧力だけでできあがっているような味気のないものだったように思う。

 それから半世紀近く経て、人々の社会観は、どれほど変わったかといえば、個性ある人生を選ぶことに対する圧力は、確かに少しだけ弱まっていて、「期待される人間像」の幅は、若干広くなったような気もするのだが、相変わらず、冒頭に紹介したリロイ・ジョーンズが描いたような「鎖を自慢する奴隷」が後を絶たない。

 なんで、日本人の多くが、自分に取り付けられた桎梏=足鎖を自慢するのかといえば、子供の頃から洗脳=すり込まれた人生観=昔で言えば「末は博士か大臣か」の立身出世主義人生観、「国立大学生はエライ」コンプレックス、「がんばった人生だけが良い人生」「メディアに広く評価される人生だけが良い人生」のような価値観が、人々を呪いのように同調人生観に縛り付けているからである。

 「頑張らなくても、いいんだよ……」と言える人は、半世紀前に比べて確かに、少しだけ増えているはずなのだが、まだまだ社会全体が「頑張らなければ、まともな人生でない」という強烈な締め付けを行っていて、完全主義的成功例だけをもてはやし、他人の価値観に左右されず、したがって誰からも評価されないで、自分自身の定めた人生を地道に歩むという主体性のある人は、本当に少ないように思える。

 なんでまた、鯛焼きの型で整形されたような人生を多くの人々が選ぶのかといえば、そうすれば、社会を支配している連中への覚えが目出度くなり、彼らの定める人生観のなかで生きていれば、この社会体制のなかで暖かい座布団に座り、甘い汁が吸えて、無事な人生をまっとうできるからと考えるからだろう。

 確かに、1970年代の高度成長期なら、そうして体制側の覚え目出度き人生の型にはまって生きていれば、ずいぶん気楽で恵まれた人生が約束されたとは思うのだが、社会のなかに巨大な格差と障壁、序列が成立してしまった今になっては、体制側の指定する人生観は、ただ鎖自慢の奴隷人生と言えなくもない。

 今もなお、ドブネズミ色の背広で、痴漢誤認の恐怖に怯えながら満員電車に揺られ、上司のパワハラに耐えて、新入女子社員への姑息なセクハラで憂さを晴らし、ギリギリの生活給しかもらえないのに、残業手当さえ勝手にカットされ、むしゃくしゃする不満を我が子イジメに費やす若い親たちが少なくなくて、半世紀前の日本人の人間性に比べると、ずいぶん人間の質が姑息で残酷で矮小になったなと感じるのだ。


私に対する嫌がらせコメントも、半世紀前では想像もできないほど、人間性が根底から崩壊した人物が、完全に狂人というしかない書き込みを連日続けていて、世の中に、これほどのクズが存在したのかと、民俗博物館に展示したいほどだ。(読まずに削除するのだが)
 
 昔のことを言っても仕方ないが、半世紀前に、生活苦でもないのに我が子を殺してしまう親の事件など聞いたことがなかった。
 なぜ、こんないたたまれない子殺し事件や、小児異常性愛の殺人事件が続くのかといえば、それは、社会のなかで対話が失われたこと、自分の立位置や、人間性について客観的な評価を得られる機会を人々が失ってしまったことによるのだろうし、対話が失われた最大の原因は、イジメの蔓延にあり、対話の意欲そのものが成立しない社会体制であるということだろう。

 思いつくまま、とりとめもないことを書いていても、読者に価値ある文章とはならないとは思うのだが、これからの時代に必要な、人生観・世界観について、我々の世代は、自分の人生経験のなかから、若者たちにヒントを提示していかなければならないと思うのである。

 私は、15歳の頃から山登りに夢中になって、90年台には百名山を完登し、アルプスの長大な沢登りやクライミングにも単独で挑戦していたことから、もちろん、社会的な評価は最悪だった。
 誰の評価も関係ない、私は、山の、張り詰めた清浄な空気を吸っていれば満足だったのだ。将来など、どうなろうと知ったことかと、世間で評価される人生観には、何の関心もなかった。

 おかげで、様々な職業を経験することができて、自分の家を自分で作ったり、簡単な自給自足農業を行ってみたり、旋盤やフライスなどを使って、日常生活に必要な大半のものを自作できる技能も身につけた。
 世間的な立身出世秩序の価値観を無視した人生で何が起きるかというと、まず、まともな結婚はできない。相手にされないのである。
 しかし、世間並みの夫婦生活はできなくとも、性欲を満足させることくらいはできるし、私の場合は、昨日逮捕された神栖市の広瀬君のように素敵な女性を殺してしまうようなことはしないですんだ。

 いつのまにか老いてしまって、今では、社会との関わりも、このブログくらいしかなくなってしまったのだが、このままでは、間違いなく、福島第一原発級の原子力事故が再現されるのは確実と思えるので、私の出番は、もう一度くらいあるだろうと思っている。
 自分の人生を振り返ってみて、良かったと思うのは、冒頭に述べた「自分の鎖を自慢する奴隷」にならずにすんだということである。

 
「自分の鎖を自慢する」とは、具体的にどんなことかといえば、高速道路でも時速100キロしか出せないのに、300キロも出る車を見せびらかして自慢してみたり、一部屋でしか寝られないのに10部屋もある豪邸を購入してみたり、「ブスでも三日で慣れる」というのに、絶世の美女を妻にしてみたり、バーゲン服でもアルマーニでも、保温効果は同じだというのに、超高級衣料品でなければ着なかったり、なんでもいいから、他人を高みから見下したいという価値観のことをいう。

 本当に人生に大切なものは、たくさんの人から愛され信頼されることなのに、他人を見下して睥睨することで蛇蝎のように嫌われる倒錯した優越感に満ちた人間性は、多くの人々から嫌われることはあっても、愛されることは絶対にない。
 自分もまた奴隷にすぎないのに、「他人を見下す」価値観に束縛された愚かな奴隷であり、みんなを鎖から解き放たねばならないのに、自分を拘束する鎖を自慢することしかできない愚かな輩のことをいうのである。

 本当に人生で大切なことは、既存の価値観に左右されないで、自分自身が、もっとも合理的であり、人間的であると認識した価値観を主体性のなかで実現することのはずだ。
 私は、自分の人生のなかで、加工されない大自然と直接触れあい、自分の力で、何でも作り出すことのできる能力を得ようとする人生を過ごしてきた。
 こうした人生観は、60歳を過ぎて何をもたらしたかといえば、自分に必要なことを実現した人生だったという満足感であるとともに、同時に、先の見えない不安定な生活になってる。

 これが悪いことか? といえば、私はそうは思わない。
 私は、人の死をたくさん見てきて、人の死が思いのほかに簡単なものだと知る機会があった。
 死というものは、みんなが思ってるほど難しいものではない。実に容易なのだ。そろそろ死に時だと思ったときに、自分で始末をつければよいのである。
 死は苦しみに満ちていると勘違いしてる人も多いが、決してそうではない。
 生物というのは、数億年の生命の繰り返しのなかで無数ともいえる死を経験しなければならなかった。だから、生物は簡単に苦しみもなく死ねるようにプログラムされているのが普通なのだ。

 長い病床生活のなかで苦しみの死を迎えているように見える人も多いが、死のプロセスは、ごく短時間である。ただ、生への執着が、なかなか死ねない苦しみを生み出すだけなのだ。
 もっとも気の毒な死は、昭和天皇の死だった。本人は、手っ取り早く死にたいのに、最後の最後まで無理矢理生かされて、死の苦しみを味わい続けた気の毒な最期だった。
 我々は、彼の人生をまねする必要はないし、そのように段取りする人もいない。

 死は生への執着を断てば、ごく容易に訪れる。火災でも交通事故でも、拷問殺人でも、気の毒に苦しんだように見えるが、実はそうではない。
 人というのは、一定度の苦痛を与えられれば、自然に感覚を離脱し、容易に苦痛のない死を迎えられるように設計されている。

 だから、私は、自分の最期について、金がなくとも、人がいなくとも何の心配もしていない。ただ生への執着を解き放てば、自然に死ねることを知っているからだ。
 話が逸れてしまったが、自分の死に際を心配して、奴隷人生を選ぶ必要はないんだよと言いたいのだ。
 自らの鎖を解き放ち、自由な人生観のなかで、のびのびと生きればいいのであって、老後の不安から奴隷になることは無意味だと言いたい。
 これは、また別の機会でも、整理して書くことにしよう。




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