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それぞれの山の物語 3の続き 台高山地の山々

 それぞれの山の物語 3の続き 台高山地の山々

 修験業山 1094m (一志郡美杉村奥津より 89年4月中旬)

 伊勢奥津はなじみ深い里である。国鉄時代、いつもローカル線廃止の第一候補にあげられた名松線(名張松坂線)の終点の駅で、とうとう名張と接続する事はかなわなかったが、それでも生きながらえて、第三セクターの管理下に命脈を保った。

 ここには地質学的に興味深い室生古火山群があり、室町以来の歴史に名をとどめる古い集落も多いが、どこも過疎に悩む山村であることについて例外はない。

 奥津の旧道の狭い街並に入ると郵便局があって、その前のT字路を南へ4キロメートルほど行くと、行き止まりに若宮八幡宮の立派な社がある。鳥居の前の広い駐車場に車を停めて一夜を過ごした。

 八幡宮といえば九州宇佐を本拠とする朝鮮半島渡来人系(騎馬民族系)の神社の代表格である。
 つまり、源平藤橘姓の末裔による武家支配階級の神様ということで、この社の多い地域は武家の子孫の居住地ということになる。なるほど、美杉村に多い人相は、弥生人の子孫たる大阪系のひらべったい顔だちより、騎馬民族の子孫たる京都系の小振りな公家顔が多いようにも思える。

 地域の祖神を調べることで、そのルーツに関するヒントを得られるもので、私の旅先の楽しみの一つなのだが、他人の顔を眺めてにんまりと笑う私は、ずいぶん危ない人間に思われているにちがいない。

 奥津若宮八幡宮は随分と大きな古社で、参道も立派でトイレも整備され、いくつもの建物がある。神社のなかに薬師堂などがあるのは、明治維新で打毀され残った両部神道のなごりであろうか。

 早朝、凍みわたる寒気をかきわけるように登山道とおぼしき沢沿いを歩いて行くと、すぐに滝で行き止まりになってしまった。社務所の人達はヒマをもてあまして羽子板で遊んでいて、赤い袴の可愛い巫女さんに道を尋ねると、横から可愛くない神主が親切に道を教えてくれた。

 修験業山の登路は、社務所の手前で右手から合流する白山谷に沿ってつけられている。気づかずに参道を歩くと梯子谷で、300mほどで行き止まりになる。この登山道の入口は、ややわかりにくい。

 良い道が続き、手入れされた美しい杉林を行く。杉は見事に垂直に立っている。多くの若木に、何やらプラスチックの棒のようなものがタテにぐるりと巻つけられていた。
 どうやら、人工的に絞り杉の床柱用銘木をつくっているようだ。こんな銘木をありがたがる日本人はまことにおめでたいが、大切な美杉の特産品ということだそうだ。

 40分ほどで沢道は消え、踏跡が左手の杉林に続いた。しばらくで痩尾根に達し、ここから尾根の急登になった。ちょっと例のない急勾配で、平均40度を超すと思われる。
 木の根につかまって四つんばいでなければ登れないが、最近開いたばかりの道と見えて、雑木の切り口も生々しい。上部には昨夜降ったばかりの新雪が積もり、スリップを恐れて慎重に登った。

 この山域は杉の植林が進んでいる。しかし、原生林を無謀に皆伐してしまった無惨な山肌が目につく。
 このような里山での林業を否定するつもりはないが、これでは山火事の被害が心配だ。
 ブナ科の原生林を植林と同程度に残せば、それが強力な防火帯になる。とりわけミズナラは、大量の水分を含んでいて延焼を食い止める。東北地方の極相原生林がミズナラ主体になっている理由は、度重なる山火事に淘汰されて、燃えにくい樹種が優勢になったと考えられないだろうか。

 原生林は、多種多様な生物を温存してくれる。多くの生物の存在は、人間の生存をも保証してくれるのである。

 人は木の家に住むべきだと私は思う。コンクリートや石の家は放射線被曝量が多く、長期的健康に有害であり、「気」もよくない。
 なんといっても、針葉樹の香り高い家に勝る環境はない。林業はその意味で大切な生活産業なのだが、林野庁官僚主導の現代林業は、硬直した狭い採算主義によって自ら墓穴を掘っているとしか思えない。

 この地域でも例外なく、植林サイクルが100年程度と長い檜は敬遠され、50年程度と短い杉が主体になっているようだが、このように偏った植林は、山火事だけでなく、さまざまの弊害をひきおこすにちがいない。

 近年の極端な円高は、輸入産品の値段を驚くほど引き下げ、国内産品の価値もついでに引き下げてしまったが、林業もそのあおりを端的にうけた。採算べースの極端な低下は、森を大切に育てる経済的条件を失わせ、大量伐採、大量出荷による合理化をつきつめざるをえなくなった。

 こうした圧力のまえに、原生林の環境的、文化的価値などは顧みられず、猛スピードでかけがえのない原生林破壊が進行してゆくばかりだ。二度と取り返しがつかないというのに。
 しかし、考えてみよう。こんなに異常に腐熟した、誤った経済がいつまで続くだろう。我々は、限りある地球資源の中で、限りのないネズミ講的な繁栄の幻覚に惑わされているだけではないか。いずれ自業自得の瓦解は避けられない。だが、木々の寿命は、我々の繁栄幻想の時間よりもはるかに長いのだ。

 1時間ほどで、ゆるやかな稜線に達した。エアリアマップ(赤目・倶留尊高原)のルートは、白山谷を詰めてゴマ尾根から頂上に向かうようになっているが、そのルートは見いだせなかった。
 地図にないこの踏跡は、栗ノ木岳側の稜線に突き上げた。

 滑りやすい雪を踏んで右手に歩くと、10分ほどで頂上に着いた。頂上には、大きな社が設置されている。若宮八幡宮の奥宮であったが、山名の示す修験道の行場の遺物はなかった。私の辿った新しい踏跡は、この宮の祭礼のために切り開かれたのかもしれない。

 山頂の景観に見覚えがあった。数年前に三峰山(三畝山)からピストンで縦走したのを思いだした。たしか、激しい笹ヤブ漕ぎをした記憶が残っていたが、こんな社がなければ、気づかなかったに違いない。

 この寒さで休む気にもなれず、かといって、今登った雪の急な尾根を降下するのも気後れして、栗ノ木岳に向かった。
 すぐにひどいササヤブになって後悔した。踏跡もところどころ消滅して大変な縦走になってしまった。山頂にたどり着くまでひどく長く感じ、その栗ノ木山頂も眺望に恵まれず、魅力的な場所でもなかった。
 そこそこに、若宮峠から八幡宮への帰り道を行くと、またひどく荒れていた。

 ルートファインディングは至難だった。道は荒廃して分からず、ほとんど勘で大宮谷を下ると、ゼンマイ道らしき踏跡が現われた。やがて道も明確になり、しばらくで林道に達したが、飛び出した場所は、なんと自分の車を停めた駐車場の一角だった。

 行動時間は、登り2時間、縦走1時間、下り1時間半程度である。朝8時に出発して昼前に下り着いた。登山者の痕跡は、ほとんどなかった。

 修験業山の属する山域は、広義には台高山脈北部だが、このあたりでは高見峠から三峰山を経て修験業山に至る稜線を、主峰の名をとって三峰山脈、あるいは高見山地とも呼ぶ。

 高見山と三峰山との間には、比較的しっかりした道がついているが、修験業山付近の稜線は荒廃していて、丈の高いスズタケが密生して普通の道なし尾根よりも始末が悪い。しかし、ケモノ道らしき踏跡が所々に残っているので、縦走は可能である。
 この山域に多いダニと蛭を避けるには、夏場を避け、早春、晩秋を選ぶのがよいと思う。 (89年5月)


 迷岳 1309m
 (飯南郡飯高町奥香肌峡温泉より 91年11月23日)

 私は「秘峰」と呼ばれる山が好きだ。人の立ちいらない場所に行くことは人生の快感のひとつである。「ざまーみやがれ」という気になる。未踏峰への憧れなんてカッコつけなくてもいい。どうせ、コンプレックスの裏返しなのだから。

 台高山脈の秘峰といえば、大台北部から池小屋山、それに迷岳への稜線だろう。この山域に立ち入ったハイカーは少ない。
 ただ、1973年と75年に国体の登山競技ルートがこの山に開かれたので、荒廃していてもかろうじてルートは残っている。

 エアリアマップ仲西政一郎編「高見山・香肌峡」が参考になる。仲西さんは最近亡くなられたが、紀州山地の右に出るもののない通人として知られている。
(91年現在、仲西版は廃刊になり、吉岡編「大台ヶ原」に代わったが、やはり仲西版の方が桁違いに情報量が多い)

 前夜、松坂経由で奥香肌峡温泉の付近に入った。すると、私の古い地図にはない新しいダムができていて、そこで車泊した。これは蓮(はちす)ダムと名づけられていて、大方完成していて、あとは水を溜めるばかりになっている。
 前回、池小屋山登山に来たとき通った県道は通行止めになり、やがて水没することになるようだ。これもまた、日本列島改造の各論なのか。

 翌朝、近所の人に登山道の様子を尋ねると、本来のルートである唐谷川の道は台風のため崩壊して通過不能で、飯盛山のルートも消滅し、唯一、布引谷のルートが通行可能ということだった。しかし、台風で荒廃が進んでいるともいわれた。

 教えられた道は、県道を蓮川沿いに登り、すぐに左に分岐する新設された蓮ダムの堰堤の下に出る工事用道路(旧県道)を行く。500mほどで堰堤下に一軒屋があり、ここは高山さんというお宅である。詳しいことは、高山さんに尋ねてくれとのことだった。

 ちょうど御主人が出て行かれるところで、道を尋ねると、ルートは高山家の真向かいにある川向こうの杉林にあるとのことだった。ここに行くには蓮川を渡らねばならないが、やや下流に危うい丸木橋が渡してあった。教えられた近道を強引に登ったが、道を誤ってひどいロスをしたので、読者には正規のルートを説明する。

 小橋を渡り、ダム堰堤に向かって川岸をへつると、200mほどで杉の幼林と成林の境界の明確なところがあり、この間に沿って登山道がつけられている。
 ここにはピンクのポリプロテープを結んだ。行き過ぎると、すぐに高さ2mほどの堰がある。杉林の道を見失わないように辿ると、しばらくで高山家のテレビアンテナが設置されている。ここまでくれば道はしっかりしている。

 尾根に出るとトタンぶきの小屋がある。ここからは稜線を行かずに、布引谷に沿った水平トラバース道を行く。道は割合しっかりしているが、桟橋はすべて朽ちているので決して乗らぬこと。
 やがて沢を2回横切ると道は荒廃し、踏み跡程度になる。2、3箇所、崩壊したガレのトラバースが危険な場所があるが、技術に不安のある人を同行するときは、ザイルを持参して確保した方がよいかもしれない。

 このあたりまでサルやシカの鳴声が騒々しいが、よほど多く棲息しているとみえる。イノシシのフンも多い。入山者が少ないとみえて、生物密度は濃い。最近、三重県下の山で、何度もサルに投石されたので警戒を要する。テキもサルものだ。

 しばらく荒廃したトラバースを行くと、右手に全国7位、落差240mの布引滝の一部が見える。この滝は、巨瀑の多い台高山脈のなかでも首位を争う。
 台高1位の東大谷、中の滝も落差270mといいながら実際には3段で、1段落差は最大150mほどである。この滝の最大落差は不明だが、全部を見るには危険を覚悟で沢に降りねばならないので遠慮することにした。

 ルートは滝の高巻道に入るが、ここは雑木があって不安感はないものの、足を滑らすと、滝を取り巻く岩壁の上に転がってしまうので十分に注意して歩かねばならない。
 特に下りは要注意である。登りきったところの尾根には標識テープがあって、ここからも頂上へ行けると思われたが、地図のルートを辿ることにした。

 沢を渡ると造林小屋があるが、荒廃して使用に耐えない。沢沿いに行くと二股になって道は消滅するが、これは行き過ぎで、本来のルートは小屋から200mほどの左手から小沢が合流する地点で、左に沢を渡って小さな尾根に取りつく。もうここから、道はほとんど消滅している。

 尾根は痩せているので忠実に辿れば良いが、シキミやアセビ、シャクナゲなどのミカン科・ツツジ科の常緑樹がうるさい。
 この木が多いということは、シカが多いということの証明でもある。シカはこれらの毒葉を避けるので、必然的に優勢林となるのである。

 上部は迷岳の名前にふさわしく、ひどく複雑な地形となった。5~10m間隔で、標識テープを結んで登った。私以外の標識は、ほとんどない。

 天候は不安定で激しい風が吹き、ときおり雨やミゾレがパラつく。ガスで視界もなくなったので下山しようかと迷ったが、結局登山口から4時間を費やして頂上に立った。
 ここは、スズタケに囲まれた10畳ほどの頂上で、大峰山岳会や飯高山岳会のプレートがつけられてていた。
 しかし、ガスとミゾレのため、休憩もせず早々に立ち去った。

 下山は、標識テープのおかげで速やかに降りたが、標識がなければとても元に戻れそうもないほどの、小さな尾根や沢の錯綜した複雑な地形である。十分に注意されたい。

 2時間半ほどで下山し、当然のことながら奥香肌峡温泉に行った。これは、この地域に少ない貴重な天然鉱泉である。下山後に入る温泉は、なによりの喜びだ。県道から蓮川の橋を渡り、ゴルフ場の手前を左折すると、国民保養所の奥香肌荘がある。入浴料金は、銭湯より安い200円で、本当にありがたかった。

 ここに、松坂からバスがきているので、公共交通の便もよい。ここから高山家まで、徒歩15分である。
 さっぱりした木造建築の風呂は、立派な岩風呂だった。正確にいうと、ここは温泉ではなく鉄分を含んだ炭酸性の冷鉱泉で、沸かして用いている。飲んでみると、サイダーのような炭酸風味にキド味があった。よく暖まる良い風呂だ。

 (追記、吉岡版「大台ヶ原」には、このルートは記されず、飯盛山ルートだけが紹介されている。道は荒廃していると書かれているが通行可能で、尾根道なのでこちらの方が安全かもしれない。それに、登山口は温泉宿から目と鼻の先だ。

 その国民宿舎、奥香肌峡温泉は1995年1月廃業してしまい、代わりにリゾ-ト施設と高級ホテルが建設され、入浴料は800円になった。私でも泊まれる良い宿だったのに実に残念。)
 91年12月著


 池木屋山 1396m (飯南郡飯高町蓮川宮谷より 91年11月25日)

 迷岳を下山して部屋に帰り、ひさしぶりにテレビをつけると、NHKで「ミスターマリックの不思議な世界」という番組をやっていた。

 「超能力」的奇術の実演だったが、指輪のテレポート移動というのは普通の奇術テクニックのように思えた。イスの人間持ち上げやテーブル上げも物理的に不可能でない。しかし、スプーン曲げなどは本物だと思った。なぜかというと、私自身たかのしれた超能力を自覚しているからである。

 私の超能力は、第一に予知能力で、これは未来を予知できるというよりは、未来の自分の感情を予知できるのである。
 例えば、山中の狭路で対向車や人と出会うときは、相当な確度で事前に知ることができる。事前に、表現しにくい不安な感覚に見舞われるのだ。だから、自分の身の上について近い将来起こることがらも、深刻な事態であれば、ほとんど予知できる。「虫の知らせ」というやつだ。

 5年ほど前、私の運転するトラックに、子供どうしで自転車で競争中の幼児に飛びこまれた。大事故になり、ノイローゼでひどく苦しむことになったが、この事件などは小学生の頃に将来こんなことがありそうだと予知した記憶が、明確に残っていた。

 こうしてみると、人生とは、すでに描かれた絵巻物を拡げてゆくだけのような気がしてならない。未来は、記憶の中に存在しているのである。

 超能力の第二はテレパシーで、ある程度つきあった人ならば、言葉を交わさなくとも考えていることが読み取れ、本心が見えてしまう。
 とりわけ、感情はよく読める。単純な交信もできる。これにはコツがあって、相手の記憶をできる限り思いうかべ、次に心の底から嬉しい気分になるのである。

 脳を、いわゆるアルファー波の状態におくわけだ。対話は言葉でなくイメージで行なう。
 これは、脳に電磁波を送受する能力があるのではないだろうかと考えている。経験的に、その証拠が多くある。テレパシーは電波の到達域でしか交信できないように思うし、ノイローゼ気味になっていたとき、FMラジオが頭の中で鳴ったことがあった。

 第三に念力だが、これは極端に好不調の波が大きい。最近はからきしダメだ。以前は、ロウソクの火を遠くから意志でコントロールする訓練を行ない、少しはできた。スプーン曲げくらいはなんとかなりそうな気がしているが、これはきっかけが必要なのだ。

 このような能力は誰にでも普遍的に存在すると私は思っているが、他人の顔色を見ながら生きている人には、考えることすら恐ろしいことだろう。常識外のことを「あるはずがない」と決めつける視野の狭い人は気の毒というしかない。
 天から与えられた能力に気づかぬまま人生を終えるなど、不幸の極みではないか。

 常識の規範としての「権威ある学問」が、いかに超能力を否定しようと、それで消滅するものではない。学問がこの宇宙のどれほどを知りえたかと問えば、本当に僅かな知識しか知らないというしかないのだ。学問は、断じて現実世界をフォローするものではない。

 それにもかかわらず、人間は科学技術を弄び、なんでも知ってしまえるかのように錯覚し、あたかも科学技術が人類の幸福な未来を保証するものであるかのような信仰が人々を支配している。

 だが、この信仰的価値観は、国家権力と産業によって利益を得る、権威による安定を欲す人々の特権を保証するためにつくられたものであることに気づくべきだ。

 今日なお科学技術の恩恵を受けず、未開の原始生活をおくる人々が、劣っていて不幸だと決めつけるのは傲慢浅儚で愚かなことだ。問題は物質ではなく、心の豊かさにあるのだ。我々は、科学技術によって物質の豊かさを得ることと引きかえに、心の豊かさを失ったのではないか。

 科学技術は、知識人の優越感を満足させた代償に、人々に健康が科学によってもたらされるかのような錯覚をもたらし、そのことによって野生の健康を忘れさせ、ついには人工的病魔を蔓延させ、どれほどの人々を殺していることだろう。

 科学、つまり学問は、1人のマラリアや結核患者を救った見返りに、10人のガン患者をつくりだし、殺している現実をどうしてみることができないのだろう。

 迷岳で、昼過ぎに人間の不安な感情を感じた。翌朝、ラジオのニュースは、池木屋山で松坂のグループが遭難したらしいと告げた。迷岳と池木屋山は直線距離で4キロである。おそらく、これだったのだろうと思った。
 しかし、イヤな予感はなかったので、たいしたことにはなるまいと感じた。彼らは、その朝無事に下山した。

 その夜、迷岳と同じ蓮川の県道を遡り、15年前の国体で開かれた宮の谷ルートに入った。宮の谷の林道に入ると、100mほど先で道路が陥没崩落していて危うい思いをした。出会いで一夜を過ごした。

 朝、一昨日の疲労の残っているせいか、6時半まで寝込んでしまった。それでも体が重かったが、7時に出発した。

 今年、三重県はいくつもの台風の直撃を受けたが、この林道の被害は想像以上にひどかった。いたるところで、沢の土石流によってズタズタに寸断されていた。

 林道の終点からは、歩道は左岸につけられていて、渓谷探勝の遊歩道として整備されている。危険な場所には、ほとんど立派な鉄製の橋や梯子が設置されているが、上下が多い。このルートを通るのは2度目だが、前回は見事に整備された直後だったので、よけいに荒廃が目立つ。

 やがて道は左手の右岸に変わり、1時間ほどで立派な滝が見えた。高滝という。目測落差およそ40m、一気に落ちる直瀑で、実に見事な景観だ。しかし、この手前の枝沢にある風折滝こそ、香肌峡中最大の落差を持つ名瀑として知られる。日本最大級の降雨に磨かれた台高山脈の渓谷は、黒部渓谷に匹敵する内容がある。

 ルートは高滝の滝壷の手前で対岸に渡り、左岸の岩壁を高巻く。すぐに急に道が悪くなり、踏跡程度で荒廃している。約100m以上も高巻くので、上部は危険な箇所が多い。
(94年4月に、このルートを無線仲間と再登したとき、危険地帯の核心部に地蔵が祀られていた。数年前、ハイキングの女性が滑落死したという。)

 もはや、ここからは山慣れた登山者だけの世界になる。高滝を越えると、もう一つ落差30mの猫滝があった。赤標をひろって河原を歩くと、再び右手の左岸を大きく高巻くようになる。沢にはドッサリ滝があるはずだが見えない。荒廃した踏跡をたどって、しばらくで奥の出合に着いた。

 ここから右手の尾根に取りつけば、秘峰コクマタ山(1394m)方面で、沢を渡って、左手に進めば目的地の池小屋山である。この沢では、石灰岩の接触変成岩(スカルン)が目についた。探せば、面白い鉱物がでるだろう。

 このあたり、割合としっかりした踏跡がついている。やがて、急な尾根に取りついた。迷岳に比べれば、はるかに登山者が多いと思われる。尾根は、珍しくヒメシャラの優勢林に包まれていた。そして、もう一直線に頂上に向かう急登となった。

 途中、優に500年を越えるコメツガの巨木やヤシオの古木も多く、シャクナゲのアーケードの原生林が見事で、これほどの値打ちの森も、東海地方にどれほど残っているだろう。

 1時間ほどの寡黙なアルバイトで達した頂上付近は、快適なブナの疎林だった。美しい良い山並みで、この山域では高見山ほどではないが、国見山に似た原生林になっている。

 この頂上の素晴しさはどうだ。独立峰の大眺望こそないが、このうえなく静かで、深山のなかでの安らかな落ち着きをもたらしてくれる。
 ゴミやアキカンを平気で捨てる愚かものたちもここまでは来れないようで、実に清潔で美しい山頂だ。

 山頂を取り巻くヒメザサと呼ばれる小笹の絨毯も素晴しい。これは、結節のあるミヤコ笹の特徴をそなえていて、同じ場所に長期間生え続けて自家中毒を起こしたり、風環境に適応して矮小化したのだろう。いつまでも離れがたい、美しい笹原である。
 東に、この山名のもとになった小さな池があるはずだが見えない。

 池木屋山という名は、この山が鈴鹿山脈西部に根拠地を持つ木地屋と関わりがあることを示している。
 木地屋は稜線伝いに南下し、奥山に勢力を拡大し、やがて平家の残党とも合流することになったのだろう。彼らは、この尾根から紀勢町崎に入り、そこで一大拠点を構えて今日に至っている。この山には、なぜか源義経の伝説が遺されているが、義経は木地屋となにか関係があったのだろうか。

 この山には、かつて明神平から稜線を辿ったことがある。そのときは、千石山のあたりまできて、あまりにマムシが多いので気味が悪くなって逃げ帰った。
 このようなヤブ山は、今頃くるのが一番良いようだ。頂上まで3時間余を要した。

 下山は、猫滝の手前で道を誤った。沢沿いに戻るべきところを、営林署の標識に釣られて左手の稜線に飛び出してしまった。昨日遭難した人々も、ここで道を誤ったのではないかと思われた。
 この道は上部で廃道化しているが、誤った赤標がつけられているので要注意である。もちろん、正規の荒廃した踏跡にテープを結んだ。

 下山後、一昨日行ったばかりの奥香肌峡温泉を訪れた。一昨日は自分一人だった温泉も、この日は大勢入っていた。実に快適な湯だったが、ひどく疲労感を覚えた。連休帰りの渋滞した道を、抜け道を駆使して部屋に帰ったら、赤ワイン色の小便が出た。

 追記、94年3月、宮川貯水池から焼山尾根を経て積雪期登頂したが、一帯は林野庁による凄惨な皆伐の修羅場と化していた。
 伐採通勤用のモノレールまで施設されていたのにはあきれた。ルートはモノレールの線路に沿ってついているが、荒廃して不明である。鹿たちが、ねぐらを追われ彷い歩く様がかわいそうだった。遺された最後の原生林、大杉谷と宮の谷の尾根一つ隣の風景は、すべてこのようなものなのである。これでは狼どころではない。

 翌4月にも、宮の谷から無線仲間とともに5度目の登山を行なったのだが、樹林帯の美しい開花にもかかわらず、この原生林の将来を思うと憂鬱でならなかった。

 日本人はどこまで愚かなのかと思うが、諸外国の自然を蹂躙することで我々の豊かさが支えられているならば、むしろ、これらの豊穣な大自然も、残るべきでないような気もしている。



 伊勢辻山  1290m
 (飯南郡飯高町高見峠より 90年12月2日)

 土曜日は、仕事を終わると目的地の登山口に直行して、そこで一夜を明かすのが最近の習慣になっている。この山域へは、名古屋から3、4時間程度で行ける。

 台高山脈も、南部は大台ヶ原を除いて魅力のある山は少ない。北部でも、登高意欲をそそられる山はとっくに登ってしまっていて、行先の山を定めるのに苦労する。この日、体調の優れぬこともあって、割合しっかりした登山道で、あまり厳しさのないコースを選んだ。主稜に踏み残した伊勢辻山である。できれば国見山まで行くつもりで、高見峠から往復することにした。

 三重県には、この秋、実に4個の台風が通過した。気象学的には、低気圧の通過コースには習慣性がつきやすく、それほど異常ではないという。4個目の通過が、11月30日であった。これは、遅い上陸の日本記録になった。ただ、台風通過後にも前線が残り、この夜も、寒冷前線の通過に伴って山は大荒れになっていた。

 高見峠は、トンネルの開通に伴って幹線道路から外れ、通る車は高見山の登山者か観光客が多く、一般の通過車両はない。旧道への分岐を過ぎると、凄じい荒れようとなった。狭い舗装道路には、一面に杉や桧の枝葉が散乱し、あちこちで道路が崩壊していて緊張させられた。でも、なんとか無事に峠の駐車場にたどり着くことができた。

 この夜は、激しい風雨で一晩中車が揺れた。いつもなら、とうに出発している朝7時になっても、黒雲が空を覆い、明るくならなかった。そして、真冬と変わらない冷たい北風が吹きすさんだ。

 7時半を回って出発するのには、決断を要した。最初から凍えるような強風に曝され、よほどでなければ着ることのない軽羽毛服を羽織って歩いても、寒さが骨髄にしみた。

 さすがに主稜だけあって、道はよく踏まれ、東吉野村の設置した台高山脈北部縦走路の標識が多く取り付けられている。しかし台風は、稜線の寿齢100年以上もの桧を傾けさせていた。相当な強風に曝されたようだ。

 不調なのでゆっくり歩いたが、1時間で、最初のピークの雲ヶ瀬山(1075m)に着いた。ある程度の展望はあるが、それほど魅力的な場所でない。ササヤブを分けて歩かねばならないが、たいしたことはない。ここまできて、このルートは10年ほど前にやってしまっていたこと思いだしたが、いまさらしかたない。

 かなり下って、南タワという10mほどスパッと切れた鞍部を通過する。しばらくでハンシ山(1137m)で、樹林の中にあって展望は皆無である。このあたり、地名に他の山域にない特異性があるが、由来は知らない。ササに鹿の食み跡がある。ところどころに、石灰岩が熱変成して石英と化合し、大理石になりかけた岩が露頭している。

 池のタオと呼ばれる鞍部にキハダがあって、誰かが樹皮を剥いたので鮮烈な黄色を曝している。キハダはミカン科に属し、日本の歴史的医薬として最も重要な木である。生薬名をオウバクという。

 この山の南に位置する、奈良県吉野郡洞川のオウバク宗大本山、萬福寺に伝わる秘薬、ダラニスケと、木曾御岳山の百草、鳥取地方に伝わる練熊、それに富山の置薬のクマノイなど、日本で胃腸薬として著効性を認められた飲み薬は、ほとんどがキハダを原料としている。これ以外で信頼される薬といえば、わずかにゲンノショウコとセンブリがあるくらいだ。

 これらの薬は、オドロオドロしい伝承を交じえて、各種の霊薬を調合したと宣伝されたが、どの薬も実際の有効成分はオウバクだけであった。ところが宣伝文句の中に、百草は御岳山頂に生える霊験あらたかな秘薬のコマクサを原料として作られたとしたために、マトモに信じた御岳講の信者によって、コマクサは御岳から根絶やしにされ、自動車道のついた乗鞍、ロープウエイの木曾駒も同じ目に遭った。

 コマクサには、ケシ科特有のモルヒネ系鎮痛成分が含まれているというが、微量すぎて有効成分にはならないとされる。有効なほど摂取した暁には、一帯の駒草が絶滅するだろう。

 オウバクの主成分は、アルカロイドのベルベリンである。これは、副作用の少ない優れた下痢止めとして、今日でも多くの胃腸薬に利用されている。

 戦後、田辺製薬・チバガイギー・武田薬品の3社によって、ベルベリン以上の効果を示すキノホルムという薬品が製造された。医化学は、自然から学び自然を超えたかに見えた。だが、天は人間の浅儚な思い上がりに凄惨な報復を加えたのである。

 キノホルムが用いられるようになった日本では、世界に例を見ない神経症状を示す奇病が発生し、深刻な症状の患者数は全国で1万人を上回った。それはスモンと呼ばれ、数えきれない人々に機能障害を引き起こし、数千人に不随をもたらし、数百人から視力を奪い、数十人を自殺に追いやった。ほとんどの場合、治療回復は不可能だった。

 原因解明を進める研究機関は、患者の緑色の舌苔にキノホルムの結晶を発見し、犬にキノホルムを投与することで、人工的にスモン病をつくりだすことに成功した。さらに、厚生省がキノホルムの使用を禁止してから、スモン病の発生は止まった。

 この中毒は、サリドマイドとならんで、戦後薬害の双璧をなし、新薬発見の栄誉を誇る製薬会社に、膨大な賠償債務をもたらすことになった。

 ところが田辺製薬だけは、世界中の疫学者が嘲笑するスモンウィルス説を唱え、賠償を拒否している。そして、チンピラライターや医事評論家に依頼して、もっともらしいウィルス説を出版させた。さらに最近、裁判所は、あろうことか一審の患者勝訴を破棄し、田辺製薬の悪逆卑劣な欺瞞を支持したのである。

 日本の裁判が、世界的に稀なほど権力と企業利益の御用機関に成り下がっていることは、例えば神戸の甲山事件などでイヤというほど思い知らされているが、このようなことでは、我々はもはや権利の守護を裁判所に期待することが不可能ということになる。

 私は、田辺製薬の全社員とウィルス説の提唱者に、彼らが安全だというキノホルムを強制服用させるべきだと思う。このような企業の横暴を許すことは、水俣病の教訓がまったく生きていないことの証明に他ならない。

 天然生薬のベルベリンは、強い抗菌作用があるが副作用は少なく、キノホルムを含んでいたワカマツやキャベジンなどの人気胃腸薬は、再びオウバクのベルベリンを使用している。
 だが、科学技術が人を救うといった信仰が消えた訳ではない。野生の健康でなく、科学技術による健康を求める人々がいるかぎり、田辺製薬のような卑劣無恥な会社につけこまれ続けることだろう。

 キハダの利用法は、夏に樹皮を剥いて内皮を乾燥させ、粉末にして食後服用する。この木は大木であっても、多量に樹皮を剥かれると枯れてしまうので、育成に繊細な注意が必要である。ついでに言うと、最高の胃腸薬はオウバクでなく、活性炭(消し炭で十分だ)だと私は思っている。

 地蔵の頭というなんでもないピークを過ぎると登りが続き、わずかで伊勢の辻に出る。ここは古い峠道で、おそらく伊勢南街道の間道なのだろう。通行禁止の標識があり荒廃しているが、伊勢辻山の正規ルートは、奈良県吉野郡東吉野村大豆生、大又から又迫谷を詰めて、ここに至るものである。

 ここは旧小川村の領内にあたり、1905年、最後の日本狼が、この峠の付近で捕獲されたと伝えられる。松浦武四郎の三度の大台紀行に、狼に関する記述がほとんどないことは、すでに明治中期には日本狼はほとんど絶滅していたとも考えられる。

 ここから頂上まで数百mで、木々に名物の霧氷がかかっていた。ここまで凍える強風を避ける場所はほとんどなく、軽羽毛服を脱ぐこともなかった。この稜線は、風をまともに受ける。だから、当然山火事にも弱いはずで、事実、古い森はなく、ほとんどが植林か二次林である。

 高見峠から3時間かかった。不調なので、珍しくコースタイムを超える時間だ。もっとも、山歩きのコツは歩行リズムに尽きるので、どんなに調子が悪くとも、リズムに乗ってしまえば必ずなんとかなってしまうものだ。
 あとは、リズムを崩さないことだ。

 山頂は低い笹原で、ここまでの稜線で一番の好眺望がひろがる。大峰山脈のシルエットが美しいが、大台山系は国見山からアザミ岳の1400m級の稜線に隠されている。
 国見山は目の前だ。登り口の高見峠では目の前にそびえ立っていた高見山は、はるかに霞むほど遠くなった。もしも晴れて風がなければ、ここは素晴しい山頂であろう。

 遠い昔、満月の夜、この山頂から狼の遠吠えが台高山脈に響きわたったかもしれない。そんな、際だった好眺望のピークである。
 この日、あまりの寒さに温泉が恋しくなって、既登の国見山へ行くのはやめて引き返すことにした。

 帰路、湯気の立つようなシカのフンがあった。池のタオにライフルを持った一人の猟師がいた。犬は連れていない。12月1日からは、大物撃ちが解禁になる。毎年、不愉快な射撃音を聞かされるイヤなシーズンが始まっていた。

 私は趣味猟師が嫌いだ。生活のために猟に生きるのならやむをえないが、滅びゆく野生動物の保護を思いやらず、ただの血生臭い趣味で、動物を殺すことに快感を求める連中は不愉快だ。
 この山域から、すでにカモシカとクマが完全に姿を消しているのだ。

 以前、神奈川県のヤブ山で誤射されたことがある。ヘタのおかげで当たらずにすんだ。だが撃った男は、誤るどころか、「なんでこんなところを歩くんだ!」と怒鳴ってよこした。それ以来、猟師を見るだけで不快になる。

 猟師は50年輩で、誰もこない山の中なので挨拶を交わした。付近にシカがいることが確実なので、わざと大声で話しかけた。(誰が撃たしてやるものか。シカよ、逃げろ!)
 話しながら一緒に歩いた。持っていたライフルは30口径で、シカに当たると、径20センチほどの穴が開き、頭に当たれば半分ふっ飛ぶ、といった。朝からシカの姿は見ていないといった。

 意外なことに、この人は深田百名山をやっていて、年間40回程度の登山をこなし、来週も雲取山に行くと語った。山のことは、私以上に詳しかった。登山者で狩猟を趣味にする人を、初めて知った。猟師の悪口を言ったので不愉快になったのだろうか、この人はハンシ山で三重県側のヤブに降りた。(この方、後に「ひと味違う・・」登山案内書を出版されたNさんにそっくりだった)

 すぐに、奈良県側で犬の鳴き声とライフルの発射音がした。さっきのシカだろうか。なんとも憂鬱な気分にさせられた。
 帰りは、峠まで2時間だった。


 薊岳 1406m 94年3月

 薊岳は、明神平から手ごろな距離にある奈良県側の枝脈の山で、台高山脈北部で1400mを超す貴重な標高をもっている。この他の1400m峰は、主脈上に、水無山・国見山・明神岳があり、ややはずれて桧塚峰があるが、いずれも大又から明神平を経由して登ることができる。

 明神平は台高ファンにはポピュラーな名所だが、登山口が東吉野村大豆生(まめお)大又という山奥の集落で、道も狭く分かりにくいので、東海・近畿の大都市圏から訪れるには少しばかり困難がある。ここを訪れるハイカーも、橋本・桜井・名張といった近郊の住人が多いようだ。

 これらの山々は、休日にはハイカーも少なくないが、普段は落ちついた静けさに包まれ、この地方に少なくなったブナ林や、四季折々の花や紅葉にも恵まれた近畿有数の桃源郷の趣がある。

 薊岳は、バス終点の大又から直接とりつき、尾根を辿って明神平に抜けることができる。私は、まだ根雪の残る3月初旬に大又から登った。

 大又付近に車泊し早朝登山口を探したが、道路が凍結していて狭いうえに路線バスが通行するので、大又の集落には車を駐車する余地がなかった。やむをえず、かなり手前の林道の空地に駐車し、登山口の笹野神社に出向いた。

 笹野神社はバス終点の大又停留所の前にあり、脇の石段が登山口である。やや登ると村道に合流し、驚くほど立派な民家があった。大又の庄屋だったのだろうか。その脇の未舗装の狭い林道の入口に、アザミ岳に至ると記された標識や赤テープが残されている。一帯は杉の植林地になっている。

 植林地には作業道が交差していて、新雪に隠されて登山道が分かりにくい。赤テープに導かれながら登ると、やがてはっきりした踏跡が現れた。かなり上部の小平地に古池辻と書かれた標識を見ればすぐに緩やかな稜線にいたり、このあたりから深い根雪になった。

 変哲のない笹と雪の尾根を、先行者の足跡に導かれて40分ほど歩くと大鏡山だが、これは尾根上のコブにすぎない。山頂の南に小池があるように地図にでているが、確認できなかった。ここで先行者の足跡は消え、スズタケのなかの深いラッセルになった。

 持参のスノーラケットを履くと、それまで膝上までのラッセルだったものが足首までですむようになった。私のはオレンジのプラスチックでできたラッキンクという名のフランス製で、これは面積が広いので沈みにくいが、爪が浅いため堅雪の急斜面でズリ落ちる欠陥がある。冬山登山も20年を超すのだが、いまだ文句のないラッセル用具を入手できない。これは軽量で扱いやすいため多用している。

 ルートは比較的広く、分かりやすい尾根上を進む。薮もなく、樹林帯の尾根である。小さなコブをいくつか越えてゆくと痩尾根になり、少々手強い岩場のキレットに出くわした。両側とも切れ落ちた雪のリッジになっていてザイルがほしいところだが、ピッケルを深く刺しながら慎重に通過した。

 ここから2級程度の岩場が続き、急な稜線を登るとアザミ岳の山頂に達した。眺望も良く、落ちついた雰囲気の山頂である。

 ラッセルのため大又から約3時間以上かかったが、無雪期には2時間程度で来られそうだ。アマチュア無線を取り出し、CQによって数局と交信してから明神平方面に向かった。

 ここから明神平に到る尾根は緩く広い快適なブナの疎林で、歩きやすく危険もない。雪上に踏跡もついていて気分の良い散策道だった。1時間ほどで明神平に着き、ここで、この日初めて若いアベックの登山者に逢った。

 「どちらへ」と聞くと、もう午後2時をまわっていたが、「これからアザミ岳へ行きます」と言う。明神平に幕営して、あちこち登るつもりらしい。暇と元気のある若者がうらやましい。
 最近、山で見かける登山者は中高年ばかりで、元気な若者を見かけることは少ない。私自身、中年の域にさしかかってしまったのだが、やはり山は若者の世界であってほしい。若者はどこへ行ってしまったんだろう。
 下山は、明神平からよく歩かれている登山道を経て大又まで2時間であった。

 明神平は台高山脈に多い尾根上の小平地で、ちょっとした運動場くらいの広さがある。その昔は、源義経が馬を駆ったという伝説のある深い笹原だったが、かつて、ここにロープトウのスキー場がつくられたことがある。今でも、その頃利用された天理大学のスキー小屋が残っているが、すでに荒れてしまっている。

 ここまで約2時間の登山道をスキーを担いで登ってこなければならず、昔に比べて積雪も少なくなったので、今では、ここでスキーをする酔狂者もいないが、最近、地元の自治体の手によって公園風に整備され、休日にはハイカーで賑わうようになった。

 明神平から登る山々は、いずれも1400mを超す標高をもっていて、わずかながらブナ帯の原生林も残り、近畿に残された数少ない秘境といえよう。
 1419mの国見山は、高見山に向かう縦走路上の秀峰である。明神平からスキー場の斜面を登りつめた、台高北部最高峰のコブである1441mの水無山を越えて、30分ほどでブナの美しい樹林に包まれた国見山に達する。

 ここは、高見峠からも主脈の良い散策道を4時間ほど歩いて到ることができるが、そこそこハードな行程になる。
 途中、伊勢辻山から国見山にかけて馬駈場と呼ばれる小平地があり、そこは、春先にはドウダンツツジが咲き乱れ、鹿が駆け回っている姿を見ることもできる静かな秘境である。北部で一番良い場所と紹介しておこう。

 1432mの明神岳は、水無山の反対側の笹原を頼りない踏跡に導かれて登る。ここは迷いやすいので、千石山方面の主脈に引き込まれないよう、コンパスに頼って強引に笹薮を突破する。
 山頂は尾根上のコブというイメージで眺望にも恵まれないが、そのまま尾根を1時間ほど歩けば、1420mの桧塚奥峰に到ることができ、この山はすばらしい眺望と美しい原生林に包まれた名峰である。

 桧塚奥峰は県境尾根でない三重県単独の最高峰で、紀州山地に僅かに残された月ノ輪熊の貴重な生息地でもあり、いつ行っても静かな秘境である。

 また、奥香肌峡の名渓として知られるヌタワラ谷を遡行すると、この山頂に到るので、沢屋には知られているかもしれない。私も93年に遡行したが、巨瀑の続く充実した沢だった。

 明神平から桧塚に至る尾根には明確な登山道がない。踏跡らしきものはあるが、獣道と交錯しているので、枝尾根に引き込まれないよう注意する必要がある。

 明神平から主脈を南に辿れば、千石山(1380m)を経由して秘峰、池小屋山(1396m)に行くことができる。明神平に一泊すれば余裕のある山行になろう。

 この尾根は上下が少なく比較的歩きやすいが、スズタケの薮が多くルートファインディングに苦労する。枝尾根が多いのでガスの日は苦労するだろう。
 私は十数年前に辿ったが、途中マムシが多いのに恐くなって千石山から逃げ帰った思い出がある。

 池小屋山の登山ルートは、今では蓮ダムから宮ノ谷遊歩道を経由するのがポピュラーだが、高滝見物につくられた遊歩道のできる前までは、この主脈尾根を往復するのが一般的だった。昔は大又から日帰りで池小屋山を往復する豪の者が大勢いたが、今ではあまり聞かなくなった。

 私は美しい原生林に惹かれて池小屋山に5回登り、宮川ダムから焼山尾根ルートも登ったが、そこに恐ろしいほど広大で凄惨な原生林の皆伐現場を見て唖然とした。大和谷には長期の伐採作業のために通勤用モノレールさえ設置されていた。近畿最後の池小屋山原生林の余命もあと僅かなのだろうか。

 台高山脈北部では、明神平から歩く以上の山々のほかに、高見山脈の山々があるが、こちらは植林が進みすぎて、かつての台高の面影は消えてしまった。むしろ、大台ヶ原以南から熊野灘にかけての山々に、狼の跳梁した深山の面影が残っているかもしれない。


 あとがき
 私が台高山地に通いはじめたのは83年頃で、最初に行ったのが大又経由の国見山だったと思うが、以来、通算で50回以上は行っていると思う。主立ったピークは、一応一通りこなしたはずである。沢も、ヌタワラ谷から檜塚奥峰に抜ける山行など、数回行っているが、私は単独行主体なので、下降ルートの少ない台高では鈴鹿ほどこなしていない。

 この山域は急峻な崖地が多いので、下降が難しいのである。むしろ、大峰の方が参考資料が多いので遡行回数も多い。

 台高山地の良さは、なんといっても人気の少なさ、静かさと、荒らされていない原生の自然が残っている点である。

 原生ブナ林の美しさには比類なきものがある。都会地から遠いため、ロープウェイなどの観光開発も進んでいない。飯南郡や吉野郡の自治体も、「開発」の虚名に踊らされ、本質を見失う愚者に主導権を握られているようには見えない。投資に見合う収益がないことが一番大きな理由だろうが、そのことが先祖から受けついだ自然を子孫に残そうとする心の豊かさを浸食されずにすんでいるのである。

 願わくば、いつまでも貧しいままでいてほしい。木曽の妻篭を見てほしい。新築する経済的余裕のなかった事情が江戸時代の旅籠の雰囲気をそっくり遺し、それが、かけがえのない国民的財産に変貌したではないか。

 一発屋、ハッタリ屋の政治家に騙されず、落ちついて人の道を歩いていれば、必ずそれに見合うものが帰ってくる良い例ではないか。

 人の道を外れた政治家・事業・施設、そして国家体制そのものまで、それらは今、悉く音を立てて崩壊しようとしている。所詮、見せかけの繁栄など虚構に過ぎなかった。砂の上に築かれた幻に過ぎなかった。誰もが心の底で危惧し、それを分かっていたのにバブルの激流に流されてしまった。ありもしない虚構に踊らされたのだ。

 取り返しのつかない負債は、われわれに平等に被さってくる。98年末で、勤労者一人あたり2000万円を超える。もはや誰も支払うことができない。金利さえ払えない。日本国民全員が裸足で夜逃げしなければならない時代が来たのだ。

 財産や地位を失っても命を取られるわけではない。食べてさえいれば生きてゆける。そんなとき、このような自然を抱えた地域の人々は、真の豊かさを享受できるのである。最後には、美しい山河が心の拠りどころになるのである。  98年末

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