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大家族生活の良さ

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 柳田国男が、明治42年(1909年)に、白川郷を訪れたとき、大家族生活の印象を書き残している。

 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2279832.html

 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。
 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。

 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 引用以上

 ちなみに「チュウビンテンメン」という用語は、ネット上で探しても出てこない。広辞苑や大言海でも無理かも知れない。「秋風帖」という柳田の著作には漢字で出てくるものの、今では誰も理解困難だ。

 柳田が言いたかったことは、「白川郷の大家族生活には孤独が存在しない」ということである。しかし、冒頭の私のブログに書いてあるように、昭和初期には、女性たちは、高山や岡谷、富山などの紡織産業に出稼ぎに出ていて、ひとたび外の世界の「自由」に触れた者たちは、再び白川郷に戻らなかった。

 白川郷の労働が激しかった理由は、たぶん戦国時代に、煙硝=硝酸カリの製造法が発見され、その最適地として知られたのが飛騨合掌家屋であったことだろう。
 雪深く湿度が高い環境と、一軒家に多数の人々が暮らしているので、原料となる屎尿・青草の入手が容易な白川郷や五箇山では効率的な煙硝の製造が可能だった。加賀藩や高山藩が煙硝製造に焦って、住民たちに年貢の代替として無理な負荷をかけ続けた事情は容易に窺える。

 白川郷には男女の集団生活があったが、彼らはプライバシーに飢えていた。
 我々が、大家族生活の利点に憧れるとき、最も警戒しなければならないことが、人が多すぎてプライバシーがもたらす休息が失われることの可能性である。

 大家族には生活上の利点が実に多い。
 何よりも、食事、洗濯、買い物などで、たくさんの消費を効率的に満足させられるのである。一度にたくさんの仕事をするから、孤立した小家族に比べて、一人あたりの消費は実に合理的に行える。
 間違いを犯しても、仲間がすぐに指摘してくれるし、分からないことは教えてもらえる。
 
 生活の必要経費と労働量は、小家族と大家族では極めて大きな差が生じる。
 何よりも、一人主婦が家事を行うのと、数名でワイワイガヤガヤと共同して行うのでは、同じ家事でも雲泥の差、共同には人生の楽しさのエッセンスが詰まっている。
 一人の仕事はつまらない。人は共同にこそ人生のすべての楽しみを得られるように設計されているのである。

 洗濯機や冷蔵庫、掃除機など家電製品で考えれば、数名でも数十名でも同じ道具と時間ですんでしまうので、たくさん買いそろえる必要がない。
 老人や病人の介護が、一人の主婦に負担が集中する小家族とは比較にならないほど楽であり、何か困ったことが起きても、よってたかって解決する人が、たくさん出てくるのである。
 人が死んだときも、全体に及ぶ影響は、家族の規模が大きいほど小さなものになる。悲しみも、みんなが和らげてくれる。「孤独」って、どこの話? ということになるのだ。

 ここでネット上で、大家族生活の合理性について書かれているサイトを参照してみよう。

 山上家の節約術が凄い!家族10人で月30万円!?
 https://xn--bck9etdz48puxcfxu.net/bigfamily/bigfamly/yamagamike

 大家族貧乏ゆうり家の究極のこだわり節約術
 https://yuurin4children.com/daikazokusetuyaku/

 大家族すぎて生活苦に陥っている家庭の悩み https://mikle.jp/theme/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%8B%A6+%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F/

 これらの記事は、私の子供時代の家族感覚からすれば、大家族でもなんでもなくて、「普通家族」のものにすぎないが、それでも生活の大変さと、家族が多いことでの不便と合理性について触れている。
 私は「大家族生活」を考える場合、単位としては10~20名程度を想定していて、10名以下は「普通の家族」であると思う。
 それに血縁ばかりが家族になるわけでなく、家族というより「共同体志向」を念頭に考える必要があると思っている。

 逆に大家族制度の不合理性=不便性について、ネット上で実情と意見を探しているのだが、なかなか発見することができない。
 小家族の合理性について探しても、まず出てこない。つまり、「小家族で良かった」との記事は見たことがない。
 「大家族はいいですよ」という記事はたくさん見かけるのだが、大家族のせいで自殺に追い詰められたとか、人生が窮屈で死にそうだとかの苦情を探すのは困難なのであり、小家族で幸せだったとの賛美も見つからない。
 せめて、「トイレが足らなくて、我慢してるうちに漏れちゃった」というような具体的な不便記事を探しても見つからない。
 
 それでも、大家族を未経験の人が真っ先に深刻に不安視するのが、プライバシーの侵害であり、隠し事ができないことへの恐怖であり、たくさんの人と同居することの閉塞感、圧迫感であろう。
 実際問題として白川郷の若い娘たちが、苛烈な冬の野麦峠を越えて、女工哀史に描かれた凄惨なほどの岡谷の生糸紡織産業に就業し、一日16時間の辛い肉体労働を強要されても、故郷に帰らなかった事情は、8畳間に同性の10人以上もが寝起きする合掌家屋の生活に、よほど嫌気がさしていたのではないかと思う。

 そこで、我々が窮乏する生活上の要請から、再び大家族生活に回帰するにあたって、個人のプライバシーと、大家族の合理性を、どのように両立させるか明確なビジョンを持って、計画的に準備することが必要というのが私の考えである。
 もうギュウギュウ詰の生活を我慢できる人も少ないだろうから、一定のプライバシーは、どうしても確保しておかないと、集団=共同体生活も成り立たないと考えている。

 そこで参考になるのが、ヤマギシ会のシステムである。
 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2348506.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-23.html

 私は1973年頃、新島淳良がヤマギシ会の理事長だったころ、特別講習というのに参加したのだが、この頃のヤマギシ会は、本当に素晴らしかった。
 何より、参画者の女性たちが美しかった。化粧など誰もしていなかったが、人生や人間関係に対する喜びにあふれた表情は、一目見ただけで忘れられないほど美しいものだった。

 当時のヤマギシ会は、まだ貧しくて、みんな粗末なトタン張りの小屋に住んでいたが、それでも、ヤマギシズムと呼ばれた放し飼いに近い養鶏法が生活の主軸になっていたから、養鶏法をモデルとしたシステムに、人間も生活していたのである。
 ドーム型の長屋を区割りして個室が作られていたが、個室は四畳半くらいで、数名が生活していた。
 食事も洗濯も風呂も、すべて共同で行われ、強制は一切なく、本人の自主性だけに依拠した共同体がうまく機能していた。
 問題が出ると研鑽会が開かれ、みんなで意見を出して解決していた。

 大切なことは、ヤマギシ会においては、粗末ではあったが、それなりの個人のプライバシーが確保されていたということで、我々が共同体を志向するときも、必ず、共同性とプライバシーを両立させる生活システムを考える必要があると思う。

 その後、80年代末にも私は関わったのだが、その頃になると、いろいろな問題が噴出し、いわゆる「問題組織」とレッテルを貼られるようになったが、私は、詳細を知らない。ただ、結構豪華な個室が与えられていたことが印象に残っている。
 ちょうど70年前後の全共闘運動が80年代に近くなると、悪い意味での変質が起きていたことに似た、組織の統治に関する問題がたくさん出てきて、私は幻滅させられることが多く、ヤマギシとの関わりも失われた。

 リーダーが専用のベンツに乗って外出する姿を見たとき、「ヤマギシも終わったのか?」と強い不安に駆られた記憶がある。つまり、もの凄く儲かっていたことで、ヤマギシズムの本質を見失ってしまったのではないか? と私には思えた。
 今の段階では抽象的にしか語れないのが残念だ。当時は、私自身が地獄の釜のなかにいるような精神状態で、何をどうすべきかのビジョンが、まるで生み出せなかった。

 資本主義の爛熟過程では、みんな物質的欲望と見栄に取り込まれ、愛を見失い競争だけが生き甲斐になるような、人間性を見失った時代になってしまうのだが、それがバブル時代だったと思う。
 私もバブル時代の中で、価値観を見失い苦悩したが、今、再び、60年代のような民衆の貧しさが復活して、真実を見抜こうとする価値観が復権してきているような気がする。

 豊かさは人を愚かにするが、貧しさは人を賢明に育てるのである。みんなが貧しくなって、再び、我々の前に真実が姿を現しはじめた。それが共同体の復権であると、私は思う。
 共同体=すなわち大家族生活のことである。人が金ではなく、人に依拠して生き抜いてゆく。この世の本質は、金や差別ではなく、人間と、その愛であると気づいた人たちが、手を取り合って新しい社会を形成してゆくのである。

 まだ資本主義の競争社会に影響を受けて、人ではなく、技術や集団、組織の虚構に目を奪われて、「この世には人間と自然しかない」という真実を見抜けない人たちがたくさん生きている。
 彼らは、コンピュータ社会、IT・AIに過剰な幻想を抱き、それが人を支配するようになると勘違いしているが、決してそうではない。世界の本質は人間であり、金ではなく、技術でも権力でもない。
 人間だけを見つめて生きるために、我々には大家族=共同体生活が必要なのだ。

 また、共同体は、「そうしなければ生きてゆけない」という切羽詰まった現実の上に築かれるものであり、誰か頭の良い、えらーい人が登場してきて共同体社会を指導して回るわけではない。
 みんな、ときには「いやいや」団結し、共同してゆくのであって、団結のなかで、新しい価値、大きな合理性としての共同体生活を見いだしてゆくものだと私は思う。

 何度も書いているのだが、30年前に松原照子が予言したとおり、「日本人は草も食べられない」ようになりつつあり、もう大都会では餓死するしかない時代が目前に迫っていると思う。
 テレビでやってる山奥の「ポツンと一軒家」こそ、真の桃源郷になる時代が近づいているように私には思われるのだ。
 今は90歳近い老人が少人数で最期の日を待っているが、やがて、ここに若者たちが、未来を担う共同体を作り出す日がやってくると私は信じている。 

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