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報復制裁感情に支配される裁判員裁判制度

カテゴリ : 未分類
 
 2009年5月に裁判員制度が発足してから、ちょうど10年が経過した。私は、こんな制度が持ち込まれれば、シロウトによる裁判が理性ではなく感情に流されて、報復制裁システムになってしまうと危機感を抱いて、反対意見をたくさん表明してきた。

 国家は理性をもって運営されなければならない。ところが自民党が持ち込んだ裁判員制度は理性を否定し、司法を憎悪や制裁などの下劣感情に委ねる劣化した思想であった。

 2009年3月22日 ● 裁判員制度は何を目的にして作られたのか?
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/?no=259

  2009年5月23日 ● 裁判員制度が始まった
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/?m2=form&no=217

警察国家への道 その6 裁判員制度のもたらす愚民化、報復制裁主義の愚劣
  http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2692090.html

 これらの意見をブログで表明した努力の甲斐あってか?? 私は、裁判員制度に一度も召集を受けたことがない。
 裁判員制度は、収入や社会的地位による選別を行わないはずなのに、なぜ私には召集がかからないのか?

 裁判所は、おそらく招集にあたって、間違いなく思想審査を行っているはずだ。
 私のように死刑制度反対を表明し続けている者に、裁判員招集がかかることは絶対にない。私が裁判員になれば、死刑判決に反対するのは確実というのも事実だが……。
 しかし、裁判員の選任が密室で、特定の政治権力の影響を受けながら行われていいはずがない。これは「国民の義務」という意味では徴兵制に匹敵するのである。徴兵制が個人の思惑で秘密裏に選別されるようなものだ。
 
なぜ死刑制度に反対しなければならないのか?
  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-595.html

  洗脳  その2  死刑制度
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-359.html

 法務省は、死刑制度反対意見を激しく憎悪しているように見える。死刑は、民衆が国家権力を怖れるようにするための仕掛けであって、「悪いことをすれば、首に縄をかけられ、吊され、全身を痙攣させながら殺される」という残酷さを前面に出した恐怖によって、人々を支配しようとする古典的な「恐怖支配」の発想であり、人々を愛情ではなく恐怖で権力に従わせる下劣国家主義の象徴である。

 そもそも死刑制度は100%完全に憲法違反である。
 https://ameblo.jp/homura2/entry-12209599760.html

 憲法を勝手にねじ曲げて、残酷を絵に描いたような刑罰を続けているのが死刑制度だ。
 自民党は、国家による残酷な殺害の恐怖の前に小さくなって怯え続けるような、暗黒に閉じられたお化け屋敷のような暗いライフスタイルを国民に与えることが大好きなのだろう。

 知的障害者による思い込みの証言だけが採用されて有罪にされていた冤罪事件=大崎事件の最高裁再審上告が棄却され、先に、袴田事件の再審上告も棄却され、その先には西山事件の再審まで棄却されようとしている。
 これらの論理は、「国家権力の行動はいつでも正しい」という前近代的妄想を民衆に強要することであり、「権力がどんなに間違いを行っても、それは正されない」という強権主義を国民に強要しようとする、100年以上前の傲慢を絵に描いたような屁理屈であるといえよう。

 こんな判例は、少なくとも近代司法のものではなく、まるで赤狩り時代のアメリカや戦前の軍事法廷に戻ったようだ。
 現在の安倍晋三政権は、人権感覚が、完全に戦前の軍部独裁時代のそれであり、報道統制や批判者に対する恫喝、強権主義など、民主主義の価値観を憎悪する姿勢ばかりが目立つ。安倍自民党は、ナチズムのようなファッシズムが大好きなのだ。

 我々は違う。人を恐怖で支配するような暗黒社会は、まっぴらごめんだ。みんなが家族であり、友人であり、他人の幸せだけを願って生きる利他思想の、ちょうど1970年代までの都会から遠く離れた田舎の漁村や山村の共同体に近い生活にこそ、日本人の本当に理想的なライフスタイルがあると考える。
 そこには、人を恐怖や制裁によって一つの価値観に押し込めておこうなどと考える者はいなかった。たとえ、間違ったことをしたり、不義理を働いても制裁報復など考える者はいなかった。
 人々は、誰に対しても幸せを望みこそすれ、不幸を望む者などいない社会だったのだ。

 ただ国家だけは違った。国家に権威を与え、それを畏怖させて、死刑で殺すぞという恫喝のなかで人々を従わせようとしてきた。
 その根拠として、国家は、民衆には手の届かない力を持っているという幻想が用いられた。だから為政者は、民衆の手の届かない強力な軍事力や科学技術、核開発が死ぬほど好きだったのだ。

 我々の人間関係でも、学歴だとか組織だとか権威風を吹かして他人を威圧しようとする者がいる。反原発勢力のなかでさえ間違いなくいる。例えば、某テレビ局出身者とか、某大学教授とか……だが、そんな連中の共通点は、みんな権力による威圧が大好きなことで、いつでも規制ばかり持ち出すのだ。そして、その究極に死刑制度が存在するのである。
 私(東海アマ)を攻撃している反原発派の論客を見てごらん。みんな権威が大好きな連中ばかりだ。屁のような学歴に頼り、利他主義が大嫌いで、利己主義に生きている連中だ。
 こんな連中の言う「反原発」なんてニセモノだと思った方がいい。そのうち分かる。

 私が、自分のブログばかりを引用しなければならないのは、それだけ、世間に裁判員制度や死刑制度と真正面から対決する思想が少ないからだ。
 また反体制派のなかにも、権威主義・権力主義を持ち出す輩が多いので、「人間関係はどうしたらいいのか?」という社会生活上の立場から議論できるサイトが非常に少ないからなのだ。

 私は、司法制度改革について、現在の社会状況で、立憲民主党や共産党程度のお粗末な思想で、裁判員や死刑を語れるとは全然思わない。
 311で原発を廃止すると決意した者のなかでさえ、もう、その本当の意味を見失って、エートスに賛成したり、学術上の被曝は許容されるとか言ってる人たちがいるが、彼らは人生の根底的な意味を理解していないのである。
 そんなことを言っていれば、やがて死刑制度は必要だと言い出すに決まっている。

 我々は、国家権力にすがって生きるのか? それとも、人間にすがって生きるのか? という根源的な人生観の問いかけをしなければならない。
 この世の本質が、権力ではなく、技術でもなく、「人の愛」だということを見抜けるならば、これからの社会にとって、求めるべき最大の核心が「人権」であると分かるはずだ。
 まさに「人権を守る」という視点から、人間性を貶める死刑制度を否定し、裁判員制度が感情に流されて劣化してゆくことを明らかにし、原子力発電が未来を完全破壊する仕組みを知って糾弾し、廃止させなければならないのである。

 「人が人を大切にする」 この視点だけが未来を守るということを理解できなければ、この社会の進む道には地獄だけが存在するのだ。

 「人が人を大切にしない」社会は、どこから来るのかという問題については、何度も回答を示してきた。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-34.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-778.html

 繰り返すが、幼い頃からの「競争主義の洗脳・薫陶」こそが、人を大切にしない社会の根底にある。
 今の日本国民の9割が死刑制度を肯定しているという。「悪いやつは殺せ」と叫ぶ。これは旧約聖書の論理であると、私は何度も書いてきた。
 日本における民衆の倫理観の根底には、鎌倉仏教の前に神道があるのだ。日本の神道は、秦氏(弓月氏)の先祖が、遠くイスラエルから持ち込んだもので、それは旧約聖書のコピーである。

 旧約聖書を否定するために、天はキリストを人間界に送り込んだのだが、新約聖書は、日本に入る前に旧約に乗っ取られてしまっていたと私は考える。
 キリストの思想を本当に理解できる人は「人を許す」ということの意味を理解している人である。
 キリストの死刑に対する考え方は、以下のリンク先に象徴的に描かれている。
 https://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/3ab59a9ba2ae69678d2b9252c86edaf8

 自分の人生の過ちを本当に知る者は、他人を攻撃することなどできないという意味なのだが、他人の過ちを攻撃する前に、その意味を深く考えよ……人の間違いを許すことで、自分が許される…という旧約聖書の世界観にはなかった、新しい世界観をキリストが示した。

 我々は、「自分を深く見つめ直せ、他人の過ちを軽率に攻撃するな」という思想を「汝、罪なき者は、この女を石撃て」のなかで知ることができた。
 裁判員制度に本当に必要な思想は、まさにこのことであり、この視点がなければ、旧約に描かれたレビ記と同じように、報復・制裁だけの社会になってしまう。
 裁判員は、事件の資料を見て、怒りの感情ばかりが沸騰し、厳罰を与えることしか考えられなくなってしまうのだ。その背景にあるものは見たくとも見せてもらえない。

 【裁判員制度10年(2)】「痛烈なメッセージ」求刑上回る判決も 量刑相場に市民感覚、判決に幅  西日本新聞
 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6328198

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以下引用

 saibannin1.jpg


 「無期懲役に処する」

宮崎地裁の裁判員裁判は16年2月、求刑(懲役25年)を超える判決を導いた。

 被告の男は、女性を殺害、遺体を切断したとして殺人や死体損壊の罪に問われていた。「猟奇的で非人間的」と断じた判決は、有期刑の上限(同30年)も上回った。

 担当検察官だった若杉朗仁弁護士(福岡県弁護士会)は法廷で目を閉じたまま判決を聞いた。「これが市民感覚か」

 法律の「プロ」として事件に向き合ってきた自負があった。市民が被告を裁く側に立ち、事実認定や量刑を判断する裁判員制度には否定的だった。

 しかし、地裁判決に固定観念を打ち壊される。判決は求刑について「事件の特殊性や全体としての悪質さを適切に評価していない。市民感覚に照らして不当に軽い」と批判。若杉弁護士は法曹三者(裁判官と検察官、弁護士)の量刑相場に対する「裁判員からの痛烈なメッセージ」と感じた。

性犯罪や幼児虐待事件では求刑を上回る判決が増加
 裁判員制度の開始前、裁判官は類似事件の判決や求刑など詳細なデータを基にした、裁判所内部の検索システムを参考に量刑を決めていた。これにより、判決のばらつきは少なかった。

 裁判員裁判でもシステムを参考にするが、市民感覚が反映されて量刑に幅が出るようになった。性犯罪や幼児虐待事件では求刑を上回る判決が増加。一方、介護疲れによる殺人事件などでは執行猶予に保護観察を付ける判決も増えた。

 ただ、市民が考え抜いた一審判決が高裁で覆されるケースも増えている。宮崎の女性殺害・死体損壊事件の控訴審判決は、一審判決を「量刑判断を誤った」として破棄し懲役25年に減刑。最高裁で確定した。

 控訴審の結論は被告に有利に傾くとは限らない。知人女性への殺人罪などに問われた男について、福岡高裁は昨年9月、傷害致死罪を適用し懲役10年(求刑無期懲役)とした裁判員裁判判決を破棄。殺人罪を認定して懲役22年とした。

 裁判員判決に対する高裁の破棄率は10年は4・6%、18年は11・8%だった。

 「納得できない。市民の声を反映させるという制度の意義を感じなかった」。福岡県豊前市で女児=当時(10)=が殺害された事件の裁判員裁判。福岡地裁で16年に裁判員を担った女性(31)は判決後、裁判長にこう訴えた。

 自身にも幼い娘がいた。審理を重ねるたびに胸が締め付けられ、同じような被害者を出したくないという思いが募った。

 評議の場で、裁判官は類似事件の量刑傾向を提示。「求刑超えの判決は高裁で覆ることが多い」とも話したという。その後、全員が目を閉じた。裁判官が読み上げる量刑に、それぞれが手を挙げた。死刑求刑に対し、結論は無期懲役だった(最高裁で確定)。

 「過去の傾向に基づいた判断を、と迫られているようだった」。女性は市民感覚が生かされたとは、今も思えない。

殺人罪の起訴率は4割減
 検察統計によると、裁判員制度が始まった09年以降、殺人罪(未遂を含む)の起訴率は4割減った。裁判員は直接証拠を重視する傾向にあり、検察側が殺意を認める供述がない事件の起訴に慎重になっていることが一因とみられる。手堅く起訴すれば、上がるはずの有罪率もわずかに下がった。刑事司法に詳しい弁護士は「疑わしきは被告人の利益にという刑事裁判の原則が、市民参加で一定程度実現されてきた」と指摘する。 

 統計では、殺人罪(同)の起訴率(検察官が起訴か不起訴かを決めた人のうち起訴した人の割合)は制度開始前の06年は56・8%。制度が始まった09年は48・4%、17年は28・2%に減った。これには、殺人容疑で送検され、傷害致死罪で起訴するなど罪名が起訴時に軽くなる「罪名落ち」は含まれない。

 成城大の指宿信教授(刑事訴訟法)は「裁判員は直接証明できる証拠を重視し、推論に対しては慎重な傾向にある。制度開始以降、起訴猶予になるケースが増えている」と分析する。

 千葉県で16年に男女3人が包丁で襲われた通り魔事件で、千葉地検は殺人未遂容疑で逮捕された女を「殺意を認める証拠がない」として傷害罪で起訴した。

 事件を担当した日弁連刑事弁護センター副委員長の菅野亮弁護士は「裁判員前なら殺人未遂罪で起訴された事件だった」と話す。裁判員事件を約50件担当し、うち2割は、不起訴処分や罪名落ちだったという。

 裁判員制度が始まり、検察側は慎重になっているのか。法務省刑事局長は15年の衆院法務委員会で「(起訴率の)低下傾向は裁判員制度前から始まり、制度と連動しているとは言いがたい」と述べた。

 99・9%と言われる有罪率は、裁判員裁判でわずかに下がった。最高裁の司法統計では、09~17年の一審の平均有罪率は99・8%で、裁判員裁判に限れば99・2%だった。16年(98・8%)と17年(97・8%)は99%を割った。

 菅野弁護士は「裁判員は裁くことに慣れておらず、真剣に証拠と向き合い、市民目線で判断していることの表れだ」と評価する。

 九州大法科大学院の田淵浩二教授(刑事訴訟法)は「証拠を絞り込み、公判での証言や被告人の供述に重きを置く『公判中心主義』が進んだ。長時間の取り調べなど強引な証拠固めが減り、冤罪(えんざい)を生まない司法制度改革が進んできたと言える」と話した。 

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引用以上

 最後の、田淵教授による「冤罪を生まない司法制度改革が進んできたと言える」という判断は、まるで間違っている。
 裁判員裁判に提出される資料、証拠は、すべて検察側から一方的に提供されるもので、裁判員が、自分の目と足で真実を追究しようとすることは拒否されている。証拠に疑問があっても、それを自分で調査し直す権限さえ与えられていないのだ。

 それに裁判員は、司法関係者には与えられていない守秘義務が強要され、事件について知り得た情報を公開すると処罰されるようになっている。
 これでは、公正な裁判は極めて疑わしい、限られた証拠、限られた時間を一方的に与えられ、最初から有罪無罪が暗に示されていて、逸脱しない仕組みが成立しているのである。

 現在の裁判員裁判制度は、いわば「公正な裁判をしてます」という権力側のアリバイ証明、宣伝に使われるだけのものだ。
 司法制度と国家運営に対する基本的な概念さえない、ドシロウトの裁判員を連れてきて、検察の描いた筋書き通りの一方的な証拠だけを与えられ、犯罪に対する嫌悪感の感情だけで判決を定める仕組みなのだ。
 こんなものの、どこが民主主義だ。これは、国家権力が残酷な刑罰で国民を支配するシステムに、国民を加担させるだけの代物である。

 私は、国家による理性的司法が成立すれば理想だとは思わない。本当に必要な未来は、国家権力が崩壊してから、かつて数千年もの間、田舎社会で行われてきた、人間に対する愛情に基づいた社会だろうと考えている。
 司法は死滅するべきだと考える。必要な未来は、司法のいらない、愛情と利他主義だけで支えられた社会だと考える。


  

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