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続 私と民俗学

 民俗学の素晴らしい点は、それが民衆の装わず、飾らない実際の生活そのものに密着しながら、その背後に隠れた歴史的な本質を導き出す「帰納法」に貫かれているという点である。
 「民衆の生活に歴史の本質が隠れている」
 これが民俗学のテーゼである。だが、それは「権力が歴史を作った」と考える支配階級の学者たちから真っ向否定されてきた。

 たとえば、かつて日本の歴史学は学問アカデミーである東大史学部が作り出してきた。その代表的な教授だった平泉澄の主張に、「アカデミー日本史」の正体が余すところなく見えている。
 彼は天皇や武家権力だけが日本史を作ってきたと考え、天皇制を正当化することだけを前提とし、あらゆる史実を「演繹的」に解釈した。
 天皇を輩出し続けた秦氏のような百済系渡来人の存在を完全に無視し、天皇が大昔から日本にいた原日本人であるかのようなウソ八百を学問的にでっちあげた。「万世一系・神州不滅」などという史実に反したウソを教科書に書いて民衆に押しつけ、洗脳しようとした。

 こうした皇国史観を代表する平泉澄の思想は以下の引用で言い尽くされている。
 【昭和のはじめ学生だった中村吉治(きちじ)は、平泉の自宅で卒業論文の計画を問われ、漠然と戦国時代のことをやるつもりだと答えると、平泉は「百姓に歴史がありますか」と反問したという。意表をつかれた中村が沈黙していると、平泉はさらに「豚に歴史がありますか」といったという(『老閑堂追憶記』刀水書房)。また昭和十八年、学生の研究発表の場で、「豊臣秀吉の税制」を発表した斎藤正一(しょういち)は、「君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する反逆である」と決めつけられ、大目玉をくった。そのうえ、参考文献について尋ねられ、研究室に備えられている社会経済史関係の雑誌を挙げたところ、そのようなものを読んでは駄目だと断言され、副手の名越時正を呼びつけ、これら雑誌は有害であるから撤去せよと命じられたという】

 柳田国男らによって始められた「民俗学」に対し、「民衆は権力の家畜にすぎず、家畜に歴史は存在しない」という平泉流皇国史観によって敵対した史学界だが、山県有朋~平泉らによってでっちあげられた、「正統インチキ史学」によって、たくさんの日本人が騙され、「天皇は逆らうことのできない絶対的存在である」と洗脳された。
 人々は奴隷のように戦争へと駆り立てられ、東アジア全体で数千万の失われずにすんだ命が奪われていき、民衆に巨大な悲しみと歴史の停滞を生み出すことになった。

 しかし、民俗学の成果は、そうした勝手な正当化や屁理屈を許さない。
 それは捏造された文献や、書斎での勝手な思惟想像から生まれるものではなく、食料生産や調理、嗜好など民衆の生活に染みついた歴史的事実を取り上げ、具体的にその理由を探りながら、背後にある本質に迫るものだ。
 農林漁業に従事することが、どれほど辛く大変なものか、食料生産がどれほど大きな負荷とともに喜び、安心感をもたらしたのか。そうした日常の上に築かれる生活儀礼がどのような形になるのかなど、生活の原点を調査し、その共通点を見いだすことによって、民衆の生活史を明らかにするものであった。

 それは権力とは無縁に築かれてきた底辺の生活史を明らかにし、権力史ではなく民衆史こそが、歴史を動かす主体である事実を証明するものであった。
 天皇や幕府、政府を軸とした表の権力に対して、日本列島の片隅に生きる無名の人生が決して劣った無価値なわけでなく、一人一人の具体的な人生の断片にこそ歴史の真実が息づいていることを明らかにするものであった。
 そして、この世には、一つとしてオチこぼれの人生など存在しないという真理を明らかにするものであったのだ。

 民俗学の包摂する分野は実に多岐にわたり、山の民俗、海の民俗、農民の民俗、都市の民俗、生死の民俗、交通の民俗、戦争の民俗など、人々が耕し、狩り、漁撈し、食料を作り、工芸を行い、争い、カネを得て、子供を設け、育て、老いて死に、葬り、慰霊する、あらゆる生活の断片を記録し、人間生活と社会を具体的切片から追究するものであって、まさしく徹頭徹尾、「人間の学問」であり、「具体的証拠の学問」なのである。
 それは学問である以上に後生に伝えるべき大切な記録であり、津々浦々の異なる民俗の共通点を明らかにすることで、学ぶ者に人間の本質を浮き彫りにしてみせる。

 私が若いころから取り組んだ分野は、農山村の生活道路、交通や荷役、家屋などであった。それはアカデミーの学問体系とは無縁であったが、宮本常一などの著作に学ぶところが大きかった。
 しかし、基本的には自分の足と目で見いだすものであったし、その成果も、社会からの評価を受けるものではなかった。また、自分を潤すこともなかった。
 だから、仕事上の制約を受けるものではなかったが、運転商売柄、道に強い興味を抱き、全国の路地裏を歩き、曲がりくねった旧道を運転しながら道の持つ意味、そこに共通する建物の特異な意味を考えてきた。

 草深い野道から、集落を結ぶ峠道、小川や畝を渡る農道、何の意味もなさそうなのに曲がりくねった古街道、大宝律令の五畿七道駅路である東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道、そして、官道に至る幹線支道、それらが後に整備され付け替えられるたびに変化する道筋などに注目して、できる限り多くの道を知ろうとした。

 それらを広く知るほどに、私のなかで、民衆生活の変化にともなった道の生成流転がはっきりと見えはじめた。
 ある地域に、他所から人が流れ着いて、そこで耕し、子孫を増やし、集落を拡大させ、生産物や嫁を求めて他の集落と交易し、やがて街となり、権力が構築されてゆくプロセスの共通点から、道の生々流転を見いだすことができた。
 多くの場合、それは三々五々ではなく、たとえば巨大な飢饉や政変により追われた人たちが移動彷徨することや、軍事的功績の報奨として受領した土地に「一所懸命」の領地を築くことから始まった。

 これを調べてゆくうちに、民族移動や歴史的転換の本当の意味も浮き上がって見えてくる。
 たとえば、今私が住んでいる土地は、南北朝時代に後醍醐天皇を支援するために新田義貞に追従して京に向かった林一族が最初に棲み着いた土地であり、蛭川初代開拓者であった林三郎太郎その人の墓所があり、実際に住んでいた場所に私が住むことになった。
 ここは林一族の「一所懸命地」であった。その後、700年を経て、林一族はまだこの地を守り続けている。筆者もそのなかでは胡散臭い他所者にすぎない。

 ここに存在する祭祀や民俗を調査してゆくと、群馬県の風俗や人相的特徴が受け継がれていることが分かるし、氏神である「安広見神社」は元々「祇園神社」であり、周辺を調べてみると、この地域(蛭川・黒川・八百津町には秦氏の関係した「貴船神社」・「八坂神社」・「祇園神社」ばかりが存在していた。
 これらは「ユダヤ神社」と呼ばれ、旧約聖書、ユダヤ教の儀礼が受け継がれており、新田一族とは実は、百済系渡来人であった秦氏の末裔であった可能性が浮き彫りになり、日本ユダヤと深い関係がありそうだとも分かった。

 この土地が拓かれた理由は、最初、南朝方支援勢力が、何らかの理由で定着したこと。その当時の儀礼が未だに「杵振り祭」などに受け継がれていること。
 当地は住民の神道帰依率が9割以上と極端だが、これは幕末に平田国学が布教され、それが全国でもっとも激しい廃仏毀釈を引き起こし、江戸期強要された仏教系寺院が根こそぎ破壊されたこと。その背景に、旧約聖書と関係した秦氏系の人たちが定着していたことが関係していそうだということも分かってきた。

 また、群馬と京都を結ぶのに、なぜ当地を経由したかといえば、律令古道であった東山道の存在が見えてくる。
 古東山道は京都~群馬~奥州を結ぶ律令畿道であり、古代・中世における代表的な幹線道路であった。京都にいた秦氏が、朝廷から領地経営を委嘱されて各地に向かうための主要街道であり、古代における道の深い意味が伺える道なのである。

 東山道は中山道~奥州道の原型であり、古道は険しい山岳地帯を貫いている。その多くは尾根道であった。
 集落が発展し、国家が形成されるプロセスで律令官道のような「公的通路」が成立するが、このときに一定の法則があることを見落としてはいけない。
 日本列島のような険しい山岳地形にあっては、もっとも容易な通路は「海路」である。したがって、最初に整備される公的通路は海路ということになるが、気象激変の危険性などから追って内陸路も整備されることになる。
 内陸にあって、もっとも通行の容易な道は、川沿いの道であり、次に尾根沿いの道である。全国の主要道路の古道は、ほとんど、大河川に沿った道であることが多く、次に尾根沿いの道である。

 こうした視点が民俗学者の目から見れば、古道がどこに成立するか、地形を見ただけで見抜くことができる理由なのである。
 古道は、時代とともに、より合理的に改変されてゆくことになる。集落が拡大し、交易の道、朝貢の道、塩の道、嫁取りの道などが整備される。官道が成立し、古道は新道となり、馬車や自動車の発達とともに、より広く便利なバイパスもできる。尾根道は積雪を避けて平野に近い道に付け替えられてゆく。
しかし、それらは必ず古道と平行し、より合理的な場所に設置されるのであり、どこに合理性があるのかさえ分かれば、その位置を見ずとも指摘することができるというわけだ。

 また鎌倉・南北朝時代まで主要街道であった五幾七道を理解していれば、民族の移動、文化の伝播ルートさえ見えてくるはずだ。
 今では何の関係もなさそうに見える、京都~中津川~群馬~奥州という不思議な道筋に存在している文化の伝播、人民の移動や共通性も、東山道という存在によって理解することができるのである。

 当地、中津川市の古代領主は「遠山の金さん」で知られる遠山氏だが、その権力が及んだ地域では、共通する鍋蓋(椀に箸)の家紋が使われ、その範囲も、現代行政区から想像もつかない中津川市から南アルプス遠山郷にまで及んでいる。
 この理由も、実は古東山道にあり、遠山氏の関係する地域は東山道の範囲であって、古代から中世にあっては、官道と領地が一体のものであったことが分かる。道とは、すなわち領地を意味する言葉でもあった。
 だから、当地に林一族が棲み着いた理由や、後醍醐皇子であった宗良が遠山領地一帯に関係していた史実は、実は東山道の属性と関係があったのである。

 このように、古代における人々の暮らし、権力との関わり、道の存在、文化の伝播には、民俗学なくしては理解できない、さまざまの要素がある。
 皇国史観学者、平泉澄は、「豚に歴史がありますか?」と民衆を蔑視し、民衆の歴史を軽蔑し、無視しようとしたが、民衆の生活史を調べることなくして、真の歴史の意味を理解することはできないと知っていただきたい。
 民俗学こそは、「我々がどこから来て、どこに行くのか?」 「我々とは何か?」の命題に正しい答えを示してくれる唯一の学問であると確信している。 







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