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それぞれの山の物語 6 修験道路の山旅 前編

それぞれの山の物語 6 修験道路の山旅  前編 91年11月16日の大峰山行

 登山やハイキングで山岳地帯に出向いたとき、山のなかに祁られている宗教的遺構に出会うことが少なくない。それは山神様の小さな祠であったり、道中の無事を祈る地蔵であったりするが、ときには、大木の幹に梵字で書かれた短冊が張りつけてあったり、笹を四角に切り開いた小さな空き地に何やら木札を燃した跡が残っていたりすることもある。

 これは護摩とよばれる修験道の儀式の跡で、私たちの古い先祖から伝えられた五穀豊穣、生活安泰を願う修験者(山伏)による祈りの儀式の跡である。

 山伏は、その名の通り、山岳地帯を主な活動の場にしている。その修験道と今日呼ばれる山岳宗教は、古代中国の道教(タオイズム)に包摂される多くの宗教様式・儀礼が、1400年ほど前、朝鮮半島から集団でやってきた人々によって伝えられ、進化を遂げたもののようだ。

 道教は、中国文明成立の頃から伝えられた占いや医療を中心としたさまざまの民間信仰・儀礼(アニミズム)が、老子・荘子などによる体系的思想の著述や、その後の漢王朝(漢祖劉邦の謀臣、張良は代表的道家だった)などが国家思想に用いたことにより、まとまった宗教様式・儀礼になったものと考えられるが、時代によって、太平道・五斗米道・茅山派など多くの宗派があった。

 基本的な特徴は、人が山へ登って仙人になるための修行(登仙)を行い、空中を歩いたり、不老不死の秘薬を調合するなど超人的能力を身につけて人々を救うというものである。今日まで伝わる太極拳・小林拳などのクンフーや、それが日本に伝えられ発展した空手・柔術・漢方医学の伝統は、すべて道教に源を発したものといえよう。忍者も、またそうであった。

 修験道もまた道教から生まれたものであって、この基本要素をすべて継承し、人が山のなかで辛い修行を重ねれば、やがて自在に空を飛んだり天気を変えたりする念力を身につけることができ、超能力者になることで人々を救うことができると考えるのである。

 したがって外国の文献には、修験道は日本的タオイズムと紹介されていることが多い。
 これらは、大乗仏教やキリスト教のように、ものの考え方を教えることで民衆を分け隔てなく救済するという、民主的で教育的要素の強い方法でなく、特別に秀でた個人的能力を開発し、個人的修行による救済をめざすという点で、より実践的・具体的性格の強い宗教といえよう。

 ただし、民衆全体の能力を高めるというより、選ばれたプロ救済者のレベルアップを図るという、あまり民主的でない方法がとられていた。だから、、特異能力の軍事集団としても活躍したし、調伏という名の呪いによる敵対者の破滅祈願を行うこともあった。修験道は、人を怯えさせるような残酷な裏面史も多く持っている。

 日本で修験道が史誌に記録されだしたのは、史誌の始まりの奈良時代からで、大和葛城の役の小角という行者が修験道の開祖ということになっているが、実際には、この時代に修験道という独立した宗教が現れたわけでなく、道教の影響を受け、仏教(密教)や古神道の混ざりあった宗教的儀礼のなかに、道教的な山岳的要素の強いものが現れたということのようだ。

 役の行者は、後に新羅の国に出向いて道教の上位の仙人として君臨したという伝説もあり、また、神道も密教も本地垂迹説というひとつの教理にくみこまれ、仏教系寺院で祭祁が行われていた。つまり、奈良時代では、民衆の認識にあっては修験道と神道・仏教は一般的な「宗教」という大まかな概念で包摂され、すくなくとも、今日のような明確な区別はなかったように思う。

 修験道には、定まった体系的教義が残されていない。それは、もともと山岳地帯における修行そのものが宗教活動の主体で、伽藍や仏像のような形而下の崇拝対象や思想理論にこだわらないこの宗教の性格からきているのだが、実際には、明治時代初期に、天皇制神道を絶対化しようとした国家権力によって、神道とまぎらわしい修験道が禁止され歴史的遺物が破壊されたことで、古い伝統や理論が捨て去られてしまった事情がもっとも大きな原因なのである。

 それが実践的に復活したのは、今からわずか40年ほど前の1950年前後にすぎないし、復活の主体になったのが天台宗や真言宗の密教僧であったことによって、それは古い本来の修験道よりも、江戸期に煩わしい観念的規範によって体系化した仏教的要素の強いものになっている。
 だから、私たちが修験道を理解するのには実証面で困難があり、先人の思索と修行を知るためには、実際にその足跡をたどり、想像力を働かせてみなければならない。

 私は修験道の総本山、大峰山脈に過去6度ほど登山している。ただし、奥駆け全行程を歩いていないので、暇と体力のあるうちに吉野から熊野まで踏破してみたいと考えた。歩きながら、修験道の本質について何らかのヒントを得たかった。

 奥駆け修行の行場の第一番は熊野本宮にあって、熊野から辿るのを順峰といい天台宗系の本山派とよばれる行者が行った。第75番の吉野神宮から辿るのを逆峰といい、真言宗系の当山派の行者によって歩かれているのだが、現在、大峰の修験道は、当山派の修験本宗が復活したこともあって、大部分が逆峰によって行われているようだ。

 伝統的な山伏は、この奥駆け全行程を、75箇所([靡]なびき)の行場を巡礼しながら2週間ほどで歩いたといわれるが、山歩きの標準的なコースタイムを考えると、およそ1週間というところだろうと考えた。

 もうすぐ冬に入ろうという時期が時期なので、山小屋での食料補給が望めず、全行程の食糧と冬山登山に近い幕営装備を担いでゆかねばならないのがつらい。
 そこで、行程を予備日も含めて9日と考え、食糧を原則として米だけにし、副食を極度に抑えることにした。これによって、食糧の総重量を7キロ程度にまとめることができた。これ以上ないほど荷重を抑えたつもりだったが、荷ができあがってみると30キロ近いズシリとした重さに、いささか気後れしてしまった。

 91年11月16日の朝、近鉄名古屋駅から吉野に向かった。吉野駅に到着したのは昼で、ひとりでとぼとぼと大峰をめざして歩きはじめた。この時期は、比較的天候に恵まれているので、快適な登山ができる。

 駅前に蔵王堂方面のロープウェイがあったが、たいした節約にならないので歩道を歩くことにする。ジグザグの踏跡を登りつめると吉野街道に出て、両側に古く懐かしい雰囲気の商店街が続き、狭いが歴史の薫り漂う古街道を行くようになる。

 道端に「南朝の里」と印刷された貼紙があった。吉野は、後醍醐が足利尊氏に追われて南朝を設立した街である。歴史ファンである私は、ひどく懐かしいような思いがこみあげてきた。

 歴史の薫りのなかにほのかに混じるのはミタラシダンゴの甘い香りで、ついつい手がのびてしまう。ひさしぶりの懐かしい味。これが実に旨い。だが、30キロを超す荷物が肩にくいこみ、一度下ろした荷物を担ぐのが憂欝だ。この先が思いやられる。

 大峰名物の優れた胃腸薬である「陀羅尼助」の製造販売店があった。江戸時代の旧商家のたたずまいを伝える由緒風格にあふれた店先に、陀羅尼助が一瓶三千円で売られているが、これは観光土産の値段なのだろう。少々高いと愚痴らざるをえず、買おうという気にならない。

 これは吉野洞川、オウバク宗萬福寺に伝えられたとされる秘薬オウバク(キハダ)を煮詰めたもの。これは安全なすばらしい自然医薬である。古いものの良さを理解できない人は、田辺製薬のスモンのような化学物質を信仰すればよい。学歴権威信仰による絶大な効能がえられることであろう。

 陀羅尼助には、大昔、クマノイやケシ汁を混ぜていたという。山陰大山の練熊や、御岳の百草も陀羅尼助とまったく同じ成分だが、明治の宣伝文句にはケシ科のコマクサを混ぜていたことが書いてあり、これがコマクサ壊滅の原因になったようだ。

 これらは、道教の医薬(漢方)が伝わったと思われるが、全国に熊胆を売り歩いたマタギともなんらかの関係があるにちがいない。吉野の山伏にとって、陀羅尼助の行商は大切な生活資金源だっただろう。

 また売薬稼業は、戦国大名の依頼を受けて各地をスパイして歩くための大切な小道具にもなった。吉野の山伏は、戦国期、根来寺の非合法活動専門の僧兵の手足でもあり、伊賀・甲賀の忍者の祖でもあった。それは、驚くほど残酷な殺戮者だった時代もあったのだ。

 道は、大仏鋳造に余った銅でつくられた発心門と呼ばれる神仏混交の鳥居と山門をくぐり、自然に蔵王堂に入ってゆく。発心門は、修験本宗の吉野から熊野へと向かう入峰修行を行う者の最初の行場になる。

 「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき、おん、あびらうんけんそわか」
 と唱えて鳥居を回った行者は、次に「気抜けの塔」とよばれる小さな部屋に押しこめられて、外から突然鐘を鳴らされて気合いを入れられることになる。そうして、下界の日常的感覚から過酷な修行へと気持ちを切り替えさせられるのである。また、この塔には義経逃避行の伝説も残されている。

 吉野の町は、蔵王堂の門前町としてできあがったようだ。建物自体が国宝として知られる蔵王堂は、吉野の核心部の高台に巨大な木製伽欄を鎮座させている。石段を登ると修験本宗、金峯山寺蔵王堂の広い境内で、驚いたことに、たくさんのイスと巨大な放送設備が据え付けられ、なにやら人気ミュージシャンのコンサートの準備中であった。私は、この手のことに無知で、どのような理由で何が行われるか見当もつかない。

 蔵王堂は平安時代に創設され、数度の火災を経て江戸時代に修復されている。自然の大木をそのまま利用した柱が使われていて、独特の個性的迫力がある。堂内には護摩の煙が充満し、古刹の重厚な雰囲気に圧倒される。

 堂内の修験者は真言系らしく全て剃髪した僧形で、古来の山伏の面影はなく密教僧の雰囲気だ。天台系山伏の総髪のほうが山伏らしい。真言宗系の修験道を当山派と呼ぶのだが、明治の初めに当山派は強制的に真言宗か金峰神社に分離帰依させられ、天皇制国家神道による弾圧から解放されて修験本宗として再建されたのは、まだ1952年のことである。

 修験本宗は、長い空白のうちに明治以前の神仏習合の面影は薄れ、その間、強制的に帰属させられていた真言宗仏教の色合いが濃いものになってしまった。習合神道が天皇の権威に逆らう邪教として排斥された、戦前の天皇崇拝教育のおそるべき成果をここにもかいま見ることができるのである。

 今でも、毎年7月前半に、修験本宗の主催による奥駆け修行が一般者の参加を募って行われているという。蔵王堂は、その出発点となり、蔵王権現や役の行者像の前で、修験道独自の真言を唱えて峰入り前の護摩法要が営まれる。

 真言(マントラ)というのは密教による呪符で、例えば、「おん、あびらうんけん、ばさらだとばん」と唱えることで、自分と大日如来とを一体化させ、「なうまく、さまんだ、ぼだなん、ばく」と唱えれば、釈迦如来と一体化するという具合である。これらは、口に真言を唱え、手に印契を結び、心に仏を意念すること(三密加持)で大日如来と一体化し、即身成仏をめざすのである。
 
 吉野の街なみを大峰山脈の山地図を頼りに歩いたが、なかなかややこしい道であった。下千本、中千本、上千本と桜の名所が続く。春先には凄まじい雑踏になる場所だ。ここでは4月10日ころ、蔵王堂を中心に花供祭が行われる。蔵王権現に桜の花を供え、盛大な餅撒きが行われるという。修験道の花祭には、神道の古い農耕儀礼が体現されているという。全国の修験各派に、それぞれの花祭が残されている。

 上千本のあたりから大峰山脈が次第に形を整え、明確な尾根に変わってゆく。そこで、初老の男性と同じペースで歩くようになり、やがて言葉を交わした。話してみると、宗教歴史について恐ろしいほどの博識の方で、たちまち意気投合してしまった。立見さんといわれたその方は、どこかの大学教授ではないかと思った。

 吉野で見たいと思っていた水分(みくまり)神社は、吉野の水源尾根の中腹に構えていた。立見さんが権現造りといわれた社殿は、拝殿前の広場を取り囲むように建物が連なり、格調高いすばらしい雰囲気である。おそらく、日本の水分神社の草分け、あるいは総本山であろう。

 尾根に沿ってつけられた道路をとぼとぼと歩いてゆくと、金峰神社の道標にしたがって高城山という城址に登る。山頂に立派な休憩舎があり、そこから元の道に下る。無理して登った値打ちはなく、損をした気分になった。

 道なりに歩けば自然に金峯神社の境内に入る。ここは、古い修験道が天皇制時代に強制帰依させられていた本山である。祭神は金山彦で、これはすなわち大峰山脈に金鉱脈があったことの証である。

 ここまで予想外に時間を食ってしまい、「この先、よい幕営地はないですか」と社守のおばちゃんに尋ねると、
「この先は女人禁制だから、私は行ったことがない」
 と言う。改めて、修験の大峯に足を踏み入れたことを感じた。

 まずは水を求めて苔清水に向かう。苔清水は細い湧水だが、絶えたことがないという。整備された水場で大勢の中年観光客が騒いでいた。そのわずか上に平地があり、そこにツェルトを張ることにした。

 夜半、百人一首で知られる西行が創立したとされる西行庵の勤行の打木の音が気味悪かった。カメムシが臭くてかなわない。イノシシと思われる動物がうろつく音も聴こえ、あまりよく眠れなかった。
 冬も近いので山蛭など不快な虫が少ないのが利点だと思ったのだが、意外に生物が多い。重量節約のために、酒を携行しなかったのが辛い。

 日曜の朝、ゆっくりと7時に出発、青根ヵ峰を越えると再び林道になり、尾根をブルドーザが強引に踏みつぶしている最中だった。登山道を探すのが大変だ。どうやら黒滝村への道をつけているらしい。カクレ平からやっと普通の山道になる。

 五十丁、百丁の茶屋跡を過ぎ、快適なハイキングコースが続く。大天井ヶ岳のトラバースでは再び激しい重機の音が聞こえる。登山道のわずか50mほど下まで林道が迫り、なにか大きな工事をしている最中だ。

 バスの通行を可能にするための林道拡張工事だとすれば、修験行者のためのものであって、退廃ここに極まれりというべきか。だいいち、ここは聖域ではなかったのか。女はダメだが車はOKとでもいうのか。こんなものを許せば、次はロープウェイに決っている。

 わずかで女人結界、新しい立派な門がある。この時代にあって、女性の立ち入りを拒否し続けている、つまり憲法違反の慣習を公然と認めている国立公園は世界中探しても、大峰山だけだろう。確かに、残り少ない無形の歴史的伝統を守りたい気持ちは分かる。だが、女人結界が尊重すべき宗教的伝統だと考えるのは、私には早まっているように思える。

 私が後に大峰修験道を知る過程で、この宗教は、実は民衆救済を目的とするよりも、権力者にとっての軍事的役割の方がはるかに大きかった事実が分かってきたからである。
 驚くほど残酷な生命軽視の悪行が重ねられていた。私は歴史的事実を知る度に、山伏に対するイメージが、崇敬から恐怖に変わるのを抑えられなかった。

 歴史的には、権力奪取のための、調伏という名の呪殺をはじめ、謀略・毒殺・略奪・殺戮など、およそ人間の薄汚い裏面のすべてに山伏が関わってきたことを知った。
 少女誘拐、幼童強姦殺害など序の口であって、山伏は恐怖のアウトローの世界であったことを思い知らされた。
 そこには、決して正義や民衆救済宗教の美しさはない。戦国の乱破と呼ばれた殺戮破壊専門の忍者集団の祖となったのも山伏であった。

 薄汚く残酷な世界に女性を入れるわけにはいかない。女性は本来、そのようなアウトローには向いていない。大峰山が女性を拒否し続けた真の理由は、決して表に出せないその恐るべき歴史的真実にあったのではないか?

 洞辻茶屋まで行けば日曜だから営業しているかもしれないと思ったが、たどり着いてみると閑散とした木枯しが吹くばかり、休憩していると、驚いたことにアベックの二人連れが登ってきた。「凄い、偉い、立派」こうでなくっちゃ。

 男の方はガッチリした体格で、おそらく修験者とのトラブルを避けるためだろう、洞川の消防団のスタイルで決めている。もっとも、山上ヶ岳に登った女性は決して少なくない。例えば、女性登山家として著名な今井通子さんも、沢登りついでに登頂したと公言している。修験の方も昔のような厳しい戒律にこだわる人は希で、その気になれば誰だって登れるのである。

 ただし、峰入りシーズンは避けた方がよさそうだ。権威や伝統にこだわる程度の低い人物が多いからだ。林道を開通させ、車を通すことは可としても、女性だけはまかりならぬと本末転倒の愚かしい主張をする者も多いにちがいない。それでも、そのような伝統が山上ヶ岳を開発させない力になっているとすれば、それなりに有意義だとは思うが。

 登山道は茶屋をくぐり抜けてゆく。整備された板敷の道を登りつめると金懸岩で、そこから広大な山頂になる。両側には、峰入り修行の回数を誇る供養塔が立ち並ぶ。最高が50回程度のようだ。自慢は結構だけど、どれほどの霊力を得たことか。観光バスでやってきて、洞川から登って一回じゃ、役の行者が泣いてますぜ。

 途中、「西の覗き」と呼ばれる有名な行場がある。関西地方の男子は、一度はここに連れられてきて、300mの垂直の岩場に宙づりにされて親孝行を誓わされる伝統があったと司馬僚が書いている。

 「親孝行するか、一生懸命働くか」と問われ、肯づかねば落とすぞと脅されるのである。本心にもないことを無理矢理言わされるのでは、関西に親不孝者が増える理屈だなどと思ったりする。

 ここには捨身行と呼ばれる自殺行があった。かつて、この岩の下には無数の人骨が散乱していた。その昔、年老いて自由に動けなくなった山伏は、ほとんど捨身、すなわち投身自殺したようで、その神聖な人生最後の行場がこの岩であった。
 本山派の熊野修験者は、那智ノの滝上から飛びこんだと明治の文献にある。生きていることが、よほどの苦痛だった時代があったのだ。楽しければ死ぬものか。

 大峰山寺の宿坊群はさすがに凄い。まるで白馬の山小屋である。造りの良い分だけこちらの方が見栄えがある。これらは全部人力荷揚げだから大変な労力だっただろう。しかし人の姿は見えず、寂しい冷風に包まれていた。

 山上ヶ岳の山頂は大峰山寺の上にあり、広大な草原になっている。展望良好。さきほどのアベックに出会った。行き先を尋ねられて、熊野までと答えるとびっくりした表情になった。せこい優越感を味わう。快晴だが、やたらと冷える。休憩もそこそこに歩き出さずにいられない。

 30分程で、水場の小笹の宿に着いた。稜線直下だが水流があって、広い平地になっている。無数の石組の基礎が残っていて、ここにかつて非常に大きな宿坊群があったことを示している。文献には、当山派根拠地、小笹36坊とでている。赤塗の堂宇と小さな避難小屋があった。ありがたい。新しく快適な小屋であった。

 広場の中央には立派な護摩行場が設けられ、護摩の燃えかすが散乱している。大峰75箇所の行場には、すべて魔除の独鈷が立てられ護符が貼られている。独鈷は、もともとブーメランに似た武器であったというが、柄がつけられ山伏を象徴する杖となった。

 岳人のピッケルと同じで多目的であり、ときにシゴキ棒になったりするのも似ている。中国由来のこの武器の存在は、修験道が道教の直接の継承者であることの端的な証明の一つでもあると思う。
 この時期、縦走を企てる酔狂な人間はいない。静かな小屋の夜はふけて、ハンゴウで炊く飯は旨い。

 快適な一夜を過ごし、まだ暗い早朝、ツェルトを畳んで大普賢岳に向かう。
 小普賢岳の長い登りにうんざりするが、大峰山脈の核心部に到った充足感がある。ここで和佐又山からの道を併せるが、このルートから前鬼までは10年ほど前に縦走している。

 このルートには岩屋が多く、晦日(つごもり)山伏といわれた行者が越冬した場所である。以前歩いたときに、岩穴の奥に人骨片が散乱しているのを見た。
 越冬に堪えられず死んだ山伏も大勢いたのだろう。また、この地域は名だたる日本狼の棲息地でもあった。山伏は、飢えた狼のよき食糧になったかもしれない。

 岩屋で晦日修行を行った山伏は、春先に石楠の花を手に里に降り、里人はこれを山の神として畏敬して迎え、花を田に投げ入れることによって、それが田の神になって豊饒の収穫を守護したと柳翁や釈超翁が書いている。神は冬に山へ入って水源を護り、夏に田へ戻って稲を護るという原始農耕儀礼の原型となる伝承である。

 もっとも、和歌森太郎や宮家準などの民俗学者による、そんなキレイゴトの伝承は、ごく一部の表向きの話で、南方熊楠は恐るべき山伏の峰入り修行の実体について、いくつかの著書で触れている。

 例えば、この稜線には「稚児落とし」などという地名がいくつかある。
 この山域では、女人禁制の戒律があって女性を連れてこれないので、山伏の性欲処理のために買い取られたか、誘拐されてきた稚児と呼ばれる幼い子供達が、疲労で歩けなくなったり病に倒れたりしたときに、垂直の断崖で墜落死させられた事実を表している。
 これは謡曲「西行」などにも象徴的に語られている。

 今日でも、人間の本能が剥き出しになる裏の世界では、子供達への性的虐待が後を絶たない。二重性のある権力社会では、公然と本音を語ることのできない社会的地位をもった人物が、好んでそうした幼児虐待ビデオを購入している。
 二重性の強い社会ほど、そうした二面性のある人間を多く生み出すのだ。それが歴史上もっとも端的に現れたのがナチズムであった。

 人が貧しいとき、手を取りあい、助けあって生きているときには、誰でも美しい道義性を磨こうとするが、皆が豊かになり、他人に見下されまいと背伸びをするようになると、人は愚かしい差別主義に走り、ソドムの道を歩むようになる。こうなれば破滅し、殺戮しあって、再び貧しくなる日を待つしかないのだろうか? 

 日本史を見ても(おそらく世界史も?)、室町期のような温暖で豊かな自然条件に恵まれた時代は残酷な争いが多く、江戸期のように寒冷化による過酷な自然条件の時代は、人々の心は暖かくなるのである。今日、繁栄の極地にいるわれわれの心は極寒といっていい。

 早朝7時前、標高1780m、大普賢岳のトンガリ山頂の眺望は、南の釈迦ヶ岳と好対照の北山脈中の圧巻であって、紀州を代表する360度の広大な山岳大展望である。果てしなく続く紀州大山塊に魅入られ、呆然としてしまう。

 歩いているうちに薄暗い地平線が明るくなり、明るく爽やかな朝がやってきた。そして突然、南の山なみが一箇所キラキラと、この世のものとも思えぬほど美しく輝きだした。

 一瞬、我が目を疑い、これこそ江戸期の山師によって記録された金鉱脈から密かに立ちのぼるという幻の御神灯かとも思ったが、やがて、熊野灘に朝日が照り映えていることに気づいた。それは、まるで光の饗宴というにふさわしく、神々しいまでの美しさであった。海と山との境の見分けがつかぬほど、紀州山塊は広い。

 ここから七曜岳を超えて行者還岳に到るまでが、大峰山脈の最大の難所であり核心であって、ギザギザの鋸の刃のような苦しい上下が続く。「稚児落とし」を渡り、クサリ場をいくつも越えて、梯子を上下し緊張を強いられるが、南アの鋸岳ほどではなく、整備されているのでそれほど危険ではない。

 困ったことに、途中の水場は長期の晴天続きのため全部干上がっていた。しかし、前回の縦走のときはササ薮漕ぎに苦しんだ縦走路も、今回は刈入れされて歩きやすくなっていた。

 弥山への登りは、美しく快適な樹林を行く。ここは行者還トンネルに車を置けば、わずか2時間ほどで登れてしまう。もう15年も前に洞川から狼平を経て登っていて、山頂は今回で3度目ということになる。山頂直下の急登が辛いが、ひさしぶりの亜高山帯の針葉樹林に心が落ちつく。道には、ところどころ雪や霜柱が残っていた。

 弥山小屋にも人影はなく、おまけに水場が干上がっていた。冬期用避難舎に入り付近を探すと、便所の手洗いドラム缶に厚い氷が張っていたので、それを溶かして使うことにした。ナタで氷を砕きハンゴウで溶かすのに、ひどく時間がかかった。

 山頂は、小屋の上の鳥居をくぐったところにあり、山麓の天河弁財天社の奥宮が置かれている。これは芸能人に人気のある社として知られる。弁財天は、大黒天とともに鎌倉時代から信仰されるようになった。サンスクリット原典では、河の神、知恵、音楽、財物の神とされ、8本の腕をもつ女の姿である。神道ではイチキジマ姫尊とされ、後に、大黒天とともに福徳の神になった。芸能人にぴったりの神様なのだ。

 我々の知るのは、宝船に乗った七福人の紅一点の姿であるが、本当はもう少し奥行きのあるものらしい。修験道では、「オン、ソラソバテイエイソワカ」というのが弁財天のマントラにあたる。サンスクリットにある弁財天の原型は、古代ギリシアに伝えられて美の女神ビーナスになったと考えられる。

 朝、水をウーロン茶の容器に詰めて出発した。ひどい水で、いちいち沸かして茶にしなければ飲む気になれない。そのお茶も、ハンゴウの蓋に湯を沸かし、安い茎茶を放りこんで茶葉をペッペッと吐きながら飲むのだから旨かろうはずがない。荷をコンパクトにするために、余分なものを一切持たなかったのだ。

 30分ほどで、弥山の兄弟峰で大峰山脈最高峰かつ関西圏最高峰の八経ヶ岳、1915mである。仏教ヶ岳や八剣山の名もあるが、小角が法華経八巻を奉納した故事から名付けられたのだから八経岳で正しい。

 大峰のヘソにふさわしい広潤な展望である。なつかしい既登の山々を指呼に見渡すことができる。紀州山地北部のピークは大部分終っている。およそ100山以上も登っただろうか。我ながら、よくぞ歩いてきたものだと思う。

オオヤマレンゲの自生地を経て七面山に向かう。この付近、大峰山脈中の白眉といえる風景で、最初の奥駆けのときは新緑で、その類希な広葉樹林帯の美しさに言葉もでないほど感動したものである。

 しかし、当時すでに右手の七面谷の伐採が始まっていた。今回も、そのときの伐採跡地の荒廃がそのまま放置されているのを見た。本当にやりきれない思いがする。官僚主義の害毒を見せつけられる思いである。人間が利己権益主義を原理として生活するかぎり、自身を滅ぼす以外の道はないことを思い知らされるのである。

 七面山に近付くと、主綾は典型的な二重山稜になり、船窪状の地形が続く。粗末な副食のせいでビタミン不足の症状が現れはじめた。歯茎の出血は明らかなCの不足、茶を食べて補うつもりだったのだが追いつかない。茎茶でなく粉茶を直接食べるのでなければならなかった。B不足の脚気症状も現れ、こちらは黒砂糖を食べて補った。

 七面山の南側には大峰きっての高度差400メートルの岩場がある。奥駆けのなかでも大切な行場だが、ここは魔の大岩壁とよばれている。ロッククライミング中の墜死者も少なくない。古いこんな言い伝えが残されている。

 「古田の森に黒霧かかれば、そのなかより魔いで来たりて人を連れ、七面のクラにゆくことあり」と。
 稜線を素直に歩くと、この大岩壁の真上にさまよい出る。無意識のうち、いつのまにか行ってしまう。山伏には、あまりの悪行故に成仏できないで彷徨する魂が多く、そうした幽冥界をさまよう悪霊が、志操の緩い者に取り憑き、死へと誘うのである。

 楊次の森から長い登りになる。ふりかえれば、七面山の魔の岩場がすばらしい。
 途中、激しい倒木帯にでくわした。前回の縦走の記憶にないから、これは昨年、三重県地方を集中的に襲ったいくつかの台風の仕業ではないかと思えた。ルートが判然とせず迷いやすいが、適当に尾根を外さずに歩いた。
 迷いこみやすい枝尾根が多いのでガスの日は危険であろう。おまけに途中で主綾が屈曲しているので、いかにも遭難しそうだ。これでは、よほど山慣れた者以外は危険だ。

 仏生ヶ岳から、長い散歩道を歩く。このあたり石灰岩カルスト露頭で、五百羅漢と名付けられている。いつものクセで、化石を探したが良いものは見あたらなかった。
 研磨しなければ発見が難しい。良い化石は、高級なビルの大理石を探すのがてっとりばやい。

 釈迦ヶ岳がだんだん近付いてくるが、なかなか届かない。鞍部には、良い岩遊びのゲレンデになりそうな巨岩がある。修験では、これを両部分けと呼び、吉野からここまでを金剛界曼陀羅といい、これから熊野神宮までを胎蔵界曼陀羅といっている。大峰修験道のデベソといっていい。

 岩を回りこむようにして、いよいよ釈迦ヶ岳の急登がはじまる。両手足を使ってよじ登り、喘ぎ喘ぎ30分ほどで山頂に達する。

 大峰南部の秘峰、釈迦ヶ岳は、実に5度目の登頂である。懐かしい釈迦如来像も健在。
 最初に登ったときは1800mの標高だったものが、いつのまにかわずかに低くなっている。だが、大峰きっての絶景は変わることがない。これほどの大展望は、紀州山地全体でも一位を譲らないであろう。

 大きなブロンズ製如来像は、大正年間に岡田牛松というボッカが上げたもので、分解しても一つが200キロ近くある。多年の落雷によってかなり傷んできているのが気になる。

 ここで奥駆け修行のハイライトである秘法護摩が行われる。ゾロアスター教の拝火信仰が伝えられた護摩(ホーマ)には、大きく分けて3種類あり、病気災厄を防ぐ息災護摩、福利現世利益のための増益護摩、敵を呪い滅ぼす調伏護摩であるが、中世、権力抗争に加わった山伏は、もっぱら調伏護摩を盛んに行った。

 大名の世継ぎ争いでは、山伏による調伏の記録がたくさんでてくる。庶民の間に、丑の刻参りが流行ったのもこの影響であって、有名なブードー教の呪殺と同じ性質のものであった。

 今では、もちろん息災護摩が中心であって、大阪商人の多い大峰修験者には、もっぱら増益護摩が多くなるのも当然であろう。釈迦ヶ岳では、柴灯護摩の勤行が行われ、これは先祖供養の意味をもっているとされる。しかし、これらは密教のもので、本来の習合神道の伝統行は消えてしまったが、昔の行の内容を知りたいものだ。

 釈迦ヶ岳を熊野に向かってまっすぐ下ると、誤って十津川村登山口に下りやすいが、笹に隠された道を見失わないように本道を左手に折れて下ってゆけば深仙(じんぜん)の宿に着く。ここに古い堂宇が建てられている。

 これが本山派の伝法潅頂の行場であって、ここまで約1週間にわたって苦しい修行を続けてきた山伏に、洗礼の意味もった資格付与が行われた。

 潅頂(かんじょう)とは、十種の行を修めた者に戒律を与える儀式で、行者は大先達に護摩木を渡し、大先達は行者の頭に香水を振りかけるのだが、キリスト教の洗礼と変わるところがない理由は、密教を体系化した不空三蔵が、当時、唐に伝わっていた最新の宗教であった恵教(キリスト教)をモデルにしたのだろうと考える。ただし我説である。

 深仙堂の脇をトラバースして戻ると、香精水という水場があって、これが潅頂香水にされる。これをあてにしていたのだが枯れてしまっていた。半月以上の晴天続きのため、ここまでの水場は全滅であった。残り水はコップ一杯程度。先が長いのに困ってしまった。

 ほどほどに休憩して出発すると、すぐに大日岳がある。左手の踏跡をたどればスラブ状の岩場があって、鎖を登りつめて頂上に達する。もちろん、行場である。
わずかで太古の辻に着く。ここが、大峰と熊野を分ける境になり、奥駆けも、ここから前鬼に下るのが普通である。

 予定では、もちろん熊野に向かうつもりだったが、水が不足しているので考えこんでしまった。次の水場である持経の宿までは4時間以上かかるが、コップ1杯の水しか残っていない。
 それに、水場が枯れていない保証もない。結局、前鬼に下ることにした。ここまでのコースは何度も歩いていて、ここからの熊野コースこそ目的にして歩いてきたのだが、残念無念で未練が残ってしかたなかった。

 左手の急な道を下りはじめた。途中、鉄砲の音が聞こえ、鹿の鳴き声が続いた。二つ岩という奇岩が現れれば半ばである。何度も通った道なのに、ずいぶん遠く感じる。途中の沢は、すべて枯れていた。この標高差と距離では、もう再登する意欲も湧かないだろう。

 杉林が現れ、五鬼童、五鬼熊、五鬼継などの住居跡の表示がされていた。前回にはこのようなものはなかった。そして、懐かしい五鬼助家の建物が見えた。ひさしぶりの前鬼。誰かいるだろうか。

 だが、なんと、あてにしていた小仲坊がないではないか。そこには、建物の新しい基礎だけがあった。驚いたことに、車道のなかったはずの前鬼に、そこまでコンクリート舗装の狭い林道がつけられていた。

 なんということだ、前鬼も変わってしまうのか。前鬼を取り巻く見事な原生林も、王子製紙の手によって無惨に伐採されていた。

 この山々は、日本狼の最後の棲息地であった。10年前に会った神戸市の斐太猪之助さんは、前鬼に泊りこんで最後の狼家族を観察していた。その斐太さんも亡くなられた。

 なによりも、私が前鬼を何度も訪れるきっかけになった最後の鬼の子孫、小仲坊の主であった五鬼助五郎義价さんが文字通の鬼籍に入られて、すでに5年も経てしまった。

 前鬼は、役の行者が大峰を拓いたとき、従者として小角を世話した前鬼と後鬼が棲みついて修験者の世話をするようになったという伝承をもつ。開闢以来、実に1200年の伝統があった。

 五郎さんは、その最後の末裔であり、親切な人間性は、誰からも愛されていた。
 私がはじめて前鬼を訪れた十数年前、五郎さんは離れの小仲坊でなく、自宅に泊めてくれた。その夜は、数名の登山者とともに酒宴になった。五郎さんは、ひどく酔ってしまった。その前夜、一千年以上護り通してきた前鬼の守護神であった役の行者像が盗まれていたのである。

 私が持参のブランデをーすすめると、彼は戸棚を開けてみせた。すると、そこには世界中の銘酒がこれでもかと並んでいた。五郎さんは、西洋人の血を引くかと思えるほど端正な容姿で、熊野のユダヤ伝説をほうふつとさせるほどだったが、五十歳を過ぎてなお独身であった。こんな辺鄙な場所に来る嫁などいなかった。

 彼がどれほどの寂寥に堪えてきたか、自分も同じような境遇になってみて身に染みる。暴飲暴食するようになり、やがて体を壊して入院するようになった。優れた修験道学者であった父親の研究を引き継いでおられたが、世に出ることもなかった。

 その後も、幾度か前鬼を訪れたが、五郎さんに再会することはできなかった。何度目か小仲坊を訪れたとき、親戚の若者から五郎さんの訃報を聞いた。死因は糖尿病による内臓不全であった。享年54歳、祈念冥福。

 小仲坊は改築されるようだ。天気が悪くなっていたので、雨を凌げる軒下を探したが見あたらず、やむをえず広場にツェルトを張った。ハンゴウで飯を炊いていると、さきほど鉄砲を撃っていた猟師が降りてきた。

 話しているうちに、五郎さんのありし日のことが話題になった。その人は、子供の頃からの友人で、頻繁に五郎さんを訪れていた。五鬼助家は京都に親戚があって、その人が小仲坊の経営を引き継いでいるという。

 それから、猟の話になった。「いや、今そこで熊に吠えられてな」と、こともなげにいう。鹿を追っていて熊に気づかず、危ういところだったという。前鬼の付近は熊が多くて、何度も出会っているという。

 狼も、1950年代まで普通にいたといわれた。撃って、大学に毛皮を持ち込んだこともあったが、頭骨がないという理由で正体不明という結論になったそうである。「学者なんて、そんなもんさ」といわれた。日本狼の滅亡の公式年代は明治42年なのである。

 「気をつけて」といって去った後、ひとり取り残されて薄気味悪くなった。ツェルトのなかでシュラフに潜りこんでも、小さな音にもおびえた。

夜半、ときどき鹿の鳴き声が大きく響き、近くで枯葉を分けるガサガサという重い音がした。「熊かもしれない」と思い大声をあげると、足音はゆっくりと遠ざかっていった。やはり熊だったようだ。キャンプ場には、残飯を狙ってよく現れる。

 雨がフライシートを叩くようになり、それでも、いつのまにかウトウトとしてしまった。さすがに、疲れがでたのだ。翌朝、ひどく寒く、すぐれない天気であった。もはや熊野に登り返す気力も消滅し、支度をしてバス停に向かった。荷は10キロ近く軽くなって楽になった。

 五鬼助家の先で、前鬼の裏行場二十八宿への道を分ける。ここは三重の滝に出るルートだが非常に危険だという。山伏にも多くの死傷者が出ている。旧道を戻り、林道に出る。そこからバス停まで3時間。

 トンネルの手前で、左手の不動七重の滝がすばらしい。知られていないだけで、日光華厳の滝や、尾瀬三条の滝にも匹敵する見事さである。7段で、総落差およそ200m
 林道をとことこと歩いてゆくと、前鬼口に近いオワシ谷という場所で、右手の薮のなかから、突然ものすごいうなり声がおこってドギモを抜かれた。

 見ると、数十メートル離れた藪の奥に、人の大きさほどの熊らしき影が立ち上がってこちらを見ていた。すぐに熊だとピーンときたが、初めてではなかったのであわてなかった。8月に、浅草岳に登ったときも、六十里越峠で同じように吠えられたばかりである。

 大急ぎでそこを駆け抜け、少し歩いて振り返ると、林のなかに黒いものが蠢き、再びすさまじい吠え声があたり一帯に響きわたった。今度は、少々あわてて走って逃げた。今にも追いかけてくるように思えたからである。何十頭の大型犬が一度に吠えたような迫力であった。

 バス停に着くと、すぐにバスが来た。間に合ってよかった。新宮まで1日4本しかないのだ。バスは、以前は大型だったが、今度はマイクロに変わっていた。ローカル交通は採算割れの一途だからやむをえない。

 乗客は私独り、貸切りとは豪勢だ。バスの運転手さんに熊のことを言うと驚いていた。今年は、ピナツボ噴火の影響で、長雨のため実生も不作になり、熊が里に出るケースが多いようである。紅葉の悪い年は、熊が多く捕れるというのは間違いない。

 熊野駅に近づくにつれ、客も増えてきた。沿道の山々は、秋の台風のためひどい風害を被っているのが見えた。バスのなかで、酔ってそのことをわめいている男がいた。熊野灘がひどく美しく見えた。

 このとき歩き残した熊野奥駆けは、翌年春、玉置山から笠捨山まで歩いたが、林道が尾根筋を交錯し、原生林はほとんど皆伐され、あまり気分の良いものではなかった。

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