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 昨日の続き、恵那山のあれこれ

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 調べ物をしていた課題(エネルギー問題)が、どうにも鮮明な結論を出せないので、今日も、得意分野の歴史物や民俗でごまかすことにした。

 「恵那」という地名は、恵那市だけでなく、恵那盆地全体にかかる言葉なのだが、この本来の意味を探ってゆくと、驚くべき歴史事実が浮かび上がる。
 恵那という言葉の本当の意味は、「胞衣」であり、「褜」 とも書き、胎盤を意味するのである。

 何の胎盤かというと、イザナギ・イザナミの間に生まれた天照大神の胎盤で、これを、恵那山の近くに埋めたという伝承から、この地がエナと呼ばれるようになったことにされている。
 この胞衣は、恵那山、正式登山口の前宮谷道入口にある恵那神社に納められたという伝承があるが、真偽は不明である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E9%82%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 往古は、恵那山全体がご神体として崇められたようだ。

 突然、恐ろしく根源的な歴史物語が出てきて驚かされるのだが、実は、この地は、奈良時代に制定された大宝律令701年による五畿七道のなかでも、最初にして最大の官道である「東山道」が通った、いわば古代日本のメインストリートであった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93

 東山道の出発点は、もちろん京都御所で、終点は岩手県付近であるようだ。

touzan1.jpg

 これが、江戸時代になると中山道に発展するのだが、このとき、経路が一部変更された箇所が多い。
 古代東山道は、関ヶ原を抜けて美濃に入って、伊那谷に抜けるルートは、恵那山の一部である神坂峠1569 mを超えていて、ここが東山道一番の難所といわれた。
 最澄は、あまりにも急峻な、この峠の両側に「お助け小屋」を開設したといわれる。
 中津川宿(大井宿)の規模が大きい理由は、ここで気象条件による足止めを食らうことが大きかったからであろう。
 江戸時代の中山道への改訂では、神坂越えが廃止され、木曽川沿いの街道に変更されている。
 しかし、中央高速道は、古代東山道をトレースするように建設されていて、逆に、東山道のルート選定が合理的であったことを証明している。

 古代東山道のルートを調べてみると、街道の指標となる目立って分かりやすい大きな山や河を経由していることが分かる。大津からは伊吹山であり、美濃は木曽川と恵那山、伊那谷に入って天竜川を遡上し、八ヶ岳を経て関東に入ってゆく。
 これは、すべての街道の成因要素であり、覚えておくべき民俗上の基礎知識である。
 街道というものは、必ず、目立つ大きな山、大きな川、そして長い尾根道などに沿って形成されるものである。
 だから、道の民俗を研究していると、まったく知らない地方で道に迷っても、どこに主要道があるか一目で分かるのである。

 AD300年前後に、百済から弓月氏(秦氏)が数万人という単位で日本に移住してきたという記述が日本書紀にある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B

 百済がAD660年頃に、唐・新羅連合軍によって滅亡させられ、このとき百済は国ぐるみ日本に移転してきたと思われる民俗上の証拠がたくさんある。
 だが、この記録は天武天皇によって改竄または焚書に遭ったとの記録もあり、正確なことは、まだ分かっていない。
 天皇家としては、百済由来の王権が、日本のヤマト王権を乗っ取ったという歴史事実を隠したかったのだろう。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
(遺伝子解析で完全否定されたと書かれているが、この解析が極めて不審な代物で、単に右翼の皇国史観系歴史学者の主張であって、私はまったく信用していない。もし天皇が騎馬民族系=百済系であることが明らかになれば、天皇の万世一系の幻想が崩壊するからである。民俗学上の多数の証拠が、天皇家が騎馬民族であることを証明している)

 秦氏ら百済系移民は、女真族特有の中国文化と騎馬文化を持っていて、日本列島に馬とを持ち込み、イノシシを飼い慣らして養豚農耕を行った。
 女真系ツングースは、先祖地を名字に使う習慣があり、姓名に自分のルーツを含んでいる。血統に関する意識が非常に強く、「家」という一族のアイデンティティを大切にし「一所懸命」の思想を持っている。また、「武」を重んじ、戦争技術に長けていた。

 そこで、日本列島に移住してからも、武力集団を形成し、自分たちの根源地「一所懸命」の領地を探して移動していった。
 秦氏は天皇を産んだ氏族だが、おそらく百済王権が、そのまま引き継がれたと考えられ、百済における官僚制度や奴隷制度などの差別制度も持ち込んだ。
 移住してきた百済の家臣は、大半が源平藤橘の武家集団になったと思われ、このなかの最有力集団が天皇家になったと考えられる。

 この武家集団の思想的目的は「一所懸命」であり、自分たちの城と広大な領地を求めて全国に移動したが、九州に上陸した弥生人が、船を主体とした沿岸航行が移動手段であったのに対し、騎馬民族集団は、内陸部を馬で移動する高句麗由来の歴史的伝統に基づいた方法を選んだ。神坂峠のような難所、大きな峠には駅馬制度も整備したであろう。
 西方面は弥生人のテリトリーであって、過酷な戦争を強いられることから、もっぱら未開の東方面に向かって行った。

 こうして、百済由来の騎馬民族末裔たちは、東山道を経て、関東・東北にテリトリーを拡大していった。
 源氏は、埼玉から多摩・神奈川方面に拠点を構築した。平氏は、北関東・群馬・福島方面に拠点を構築した。
 これが後に、鎌倉幕府や足利幕府となる。足利の本当の拠点は、京都でなく北関東である。後醍醐の建武の新政を支援したのは、最初、足利尊氏であり、このとき、新田氏が東山道を西に移動して、後醍醐を支援するのだが、やがて尊氏勢と離反することになる。

 実は、中津川市は、この東山道の要衝であり、恵那山があるために駅馬の大拠点でもあった。
 古代史では日本武尊が通過したことになっている。おそらく天照大神の「胞衣」という伝承は、奈良時代に作られたものであろう。
 なお神坂峠のルートは、馬籠から峠を越えて阿智に降りてゆくルートで、最大の歩きやすい尾根を利用していて、他には考えにくいコース選定になっている。

touzan2.jpg


だいぶ昔に、このルートを積雪期に登ったが、中津川市街から神坂峠までは、三時間程度の行程であった。急峻ではあるが、街道にもっとも必要な「迷いにくい」という条件を満たしている。
 上手にコース取りをすれば、おそらく馬も通れただろう。
touzan3.jpg


  
 昨日も書いたが、恵那山から神坂山にかけては広大な笹原で、マダニの生息地であり、通行する場合は、ハッカ水を衣類や足に吹きかけるなどして予防しないと危ない。
 またもの凄く紫外線が強く、ものの10分程度で真っ黒に日焼けしてしまうので厳重な対策が必要である。

 40数年前、厳冬期に登ったとき、避難小屋を、どこかの労山山岳部が占拠していて、吹雪のなか入ることもできなかった。このときの恨みを鮮明に覚えていて、私は、組織による登山をひどく嫌う単独行主義者になった。
 厳冬期は、マイナス20度近くまで冷えるので、アルプスなみの防寒装備が必要である。

騎馬民族末裔は、東山道周辺に展開したので、私が、民俗学的興味から、東山道沿いの民俗や生活習慣を調べるなかで、北関東の人々との関わりが極めて大きいことに気づいた。

 私の住む中津川市蛭川には、杵振り踊りという花祭りの民俗伝統芸能があって、毎年4月になると村中の若者を動員して、興味深い踊りが奉納される。
 https://www.youtube.com/watch?v=NKHz8ISuZto

 この歴史的伝承は、南北朝時代、後醍醐天皇の皇子が、浪合で討たれて、首を高塚山に奉納して、それを守護するため住み着いて伝えるというものだが、これとまったく同じストーリーを、私は遠州京丸山で確認し、びっくりさせられた。
 http://toukaiama.qp.land.to/ama/hirukawa2.htm

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-95.html

 静岡県遠州地方と中津川市では、200キロ以上も離れているし、どうして同じ伝承があるのか不思議だったが、いろいろ調べてゆくうちに、東山道の存在が関係してることに気づかされた。

touzan6.jpg
 

 これは、いずれも椀の上に箸を置いた家紋であるが、上が、遠江の遠山氏のもの、下が苗木遠山氏のもので、この遠山氏は、実は南北朝時代から東山道のこの地域に展開した古い豪族で、非常に似た家紋を使っている。
 私が、遠山郷や飯田市などを調べているとき、人々の人相風体が、中津川市と酷似していることに気づいた。遠山郷では「あれ、隣家の林さんが、なんでこんなところにいるんだ?」とびっくりするほど人相の酷似した人にも出会った。
 女真族の民族的特徴として、痩せ型で一重瞼、すらりと足が長く、太った人を見かけないのだが、中津川でも遠山郷でも同じである。

 先の、祭りの伝承といい、家紋といい、人相といい、つまり、東山道に展開した騎馬民族の末裔が、あまり他民族と混血せずに、そのまま、この地域に居着いていることを意味しているのだと思った。
 私の住んでいるところは、蛭川村開闢の伝説があり、後醍醐に与するために、新田氏とともに東山道を西進し、何かの事情で蛭川村に居着いて、村を作ったというもので、初代を林三郎太郎と呼ぶ。
 ちょうど、私の家の入口近くに、三郎太郎を奉る五輪塔の残骸らしきものがあり、寛永の銘のある石碑が建っている。近所の住宅は、全員、林の名字を伝えている。

 したがって、蛭川村のご先祖は、群馬県新田郡(太田市)にあることになり、なるほど、足利市などに行ってみると、林さんにそっくりの人たちが、いるわいるわ……。
 つまり、東山道周辺の人々の先祖は、みな同じ人種=騎馬民族末裔であることになる。

 実は、私の実父(三河出身)の先祖も、足利市から来たという伝承があり、私が蛭川に住むことになった運命も、何か過去生の因縁に関係しているのではないかと疑っている。もしかしたら、私の過去生が林三郎太郎ではなかったのかとも考えている。
 ちなみに、私の居住地(山林)を深く掘り下げてみたところ、相当に昔の生活痕が出てきた。

 東山道をめぐって、いろいろ想像力を刺激する展開になったのだが、騎馬民族末裔の源平藤橘の一部が、(鎌倉時代以前の平安荘園時代)領地を求めて、京都から東北に向かい、足利市付近に拠点を作った。
 一番遠くまで行って大拠点を構えたのが、おそらく奥州藤原氏だっただろう。関東に向かった源氏は、鎌倉に大拠点を構えて、鎌倉幕府を成立させた。

 後醍醐の建武の新政を応援するため、足利、新田郡の一部の郷士たちが南朝応援を掲げて京都に戻っていった。
 その途中(たぶん足利尊氏の勢力が強大になったため)、東山道の途中に、そのまま住み着いたという想像が成立するのである。
 そして、道程の障壁として立ち塞がったのが、恵那山=神坂峠であった。

 というわけで、歴史を深掘りしてみると、いろいろな物語が埋没しているものだと感心させられたのである。  

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