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それぞれの山の物語 2 京丸山


 これは、一連の山紀行記のなかでも初期に書いたもので、原型はたぶん1990年頃に書いたと思うが、改訂は1993年に行った。
 割合、民俗学関係者に読まれ、公的文献にも参照しているものがある。

 私が蛭川村に移住して、無形文化財に指定されている「杵振り祭」を調べていて、目の玉が飛び出るほど驚いたことがある。
 この文中に、「後醍醐の子(たぶん孫の親王)尹良が信州浪合で死に、その首を、ここの高塚山に埋めた」という下りが出てくるが、これと、まったく同じストーリーが杵振祭の起源として書かれていたからで、静岡県の超僻地と中津川市の歴史的な関わりがあったことに本当に驚かされた。

 それぞれの山の物語

 第2話 京丸山(1469m)

 高級官吏でもあった民俗学者、柳田国男が生涯追い続けたテーマは「山人の謎」であった。

 人は人なくして生きられない。人が充実した社会生活を送るためには、集落の存在が欠かせない。それは、生活物資の供給にとどまらず、人同士のつながりから生まれる「生き甲斐」を得るために必要なのである。一人で孤独な生活を送るものは、やがて精神の活性を失い、無気力になり、ついには思考能力さえ失って廃人化してゆく。

 たぶん人は、誰でも心の奥に痛切にそれを感じているだろう。だから、たとえ大きな疑問を抱くことがあっても、社会の規則に従い、集落の掟に従うのである。人は孤独になるのを恐れている。

 それなのに、ある種の人々は自ら絶望的な孤独を求めて集落に背を向けて生活することがある。柳田は、そのような人々を追い、記録し続けた。人が孤独を求める不可解な理由を知ろうとした。
 柳田は、個人ばかりでなく、賑やかな社会に背を向け、山中に隠遁して生活し続けてきた「山人」と呼んだ一群の人々についても、その訳を知ろうとした。

 個人であっても集団であっても、社会に背を向けることになった初めの動機には、たぶん共通の理由があった。それは、誰にでもわかりやすい言い方をするなら、社会から疎外され、傷つけられたということである。

 ときには、悪事に手を染めた因果として人前で生活できなくなったという事情もあっただろうが、むしろ、自ら進んで孤独を求めたことの方が多かった。人は、決して「規則を守るのが厭でたまらない」という理由だけで、集団に背を向けるのではない。生きるためにやむを得ぬ事情があったのである。

 日本各地には、「どうして、このような場所で生きてゆけるのだ」と不思議に思うほど、信じがたい山村僻地に拠って暮らしている人々がいる。

 例えば、本稿に取り上げる遠州・三河・南信地方や、紀州山地の中央部、四国、中国、九州山地の中央などである。
 さすがに、北海道、東北の豪雪地帯の山中には滅多にいないから、生存条件に規定されるのは当然のことだ。人は生存さえできれば、生活の利便性を超えてどこにでも住み着くものだと感嘆するのだが、生活の利便性以上に過酷な現実から逃げたい人々がいたのではないか。
 人は、滅亡の恐怖から逃れるために、隠れ住んだこともあった。

 先に述べた、南信三遠地方では、猿や鹿の数が人間よりはるかに勝ると思える山奥の地域、例えば佐久間町や水窪町で、夜になると急峻な山の中に、尾根のかなり上の方まで、まるでクリスマスツリーのように人家の灯りが点る光景に驚かされる。

 私は同じ光景を四国山地や九州山地でも見た。これらは、ほとんどの場合、木地屋を祖先に持つ集落であった。

 木地屋は山奥の居住者たちの歴史的経緯を解釈するには分かりやすい例だが、木地屋居住圏に重なって、源平戦争の落武者の後裔や、南北朝戦争の落武者の後裔集落もよく見かける例である。

 木地屋と平家・南朝武者の後裔は、すでに同化し、あるいは最初から同じものだったのかと思えるほど、今では区別がつきにくいが、平家の方が海浜部も含めた広い生活条件があるようだ。

 近年、マスメディアによる情報の普及によって、自分の生活を世間と比較できる知識が大量に行き渡り、僻村の人々も便利な都会生活に憧れるようになった結果、すさまじい勢いで山村の生活が崩壊しつつある。少人数の山村は、居住者の一人一人に役割があり、全体で統一した有機体を形成しているので、一部でも崩壊すれば全体が崩壊する性質があるのだ。

 柳田国男、折口信夫や宮本常一ら民俗学の先人が探訪した僻村も、僅かな老人を遺して次々に姿を消して行く。彼らが守り続けてきた山々は、再び獣達の手に委ねられようとしているが、それは、すでにバランスを欠いた不自然な秩序のなかにある。

 本旨に戻ろう。木地屋について何も知らない人のために簡単に解説しておくと、私たちの祖先が使っていた食器類は、主に陶磁器、金属器、木器だが、木器については焼損・腐食し消滅することが多いので、古い時代のものが残りにくい。
 だが、民衆の器でもっとも多く使われ、たくさん作られたのが汁碗、盆などに見る木器である。

 焼き物はかつて生産地以外では高級品で、金属器は主に調理具に使われた木器は古い時代、木地屋と呼ばれた工人集団が山奥でケヤキやトチを回転式の轆轤で削って作っていた。やがて生産力が上がり生活が贅沢になるにしたがって木器に漆を塗るようになり、木曽・高山や輪島・会津の漆塗り屋が登場し、木器と陶器の地位が逆転して今日に至る。塗り師も木地屋が転身したものである。

 木地屋は山奥の椀作りに適した樹種の森を見つけ、そこに仮住しながら木地椀を制作し、全国の山々を転々と渡り歩いた。明治政府が土地に税をかけ、納税者を確定するために強制的に所有者を決め、さらに徴兵制の施行によって木地屋の自由な転居が許されなくなり定住が始まったが、本格的定住はまだ百年ほどの歴史しかない。

 木地屋の後裔は、轆轤技術を継承して旋盤屋などに転じた者が多い。万年筆の軸作りや機械加工などである。
 似たような集団に、箕作りを行いながら移動したサンカがある。

 全国の木地屋は鈴鹿山地の西側、滋賀県神崎郡永源寺町付近を根元地とする伝承をもっていて、今でも年に一度、全国の木地屋が集合して祖先を祀る儀式が行われ続けている。ただ、江戸幕府開設時、家康が民間結社を互いに勢力を拮抗させて争わせ、統一力を殺ぐ目的で、すべての結社集団を二大勢力に分割し、木地屋もこの例に漏れなかったため、目論見通り、江戸時代以来、根元地も二分化され争われている。

 徳川家康が行った数々の施政のなかで、政治的にもっとも効果をあげた方策が、この結社集団の二分化策であった。これこそ、徳川三百年の本当の礎であった。人々は集団を分割されただけで互いに憎みあい、激しく争って互いに勢いを殺ぎ、幕府政権に仲裁を求め、楯突こうとはしなくなった。

 一番危険と思われた宗教思想集団、東・西の本願寺、天台・真言の山伏、白川・吉田の神道から武道家、大工、木地屋に至るまで、二分化は徹底して行われ、幕府は勢力のバランスがとれるように互いの勢力を適宜調節したのである。

 家康は、二分化支配という日本史上最大の陰謀をどこから見いだしたのか。
 家康は幼少時、駿府今川家の人質として過ごし、京文化に憧れ続け、膨大な収集を重ねた今川家の蔵書を読みながら暮らした。そして室町末期のこの時期、知識人読書階級のもっとも大きな関心は、南北朝の歴史を記述した「太平記」や「神皇正統記」などにあったはずである。

 それは堅苦しく観念的な詩経、史記などと異なり、まだ実際に闘争に関わった人々が呼吸し、経験を語り継いでいる時代であった。それは三国志のような血沸き肉踊るドラマ性を秘め、知識人少年たちに激しい夢想を与えながら繰り返し読まれたにちがいない。
 太平記こそ、戦国武将のイメージスクリーンであった。そして戦国を導いた強烈なアジテーションであった。

 家康は、おそらく太平記から人心の法則を学びとったにちがいない。人の争いの激しさ、切なさ、愚かさを自らの境遇に重ねるように学び取ったにちがいない。
 勢力が二分することの意味を深く洞察し、人々の感情を冷静に超越し、二分化支配を思いついたのではないか。感情を超えることを強いられた人質の家康であったからこそ、それができた。

 太平記の舞台は、後醍醐天皇の時代である。それは鎌倉時代末、両統迭立、天皇家を二分化し、交互に皇位を立てさせた鎌倉幕府の配慮から始まった。
 このことによって、室町時代を通じて、皇族内部で実に一世紀にもわたる血で血を洗う抗争が始まったのである。

 それらは、後小松天皇によって表向き統一させられてからも、数十年にわたって絶えることはなかった。そして、大勢の若武者たちを平家の落武者同様、人跡未踏の山中に根拠地を置くゲリラ戦へと駆り立てていった。

 太平記を読んだ者は、全編を貫く命題として、勢力の二分化が、どれほど大きな結果をもたらすか深く学んだはずだ。
 それは家康の人生の教書になり、思考の血肉と化した。家康は後々まで太平記に登場する北畠氏などの名族を重く扱い、篤く保護しようとしたことからも、この物語にどれほど深い思い入れを抱いていたか想像がつくのである。

 南北朝の争いは、実質的に足利幕府とその傘下の北朝の勝利が確定したが、源平戦争と同じように、皇族血縁同士による骨肉の争いは凄惨熾烈を極め、敗者はもはや幕府の支配地域で安穏と生活することができなかった。隙あらば一族郎党、根絶やしにされてしまったのである。

 敗者は山中深く落ちのびてゲリラ戦を志向し、復讐を誓いながら人知れず生活するしかなかった。やがて、深山の過酷な生活が続き、世代も替わってゆくなかで、いつしか復讐心も薄れ、辺鄙な山里の生活もそれなりに工夫が重ねられ、合理的に形作られていった。

 私が過去三〇年近くにわたって遡渓や百名山探訪などの山行を繰り返したうちで、深山幽谷、本当の山奥の雰囲気を感じた場所がいくつかある。
 それは黒部渓谷などもちろんだが、北国や日本海側の豪雪地帯を除けば、三信遠の南アルプス深南部や大峰南部、台高山脈付近などである。そして、そこには必ず、南北朝抗争の南朝方遺跡があった。

 台高山地には大台ヶ原の下、三之公川の源流、馬ノ鞍ヶ峰の登山道沿いに後醍醐の皇子らが隠れ住んだ八幡平、カクシ平がある。林道こそ設置されたものの正真正銘の有数の僻地、八幡平にはその子孫が数戸、居住し続けて現在に至っているのには、ひどく驚かされた。
 ここから徒歩数時間で行ける松浦武四郎の大台探検の価値が普通の里山視察程度に落ちてしまうとさえ思った。

 南ア深南部には南朝拠点が数カ所あり、水窪の奥の黒法師、不動岳に至る戸中林道にも後醍醐皇子御所の史跡がある。それらは、当時の主要交通路だった川と尾根道を通じて複雑に繋がっている。
 水窪の奥、にあった後醍醐の第四子とされる宗良親王の隠れ御所から、高塚山へ延びた稜線を歩けば、その先に京丸山がある。


 京丸山

 京丸山はあこがれの山であった。遠州七不思議のひとつ、謎の京丸ボタンの咲く山である。

 江戸古謡に、「医者薬礼と京丸ボタン、取にゃいかれず咲(先)次第」と唄われた幻の巨大な京丸ボタンは、正確にいえば京丸山にではなく、京丸谷を隔てた向かいの、岩岳山の上部に咲くらしい。

 らしい、というのは、このボタンは60年に一度だけ咲くといわれ、今生きている人のうちに、京丸ボタンを見たことのある人がほとんどいないからである。だから、京丸ボタンの正確な所在を特定できる人もいないし、正体をつきとめた者もいない。したがって、これは幻の伝説のボタンなのである。

 京丸山の麓、天竜川の大支流である気田川に流れこむ京丸川のどん詰まりに、辺境僻地の多い遠州、南アルプス山麓のうちでも、とびきりの僻遠の里、京丸部落があった。

 「あった」というのも、昭和40年代の高度成長幻想がもたらした山村崩壊の奔流のなかで、住家は京丸部落の長であった藤原家一軒だけになり、その藤原家の第18代当主であられた藤原忠教氏が1980年に逝去されてからは、19代当主の真氏は、普段は春野町気田にお住まいで、京丸の御自宅には、ときどきしか帰宅されないからである。

 京丸について語られた文献は少なくない。というのも、ここの僻地ぶりは半端でないので、早くから民俗学者や伝奇好きの好事家の注目を集めていたからである。
 もちろん、柳田国男も京丸について書き残しているし、折口信夫や深田久弥も、この里を訪ね、京丸山にも登っている。

 江戸中期の「遠江(とおとうみ)古跡図絵」は、「平家の落人、源平の乱を避け、京丸にきたり」と紹介しているが、これは後に書くが、平家の落人ではなかった。

 江戸末期の文人、内山真竜の「遠江風土記伝」には、「古老曰ふ、昔世の乱のときに、京の人、藤原左衛門佐(さえもんのじょう)なる者、臣僕の隊伍と共に蟄居し、木器を造りて世業と為す。」 と書かれている。

 木器製造というのは、滋賀永源寺町(旧東小椋村)に起源を持つ木地師稼業のことで、実際、京丸藤原家の家紋は、木地師と同じく16弁の菊花の下に木の葉をあしらったもの(16弁葉菊)だったのを、私は藤原家墓所で確認した。このことについても、後で触れよう。

 柳田国男は、どうやら京丸を直接訪れたことはなさそうだ。定本柳田国男全集第20巻、「地名の研究」のなかの54・京丸考に、掛川誌からの引用として(掛川誌は遠江風土記伝から引用) 

 「奥山郷(水窪町一帯)は、御料(天皇家領地)の地であって、三年ごとに上番(連絡役)をした。仕丁一人あり、これを京夫丸(京へ行く人夫)という」 と記事が見えていて、京丸という地は、京往きの賦役を世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地であろうと推測し、「この推定が正しければ、京丸は気の利いた世間師の住んでいた部落である」と書いているが、この推理は軽率であった。

 地元郷土誌家の調査によれば、京丸部落の起源が、藤原家に伝わる南朝落人の伝説に沿ったものであることを裏づけている。藤原家の古文書類は過去の火災ですべて焼失し、代々の言い伝えだけが遺されていた。それは以下のとおりである。

 「南北朝の頃、後醍醐天皇が、謀反した足利尊氏に追われ、信州に逃げのびて戦いを続けた際、供奉して都落ちした藤原左衛門佐らは、天皇が信州浪合(下伊那郡浪合村)で崩御されたので、御遺体をそこに葬り、御首級を奉持して高塚山(京丸山の稜線の中川根町側の峰)に葬り、自分たちは近くの京丸に住みついて塚を守護してきた」というものである。

 だが、歴史的文献には、後醍醐天皇が信州遠州に登場したという記録はない。存在するのは、後醍醐の第三子であって、歌人として知られた宗良のものである。

 宗良は、後醍醐の命によって、東海諸領の南朝側への帰順と経営を図るために信遠に派遣された。しかし、成功を収めることができず、遠州、信州、越州に転々と軌跡を残し、それでも74年の長寿をまっとうして客死した。太平記などの古文献にはほとんど現われず、その経過は不明な点が多い。

 宗良が安定した勢力になりえなかった理由は、東海に足利一族最大の領地で根拠地ともいえる三河があり、遠江には、足利方の強力な武将である今川氏がいて、宗良の部隊に強力に対峙したからである。

 宗良は、信州大河原(大鹿村)を根拠地として、北朝足利方に対してゲリラ戦を展開した。そして、その中心的将軍であったのが、宗良の第2子の尹良(コレナガあるいはユキヨシ[由機良]などと読まれる)であった。

 宗良は後醍醐の数多い子のうちで最も長命であったが、1385年前後に大河原で没した。そして、元中9年(1392年)、南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、名目上は南北朝の和議合体でありながら、北朝つまり足利幕府の事実上の勝利が確定したのである。

 「浪合記」によれば、尹良親王は、南北朝統一後の応永31年8月15日(1424年)、浪合村にて敵方に襲撃され、防戦及ばず自害したと記されている。

 この地方のもっとも信頼のおける家誌である「熊谷家家伝記」にも、「尹良親王、浪合にて自刃す」との記録がある。したがって、藤原左衛門佐らが高塚山に埋めた生首は、尹良のものであったと考えられよう。

 それを裏づけるように、1976年、春野町から京丸へ行く途中にある石切部落の八幡神社から、尹良の石の座像が発掘された。背面に尹良将軍、正平4年(1349年)と刻まれていた。年号が正しいとすると、尹良もまた、父宗良以上のおそるべき長寿であったことになる。

 というわけで、京丸の起源は1180年の源平戦争の落人でなく、1424年における南朝の落人であると考えてよさそうだ。

 (この時代の事実関係について、現天皇一族の歴史的正当性を主張したい宮内庁や御用学者の意図によって、南朝正当論に都合の悪い記述が隠蔽されるなど紛糾していて、浪合記などは、内容の異なるものが数作も登場していることを知っておかねばならない。)

 また、京丸の尹良伝承には「応永30年、尹良親王京丸において自害のこと」というものもあり、さらに、春野町植田の山下宗利氏所蔵の木版には、「元暦甲辰元年、四家を残して京に入る、尹良親王に有」と記されていることを、郷土史家の森下龍男氏が書いている。

 ところで、常識を超えた山奥の部落については、なんでも平家の落人にしてしまう風潮があるが、日本史上で、権力争奪戦争にからんで山奥に逃げのびて村を起こしたのは、12世紀後半の源平合戦に敗れた平氏だけではない。

 14世紀に起こった南北朝の争いも、表向きは和議による決着が図られたのだが、長年の戦闘を繰り返した足利方の迫害を恐れてか、多くの深山落人を生んでいる。それ以降も、戦国時代の武田氏などに例がある。

 というのも、この頃の権力闘争は、血胤信仰による敗残側の皆殺しを伴ったからであろう。勝者は敗者を根絶やしにするために、執念深い探索を行なった。だから落人は、どのような探索にもかからない辺境の地に活路を求めたのである。

 落人の村は、山奥の谷を遡り、さらに尾根を越えて、反対側の遡行不能の谷の最上部に居を求めた。京丸は、この条件を完全に満たしている。

 折口信夫は、水窪町門桁から京丸山を越えて京丸に入った。だが深田久弥は、京丸谷の下にある石切部落から、小俣京丸を経て京丸をめざした。これがどのようなものだったか引用してみよう。

 1965年の正月のことである。東京オリンピックの興奮覚めやらぬ翌年、都会にはパブリカやブルーバードなどの大衆車が雲霞のようにひしめき、日本の高度成長と公害は頂点を極めていた。

 久弥たちは、春野町気田から石切までハイヤーを飛ばし、そこから旧い歩道を辿って京丸に向かった。この当時は、まだ京丸へ向かう林道は完成していなかった。京丸谷は、名にしおうヒルの名所である。

 「石切から歩き出す。中腹の道を小俣まで約6キロは大したこともなかった。小俣は高い台地にある部落で、以前は9軒あったそうだが、いま人の住んでいるのは、2、3軒しかない。廃屋のあちこちに残っている侘しい風景がそこにあった。

 小俣から背後の京丸峠への急な登りには疲れた。峠を越えると、川っぷちまで500メートルの下りである。もう暮れかけていた。川を渡ってまた始まった急な登りで、とうとう私は参った。まっくらになった道ばたに意地気なくしゃがみこんで、疲労からしばしうとうと眠った。そんな私に京丸までの道は長かった。」
(小俣は現在、岩岳山登山口になっていて人家はない)

 海抜300mの石切部落から京丸まで約15キロの道は、600mの小俣を経て、1000mの峠を越え、再び500mの京丸川に降り、さらに700mの京丸への登りがあった。所要7時間程度だっただろう。

 いま訪ねてみても、石切でさえ相当な僻村である。京丸がどれほどの辺境僻地だったか想像がつこう。逆に、それゆえに、かけがえのない骨董的価値があったともいえるのだが。

 左衛門佐(さえもんのじょう)の一党は、おそらく南朝シンパであった山住神社の神官(山住家)の手引きで、高塚山に近い京丸に住みつくことになったと考えられている。

 (高塚山の反対側、大札山の中腹に、中川根町大字上長尾の尾呂久保という、これもとびきりの僻里がある。ここの起源も、京丸とまったく同じ時期で、しかも長尾では、同じ藤原姓を使用していた。京丸から峰伝いにこの部落に行く道は、気田へ出るよりもはるかに近い。ゆえに、この里も尹良随臣の一党の部落かもしれない。また、中川根には南朝側の土岐氏の根拠地があった。)

 日本の山地のなかでも、際だって降雪量の少ない遠州の山々には、真冬でも狩猟に不自由しないほどの多くの動物がいただろう。そして、深いブナの原生林を伐り、ユリの根を堀り、蕎麦や稗をつくったにちがいない。

 また、付近のトチやケヤキの大木を倒してロクロで挽き、椀や盆も製造したことだろう。これは非常に優れた換金生産物であった。

 藤原家の紋章が16弁葉菊であり、これが木地師のものと共通することをすでに述べた。葉菊という紋章は、明治時代に、天皇家の権威を閉鎖的なものにするために、明治政府が純粋な菊の紋章を禁止したので、やむをえず改変されたのであって、本来、天皇の紋である。

 木地師は、源氏の祖となった清和天皇の兄、惟喬親王を祖とする伝承をもち、近江小椋郷君ヶ畑を根拠地にして、全国奥山伐採御免の許状を手に、中部南西の山岳地帯を渡り歩いて木器を製作したのである。

(京の蹴毬の元祖で、後醍醐が尊氏に監禁された屋敷でもある花山院藤原家も葉菊紋で、春野町犬居に縁戚を持つので、関係があると指摘する民俗研究者もいる。)
 それはとまれ、木地師の世界は比較的堅固な結社をかたちづくっていて、各種の証文や記録も多く遺されている。しかし、それらのうちに、京丸が木地師の部落であったことを証明するものは皆無である。

 しかし、宗良や尹良が活躍した三河・南信から遠州西北部は、木地師の日本最大級の根拠地になっていて、現在でも、木地師をルーツとする僻村は非常に多い。小倉・小椋・大倉などの名字の多い村は、木地師の村であると断言してほぼ誤りはない。

 したがって、尹良に付いて戦った藤原一党は、信州遠州を転戦するうちに木地師のロクロ技術を学んだか、さもなくば、南朝シンパの木地師そのものであったとしても不思議はない。
 あるいは、南朝側の膨大な戦費の出所を考えれば、ロクロ技術が、天皇の経済的基盤を支えたものであった可能性も大いにあるように思える。

 いずれにせよ、それからの左衛門佐一党とその子孫たちは、寂遠のこの地で、夜露の降りるような静けさの、平和な歳月に埋もれることになる。

 だが、そのあいだに、悲しい民話を生んだ。それがボタン姫にまつわる伝説である。
 かいつまむと、ひとつは、京に残された左衛門佐の娘が、父を慕って京丸を探しあてるという物語で、いまひとつは、京丸に迷いこんだ旅の若者が当主の姫と恋愛し、親に反対されて駆落ちしたのだが、世間に疲れ果てて再び京丸に戻った。
 しかし、京丸の掟がこれを許さず、絶望した二人は、京丸の橋の上から身を投げて死ぬというものである。これは、民話として多く書き遺されている。

 歴史上、(歴史というものは権力のものではあるが)京丸がはじめて文献に登場するのは、太閤検地である。慶長4年9月2日(1600年)の記録では、15軒の家屋が存在したと記されている。以来、時代によっては30軒近い戸数があったらしい。1930年には、小俣京丸と京丸で21戸・113人の人口があった。

 足利時代から江戸中期までの武家支配の時代、中部地方は順良で安定した気象が続いているようだ。およそ、400年間というもの、京丸は桃源郷であったかもしれない。ここは、いかなる戦災とも無縁であっただろう。
 しかし江戸末期、クラカトア火山や浅間山の大噴火と、それに続く冷害や大飢饉の嵐のあいだ、京丸が平穏無事でいられたとも思えないが、むしろ、その僻遠さが居住に有利にはたらいたのではあるまいか。

 遠州最僻地の京丸に林道が通じたのは、久弥たちが訪れてしばらくしてからであった。そして、御子息の真氏御一家は、できたばかりの林道を使って気田に移住された。
 過去、私は山行の途上多くの僻村を訪ねたが、人々の待ち望んだ林道が開通し、都会と結ばれて便利になった途端、人々は僻村の生活を守ることなく都会に移動して行く。それまで我慢していたものが一気にあふれ出すようにである。

 この文章を書くために、91年頃、春野町気田の藤原さんのお宅に電話した。そのとき、都会ではめったに聞かれぬ、無垢ですずやかな声のお嬢さんが電話口にでられた。声ほど、その人柄を端的に示すものはないと私は思う。美しい心の持ち主は美しい声をしている。

 「いつ移住したのですか」とたずねると、「20年前です」と答えられた。1975年頃である。
 おそらく教育のためにちがいない。戦前、京丸のような地は、義務教育が免除されていたらしい。だが戦後、そのような特例はなくなった。

 京丸には老夫婦が残った。そして、1980年3月5日、18代忠教氏が83年の穏やかな生涯を終えられた。それが600年の年月に堪え残った、美しくも静かな山里の終焉であった。

 登山へ

 1991年2月2日の午後、京丸山に登るつもりで名古屋をたった。ずいぶん寒い日だった。

 天竜市から国道362号線に入り、春野町役場のある気田から水窪町方面の標識に従って左折すると、狭くて長いトンネルを抜けて再び気田川に出る。発電所のアーチ橋を渡らずに、狭いが舗装された林道を走ると、しばらくで石切の部落に出た。

 夜8時頃だったが、数十戸のうち電灯の点る家は2軒しかなかった。清潔な部落だったが、人の臭いがない。
 その晩、すでに廃校となった小中学校分校の運動場に車泊した。隣にあった部落の中心部の茶畑は、みかけはきれいだったが、葉が薄く伸びていた。茶は大量の施肥を必要とする。施肥せずに放置した茶は野生化し、木の葉のように薄く長く伸びるのである。こうなると商品にならない。

 静かすぎるほどの一夜が明けると、はりつめたような冷たい朝がやってきた。
 京丸山への登路は知らなかったが、2・5 万図のポンジ山方面の稜線に点線路があったので、それを辿り稜線のヤブを詰めようと考えた。

 分校から数キロ走ると林道が二股に分かれ、その両方にゲートがあった。両方とも閉まっていた。躊躇せず、そこに車を置いて左手の洞木沢林道を歩きはじめた。
 ただちに、皆伐地がいたるところで無残な傷跡を曝していた。残されたブナ林の、恐怖の悲鳴が充満しているような谷であった。

 わずかに歩いて、林道は伐採地の集材場で行き止まりになった。そこから、さらに荒廃した林道を歩くと、道が再び二股に分かれ、しばらくで左手に鉄製の梯子がかかっていた。その梯子を登ることにした。本当の登山道が、林道の終点から始まることを、この時は知らなかった。

 これは、洞木沢林道終点の手前で左手の尾根に突き上げる点線路で、杉の植林地を縫うように、急な尾根を一気に稜線に向かって登る道であった。

 途中、熊の罠檻がしかけられていた。罠捕獲は、禁止されているはずだが、幸いドアは錆びつき、落ちる心配はなかった。
 罠檻は、水窪町の人が開発したもので、蜂蜜をエサとして熊を誘きよせるのだが、非常に効率よく捕獲できると水窪町誌が自慢している。

 ところが、熊の胆嚢は、乾燥重量価格が純金より高価で、猟師は目の色を変えて熊を追っているので、効率はただちに絶滅に結びつき、じっさい、月の輪熊が日本狼や日本カワウソに次いで絶滅する日は、そこまできているといえよう。

 踏み跡は途中で消えたが、かまわずに直線的に稜線に突きあげた。林道から、およそ1時間で稜線に達した。ところが、その先は濃密な薮であった。おまけに、雪も深くなり、薮と雪との戦いとなった。目印をつけながら進む。

 1363mのピークは、まるで運動場のように広い平原地形であった。古い皆伐地帯なのだろうか、一面の薮とスズタケに覆われ、目印をつけなければ、まず戻れない地形である。

 やがて高さ3mを超し濃密な剛生の、種類の分からぬバンブー藪になった。これまでどの山でも見たことのない屈強な代物だった。ひとたび侵入すると身動きがとれなくなった。最高点を求めて、およそ1時間も苦闘し、疲れはてた。

 元に戻って、バンブー地帯を迂回して京丸山に向かった。だが、やはり雪と笹と潅木の薮から逃れることはできなかった。しばらく歩いて精魂が尽きはてた。京丸山のピークは指呼の間で、おそらく300~400mだっただろう。だが、これ以上薮をかきわける気力を失い、撤退を決意し、元の道を下山した。

 帰路、天竜図書館に寄って、角川地名辞典に京丸山の項目があって、京丸から道があることを知った。次週、行かねばならない。

 2月10・11日は連休であった。日帰り登山には勿体ない。京丸山につながる稜線を、ツェルト泊で歩こうと思った。ところが、天は私のささやかな願いを踏みにじった。10日、巨大な低気圧が南岸を通過したのである。

 承知で、9日の夜、南アルプス深南部に向けて出発した。春野町を過ぎ、長尾で車泊した。京丸山の川根よりに、高塚山がある。尹良の首を祭った塚であることは述べた。そこへ行ってみたかった。

 中川根町から、赤石幹線林道(スーパー林道)に入り、秘境といわれる尾呂久保の部落を経由して山犬段に向かったが、蕎麦粒山の手前で林道が崩壊し、通行不能であった。

 空模様は極めて悪い。途中の大札山(1373m)に登ることにした。トイレの設置された広場に大札山登山口の標識があった。空身であせって登った。20分で山頂に着いた。まだ、朝9時前だ。

 こんなものは登山でないが、すてきな山頂だった。雪のなかに、たくさんのシカの足跡に混じって、掌の大きな若熊らしき足跡を発見した。
 頂上で、凄じい降雪がはじまった。私の足跡も、見る間に埋まってしまう。「とうとう、きやがったか」と呟いた。

 駆け降りても、帰路は激しい降雪に慎重さを要求された。ひどい大雪になった。島田図書館に寄って、尾呂久保の文献を漁ったが発見できなかった。

 その夜、雪は雨に変わり、相当な豪雨のなか、土砂崩れを恐れながら、先週泊まったばかりの石切の分校で車泊した。

 翌朝、年明け後では最高の登山日和となった。なにもかもがスカッとしている。おまけに、京丸へ通じる林道のゲートは開放されていた。

 未舗装の林道は、ひどく長く感じた。石切から10キロ近くも走っただろうか、林道が真っすぐと左に上がる分岐になっている場所で、「左、藤原家」の標識があった。

 深い山中に、突然部落が出現した。左手には、天然記念物級の巨大な杉が直立していた。右手に、写真で見たことのある藤原家が、落ちついたたたずまいを見せている。静謐とは、このような光景をいうのだと思った。
 伝説の京丸ボタンは、藤原家の庭から見える正面のボタン谷に咲くはずであった。

 京丸ボタンについての文献は多い。江戸中期の、「煙霞奇談」、「遠山奇談」、「雲萍雑誌」などや、滝沢馬琴の文章によって、60年に一度、京丸ボタン谷に、カラカサほどの大きさの白いボタンの花が咲くという京丸ボタンの伝説が、当時の民衆に広く伝わった。

 当時から、幻のボタンの正体を推測した文章は多い。馬琴は、8世紀に東蒙古から献上されたフカミ草(山ボタン)だろうと書いている。
 牧野富太郎はホオノキ説を書き、他にも、シャガ・クマザサ・マタタビ・シャクナゲあるいは「花かずら」の著者、鳥居純子氏らの努力によって天然記念物に指定され皆伐をまぬがれた、この山の稜線にあるヤシオツツジ(曙ツツジ)の大群落とか、様々の説が憶測のみによって書かれている。

 誰も実際に調べたものはいない。だが、京丸藤原家の先代忠教氏は、1913年5月のある雨の朝、ボタン谷にそれをはっきりと見た。

 ボタン谷上部の大きな岩の上に、カラカサほどの大きさの白い巨大なボタンが、3段になって咲いていたという。
 忠教氏は寡黙な人であった。この人を知る誰もが、大袈裟な表現とは無縁の、重厚な人物であったことを証言している。それは、ま ちがいなく巨大なボタンであったと私は思う。

 藤原家の庭先に立って、岩岳山を見ると真正面にボタン谷があった。だが、このとき、私は怒りに震えることになった。
ボタン谷は、皆伐されていたのである。

 あったのは、トラ刈模様のハゲ谷であった。なにをか言わんや。そのとき、ひとりの山林労働者が通りがかった。

 「あれがボタン谷ですよね。いったい、いつ伐採したんですか。」
「もう、3、4年も前さね。もうすぐ、左の大きな谷も伐採するだに。」
 「伝説のボタンを保存しようということを、誰も言わなかったんですか。」

「そりゃ、営林署の役人は、切らなくば仕事がなくなってしまうからさ、ボタンより仕事ずら。保存なんて言いだした日にゃ、全部保存しなけりゃおさまりがつかねえだら。」

 日本の営林事業は、とっくに経済的に死んでいる。いたる所でそれを証明できる。日本は、輸出産業の利益のために、農林水産業を売り渡したのである。
 林野庁の事業は、もはや育林ではなく、解決不能の巨大な債務の処理だけなのだ。そのために、未来への遺産を無感動に食い潰していかざるをえなくなっているのである。

 伐採事業は、役所とそれに寄生する役人の存在理由を失うまいとして、膨大な自然破壊を代償に、存続させられているにすぎない。
 だから林野庁は、ただちに巨大な官僚機構を解体し、せいぜい林野局程度に縮小して植裁地の保全のみに専念させなければならない。子らの未来のためにである。これ以上、大切なものを失ってはならない。

 若者の山離れが進み、山の実情が知られなくなって久しい。「知らぬが仏で」、このようなヒト気の無い山では、やりたい放題の劣悪な皆伐が進行しているのだ。だから我々は、このような現実を広く知らしめ、林野庁の解体に真剣に取り組まねばならない。非力ながら、拙誌もお役に立ちたいと願っている。
 しかし今は、伝説のボタンの所在が皆伐地から外れていることを祈るしかない。

 藤原家は、旧家を絵に描いたような品格のあるたたずまいである。まるで昨日まで人が住んでいたかのように、玄関脇の犬小屋には主の無い首輪が残っていて、木戸には白菜の葉が落ちていた。自家発電設備もそのまま置かれている。ということは、どうやらときどき帰宅されているようだ。

 表札には、藤原忠教と書かれていた。裏へ回ると墓があって、そこに16弁の葉菊が刻まれていた。木地師のものと同じだ。

 林道の東には、樹齢千年を軽く超すであろう巨杉が、数本吃立している。その向い、藤原家の下には、新鸞上人筆の阿弥陀画像が安置された阿弥陀堂がある。

 京丸には新鸞も訪れていた。かつて、ここにその古式を伝えた礼祭があったという。今は、美術品泥棒の被害だけが心配である。

 藤原家の木戸の脇に、京丸山登山口の朽ちた道標を見つけた。

 そこから続く良い山道を行くと、左の尾根に登る分岐があって再び道標があった。それに従って左へジグザグに登っていくと、樹林帯を抜けて広大な伐採跡地に出た。そこからは、イバラの荒廃した踏跡になった。

 陽光に恵まれた皆伐地は、植物遺体の腐蝕分解が急速にすすみ、富栄養化する。すると、そこにはバラ科のトゲ木が繁殖するのである。
 このような場所を通過するには、厚い革の手袋と、厚手の、刺を通さない服装を準備しなければならない。だが、このときは、トレーナーに軍手と軽装だったので、泣くことになった。

 しばらく苦しんで、廃道化したこの枝尾根をつめて上の支尾根にでると、植林地帯の良い踏跡になっていた。これは伐採跡地を避ける良い迂回コースで、労せずに藤原家に達する。下山時に、ポリ紐の標識をつけておいた。

 これを詰め上がると、洞木沢から京丸山への主尾根に出た。目の前は、藤原家の前の林道の終点であろうか、駐車場のような広場になっていた。ここから、十分に手入れされた 立派な登山道が、頂上まで続いた。どうやらこの道は、先週歩いた洞木沢林道の終点から始まっているらしい。

 誰もいない静かな山々に、啄木鳥のリズミカルな音がこだましている。雪道になった。
 途中、ヤシオツツジのある痩せ尾根で緊張する箇所もあったが、藤原家から2時間ほどで、山頂に着いた。素晴しい日和である。珍しく汗だくになった。

 頂上はヒザまでの雪に覆われていたが、10畳ほどの小平地で、立派な標識が遺されている。展望は、良いとは言えない。わずかに見える山々も、なじみがないので同定できない。雪の様子から見て、私が本年初登頂のようだ。
 1920年に、この地域を旅行し、この山頂に立った伝説の山旅人、折口信夫は、歌集「供養搭」を遺している。

 人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり。
 道に死ぬる馬は仏となりにけり。
 いきとどまらむ旅ならなくに  山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅びとの墓
 ひそかなる心をもりて をわりけむ。
 命のきはに、言ふこともなく ゆきつきて
 道にたふるる生き物のかそけき墓は、草つつみたり

 先週登ったポンジ山方面の尾根を見ると、見覚えのある引き返し点が、手の届きそうな身近にあった。もったいないことをしたものだ。だが、登ってしまっていたら、京丸の里を見ることもなかったかもしれない。見てしまったおかげで、ひどく熱を入れた紀行文を書くはめになった。

 下山は、さきほどのイバラの廃道を迂回して、藤原家に戻った。念願の登頂に、ゆたかな満足感を覚えた。
 5月にくれば、ヤシオやシャクナゲの夢見るような美しい群生花を堪能できるという。天然記念物に指定されたアカヤシオ・シロヤシオの大群生地は、向かいの岩岳山にあり、小俣京丸から登ることができる。必ず訪れるだろう。

 91.3著 その後、京丸山には2回登頂した、計4回登ったことになる。岩岳山も3回訪れた。

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