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  二人の女子学生が突然死。水耕栽培でも汚染は防げない。福島高専教員鴨下さんの意見陳述
http://www.asyura2.com/16/genpatu45/msg/350.html
 

【九州玄海訴訟 第16回口頭弁論期日の報告】鴨下祐也さんの意見陳述

1 はじめに
私は,2011年3月11日,福島県いわき市で妻,息子2人の家族4人で暮らしていました。私は東京理科大学大学院を卒業後,福島高専に15年間勤務しました。事故前は,生徒4人と野菜の水耕栽培で「美味しい野菜の作り方」の研究,実用化に取り組んでいました。私は,大学時代,微生物の研究に没頭し,DNAを調べる実験で放射性物質を扱っていました。

 管理区域に指定された実験室内で線量計を付け,遮蔽板を挟んで実験していました。私の先輩の話ですが,先輩がトイレに行くため実験室を出ようとすると,センサーが反応し外に出られないことがありました。汚染した手を何度洗ってもセンサーが反応し,トイレに行けず,最後には,汚染していない学生の手をセンサーにかざしロックを解除しトイレに駆け込んだことがありました。転じて,いまの福島の汚染状況を考えると,管理された実験室内の方が安全と感じます。福島と実験室とを比べても,実験室内の
方が厳重に管理されている状況です。

2 原発の危険性を意識し始めたきっかけ
私は,大学時代から実験を通じて放射性物質の危険性を意識し,その危険性が原発と結びついたのはチェルノブイリの事故が起きた時でした。その後,日本で中越沖地震が起き,柏崎刈羽原発が設計を大幅に上回る揺れに襲われつつも,奇跡的に止まったとの報道に触れ,自分の住んでいる福島県内の10基の原発の稼働状況を日々意識するようになりました。

3 震災後,事故後の様子
震災の日,中学生らがいわきから約20キロ離れた自宅に歩いて戻ろうとしていたので,私は彼女らを家まで送ることにしました。主要な道路は,封鎖された影響でひどく渋滞し,私が自宅に戻ったのは夜の12時でした。車の中ではラジオから福島第一原発から3キロ圏内の住民に対し,「放射性物質が漏れてはいないが,念のため口や鼻を覆って避難するように」と避難指示が出ていました。私は,福島第一原発は冷却に失敗していると確信し危機感を募らせました。私達家族は,被ばくを避けるため,その日のうちに妻の実家である横浜に一時避難することを決めました。翌日,原発は水素爆発を起こし,危険は現実化しました。

その後,私たちは,多くの福島県民が避難する東京の赤坂プリンスホテルに身を寄せることにしました。その避難所では,避難指示区域内の人を優先的に受け入れており,後から入った避難指示が出ていない区域の避難者に対し,「いわきは放射能ねえべ。けえれ(帰れ)。」「いわきは国が大丈夫と言ってんだろ。俺んとこは,けえりたくてもけえれねえんだ(帰りたくても帰れないんだ)。」と避難指示区域内の人から苦しみの声が上がり,避難指示区域外とされた私達に疎外感を感じさせるものでした。このことは,いまでも私の妻のトラウマとなっています。

4 学校の再開
私は,学校再開のため4月上旬にいわきに戻ることにしました。その頃,高専には,文科省からの圧力で早期の再開が指示されていました。教員らで汚染,生徒たちの被ばくについて議論をしましたが,教員約80名中,私を含む約1割が再開に反対するのみで,多勢に無勢でした。学校はGW明けに再開となりました。

再開後,私は,研究指導生徒4名に対し,水耕栽培の研究を実施するか否か問うてみました。私は,生徒たちに,たとえ水耕栽培であっても放射性物質を含む野菜しかできないこと,私は実験を継続しない方がよいと思うことを説明しました。
しかし,高専の生徒たちは,人生最後の研究の続行を希望しました。ある農家の息子である生徒は「自分が作ったものは必ず食べる。捨てたりしない。」と言い,他の女子生徒3名は,「政府が安全と言っているのであれば,基準値の500ベクレル以内であれば食べても構わない。」と言いました。

その後,検知器で収穫できた野菜の放射能量(ベクレル)を計測する日々が始まりました。野菜の放射能量は一桁台で,土で栽培するよりも低い値でした。生徒達もその野菜を食べ,周囲に配ることもできていました。しかし,事故と同じ年の12月ころから放射能量が徐々に20,30,40と上がり始めました。この上昇する数値を見た時,水耕栽培でも汚染は防げない現実を突き付けられました。
生徒たちは野菜を食べなくなりました。「野菜は捨てない」と言っていた農家の息子でさえもです。後に,国は,2011年の12月から翌年1月にかけて,セシウムの降下物の量が増大していることを公表しました。

5 いわきを離れることを決めたきっかけ
  事故直後の5月,寮に住む一人の女子学生が心不全で突然死しました。部屋に行くと女子学生には反応がなく,私は必死に横たわる女子学生に心肺蘇生を施しましたが,もう手遅れでした。前日まで元気だった彼女は帰らぬ人となったのです。また,同じ年の12月,また一人,女子生徒が突然亡くなりました。

私は高専に15年間勤務しましたが生徒の突然死など経験したことがありませんでした。5月に亡くなった生徒は実家が浪江町にあり,震災で学校が閉鎖された後,実家の浪江町に戻り,放射性物質の流れる方に向かって避難していた一人でした。もう一人の生徒はホットスポットとなっている郡山に実家がありました。
私は,この二人の女子学生の突然死について,放射性物質の危険性,被ばくの影響を疑わずにはいられませんでした。

私は,妻と子どもたちが避難している東京といわきを往復する生活に,体力的な限界を,放射性物質の拡散を止められず,放射性物質が至る所に浮遊している福島での生活への不安,家族と一緒に暮らせない毎日に精神的にも限界を感じ,いわきを離れることにしました。

6 脱原発に取り組む思い
今,私は東京で避難生活を送っています。政府は,福島県知事に圧力をかけ避難住宅の提供を2017年3月で打ち切ると決めました。政府の帰還政策を容認せざるを得ない状況を作り出し,挙句の果てには「福島県民にいま必要なのは心の除染」と宣伝しています。

私が,事故後,脱原発に取り組んできたのは,低線量被曝の危険性を認識し,実感したからです。私は,事故後5年間,放射線被ばくに関して知識を深めてきました。そこで得た確信は低線量被曝の危険性が確実にあるということです。

一方,政府は,低線量被曝の危険性や放射能の影響について正確な情報を国民に流さず,むしろ電力会社やマスコミも一緒になって情報を巧みに隠蔽しています。
私の妻のトラウマとなった区域内避難者からの言葉は,被ばくの危険性に関する情報の不足,隠蔽がもたらすものです。人間の命,特に子ども達の命に影響を及ぼすことがわかっているにもかかわらず,専門的な知識もない市民,母親たちに被ばくのリスクを決定させています。

 この政府の無責任さに対して,私は憤っています。今の福島は安心して帰れる場所ではありません。「福島県民に必要なのは心の除染」などといわば洗脳のような,非合理的なことでこの問題を収束させてはなりません。未曽有の原発事故を経験した私達は,原発の危険性について,正確な理解を深め,合理的な判断をする必要があります。その判断のためには,原発や放射性物質の危険性に関する正確な理解が必要です。さらには,チェルノブイリでもそうであったように,福島原発で生じた被害の実態,福島県民同士が分断される実態,福島の人々がふるさとを失い,コミュニティが破壊されるという原発事故に特有かつ不可避の被害の実態を正確に理解する必要があります。

 私は,福島第一原発事故の被害者として,二度とあのような事故を起こさないようにすること,玄海原発を含む全国の原発が止まり,原発を廃炉にすることが,この事故を体験した私の,そして日本の大人たちの使命であると同時に,事実を探求する裁判所の使命です。

国も行政も地方自治さえも,不都合なことに目を背けようとするとき,それを正しい方向へ導き直す。その裁判所の使命を全うしてください。以上

Appendix

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Author:tokaiama
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