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それぞれの山の物語 4 白山巡礼 後編

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 それぞれの山の物語 4 白山巡礼 後編

 別山 2399m 1990年7月

 別山は白山の真の骨格である。
 数万年前に、水成岩からなる隆起山脈であった別山連峰のうちに噴火活動がはじまり、膨大な噴出物が経ヶ岳、白山、大日山を形成した。

 それらの山は、別山が数千万年という気の遠くなるような時間のうちに、海の底に静かに醸成されたことを思うなら、あまりに僅かの時間で突如出現したのであって、インスタントに成立した軽薄さを免れない。

 人々の印象からいうなら、ぱっとせず、ダラダラとふんぎりのつきにくい水成岩山地の山々よりも、さわやかな容貌をもつ火山独立峰に人気が集中するのは当然であって、日本の名山と称される山々の大部分が、富士山以下の切れ味鋭い火山独立峰になってしまうのは、いたしかたないことかもしれない。
  
 だが、別山は違う。その上に覆いかぶさった白山の火山性噴出物のメッキが自然のメスによってはがされるにつれて、別山は隠していた重くいかつい正体を現し、凄みをかいまみせるのである。

 崩壊によって再びこの世に現れはじめた別山の山体は、1万年前に隠されたときといくらも変わらない姿であろう。

 別山の山体の大部分をなすものは、海底に沈澱した水成岩であるが、3億年以上前に古日本海に繁栄した珊瑚礁や放散虫の遺骸も含まれている。そして、それらが隆起し、広大な湿原平野を成立させたとき、そこに琵琶湖の数倍もある巨大な湖が成立し、恐竜とシダ植物を主とする動植物の壮大な楽園になった。それを手取湖という。

 手取湖の膨大な生物性堆積物からなる地層を手取層という。今日、地質学者や考古学者の関心をあつめる手取層基盤こそ白山山地の真の正体であり、真の骨格なのである。

 私は過去4度白山に登った。しかし、いずれのときも別山を踏まなかった。それまで、私は別山を白山中腹の1ピークくらいに軽く考えていた。だが、周辺の山々に登って仰いだ別山の姿は、決して白山の属峰ではなかった。それは、白山から疑いもなく独立した堂々たる大山であった。

 別山に登った日、当初の予定は打波川水系の源頭に位置する願教寺山だったのだが、登路が確認できず、山容があまりに悪絶なので、予定を変更して白山主稜に取り付くことにした。前夜、鳩ヶ湯鉱泉の奥の打波川源流の上小池の駐車場に車泊して、6時に出発した。

 上小池から数百mも下ると林道を歩くようになり、そこにかかる橋を渡れば刈込池である。

 刈込池は、白山を修験道の道場として開山した泰澄が千匹の悪蛇を封じこめたと伝説される三つの池のひとつで、径200mほどの小さな池であるが、日本最大のアカショウビン(カワセミ科)の生息池として知られる。

 悪蛇の伝説とは以下のようなものである。
 泰澄が白山を開いたころ、大蛇が千匹もいて白山に立ち入った大勢の人々を呑んで恐れられていた。

 泰澄は、大蛇たちを集めて言った。
「そのように人を喰ったのでは、人の種がなくなってしまうではないか。しばらくこの池のなかで休めよ。岸に麦を蒔くから、その芽がでたらまた出なさい。」

といって蛇たちを封じこめ、そこに雪を降らせ、決して麦の芽を出さぬようにしたという。この池は、山頂の千蛇ヶ池と蛇塚池、それにこの刈込池の三つであるとされる。

 さて、この大蛇伝説。私は、これまでありふれた空想と思ってきたのだが、全国各地の民話や、今昔物語などの古文献を調べるうちに、どうにも大蛇の実在を前提としなければ説明のつかない文献が多すぎることに気づくようになった。

 大蛇ばかりでなく、それ以上の頻度で登場する狒々やカッパもそうである。そこで発想の大転換をして、これらの空想的動物がかつてなんらかのかたちで実在し、現在は滅亡したものと考えることにした。

 そのきっかけになったのは日本オオカミの研究であった。オオカミは、幸いなことに明治時代まで実在し、各地の伝承についても実証的な研究が進んでいる。しかし、それが現代に実在せず、証拠も残っていなかったなら、空想的動物の扱いをうけるにちがいないと思えた。

 私は伝承の動物について研究をはじめた。とりわけ狒々については多くの資料を得て、世間がびっくりするような結論に至った。無論、生物学者が一笑に伏すにちがいないことは百も承知である。

 狒々については、その正体がヒマラヤの雪男として知られ、現代に実在するものであり、中国で紅毛人、大怪脚、野人などと呼ばれてきたものと同一であり、先史時代、人類進化の傍流に取り残されたラマピテクスやピテカントロプスの子孫であろうと確信するにいたった。

 しかも、それらは今昔物語(白川郷猿丸の話)や柳田国男の遠野物語(猿の経立)など非常に多くの文献に登場し、実に明治時代まで日本に生存したものと結論づけることになった。

 大蛇についても、さまざまの文献を総合すれば、錦蛇クラスのものが江戸時代初期までは確実に日本に実在したと確信せざるをえなかった。これらについては、いずれ項を改めて語ることにしよう。

 刈込池の付近から登山道を見つけるのには骨がおれたが、結局踏跡の一番はっきりした道で正解だった。山菜取りが大勢入っていた。

 六本桧へ向かう道は予想以上に荒れていた。通行者は少なくないのだが、手入れをする者がいないようだ。6月なので草薮も多い。

 稜線へ出るまで落ちつかない道が続く。稜線に、名の通り六本の合木桧が生えていた。ここで赤兎からの尾根道を併せ、三ノ峰に向かう。

 わずかに登ると、泰澄が剣を刺して悪蛇を封じたとされる剣岩だが、どれがそうなのかよく分からない。このあたりから森林限界を超し急登が続くが、見晴らしもよく快適である。

 登山口から2時間ほどで主稜線に達した。わずかで三ノ峰の立派な避難小屋があり、石徹白からの美濃禅定道を併せる。

 ここから別山がはじめて姿を現した。すでに書いたように、この山は白山連峰主脈のなかで火山体でない最高峰であり、まさに真の骨格である。

 その南面は、雪崩に磨かれた水成岩の大岩壁になっていて、太平スラブという名がつけられている。それが初夏の朝陽を受けてキラキラと輝いていた。

 胸を洗われるようなすばらしい景観であった。別山の風貌は、古武士のように重厚であった。足元にはシーズン最初のお花畑が広がっていた。登山者の多くは三ノ峰で満足して引き返してゆくようだが、私はまだ余裕があり、別山に向かった。

 稜線のあちこちで雪渓の切れ目にお花畑が出現し、心をなごませてくれた。30分ほど歩くと、天上の楽園のような美しい高原に出た。

 無人の広大な高原で、登山の最大の醍醐味を味わえる秘境といっていい。径20mほどの池があり、きれいな水で飲用に利用できそうだが、御手洗池と名づけられていて、どうも連想上よろしい命名とはいえない。

 そこからハイマツ帯になり、30分ほどで別山の山頂に到達した。一面のハイマツの稜線の最高点に、小さなみすぼらしい堂宇があった。拍子抜けするほど質素な山頂である。

 8世紀に、泰澄が修験道の行場としてここを開いたとき、主要な三つのピークにそれぞれ権現を祭った。

 現在では、白山神社はイザナギ・イザナミを祭っているのだが、これは明治の天皇独尊政策に沿って古くからあった修験道の権現を葬りさって神道に変更したものであり、元々は、剣ヶ峰大御前に妙理大権現、大汝峰に越南知権現、別山に別山大行事権現がおかれ、別山のそれは泰澄自身を祭ったものであった。

 権現というのは、仏が神道の神の姿をとって仮に現れたと考えるもので、これを本地垂迹説といい、修験道がそうであるように道教の影響下に成立した仏教の崇拝対象である。

 白山妙理大権現は、本地である十一面観音が菊理姫という女神のかたちをとって現れた(垂迹した)と考えるのである。こうすれば、渡来以来の古い道教系の民俗(古神道)と、百済から新たに導入された新仏教思想(小乗仏教)を融和させることができた。

 それは、明治初年、薩長政権が天皇信仰を国家の基盤とする政策をとり、権現信仰を暴力的に破壊し、全国の神道を天皇崇拝思想のために伊勢神道を中心にして再編統一するまで、およそ一千年以上続いた。

 そのあいだ、神道の実体は権現信仰にほかならなかった。神社の神主は祭主にすぎず、実態は別当と呼ばれた僧に支配されていたのである。神道とは、代表的な八幡信仰に見られるように、もともと朝鮮渡来系の騎馬民族がもちこんだ新羅系道教の祭祀風俗から生まれたものだったが、泰澄の時代、本地垂迹説として仏教の理論に組み込まれ、さらに修験道に包摂され、天台宗系の山王神道、真言宗系の両部神道に系列化されていた。神道でいうところの両部が、すなわち仏教の権現信仰なのである。

 白山権現は、全国の権現信仰のうちでももっとも強力で大きな組織をもっていたことと、神道がもともと新羅系の道教であり、それが「シラ」信仰と呼ばれ、「シラヤマ」と呼ばれた白山が、新羅系神社の総本山のような印象をもたれていたことから、天皇家が朝鮮由来であることを隠蔽し、国粋主義を全面に打ち出した天皇神道(伊勢神道)を国家イデオロギーの要にしたいと考えた明治政府の国学ナショナリスト(大久保利通や山県有朋)から象徴的に激しく弾圧されたのである。

 別山山頂に大きな堂宇をつくって崇拝されていたはずの本地仏も多くは叩き壊され、運がよくても引き降ろされ谷に投げ捨てられた。幸運にも破壊され残った仏像は、山麓の林西寺に保存されている。

 これらの排仏毀釈(迦)と呼ばれた一連の仏教や権現信仰に対する攻撃は、武士階級の政権が仏教(特に禅宗)を国教イデオロギーとしていたために、革命的な思想転換をする必要があった明治政権が、伊勢神道や天皇信仰を利用したものとも考えられる。

 明治維新にいたる倒幕運動のイデオロギー的支柱になっていたのが、本居宣長や平田篤胤の天皇制復活の復古神道であったことを考えれば容易に理解できよう。尊皇擾夷という中国のスローガンが大同団結の要にもちだされた。革命勢力には、美しい名目と、それにふさわしい権威が必要だったのだ。

 帝国主義侵略戦争の時代であった幕末明治、強力な国家主義はナショナリズムに不可欠であった。明治政権は、東アジア諸国が欧州列強に蹂躙され隷属させられて苦しむ姿を見せつけられていた。民主主義は、民衆のうちに赤子ほどにも育っておらず、この時点では、より統一的な権威こそ未来を照らす松明であったといえよう。

 国家主義は、人々の観念の上に築かれる虚構にすぎないから、それを支える見せかけの合理的根拠と観念の教育体制がなければ成立できない。明治政府は、日本国家という虚構の本尊に天皇を祭り、神道思想による教育的洗脳を行うことで、それに絶対的権威を与え、同時に、日本国民に他民族に対する優越感を与えた。

 以来、天皇家に生まれた世襲者は、大東亜で最も優れた国民の、最も優れた大将ということにされたことにより、一生物としての生身の存在を主張する権利を奪われ、気の毒なことに観念のうえで「人」を超越しなければならなくなり(その実態は、自由に泡屋に出入りすることさえかなわぬ独身中年のナントカノ宮の悲劇を思いたまえ)、そんな残酷な悲劇を、国民と自称する妄想集団がおめでたく、かつありがたく担ぐという奇妙にして滑稽な社会的現実が続いているのである。洗脳の、なんと強力であったことか。
 少々、横道にそれすぎた。

 別山の山頂の展望は、いわずもがな絶景である。南白山の下には、神秘的なエメラルド色の白水湖がすばらしく、尾上郷谷には千古の原生林が一斉に新緑の協奏曲を奏で、ひとりで静かに景観を独占できる喜びに酔いしれた。

 山頂直下の太平壁は巨大なお花畑になっていて、名も知らぬ高山植物の可憐な競演であった。まさしく、至福のひとときであった。

 だが、尾上郷に微かに見える林道の荒廃も見逃すことはできなかった。ここには、御母衣ダムの補助ダム建設が進行中だという。
 わが、中部圏の山々のうちで、もっともすばらしい自然の残る白山。人々の子孫にいつまでも美しいままで残してやりたい。


 白山 2702m

 「白き山」という命名は、いつのころか自然に生まれたものにちがいない。モンブランもダウラギリもその意味は同じであり、日本アルプス最高峰の北岳も甲斐の白峰と呼ばれた。

 白山が名古屋から認められる時期は、大気の清澄な冷たい季節に限られるが、それはいつも白い。

 朝鮮半島からやってきた季節風は、日本海でたっぷりと水蒸気を摂取し、なぐりつけるような暴風になって白山の壁にぶちあたり、そこに激しく雪を雪を降らせる。白山は日本有数の豪雪地帯であって、冬期数十mの積雪さえ珍しくない。ただ、伊吹山のように積雪観測がされていないので、正確な記録は分からない。

 2700mという高度は、日本アルプスを除けば内陸の八ツ岳にしかなく、越前沖の日本海では、沖へ出た漁師たちのよき目印になったにちがいない。

 それどころか、朝鮮半島から日本海に出漁した漁師たちにとっても方位を決める大切な目標であったにちがいなく、古来、この山をめざして日本海を渡った渡来人たちにとっても単なる目印を超えた霊的な存在としてとらえられた。

 白山に霊性をみいだし、修験道の行場として開いた越前の僧泰澄も、そうして白山をめざして朝鮮新羅からやってきた渡来人、三神安角の子であった。

 泰澄の一族が朝鮮からやってきたことなど驚くに値しない。
 日本列島に人類が棲みつきはじめたのは、明石原人や牛川人などの発掘をみれば、数十万年前、すなわちホモサピエンス以前からであることが確実だが、リス・ウルムの氷期には大陸と地続きであったことから、ゾウなどとともに多くの人々がやってきたにちがいなく、同時に、黒潮に乗って、南方から大勢の人々が北上して日本列島に棲みついた。

 彼らは、今日縄文人と呼ばれるようになり、優れた土器石器文化を遺した日本列島先住民であった。彼らが日本列島の主役であった時代は1万年ほど続いたことが分かっているが、2500年ほど前に、中国揚子江下流に開かれていた米作農耕民族国家(おそらくは越に滅ぼされた呉)の住民が高度な文化とともに北九州に移住してきて以来、主役の座を明け渡すことになったようだ。

 今日、弥生人と呼ばれることになった渡来民族は、組織的に移動して、九州、西日本の河口沿岸部を中心に大いに勢力を広げ、原始的な氏族社会を形成していた縄文人を北方や山奥に追いやった。

 以来、日本列島に灯された弥生文化に引き寄せられるように、大陸や朝鮮半島からの民族移動が絶えることなく続いた。

 3世紀から8世紀にかけて、中国北東部に勢力をのばしていたツングース系の騎馬民族まで国家的規模で大量に渡来し、彼らは江南から渡来した弥生人の氏族王権を制覇し、みずからの古墳文化王朝を成立させた。
 後に、これが天皇家と呼ばれるようになる。

 本来、ツングース騎馬民族の王権継承の基準は、世襲ではなく、王としての能力であった。したがって、8世紀まで天皇家の血脈の交代は数度に及んだようだ。白山山麓の新羅系渡来人の王であった継体が王権を掌握した時代もあった。だが、朝鮮半島南部の百済の王であった聖徳太子の一族が、その圧倒的な教養によって崇敬され、王権を得ることによって、天皇家の血脈に決着をつけたかとも思える。

 太子もまた騎馬民族の子孫であったことは、記録された衣服が乗馬に必要不可欠なズボンやブーツを用いていたことによって証明できよう。米作農耕の民族にズボンは不要かつ邪魔であって、必要なものは「呉服」と呼ばれたスソからげの可能な衣服と、湿地帯に適したワラジであった。ズボンやブーツは、騎馬の必需品であって、スカートしかなかった欧州でこれが用いられるようになったのも、中央アジア騎馬民族の影響に他ならない。

 さらに、古墳時代に用いられた剣などの武具は、すべて騎馬戦争に適した直剣式の突くタイプであることにも注目する必要があろう。農耕民族には切るタイプの曲剣が必要なのである。

 京都を開いた秦氏も、相模や武蔵の先住民となった秦氏、埼玉の高麗人たちも、皆朝鮮からやってきた。というよりは、古墳時代以降の日本文化と称されるものは、おもに朝鮮文化であったと断言してさしつかえないのではないか。
 さらにいえば、日本という国家そのものさえ、朝鮮から移されたことを旧唐書が示唆している。旧唐書という唐の国史には、日本国が朝鮮半島にあると書かれているのである。

 このような、人と、それにともなう文化の渡来の大規模なものは、鎌倉時代、フビライの元帝国によって滅ぼされた南宋の住民の大規模な渡来によって終止符をうつ。同時期の元冦と、その報復として盛んになった倭冦によって、政権は国境の交通にたいする警戒を厳しくせざるをえなくなったからである。

 8世紀、泰澄の時代、騎馬民族が日本の支配階級として圧倒的な勢力を確立したころ、宗教界を中心とする知識人階級も渡来人とその子孫によって占められていた。天台宗の最澄も、真言宗の空海も、行基も、役の小角も、著名な宗教界の覇者たちはすべて渡来人の子孫であった。

 というより、このころすでに日本先住民は追われて大部分が日本海側か北方に移動しており、本州西部太平洋側では、よほどの山奥か離島にしか残っていなかったと考えられよう。最後の縄文人、日本先住民であった蝦夷(えみし)も征伐殺戮され、その一部は北海道にアイヌ族として残った。縄文人は、非常に気の小さな優しい人々で、おそらく戦争を好まなかったにちがいない。

 歴史に記録された日本は、この時代、権力も言語も民俗も、文化というものことごとく渡来のものになった。

 渡来人の文化は、すでに中国で体系として確立していた密教・道教・儒教を基礎としたものであっただろう。これらを厳密に区分することは困難で、相互に影響を与えあい不可分の巨大なイデオロギーとして日本にもちこまれた。

 それらは、すでに日本人の血肉として定着し、論ずることさえ不可能な日本的風景そのものになってしまった。つまり、それが日本ということになった。

 日本の精神的原型と主張される神道も、その要素を厳密に追ってゆくならば、明らかに朝鮮新羅系の道教に到達し、天皇家の出自を証明する傍証にもなろう。祝詞も社殿も狛犬も、道教のものであり、その祭神はひとつの例外なく朝鮮のものであった。我々は今日、朝鮮の人々にもっとも近い人相・風俗を天皇家に発見することができるのである。歴史的日本とは、朝鮮に他ならないのである。

 新羅から渡来したと思われる古神道は、同じく百済から渡来した仏教に包摂され、習合し、修験道を成立させたとされる。修験道は、道教の要素をもっとも濃厚に伝えた宗教といわれるが、あるいは、すでに朝鮮の段階で習合成立していたかもしれない。

 それは、道教の山岳修行による神仙到達の思想をそのまま踏襲し、修行者は山々の高き峰のうえで超能力を得て変身し、里に降りて人々を救うのである。

 修験道の開祖は、大和葛木の行者、役の小角だとされる。小角はその超能力を朝廷に恐れられ、やがて日本を去って唐に赴いた。唐にあっては道士(道教僧)として崇敬され、実に唐四十仙のうち第三座を占めたと伝承されている。
 晩年は、唐の領土であった朝鮮新羅に過ごしたと伝えられる。この伝説は、修験道と神道と新羅の関係について一定の示唆を与えるものである。

 泰澄が白山を開いたのは、それからわずか後のことで、同時代といってよい。泰澄もまた、小角に劣らぬ超能力者であったと記録されている。
 小角と同様、念力によって自由に飛行し、呪文によって石つぶてを投げることができたとされる。

 また、空海や行基と同じく、虚空蔵求聞持法によって能力を開発した。これは、虚空蔵菩薩に念仏を捧げることによって頭の働きを百倍良くしようという能力開発法である。
 三カ月間というもの野山をさまよい歩きながら念仏を唱え、満願の日に天空から無数の星が落ちてくる夢を見ることによって成就するという。

 泰澄が越前平泉寺に足場をつくり、やがて美濃石徹白を経由し、別山を経て白山山頂に達したのは養老元年(717年)の夏であった。泰澄は、その頂に朝鮮新羅神社の坐女ともいわれる菊理姫をまつった。本地仏は、夢のお告げとして十一面観音であるとされた。

 以来、白山は今日まで絶えることなく、霊山として人々の信仰をあつめてきた。とりわけ、朝鮮の帰化氏族から崇敬が篤かった。白山が、かつてシラヤマと呼ばれたのは、朝鮮の新羅(シラ)と直接の関係を示唆するものであろう。日本には「シラ」と名付けられた民間信仰が多く遺されているが、これらも新羅そして白山(シラヤマ)との関係を示唆するものにちがいない。

 朝鮮帰化氏族は仏教界にあっては天台宗系の勢力であって、比叡山山王権現の修験者がシラヤマを行場とした。白山修験は、やがて本家であった熊野大峰修験さえ圧倒し、山岳宗教の覇者となった。

今日、白山神社は全国に2700社を数え、圧倒的に首位にある。だが、白山神社は白山修験道の直接の継承ではない。

 開山以来、最大の受難は明治維新に意図的につくりだされた。

 新政府は、天皇家の権威を利用して国家イデオロギーの統一を策謀し、天皇を唯一無二の神格にすえ、それを証明する理論として古事記を教典とする神道神話を絶対のものとして民衆に強制した。それまで天皇は、民衆の意識のなかに伊勢神宮の神主程度のものでしかなかった。それを、いきなり徳川将軍を上回る権力者にして絶対神にでっちあげようとしたのだから、なみたいていの事業ではなかった。

 古事記の虚構を真実らしく糊塗するために、神道にかかわるすべての理屈を統一しなければならなくなった。一番邪魔になったのが、民衆のうちに根強い人気のあった習合神道、つまり権現信仰であった。白山権現は、その代表格であり、最大にして最強のものであった。

 神道は、断じて仏教に包摂されるものであってはならなかった。天皇の権威は唯一絶対のものであり、かつ本源的なものでなければならない。そのために、真実の歴史を曲げ、それを伝える形象としての修験道を弾圧廃棄しなければならなくなった。

 かくして神道を支配するところの仏教にたいして排仏毀釈が行われ、激しい弾圧が行われた。修験道は禁止され、伊勢神道の配下の神社になるか、さもなくばもともとの密教宗派に戻るよう指示された。天台宗の影響下にあった白山修験は、天台宗に帰依し、それらの宗教的形象は廃棄、あるいは破壊された。

 白山権現は十一面観音を本地とする権現であり、菊理姫をまつっていたが、本地仏は破壊され、一部は牛首(現白峰村)林西寺に引き取られ、祭神もイザナギ・イザナミに改められた。
 権現は廃棄され、白山神社に変わった。以来、白山から修験道は消えた。

 私の過去の白山登山は、岐阜県側の平瀬からが多かった。平瀬登山道は白山信仰の古道ではなく、明治初年、大白川湯からの猟師道を整備したものである。しかし、このコースは飛騨方面からの最短ルートであって、古くから白山のエスケープルートとして利用されていたことは疑いない。

 平瀬道は、御母衣ダムの補助施設である白水ダム湖畔まで車が入り、夏期はそこに営林署の経営する山小屋が営業している。以前は通行するだけで恐ろしい道であったが、現在はかなり改良された。

 白水湖の水は酸性の温泉水が多量に湧出しているためか、神秘的なエメラルド色の輝きをたたえている。お花畑を前景に湖に落ちる夕陽を眺めるならば、一種異様な彼岸の情景さえ思う景観であった。

 今では湖畔に露天風呂がつくられ、観光客も多くなり、かつてのような静けさも情感も失われつつあるが、それでも大資本の進出する観光リゾート地とは雲泥の開きがあり、味わい深い原始の風格が漂っている。私の好む場所である。

 かつては、ミルク色の硫黄臭い効能抜群の秘湯としてその道の通に知られ、私もひそかに日本三大名湯と考えていたのだが、十年ほど前の集中豪雨で泉源が崩れ、今では透明のありきたりの温泉に変わってしまったのが残念だ。

 もともとの白水温泉、大白川湯は、名瀑白水の滝の真下にあって、その名が白川郷の名の元になった。今では白水の滝は林道の下におかれて風格を下げ、大白川湯はダム湖の水面下に沈んだ。

 このルートは日本有数の、おそらくは白神山地に次ぐ規模のブナ原生林を抱き、大倉尾根のカンクラ大雪渓は万年雪となり、室堂手前の日本有数(最大ではないかと思っている)のお花畑には無数の黒百合の群落があった。
 山頂まで、登山口からわずか四時間ほどで行ける。

 白山登山道でもっともポピュラーなのが、石川県白峰村から入る市ノ瀬口である。私は、これが当然加賀馬場ルートだと思っていたのだが、調べてみると実は越前馬場ルートであって驚いた。

 加賀の国一ノ宮である白山ひめ神社から手取川を遡れば、当然この市ノ瀬に達するのだが、途中、今では白峰湖に沈んだ牛首村周辺の去就をめぐって幕府と加賀藩とのあいだで激しい領有争いがあったことが原因で、加賀馬場のルートは複雑な変転を経ているようだ。

 加賀馬場のルートは、鶴来町の白山神社(下宮)を起点として、中宮の一里野を経て、長大な長倉尾根にとりついて大汝峰に至る苦しいコースであった。

 加賀禅定道といわれるこのコースは、九世紀にはひらかれていたと思えるが、明治政府の樹立とともに修験道が禁止され、白山信仰が衰退した過程のなかで荒廃し、廃道になってしまった。だが、1988年に、地元有志によって再建されたのだが、長大であるために歩かれず、再び廃道に化す日も近い。

 越前馬場は、平泉寺から法恩寺峠と小原峠を越えて市ノ瀬に下り、現在の観光新道の尾根を登るものである。長いだけでなく、上下の多い苦しいコースで、現在は歩く者もなく、すでに一部廃道に化している。

 白山馬場を代表したのは、長いあいだ美濃馬場の石徹白道であった。

 石徹白の御師は全国の白山神社講中を組織し、白山信仰を喧伝し、このルートは「登り千人、下り千人、宿に千人」といわれたほど繁盛したと伝えられる。
 明治以降、白山信仰登山が衰退し、近代スポーツ登山が勃興すると、その登山口は交通の便の良い加賀方面に集中するようになった。現在では、登山者の大部分が市ノ瀬口を利用するようになった。

 夏のある日、はじめて市ノ瀬口から登った。
 別当の駐車場に前夜遅く着いたのだが、さすがに車泊登山者が少なくなかった。朝4時には、暗いなかを大勢が出発していった。大部分が砂防新道を利用するようだ。観光新道は、大雨による崩落のため通行禁止になっていた。
 5時に出発したが、室堂に着くまでに先発組を追い越して先頭にたってしまった。皆、休憩が多すぎるのだ。
 このルート、やたら林道を横切るので面白くない。車で7合目近くまで行けそうだ。右手に見える不動滝が、一歩一歩近づいてくる。

 甚ノ助ヒュッテの手前、海抜2000m付近で、玉石の多く含まれた砂礫がたくさん露出していた。玉石は石英で、径数センチはある。それは、この付近が、かつて水に洗われる環境にあったことを示していた。

 近ごろ、白山周辺で恐竜の発掘が話題になることが多い。この石は、白山周辺で地質学者や考古生物学者の注目をあつめている手取層に関係している。白山火山体の基盤をなす層は、別山に顕著に現れている堆積岩、水成岩である。その表層には豊富な化石生物が含まれている。これを手取層という

 3億年ほど前に海底でサンゴや放散虫が堆積した基盤が徐々に隆起し、1億年ほど前に、白山一帯に巨大な湖が出現し、これは手取湖と名づけられた。手取湖一帯は、ジュラ期、恐竜をはじめとする動植物のまれにみる楽園となった。先の玉石は、この手取湖の湖畔で波に洗われたか、もしくはそこから流れ出る河川流域にあったと考えられるのである。

 現在の白山の山体ができあがったのは、わずか1万年ほど前のことで、ひどくインスタントに成立した。その後の激しい侵食によって、ところどころでこのような古白山の景観にお目にかかれるのである。

 手取湖の生物堆積層は手取統ともよばれるが、これは白山周辺の九頭竜川付近や白水湖付近、福井県側など広範に存在していて、学者やマニアの注目をあつめ、化石探索者がひきもきらない。私もその一人である。
 九頭竜川周辺は、手取統のなかでも汽水領域の化石が出ることで知られ、それ以前のデボン期石灰岩からは三葉虫やアンモナイトも発見される。私の好みからいえば、石灰岩化石のほうが好ましい。美しいハチノスサンゴを発見し、磨いたときの感動はたまらない喜びである。

 ひと汗かいて着いた弥陀ヶ原の景観は、すばらしいの一語に尽きる。

 広大な高原のほとんど全部がお花畑といってよい。白山に尽きせぬ魅力があるとすれば、その幾分の一からの部分はこの高原に負っている。このような楽園は、全国600を超える登山を行ってきた私の経験のうちでも、北海道の大雪連峰や苗場山、尾瀬、平ヶ岳などわずかでしかない。

 室堂の巨大な山小屋には大勢の人々がたむろしていた。かつて小屋の脇にあったはずの黒百合の群落は見あたらなくなっていた。

 白山神社奥宮の若い宮司に話しかけてみた。彼は、廃仏棄釈の意味すら知らない無知無能な(権威をふりまわすことだけが得意な)神主が多いなかで、白山権現の歴史を多く知っていた。
 山頂の桧の堂宇は健在で、純金の金具も盗まれていなかった。が、この付近にあった角閃石の結晶はまったく見あたらなかった。

 南竜ヶ馬場に向かった。
 縦走路をたどった。静かな道で出逢う人はいなかった。エコーラインには大勢の登山者が歩いているのが見えた。あちらは巨大なお花畑だ。誰もいない縦走路のお花畑では、静かに心ゆくまで美しさを堪能した。賑わっているのは皆が歩きたがるところばかり。一歩外れれば、すばらしい静けさのなかに恍惚とする大自然の桃源境が待っている。


 銚子ヶ峰 1990年6月

 白山信仰登山の歴史のうちで、岐阜県側に位置する美濃馬場こそ白山詣を代表する主役であったといえる。美濃馬場は、天台宗長龍寺(岐阜県郡上郡白鳥町長滝)であった。そこには、かつて数百の僧坊が建てられ、中部地方有数の古い歴史をもつ信仰拠点として、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた。

 だが、やがて越前、美濃における浄土真宗の勃興によって民心は天台宗や権現信仰を離れ、明治政府の神道至上政策によって弾圧を受け、さらに明治における大規模な火災が長滝のありし日の栄華を苔の下に埋もれさせた。

美濃馬場、長滝を訪れた権現講中の人々は、そこから阿弥陀滝を経て海抜千mの険しい桧峠を越え、石徹白に向かった。石徹白には白山中居神社(中宮)がおかれていた。

 人々は、さらに、そこから銚子ヶ峰や別山を越えて、白山奥宮に向かって上昇してゆく長く辛い山道を歩いていった。その行程といえば、今日、我々がアルプス山脈の大縦走を行うに等しいほどのものであった。

 往時、「登り千人、下り千人、宿に千人」とうたわれた白山詣の情景は、石徹白のありさまを語ったもので、その賑わいは、全国三千社の白山権現の講中組織を背景にして江戸中期まで絶えることがなかった。

 白山講中の賑わいは、富士講や御岳講に代表されるように、多くの山岳講を啓発したにちがいない。それは、娯楽の少ない民衆にとって大切なリクレーションの場だったのである。

 石徹白には、友人のYさんの実家があった。彼に連れられて、はじめてここを訪れたとき、どんよりと濁った空の下に荒涼たる田園がひろがっている風景を見て、私はロシアの田舎を連想した。

 いったいなぜ、これほどの山深い苛酷な生活条件の地に人里が成立しえたのか、実に不思議であった。だが、Yさんの実家の建物の格式や造作は、とても名古屋あたりではお目にかかれないほどの重厚で立派なものであった。

 そこは、伝統ある白山神社社家の家だったのだ。
 白山神社とは廃仏棄釈以降の呼び名で、それまでは白山権現といったのだが、それは黙っていれば向こうから信者がやってきてくれるほど甘くはなかった。どの権現信仰も、御師(おし)と呼ばれる社家の人々の、懸命な勧誘努力によって支えられていた。御師を大切にしない権現は、たちまち寂れていった。

 御師は、旅行ブローカー・セールスマンのようなもので、全国に散在する権現の講中組織へ出かけていって、あるいは講中そのものを組織し、ご利益を宣伝してまわったのである。

 地方の権現社に付随した講組織を檀那といった。御師は、檀那で白山権現の護符を売り、白山詣を組織し、旅行の段取りを行い、さらに自分で組織した講中の人々を連れて白山に向かい、石徹白にあっては自分の家に泊めた。だから石徹白の家は旅館のようなもので、その格式が御師の格式として認識されることになった。冷涼な山奥の石徹白の集落は、この信仰によって食べることができた。

 詣客が来なければ死活問題であって、米の採れない石徹白ではたちどころに飢えねばならない。だから、石徹白の御師たちは命がけで白山信仰を広めたのである。したがって今日、白山神社が日本最大数を維持しているのは、まったく石徹白の御師たちの努力に負う部分が大きいといえよう。
 だが、石徹白の歩んだ道は平坦ではなかった。江戸時代中ごろ、宝暦年間に、信じがたいような大事件が勃発したのである。

 石徹白は、美濃郡上藩の領地で、郡上藩は宝暦年間まで金森氏が支配した。
 最初、織田信長の家来になり、やがて秀吉旗下に属し、越前大野の領主となった金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨白川郷の内ヶ島氏を攻めた。

 内ヶ島一族は金森氏に敗北して講和を申し入れ、その直後、帰雲城もろとも山津波に呑まれて滅んだ。飛騨一帯は金森氏の所有に帰した。飛騨は鉱物資源の宝庫であり、金森氏はおおいに潤ったにちがいない。

 その経済力は、飛騨の寒村にすぎなかった高山に名城と美街を築き、息子の宗和の時代には優れた茶道の文化をつくりだした。それは、今日まで春慶塗りや宗和膳の名で残されている。金森氏は、名実ともに飛騨高山文化の父であった。

 だが、江戸時代を迎えると、幕府は鉱物資源を領有する諸藩を厳しく監視するようになった。というのも、家康の軍資金供給に功績のあった佐渡の大久保長安が、金山の利益の多くを私物化していたことが死後露見し、その子らが全員切腹させられるという事件があったからである。

 幕府は鉱物資源を独占し、大名に経済力をつけさせないために、外様大名の有力鉱山をとりあげ、天領に変える政策をとった。六代目金森氏は飛騨から追われ、貧しい上ノ山(山形県)に移封されることになった。

 しかし、元禄十年(1692年)、再び元の領地に近い美濃郡上藩が与えられることになった。金森氏は、小笠原家や吉良家とともに茶道礼法の家元であって儀礼に詳しく、将軍の身近にあって特別の配慮を受けたのかもしれない。

 七代頼錦の時代、幕府の儀典役に任命されていた金森氏は、交際上出費が多く、窮乏する藩財政に苦しめられていた。家老は増収にあせり、領民からの収奪を無謀に厳しくした。郡上の農民は悪政に苦しむことになった。

 江戸中期、それまで比較的安定していた気候が火山活動などの影響で寒冷化し、全国的規模で飢饉が発生するようになっていた。百姓の生活は、かつてないほど圧迫される状況が続いた。

 やがて、江戸時代を通じても最大級の一揆が、金森氏の領下で起こるべくして起こった。後に宝暦農民一揆という。郡上周辺の五千名を超す百姓が結集し、金森氏の暴政を糾弾して立ち上がったのである。

 この事件の解決には四年を要し、同じ時期に石徹白に起こった大きな争いの処理をめぐっても幕府の追求を受けるところとなり、金森氏の断絶改易という大きな結果を招いた。宝暦一揆と石徹白の事件を併せて、世に宝暦郡上騒動と称され、長く語り伝えられることになった。

 金森氏は、七代二百余年で滅んだ。金森氏の滅亡を招いた宝暦騒動の一端である石徹白騒動とは、どのようなものだったのか。

 石徹白の村では、江戸初期から社家が二派に分裂対立する状況が続いていた。上在所の上村氏と下在所の杉本氏である。その原因になったのは、白山神道の主導権争いであった。
 当時、神道は、天皇家に近く天台宗の影響下にあった白川家に印可される勢力と、新興で徳川幕府に近い吉田家の影響下にある勢力とに二分されていた。石徹白でも、社家のうちに帰属をめぐって二派の激しい論争があった。
 神道印可支配をめぐる吉田・白川両家の争いは激しさを増し、木地屋の世界でも、氏子の印可帰属をめぐって全国的な対立を起こしていたことを記憶されている方も少なくないであろう。

 この地は、古くから白山権現に頼って暮らしをたててきたことから、全戸が社家かそれに準じる人々であったのだが、戦国時代末期に、越前から美濃にかけて浄土真宗の爆発的な勃興があり、天台宗の傘下にあった寺院に大きな影響を与え、真宗に信仰を変える者が続出していた。郡上一帯の民衆は、ことごとくといっていいほど、争うようにして真宗門徒に帰依しようとした。

 その影響は、石徹白にあっては白川神祇伯家の配下、つまり杉本派に著しかった。。下在所の人々は、社家のなかでは、どちらかといえば格下であって、上村派に比べて貧しかった。

 上村派は、上在所社家の権威を高めるために、幕府権力に近い存在である吉田神道に接近し、郡上藩の家老とも懇意であった。

 騒動の発端は、真宗をめぐるものであった。
 それは、杉本派の社家のうちに真宗に共感するものが多く、道場(現、威徳寺)を改築建立するために社家に寄付を募ったことから始まった。

 上村派頭領であった上村豊前は、白山神道の絶対的拠点でなければならない石徹白に真宗の勢力がのびてきたことに、著しい不快と恐怖を感じた。

 豊前は、京都の吉田家に石徹白の神道が危機的状態にあることを訴え、救いを求めることにした。書簡を送り、神道のすたれている現状を綿々と訴えたのである。
 これに対して吉田家は、自派の勢力拡大の好機だと考え、ただちに金森藩に対して建白書を送り、上村のために尽くした。

 藩の寺社奉行であった根尾甚左衛門は、上村とも懇意であり、この機会に上村派の勢力を味方につけようと考えた。

 そして、藩庁の命令として、杉本派社人に対し「以降、吉田家の支配下に入り、何ごとも上村豊前の命令に従え」と通達したのである。

 杉本派は驚き、反発した。彼らは、何ごとにも権威をカサに着たがる尊大な豊前をひどく嫌っていたのである。そのうちに、杉本派の社人が、真宗本山で豊前の悪行を訴えたという噂が流れた。豊前はひどく怒って、その社人を追放し、社家の持ち山の木を大部分伐採してしまった。

 杉本派頭領の杉本左近は、ただちにこの非道を藩庁に訴え出たが、寺社奉行の根尾はとりあわず、かえって左近を叱りつけた。

 左近はやむをえず、直接江戸の寺社奉行、本多長門守へ訴え出た。
 だが、長門守は時の郡上藩主、金森頼錦と懇意であったので、訴えをとりあげるどころか、金森家へただちに通報したのである。

 金森氏はこれに驚き、ただちに左近以下杉本派幹部を捕らえ、家財を没収したうえに領外に追放した。時、11月26日であった。

 上村豊前は、杉本派の執ような抵抗に怒り狂い、藩庁に対し、石徹白から杉本派を全員追放することを許可するよう迫った。

 時、12月25日、杉本派社人の64名とその家族、併せて400余名は、突然、着のみ着のままで領外への追放を宣告された。その日、石徹白は猛吹雪であった。老人、婦女子ともども人々は行くあてもなく追われた。

 豊前は、「白川伯の手のものなら白川郷へ行くのがふさわしいではないか」と、大声で笑った。
 桧峠には身の丈を超す積雪があり、老人や子供は凍えても暖をとることさえできなかった。途中の集落には、奉行から助けを禁ずる旨の通達がだされ、住民は戸を閉ざした。
 人々は、絶望的な死への行進をはじめた。

 桧峠を下ると、前谷村があった。前谷の衆は貧しかったが、定次郎をはじめ義侠に篤い人々が多かった。彼らは、藩庁に弾圧されるのを覚悟で、杉本派の人々を救おうとしたが、救援も空しく餓死凍死者は70余名にのぼったと記録されている。

 生き残った者の多くは、ただでさえ宝暦一揆のために辛い生活を強要されていた上之保筋(現、高鷲村)の農民の温情にすがったが、騒動終結後、無事に石徹白に戻ることのできたものは少なかった。

 その後、杉本左近による決死の直訴が実り、同じ時期の郡上一揆とともに、この事件が幕府の評定所で裁かれることになった。

 その結果は、一揆の農民側に大勢の犠牲者を出したが、郡上藩側にとってもとりかえしのつかない事態になった。

 事件の首謀者であった上村豊前は死罪になり、それを助けた根尾甚左衛門は切腹を命ぜられた。幕閣の本多長門も処分されたが、杉本左近は一か月の謹慎という微罪ですんだ。

 金森家は断絶改易された。
 後に、金森氏にとってかわって郡上藩を引き継いだ青山氏は、石徹白の宗教争議に関与することを極度に恐れた。このため石徹白は、明治維新を迎えるまで、一種自治共和国の様相を呈したのである。

 石徹白に秘められた歴史は凄惨なものであった。
 わが友、Yさんの家は上村姓である。柳田国男や宮本常一も泊まって取材している。今では、上在所、下在所とも区別のつかない集落になった。人々は助け合って明るく暮らしている。
 事件の原因になった威徳寺は健在である。そんな歴史も、スキー場を中心とする巨大なレジャー開発の鎚音の喧噪にかき消されてゆくようだ。

 石徹白の中心は、上在所の中宮、白山中居神社である。この由緒の古い神社の風景は実にすばらしい。彫刻も、まるで甚五郎作のように躍動感にあふれている。杉林も千年級の特筆に値するものである。わずかに山道をたどれば、巨大な合木の浄法寺杉がある。

 私は、中居神社の脇から、激しい雨の降り続く林道を車で辿った。終点から山道がのび、わずか上に、屋久島の杉にも匹敵する巨大な大杉を見た。

 樹齢1800年、老木の印象はいなめないが、ここに生き続けていることはひとつの奇跡であって、大きな感動をあたえてくれる。

 その脇をかすめて、草深い山道を分けて登った。緩い尾根を登り、後ろを振り返ると、雨あがりのガスのなかに石徹白の盆地が南海の孤島のように見え、神秘的な美しさを感じた。

 やがて神鳩宮の小屋があり、しばらくでガスに包まれた広い笹原にでた。わずかで銚子ヶ峰の標識の立ったピークに達したが、ひどい雨が降り出すなか、それ以上歩く意欲を失った。

 下山後、長滝に立ち寄った。ここには美濃馬場を継承する白山神社と若宮修古館がある。

 かつての長龍寺は、広大な美濃馬場の一角にひっそりと残されているが、主役は長滝白山神社である。明治維新による神仏分離政策までは、両方併せて白山権現であった。

 美濃馬場長滝寺は、廃仏棄釈のとき大きな破壊を受けなかった。その理由は、長滝周辺が白山権現の社家ばかりからなりたっていたこと、それに郡上一帯が熱烈な真宗信徒の拠点であったことによると思われる。これが、山向こうの飛騨川筋だったなら、平田国学徒によって破壊されていたことだろう。真宗は、天台宗の権現信仰を食いつぶしたのだが、皮肉なことに、それが美濃馬場の歴史的に貴重極まりない優れた財産を救った。
 社家の宮司を若宮家という。修古館の主である。実に、1300年の伝統を誇っている。

 ひどい雨足のなか、若宮修古館に立ち寄った。おかげで、観光客は皆無だ。
 門を一歩入ると、かつて見たこともない美しいたたずまいに圧倒された。まさしく日本美の真骨頂といっていい。「すばらしい!」と思うしかない。建築は、天明5年といういわくつきの大飢饉の年だ。

 笑顔の素敵な、気品のある初老の婦人が迎えてくれた。この方が、40代若宮家婦人であった。

 「この建物はね、雨が降らなければだめなんですよ」
 といわれた。なるほど、建物全体から受ける美の印象は、みずみずしい苔の果たす役割が大きいようにも思える。

 陳列品には、道端で蹴飛ばして遊びたくなるようなありふれた陶器が多い。どこかで見た記憶のある薄汚い黄土色の壷があった。
 「これは、重要文化財に指定された黄瀬戸でございます」
 「わたしどもでは値打ちがわからなくて、最近までお味噌なんか入れてましたのよ、フフフ」
 「これほどの黄瀬戸のコレクションならば、唐九郎が来ませんでしたか」
 「お客様、永仁の壷をご存知ですか」
 「昔ね、唐九郎さんがここに見にいらしたとき、隣の宝物殿で見つけた壷、ほら、その棚の上にあるミニチュアのモデルなんですけど、永和の壷といいます。それを見てお造りになったとうかがっております」

 「お庭の茶室では、谷崎潤一郎さんが細雪という作品をお書きになりました。わたしどももモデルになっていますのよ。フフフ」

 奥の陳列室には、さらに凄みのある工芸品があった。富士百景と銘ぜられた黒漆の宗和膳である。
 あまりの完成度に、ふるえてしまった。こんな逸品は徳川美術館にさえ多くはない。婦人も、その由来を知らないといった。

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