修験道 その2

 修験道 その2

 山伏

 修験道の行者のことを山伏と呼ぶ。本来は「山に臥せる者」という意味で、「サンガ」と呼んだらしい。

 となると、謎に包まれた山岳漂白民であった山窩(サンカ)との関係を知りたくなるが、両者には、単なる文意を超えた大きな関係があったように思える。

 それどころか、中世の山伏は、宗教よりも軍事に真価を発揮していて、日本軍事史の観点から見るなら、サンカとともに、興味の尽きない驚くべき事実が浮かびあがってくるが、ここでは、サンカを特徴付ける移動式天幕と騎馬民族のパオとの類似、またウメガイと呼ばれたサンカ式刃物が騎馬民族特有の直突式の剣であることを指摘し、サンカの生活文化が騎馬民俗の片鱗を持っていることを指摘しておきたい。

 農耕民族だったなら、その刃物は稲科植物の刈り取りに適した曲刀なのである。直刀は騎馬戦で相手を突く戦闘スタイルのために生まれた様式である。

 際だった特徴としては、山伏・木地屋・マタギが「山の尾根に住む人」であったのに対し、サンカは「山の谷筋に住む人」であって、明確な相違があることを理解する必要がある。
 マタギが東北にまで至る高所の尾根筋を活動舞台にしたことに対し、サンカは南西地方の竹類の自生する暖かい谷筋で生きてきたのである。


 宮家・和歌森の修験道研究を読まれた方でなくとも、中世の権力抗争に山伏の姿が欠かせないことを誰でも理解しておられよう。。
 義経・弁慶が、頼朝に追われて山伏として逃げのびる姿はドラマでおなじみだし、太平記に登場する後醍醐の縁者もまた山伏に身をやつした。

 天皇家の権力が形劾化してゆく過程で、それと結びついていた比叡山や高野山では、本来の仏教よりも、むしろ修験道の勢力の方が強くなってゆく。
 というのも、権力抗争が激しくなってゆくと、寺院も否応なしにそれに巻き込まれ、強力な軍事力を確保して自衛せざるをえなくなってゆくからである。

 延暦寺・平泉寺(天台宗系)や興福寺(真言宗系)には僧兵と呼ばれる強力な軍事集団が出現し、京都の権力抗争を舞台に激しい争いを演じた。
 仏教思想は、本来争いを好まないものであって、軍事力の増大には神道も含めた修験道の方が向いているのである。

 山伏は山岳地帯での激しい修行を通じて得た能力によって、中世の戦争に欠くべからざる軍事要素となった。
 戦争に加わった山伏の任務は、勝利を祈念する加持祈祷はもちろんであったが、伝令や、後に忍者と呼ばれるようになる撹乱者(乱破・素破)として専門的な役割を担うようになる。

 霧隠才蔵の伝説で知られる戸隠忍者の祖が山伏であったことには明確な証拠があり、伊賀・甲賀・根来などの忍者の祖先も熊野大峰の山伏であったらしい。
 それは、伝承された忍者のイメージが、本来は超能力的な呪術(あるいは道術といってもいい)を基本としたスタイルであったことからも窺える。

 そして注目すべきことに、サンカが、京都の乱破道宗という名の忍者の元締の差配下にあったという事実が存在していて、このことは、サンカと山伏の関係について明確な意味を与える。

 初期の山伏には、律令体制から逃亡した非騎馬民族系の隷民が多く含まれていたと考えられる。サンカにもまた、渡来人から追われた日本西南部の原住民も含まれていた可能性もある。

 騎馬民俗式の移動式天幕・ウメガイとともにサンカを特徴づける竹利用民俗については、騎馬民俗と直接結びつけられそうもない。
 それは、明かに暖かい地方、南西諸島・西日本の土着民俗といえよう。
 すなわち、サンカには弥生人の文化と騎馬民俗の文化が混在している。

 山伏の活躍した舞台は、同時に木地屋やマタギの舞台でもあった。

 木地屋は、2500年前の弥生人系渡来人のもたらしたロクロ技術に依った職人集団だから、遠くヒマラヤ山麓から伝播した人々であったように思われ、山伏との関係について示唆を与える面白そうな資料は少ない。

 だが、マタギについては、その伝承された呪法に、修験道の明確な影響が見て取れる。
マタギの集落のうちには、山伏を祖とする伝承をもつところが少なくないのである。

 マタギの生活文化は明らかに蝦夷(えみし)・縄文人の末えいを示すものである。
 しかし伊豆の「万二万三郎」伝説のなかでは木地屋の伝説が登場してくるので、山深い尾根上の長い歴史の中で、木地屋とマタギと修験が融合していったものであろう。

 山伏は全国の険しい山岳にでかけ、そこで修行することによって民衆であることを超脱し、特殊な呪術の能力者になった。
 そして、それは社会体制のうちに組こまれた権威の秩序とは異なって、権力者によって評価されることがなく、呪術によって疫病や飢餓などの災厄から民衆を救うことでその存在価値を得たのだろうと思われる。

 その思想は徹底的に現世利益的であって、密教と道教のもっとも本質的な部分を継承している。それは決して利他を本願とする大乗ではない。むしろ小乗というべきである。

 それを、ひとことでいえば「呪」ということになろう。すなわち、シャーマニズムである。呪術が重んじられ、山伏が勢力を得た大きな理由は、平安時代に中国から輸入され、道教の構成要素であった「陰陽道」の影響が大きかったにちがいない。

 10世紀末に登場した陰陽士で天文博士の安部晴明は、小角に比肩する超能力者であった。方術と呼ばれたその能力は、平安貴族に恐れられ、呪術への大きな信仰を育てた。
 現在に残る、鬼門など禁忌の思想は、この頃につくられたものである。それは「祟り」という観念から生まれたものであった。

 平安貴族は人間の超能力に恐怖し、「祟り」を恐れて死刑すら廃止してしまった。それが体制の弱体化を招き、強力な武家集団に権力を奪われる原因になった。

 修験道山伏の修行の舞台は、役の行者の修行した葛城山からはじまったと考えられよう。
 しかし、「日本霊異記」の小角の伝承のうちに、「葛城山と(吉野)金峰山との間に橋を架けた」という記述があることから、この時代には、吉野大峰にもすでに雑密修験者が存在したと思われる。

 後に、天台宗系と真言宗系の密教系修験僧が、吉野と熊野を結ぶ大峰山脈において呪法の修行に励むようになると、彼らは本来の仏教を離れて、神道に傾いた独自の宗風をつくりだし、多くの流派がひらかれるようになる。

 修験道最大の拠点となった吉野には、真言系元興寺の僧、神叡が虚空蔵菩薩の信仰をもとにして自然智宗をひらき、山上ヶ岳では、真言宗小野流の聖宝が恵印法流をおこし、熊野では天台系の僧がいくつかの流派をひらいた。

 これらの記述をはじめると無意味な羅列が続くので、興味のある方は、宮家準と和歌森太郎の修験道研究書を読んでいただきたい。
 ここでは、必要最小限のアウトラインを記述するにとどめたい。

 大峰山脈の両端である吉野と熊野には、それぞれ修験道を代表する拠点が成立した。おおざっぱにいえば、三井寺を中心に据えた熊野三山(本宮・新宮・那智)は天台系修験の拠点となり、本山派と呼ばれるようになり、吉野金峰山寺を中心に据えた大峰山は真言系修験の拠点になり、当山派と呼ばれるようになった。

 この両者は互いに対立し、宗風もかなり異なったものになった。外見上も、本山派が総髪であったのに対し、当山派は剃髪していた。したがって、この髪型で、どちらの系統かおおよその見当がつくことになる。

 この両者は、修験道の草創期から分化対立し、修験道界の二大派閥となる。徳川家康は、数十もあった修験流派をこの二つに集約して統治しようとした。明治初期に、修験道が邪教とみなされ強制的に解散させられたときも、すべての山伏は真言宗と天台宗に帰依するか、さもなくば還俗するよう迫られたのである。

 修験道の儀礼宗風も両者で異なるが、基本的に共通するものだけを簡単にとりあげてみたい。
 初期の土俗的な修験儀礼は、中世の二大派閥の対立によって琢磨され、時代とともにスマートなスタイルが完成してゆく。

 修験道が拠りどころにした教義は、天台本覚論・法華経典・華厳教・山王一実神道・両部神道などであった。それらから「修験修要秘訣」などの教義が生みだされ、山伏の修行スタイルが定められた。
 修行道場の大峰山は、密教的解釈からは曼陀羅の金剛界(吉野側)・胎蔵界(熊野側) とされ、法華思想では、葛城山を法華峰とし熊野を阿弥陀浄土とした。
 崇拝対象は、最高位の奥座に大日如来をおき、前座には不動明王あるいは金剛蔵王権現がおかれた。ときに、金剛蔵王権現は役の行者の化身として崇拝された。

 修験者は、自身が宇宙とされ、我が身に内在する大日如来を感得することが修行の最終目的であるとされる。

 これは、修験道にとってもっとも大切な基本認識で、修験とは、わが内なる仏を呼び醒ます(験ずる)ものなのである。そして、仏(同時にその権現である神も含む)が意識に現れることによって、さまざまの超能力を得ることができるようになると信ぜられた。

 山岳修行を峰入りというが、中世以降には、これに厳しい作法が要求されるようになった。
 峰入り修行は、華厳経にもとづく十種の成仏過程を経ることになる。
 すなわち、①地獄・②餓鬼・③畜生・④修羅・⑤人・⑥天・⑦声聞・⑧縁覚・⑨菩薩・⑩仏の十界が人のおかれる姿であって、それぞれに、以下の修行が行われた。
 修験者でない普通人は、1から6までの六道を輪廻するとされ、7から10までは、先達クラスの修行である。

 ①床堅(峰入りの最初の行で、棒で新人の身体を打ち、自分のうちに大日如来を感得させる)
 ②懺悔(新人が、先達に自分の行ってきた罪業を告白懺悔する)
 ③業秤(新人を紐で縛り、吊りあげて罪の重さを量る)
 ④水絶(洗顔や飲水など水を断つ)
 ⑤閼伽(水断期間の後、水を汲ませ祭壇に供える)
 ⑥相撲(新人どうしで相撲を取る)
 ⑦延年(楽しい踊り)
 ⑧小木(護摩に使う木を取る)
 ⑨穀断(一週間の断食)
 ⑩正潅頂(護摩木を先達に渡すのだが、キリスト教の洗礼にあたる)

 注目すべきは、修験道は、人間にレッテルを貼って固定した姿で見るのではなく、もともと人間というものが地獄と仏の間をさまよう危ういものだという認識をもっていたことである。

 ついでにいえば、相撲がもともと山伏の修行であったことを知る人は非常に少ない。これは、人より一段高い天の位置にある人間の修行として想定された。ウソのような話だが、峰入りでは本当に相撲を取るのである。
 大峰では、最終段階の修行としての正潅頂を、大日山(釈迦ヶ岳の属峰)にある深仙の潅頂堂で行う。そこで大日如来の秘印と秘法を伝授され、成仏修験が完成するとされた。

 成仏には①始覚・即身成仏、②本覚・即身即仏、③始本不二・即身即身の三種あるとされ、前二者は顕教の成仏であり最後の即身即身こそ修験道の成仏であるとし、その意味は、自らの内に大日如来が合体した状態、つまり人仏一体の状態という認識であった。
 これらの具体的内容は煩瑣にすぎるので、これくらいにしておく。

 大峰で生まれた修験道は、山伏によって全国の山岳に拡大していった。山伏はマタギと同様、大峰から津軽まで里に一度も降りることなく山上の峰を自由に往来し、戸隠や月山など険しい山を見いだすと、そこを修行の拠点にした。

 大峰以外で、修験道の一大宗派が成立した場所は、九州では彦山(宇佐)であり、これは古い両部神道の八幡信仰が土台になったものである。他には、羽黒三山(山形県の月山付近)が東北修験道の一大中心となり、ついで日光にも宗派が成立した。

 羅列すれば、戸隠・榛名・三峰(雲取)・大山(丹沢)・御岳(青梅)・立山・富士・御嶽・古峰ヶ原・秋葉・白山・金華山・岩木山(津軽)・後山(中国)・大山(山陰)・石鎚・剣山(四国)・宮地・阿蘇・霧島(九州)などが、流派の成立した行場であった。

 このとき注意しておかねばならないことは、江戸期から現代に至るまで全国の修験は真言宗派と天台宗派に系列化されてしまっているが、これは江戸初期、家康があらゆる集団を二分化させて対立させ、その上に幕府権力が仲裁的に支配するという政策をとったことによるもので、実際には、宇佐・叡山・大峰・羽黒といった巨大修験組織は後に押しつけられた系列とは無関係の独立した歴史を持っているということである。

 山伏が峰入り修行を行うとき、大峰の麓にある拠点の寺において、俗衣を脱いで法衣を身につける。
 法衣は、普通カンマン衣と呼ばれるもので、背中に不動明王の種子を表すカンマンが描かれている。これを着ることで、山伏は不動明王を感得するということである。

 これは宗派によって多少異なっていて、羽黒山伏では背中に獅子が描かれ、百獣の王の霊力を身につけるということになる。

 山伏の正装は、弁慶人形などでおなじみだが、法衣や法具にはそれぞれ意味が与えられている。
 額の頭巾は、大日如来の五つの知恵を意味する宝冠であり、頭に載せるハンガイという黒いシャッポは、子宮の中の胎児を意味し、鈴懸・袈裟は金剛界と胎蔵界の宇宙、貝の緒は山伏のヘソの緒、笈は母胎子宮、ホラ貝は大日如来の説法という具合に意味が付与されているのである。
 胎児にまつわる法具が多いのは、山伏の峰入りが受胎から誕生までを寓意するものだからである。

 山伏の修行の内容は前述したものの他に、恐ろしい断崖絶壁の上に綱で吊るして懺悔させたり、身のすくむような絶壁を通過させたり、冷水に打たれたりと、とにかく人間の恐怖心を克服させるものが多いが、ハイライトはなんといっても護摩行である。

 護摩は導入部に書いたように、ゾロアスター教・道教・密教に共通するもので、その意味にはいろいろの解釈があるが、基本的には煩悩の焼却と不動明王の感得ということになろう。
 護摩行には興味深い歴史がある。

 先頃、私が戸隠の乙妻山に登ったとき、高妻山の手前の峰で山頂の笹原が四角く切り開かれ、角に杉の小枝がさしてあるのに気づいた。
 これが峰入りの護摩行場であった。大峰の奥駆道でもときどき見かける。

 護摩に焚きこむ木には檀木・乳木・添木の三種類ある。檀木は香木のことで、本来は白檀を使うが極めて高価なので、実際には香りのある乳木を利用し、それに抹香の丸薬を投入するが、これも高価な竜涎香の代用である。

 乳木は甘い香りのする乳のある木で、カジ・ネム・桑・柏などが使用され、一本の長さが約20センチに切り揃えられ、香料が塗られる。添木は、火力の補助である。

 乳木に塗られる香料は、ショウガ科のウコンの葉と、沈丁花にシキミ樹皮を混ぜた抹香からつくられる。
 ウコンは、カレーの材料になるターメリックという黄色い色素の原料だが、実は、これは道教のシンボルカラーで、赤とともに道教に欠かせぬ色なのである。(例えば、太平道などの影響による黄布党の乱などに同盟色として使われた)
 これらの香料には幻覚陶酔性があった。

 古くは、これに麻の芽を乾燥させたものを投じた。つまり大麻である。
 今日栽培される麻は、毒成分を除いた品種だが、麻は先祖返り傾向が非常に強く、放置すれば数年で麻薬成分が復活してしまう。

 山歩きをしていると、故意か野生種かは知らぬが、谷あいの小平地などに麻の群生を見ることが多い。私はこのような麻を燃した煙を吸って、「毒性」を体験したことがある。
 私の経験では、色彩感覚が非常に鋭敏になり、時間がゆっくり流れていくような気分になった。とても心地よいものだが、陶酔というほどのものでもない。
 ただ、自己暗示にかかりやすくなるのはまちがいない。

 多用すると性格に凶暴性が現れるという。単に麻薬効果だけなら、麻薬取締法の対象にならないヒカゲシビレタケなどの菌類麻薬に及ばない。
 このような煙を吸って、行者は陶酔と法悦の境地にはいり、大日如来、すなわち宇宙と自分を一体化させるのである。

 古来、道教の漢方医療の影響を受けた修験道には、古い医薬の歴史がある。日本で普及した大衆薬には、山伏の薬が多い。
 大峰には小角直伝とされる陀羅尼助があり、その原料はキハダであって、生薬名はオウバクというが、これは吉野にあるオウバク宗萬福寺というひとつの宗派さえつくりだした。

 木曾御嶽の百草や、山陰大山の練熊もほとんど同じ薬であって、大峰の山伏がもちだしたものであろう。
 これらの薬には、はじめの頃にはケシ汁や熊の胆も含まれていたらしい。百草には明治までケシ科のコマクサが用いられたが、おかげで日本の高山からコマクサの姿が消えてしまった。

 コマクサには鎮痛効果があるが、ケシに比べれば微々たるもので、ケシ科植物にはいくらでも取締法対象外の鎮痛成分の植物があるので、興味のある方は研究されたい。
 くれぐれも、コマクサを採らないでいただきたい。今でも薬草として採集を薦めている図鑑があるのは困ったものだ。

 これらの薬は日本の代表的な大衆医薬になったが、これを行商したのは、熊撃ち猟師のマタギであった。その成分も、キハダ・熊の胆嚢・ゲンノショウコ・センブリなど山伏薬に共通のもので、マタギと山伏の関係を示唆するものである。
 今日、売薬行商の伝統をもつ富山などの地域は、また、マタギや山伏と密接な関係を持った地域であった。


 修験道の危機

 これまで修験道について説明したことは、密教的側面のわずかな一端の概説にすぎない。拙文が目的としたものは、人類史と山岳民俗の観点から見た修験道の風景を朧ろに示すことであった。

 その意味では、いまひとつ神道の側面から説明しなければならないが、実は、これは困難なのである。というのも、役の行者以来の確乎とした両部神道修験道の伝統は、明治維新によって断ち切られてしまったからである。

 本来、修験道は明治以前まで、もう少し神道の側に傾いたものであったらしい。
吉野には水分(みくまり)神社があり、農耕民族による水源地を敬う宗教儀礼として神道の原型になったと考えられる。

 私は、山伏を縄文人の宗教儀礼に深くかかわるものと考えたいが、民俗学者の一般的な解釈は柳田国男・折口信夫説を支持するものであって、以下のような素朴な稲作農耕儀礼との関連を論じている。

 大峰の山上の洞窟で冬篭修行を行った山伏は、春に石南花の花を持って里に降りてくる。
 麓の農民は、この山伏を、極めて強い霊力をもった山の神が憑いた行者として敬った。そして、山伏が花を田に投げ込むことによって山の神が田の神に変化し、秋の稲刈まで農耕を守護すると考えた。

 稲刈の後は、再び山伏が神を山に持ち帰り、今度は水源を守護する山の神としてふるまうというわけである。
 吉野水分(水源)の神は、女の子守神(その本地は毘沙門)と男の勝手神(本地は不動明王)とされ、これから金剛蔵王権現が生じたとされた。

 また、天照大神以下の神社神道の諸神についても固有の儀礼があったようだが、資料が乏しいので説明できない。これも、興味のある方は宮家準の研究書を参考にしていただきたい。

 これらの伝承をもとに考えれば、修験道の土台になった道教・密教・神道ともに弥生人・騎馬民族によって日本に持ちこまれたことも併せ、修験道は弥生人起源の宗教ということになろう。

 しかし先に述べたように、東北マタギなどの山岳民俗に現れる修験道の影響は、明らかに縄文人との積極的な関係を示唆するものであり、この両者が修験道にあってどのような関連があったのかはまだ日本史の謎であって、現段階で結論を見いだすのは困難に思える。

 私自身は、修験道は、渡来人の主流から外れ、仏教の裏街道をゆくアウトサイダー求道者によって創設され、これに加わったのが縄文人の末えいであったという仮説を提唱しておきたい。ただし、明確な証拠を得ているわけではない。
(弥生人・縄文人ともに太古の考古学上の話だと思っておられる方がいるとすれば、それは大きな誤りである。

 騎馬民族は天皇家や源氏平家を生み、武家支配階級の本流となった。例えば、歴史上の名だたる武将に、縄文人の形質を持った人物がどれほどいるだろう。家康など極小数の例外を除けば、ほとんどが騎馬民族と断言できる。

 縄文人・弥生人は町人農民などの一般大衆であって、騎馬民族との間には明確な階級分化と地域分化が続き、婚姻などで融合した例は極めて希である。その体制が事実上崩壊したのは、やっと明治維新によってなのである。

 明治以降も、地域・交通などの諸条件の制約によって、思われるほど混血していない。本格的な混血がはじまったのは交通革命の起こったこの数十年のことにすぎない。
 したがって、日本人の中の渡来人と縄文人の分化は、我々が想像する以上に大きなものがあり、例えば、明治権力の軸になった、縄文人の薩摩人と、騎馬民族の長州人の人相骨相の決定的な違いは、シーボルトやベルツでさえも気づき、すでに幕末に、日本には二つの民族があると提唱しているほどである。

 実際、日本のあらゆる文化伝統を注意深く眺めれば、そこに必ず縄文人と渡来人の違いを見いだすのであって、血液型・抗体・体毛・人相・体型・性格など生理的・精神的な形質にも、明らかな潮流が存在する事実は、最近ますます注目されているのである。)

 中世、山伏が忍者の祖となって、独自の軍事的意味をもっていたのはすでに述べた。山伏の神秘的な力は民衆に大いに恐れられ、武家はこれを大いに利用した。
 ところが、江戸時代を迎えて、社会にはじめてといっていいほどの安定がもたらされると、幕府にとってその存在は脅威になった。

 そこで家康は、脅威をもたらす可能性ある集団に対して彼一流の支配政策をとった。すなわち、将来団結によって社会不安の原因になりそうな集団は、すべて二つの集団に分化してしまったのである。

 そうすれば、それは必ず、団結よりも対立に傾くことを家康は知り抜いていた。
 まず、家康がもっとも苦しんだ一向宗の本願寺を東西の二つに分けることによって、強大な浄土真宗門徒を分割し、対立させた。これによって、真宗門徒は一門の拡大よりも東西の抗争に終始することになった。

 神道についても、天皇家と結びついた白川神祇伯家以外に幕府よりの吉田神道家を創設させた。これも、御師や木地屋などに大きな対立をもちこんだことは民俗に詳しい方ならピンとこられよう。

 他にも、二流併設の事例は多いが、修験道の場合は、以前からあった当山派と本山派の二流以外の宗派を禁じ、彦山派や羽黒派、日光派などもどちらかに加入するよう強制された。
 これによって、修験道の本流はこの二派に絞られたのである。

 余談ではあるが、この二極対立化政策は家康の政道の基本におかれ、もっとも成功したもののひとつであった。これは人間集団を支配するための普遍的な方法であって、権力者の常套手段である。

 例えば、戦後もっとも大きな大衆運動であった原水爆禁止運動がまきおこったとき、社会党と共産党の二極対立があって、共産党が「社会主義国の核兵器は、人民の利益のためのものだから正しい」と主張して運動を分裂させてしまい、それで崩壊してしまったのは滑稽な事例といえよう。

 組合運動つぶしのもっとも効果的な方法が、いつまでたっても第二組合つくりであることを思うとき、対立こそ人間支配の本質であるといえるほど、人間性の本源に迫ったメカニズムであることを理解できよう。
   
 修験道における二極支配も、幕府の狙いどおり効果を発揮し、修験道の発展は停滞し、山伏は当山派と本山派の対立に明け暮れるようになった。したがって、この時期に修験道を輝かせたのは、これら以外の地方の修験者であった。
 槍ヶ岳の播隆、御岳の覚明・普寛などがそうである。

 「神は仏の仮の姿」と考える本地垂邇説を基本においた修験道は、明治初期、「神は仏とは無関係に日本固有の絶対神である」と主張する、「平田国学派」と呼ばれた人々によって、激しい攻撃に曝されることになる。

 政治の安定した江戸中期に、武家ではないが、町人・庄屋・医家など向学心のある比較的恵まれた階層の人々の間に、体系的学問の機運が盛り上がる。
 その対象は今日と変わらぬほどに様々であり、数学などは同時期の西洋のレベルを凌ぐほどの優れた内容をもっていたことが知られている。

 明治になって、長期の鎖国にもかかわらず、非常に短期間のあいだに学問水準が西洋のレベルに追いついた理由は、江戸中期の和学ルネッサンスの蓄積があったからである。
 国文学・歴史の分野でも、古事記や日本書紀の研究志向が生まれ、新井白石らによって議論された。亨保年代に荷田春満によって、記紀を土台にして日本国家の出地を明らかにする研究が提唱された。

 荷田の研究は賀茂真淵に受け継がれ、「万葉集の精神に帰れ」とする復古国学を成立させた。弟子の塙保己一は文献学の開祖となり、国学は日本中のインテリの注目する学問的土俵となった。

 真淵の弟子となった本居宣長は、古事記の研究を集大成し「神道の復権」を主張した。その門人の平田篤胤は、江戸末期を迎えて「復古神道」を打ち出し、「世の中が乱れるのは、武家が神道をおろそかにしたせいだ。天皇に権力を返し、古代の精神に帰ることによってしか日本は救われない」と説いた。

 この説は、武家支配の圧迫に不快感を抱いていた全国の庄屋・町家のインテリ階層に熱狂的に支持され、「再び天皇の世に戻せ」とする尊皇論は、武家支配打倒イデオロギーの根幹になり、明治維新を生み出す原動力になっていった。

 薩摩・長州の人々による権力奪取劇は、維新のほんの一端であって、氷山の頂部にすぎない。その巨大な基盤は復古神道論によって形成されていったのである。ゆえに、維新の真の立役者は、実は本居宣長・平田篤胤という見方もできる。

 島崎藤村の「夜明け前」では、実父の正樹(青山半蔵)のドギュメンタリーに、その様子の一片をリアルに見ることができる。

 ただし、日本国家の原点としての純粋神道を説いた平田説は、紀記神話の虚構を素直に信じた滑稽な奇説である。
 神道をつくった日本の支配階級が朝鮮から渡来し、神話をでっちあげたという真実が明らかにされたのは、昭和初期の津田左右吉の研究が端緒であり、それが弾圧を受けずに自由に語れるようになったのは戦後のことにすぎない。

 だが、いまだに天皇家の虚構性を認めたがらない権威信仰家が大勢いて(とりわけ文部省の官僚に)、すでに証明されたこれらの事実ですら、教科書には決して載らないのである。
(教科書が事実を教えるようになれば、ほとんど狂気の、音による嫌がらせで自己満足する右翼・暴走族の迫害からも少しは軽減されるにちがいない。すくなくとも、人の上に人がおかれるというバカげた妄想から解放されるだけで、どれほど多くの人々が救われることだろう。)

 維新なった明治政府は、開国による欧米列強の圧迫に対抗してゆくために、強大な国家主義イデオロギーをつくりだす必要に迫られた。

 明治政府の中枢にいたのは大久保利通であったが、彼も平田国学の影響下にあり、国学門徒を大勢政府に雇用した。明治政府は、新国家を統一する基本理念を天皇制信仰と、それを理論的に支える神道復権に求めたのである。

 天皇の意味や存在は一般民衆にはあまり知られていなかったので、それが超越的な権威であるという教育からはじめなければならなかった。
 現在も残る稲荷や氏神神社の信仰は、このころ明治政府によって整理統合され、神社神道として権威化したのである。それも天皇信仰の基盤つくりを目的としたものであった。

 かといって、政府官僚が真実天皇を畏敬していたわけでは断じてない。明治天皇の父親の孝明天皇などは偏狭な排外主義者で、開国にあくまでも反対したので維新派にとって邪魔になり暗殺されてしまった。殺害の張本人は、後に天皇制信仰を強力に推進した山県有朋と井上聞太だったといわれる。
 天皇は、国家主義のために利用されたにすぎないのである。

 (ついでに書いておくと、天皇家は狭い婚姻関係のなかで遺伝的に劣性因子が発現しやすく、孝明も明治も凶暴な異常性格だったといわれる。手をやいた政府は、山岡鉄舟などという怪物を養育係に任じて体裁を繕わせる。

 大正天皇が生殖能力を欠いていた事実は密かに語られてきたが、皇后には当然子が生まれず、なぜか女官に子が生まれ、それが昭和天皇になった。その父が誰であるのかをフライデーやフォーカスが追求していないのは情けない。)

 明治政府は、天皇制の優越至上を宣伝し、その根拠を紀記神話による神道理論に求めた。仏教は神道よりも下におかれねばならず、神道理論につじつまが合わず、都合の悪い神仏習合の両部神道は破壊してしまわねばならなかった。
 修験道は、全国の山岳信仰である両部神道を代表していたので、平田派による弾圧によって、突如存亡の危機に瀕する。

 1868年(慶応4年)、明治政府は神仏分離を強制する布告を次々にうちだした。これに力を得た平田門徒の影響を受けた民衆は、江戸時代、幕府権力の末端役場として戸籍管理、宗門管理などに機能させられていた仏寺への反感もあいまって、激しい廃仏棄釈の嵐のなかで仏教破壊に走った。
 両部神道の権現寺は、神社か仏寺のどちらかに帰依するよう強制された。山伏も、神官か僧のどちらかか、さもなくば還俗するよう強制された。
 天台宗系本山派の熊野三山は、神社になり、真言宗系吉野金峰山寺も金峰神社に包摂された。残った勢力は、本山派は天台宗の僧に帰依し、当山派は真言宗の僧に帰依していった。

 修験道は滅亡させられたかに見えた。
 しかし、山伏を吸収した仏教各派のなかで、どうしても仏教系の宗風になじめない修験者によって再興の機運が何度も起こった。
 だが、天皇制の思想的弾圧は強化される一方であり、それらが実体上復権できるのは、太平洋戦争の敗戦によって天皇が神の座から滑り落ちる日を待たねばならなかったのである。


 修験道系の民衆宗教

 修験道の主流であった本山・当山の勢力は明治維新に邪教として弾圧され、新政府によって宗教活動を禁止された。両派の行者は密教系の僧か神社の神官に転向させられ、習合神道の宗風は絶え、国家神道がそれにとって代わった。

 しかし、弾圧の網から漏れた小さな修験道系の宗派は、伝統ある山岳信仰の講中組織(霞・檀那)を基盤として、修験の宗風になじんだ民衆に支持され、かえって独自の発展を遂げることになる。

 白山・御岳・立山などの山岳信仰は、民衆生活の数少ないリクレーションの場として大切に継承されてきた。それは、明治政府の一夜の政令によって消滅してしまうほど脆い伝統ではなかった。

 ただし、富士講のように、もともと修験道から誕生しながら、後に平田国学派に掌握されて復古神道に傾いたものも少なくなかった。

 江戸を本拠とした不二道・実行教・扶桑教・丸山教などの富士講宗派は、明治以降、国家神道の忠実なしもべとなり、仏教排斥運動の主役として荷担した。
 また、御岳教のように、弾圧を恐れて本来の修験道の教義を捨て、国家神道に迎合する変節を遂げたものもあった。

 修験道の影響を受けた神仏習合系の民衆宗教の先駆となったのは、尾張熱田で1800年前後に勃興した「如来教」である。

 熱田区旗屋町の修験道講元に生まれたキノと呼ばれた女性は、幼くして両親と死別した後に中村区鳥森町の親戚に身を寄せたが、貧苦のため尾張藩士の家に女中奉公をする。

 奉公を辞した後に結婚に破綻し帰農したキノは、47才にして突然神がかりになり、「自分に金比羅大権現が宿った」と宣言した。

キノは祈祷術に優れ、病気や不和に苦しむ人々を大いに救った。キノの名声は尾張一円に広がり、如来教と名付けた宗派を成立させ、尾張藩士まで多く入信した。このあたりの事情は、天理教の中山ミキに似ている。

 キノの死後、教団は繁栄したが、明治維新の修験道廃止令によっていったん解散する。明治9年、曹洞宗の僧によって再建され、再び活動を開始したが、その教義に神仏習合が色濃く残っていたために、政府による神道統制によって弾圧された。
 
 天理教も幕末に生まれた修験道系の新教である。教祖の中山ミキも、如来教のキノや大本教の出口ナオと同じく天保年間に神がかりし、「自分にテンリンオウが宿った」とした。

 ミキは、富裕な中山家を施しによって零落させ、極貧の生活をおくり、ミキの祈祷にすがって集まってきた人々を救った。後に、吉田神道家の配下にはいり、「天輪王明神」として幕府に公認された。

 明治維新を迎え、天皇制の正当化のために国家神道が強制されるようになると、すでに確立していた独自の神道教義の変更を迫られ、高齢のミキが18回も投獄されるなどして弾圧されたが、むしろこの時期に天理教は大発展を遂げる。

 ミキの死と前後して、天理教は弾圧を免れるために国家神道に隷属する転向を行った。やがて国家神道下の公認宗教となったが、神話についての解釈の違いを当局に追求され、不敬をちらつかされ抑圧された。

 金光教も、天理教と同時期に成立した修験道系新教である。岡山県浅口郡の百姓、川手文治郎は、中国地方に信ぜられていた金神信仰(陰陽道系の祟り神)の信者であったが、金神の魔から逃れるために本山系山伏について修行を行った。

 1859年、文治郎は神意を聞いたとして金光教を創立した。金神の祟りは心から敬うことで解消でき、禁忌は存在しなくなると説き、民衆の悩みごとの相談にのり神意を伝えた。後に、白川神祇伯家の配下に連なる。
 明治維新後、信者は政府の弾圧を恐れ、国家神道に迎合してゆくが、文治郎だけは「天皇も同じ人間」と公言してはばからなかった。だが、その没後、幹部は本来の教義を捨て、国家神道に隷属する道を選んだ。

 大本教を創始した福知山の出口ナオも、1892年、突如神がかりして「自分に金神が宿った」とした。その教義は、復古農本主義であったといわれる。

 最初、金光教の傘下にあったが後に独立し、信者の上田喜三郎が出口王仁三郎と変名し、後継教主となって大きく発展した。王仁三郎は、もともと修験者であり、優れた呪術能力(霊能)を得て病気治しに霊験を発揮し、信者の熱烈な信仰を得た。

 王仁三郎は、記紀にもとづく国家神道の枠組みに一致する教義を示したかに見えたが、実はこれは見せかけで、その真意は、天皇家を打倒して新しい政治体制を構築することが世治しだとする、当時としては仰天的で激越なものであった。

 大本教は、1921年、大正日日新聞を買収し、大きな社会的影響力をもつにいたり、政府はこれを恐れ類を見ない激しい弾圧を行った。綾部につくられた神殿は跡形なく破壊され、幹部は不敬罪で投獄された。

 後に、1935年にも、近代宗教史上最大の弾圧といわれる第二次大本教弾圧が行われ、王仁三郎が政権奪取を企てたとして大逆罪で投獄され、さらに全国の大本教施設は残らずダイナマイトで破壊され、政府は大本教の地上からの抹殺を宣言した。理由は、大本教が昭和初期の軍部独走に強硬に反対し、反戦平和を訴えたからであった。

 だが、大本教の後継である「成長の家」など多数の教団は、現在では完全に右傾化し、天皇崇拝、軍国礼賛の国家神道系宗派に堕落している。
 
 天理本道「ほんみち」は、明治以降の国家神道の圧力に屈せず、徹頭徹尾、本来の教義を貫き、国家権力と対決した偉大な宗派であった。

 同様に弾圧に屈しなかった教団としては、牧口常三郎の率いる創価学会があったが、修験道系の宗派では、「ほんみち」以外にない。

 「ほんみち」は天理教の幹部であった大西愛治郎が、1913年に、天理教の国家神道への迎合と教義の歪曲についてゆけず独立した教団である。
 この年、愛治郎は教義に行き詰まり、神がかりして「自分は生き神、甘露台である」と宣言した。中山ミキのつくった神話をもとに、天皇家の異端を追求し、それを世間に配布したために、国家権力による激しい弾圧を受けた。

 愛治郎は日中戦争の戦況が悪化するなか、信仰人生の総決算として、死を決して天皇家国家神道に真っ向から戦いを挑んだ。
 天皇制を誤りとする「書信」を全国に配布し、「ほんみち」の信者は全員検挙され、愛治郎は無期懲役・財産没収の判決を受け投獄された。だが、激しい弾圧・拷問にもかかわらず、信徒のうちに一人の転向者も出さなかった。近世、国家権力と真っ向から対決し、屈することのなかった唯一の教団であったといえよう。


 本質から見た修験道

 これまで修験道について述べてきたことは、既成宗教の歴史的範囲での概観であった。これを、もう少し広い観点で、人間の本質にたちかえって修験道の意味を考えたい。
 宗教の本質ということを考えてみたい。

 人が現実の世界でなにごとかの困難にぶつかって、現実の方法で解決が見いだせないとき、現実の外に、いいかえれば空想の世界に解決を見いだそうとし、それが形象されたものを宗教と規定すべきだと私は思う。

 人の心は、目の前に現れるできごとに様々な反応を示すが、それを基本的に3つに分けてみたい。
 ① 対象に積極的に反応する。
 ② 対象を傍観する。
 ① 対象から逃避する。

 人間の力でどうにか解決できる問題には神を必要としない。自分に関係ないことがらにも神を必要としない。しかし、自分の力ではどうにもならない困難が生じたとき、人はなにものかに頼らねばならない。

 他人の力に頼って解決する場合、そこに人間関係について一定のルールが定められねばならず、自分を抑制してそのルールに従属しなければならなくなる。いいかえれば、一人の人間から組織の人間になるとき、そこに自分を抑圧する「人間疎外」が発生する。この疎外が、宗教的精神の原点になると私は考える。

 人間性が疎外され、目の前のできごとに積極的に反応する姿勢を自分で抑圧するようになると、人は傍観を好むようになり、逃避を知るようになる。
 現実の世界に解決を見いだせない悲しみや葛藤は、空想の世界に救いを求め、逃避的精神をつくりだしてゆくにちがいない。

 これが、宗教の本質をなす部分だと私は思う。これは、つまるところ精神分裂症のメカニズムに一致するものである。
 弱い心が、現実の苦しさから逃れたいあまり、空想の世界に甘い桃源郷をつくりだす。これを、マルクスは「宗教はアヘンだ」といった。

 空想的世界の桃源郷とは、キリスト教の天国であり、仏教の極楽であり、道教の仙郷であり、人間精神の活発な想像力は、現世に救いを見いだせぬとき来世に希望を託したのである。
 そうして人々は、この世の苦痛に堪えた。

 伝統的宗教ばかりが逃避的空想の形象なのではない。
 天皇家を頂点とする権威信仰、東大を頂点とする学歴信仰、高度技術依存の科学技術信仰、官僚の権力信仰などコケオドシの数々も、人間の困難を人間以外の疎外されたなにものかにすがるという点で、立派に宗教と規定することができる。

 人は人に頼ってこそ自然なのであって、人間以外のなにかに頼りはじめれば、すなわち、それは宗教である。
 人間性に対して率直であれる、すなわち、コンプレックスをもたない自然な人間性には権威も権力も財産も必要としない。ただ自然な人間関係があればよく、そこに宗教的逃避のつけいる余地はない。

 このように考えるなら、人類の歴史は、自然な人間関係を疎外するなにものかからの逃避の歴史であって、すなわち、それこそが文明の本質であることを示唆しているように思える。

 つまり、文明と宗教は、正常な(差別のない)人間関係を疎外しなければ成立しないという意味で同じものといえるのではないか。
 もちろん、科学技術の虚構の上に構築された現代文明も、宗教の本質を免れることはできない。

 人間社会における最大の人間疎外要因は「差別」であった。差別こそ、文明の本質といえるのではないか。

 修験道にたちかえってみよう。

 修験道の本質をなすものは、行者が自身を錬磨し、超能力を身につけることで人々の苦悩を救うとする部分であろう。山伏は、スーパーマンになることをめざしたのである。

 それは、苦悩からの逃避というにはあまりに激しく、歴史的にみても、権力と結びついた権威理論というよりは、むしろ軍事集団であった場合の方が多い。すなわち、日本のあらゆる宗教を通じて、もっとも実践性の高いものであった。

 それは例えば、偶像・伽藍崇拝の側面が少なく、呪術や医薬開発などに成果をあげた道教的側面にも端的にあらわれている。
 修験道にかぎっていえば、その本質は、宗教から現実の側に数歩も踏みだしたものだといわねばならない。それは、逃避的世界の範疇を免れることはできないが、すくなくとも民衆を抑圧の構造に固定する役割を担うものではなかった。

 また、修験道が民衆のなかに果たしていた役割のなかで非常に重要だと思われる部分に、ハイキング登山案内がある。日本の登山史の大部分を修験道が占めていたのは疑いなく、近代にいたるまで、民衆登山はすなわち修験道であった。

 修験道の教義には来世救済の思想はなく、徹底的に現世利益を求めるものであって、呪術・医薬・ハイキング登山を通じて実際に民衆を救うものであった。つまるところ、修験道は宗教の体裁をもってはいても、その実体はすでに宗教を超えていたといえるのではないだろうか。

 私には、修験道集団が、中国の太平天国や黄布党の革命集団にダブって見えるのである。鎌倉幕府以来の中世に幕を下ろし、近世の扉を開いたのは織田信長であったが、戦国の世に山伏の果たした役割が、近世の幕開けにどのような意味をもっていたのかじっくり考えてみたいと思う。

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