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修験道 その2

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 修験道 その2

 山伏

 修験道の行者のことを山伏と呼ぶ。本来は「山に臥せる者」という意味で、「サンガ」と呼んだらしい。

 となると、謎に包まれた山岳漂白民であった山窩(サンカ)との関係を知りたくなるが、両者には、単なる文意を超えた大きな関係があったように思える。

 それどころか、中世の山伏は、宗教よりも軍事に真価を発揮していて、日本軍事史の観点から見るなら、サンカとともに、興味の尽きない驚くべき事実が浮かびあがってくるが、ここでは、サンカを特徴付ける移動式天幕と騎馬民族のパオとの類似、またウメガイと呼ばれたサンカ式刃物が騎馬民族特有の直突式の剣であることを指摘し、サンカの生活文化が騎馬民俗の片鱗を持っていることを指摘しておきたい。

 農耕民族だったなら、その刃物は稲科植物の刈り取りに適した曲刀なのである。直刀は騎馬戦で相手を突く戦闘スタイルのために生まれた様式である。

 際だった特徴としては、山伏・木地屋・マタギが「山の尾根に住む人」であったのに対し、サンカは「山の谷筋に住む人」であって、明確な相違があることを理解する必要がある。
 マタギが東北にまで至る高所の尾根筋を活動舞台にしたことに対し、サンカは南西地方の竹類の自生する暖かい谷筋で生きてきたのである。


 宮家・和歌森の修験道研究を読まれた方でなくとも、中世の権力抗争に山伏の姿が欠かせないことを誰でも理解しておられよう。。
 義経・弁慶が、頼朝に追われて山伏として逃げのびる姿はドラマでおなじみだし、太平記に登場する後醍醐の縁者もまた山伏に身をやつした。

 天皇家の権力が形劾化してゆく過程で、それと結びついていた比叡山や高野山では、本来の仏教よりも、むしろ修験道の勢力の方が強くなってゆく。
 というのも、権力抗争が激しくなってゆくと、寺院も否応なしにそれに巻き込まれ、強力な軍事力を確保して自衛せざるをえなくなってゆくからである。

 延暦寺・平泉寺(天台宗系)や興福寺(真言宗系)には僧兵と呼ばれる強力な軍事集団が出現し、京都の権力抗争を舞台に激しい争いを演じた。
 仏教思想は、本来争いを好まないものであって、軍事力の増大には神道も含めた修験道の方が向いているのである。

 山伏は山岳地帯での激しい修行を通じて得た能力によって、中世の戦争に欠くべからざる軍事要素となった。
 戦争に加わった山伏の任務は、勝利を祈念する加持祈祷はもちろんであったが、伝令や、後に忍者と呼ばれるようになる撹乱者(乱破・素破)として専門的な役割を担うようになる。

 霧隠才蔵の伝説で知られる戸隠忍者の祖が山伏であったことには明確な証拠があり、伊賀・甲賀・根来などの忍者の祖先も熊野大峰の山伏であったらしい。
 それは、伝承された忍者のイメージが、本来は超能力的な呪術(あるいは道術といってもいい)を基本としたスタイルであったことからも窺える。

 そして注目すべきことに、サンカが、京都の乱破道宗という名の忍者の元締の差配下にあったという事実が存在していて、このことは、サンカと山伏の関係について明確な意味を与える。

 初期の山伏には、律令体制から逃亡した非騎馬民族系の隷民が多く含まれていたと考えられる。サンカにもまた、渡来人から追われた日本西南部の原住民も含まれていた可能性もある。

 騎馬民俗式の移動式天幕・ウメガイとともにサンカを特徴づける竹利用民俗については、騎馬民俗と直接結びつけられそうもない。
 それは、明かに暖かい地方、南西諸島・西日本の土着民俗といえよう。
 すなわち、サンカには弥生人の文化と騎馬民俗の文化が混在している。

 山伏の活躍した舞台は、同時に木地屋やマタギの舞台でもあった。

 木地屋は、2500年前の弥生人系渡来人のもたらしたロクロ技術に依った職人集団だから、遠くヒマラヤ山麓から伝播した人々であったように思われ、山伏との関係について示唆を与える面白そうな資料は少ない。

 だが、マタギについては、その伝承された呪法に、修験道の明確な影響が見て取れる。
マタギの集落のうちには、山伏を祖とする伝承をもつところが少なくないのである。

 マタギの生活文化は明らかに蝦夷(えみし)・縄文人の末えいを示すものである。
 しかし伊豆の「万二万三郎」伝説のなかでは木地屋の伝説が登場してくるので、山深い尾根上の長い歴史の中で、木地屋とマタギと修験が融合していったものであろう。

 山伏は全国の険しい山岳にでかけ、そこで修行することによって民衆であることを超脱し、特殊な呪術の能力者になった。
 そして、それは社会体制のうちに組こまれた権威の秩序とは異なって、権力者によって評価されることがなく、呪術によって疫病や飢餓などの災厄から民衆を救うことでその存在価値を得たのだろうと思われる。

 その思想は徹底的に現世利益的であって、密教と道教のもっとも本質的な部分を継承している。それは決して利他を本願とする大乗ではない。むしろ小乗というべきである。

 それを、ひとことでいえば「呪」ということになろう。すなわち、シャーマニズムである。呪術が重んじられ、山伏が勢力を得た大きな理由は、平安時代に中国から輸入され、道教の構成要素であった「陰陽道」の影響が大きかったにちがいない。

 10世紀末に登場した陰陽士で天文博士の安部晴明は、小角に比肩する超能力者であった。方術と呼ばれたその能力は、平安貴族に恐れられ、呪術への大きな信仰を育てた。
 現在に残る、鬼門など禁忌の思想は、この頃につくられたものである。それは「祟り」という観念から生まれたものであった。

 平安貴族は人間の超能力に恐怖し、「祟り」を恐れて死刑すら廃止してしまった。それが体制の弱体化を招き、強力な武家集団に権力を奪われる原因になった。

 修験道山伏の修行の舞台は、役の行者の修行した葛城山からはじまったと考えられよう。
 しかし、「日本霊異記」の小角の伝承のうちに、「葛城山と(吉野)金峰山との間に橋を架けた」という記述があることから、この時代には、吉野大峰にもすでに雑密修験者が存在したと思われる。

 後に、天台宗系と真言宗系の密教系修験僧が、吉野と熊野を結ぶ大峰山脈において呪法の修行に励むようになると、彼らは本来の仏教を離れて、神道に傾いた独自の宗風をつくりだし、多くの流派がひらかれるようになる。

 修験道最大の拠点となった吉野には、真言系元興寺の僧、神叡が虚空蔵菩薩の信仰をもとにして自然智宗をひらき、山上ヶ岳では、真言宗小野流の聖宝が恵印法流をおこし、熊野では天台系の僧がいくつかの流派をひらいた。

 これらの記述をはじめると無意味な羅列が続くので、興味のある方は、宮家準と和歌森太郎の修験道研究書を読んでいただきたい。
 ここでは、必要最小限のアウトラインを記述するにとどめたい。

 大峰山脈の両端である吉野と熊野には、それぞれ修験道を代表する拠点が成立した。おおざっぱにいえば、三井寺を中心に据えた熊野三山(本宮・新宮・那智)は天台系修験の拠点となり、本山派と呼ばれるようになり、吉野金峰山寺を中心に据えた大峰山は真言系修験の拠点になり、当山派と呼ばれるようになった。

 この両者は互いに対立し、宗風もかなり異なったものになった。外見上も、本山派が総髪であったのに対し、当山派は剃髪していた。したがって、この髪型で、どちらの系統かおおよその見当がつくことになる。

 この両者は、修験道の草創期から分化対立し、修験道界の二大派閥となる。徳川家康は、数十もあった修験流派をこの二つに集約して統治しようとした。明治初期に、修験道が邪教とみなされ強制的に解散させられたときも、すべての山伏は真言宗と天台宗に帰依するか、さもなくば還俗するよう迫られたのである。

 修験道の儀礼宗風も両者で異なるが、基本的に共通するものだけを簡単にとりあげてみたい。
 初期の土俗的な修験儀礼は、中世の二大派閥の対立によって琢磨され、時代とともにスマートなスタイルが完成してゆく。

 修験道が拠りどころにした教義は、天台本覚論・法華経典・華厳教・山王一実神道・両部神道などであった。それらから「修験修要秘訣」などの教義が生みだされ、山伏の修行スタイルが定められた。
 修行道場の大峰山は、密教的解釈からは曼陀羅の金剛界(吉野側)・胎蔵界(熊野側) とされ、法華思想では、葛城山を法華峰とし熊野を阿弥陀浄土とした。
 崇拝対象は、最高位の奥座に大日如来をおき、前座には不動明王あるいは金剛蔵王権現がおかれた。ときに、金剛蔵王権現は役の行者の化身として崇拝された。

 修験者は、自身が宇宙とされ、我が身に内在する大日如来を感得することが修行の最終目的であるとされる。

 これは、修験道にとってもっとも大切な基本認識で、修験とは、わが内なる仏を呼び醒ます(験ずる)ものなのである。そして、仏(同時にその権現である神も含む)が意識に現れることによって、さまざまの超能力を得ることができるようになると信ぜられた。

 山岳修行を峰入りというが、中世以降には、これに厳しい作法が要求されるようになった。
 峰入り修行は、華厳経にもとづく十種の成仏過程を経ることになる。
 すなわち、①地獄・②餓鬼・③畜生・④修羅・⑤人・⑥天・⑦声聞・⑧縁覚・⑨菩薩・⑩仏の十界が人のおかれる姿であって、それぞれに、以下の修行が行われた。
 修験者でない普通人は、1から6までの六道を輪廻するとされ、7から10までは、先達クラスの修行である。

 ①床堅(峰入りの最初の行で、棒で新人の身体を打ち、自分のうちに大日如来を感得させる)
 ②懺悔(新人が、先達に自分の行ってきた罪業を告白懺悔する)
 ③業秤(新人を紐で縛り、吊りあげて罪の重さを量る)
 ④水絶(洗顔や飲水など水を断つ)
 ⑤閼伽(水断期間の後、水を汲ませ祭壇に供える)
 ⑥相撲(新人どうしで相撲を取る)
 ⑦延年(楽しい踊り)
 ⑧小木(護摩に使う木を取る)
 ⑨穀断(一週間の断食)
 ⑩正潅頂(護摩木を先達に渡すのだが、キリスト教の洗礼にあたる)

 注目すべきは、修験道は、人間にレッテルを貼って固定した姿で見るのではなく、もともと人間というものが地獄と仏の間をさまよう危ういものだという認識をもっていたことである。

 ついでにいえば、相撲がもともと山伏の修行であったことを知る人は非常に少ない。これは、人より一段高い天の位置にある人間の修行として想定された。ウソのような話だが、峰入りでは本当に相撲を取るのである。
 大峰では、最終段階の修行としての正潅頂を、大日山(釈迦ヶ岳の属峰)にある深仙の潅頂堂で行う。そこで大日如来の秘印と秘法を伝授され、成仏修験が完成するとされた。

 成仏には①始覚・即身成仏、②本覚・即身即仏、③始本不二・即身即身の三種あるとされ、前二者は顕教の成仏であり最後の即身即身こそ修験道の成仏であるとし、その意味は、自らの内に大日如来が合体した状態、つまり人仏一体の状態という認識であった。
 これらの具体的内容は煩瑣にすぎるので、これくらいにしておく。

 大峰で生まれた修験道は、山伏によって全国の山岳に拡大していった。山伏はマタギと同様、大峰から津軽まで里に一度も降りることなく山上の峰を自由に往来し、戸隠や月山など険しい山を見いだすと、そこを修行の拠点にした。

 大峰以外で、修験道の一大宗派が成立した場所は、九州では彦山(宇佐)であり、これは古い両部神道の八幡信仰が土台になったものである。他には、羽黒三山(山形県の月山付近)が東北修験道の一大中心となり、ついで日光にも宗派が成立した。

 羅列すれば、戸隠・榛名・三峰(雲取)・大山(丹沢)・御岳(青梅)・立山・富士・御嶽・古峰ヶ原・秋葉・白山・金華山・岩木山(津軽)・後山(中国)・大山(山陰)・石鎚・剣山(四国)・宮地・阿蘇・霧島(九州)などが、流派の成立した行場であった。

 このとき注意しておかねばならないことは、江戸期から現代に至るまで全国の修験は真言宗派と天台宗派に系列化されてしまっているが、これは江戸初期、家康があらゆる集団を二分化させて対立させ、その上に幕府権力が仲裁的に支配するという政策をとったことによるもので、実際には、宇佐・叡山・大峰・羽黒といった巨大修験組織は後に押しつけられた系列とは無関係の独立した歴史を持っているということである。

 山伏が峰入り修行を行うとき、大峰の麓にある拠点の寺において、俗衣を脱いで法衣を身につける。
 法衣は、普通カンマン衣と呼ばれるもので、背中に不動明王の種子を表すカンマンが描かれている。これを着ることで、山伏は不動明王を感得するということである。

 これは宗派によって多少異なっていて、羽黒山伏では背中に獅子が描かれ、百獣の王の霊力を身につけるということになる。

 山伏の正装は、弁慶人形などでおなじみだが、法衣や法具にはそれぞれ意味が与えられている。
 額の頭巾は、大日如来の五つの知恵を意味する宝冠であり、頭に載せるハンガイという黒いシャッポは、子宮の中の胎児を意味し、鈴懸・袈裟は金剛界と胎蔵界の宇宙、貝の緒は山伏のヘソの緒、笈は母胎子宮、ホラ貝は大日如来の説法という具合に意味が付与されているのである。
 胎児にまつわる法具が多いのは、山伏の峰入りが受胎から誕生までを寓意するものだからである。

 山伏の修行の内容は前述したものの他に、恐ろしい断崖絶壁の上に綱で吊るして懺悔させたり、身のすくむような絶壁を通過させたり、冷水に打たれたりと、とにかく人間の恐怖心を克服させるものが多いが、ハイライトはなんといっても護摩行である。

 護摩は導入部に書いたように、ゾロアスター教・道教・密教に共通するもので、その意味にはいろいろの解釈があるが、基本的には煩悩の焼却と不動明王の感得ということになろう。
 護摩行には興味深い歴史がある。

 先頃、私が戸隠の乙妻山に登ったとき、高妻山の手前の峰で山頂の笹原が四角く切り開かれ、角に杉の小枝がさしてあるのに気づいた。
 これが峰入りの護摩行場であった。大峰の奥駆道でもときどき見かける。

 護摩に焚きこむ木には檀木・乳木・添木の三種類ある。檀木は香木のことで、本来は白檀を使うが極めて高価なので、実際には香りのある乳木を利用し、それに抹香の丸薬を投入するが、これも高価な竜涎香の代用である。

 乳木は甘い香りのする乳のある木で、カジ・ネム・桑・柏などが使用され、一本の長さが約20センチに切り揃えられ、香料が塗られる。添木は、火力の補助である。

 乳木に塗られる香料は、ショウガ科のウコンの葉と、沈丁花にシキミ樹皮を混ぜた抹香からつくられる。
 ウコンは、カレーの材料になるターメリックという黄色い色素の原料だが、実は、これは道教のシンボルカラーで、赤とともに道教に欠かせぬ色なのである。(例えば、太平道などの影響による黄布党の乱などに同盟色として使われた)
 これらの香料には幻覚陶酔性があった。

 古くは、これに麻の芽を乾燥させたものを投じた。つまり大麻である。
 今日栽培される麻は、毒成分を除いた品種だが、麻は先祖返り傾向が非常に強く、放置すれば数年で麻薬成分が復活してしまう。

 山歩きをしていると、故意か野生種かは知らぬが、谷あいの小平地などに麻の群生を見ることが多い。私はこのような麻を燃した煙を吸って、「毒性」を体験したことがある。
 私の経験では、色彩感覚が非常に鋭敏になり、時間がゆっくり流れていくような気分になった。とても心地よいものだが、陶酔というほどのものでもない。
 ただ、自己暗示にかかりやすくなるのはまちがいない。

 多用すると性格に凶暴性が現れるという。単に麻薬効果だけなら、麻薬取締法の対象にならないヒカゲシビレタケなどの菌類麻薬に及ばない。
 このような煙を吸って、行者は陶酔と法悦の境地にはいり、大日如来、すなわち宇宙と自分を一体化させるのである。

 古来、道教の漢方医療の影響を受けた修験道には、古い医薬の歴史がある。日本で普及した大衆薬には、山伏の薬が多い。
 大峰には小角直伝とされる陀羅尼助があり、その原料はキハダであって、生薬名はオウバクというが、これは吉野にあるオウバク宗萬福寺というひとつの宗派さえつくりだした。

 木曾御嶽の百草や、山陰大山の練熊もほとんど同じ薬であって、大峰の山伏がもちだしたものであろう。
 これらの薬には、はじめの頃にはケシ汁や熊の胆も含まれていたらしい。百草には明治までケシ科のコマクサが用いられたが、おかげで日本の高山からコマクサの姿が消えてしまった。

 コマクサには鎮痛効果があるが、ケシに比べれば微々たるもので、ケシ科植物にはいくらでも取締法対象外の鎮痛成分の植物があるので、興味のある方は研究されたい。
 くれぐれも、コマクサを採らないでいただきたい。今でも薬草として採集を薦めている図鑑があるのは困ったものだ。

 これらの薬は日本の代表的な大衆医薬になったが、これを行商したのは、熊撃ち猟師のマタギであった。その成分も、キハダ・熊の胆嚢・ゲンノショウコ・センブリなど山伏薬に共通のもので、マタギと山伏の関係を示唆するものである。
 今日、売薬行商の伝統をもつ富山などの地域は、また、マタギや山伏と密接な関係を持った地域であった。


 修験道の危機

 これまで修験道について説明したことは、密教的側面のわずかな一端の概説にすぎない。拙文が目的としたものは、人類史と山岳民俗の観点から見た修験道の風景を朧ろに示すことであった。

 その意味では、いまひとつ神道の側面から説明しなければならないが、実は、これは困難なのである。というのも、役の行者以来の確乎とした両部神道修験道の伝統は、明治維新によって断ち切られてしまったからである。

 本来、修験道は明治以前まで、もう少し神道の側に傾いたものであったらしい。
吉野には水分(みくまり)神社があり、農耕民族による水源地を敬う宗教儀礼として神道の原型になったと考えられる。

 私は、山伏を縄文人の宗教儀礼に深くかかわるものと考えたいが、民俗学者の一般的な解釈は柳田国男・折口信夫説を支持するものであって、以下のような素朴な稲作農耕儀礼との関連を論じている。

 大峰の山上の洞窟で冬篭修行を行った山伏は、春に石南花の花を持って里に降りてくる。
 麓の農民は、この山伏を、極めて強い霊力をもった山の神が憑いた行者として敬った。そして、山伏が花を田に投げ込むことによって山の神が田の神に変化し、秋の稲刈まで農耕を守護すると考えた。

 稲刈の後は、再び山伏が神を山に持ち帰り、今度は水源を守護する山の神としてふるまうというわけである。
 吉野水分(水源)の神は、女の子守神(その本地は毘沙門)と男の勝手神(本地は不動明王)とされ、これから金剛蔵王権現が生じたとされた。

 また、天照大神以下の神社神道の諸神についても固有の儀礼があったようだが、資料が乏しいので説明できない。これも、興味のある方は宮家準の研究書を参考にしていただきたい。

 これらの伝承をもとに考えれば、修験道の土台になった道教・密教・神道ともに弥生人・騎馬民族によって日本に持ちこまれたことも併せ、修験道は弥生人起源の宗教ということになろう。

 しかし先に述べたように、東北マタギなどの山岳民俗に現れる修験道の影響は、明らかに縄文人との積極的な関係を示唆するものであり、この両者が修験道にあってどのような関連があったのかはまだ日本史の謎であって、現段階で結論を見いだすのは困難に思える。

 私自身は、修験道は、渡来人の主流から外れ、仏教の裏街道をゆくアウトサイダー求道者によって創設され、これに加わったのが縄文人の末えいであったという仮説を提唱しておきたい。ただし、明確な証拠を得ているわけではない。
(弥生人・縄文人ともに太古の考古学上の話だと思っておられる方がいるとすれば、それは大きな誤りである。

 騎馬民族は天皇家や源氏平家を生み、武家支配階級の本流となった。例えば、歴史上の名だたる武将に、縄文人の形質を持った人物がどれほどいるだろう。家康など極小数の例外を除けば、ほとんどが騎馬民族と断言できる。

 縄文人・弥生人は町人農民などの一般大衆であって、騎馬民族との間には明確な階級分化と地域分化が続き、婚姻などで融合した例は極めて希である。その体制が事実上崩壊したのは、やっと明治維新によってなのである。

 明治以降も、地域・交通などの諸条件の制約によって、思われるほど混血していない。本格的な混血がはじまったのは交通革命の起こったこの数十年のことにすぎない。
 したがって、日本人の中の渡来人と縄文人の分化は、我々が想像する以上に大きなものがあり、例えば、明治権力の軸になった、縄文人の薩摩人と、騎馬民族の長州人の人相骨相の決定的な違いは、シーボルトやベルツでさえも気づき、すでに幕末に、日本には二つの民族があると提唱しているほどである。

 実際、日本のあらゆる文化伝統を注意深く眺めれば、そこに必ず縄文人と渡来人の違いを見いだすのであって、血液型・抗体・体毛・人相・体型・性格など生理的・精神的な形質にも、明らかな潮流が存在する事実は、最近ますます注目されているのである。)

 中世、山伏が忍者の祖となって、独自の軍事的意味をもっていたのはすでに述べた。山伏の神秘的な力は民衆に大いに恐れられ、武家はこれを大いに利用した。
 ところが、江戸時代を迎えて、社会にはじめてといっていいほどの安定がもたらされると、幕府にとってその存在は脅威になった。

 そこで家康は、脅威をもたらす可能性ある集団に対して彼一流の支配政策をとった。すなわち、将来団結によって社会不安の原因になりそうな集団は、すべて二つの集団に分化してしまったのである。

 そうすれば、それは必ず、団結よりも対立に傾くことを家康は知り抜いていた。
 まず、家康がもっとも苦しんだ一向宗の本願寺を東西の二つに分けることによって、強大な浄土真宗門徒を分割し、対立させた。これによって、真宗門徒は一門の拡大よりも東西の抗争に終始することになった。

 神道についても、天皇家と結びついた白川神祇伯家以外に幕府よりの吉田神道家を創設させた。これも、御師や木地屋などに大きな対立をもちこんだことは民俗に詳しい方ならピンとこられよう。

 他にも、二流併設の事例は多いが、修験道の場合は、以前からあった当山派と本山派の二流以外の宗派を禁じ、彦山派や羽黒派、日光派などもどちらかに加入するよう強制された。
 これによって、修験道の本流はこの二派に絞られたのである。

 余談ではあるが、この二極対立化政策は家康の政道の基本におかれ、もっとも成功したもののひとつであった。これは人間集団を支配するための普遍的な方法であって、権力者の常套手段である。

 例えば、戦後もっとも大きな大衆運動であった原水爆禁止運動がまきおこったとき、社会党と共産党の二極対立があって、共産党が「社会主義国の核兵器は、人民の利益のためのものだから正しい」と主張して運動を分裂させてしまい、それで崩壊してしまったのは滑稽な事例といえよう。

 組合運動つぶしのもっとも効果的な方法が、いつまでたっても第二組合つくりであることを思うとき、対立こそ人間支配の本質であるといえるほど、人間性の本源に迫ったメカニズムであることを理解できよう。
   
 修験道における二極支配も、幕府の狙いどおり効果を発揮し、修験道の発展は停滞し、山伏は当山派と本山派の対立に明け暮れるようになった。したがって、この時期に修験道を輝かせたのは、これら以外の地方の修験者であった。
 槍ヶ岳の播隆、御岳の覚明・普寛などがそうである。

 「神は仏の仮の姿」と考える本地垂邇説を基本においた修験道は、明治初期、「神は仏とは無関係に日本固有の絶対神である」と主張する、「平田国学派」と呼ばれた人々によって、激しい攻撃に曝されることになる。

 政治の安定した江戸中期に、武家ではないが、町人・庄屋・医家など向学心のある比較的恵まれた階層の人々の間に、体系的学問の機運が盛り上がる。
 その対象は今日と変わらぬほどに様々であり、数学などは同時期の西洋のレベルを凌ぐほどの優れた内容をもっていたことが知られている。

 明治になって、長期の鎖国にもかかわらず、非常に短期間のあいだに学問水準が西洋のレベルに追いついた理由は、江戸中期の和学ルネッサンスの蓄積があったからである。
 国文学・歴史の分野でも、古事記や日本書紀の研究志向が生まれ、新井白石らによって議論された。亨保年代に荷田春満によって、記紀を土台にして日本国家の出地を明らかにする研究が提唱された。

 荷田の研究は賀茂真淵に受け継がれ、「万葉集の精神に帰れ」とする復古国学を成立させた。弟子の塙保己一は文献学の開祖となり、国学は日本中のインテリの注目する学問的土俵となった。

 真淵の弟子となった本居宣長は、古事記の研究を集大成し「神道の復権」を主張した。その門人の平田篤胤は、江戸末期を迎えて「復古神道」を打ち出し、「世の中が乱れるのは、武家が神道をおろそかにしたせいだ。天皇に権力を返し、古代の精神に帰ることによってしか日本は救われない」と説いた。

 この説は、武家支配の圧迫に不快感を抱いていた全国の庄屋・町家のインテリ階層に熱狂的に支持され、「再び天皇の世に戻せ」とする尊皇論は、武家支配打倒イデオロギーの根幹になり、明治維新を生み出す原動力になっていった。

 薩摩・長州の人々による権力奪取劇は、維新のほんの一端であって、氷山の頂部にすぎない。その巨大な基盤は復古神道論によって形成されていったのである。ゆえに、維新の真の立役者は、実は本居宣長・平田篤胤という見方もできる。

 島崎藤村の「夜明け前」では、実父の正樹(青山半蔵)のドギュメンタリーに、その様子の一片をリアルに見ることができる。

 ただし、日本国家の原点としての純粋神道を説いた平田説は、紀記神話の虚構を素直に信じた滑稽な奇説である。
 神道をつくった日本の支配階級が朝鮮から渡来し、神話をでっちあげたという真実が明らかにされたのは、昭和初期の津田左右吉の研究が端緒であり、それが弾圧を受けずに自由に語れるようになったのは戦後のことにすぎない。

 だが、いまだに天皇家の虚構性を認めたがらない権威信仰家が大勢いて(とりわけ文部省の官僚に)、すでに証明されたこれらの事実ですら、教科書には決して載らないのである。
(教科書が事実を教えるようになれば、ほとんど狂気の、音による嫌がらせで自己満足する右翼・暴走族の迫害からも少しは軽減されるにちがいない。すくなくとも、人の上に人がおかれるというバカげた妄想から解放されるだけで、どれほど多くの人々が救われることだろう。)

 維新なった明治政府は、開国による欧米列強の圧迫に対抗してゆくために、強大な国家主義イデオロギーをつくりだす必要に迫られた。

 明治政府の中枢にいたのは大久保利通であったが、彼も平田国学の影響下にあり、国学門徒を大勢政府に雇用した。明治政府は、新国家を統一する基本理念を天皇制信仰と、それを理論的に支える神道復権に求めたのである。

 天皇の意味や存在は一般民衆にはあまり知られていなかったので、それが超越的な権威であるという教育からはじめなければならなかった。
 現在も残る稲荷や氏神神社の信仰は、このころ明治政府によって整理統合され、神社神道として権威化したのである。それも天皇信仰の基盤つくりを目的としたものであった。

 かといって、政府官僚が真実天皇を畏敬していたわけでは断じてない。明治天皇の父親の孝明天皇などは偏狭な排外主義者で、開国にあくまでも反対したので維新派にとって邪魔になり暗殺されてしまった。殺害の張本人は、後に天皇制信仰を強力に推進した山県有朋と井上聞太だったといわれる。
 天皇は、国家主義のために利用されたにすぎないのである。

 (ついでに書いておくと、天皇家は狭い婚姻関係のなかで遺伝的に劣性因子が発現しやすく、孝明も明治も凶暴な異常性格だったといわれる。手をやいた政府は、山岡鉄舟などという怪物を養育係に任じて体裁を繕わせる。

 大正天皇が生殖能力を欠いていた事実は密かに語られてきたが、皇后には当然子が生まれず、なぜか女官に子が生まれ、それが昭和天皇になった。その父が誰であるのかをフライデーやフォーカスが追求していないのは情けない。)

 明治政府は、天皇制の優越至上を宣伝し、その根拠を紀記神話による神道理論に求めた。仏教は神道よりも下におかれねばならず、神道理論につじつまが合わず、都合の悪い神仏習合の両部神道は破壊してしまわねばならなかった。
 修験道は、全国の山岳信仰である両部神道を代表していたので、平田派による弾圧によって、突如存亡の危機に瀕する。

 1868年(慶応4年)、明治政府は神仏分離を強制する布告を次々にうちだした。これに力を得た平田門徒の影響を受けた民衆は、江戸時代、幕府権力の末端役場として戸籍管理、宗門管理などに機能させられていた仏寺への反感もあいまって、激しい廃仏棄釈の嵐のなかで仏教破壊に走った。
 両部神道の権現寺は、神社か仏寺のどちらかに帰依するよう強制された。山伏も、神官か僧のどちらかか、さもなくば還俗するよう強制された。
 天台宗系本山派の熊野三山は、神社になり、真言宗系吉野金峰山寺も金峰神社に包摂された。残った勢力は、本山派は天台宗の僧に帰依し、当山派は真言宗の僧に帰依していった。

 修験道は滅亡させられたかに見えた。
 しかし、山伏を吸収した仏教各派のなかで、どうしても仏教系の宗風になじめない修験者によって再興の機運が何度も起こった。
 だが、天皇制の思想的弾圧は強化される一方であり、それらが実体上復権できるのは、太平洋戦争の敗戦によって天皇が神の座から滑り落ちる日を待たねばならなかったのである。


 修験道系の民衆宗教

 修験道の主流であった本山・当山の勢力は明治維新に邪教として弾圧され、新政府によって宗教活動を禁止された。両派の行者は密教系の僧か神社の神官に転向させられ、習合神道の宗風は絶え、国家神道がそれにとって代わった。

 しかし、弾圧の網から漏れた小さな修験道系の宗派は、伝統ある山岳信仰の講中組織(霞・檀那)を基盤として、修験の宗風になじんだ民衆に支持され、かえって独自の発展を遂げることになる。

 白山・御岳・立山などの山岳信仰は、民衆生活の数少ないリクレーションの場として大切に継承されてきた。それは、明治政府の一夜の政令によって消滅してしまうほど脆い伝統ではなかった。

 ただし、富士講のように、もともと修験道から誕生しながら、後に平田国学派に掌握されて復古神道に傾いたものも少なくなかった。

 江戸を本拠とした不二道・実行教・扶桑教・丸山教などの富士講宗派は、明治以降、国家神道の忠実なしもべとなり、仏教排斥運動の主役として荷担した。
 また、御岳教のように、弾圧を恐れて本来の修験道の教義を捨て、国家神道に迎合する変節を遂げたものもあった。

 修験道の影響を受けた神仏習合系の民衆宗教の先駆となったのは、尾張熱田で1800年前後に勃興した「如来教」である。

 熱田区旗屋町の修験道講元に生まれたキノと呼ばれた女性は、幼くして両親と死別した後に中村区鳥森町の親戚に身を寄せたが、貧苦のため尾張藩士の家に女中奉公をする。

 奉公を辞した後に結婚に破綻し帰農したキノは、47才にして突然神がかりになり、「自分に金比羅大権現が宿った」と宣言した。

キノは祈祷術に優れ、病気や不和に苦しむ人々を大いに救った。キノの名声は尾張一円に広がり、如来教と名付けた宗派を成立させ、尾張藩士まで多く入信した。このあたりの事情は、天理教の中山ミキに似ている。

 キノの死後、教団は繁栄したが、明治維新の修験道廃止令によっていったん解散する。明治9年、曹洞宗の僧によって再建され、再び活動を開始したが、その教義に神仏習合が色濃く残っていたために、政府による神道統制によって弾圧された。
 
 天理教も幕末に生まれた修験道系の新教である。教祖の中山ミキも、如来教のキノや大本教の出口ナオと同じく天保年間に神がかりし、「自分にテンリンオウが宿った」とした。

 ミキは、富裕な中山家を施しによって零落させ、極貧の生活をおくり、ミキの祈祷にすがって集まってきた人々を救った。後に、吉田神道家の配下にはいり、「天輪王明神」として幕府に公認された。

 明治維新を迎え、天皇制の正当化のために国家神道が強制されるようになると、すでに確立していた独自の神道教義の変更を迫られ、高齢のミキが18回も投獄されるなどして弾圧されたが、むしろこの時期に天理教は大発展を遂げる。

 ミキの死と前後して、天理教は弾圧を免れるために国家神道に隷属する転向を行った。やがて国家神道下の公認宗教となったが、神話についての解釈の違いを当局に追求され、不敬をちらつかされ抑圧された。

 金光教も、天理教と同時期に成立した修験道系新教である。岡山県浅口郡の百姓、川手文治郎は、中国地方に信ぜられていた金神信仰(陰陽道系の祟り神)の信者であったが、金神の魔から逃れるために本山系山伏について修行を行った。

 1859年、文治郎は神意を聞いたとして金光教を創立した。金神の祟りは心から敬うことで解消でき、禁忌は存在しなくなると説き、民衆の悩みごとの相談にのり神意を伝えた。後に、白川神祇伯家の配下に連なる。
 明治維新後、信者は政府の弾圧を恐れ、国家神道に迎合してゆくが、文治郎だけは「天皇も同じ人間」と公言してはばからなかった。だが、その没後、幹部は本来の教義を捨て、国家神道に隷属する道を選んだ。

 大本教を創始した福知山の出口ナオも、1892年、突如神がかりして「自分に金神が宿った」とした。その教義は、復古農本主義であったといわれる。

 最初、金光教の傘下にあったが後に独立し、信者の上田喜三郎が出口王仁三郎と変名し、後継教主となって大きく発展した。王仁三郎は、もともと修験者であり、優れた呪術能力(霊能)を得て病気治しに霊験を発揮し、信者の熱烈な信仰を得た。

 王仁三郎は、記紀にもとづく国家神道の枠組みに一致する教義を示したかに見えたが、実はこれは見せかけで、その真意は、天皇家を打倒して新しい政治体制を構築することが世治しだとする、当時としては仰天的で激越なものであった。

 大本教は、1921年、大正日日新聞を買収し、大きな社会的影響力をもつにいたり、政府はこれを恐れ類を見ない激しい弾圧を行った。綾部につくられた神殿は跡形なく破壊され、幹部は不敬罪で投獄された。

 後に、1935年にも、近代宗教史上最大の弾圧といわれる第二次大本教弾圧が行われ、王仁三郎が政権奪取を企てたとして大逆罪で投獄され、さらに全国の大本教施設は残らずダイナマイトで破壊され、政府は大本教の地上からの抹殺を宣言した。理由は、大本教が昭和初期の軍部独走に強硬に反対し、反戦平和を訴えたからであった。

 だが、大本教の後継である「成長の家」など多数の教団は、現在では完全に右傾化し、天皇崇拝、軍国礼賛の国家神道系宗派に堕落している。
 
 天理本道「ほんみち」は、明治以降の国家神道の圧力に屈せず、徹頭徹尾、本来の教義を貫き、国家権力と対決した偉大な宗派であった。

 同様に弾圧に屈しなかった教団としては、牧口常三郎の率いる創価学会があったが、修験道系の宗派では、「ほんみち」以外にない。

 「ほんみち」は天理教の幹部であった大西愛治郎が、1913年に、天理教の国家神道への迎合と教義の歪曲についてゆけず独立した教団である。
 この年、愛治郎は教義に行き詰まり、神がかりして「自分は生き神、甘露台である」と宣言した。中山ミキのつくった神話をもとに、天皇家の異端を追求し、それを世間に配布したために、国家権力による激しい弾圧を受けた。

 愛治郎は日中戦争の戦況が悪化するなか、信仰人生の総決算として、死を決して天皇家国家神道に真っ向から戦いを挑んだ。
 天皇制を誤りとする「書信」を全国に配布し、「ほんみち」の信者は全員検挙され、愛治郎は無期懲役・財産没収の判決を受け投獄された。だが、激しい弾圧・拷問にもかかわらず、信徒のうちに一人の転向者も出さなかった。近世、国家権力と真っ向から対決し、屈することのなかった唯一の教団であったといえよう。


 本質から見た修験道

 これまで修験道について述べてきたことは、既成宗教の歴史的範囲での概観であった。これを、もう少し広い観点で、人間の本質にたちかえって修験道の意味を考えたい。
 宗教の本質ということを考えてみたい。

 人が現実の世界でなにごとかの困難にぶつかって、現実の方法で解決が見いだせないとき、現実の外に、いいかえれば空想の世界に解決を見いだそうとし、それが形象されたものを宗教と規定すべきだと私は思う。

 人の心は、目の前に現れるできごとに様々な反応を示すが、それを基本的に3つに分けてみたい。
 ① 対象に積極的に反応する。
 ② 対象を傍観する。
 ① 対象から逃避する。

 人間の力でどうにか解決できる問題には神を必要としない。自分に関係ないことがらにも神を必要としない。しかし、自分の力ではどうにもならない困難が生じたとき、人はなにものかに頼らねばならない。

 他人の力に頼って解決する場合、そこに人間関係について一定のルールが定められねばならず、自分を抑制してそのルールに従属しなければならなくなる。いいかえれば、一人の人間から組織の人間になるとき、そこに自分を抑圧する「人間疎外」が発生する。この疎外が、宗教的精神の原点になると私は考える。

 人間性が疎外され、目の前のできごとに積極的に反応する姿勢を自分で抑圧するようになると、人は傍観を好むようになり、逃避を知るようになる。
 現実の世界に解決を見いだせない悲しみや葛藤は、空想の世界に救いを求め、逃避的精神をつくりだしてゆくにちがいない。

 これが、宗教の本質をなす部分だと私は思う。これは、つまるところ精神分裂症のメカニズムに一致するものである。
 弱い心が、現実の苦しさから逃れたいあまり、空想の世界に甘い桃源郷をつくりだす。これを、マルクスは「宗教はアヘンだ」といった。

 空想的世界の桃源郷とは、キリスト教の天国であり、仏教の極楽であり、道教の仙郷であり、人間精神の活発な想像力は、現世に救いを見いだせぬとき来世に希望を託したのである。
 そうして人々は、この世の苦痛に堪えた。

 伝統的宗教ばかりが逃避的空想の形象なのではない。
 天皇家を頂点とする権威信仰、東大を頂点とする学歴信仰、高度技術依存の科学技術信仰、官僚の権力信仰などコケオドシの数々も、人間の困難を人間以外の疎外されたなにものかにすがるという点で、立派に宗教と規定することができる。

 人は人に頼ってこそ自然なのであって、人間以外のなにかに頼りはじめれば、すなわち、それは宗教である。
 人間性に対して率直であれる、すなわち、コンプレックスをもたない自然な人間性には権威も権力も財産も必要としない。ただ自然な人間関係があればよく、そこに宗教的逃避のつけいる余地はない。

 このように考えるなら、人類の歴史は、自然な人間関係を疎外するなにものかからの逃避の歴史であって、すなわち、それこそが文明の本質であることを示唆しているように思える。

 つまり、文明と宗教は、正常な(差別のない)人間関係を疎外しなければ成立しないという意味で同じものといえるのではないか。
 もちろん、科学技術の虚構の上に構築された現代文明も、宗教の本質を免れることはできない。

 人間社会における最大の人間疎外要因は「差別」であった。差別こそ、文明の本質といえるのではないか。

 修験道にたちかえってみよう。

 修験道の本質をなすものは、行者が自身を錬磨し、超能力を身につけることで人々の苦悩を救うとする部分であろう。山伏は、スーパーマンになることをめざしたのである。

 それは、苦悩からの逃避というにはあまりに激しく、歴史的にみても、権力と結びついた権威理論というよりは、むしろ軍事集団であった場合の方が多い。すなわち、日本のあらゆる宗教を通じて、もっとも実践性の高いものであった。

 それは例えば、偶像・伽藍崇拝の側面が少なく、呪術や医薬開発などに成果をあげた道教的側面にも端的にあらわれている。
 修験道にかぎっていえば、その本質は、宗教から現実の側に数歩も踏みだしたものだといわねばならない。それは、逃避的世界の範疇を免れることはできないが、すくなくとも民衆を抑圧の構造に固定する役割を担うものではなかった。

 また、修験道が民衆のなかに果たしていた役割のなかで非常に重要だと思われる部分に、ハイキング登山案内がある。日本の登山史の大部分を修験道が占めていたのは疑いなく、近代にいたるまで、民衆登山はすなわち修験道であった。

 修験道の教義には来世救済の思想はなく、徹底的に現世利益を求めるものであって、呪術・医薬・ハイキング登山を通じて実際に民衆を救うものであった。つまるところ、修験道は宗教の体裁をもってはいても、その実体はすでに宗教を超えていたといえるのではないだろうか。

 私には、修験道集団が、中国の太平天国や黄布党の革命集団にダブって見えるのである。鎌倉幕府以来の中世に幕を下ろし、近世の扉を開いたのは織田信長であったが、戦国の世に山伏の果たした役割が、近世の幕開けにどのような意味をもっていたのかじっくり考えてみたいと思う。

修験道 その1

カテゴリ : 無題

 修験道  92年2月著 その1

(これを書いてから25年も経て、今では内容を変えるべきと思う箇所も多い。
 私は、これを書いた当時、修験道が密教であり、それは利他行よりは利己行の性格を帯びたものであり、大多数の民衆の幸福を祈念するという大乗仏教というより、むしろ個人的救済を求める小乗仏教の性質を強く持っていたと考える。
 学問的には密教は大乗に包摂されているが、私は誤りであると考えた)
 

 日本の高峻山岳に初登の栄誉を求めて登った岳人や測量者たちは、人跡未踏と思われていた日本屈指の険しい山々、例えば北アルプスの剣岳などでさえ、苦難の登頂に成功して喜んだのもつかのま、山頂にまさかと思われる修験道の遺物を発見して愕然とした。

 私自身、20年このかた日本全国の数百の山を歩いた経験からいっても、どの地域の山へ行っても、山岳信仰やその痕跡を見いださない場所はないといっていい。このことは、おおかたの山歩き愛好家が同意されるであろう。

 日本ほど豊かな食糧をもたらしてくれる山野に恵まれた地域は地球上に決して多くないのだから、山岳地帯に人間生活に伴った歴史的遺物が多く残されていても全然不思議でないのだが、それにしても隅から隅まで、よくもこれほどの宗教遺産が存在するものだと感心できるほど多く、かつ古い伝統をもっているのは、山岳信仰こそ日本文化の特異な本質に関わるものといえるかもしれない。

 そのような意味で、山岳信仰については民俗・考古学者の関心を集め、これまでにも優れた研究書が多く出版されているが、一般受けする面白さには欠けるので、山旅を好む人々に読まれることも少なかった。

 だが、山旅愛好家が、単に歩くことに満足するのでなく、人と山との歴史的な交歓の視点に気づくようになると、自然の野山にすぎなかった光景の背後に、山岳信仰の巨大な歴史的骨格がおぼろげに見えてくるのである。

 それは、まるで、路端のつまらぬ石コロがダイヤモンドの大きな原石であることを知ったときのように感動的である。そこには、麓の里人にさえ知られぬ謎に包まれた特異な宗教的風景があった。
 また、それは日本国家の成立にも関与した考古学上のミステリーも含んでいる。山岳信仰こそは、柳田国男が最後までこだわった縄文式文化の継承者としての日本先住民(山人)の謎に迫るものであるともいえるかもしれない。


 先史、古代史から

 おそらくは数十万年も前からインドネシア・ジャワ島付近にあったはずの巨大島に棲息したと思われる人類の祖先(ホモエレクトス・ピテカントロプス)の子孫の一群は、ユーラシア大陸東部を北上してモンゴロイドとなった。

 また別の一群は、黒潮海流に流され、あるいは航行して北上し、台湾・南西諸島や日本列島東岸沿いに棲みつき定着した。ここで、リス・ウルムの氷期に接続した大陸から渡来した人々と混血を重ね、今日、縄文人と呼ばれる日本先住民になったと考えられる。

 海洋系ともいえる縄文先住民の外見上の特徴は、乳児の蒙古斑が少なく、ねばっこい耳垢をもち、体毛が濃く、四角い顔に大きな目と二重瞼をそなえ、その彫りは深く、額と鼻の間の明確にくぼんだ特徴をもった人々。
 性格は、あまり我慢を好まず即物的であるが、ツングース地方で寒冷地適応を受けた騎馬民族系モンゴロイドに比較すると、対照的にひどく気が小さく、優しい。

 だが、一方で古い時代から食人習慣をもっていたのは、一種の離脱精神に陥りやすい、つまり暗示にかかりやすい特徴があったからのように思える。

  台湾山岳部や南西諸島、隠岐島などの離島、あるいは中部・東北の日本海側の山村に、いまだこの形質を色濃く残した人々が大勢いる。アイヌ民族もまたそうであるが、むしろ、これらの人々は、アイヌと総称しても誤っていないほど、言語・地名・民俗など古代アイヌ文化に包摂されていた。

 彼らのうち、さらに北上したものはアイヌ族として北海道・千島・樺太に定住し、また、その一部はベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に流入し、今度は南下して南アメリカにまで進んだ。今日、インディアンと呼ばれる南北アメリカ大陸先住民がそうである。

 アルゼンチンやチリには多くの縄文遺跡が発掘されていて、これがベーリング経由か、太平洋経由なのかについては議論が分かれている。 原住民の形質は縄文型日本人とほとんど変わるところがない。

  だが、現在のようにラテン形質が普通になってしまったのは、近世のスペイン人による残酷な侵略によるものであって、コーカソイドの形質が移入されから、まだ400年ほどしかたっていない。

 縄文人は、海岸から深く野山に分け入り、日本列島中北部の落葉樹林帯のなかで小規模な集団で採集遊猟の生活を営んでいたと考えられ、石器の材料や食料を求めて、非常な奥地にまで生活圏をひろげていたことが知られている。(たとえば、八ツ岳周辺は、縄文石器文化の一大中心地であった)

 彼らが深い山奥で、天を突く高峰に神秘的な神格を見いだしたであろうことは想像に難くない。
 しかし、言語記録のない時代ゆえに、当時の山岳信仰を正確に調査するのは困難である。今日知られる縄文信仰遺跡は、各地で発掘される土偶や骨角器・石板などの呪具、信州周辺で見つかる配石遺跡などがあげられるが、その具体的な意味はよくわかっていない。

 紀元前五世紀から紀元三世紀にかけて、米作農耕生活を基本とし、高度な漢字記録文化を身につけた大陸モンゴロイドの弥生人や騎馬民族が、黄海や朝鮮半島からやってきて日本列島南西部(九州・山陰・瀬戸内海沿岸・畿内)の常緑広葉樹林帯の湿原平野に流入し定着すると、彼らは稲作文化にともなう土俗信仰をもちこんだ。

 弥生人とは、3000年ほど前に、雲南・チベット・ブータンの山岳高地に居住していた人々が、楊子江下流の呉越地方に勢力圏を広げ、その後、2500年前の呉越戦争などで日本に避難した人々の末裔ではないかと私は考える。

 彼らの最も基本的な特徴は、モチ米系の稲作を主作物とし、アクの強いドングリをもつ照葉樹林帯に依存して生活した人々であって、背負い型ではなくテンビン型の運搬をし、イロリではなくカマド型の炊飯をし、極めておおらかな性生活(例えば夜這い習慣のような)をエンジョイし、歌垣を楽しみ、法や道徳に縛られない自由な生活風俗をもっていたと考えられる。

 人相は、タイのミャオ族に見られるように、大きなぱっちりとした目、厚い唇、丸い顔、鼻梁上部は凹み、鼻のアグラは大きい。全体に小柄で、性格は天真爛漫で心も広いが放縦である。 西日本から太平洋岸で一般的な顔立ちであろう。

 今日、四国山岳地帯や愛知・静岡県山岳部に特異的に見られる山岳高地の尾根に設けられた家屋に居住する木地屋やサンカの子孫は、民俗上の共通点から雲南系の高地族の直接の子孫であるような気もしている。
 雲南の食習慣である、味噌・納豆・モヤシ・コンニャク・餅米・木地椀・轆轤などが直接継承されていることがそれを端的に証明しているし、人相・性格も実に似ているからである。

 それに対して、3世紀から8世紀、古墳時代を築いた朝鮮半島系の渡来者である騎馬民族の子孫は、その圧倒的な教養と武力で、たちまちのうちに日本列島の支配階級に君臨し、武家階級となった。

 彼らは、フヨ(扶余)呼ばれ、始皇帝の秦の子孫を自称した満州(文殊)地方の騎馬民族と同一の流れの人々と思われ、典型的な寒冷地適応の北方モンゴロイドの特徴を備え、乳児に明確な蒙古斑があり、体毛は薄く、のっぺりした寒気に強い顔立ちで、眉と鼻の間が狼のようになめらかでケルト人のように高く、ややつりあがった切れ長の目と一重瞼の人が多い。

 また、長州地方に典型的に見るように、長頭形の頭蓋骨をもつ人も多い。耳垢は乾燥型であって、性格は極めて我慢強く理性的で、戦争を得意とし、支配階級に向いている。ひとことでいうなら、朝鮮人の形質である。

 今日、その最も典型的な人相風貌を保存している古家が天皇家である。
ツングース系モンゴロイドは、朝鮮半島以外にも、沿海州から津軽地方と交流があったことが知られていて、東北地方の人種形質に関与していると思われるが、大和朝廷との関係については明かでない。

 日本には、朝鮮の戦乱によって、8世紀頃まで渡来人の大規模な流入が相次いだ。百済などは、新羅に攻められて事実上国ごと日本に移住し、言語文化能力に優れた人々が多かったので渡来地でも敬われ、大和朝廷権力に加わった者(あるいは乗っ取った?)も多かったと思われる。
 
 それどころか、実は、日本という国家、つまり大和朝廷は、唐の国書(旧唐書)に、朝鮮半島に存在していると記録されている。日本は、国ごと朝鮮から移住したとさえ考えられるのである。

 このことは、弥生人国家であった日本列島の「倭」を、騎馬民族の大和朝廷、つまり南朝鮮にあった「日本」が乗っ取ったようにも思われる。

 別の視点では、「倭」とは南朝鮮から九州山陰の広い範囲の海岸住民を指す形容で、我々が考える日本人のカテゴリーとは、まったく異なる存在かもしれない。

 騎馬民族が日本列島に洪水のように数次にわたって流入した理由は謎だが、当時、中央アジアから朝鮮半島にかけて猛威をふるった同じく騎馬軍団・匈奴やエベンキ族の圧力に押し出されたと考えるのが妥当であろう。

 修験道をかたちづくる土台の、民族的考察はこのようなものであり、すなわち、修験道が、どのような渡来人によって日本列島にもちこまれかを理解することができよう。少なくとも、これは縄文先住民のものではなかった。

 渡来系民族の信仰のうちで、もっとも大切なものは、稲作の成否にかかわる水にまつわる信仰であった。それは水分(みくまり)信仰と呼ばれるもので、水源地帯の山の神々に豊穣の願いと礼を捧げるものである。

 これが、農耕社会における山岳信仰の原初的形態であっただろう。この信仰が神道の原型になったと思われ、西日本や畿内には水分神社が多く残っている。

 しかし、弥生文化には、縄文文化には見られぬ一定の様式を備えた宗教儀礼が成立していたと考えられる。
 例えば祭器を見ても、銅鐸・青銅鏡・剣・矛など精密多様であって、呪術などが著しく発達していた様子は、中国の史書などからも窺うことができる。

 また、かなり早い時期から、大がかりな古墳造営や呪術が知られていたことは、彼らのうちに、すでに自然発生的土俗宗教を超える宗教イデオロギーが成立していたことを示している。

 騎馬民族が朝鮮半島から移住した当時、すでに中国・朝鮮は周・秦・漢・三国・唐などの封建的王朝支配が確立していて、唐代に道教として体系化される土俗信仰も、それらの王朝の庇護を受けて一定の様式で確立していたにちがいない。

 それらの文化の影響下にあった移住者たちは、日本海を渡る海運能力も含めて、分業社会組織による国家主義観念をもち、漢字による言語文化、祭礼宗教文化などを成立させていたであろう。それは、最初から儒教・道教のイデオロギーに影響された高度に組織的、観念的なものであったと考えられよう。

 日本先住民の縄文人は、その当時、国家主義観念を成立させるほど成熟しておらず、原始共産主義に近い母系氏族社会を形成していたと考えられ、つまり、共同幻想としての自分達の帰属する国という観念はなく、あえて帰属を意識するとすれば、自分達の集落単位のグループ程度ではなかったか。

 したがって、彼らの世界観は、アイヌ民族がそうであるように、断じて私物化されざる母なる大地と、「ウタリ」すなわち仲間達がすべてであって、権力を必要とせず、したがって共同幻想たる絶対神も必要としなかったのである。

 ゆえに、生産・戦闘などの民族的能力で、農耕によって集団力を鍛えあげられた弥生人には及びもつかず、最初に弥生人、後には騎馬民族の侵略にあっけなく山奥に追い散らされていったにちがいない。

 その一部は農耕文化を受け入れ、弥生人(倭族)の国家社会に帰属していったであろうが、弥生人権力社会に隷属するのを潔ぎよしとしない誇り高き部族は、主に中部・東北の山岳地帯に拠点を構え、蝦夷(えみし)と呼ばれ、弥生人の国家に強力に対抗した。
絶対神すぐれて絶対権力をもちこんだ渡来人と、私物観念のない、したがって権力を必要としない縄文人は、決して相いれぬものだったのである。

 彼らが国家権力に屈服するのは、騎馬民族、大和朝廷国家が幾多の内紛を経て強力に成立し、鎌倉幕府の武家戦闘集団の出現まで待たねばならない。さらには、元の侵略によって極度に強靭化された武装権力の出現によって、鎮圧されたのであるが、蝦夷のうちのアイヌ族は、北海道に逃れ、江戸時代初期まで独立した強力な氏族社会をつくっていた。

 弥生人部族国家は、騎馬民族の流入とともに彼らの支配下に入り、そのうちの最強の王が朝廷の大君という地位を確立し、9世紀には天皇を名乗るようになり、日本(南西部)の支配権力として揺るぎのない地位を確立し、大和朝廷として独立国家権力を成立させることになる。以降、彼らは、今日まで一貫して日本の支配階級として君臨するのである。

 彼らは、中国王朝との国交樹立に際し、属国ではない独自性を主張するために、性急に史書(古事記・日本書紀)を編纂し、史書の内容に合わせて記録を改ざん破棄した。(神皇正統記に記述されている)また、朝鮮からもちこんだ道教的土俗信仰を記紀にミックスさせて独自の宗教を成立させ、これが神道と呼ばれるようになる。


 道教

 騎馬民族の権力信仰の象徴とでもいうべきものは、古墳であった。古墳は、強大な国家権力の成立にともなって、道教の山岳信仰がもちこまれたものと思われ、朝鮮・中国の倭族の影響下にあった地域にも多く残されている。

 その意味は、道教が山岳修行によって不老不死の永遠の生命と超能力を獲得すること、つまり普通の人間の超人化を目的とするものであったことから、死んだ権力者を古墳という人工山岳に移して葬ることにより、甦りを期待するものであっただろう。

 あるいは、断片的に中国に伝えられていた仏教の転生輪廻の思想もミックスされていたかもしれない。いずれにせよ、古墳に葬られた王は、再び王として甦ることができると考えられたにちがいない。

 このような、権力者の遺骸を巨大構造物に保存して再生を願うという信仰は、エジプト・ピラミッド文明やメソポタミア文明、インカやアステカなどの古代文明にも一様に見られる。
 中国における道教の再生思想も、死者に赤い衣を着せ(赤は甦りを意味した)、防腐剤として朱砂(水銀)で覆い巨大墳墓に葬った。ただし、広大な平野を舞台とした王朝に、山岳墳墓の発想はない。

 日本で、還暦を迎えた老人に、赤いチャンチャンコを着せて祝う風習は道教のものだし、還暦そのものも、道教の形而上学である陰陽五行説によるものである。また、埴輪・絵馬・人形(テルテルボウズなど)・鬼・龍・化物などの形而的信仰も道教によってもたらされた。

 さらに、神道伝承の舞台が高千穂のように山岳地帯であるのも、道教の発想といえよう。神道自体、道教を原型としていることが明らかだが、道教文化のなごりは、日本の民衆生活のいたるところに広がっているのである。

 道教は権力史にも大きな影響を残している。例えば「天皇」という呼称は、8世紀末の中国派遣使節によって、道教の神である「天皇大帝」が持ちこまれたものであり、それは、天界の星座のうちで唯一不動の中心である北極星を意味するものであった。

 それまで、天皇は「大君」と呼ばれていた。また、三種の神器も、道教の護璽器であった鏡と剣に玉を加えたものである。
 道教は、中国使節によって何度も日本に持ちこまれたと思われるが、体系として日本には定着しなかった。

 それは、おそらく同時期に仏教(密教)がはるかに魅力的な体系として輸入されていたことに加えて、中国支配階級のイデオロギーであった道教を日本で普及させれば、最高位の神が中国に存在し、したがって日本の最高支配者も中国の皇帝であることにされてしまうのを恐れ、抑圧したのではないかと思われる。

 道教の本質を端的にいえば、普通の人間が山岳地帯で修行することによって超人的な仙人になり、不老不死の生命を得て、呪術によって人々を救うというものである。

 これが他の大宗教と異なるのは、神になるのは普通の人間であって、キリスト教のゴッドのような絶対的存在が想定されていないという点である。(最高神に近いものも想定されてはいるが、極めて多様で不安定である。)

 これには、明らかに当時中国に伝えられ、独自の進化を遂げた密教の影響が含まれているように思える。
 密教は大乗仏教の中の一宗派という考え方が常識的だが、本来の意味を考えれば、私は容認できない。

 大乗の本質を「利他行」と捉えるなら、密教は必ずしも利他の教えに沿っていない。むしろ、特定の集団や個人の異能を開発するという意味で小乗に近いものであるような気がする。

 釈迦の唱えたような大乗仏教の哲学規範による民衆全体の救済志向(顕教)とは異なり、修行者個人の超人化に主点をおく密教の思想が道士・道術の発想に色濃く現れている。

 紀元前後の中国思想形成期には、密・儒・道が相互に不可分の影響を与えあったと見るべきであろう。

 道教の呪術(道術)にともなう護摩行も、密教と同様、オリエント文明のゾロアスター教(拝火教)の護摩焚きがシルクロードによって伝えられたものであると考えられる。
 つまり、道教や密教もまた、シルクロードの交易のなかで、多様な思想が混ざりあったるつぼのうちに結晶したものであるといえよう。

 道教は、中国に古くから伝承された自然発生的な土俗宗教である易経・陰陽道・五斗米道・太平道などが、3世紀頃に「道蔵」として体系化され、当時の中国支配階級の庇護を得て体系的宗教として成立した。

 老子は、孔子らの儒学への批判のうえに道学を構築したともいわれるが、その形而上学は、儒教と同じく弁証法的な事物現象の陰陽二元論と、当時発見されていた五つの惑星の運行に帰納する「陰陽五行説」であった。
 その不老不死願望は、漢方医療の源流となり東洋医学の基礎をかたちづくった。始皇帝に派遣された徐福や華陀の伝説にもそれを知ることができる。


  ゾロアスター教

 道教や、同時期に中国で体系化された密教に見られる拝火思想は、オリエント文明の古代ペルシャ(イラン)に、紀元前5世紀頃に成立したゾロアスター教の影響を濃厚に受けている。

 ゾロアスター(ザラスシュトラ)の説いた宗旨は、世界には善なる光の神アフラ・マヅダと、暗黒の悪の神アーリマンが存在し、絶えず争いを繰り返しているとする単純明快な二元神論である。光の神を信じ善行を重ねれば天国に導かれ、暗黒のうちに悪行を行えば地獄に落とされるという。

 したがって、ゾロアスターの宗徒は闇を恐怖し、光を求めて絶えず火を焚くことになる。つまり、拝火教といえる。あるいは、ゾロアスター宗徒の焚火による森林破壊が、メソポタミア地方の砂漠化に関与していたかもしれない。

 人類最古のメソポタミア文明が成立した頃、西域には非常な数の猛獣が徘徊していた。当時、欧州やインドまでもライオンやハイエナの王国だったようだ。それどころか、史上最凶暴の猛獣であった剣歯虎さえも、最後の生き残りの遺骸がこの時代の地層から発見されている。

 それらが闇に出没して人々を襲い続けたにちがいなく、民衆は防衛のために火を焚き続けなければならなかったであろう。その習慣が、やがて拝火思想となっていったと思われる。

 これがシルクロードによって中国に伝えられると、道教・密教の護摩焚行になり、さらに日本の修験道にも取り入れられるのである。

 アフラ・マズダを崇拝する儀式には、牛を犠牲として捧げ、ハオマ酒を供える。ハオマ酒には麻薬成分が含まれている。それはデューラ・ウシャと呼ばれ、その意味は「遠くを見させるもの」、つまり幻覚陶酔作用を示しているとされる。

 ゾロアスターの宗派に「アサシン」という教団がある。これは暗殺を専門にする教団で、ハオマ酒に耽溺した者を刺客にしたてた。つまり、麻薬の力によって暗殺者をつくったのである。
 この教団の名が、暗殺(アサシネーション)の語源となった。また、不思議な術を用いるアサシンの司祭をマギと呼び、マジックの語源となった。

 アサシン教団は、現在でもイランに存在しているといわれる。先頃、ホメイニによって暗殺宣告された作者による「悪魔の詩」の翻訳者であった筑波大学助教授が、アサシンの伝統的な暗殺手法である「ナイフによる頚動脈切断」にのっとって首を切られて殺されたが、これには明らかにアサシンの影が見え隠れして不気味である。日本には、大勢のイラン人が流れこんできている。

 松本清張は、現代に生き残るゾロアスター宗徒の儀式に立ち会い、司祭のつくったハオマ酒を飲んだ。それにはアルコール分は含まれず、赤っぽい茎をつぶした汁が主剤だったという。原料を問うと、司祭は「フーム」と答えたが、それがなんであるのかは教えなかった。

 ハオマ酒の原料については諸説あり、ザクロの根とする説が一般的だが、耽溺性の説明にはなりにくい。耽溺性麻薬の原料は当然ケシであり、ついでコカがあるが、コカは南米原産で、この時代イランにあったとは考えにくい。もうひとつ、漢方の葛根湯に処方されるマオウがある。この主成分はエフェドリンだが、これを覚醒剤メタンフェタミンに変えるのは容易である。

 ザクロは中近東原産で、その根は漢方で石榴皮と呼ぶ生薬である。主に寄生虫の駆除に使用するが、古代では極めて重要な薬だっただろう。ただし、毒性の副作用があるという。あるいは、幻覚作用も含むのかもしれない。

 古代ガンジス文明の、アーリアン教の聖典「ヴェーダ」に登場するソーマ酒も、ハオマ酒と同じものだとする説がある。ソーマ酒の原料についても諸説あるが、ベニテングタケ(幻覚成分ムスカリンを含む)、あるいはインド大麻とするのが有力だが、おそらくはケシを含む複合的な幻覚麻薬剤ではなかっただろうか。

 これらがシルクロードによって東方に伝えられ、道教・密教・修験道の護摩行のうちに陶酔性薬物が使用されるようになった。シャーマニズムには、薬物による陶酔が不可欠なのかもしれない。


 神道

 5世紀頃、仏教が日本に渡来すると、すでに一定の様式が成立していたいた道教的な稲作信仰儀礼と融合しながら修験道の原型となった山岳宗教が発生する。

 持ちこまれた仏教は、釈迦の哲学の普及による民衆救済をめざした大乗仏教(顕教)の法華経典だったと思われるが、実際の解釈は、すでに中国において主流を占めていた自己修行に重きをおく密教であっただろう。

 小乗とは乗り物が小さいという意味での大乗側からの蔑称であるともいわれる。
 本来、密教は大乗仏教のなかの宗派であるが、その内容は極めて小乗的、閉鎖的なものであって、本来の、あらゆる輪廻転生を容認し、利他思想を根源とする大乗仏教とは言い難い。

 密教側でも、それ以前の大乗小乗の枠を超えた第三の教えであると称するようになり、いわゆる大乗としての密教という概念は、おそらく誤りであろう。

 日本では、鎌倉時代に顕教が大衆化されるまで、仏教といえば密教であり、空海がその体系を輸入するまでは雑部密教と呼ばれ、呪術による現生利益を求めるという点で、本質的に道教と変わることのない土俗的なものであった。

 密教の特徴は、曼陀羅に見られるように非常に多数の仏が存在し、自分に縁をもった仏の元に修行して即身成仏するというものだが、本来、釈迦の説いた教義には四天王など多数の仏は存在せず、また伽藍儀式や偶像仏崇拝とも無縁であった。

 四天王や阿弥陀などは、もともと中央アジアの土俗信仰であり、それが中国の事大主義によって仏教を修飾し、道教の土俗的な神々とも結びついて権威主義的な密教の体系に変わっていったのである。

 輸入された仏教は朝廷権力と結びつき、百済人であった蘇我氏や聖徳太子の一族の強力な支援を受けて事実上国教となり、飛鳥・天平文化のうちに大きな華を咲かせるが、古墳時代後期から朝鮮渡来人によって形成されていた大和朝廷は、仏教などの中国文化の輸入にともなって、中国王朝、とりわけ強大な中央集権国家主義を確立した唐の領土拡大主義の圧迫に苦しまねばならなかった。
 
 中国王朝は唯一最高の支配権力であることを欲し、朝鮮などの近隣諸国を属国と見なしていた。したがって渡来人による大和王朝も中国の属国ということになり、それが侵略の口実にされる恐れがあった。
 だから大和朝廷は、中国との国交を開くなかで、中国に対して独自の歴史をもった由緒ある独立国であることを示さねばならなかったのではないか。

 7世紀から8世紀にかけて、朝廷はあわてて独自の歴史を示す史書(古事記・日本書紀)の編纂を強引に行い、遣唐使によって中国に送った。都合の悪い、天皇家の朝鮮渡来の事実関係を隠ぺいする作業も行った。

 さらに、中国の侵略に備えて国力を充実させ、それを示威するために、日本中北部の蝦夷(えみし)も平定し、領民として税を収奪する必要に迫られた。

 宗教についても、大和朝廷の正当性を主張するために、当時独自の発展を遂げつつあった密教に古事記などの史書との整合性を求め、弥生時代から伝えられてきた土俗的信仰を基盤として、中国文化から独立した権威ある新教をつくりだす必要があった。

 9世紀、天台宗は山王一実神道をつくりだし、真言宗は両部神道をつくりだした。神道における神々は、大日如来以下の諸仏が姿を変えて(権現として)現れたものにされた。これを本地垂邇説といい、仏教系神道の本質をなしている。
 ここに、道教の濃厚な影響下で稲作農耕にまつわる水分(みくまり)などの土俗的農耕儀礼を発展させた信仰に、はじめて「神道」という名が与えられることになった。
 ゆえに、神道の原点は稲作祭礼であるが、宗教となったはじまりは、神仏を同じとした権現信仰であった。神道は仏教によって形造られ包摂された。

 これらが仏教と一線を画した独立した宗教体系として成立したのは鎌倉時代の伊勢度会(わたらい)神道とされるが、実際に今日見られるように仏教から独立した神社神道が確立したのは、明治政府による作為的な国家神道の強制によるものであった。

 明治政府は、江戸時代、武家支配権力に苦しんだ被支配階層から登場した、本居宣長・平田篤胤らの尊皇復古思想を、維新による激動のなかで政権安定の基盤に利用しようとした。

 それは、欧米列強に対抗するための強大な国家主義を確立するために天皇信仰を利用したのであって、天皇制を神格化し、宗教イデオロギーによる日本統一を図ろうとしたものであっただろう。

 その目的のために、古来からの神道である神仏習合の権現信仰を破壊し、仏教を堕しめて神道を独立純粋化し、天皇制を唯一至高の価値として最高位に位置づけ正当化しようとしたのである。

 明治初期、平田国学徒による排仏棄釈の嵐はすさまじいもので、苗木藩(岐阜県中津川市)や石川県白峰地方のように、再建が絶望視されるほど藩内の寺院をすべて破壊し尽くしたところさえあった。

 また、冨士講のように、修験道でありながら宗派対立のために平田派にくみして習合神道を敵対視するようになった宗派もあった。純粋神道と唱えてきた伊勢度会派や吉田派神道も、情勢に便乗して仏教破壊に走った。

 習合神道を代表した修験道は、天皇の権威に敵対する邪教として憎まれ、その活動を禁止された。それらが、実体上復活できたのは、天皇が神の地位を滑り落ちた戦後のことである

 歴史上、神道を最初に確立したのは密教系の仏教宗派であったが、仏教は民衆の平和を願うものであり、戦争を正当化できる思想ではない。

 ところが、古代権力の確立したこの時代、国家主義あるいは覇権主義の目的で、中部東北の縄文人の末裔を征服するために戦闘的なイデオロギーが要求され、かつ中央集権権力の正当化のために、唯一の絶対神を必要としたと思われる。

 そこで、戦争と民衆管理に必要な「神」の思想が生みだされたと考えるのは不自然ではない。「神」は、いつでも、どんなときでも、戦いと管理のために生まれるのである。

 かつて両部神道の影を色濃く残した天台密教=比叡山も、戦前、国家主義に迎合して戦争を翼賛して大失敗したのに懲りず、再び、今、戦争推進の日本会議に加わっているのも、その例というべきだろう。

 神道には体系的教典がないが、あえて原典というなら、それは8世紀に編纂された紀記である。これは、中国に対して天皇家の独自性・正当性を主張するための史書であり、都合の悪い事実はすべて切り捨てられ、王権の元祖を紀元前6世紀におくなど、相当部分がひどく捏造されたものであった。

 いずれにせよ、記紀の虚構から神道の枝葉が伸びていった。しかし、実体として神道が成立するのは平安時代の山王・両部(習合)神道であり、体系化するのは鎌倉時代の度会神道である。今日見られる神社神道は、室町時代の吉田神道によって築かれた。

 平安時代に、延喜式という政道百科事典がつくられ、神社の格式が定められたが、神社神道が明らかに成立したのはこの時代であって、それ以前のものには明確な根拠がない。しかも、そのほとんどは権現信仰にもとづくものであって、仏教に包摂され、仏教の下におかれたものであった。

 ただ、権現造りと呼ばれる神社も含めて、拝殿の建築様式は、米作農耕のために浸水しやすい湿地帯に住んだ弥生人の高床式住居を直接継承したものであって、イロリが掘れないために設けられたカマドや、副次的な食品のうちで大切な保存食であったスルメ・コンブなどが祭物として受け継がれているのは弥生文化の継承を示唆するもので興味深い。

 このことは、神社神道が弥生人の稲作農耕の生活に密着した風俗から発生した事実を示すものであって、必ずしも騎馬民族独自のものでないことを示すものである。さらに、仏教によって両部神道として権威化される以前には、渡来人の精神的支柱として、実体上大きな意味をもっていたことを窺わせるのである。

 すなわち、仏教(密教)系神道が成立する以前に存在した農耕儀礼こそ、疑いもなく弥生人の基幹宗教であって、本居宣長の考えた「古代神道」は、確かに存在したともいえよう。

  神道をイデオロギーの観点から見れば、権力の統治者はカミ(神・上・守)を称することによって、民衆の信仰心を利用して支配を企てようとしたと考えられる。
 このことは、好戦的な騎馬民族の末えいであった日本武士階級が、カミ(守)を称する風習を伝えていたことからも窺えるのである。
 神道の神は、道教と同じく人間の変化したものであった。例えば、天皇は人間のまま神であり、秀吉は死後明神となり、家康は死後権現となった。明治以降の戦争のなかでも、功績をあげたものはやたら軍神にされ、戦争で死んだ者を靖国神社に祭るといった発想も同じである。
 したがって、この思想は、支配階級が民衆を戦争に駆り立てるのに非常に役に立つものであった。
 「神が栄えれば仏は沈む」と書いた僧がいるが、まさしく妙理で、神道はいつでも戦争とともにあるのであって、神道の栄える時代は、すなわち争いの時代といえよう。
 修験道が密教によって誕生しながら、中世以降しだいに神道の要素が高まっていった理由は、山伏の軍事集団化と関係しているように思えるのである。


 役の行者 

 役の小角(えんのおづぬ)と呼ばれた、日本史上のもっとも魅力的な一人であるこの人物は、修験道の開祖と位置づけられている。

 小角が活躍したのは、紀元700年前後のことである。この当時の日本史の事情を見てみよう。
 7世紀、推古大君、聖徳太子をはじめ、飛鳥朝廷の大君以下の主要人物は、戦乱によって朝鮮を追われた百済出身者で占められていた。
 その故郷の任那(伽羅)も、この当時は倭国に含まれていた。というよりは、百済にあった王朝が、5世紀から6世紀にかけて海を渡って日本列島に引っ越してきたと考えるほうが合理的である。

 彼らの文化能力は、飛鳥文化に見られるように際だって優れたものであって、それ以前から部族抗争を繰り返してきた弥生人の部族を短期間のうちに統一したと思われる。
 620年前後、唐が勃興し、強力な中央集権国家主義が台頭すると、新羅は唐の支配下にはいり、しきりに倭の領土を纂奪しようとする。

 百済は、領土の多くを失い朝鮮の南端、伽羅に押しこめられたが、645年の内乱(大化の改新)と蝦夷平定戦争によって弱体化した倭王朝を見て、660年、新羅は大挙して伽羅に攻め入った。

 中大兄皇子(天智大君)は兵を伽羅に送ったが、白村江で大敗を喫し、とうとう倭国は父祖の地から追われてしまった。百済に残っていた倭人は日本に渡った。以降、倭寇や秀吉の侵略にも耐え、昭和初期の日本軍部による帝国主義侵略まで、朝鮮は外見上、独立を保つことになる。

 同じ時期、おそらく百済人に似た理由で、高松塚古墳に見られるように高句麗文化を身につけた人々も、多く日本に渡来してきたにちがいない。それに騎馬戦闘文化をもたらした人々も含まれていたことは、後期古墳の出土品から明らかである。

 彼らは、いずれも高度な文化人であって、支配階級に融合してゆく。
 この時代の権力者にとって、人としての認識に堪える者は、中国の先進文化を身につけ、高度な生産能力を持った者に限られたであろうことは、後の律令体制における差別体系によっても明らかである。したがって、朝廷権力にとって、人とは渡来人のことであったに違いない。

 672年には、大海人と大友の争いによる壬申の乱が起きる。大海人(天武)は天智の弟だが、王位を弟が嗣ぐ風習をはじめ、この当時の権力構造は、中央アジア騎馬民族の習慣が直接受け継がれていることに注目しておきたい。

 700年頃には、律令制度が発足し、公地公民制による口分田・班田収受法などが施行される。
 これは唐の律令を手本にしたものだが、まことに日本的に不徹底で非現実的なものであったため、民衆の逃散が多く、後には豪族の出現を招き、天皇王政崩壊の直接原因になった。

 710年には、奈良に都が置かれ、唐の長安にならった平城京が成立する。712年には古事記がつくられ、720年には日本書紀がつくられた。

 740年には、国分寺が制定され、東大寺・薬師寺の建立がはじまった。天平文化が頂点を迎えるのである。
 この前後の100年ほどは、日本史の、すさまじいばかりの黎明期であって、時代の進展速度は今日でさえ及びもつかない。

 「続日本紀」西暦699年、5月24日の項に、役の小角が登場する。その記述は、「日本霊異記」など他の文書と同じく畏敬に満ちたものである。

 これらに見える小角の姿は、超絶的な超能力者である。小角は、大和葛城茅原に棲む優婆塞(うばそく)と呼ばれる私度僧であった。

 藤の皮を身につけ、花汁をすすって30年の間、孔雀明王の呪をとなえて修行し、鬼神(この当時の鬼とは、大和・熊野山中に棲む非弥生人のうちで、戦闘的な部族を指したと思われる)を使役し、空中を飛行し、対した者を呪縛してみせた。
 (孔雀明王とは、雑密曼陀羅の仏で、孔雀が悪喰で毒蛇や蠍を食っても平気なことから、悪を消化する仏にされ、密教を代表したが、もともとは中央アジアの土俗信仰に含まれる。)

 その能力のすさまじさのゆえに、渡来人の呪術者であった一言主(韓国連広足)に讒訴され、伊豆に流される。
 朝廷は、どうしても小角を捕らえられず、母を捕らえて小角を縛るのである。伊豆では、毎夜富士山に飛行して修行したとされる。

 大峰の「金峰山本縁起」には、伊豆から帰った小角は、母を伴って唐に渡り道士(道教僧)となり、唐四十仙中、第三座の仙人とされ、鬼神を使役したと記されている。
 遣唐使の道昭という僧が新羅の山寺で法華経を講じたときに、質問した道士が日本語を使ったので不思議に思って尋ねると、「自分は役の小角である」と言ったという。

 この伝承は、修験道の正体について、端的な回答を与えているように思える。これは、山岳信仰・呪術(超能力修行)・護摩行など主要なファクターで共通する道教に、紛れもなく一致するものなのである。

平安末期、小角の伝承は修飾され、修験道の開祖として同時代の行基と同様、誇張を交えて伝説化されることになる。

 上記の「金峰山縁起」もそのひとつであるが、大峰山に依った密教修行僧たちは、修行の具体的なモデルとしての役の行者像を成立させるのである。
 飛鳥時代、仏教が国教化される過程で、百済人によって占められた官人は朝廷によって建設された官寺に修行する僧を厳選し、今日の大蔵省官僚でも及びもつかないほどの権威を与えた。

 これらの官僧になれる者は渡来人系のエリートに限られ、仏教を信仰し修行しようとした一般民衆は私度僧になるしかなかった。
 当時、文字を解する者は希だったはずだから、一般民衆といっても実際には、言語文化に触れる機会を得た上流階級の子弟であっただろう。

 官寺は彼らの受け入れを認めず、当時輸入されていた雑密と道教の断片的な知識を依りどころにした求法者たちは、険しい山岳地帯に篭もって道教の符呪や密教の陀羅尼の呪や、小角のように孔雀明王の呪を唱え、念力を磨いていたのである。

 後に、この時期に中国で不空三蔵や恵果らが体系化した密教を、完全な形で日本に持ち帰った大天才の空海でさえ、若き日は雑密修験者として山岳地帯で求法修行し、呪を唱えて歩いた。

 空海ほどの人物でも、遣唐使に僧として加わることは許されなかった。彼が帰国後、不動の地位を占めるのは、中国最新の流行文化であった密教体系の輸入という実績が評価されただけにすぎない。

 輸入された密教体系が朝廷によって評価されるとともに、それは再びエリート官僧によって独占されるものとなり、私度僧は、あいかわらず雑密の断片的な知識をもとにした修行に終始した。

 官僧以外の求法私度僧は、国家権力に厭われることはあっても評価されることはなく、したがって重く用いられることもなく、その存在理由は、呪術による民衆の具体的な(たとえば、病気治療などの)救済による自己満足と名声の流布しかありえず、自らの依拠する権威を自ら構築するしかなかった。

 このような修行僧には依拠すべき体系規範がなかったから、当時評判を得ていた役の行者の伝説をモデルにするのがてっとりばやかった。つまり、修行僧は、教義理論ではなく役の行者の名声をめざしたのである。

 山岳地帯での呪術修行を好んだ雑密僧のうちから、やがて密教や密教系神道を基盤にした独自の宗風が生じ、それに修験道という名が与えられてからも、官によるエリート理論に無縁だった彼らには、教義としての理論的な体系はつくられたことがなく、また必要とせず、役の行者の行風をモデルにした土俗的、習慣的な修行スタイルが続いたと思われる。

 いいかえるなら、官による東大寺、薬師寺、あるいは比叡山、高野山を仏教の表街道とするならば、修験道は、まさしく裏街道をゆくものであった。
 しかし、それは権力権威による評価と無縁だったという意味で、それらの呪縛から解放され、真に民衆の具体的な救済に威力を発揮しただろうと思われるのである。

 もう少し、モデルにされた役の行者像を見てみよう。
 役の行者の伝説は、小角が大峰で修行するうちに(本当は葛木の修行者だったが)、修験道の本尊である金剛蔵王権現を感得したとされる。

 それは不動明王に近いがそれよりも激しく、その本地仏は大日如来である。その激しい怒りの形相は、修験道の修行の苛酷なエネルギーに対応するものであった。いったい、何に対する怒りなのか。なにゆえの修行なのか。

 山岳は縄文人の舞台であった。
 当時、九州の縄文人系土民(海洋族)であったクマソや隼人族は弥生人権力に対して反乱を繰り返し、ようやく平定された時期であったが、紀州大和の非弥生人系の土民も熊野山岳にいたらしい。

(縄文人は黒潮に乗って南からやってきたのであるから、薩摩、土佐、南紀、房総などには、縄文人が最も早くから棲みついていたはずである。しかし、紀州には、徐福やユダヤの伝説もあって、簡単に縄文人と決めつけられない。)

 また、九州から奴隷として連行された土蜘蛛とよばれる種族もいたらしい。初期渡来人であった大国主らに追われた出雲原住民(サンカか?)もいた。

  小角は、葛木の非弥生人に生まれたのかもしれない。(黒岩重吾もその説をとっているが、出自とされる賀茂氏は渡来人系である)とすれば、山岳の激しい修行も、金剛蔵王権現の怒りも、弥生時代後期から、弥生人権力に奴隷として使役され、古墳造営の苦役に苦しんだ非弥生人系の民衆の怒りを代弁する行者の姿勢として読み取れるのである。
 すなわち、小角の修験道は、反権力の砦をめざしたのではなかったか。

 このことは、後の修験道が南西地方よりも、むしろ蝦夷の拠点であった出羽地方を中心に大いに勢力を広げたことにも窺えるような気がする。
 いずれにせよ、弥生人圏の宇佐八幡や山陰大山・大峰でも、修験道は弥生人の居住地域の湿原平野には無縁であり、したがって弥生人文化と修験道文化は相入れないものである。

 大和朝廷に隷属馴致されるのを拒否する者は山岳に逃げるしかなく、そこには弥生人による苦役から逃れようとした非弥生人の民衆が存在し、修験者がその人々となんらかの形で結びついていたのは明らかである。だが、現段階では、このあたりの事情は謎に包まれている。

それぞれの山の物語 6 修験道路の山旅 前編

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それぞれの山の物語 6 修験道路の山旅  前編 91年11月16日の大峰山行

 登山やハイキングで山岳地帯に出向いたとき、山のなかに祁られている宗教的遺構に出会うことが少なくない。それは山神様の小さな祠であったり、道中の無事を祈る地蔵であったりするが、ときには、大木の幹に梵字で書かれた短冊が張りつけてあったり、笹を四角に切り開いた小さな空き地に何やら木札を燃した跡が残っていたりすることもある。

 これは護摩とよばれる修験道の儀式の跡で、私たちの古い先祖から伝えられた五穀豊穣、生活安泰を願う修験者(山伏)による祈りの儀式の跡である。

 山伏は、その名の通り、山岳地帯を主な活動の場にしている。その修験道と今日呼ばれる山岳宗教は、古代中国の道教(タオイズム)に包摂される多くの宗教様式・儀礼が、1400年ほど前、朝鮮半島から集団でやってきた人々によって伝えられ、進化を遂げたもののようだ。

 道教は、中国文明成立の頃から伝えられた占いや医療を中心としたさまざまの民間信仰・儀礼(アニミズム)が、老子・荘子などによる体系的思想の著述や、その後の漢王朝(漢祖劉邦の謀臣、張良は代表的道家だった)などが国家思想に用いたことにより、まとまった宗教様式・儀礼になったものと考えられるが、時代によって、太平道・五斗米道・茅山派など多くの宗派があった。

 基本的な特徴は、人が山へ登って仙人になるための修行(登仙)を行い、空中を歩いたり、不老不死の秘薬を調合するなど超人的能力を身につけて人々を救うというものである。今日まで伝わる太極拳・小林拳などのクンフーや、それが日本に伝えられ発展した空手・柔術・漢方医学の伝統は、すべて道教に源を発したものといえよう。忍者も、またそうであった。

 修験道もまた道教から生まれたものであって、この基本要素をすべて継承し、人が山のなかで辛い修行を重ねれば、やがて自在に空を飛んだり天気を変えたりする念力を身につけることができ、超能力者になることで人々を救うことができると考えるのである。

 したがって外国の文献には、修験道は日本的タオイズムと紹介されていることが多い。
 これらは、大乗仏教やキリスト教のように、ものの考え方を教えることで民衆を分け隔てなく救済するという、民主的で教育的要素の強い方法でなく、特別に秀でた個人的能力を開発し、個人的修行による救済をめざすという点で、より実践的・具体的性格の強い宗教といえよう。

 ただし、民衆全体の能力を高めるというより、選ばれたプロ救済者のレベルアップを図るという、あまり民主的でない方法がとられていた。だから、、特異能力の軍事集団としても活躍したし、調伏という名の呪いによる敵対者の破滅祈願を行うこともあった。修験道は、人を怯えさせるような残酷な裏面史も多く持っている。

 日本で修験道が史誌に記録されだしたのは、史誌の始まりの奈良時代からで、大和葛城の役の小角という行者が修験道の開祖ということになっているが、実際には、この時代に修験道という独立した宗教が現れたわけでなく、道教の影響を受け、仏教(密教)や古神道の混ざりあった宗教的儀礼のなかに、道教的な山岳的要素の強いものが現れたということのようだ。

 役の行者は、後に新羅の国に出向いて道教の上位の仙人として君臨したという伝説もあり、また、神道も密教も本地垂迹説というひとつの教理にくみこまれ、仏教系寺院で祭祁が行われていた。つまり、奈良時代では、民衆の認識にあっては修験道と神道・仏教は一般的な「宗教」という大まかな概念で包摂され、すくなくとも、今日のような明確な区別はなかったように思う。

 修験道には、定まった体系的教義が残されていない。それは、もともと山岳地帯における修行そのものが宗教活動の主体で、伽藍や仏像のような形而下の崇拝対象や思想理論にこだわらないこの宗教の性格からきているのだが、実際には、明治時代初期に、天皇制神道を絶対化しようとした国家権力によって、神道とまぎらわしい修験道が禁止され歴史的遺物が破壊されたことで、古い伝統や理論が捨て去られてしまった事情がもっとも大きな原因なのである。

 それが実践的に復活したのは、今からわずか40年ほど前の1950年前後にすぎないし、復活の主体になったのが天台宗や真言宗の密教僧であったことによって、それは古い本来の修験道よりも、江戸期に煩わしい観念的規範によって体系化した仏教的要素の強いものになっている。
 だから、私たちが修験道を理解するのには実証面で困難があり、先人の思索と修行を知るためには、実際にその足跡をたどり、想像力を働かせてみなければならない。

 私は修験道の総本山、大峰山脈に過去6度ほど登山している。ただし、奥駆け全行程を歩いていないので、暇と体力のあるうちに吉野から熊野まで踏破してみたいと考えた。歩きながら、修験道の本質について何らかのヒントを得たかった。

 奥駆け修行の行場の第一番は熊野本宮にあって、熊野から辿るのを順峰といい天台宗系の本山派とよばれる行者が行った。第75番の吉野神宮から辿るのを逆峰といい、真言宗系の当山派の行者によって歩かれているのだが、現在、大峰の修験道は、当山派の修験本宗が復活したこともあって、大部分が逆峰によって行われているようだ。

 伝統的な山伏は、この奥駆け全行程を、75箇所([靡]なびき)の行場を巡礼しながら2週間ほどで歩いたといわれるが、山歩きの標準的なコースタイムを考えると、およそ1週間というところだろうと考えた。

 もうすぐ冬に入ろうという時期が時期なので、山小屋での食料補給が望めず、全行程の食糧と冬山登山に近い幕営装備を担いでゆかねばならないのがつらい。
 そこで、行程を予備日も含めて9日と考え、食糧を原則として米だけにし、副食を極度に抑えることにした。これによって、食糧の総重量を7キロ程度にまとめることができた。これ以上ないほど荷重を抑えたつもりだったが、荷ができあがってみると30キロ近いズシリとした重さに、いささか気後れしてしまった。

 91年11月16日の朝、近鉄名古屋駅から吉野に向かった。吉野駅に到着したのは昼で、ひとりでとぼとぼと大峰をめざして歩きはじめた。この時期は、比較的天候に恵まれているので、快適な登山ができる。

 駅前に蔵王堂方面のロープウェイがあったが、たいした節約にならないので歩道を歩くことにする。ジグザグの踏跡を登りつめると吉野街道に出て、両側に古く懐かしい雰囲気の商店街が続き、狭いが歴史の薫り漂う古街道を行くようになる。

 道端に「南朝の里」と印刷された貼紙があった。吉野は、後醍醐が足利尊氏に追われて南朝を設立した街である。歴史ファンである私は、ひどく懐かしいような思いがこみあげてきた。

 歴史の薫りのなかにほのかに混じるのはミタラシダンゴの甘い香りで、ついつい手がのびてしまう。ひさしぶりの懐かしい味。これが実に旨い。だが、30キロを超す荷物が肩にくいこみ、一度下ろした荷物を担ぐのが憂欝だ。この先が思いやられる。

 大峰名物の優れた胃腸薬である「陀羅尼助」の製造販売店があった。江戸時代の旧商家のたたずまいを伝える由緒風格にあふれた店先に、陀羅尼助が一瓶三千円で売られているが、これは観光土産の値段なのだろう。少々高いと愚痴らざるをえず、買おうという気にならない。

 これは吉野洞川、オウバク宗萬福寺に伝えられたとされる秘薬オウバク(キハダ)を煮詰めたもの。これは安全なすばらしい自然医薬である。古いものの良さを理解できない人は、田辺製薬のスモンのような化学物質を信仰すればよい。学歴権威信仰による絶大な効能がえられることであろう。

 陀羅尼助には、大昔、クマノイやケシ汁を混ぜていたという。山陰大山の練熊や、御岳の百草も陀羅尼助とまったく同じ成分だが、明治の宣伝文句にはケシ科のコマクサを混ぜていたことが書いてあり、これがコマクサ壊滅の原因になったようだ。

 これらは、道教の医薬(漢方)が伝わったと思われるが、全国に熊胆を売り歩いたマタギともなんらかの関係があるにちがいない。吉野の山伏にとって、陀羅尼助の行商は大切な生活資金源だっただろう。

 また売薬稼業は、戦国大名の依頼を受けて各地をスパイして歩くための大切な小道具にもなった。吉野の山伏は、戦国期、根来寺の非合法活動専門の僧兵の手足でもあり、伊賀・甲賀の忍者の祖でもあった。それは、驚くほど残酷な殺戮者だった時代もあったのだ。

 道は、大仏鋳造に余った銅でつくられた発心門と呼ばれる神仏混交の鳥居と山門をくぐり、自然に蔵王堂に入ってゆく。発心門は、修験本宗の吉野から熊野へと向かう入峰修行を行う者の最初の行場になる。

 「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき、おん、あびらうんけんそわか」
 と唱えて鳥居を回った行者は、次に「気抜けの塔」とよばれる小さな部屋に押しこめられて、外から突然鐘を鳴らされて気合いを入れられることになる。そうして、下界の日常的感覚から過酷な修行へと気持ちを切り替えさせられるのである。また、この塔には義経逃避行の伝説も残されている。

 吉野の町は、蔵王堂の門前町としてできあがったようだ。建物自体が国宝として知られる蔵王堂は、吉野の核心部の高台に巨大な木製伽欄を鎮座させている。石段を登ると修験本宗、金峯山寺蔵王堂の広い境内で、驚いたことに、たくさんのイスと巨大な放送設備が据え付けられ、なにやら人気ミュージシャンのコンサートの準備中であった。私は、この手のことに無知で、どのような理由で何が行われるか見当もつかない。

 蔵王堂は平安時代に創設され、数度の火災を経て江戸時代に修復されている。自然の大木をそのまま利用した柱が使われていて、独特の個性的迫力がある。堂内には護摩の煙が充満し、古刹の重厚な雰囲気に圧倒される。

 堂内の修験者は真言系らしく全て剃髪した僧形で、古来の山伏の面影はなく密教僧の雰囲気だ。天台系山伏の総髪のほうが山伏らしい。真言宗系の修験道を当山派と呼ぶのだが、明治の初めに当山派は強制的に真言宗か金峰神社に分離帰依させられ、天皇制国家神道による弾圧から解放されて修験本宗として再建されたのは、まだ1952年のことである。

 修験本宗は、長い空白のうちに明治以前の神仏習合の面影は薄れ、その間、強制的に帰属させられていた真言宗仏教の色合いが濃いものになってしまった。習合神道が天皇の権威に逆らう邪教として排斥された、戦前の天皇崇拝教育のおそるべき成果をここにもかいま見ることができるのである。

 今でも、毎年7月前半に、修験本宗の主催による奥駆け修行が一般者の参加を募って行われているという。蔵王堂は、その出発点となり、蔵王権現や役の行者像の前で、修験道独自の真言を唱えて峰入り前の護摩法要が営まれる。

 真言(マントラ)というのは密教による呪符で、例えば、「おん、あびらうんけん、ばさらだとばん」と唱えることで、自分と大日如来とを一体化させ、「なうまく、さまんだ、ぼだなん、ばく」と唱えれば、釈迦如来と一体化するという具合である。これらは、口に真言を唱え、手に印契を結び、心に仏を意念すること(三密加持)で大日如来と一体化し、即身成仏をめざすのである。
 
 吉野の街なみを大峰山脈の山地図を頼りに歩いたが、なかなかややこしい道であった。下千本、中千本、上千本と桜の名所が続く。春先には凄まじい雑踏になる場所だ。ここでは4月10日ころ、蔵王堂を中心に花供祭が行われる。蔵王権現に桜の花を供え、盛大な餅撒きが行われるという。修験道の花祭には、神道の古い農耕儀礼が体現されているという。全国の修験各派に、それぞれの花祭が残されている。

 上千本のあたりから大峰山脈が次第に形を整え、明確な尾根に変わってゆく。そこで、初老の男性と同じペースで歩くようになり、やがて言葉を交わした。話してみると、宗教歴史について恐ろしいほどの博識の方で、たちまち意気投合してしまった。立見さんといわれたその方は、どこかの大学教授ではないかと思った。

 吉野で見たいと思っていた水分(みくまり)神社は、吉野の水源尾根の中腹に構えていた。立見さんが権現造りといわれた社殿は、拝殿前の広場を取り囲むように建物が連なり、格調高いすばらしい雰囲気である。おそらく、日本の水分神社の草分け、あるいは総本山であろう。

 尾根に沿ってつけられた道路をとぼとぼと歩いてゆくと、金峰神社の道標にしたがって高城山という城址に登る。山頂に立派な休憩舎があり、そこから元の道に下る。無理して登った値打ちはなく、損をした気分になった。

 道なりに歩けば自然に金峯神社の境内に入る。ここは、古い修験道が天皇制時代に強制帰依させられていた本山である。祭神は金山彦で、これはすなわち大峰山脈に金鉱脈があったことの証である。

 ここまで予想外に時間を食ってしまい、「この先、よい幕営地はないですか」と社守のおばちゃんに尋ねると、
「この先は女人禁制だから、私は行ったことがない」
 と言う。改めて、修験の大峯に足を踏み入れたことを感じた。

 まずは水を求めて苔清水に向かう。苔清水は細い湧水だが、絶えたことがないという。整備された水場で大勢の中年観光客が騒いでいた。そのわずか上に平地があり、そこにツェルトを張ることにした。

 夜半、百人一首で知られる西行が創立したとされる西行庵の勤行の打木の音が気味悪かった。カメムシが臭くてかなわない。イノシシと思われる動物がうろつく音も聴こえ、あまりよく眠れなかった。
 冬も近いので山蛭など不快な虫が少ないのが利点だと思ったのだが、意外に生物が多い。重量節約のために、酒を携行しなかったのが辛い。

 日曜の朝、ゆっくりと7時に出発、青根ヵ峰を越えると再び林道になり、尾根をブルドーザが強引に踏みつぶしている最中だった。登山道を探すのが大変だ。どうやら黒滝村への道をつけているらしい。カクレ平からやっと普通の山道になる。

 五十丁、百丁の茶屋跡を過ぎ、快適なハイキングコースが続く。大天井ヶ岳のトラバースでは再び激しい重機の音が聞こえる。登山道のわずか50mほど下まで林道が迫り、なにか大きな工事をしている最中だ。

 バスの通行を可能にするための林道拡張工事だとすれば、修験行者のためのものであって、退廃ここに極まれりというべきか。だいいち、ここは聖域ではなかったのか。女はダメだが車はOKとでもいうのか。こんなものを許せば、次はロープウェイに決っている。

 わずかで女人結界、新しい立派な門がある。この時代にあって、女性の立ち入りを拒否し続けている、つまり憲法違反の慣習を公然と認めている国立公園は世界中探しても、大峰山だけだろう。確かに、残り少ない無形の歴史的伝統を守りたい気持ちは分かる。だが、女人結界が尊重すべき宗教的伝統だと考えるのは、私には早まっているように思える。

 私が後に大峰修験道を知る過程で、この宗教は、実は民衆救済を目的とするよりも、権力者にとっての軍事的役割の方がはるかに大きかった事実が分かってきたからである。
 驚くほど残酷な生命軽視の悪行が重ねられていた。私は歴史的事実を知る度に、山伏に対するイメージが、崇敬から恐怖に変わるのを抑えられなかった。

 歴史的には、権力奪取のための、調伏という名の呪殺をはじめ、謀略・毒殺・略奪・殺戮など、およそ人間の薄汚い裏面のすべてに山伏が関わってきたことを知った。
 少女誘拐、幼童強姦殺害など序の口であって、山伏は恐怖のアウトローの世界であったことを思い知らされた。
 そこには、決して正義や民衆救済宗教の美しさはない。戦国の乱破と呼ばれた殺戮破壊専門の忍者集団の祖となったのも山伏であった。

 薄汚く残酷な世界に女性を入れるわけにはいかない。女性は本来、そのようなアウトローには向いていない。大峰山が女性を拒否し続けた真の理由は、決して表に出せないその恐るべき歴史的真実にあったのではないか?

 洞辻茶屋まで行けば日曜だから営業しているかもしれないと思ったが、たどり着いてみると閑散とした木枯しが吹くばかり、休憩していると、驚いたことにアベックの二人連れが登ってきた。「凄い、偉い、立派」こうでなくっちゃ。

 男の方はガッチリした体格で、おそらく修験者とのトラブルを避けるためだろう、洞川の消防団のスタイルで決めている。もっとも、山上ヶ岳に登った女性は決して少なくない。例えば、女性登山家として著名な今井通子さんも、沢登りついでに登頂したと公言している。修験の方も昔のような厳しい戒律にこだわる人は希で、その気になれば誰だって登れるのである。

 ただし、峰入りシーズンは避けた方がよさそうだ。権威や伝統にこだわる程度の低い人物が多いからだ。林道を開通させ、車を通すことは可としても、女性だけはまかりならぬと本末転倒の愚かしい主張をする者も多いにちがいない。それでも、そのような伝統が山上ヶ岳を開発させない力になっているとすれば、それなりに有意義だとは思うが。

 登山道は茶屋をくぐり抜けてゆく。整備された板敷の道を登りつめると金懸岩で、そこから広大な山頂になる。両側には、峰入り修行の回数を誇る供養塔が立ち並ぶ。最高が50回程度のようだ。自慢は結構だけど、どれほどの霊力を得たことか。観光バスでやってきて、洞川から登って一回じゃ、役の行者が泣いてますぜ。

 途中、「西の覗き」と呼ばれる有名な行場がある。関西地方の男子は、一度はここに連れられてきて、300mの垂直の岩場に宙づりにされて親孝行を誓わされる伝統があったと司馬僚が書いている。

 「親孝行するか、一生懸命働くか」と問われ、肯づかねば落とすぞと脅されるのである。本心にもないことを無理矢理言わされるのでは、関西に親不孝者が増える理屈だなどと思ったりする。

 ここには捨身行と呼ばれる自殺行があった。かつて、この岩の下には無数の人骨が散乱していた。その昔、年老いて自由に動けなくなった山伏は、ほとんど捨身、すなわち投身自殺したようで、その神聖な人生最後の行場がこの岩であった。
 本山派の熊野修験者は、那智ノの滝上から飛びこんだと明治の文献にある。生きていることが、よほどの苦痛だった時代があったのだ。楽しければ死ぬものか。

 大峰山寺の宿坊群はさすがに凄い。まるで白馬の山小屋である。造りの良い分だけこちらの方が見栄えがある。これらは全部人力荷揚げだから大変な労力だっただろう。しかし人の姿は見えず、寂しい冷風に包まれていた。

 山上ヶ岳の山頂は大峰山寺の上にあり、広大な草原になっている。展望良好。さきほどのアベックに出会った。行き先を尋ねられて、熊野までと答えるとびっくりした表情になった。せこい優越感を味わう。快晴だが、やたらと冷える。休憩もそこそこに歩き出さずにいられない。

 30分程で、水場の小笹の宿に着いた。稜線直下だが水流があって、広い平地になっている。無数の石組の基礎が残っていて、ここにかつて非常に大きな宿坊群があったことを示している。文献には、当山派根拠地、小笹36坊とでている。赤塗の堂宇と小さな避難小屋があった。ありがたい。新しく快適な小屋であった。

 広場の中央には立派な護摩行場が設けられ、護摩の燃えかすが散乱している。大峰75箇所の行場には、すべて魔除の独鈷が立てられ護符が貼られている。独鈷は、もともとブーメランに似た武器であったというが、柄がつけられ山伏を象徴する杖となった。

 岳人のピッケルと同じで多目的であり、ときにシゴキ棒になったりするのも似ている。中国由来のこの武器の存在は、修験道が道教の直接の継承者であることの端的な証明の一つでもあると思う。
 この時期、縦走を企てる酔狂な人間はいない。静かな小屋の夜はふけて、ハンゴウで炊く飯は旨い。

 快適な一夜を過ごし、まだ暗い早朝、ツェルトを畳んで大普賢岳に向かう。
 小普賢岳の長い登りにうんざりするが、大峰山脈の核心部に到った充足感がある。ここで和佐又山からの道を併せるが、このルートから前鬼までは10年ほど前に縦走している。

 このルートには岩屋が多く、晦日(つごもり)山伏といわれた行者が越冬した場所である。以前歩いたときに、岩穴の奥に人骨片が散乱しているのを見た。
 越冬に堪えられず死んだ山伏も大勢いたのだろう。また、この地域は名だたる日本狼の棲息地でもあった。山伏は、飢えた狼のよき食糧になったかもしれない。

 岩屋で晦日修行を行った山伏は、春先に石楠の花を手に里に降り、里人はこれを山の神として畏敬して迎え、花を田に投げ入れることによって、それが田の神になって豊饒の収穫を守護したと柳翁や釈超翁が書いている。神は冬に山へ入って水源を護り、夏に田へ戻って稲を護るという原始農耕儀礼の原型となる伝承である。

 もっとも、和歌森太郎や宮家準などの民俗学者による、そんなキレイゴトの伝承は、ごく一部の表向きの話で、南方熊楠は恐るべき山伏の峰入り修行の実体について、いくつかの著書で触れている。

 例えば、この稜線には「稚児落とし」などという地名がいくつかある。
 この山域では、女人禁制の戒律があって女性を連れてこれないので、山伏の性欲処理のために買い取られたか、誘拐されてきた稚児と呼ばれる幼い子供達が、疲労で歩けなくなったり病に倒れたりしたときに、垂直の断崖で墜落死させられた事実を表している。
 これは謡曲「西行」などにも象徴的に語られている。

 今日でも、人間の本能が剥き出しになる裏の世界では、子供達への性的虐待が後を絶たない。二重性のある権力社会では、公然と本音を語ることのできない社会的地位をもった人物が、好んでそうした幼児虐待ビデオを購入している。
 二重性の強い社会ほど、そうした二面性のある人間を多く生み出すのだ。それが歴史上もっとも端的に現れたのがナチズムであった。

 人が貧しいとき、手を取りあい、助けあって生きているときには、誰でも美しい道義性を磨こうとするが、皆が豊かになり、他人に見下されまいと背伸びをするようになると、人は愚かしい差別主義に走り、ソドムの道を歩むようになる。こうなれば破滅し、殺戮しあって、再び貧しくなる日を待つしかないのだろうか? 

 日本史を見ても(おそらく世界史も?)、室町期のような温暖で豊かな自然条件に恵まれた時代は残酷な争いが多く、江戸期のように寒冷化による過酷な自然条件の時代は、人々の心は暖かくなるのである。今日、繁栄の極地にいるわれわれの心は極寒といっていい。

 早朝7時前、標高1780m、大普賢岳のトンガリ山頂の眺望は、南の釈迦ヶ岳と好対照の北山脈中の圧巻であって、紀州を代表する360度の広大な山岳大展望である。果てしなく続く紀州大山塊に魅入られ、呆然としてしまう。

 歩いているうちに薄暗い地平線が明るくなり、明るく爽やかな朝がやってきた。そして突然、南の山なみが一箇所キラキラと、この世のものとも思えぬほど美しく輝きだした。

 一瞬、我が目を疑い、これこそ江戸期の山師によって記録された金鉱脈から密かに立ちのぼるという幻の御神灯かとも思ったが、やがて、熊野灘に朝日が照り映えていることに気づいた。それは、まるで光の饗宴というにふさわしく、神々しいまでの美しさであった。海と山との境の見分けがつかぬほど、紀州山塊は広い。

 ここから七曜岳を超えて行者還岳に到るまでが、大峰山脈の最大の難所であり核心であって、ギザギザの鋸の刃のような苦しい上下が続く。「稚児落とし」を渡り、クサリ場をいくつも越えて、梯子を上下し緊張を強いられるが、南アの鋸岳ほどではなく、整備されているのでそれほど危険ではない。

 困ったことに、途中の水場は長期の晴天続きのため全部干上がっていた。しかし、前回の縦走のときはササ薮漕ぎに苦しんだ縦走路も、今回は刈入れされて歩きやすくなっていた。

 弥山への登りは、美しく快適な樹林を行く。ここは行者還トンネルに車を置けば、わずか2時間ほどで登れてしまう。もう15年も前に洞川から狼平を経て登っていて、山頂は今回で3度目ということになる。山頂直下の急登が辛いが、ひさしぶりの亜高山帯の針葉樹林に心が落ちつく。道には、ところどころ雪や霜柱が残っていた。

 弥山小屋にも人影はなく、おまけに水場が干上がっていた。冬期用避難舎に入り付近を探すと、便所の手洗いドラム缶に厚い氷が張っていたので、それを溶かして使うことにした。ナタで氷を砕きハンゴウで溶かすのに、ひどく時間がかかった。

 山頂は、小屋の上の鳥居をくぐったところにあり、山麓の天河弁財天社の奥宮が置かれている。これは芸能人に人気のある社として知られる。弁財天は、大黒天とともに鎌倉時代から信仰されるようになった。サンスクリット原典では、河の神、知恵、音楽、財物の神とされ、8本の腕をもつ女の姿である。神道ではイチキジマ姫尊とされ、後に、大黒天とともに福徳の神になった。芸能人にぴったりの神様なのだ。

 我々の知るのは、宝船に乗った七福人の紅一点の姿であるが、本当はもう少し奥行きのあるものらしい。修験道では、「オン、ソラソバテイエイソワカ」というのが弁財天のマントラにあたる。サンスクリットにある弁財天の原型は、古代ギリシアに伝えられて美の女神ビーナスになったと考えられる。

 朝、水をウーロン茶の容器に詰めて出発した。ひどい水で、いちいち沸かして茶にしなければ飲む気になれない。そのお茶も、ハンゴウの蓋に湯を沸かし、安い茎茶を放りこんで茶葉をペッペッと吐きながら飲むのだから旨かろうはずがない。荷をコンパクトにするために、余分なものを一切持たなかったのだ。

 30分ほどで、弥山の兄弟峰で大峰山脈最高峰かつ関西圏最高峰の八経ヶ岳、1915mである。仏教ヶ岳や八剣山の名もあるが、小角が法華経八巻を奉納した故事から名付けられたのだから八経岳で正しい。

 大峰のヘソにふさわしい広潤な展望である。なつかしい既登の山々を指呼に見渡すことができる。紀州山地北部のピークは大部分終っている。およそ100山以上も登っただろうか。我ながら、よくぞ歩いてきたものだと思う。

オオヤマレンゲの自生地を経て七面山に向かう。この付近、大峰山脈中の白眉といえる風景で、最初の奥駆けのときは新緑で、その類希な広葉樹林帯の美しさに言葉もでないほど感動したものである。

 しかし、当時すでに右手の七面谷の伐採が始まっていた。今回も、そのときの伐採跡地の荒廃がそのまま放置されているのを見た。本当にやりきれない思いがする。官僚主義の害毒を見せつけられる思いである。人間が利己権益主義を原理として生活するかぎり、自身を滅ぼす以外の道はないことを思い知らされるのである。

 七面山に近付くと、主綾は典型的な二重山稜になり、船窪状の地形が続く。粗末な副食のせいでビタミン不足の症状が現れはじめた。歯茎の出血は明らかなCの不足、茶を食べて補うつもりだったのだが追いつかない。茎茶でなく粉茶を直接食べるのでなければならなかった。B不足の脚気症状も現れ、こちらは黒砂糖を食べて補った。

 七面山の南側には大峰きっての高度差400メートルの岩場がある。奥駆けのなかでも大切な行場だが、ここは魔の大岩壁とよばれている。ロッククライミング中の墜死者も少なくない。古いこんな言い伝えが残されている。

 「古田の森に黒霧かかれば、そのなかより魔いで来たりて人を連れ、七面のクラにゆくことあり」と。
 稜線を素直に歩くと、この大岩壁の真上にさまよい出る。無意識のうち、いつのまにか行ってしまう。山伏には、あまりの悪行故に成仏できないで彷徨する魂が多く、そうした幽冥界をさまよう悪霊が、志操の緩い者に取り憑き、死へと誘うのである。

 楊次の森から長い登りになる。ふりかえれば、七面山の魔の岩場がすばらしい。
 途中、激しい倒木帯にでくわした。前回の縦走の記憶にないから、これは昨年、三重県地方を集中的に襲ったいくつかの台風の仕業ではないかと思えた。ルートが判然とせず迷いやすいが、適当に尾根を外さずに歩いた。
 迷いこみやすい枝尾根が多いのでガスの日は危険であろう。おまけに途中で主綾が屈曲しているので、いかにも遭難しそうだ。これでは、よほど山慣れた者以外は危険だ。

 仏生ヶ岳から、長い散歩道を歩く。このあたり石灰岩カルスト露頭で、五百羅漢と名付けられている。いつものクセで、化石を探したが良いものは見あたらなかった。
 研磨しなければ発見が難しい。良い化石は、高級なビルの大理石を探すのがてっとりばやい。

 釈迦ヶ岳がだんだん近付いてくるが、なかなか届かない。鞍部には、良い岩遊びのゲレンデになりそうな巨岩がある。修験では、これを両部分けと呼び、吉野からここまでを金剛界曼陀羅といい、これから熊野神宮までを胎蔵界曼陀羅といっている。大峰修験道のデベソといっていい。

 岩を回りこむようにして、いよいよ釈迦ヶ岳の急登がはじまる。両手足を使ってよじ登り、喘ぎ喘ぎ30分ほどで山頂に達する。

 大峰南部の秘峰、釈迦ヶ岳は、実に5度目の登頂である。懐かしい釈迦如来像も健在。
 最初に登ったときは1800mの標高だったものが、いつのまにかわずかに低くなっている。だが、大峰きっての絶景は変わることがない。これほどの大展望は、紀州山地全体でも一位を譲らないであろう。

 大きなブロンズ製如来像は、大正年間に岡田牛松というボッカが上げたもので、分解しても一つが200キロ近くある。多年の落雷によってかなり傷んできているのが気になる。

 ここで奥駆け修行のハイライトである秘法護摩が行われる。ゾロアスター教の拝火信仰が伝えられた護摩(ホーマ)には、大きく分けて3種類あり、病気災厄を防ぐ息災護摩、福利現世利益のための増益護摩、敵を呪い滅ぼす調伏護摩であるが、中世、権力抗争に加わった山伏は、もっぱら調伏護摩を盛んに行った。

 大名の世継ぎ争いでは、山伏による調伏の記録がたくさんでてくる。庶民の間に、丑の刻参りが流行ったのもこの影響であって、有名なブードー教の呪殺と同じ性質のものであった。

 今では、もちろん息災護摩が中心であって、大阪商人の多い大峰修験者には、もっぱら増益護摩が多くなるのも当然であろう。釈迦ヶ岳では、柴灯護摩の勤行が行われ、これは先祖供養の意味をもっているとされる。しかし、これらは密教のもので、本来の習合神道の伝統行は消えてしまったが、昔の行の内容を知りたいものだ。

 釈迦ヶ岳を熊野に向かってまっすぐ下ると、誤って十津川村登山口に下りやすいが、笹に隠された道を見失わないように本道を左手に折れて下ってゆけば深仙(じんぜん)の宿に着く。ここに古い堂宇が建てられている。

 これが本山派の伝法潅頂の行場であって、ここまで約1週間にわたって苦しい修行を続けてきた山伏に、洗礼の意味もった資格付与が行われた。

 潅頂(かんじょう)とは、十種の行を修めた者に戒律を与える儀式で、行者は大先達に護摩木を渡し、大先達は行者の頭に香水を振りかけるのだが、キリスト教の洗礼と変わるところがない理由は、密教を体系化した不空三蔵が、当時、唐に伝わっていた最新の宗教であった恵教(キリスト教)をモデルにしたのだろうと考える。ただし我説である。

 深仙堂の脇をトラバースして戻ると、香精水という水場があって、これが潅頂香水にされる。これをあてにしていたのだが枯れてしまっていた。半月以上の晴天続きのため、ここまでの水場は全滅であった。残り水はコップ一杯程度。先が長いのに困ってしまった。

 ほどほどに休憩して出発すると、すぐに大日岳がある。左手の踏跡をたどればスラブ状の岩場があって、鎖を登りつめて頂上に達する。もちろん、行場である。
わずかで太古の辻に着く。ここが、大峰と熊野を分ける境になり、奥駆けも、ここから前鬼に下るのが普通である。

 予定では、もちろん熊野に向かうつもりだったが、水が不足しているので考えこんでしまった。次の水場である持経の宿までは4時間以上かかるが、コップ1杯の水しか残っていない。
 それに、水場が枯れていない保証もない。結局、前鬼に下ることにした。ここまでのコースは何度も歩いていて、ここからの熊野コースこそ目的にして歩いてきたのだが、残念無念で未練が残ってしかたなかった。

 左手の急な道を下りはじめた。途中、鉄砲の音が聞こえ、鹿の鳴き声が続いた。二つ岩という奇岩が現れれば半ばである。何度も通った道なのに、ずいぶん遠く感じる。途中の沢は、すべて枯れていた。この標高差と距離では、もう再登する意欲も湧かないだろう。

 杉林が現れ、五鬼童、五鬼熊、五鬼継などの住居跡の表示がされていた。前回にはこのようなものはなかった。そして、懐かしい五鬼助家の建物が見えた。ひさしぶりの前鬼。誰かいるだろうか。

 だが、なんと、あてにしていた小仲坊がないではないか。そこには、建物の新しい基礎だけがあった。驚いたことに、車道のなかったはずの前鬼に、そこまでコンクリート舗装の狭い林道がつけられていた。

 なんということだ、前鬼も変わってしまうのか。前鬼を取り巻く見事な原生林も、王子製紙の手によって無惨に伐採されていた。

 この山々は、日本狼の最後の棲息地であった。10年前に会った神戸市の斐太猪之助さんは、前鬼に泊りこんで最後の狼家族を観察していた。その斐太さんも亡くなられた。

 なによりも、私が前鬼を何度も訪れるきっかけになった最後の鬼の子孫、小仲坊の主であった五鬼助五郎義价さんが文字通の鬼籍に入られて、すでに5年も経てしまった。

 前鬼は、役の行者が大峰を拓いたとき、従者として小角を世話した前鬼と後鬼が棲みついて修験者の世話をするようになったという伝承をもつ。開闢以来、実に1200年の伝統があった。

 五郎さんは、その最後の末裔であり、親切な人間性は、誰からも愛されていた。
 私がはじめて前鬼を訪れた十数年前、五郎さんは離れの小仲坊でなく、自宅に泊めてくれた。その夜は、数名の登山者とともに酒宴になった。五郎さんは、ひどく酔ってしまった。その前夜、一千年以上護り通してきた前鬼の守護神であった役の行者像が盗まれていたのである。

 私が持参のブランデをーすすめると、彼は戸棚を開けてみせた。すると、そこには世界中の銘酒がこれでもかと並んでいた。五郎さんは、西洋人の血を引くかと思えるほど端正な容姿で、熊野のユダヤ伝説をほうふつとさせるほどだったが、五十歳を過ぎてなお独身であった。こんな辺鄙な場所に来る嫁などいなかった。

 彼がどれほどの寂寥に堪えてきたか、自分も同じような境遇になってみて身に染みる。暴飲暴食するようになり、やがて体を壊して入院するようになった。優れた修験道学者であった父親の研究を引き継いでおられたが、世に出ることもなかった。

 その後も、幾度か前鬼を訪れたが、五郎さんに再会することはできなかった。何度目か小仲坊を訪れたとき、親戚の若者から五郎さんの訃報を聞いた。死因は糖尿病による内臓不全であった。享年54歳、祈念冥福。

 小仲坊は改築されるようだ。天気が悪くなっていたので、雨を凌げる軒下を探したが見あたらず、やむをえず広場にツェルトを張った。ハンゴウで飯を炊いていると、さきほど鉄砲を撃っていた猟師が降りてきた。

 話しているうちに、五郎さんのありし日のことが話題になった。その人は、子供の頃からの友人で、頻繁に五郎さんを訪れていた。五鬼助家は京都に親戚があって、その人が小仲坊の経営を引き継いでいるという。

 それから、猟の話になった。「いや、今そこで熊に吠えられてな」と、こともなげにいう。鹿を追っていて熊に気づかず、危ういところだったという。前鬼の付近は熊が多くて、何度も出会っているという。

 狼も、1950年代まで普通にいたといわれた。撃って、大学に毛皮を持ち込んだこともあったが、頭骨がないという理由で正体不明という結論になったそうである。「学者なんて、そんなもんさ」といわれた。日本狼の滅亡の公式年代は明治42年なのである。

 「気をつけて」といって去った後、ひとり取り残されて薄気味悪くなった。ツェルトのなかでシュラフに潜りこんでも、小さな音にもおびえた。

夜半、ときどき鹿の鳴き声が大きく響き、近くで枯葉を分けるガサガサという重い音がした。「熊かもしれない」と思い大声をあげると、足音はゆっくりと遠ざかっていった。やはり熊だったようだ。キャンプ場には、残飯を狙ってよく現れる。

 雨がフライシートを叩くようになり、それでも、いつのまにかウトウトとしてしまった。さすがに、疲れがでたのだ。翌朝、ひどく寒く、すぐれない天気であった。もはや熊野に登り返す気力も消滅し、支度をしてバス停に向かった。荷は10キロ近く軽くなって楽になった。

 五鬼助家の先で、前鬼の裏行場二十八宿への道を分ける。ここは三重の滝に出るルートだが非常に危険だという。山伏にも多くの死傷者が出ている。旧道を戻り、林道に出る。そこからバス停まで3時間。

 トンネルの手前で、左手の不動七重の滝がすばらしい。知られていないだけで、日光華厳の滝や、尾瀬三条の滝にも匹敵する見事さである。7段で、総落差およそ200m
 林道をとことこと歩いてゆくと、前鬼口に近いオワシ谷という場所で、右手の薮のなかから、突然ものすごいうなり声がおこってドギモを抜かれた。

 見ると、数十メートル離れた藪の奥に、人の大きさほどの熊らしき影が立ち上がってこちらを見ていた。すぐに熊だとピーンときたが、初めてではなかったのであわてなかった。8月に、浅草岳に登ったときも、六十里越峠で同じように吠えられたばかりである。

 大急ぎでそこを駆け抜け、少し歩いて振り返ると、林のなかに黒いものが蠢き、再びすさまじい吠え声があたり一帯に響きわたった。今度は、少々あわてて走って逃げた。今にも追いかけてくるように思えたからである。何十頭の大型犬が一度に吠えたような迫力であった。

 バス停に着くと、すぐにバスが来た。間に合ってよかった。新宮まで1日4本しかないのだ。バスは、以前は大型だったが、今度はマイクロに変わっていた。ローカル交通は採算割れの一途だからやむをえない。

 乗客は私独り、貸切りとは豪勢だ。バスの運転手さんに熊のことを言うと驚いていた。今年は、ピナツボ噴火の影響で、長雨のため実生も不作になり、熊が里に出るケースが多いようである。紅葉の悪い年は、熊が多く捕れるというのは間違いない。

 熊野駅に近づくにつれ、客も増えてきた。沿道の山々は、秋の台風のためひどい風害を被っているのが見えた。バスのなかで、酔ってそのことをわめいている男がいた。熊野灘がひどく美しく見えた。

 このとき歩き残した熊野奥駆けは、翌年春、玉置山から笠捨山まで歩いたが、林道が尾根筋を交錯し、原生林はほとんど皆伐され、あまり気分の良いものではなかった。

それぞれの山の物語 5 南アルプス深南部 中編

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 それぞれの山の物語 5 南アルプス深南部 中編


 奈良代山  1624m
(磐田郡水窪町地頭方戸中の水窪ダムより、90年 3月17日)

 16日は寒い雨の日だった。こんな天気では、高い場所では雪模様だろう。憂鬱だったが、条件反射的惰性のために、頭脳を無視して体が勝手に遠州に向かってしまった。

 水窪町には元禄茶屋という良い食堂があるが、良い飲屋はないかとグルグル探し回ると、水窪警察署のそばに「玉之屋」という看板がでていたので入ってみることにした。ちょっと裏に入りこんだところに店があって、ノレンをくぐると、マスターの他に一組の男女がいた。

 こぎれいな普通の酒場で、オデンなどがメニューで、とりたてて珍しいものはない。奈良代山のことをたずねたが二人とも知らないようだった。私が山登りに来たと言うと、男性は、
 「親の心配も考えずに、どうしてあんなことをしたがるのか。」
 と全然ユニークでない発想で語りかけてきた。

 このような質問には辟易していて返答に戸惑ったが、話題を変えて、いろいろ調べていた地誌について触れると、私が水窪史についてたくさん知っているので驚いていた。

 女性は、私を「魅力ある」と言ってくれた。私は、普段、浮浪者のような身なりをしているので、胡散臭そうに見られるだけなのだが、こんなこと初めて言われた。

 男性は、神原の耳塚氏と言い、姓氏のいわれを調べてくれと頼まれたので、後に、大日本姓名辞典で調べると、項目はあったものの記述がなく、期待に沿えなかった。
 しかし、戦国時代の激しい戦闘で首級を持ち運ぶ余裕のないときに、耳を切り取って働きの証拠にしたことは普通だったようで、それらは耳塚に埋葬されたにちがいなく、印象深いこの地名が姓名に変わるのは自然なことだ。

 この付近でそのような大規模な戦闘が行なわれたのは、1575年、織田信長と武田勝頼による長篠の戦いで、これは世界戦争史上初の画期的な鉄砲による近代戦だったから、これがおそらく耳塚の由来になっただろうと思う。
 耳塚氏は、私より5年ほど年上だが、女性と待ち合わせたりして、なかなかヤリテのようだ。うらやましい。

 奈良代山は、麻布山登山口の手前の左に分岐する林道に標識が出ていた。
 尾根を絡む道を車で走ると、急斜面の尾根にへばりついている峠や根の部落を見てどんどん高度をあげてゆく。ここらの家の破風には、菊の紋章が刻まれていた。しばらくで、「水窪自然クラブ」という宿泊所や体育館の完備した立派な施設がある。ここは夏期のみ営業で、この時期はヒト気がない。

 ここから、水窪湖を隔てた対岸に、視界いっぱいの麻布山が見え、その重厚で貫禄のある姿に圧倒された。安定感のあるすばらしい姿だ。

 このあたりから新雪がでてきた。林道は地図よりもはるかに奥まで伸びていて、ほとんど奈良代山の直下までいっていた。雪が深くなったが、4WDのおかげで終点まで行った。

 針葉樹林の歩道にはテープがたくさんついていて迷うこともなかったが、標識にしたがう切り拓かれたばかりの道は、山頂を巻くようにつけられたひどく歩きにくい道で、なんでこんな道がつけられたのか疑問だった。

 しばらくで尾根の分岐があって、まっすぐそのまま歩くと戸中林業事務所の方へ降りていってしまったが、コンパスを見て誤りに気付き、あわてて山頂方面に戻った。

 林道の終点から1時間もかからずに達した山頂は、全然展望がないのでがっかりである。黒沢山方面のヤブ尾根を歩くと、ところどころ腰まで雪に埋まり、ワカンがなければ歩行不可能であることを思い知らされた。

 しかし、そこに登り道と別の道を見つけたので降りて行くと、突然、幻想的なまでに美しい1ヘクタールほどの湿原とおぼしき空間にでくわした。これが山登りの醍醐味なのである。

 どうやら、これが山名の由来となった奈良代のようだ。このときは新雪に覆われて殖生を確認できなかったが、すばらしい高層湿原であることはまちがいない。これで、登り道が変なつけかたをされていた事情も納得がいった。こんなところに、手軽に来させないほうがよいのは当然である。これを見るのは、私だけでよろしい。

 帰路、新雪の下のアイスバーンに気づかず、なんでもない傾斜で滑落した。全然止まらず、ヤブに突っこんでやっと止まった。冬山セットを持参しなければ危険であった。なめてはいけない。

 これは、山神様のご機嫌を損ねているのであろう。宮崎日出一氏からいただいた手紙には、山神はオコゼが好きで、オコゼとはすなわち陽物のことであって、山中で困難が生じた際に見せることで、まことに霊顕あらたかであると記されていた。山神様は女性なのである。

 これは、助言に沿って見せねばならない。そこで、まわりにヒト気のないのを確認して、変態気分を満喫しながら見せてまわったのであるが、とたんに再び滑落してしまった。

 これはいけない。私の思うところ、山神様の好きな一物は、使い込んで黒光した見事な代物でなければならず、私の貧しい一物では逆効果のようだ。

 ところで、そのための代用品こそがオコゼであって、オコゼとはいっても本当の毒のあるオコゼではなく、柳田国男の「山神とオコゼ」によれば、ガシラと呼ばれるカサゴを干物にしたもののようだ。魚屋でガシラを望見すれば、それがいかに陽物の化身であるか一目瞭然なのである。

 秋田のマタギから九州椎葉の猟師にいたるまで、猟に入山するときは、オコゼを守神として持参したという。
 日向の猟師はオコゼを紙に包んで持参し、狩の前にこう祈る。

 「オコゼ殿、オコゼ殿、今日は一頭の猪をとらせてくだされ。そのお礼に、あなたにこの世の光を見せましょうぞ。」

 といって、紙でオコゼを包む。願いの通り猪がとれると、また紙で包む。なんのことはない、オコゼ殿をだますのである。だから、先祖から伝わった古いオコゼになると、とれた猪の数だけの紙に包まれていて、誰もその中身を見たものはいない、と柳田は書いている。なんという麗しい風習なのであろう。

 ところで、宮崎日出一氏は、金剛山六千回を含む一万回を超えるほどの比類なき登山を行っておられる方だが、氏の紀行文集である「山岳巡礼」を拝見すると、たびたび山中で一物をお見せになっておられるようだ。

 車に戻ったのは10時で、時間もあり欲求不満なので、秋葉山に行った。

 もう新雪は溶けていて、山頂駐車場に車を置いて歩いた。十年ぶりの再訪だが、前回とは大きく様変わりしていた。鉄骨製の回廊風階段が設置され、山頂の神社もコンクリート製の実に無愛想な代物に変わっていた。
 なるほど、これなら二度と消失することはないだろうが、こんなもの八百長だ。シラけるばかりである。

 この神社の経営者たちは、とんでもない思い違いをしているようだ。こんなコンクリートの低俗な建物に、神様が安らかに鎮座するとでも思っているのだろうか。神霊は、いにしえを好むものと相場が決まっているのである。

 およそ神様が住まわれるからには、建築後最低でも百年以上、できれば三百年以上を経ていなければならない。そうしてやっと、建物は自然に同化し、八百万の霊魂が棲みつくとともにジワジワと神気に包まれてゆくのである。

 私の見るところ、三尺坊の魂は再び越後に逃げ帰ったに違いない。ああ、これからは火事の多い厄年が続くことになろう。すべては、秋葉神社経営者の軽率に帰せられねばなるまい。

 樹齢千年を超す巨杉は健在だった。そこから両部神道で有名な大権現秋葉寺に降りる尾根はヒト気もなかった。いまどきの参詣者は、車から数百メートルも歩かないのだろう。三尺坊の宿舎は、もう長いこと営業をしていないように見えた。世間は、何もかも車利用を前提に再編されてゆく。車に無縁な世界は滅び去るのみなのだろうか。



 黒法師岳 2067m (磐田郡水窪町水窪ダム戸中林道より 91年3月21・22日)

 数年ぶりの寒い冬も、3月に入るとさすがに辛いほどの厳しさも薄れ、「暑さ寒さも彼岸まで」という先人の格言通りに、めまぐるしい周期で晴と雨の日が交互に続き、一雨ごとに山の色彩も密かに移ろってゆく。

 そんな彼岸の日、2日の連休をとって念願の深南部主稜へとでかけた。南アルプス主稜も、光岳以北は大部分を歩いているのだが、深南部の主稜については、池口岳などわずかしか登っていない。

 不動・丸盆・中ノ尾根・信濃俣などの魅力的な山域はまだこれからであるが、ヒルの多い夏期よりも、水の心配をしなくてすむ積雪期の方がよいかもしれないと考えている。今回めざすのは、あこがれの一等三角点である黒法師岳と、できれば丸盆岳や不動岳も行ってみたかった。だが、天候には恵まれない。

 水窪ダムの、戸中林道をどんどん走ると黒法師岳の登山口があるはずだった。途中、長者屋敷跡という古跡には、宝篋印塔という石灯篭が残っている。これは中世中国伝来の珍しいもので、なぜこのようなものがここにあるのか謎に包まれていが、どうやら、南北朝時代、ここを拠点に北朝に対してゲリラ戦を展開した南朝方宗良にまつわる遺跡であるらしい。

 水窪ダムから10キロほど走ると戸中林業事務所の大きな建物が見え、その前には頑丈なゲートが行く手を塞いでいる。9時頃に到着したとき、すでに数台の車が停車していた。ここから歩かねばならない。
 ここで、普段から車に積みっぱなしにしている装備をまとめた。さすがに、3月の2000メートル級山岳だから、まじめにピッケル・アイゼン・ワカンの冬山セットも持参することにした。

 テントや、悪場として有名な鎌ナギ通過用のザイルなども含めると、優に30キロ近い荷物になってしまった。
ながらく重荷を担いでいなかったので、ひどく重く感じる。足どりも重く林道を進むと、2時間ほどで右上に目指す黒法師岳はじめ、丸盆や不動のきびしい姿が魅力的に見えるようになる。とりわけ、鎌ナギ付近の稜線のシルエットが、中アの仙崖嶺に似ていて個性的な見事さである。

戸中ゲートから8キロも歩くと、右手に日陰沢林道の分岐があって、そこに黒法師と不動の看板がでていた。地元山岳会のものである。

 ここまで来る間にも林道は相当荒れていて、数トンもありそうな巨石が道路の中央に落ちていて、車の通行は不可能のようだった。日陰沢林道はもっと凄くて、崩壊が進んで完全な廃道になっている。

 荒廃したこの道を1キロも歩くと、右手に青いトタン葺きの小屋があって、左手の山腹に踏跡がついている。赤布が取り付けてあるから、ここが等高尾根の登山口なのだろう。

 小屋は充分に使用可能で、しかも快適そうだ。旧営林作業小屋を登山者の便宜に提供していてくれるようだ。これを見て、ここに泊まって軽装で駆け登った方がよいかとも思ったが、時間も早すぎるし、たまにはテントで泊まるのもよいと考え尾根に向かった。一服の後、出発は昼過ぎになった。

 しかし、登りはじめてしばらくで、重荷を背負ったことを後悔するハメになった。このコースはよく踏まれているとはいっても、笹薮は深く急で、かなり歩きにくい。おまけに、1500m地点あたりからアイスバーンになってしまった。
 まったくペースに乗れない。普段の運動不足が響いてか、珍しくバテてしまった。

 めったに休憩などしない私が、5分登っては5分休むような悪循環に陥ってしまった。ルートは、いつまでもカリカリの氷の斜面が続いている。斜面が急なので、滑落したら樹林帯といえどもただではすまないだろう。アイゼンを装着した。
 軽装なら1時間半もあれば充分な尾根道に3時間以上も費やして、稜線に飛び出したのは、すでに4時近かった。
 尾根の上部は、南アルプスらしいシラビソやブナの快適な樹林帯になる。
稜線はさすがに雪が深くて、ところどころ股までもぐった。ワカンつけなければ全然歩けない。昨日の大雨で、雪が腐ってしまっているのだ。かと思うと、アイゼンの歯もたたないようなアイスバーンも出現したりする。

 これでは、丸盆や不動どころのはなしではない。黒法師岳でさえ、たどり着けるかどうか危ぶまれる。いずれにせよ持参のテントを設営することにした。
 稜線の小広い地点に荷物を広げると、持参したはずのテントのポールが見あたらない。他にも、ラジオや飲料水用の濾紙なども忘れている。このときばかりは、とうとう早発性痴呆症か慢性アルコール中毒性脳変性を発現したのではないかと真剣に心配になった。
 でも、よく考えたら、これが私の本来の姿だったことを思いだして安心した。

 幸いナタがあったので、近くの木の枝を伐採してポール代わりに用立て、ことなきをえた。雪水も、昨日の新雪が残っていたので、濾紙を使うまでもなかった。ただ、ラジオを忘れたのは退屈で困った。
 この日は、ここでそのまま寝てしまうことにした。

 わりあい暖かい日で、3シーズンシュラフしか持ってきてなかったが、十分に寝ることができた。
 夜半、雨がテントを叩きだした。しかし、しばらくでその音も消えた。
 朝4時に起きてみると、天井が垂れ下がっている。チャックを開けると、テントの上に雪が積もっている。外には、およそ20センチの新雪があった。これは予想外だ。この日の天気は、それほど悪いという予報ではなかったはずだ。

 ところが、稜線の向こうに見える前黒法師岳は、明らかな上下の二重雲にとり巻かれていた。これはまずい、二重雲は悪天の確実な前兆である。数時間後には、豪雨になる可能性が考えられた。

 不動岳はともかく、ひとつも登らずに逃げ帰ったのではカッコウがつかない。せめて黒法師だけでも登らねばならない。食事も取らずに、あわてて駆け出した。ワカンを装着し稜線を行くと、右手にガレ場を見て急な尾根を登るようになり、等高尾根分岐より1時間ほどで山頂に達した。と書くと簡単だが、実際は結構大変な歩行になった。

 黒法師岳の本峰頂上付近は、実に美しい針葉樹の森である。ゆるやかな頭峰で、展望は皆無であった。それでも、森の雰囲気がすばらしいので充分に満足することができた。ここにはエックス字型の変則三角点標識があるはずなのだが、1mの積雪に埋もれて全然わからない。興味はあったがどうしようもなかった。

 深南部の山々のなかでは、三角点の置かれたこの黒法師岳と大無間山は、古くから知られていた。旧榛原郡誌に、明治42年7月の、孟八郎による黒法師岳登山記がでている。

 「黒法師岳に上るには、大間・河内より入る。湯山より西にはケヤキ・ハンノキ・モミ・栂等の混淆樹林にして、下湯沢より上湯沢に至り、これよりは斧鉞入らざる密林にして森の下草は概ね熊笹なり、この辺までは冬は猟師通ひ、夏は黐取り入るといふ。

 焼畑のあたりに山葵沢あり。これより深く入れば雑木は少なくして針葉樹となり、青ナギ沢より西沢山を上がり青ナギ點に出づ。ここにては、東及び東北に奥法師・前黒法師を見、西南に板取・たばねぼつ・川上等を望むべし。

 これより西北に下りて大久保の小屋にい出づ。更に東北にたどり二ツ山にい出づべし。ここには針葉樹・ブナ・樺等を生ず。黒法師には五尺余の熊笹簇生ず。頂上は樹木なく、円盤状の小平地にして一等三角点の設あり。

 さて、二ツ山より更に方向をかへて、前黒法師に上がるべし。前黒法師には熊笹はなくして栂の密林ありて、その下には高野万年苔・甲苔等を布き、間々梅鉢草・舞鶴草などを點綴す。
 頂上には黒松・唐桧・ビャクシン等簇生し、三等三角点を置く。これより南に下りて湯沢に至るべし。」

 これでみると、明治末にはすでに一等三角点が敷設されていたようで、その頃には頂上に樹木はなく、すばらしい眺望だったにちがいない。孟八郎は、現在の寸又峡温泉の源泉地を経て上ったようだ。

さて私だが、黒法師山頂にやっとの思いで到達したものの、すでに小雪がちらつき始めていた。やがて本格的なミゾレとなり、もう丸盆岳にまで足をのばす意欲は失せた。急いでテントを畳み、7時には下山を開始した。

 昨晩のうちに新雪が積もったため、昨日の自分のトレースが完全に消えてしまっていた。等高尾根には標識テープがついているが、枝尾根が錯綜した恐ろしく複雑な地形で、テープを見失うと地形図とコンパスだけではとても下れそうもない。

 2、3回もルートを失い、元に戻って慎重に確認しなければならなかった。急なアイスバーンの下りはアイゼンをつけていても相当な危険を感じたが、1時間半ほどで日陰沢林道に降り立った。

 戸中山ゲートまでの道は長かった。雨は予想通り豪雨に変わり、ズブ濡れになって歩いていたのでひどく寒気がしてきた。車にたどりつき着替えると、心からホッとため息がでた。

 帰路、水窪の元禄茶屋名物のジンギスカンで腹ごしらえをして帰った。ここは肉屋も兼ねていて、旨い焼き肉を食べさせてくれる。
 そういえば、秋葉茶屋の名物もジンギスカンなのだが、この地方の名物がジンギスカンである理由は、平地が極端に少ないため、傾斜の強い山腹で飼育可能な羊を飼う農家が多いためであるという。



 麻布山  1685m
(磐田郡水窪町地双、水窪ダム湖、戸中大吊橋より 91年2月24日)

 麻布山は、秋葉山にはじまり常光寺山を経て黒法師岳に至る長い稜線に頭をもたげた、息をのむほど重厚な貫禄の山である。

 この山の背後に、前黒法師山1782m(前黒法師岳1943mとは違う)があって、その奥に鎮座する名峰黒法師岳に至る稜線伝いに踏跡があるという。この日は、前黒法師山をめざした。

 3月はじめに、京都の伊藤潤治さんから「日本山嶽誌」の深南部についての抄粋をいただき、添付の手紙には、山嶽誌に記された栃生山(戸中山)が麻布山であると書かれていた。ついでに書くと、恵儀岳は中ノ尾根山、西俣岳は塩見岳ということで見解が一致した。

 ちなみに伊藤さんは、過去にこの地域の多くの山を踏破されておられるヤブアルピニストの超ベテランで、77歳の今もバリバリの現役で、もはや超人というしかない方である。

 古い地図を見ると、戸中山の標高は、ほとんど麻布山のものになっているし、他の山々から望見した姿も、麻布山のピークの雄偉な姿がひときわ目立つので、かつて、この山が戸中山であったことは疑いない。現在の戸中山は、前黒法師山との間の1610mのピークに位置づけられている。

 登路の資料が得られなかったので、2・5万図通りに、水窪ダムの戸中吊橋からの破線路をめざした。
 ところが、この日、今冬最大で数年に一度しかないマイナス50度以下の寒気団が日本上空にきていた。天気予報は最悪で、日本全国(珍しく太平洋側も)雪模様であった。しかし、懲りもせず23日夜、出発した。まったく非常識というしかない。

 24日も、幸い戸中吊橋までは支障なく来れ、空模様も、ときおり薄暗くなるものの、青空の見えることもある程度だった。冬靴が壊れているので、スノーシューズを履いて出発した。

 吊橋を渡ると道は右手の山腹を上がる。キリキリする寒気のなか、最初からサラサラの新雪の中を歩くことになった。

 作業小屋を過ぎると、左手の尾根を上がる。右手に廃屋を見て、わずかで右の草むらに小さな石碑があって、板橋城水没記念碑となっている。水窪ダムによって水没した史跡を移したものらしい。

 その先5mほどに、右手に登る分岐があったのだが、この時は気づかずに真っすぐの良い歩道を歩いた。どんどん歩くと、伐採現業地の尾根になった。見事な杉と桧の植林地で、木曾の美林にも匹敵しよう。
 ここの切ったばかりの桧の年輪を数えると、約200~250輪ほどであったので、これこそ山住家の植林地なのだろうと思った。

 年輪気象学というのがあって、その地域の過去の気象データは、古木の年輪によって正確に確認できるという。興味をもって、しばらく観察することにした。

 この植林は、江戸中期のものらしいが、後期までの100年間は、稀に見る順調な生育を示している。ということは、この地域は江戸後期まで非常に温暖な気候に恵まれたということである。徳川幕府が長期に渡る支配を確立しえたのも、この温暖の恵みによってであろう。民衆は、食える限りにおいて、権力のどんな横暴でも我慢することを、すべての歴史が証明している。

 ところが、百数十年前、浅間山の噴火やクラカトア火山の噴火に伴う大冷害の発生期、つまり天保天明の大飢饉の年前後は、異常なほど年輪が詰まり、この傾向は百年ほど前まで続いている。そして、食えなくなって明治維新が起きた。最近では、50年ほど前にも年輪が詰まっている。戦争中だろうか。

 このような観察は、ぜひお勧めしたい。各地域によっての差異を発見するのは興味深いものである。これこそが、学ぶというものだ。

 伐採用の道をつめると、上部で道は消えてしまった。新雪のなかなので見失っただけかもしれない。とにかく、強引に尾根に這い上がることにした。

 よじ登った主尾根に、立派な道があった。おそらく木馬道であろう。この地域の山は、登山者がほとんどいないわりに、しっかりした道の多いのは、古くから木地師が深い山奥に居住していたことと、現在もなお、山里の住人と山との日常的な結びつきが強いためであろう。

 この日、狩猟シーズンも盛りで、ここまで散弾銃の発射音が絶えることなく聞こえ続けた。もしもライフルなら、本気で流れ玉の心配をしなければならないほどであった。
 対岸の峠や戸中部落の付近からである。いったい、何千発撃てば気がすむのだろう。あれほどの玉が全部命中していたら、南アルプスの生きものが全部死んでしまう。だが、下手な鉄砲は数撃ってもあたらない。

 どんどん登ると、尾根が痩せて急登になった。このあたりからサラサラの新雪の下に恐怖のアイスバーンが出現した。簡易アイゼンでは歯がたたない。ピッケルも持参せず、怖い思いをした。

 稜線に出ると、積雪は1mほどあるようだった。大きな雪庇がでていて、吹き溜りでは腰まで埋まる場所もあった。ラッセルに苦しんだが、しばらくで山頂の平原地形に達した。ここまで、吊橋からおよそ3、4時間みればよかろう。雪上に踏跡は皆無であった。

 広大な山頂平原は、数ヘクタールはあろうか。シラビソなどの針葉樹林が密生し、見通し皆無で方向感覚が分かりにくい。帰路は自分のトレースに頼るしかない。

 樹林の中に半ば倒壊した小屋があったが、使用不能と思われた。その先に、山頂らしき切り開きがあった。だが、このときにわかに黒雲が天を覆い、心配していた風雪が舞いはじめた。これで前黒法師はあきらめ、ただちに下山することにした。途中から、非常にイヤな予感に包まれていたからである。

 やがて激しい降雪がはじまった。みるみるうちにトレースが埋まってゆく。あわてて降りようとするが、アイスバーンで何度も転倒し、雑木につかまりながら必死で降りた。
 やっとの思いで、緩くて歩きやすい山道に戻り、朝通らなかった良い道にしたがって下山すると、トタン葺の社のある伐採地を経て、石碑のそばで朝の道に合流した。そこに赤いポリ紐をつけ、無事に車にたどり着いた。

 帰路、水窪町から豊橋に出たが、この地域に珍しい積雪が始まっていた。豊橋インターから岡崎インターまで東名高速を走ったが、妖気とでもいうか、なにか異様に不安な印象を持った。

 余談だが、私は最近、トラックを運転中に突然、ある大きな橋の上で欄干を突き破って川に転落する幻想にとりつかれて怯えた。翌日、その場所にくると、車が川に転落していて、運転手は死亡したと新聞にでていた。

 この夜、この付近で、降雪によるスリップのため2台のJRバスを含めた80件の衝突事故が発生し、死者9名、負傷者100名余の大惨事になったことを知ったのは、白銀の世界となった翌朝であった。



 毛無山 1946m(90年5月26日)

 富士山の好展望台として知られる天子山地の毛無山は、全国に30座余りある毛無山の最高峰だそうである。

 東京にいたときに、このあたりの山は総ナメにしたつもりだったが、調べたら未踏で残っていた。しかし、200名山に取り上げられていなければ、わざわざ行かなかったかもしれない。

 土曜の夜、国道52号から4月に買ったばかりの4WDバンで身延町を目指した。下部温泉から湯の奥まではマシな道で、それから狭い林道になった。しかし、2・5万図の登山道の取りつきはまったく分からず、いつのまにか大きなトンネルを抜けて訳の分からぬ場所に出てしまった。

 手持ちの地図には、こんなトンネルの記載はない。ここが、どうやら朝霧高原であることが分かったのは、富士宮市の灯火が見えたからである。

 湯の奥に戻り、適当な道傍で車泊した。翌朝ゆっくりと車道を探すと、地図の位置から2Kmほど先の、右に沢が近づいた石の擁壁の上に標識があった。
 地図に記された中山尾根のコースは、廃道になっていることを後に知った。ところどころにある、中山金山の道標にしたがって登る道は、しっかりしているが急登である。

 やがて江戸時代の中山金山の、女郎屋敷跡や代官屋敷跡などの施設跡が現われる。
 隔離した場所で働かせる男たちの不満を緩衝するには、性的奴隷を置くに限る。このあたりの伝統は、第2次大戦中、従軍慰安婦として朝鮮の人々の子女を強制連行し、日本兵の慰みものにした日本人の体質に引き継がれている。このとき「処女供出」を命令した日本軍関係者は、戦後も断罪されることなく政権に復帰したのである。日本政府はいまだにこの事実を認めていない。

 女郎の多くは、朝鮮人・沖縄人子女の従軍慰安婦と同様、役に立たなくなれば真っ先に殺害されたであろう。ここと似た金山跡でしばしば見かける「女郎落とし」などという地名は、そのものズバリである。

 ここまで、奇妙なことに気がついていた。登山道のすべてに掘り返したような跡がある。よく見ると、道にある岩や石が取り除かれているのである。金山跡の広い敷地は立入禁止のロープが張られ、テント式の携帯トイレや休憩所まで設置されている。これで、誰かオエライサマのが登山するための準備であることが分かる。

 誰かといえば、おそらく「ナントカノミヤ」であろうと思われた。バカげた話である。日本人がかくも愚かであるとは。いろいろ書きたいが、ものを言う気力も失せそうだ。

 明治以前、京の貴族が地方へ行くと、土地の人間は、貴族の浸った湯をありがたがって飲んだそうだが、この人達も同じ類か。
 現代日本にも「裸の王様」の逸話が、まかり通り続けているとはアホラシの度が過ぎる。自分に自信のない者は、権威や肩書に頼るしかない。これを「虎の威を借るキツネ」という。

 登山口から1時間半ほどで、突然、富士山の巨望が飛び出す。稜線からの、雄大なすばらしい展望である。富士を狙うカメラマンは、馬鹿の一つ覚えのように三ツ峠山に集まるが、周囲にはいくらでも良いポイントがある。メダカのように群れたがる人間は、決して良いものを得られない。

 稜線の道はさらに急になるが、30分ほどでゆるい美しい尾根となる。ときどき南アルプスの眺めが良い。しばらくで毛無山の山頂に着く。登山口から2~3時間というところだろう。富士山の眺めの良い、小広い草原である。一等三角点の測標が据付けられていた。

 ここには「天子山地の最高峰」という看板が立っているが、どう見てもその先のピークの方が数十メートルは高い。一体どういう目をしてるのかいな。
 そこで、最高峰を目指して40分ほど歩いたが、潅木と薮の、どこがどうだか訳の分からぬ山頂であった。200名山には、ここが大見岳という名で、1975mの標高であることが記されていた。

 帰路、久しぶりに登山者に出会った。やはり、中年の単独行であった。この人に、「ナントカノミヤですかね?」と聞くと、「たぶん、そうでしょう」といわれた。
 下部温泉の保養センターで一風呂浴びたが、瀘過された薬品臭い湯であった。湯舟から川を見ると、典型的な金鉱床の白い石英岩層が目についた。ヒマがあれば掘ってやるのだが、しかし、ヒマはない。



大無間山 2348m 静岡市井川田代より 90年7月7・8日

 大無限山も深南部の盟主として君臨し、一度は登らねばならない。これまで登っていないのが不思議なくらいだ。

 金曜の夜、大無限山をめざして、岡崎ICから東名にのって袋井ICでおり、金谷から大井川を遡って井川の田代に入り、車中で泊った。途中、千頭の町は七夕でにぎわっていた。翌朝、いまにも雨が降り出しそうな曇天を出発した。

 田代の部落から始まるはずの地図に記された登山道は見つからず、地元の人に尋ねると、部落の北のはずれの神社の鳥井から尾根を登るとのことだった。
 教えられた通り参道を登ると、数分で左手に沼津カモシカ山岳会のつけた大無限山の道標があった。

 しばらく快適な小道が続いたが、不調でメシが食えなかったので早々とバテた。しかし、そこはなんとかゴマカシながら3時間ほどで電波反射版のある小無限小屋に着いた。ここまでの道の状態は、想像していた悪路と違って、なんの不足もない良道だった。

 小無間小屋は、中部電力の巡視用施設である。登山者に便宜をはかるために開放されてはいるが、避難小屋ではない。しかし、なかなか良い小屋で、一晩を過ごしてみたい魅力がある。当然、水場はないが、雨水をためるドラム缶が置いてあり、落葉が澱み大量のボウフラが湧いているが、漉して沸かせば飲めぬこともなかろう。ボウフラは良いダシがでる。

 ここからは南アらしい原生林の尾根を行く。踏跡もヤブに覆われ探しずらい。いきなり鋸刃の急登、急降下が続くが、言われるほど危険な場所ではない。しかし、なかなか手強い尾根だ。もう小無間の頂上かと思うと、まだ先にピークが続き、バテも手伝ってイヤケがさしてくる。

 やがて雨が落ち始めた。ヒルを心配したが、なんとか無事に、小屋から2時間で小無限山の頂上に達した。
 頂上は、美しい原生林のなかの快適な小平地である。すてきなテント場だが、大無限山に至るこのコースは水を下から持ち上げるしかない。

 ここまできて、メシヌキのバテが一度にやってきた。もう大無限山まで達するには肩と足が重過ぎる。雨もひどくなり、しばらく歩いた末に引き返すことを決断した。
 小屋に戻ったのは3時半であった。まだ十分降りられる時間だが、なんとなくこの小屋に泊まってみたくなった。

 やがて、雨はものすごい土砂降りとなって小屋のトタン屋根を激しく叩いた。誰もいない薄暗い小屋でラーメンを作ると、やっと食欲が戻ってきた。

 小屋には落書帳が置いてあり、思い付いたことを書き込んだ。夕闇を迎える前、一瞬空が明るくなったので外へ出てみた。電波塔の前は開けていて周りの山が見える。やがて、数キロ先の指乎の間に、霧の薄衣を纒ったピラミッドの大無限山が姿を現わした。威厳のある見事な姿であった。私は、ここまで来れたことだけでも満足できた。

 夜、再び豪雨となった。どうやら小屋泊は正解らしい。私のツエルトではこの雨は防ぎきれなかっただろう。
 翌朝も激しい豪雨は続いた。田代に着いたときは下着までビショ濡れとなった。

 大無間山の山頂には、1993年9月に登頂した。同じルートで、田代から山頂までおよそ8時間程度かかり、山頂の測量櫓の板の上で幕営した。

 小無間山から大無間山までは緩い尾根歩きで、登山者が増え踏跡がはっきりしてきたたこともあって迷うことはないが、水を持参したほうがよい。煮炊きを避けてパンなどですませれば、水も少なくてすむ。私はウーロン茶の2Lペットボトルを2本持参し、それで不足はなかった。

 アマチュア無線の交信を楽しみながらの山旅で、山の楽しみが増えて喜んでいる。ここから、わずか1Wの出力とハンディアンテナで奈良県と交信でき驚いた。

 帰路、いつもの接岨峡温泉に行ったところ、道路や建物が激変していて、またまたびっくりさせられた。バブル経済で余った金を、無理にこのような形で消費しているのだろうが、私には、数十年後の悲惨な廃虚のイメージしか見ることができない。愚かしいばかりだ。

 鄙びて落ち着いた雰囲気の良い鉱泉だったのだが、すっかりイメージが悪くなり、入浴の意欲も失せてしまった。



熊伏山 1653m
(長野県下伊那郡南信濃村下和田より 90年8月20日) 

 「信州百名山」の著者、清水栄一さんが自著の中で遭難したと紹介した熊伏山は、日本300名山にも含まれている。

 南アルプス光岳から池口岳へ向かう稜線は、中の尾根山で黒法師岳に向かう長大な尾根を分け、兵越、青崩峠に落ちこんだ後、熊伏、観音を盛り上げて佐久間湖に消える。
南信の平岡は今でこそ過疎村だが、ところどころ、ありし日の栄華を偲ばせる建物が残り目を楽しませてくれる。かつてパルプ産業が盛んであった頃、また天竜水運華やかなりし頃、平岡は有数の花街として知られたこともあるという。

 日曜の夜は平岡から青崩峠に至る途中で車泊した。月曜の早朝、青崩峠の終点に車を止めたが、地図にある峠道のはずの小道の入口には「これは峠には行けません」という看板がかかっていた。

 2・5万図をどう読んでも、ルートはこの小道以外考えられなかった。はっきりしないまま、この道を詰めることにした。

 上部にきて、この道が青崩れガレの土留工事道で、本当のルートは左の尾根にあるらしいことが分かってきた。

 幸い工事の人達が登ってきたので聞いてみると、やはりそうだった。しかし、左のガレを強引に詰めれば熊伏山への稜線に出られるとのことだった。

 教えられたコースを行くと、しばらくして踏跡は消え、稜線まで100mほどの高さのガレ場となった。ところどころ土止柵があるので、岩ナダレの心配は少ないが、3歩登って2歩ズリ落ちるイヤな登りとなった。詰めは傾斜50度近くなった。とても立てないので、草につかまって四つんばいで進んだ。だが、やがて進退窮まる状態になり、冷や汗で背中が冷たくなった。

 万事窮したか、と思ったとき目の前にシカのフンがあるのを発見した。「シメタ!」と思った。ケモノ道なら踏み固められているだろう。案の定、そのわずかなベルトだけズリ落ちずにすんだ。ケモノ道を進むと、やがて稜線の踏み跡に達した。

 稜線には熊伏山への登山道があった。これはまた三方崩岳のような急登である。ガレで神経を使ってバテたが、やがてゆるい美しい原生林の尾根道になり、休み休みのぼっても下から2時間かからずに頂上に着いた。

 頂上は、鬼面山と同じく一等三角点であった。よい頂上だ。池口岳は鬼面山からの美しい姿と比べると、いくぶんボテッとしている。大沢渡のスカイラインが美しい。

 ここも鬼面山も、冬場の好天に登れば、向かいの小八郎鳥帽子と同じく、伊那谷の大観が得られるだろう。しかし、平岡側へ抜ける道は、ひどく荒れていた。頂上には落書ポストがあって適当なことを書いた。

 下りは青崩峠に降り立った。峠は丸太で展望台が拵えてあり、数百m先に4トントラックが止まっているのが見受けられた。どうやら、佐久間方面からの方が近そうだ。
 道はしっかりしていた。下に、小さな御堂があった。ここは秋葉街道、塩の道であり、武田信玄の史跡である。信州街道とも呼ばれる。

 下り着いた国道林道で、朝、間違えた理由が分かった。2・5万図では林道の終点から峠道が始まるが、実際の峠道は、終点より100mほど手前の、小屋の先にあった。

 入口に工事用資材が無雑作に置かれていたため、標識に気づかなかったのである。
 帰りの車中で、ズボンに黒いシミがべったりと付いているのに気付いた。血糊であった。「やられた」と呻いた。
 ヒルである。単独行でヒルにやられることは滅多にないのだが、ケモノ道を通ったせいだろう。これは完全に止血するまで3日かかった。


七面山 1982m(90年9月2日)

 9月の声を聞いて、多少とも涼しくなってくれることを期待したが、まだまだ猛暑が続きそうである。
 こんな暑さのなかでは、1000m程度の稜線では苦しい。やはり2000m欲しい。ついでに温泉とビールが欲しい。私の願いは、ささやかで可愛い。

 200名山・300名山と睨めっこした末、近くて未踏の七面山に登ろうと思い立った。しかし52号経由ではゼニがかかる。安くあげ、前記の条件を満たすには、日帰りで梅ヶ島温泉経由がよいと決定した。登りは八紘嶺だけで、あとは長いが上下の少ない尾根道だからなんとかなりそうな気がする。 

 土曜日、仕事が早く終わったので、国道1号線を静岡まで走ることにした。私はプロの運ちゃんなので、このくらいどうということはない。名古屋から静岡までおよそ4時間、梅が島温泉までは、さらに1時間程度かかる。ここに着いたのは夜の10時であった。
 登山口はすぐに見つかったが、ここから身延に抜ける林道が完成していたことは知らなかった。この道を利用すると、1時間以上も節約になるが、夜間は通行止めで、しかも朝は7時半にしか開けないそうである。これでは利用できない。だから旧道を辿ることにした。

 夜遅くまで走ると、なかなか寝つかれない。寝ついたのは12時過ぎだろうか。早朝4時前に、無遠慮な人の声で目が覚めた。大声で、「車に人が寝ている」と喋っている。「余計なお世話だ、早くあっちへ行け」と思った。

 再び目覚めたのは、今度は6時過ぎであった。とんでもない朝寝坊である。このコースで七面山を往復するには、おそらく5時前には出発しなければならないと踏んでいた。
 飛び起きて、インスタント焼きそばのエサを流し込んで出発した時刻は、6時40分を回った。

 安部峠の登山口は、梅ヶ島温泉街から5分ほど登ったところにある。よく踏まれた道で、最初は、最近では珍しく手入れの行き届いた杉林を登る。杉は、カラマツのように自然に放置してはうまく育たない。良い用材に育てるには、かなりの手入れが必要である。最近は林野庁が、現場で本当に必要な人々を削減して、不要無用のムダメシ官僚を温存しているので、植林の状態は劣悪なところが多い。

 良い杉は、強い殺菌力を持っている。昔は、酒造所で酒に雑菌が繁殖すると、杉の葉を漬込んで殺菌した。だが、こんな酒は杉の芳香成分が溶け込んでいて、悪酔いしやすい。しかし、燗をすれば大丈夫である。今の酒は、燗をつけなくとも悪酔いしない。むしろ、合成物質による慢性肝臓疾患の方が心配である。

 こんなわけで、昔の酒屋の看板は、酒林と呼ばれるクスダマのような杉の葉の玉か、杉の枝葉であった。今では酒林は都会ではみかけないし、このことを知る若者もほとんどいないだろう。

 この殺菌力を利用して、種菌を接種したキノコの原木を杉林に移して、雑菌から原木を守る方法が普及している。自然界で杉林に出るキノコは、杉の朽木に出るスギヒラタケくらいだが、栽培キノコは、杉林の中で育てられるのである。

 だが、杉のこんな性質が裏目に出て、杉林の中は腐殖が少なく、生命の温床ではない。また、動物の餌も生産せず、保水力も保土力も劣る。だから、杉林はみかけはキレイだが、生物の生活や崩壊防止に有利でないことを知っておいた方がよい。ただ、落葉が抜気式浄化槽のような役割を果たすので、良い水が出る。

 雑草すら生えないこの道を注意深く観察して歩けば、このことをよく理解できるだろう。(後日、林業者に聞いたところ、理想的な杉林には適度の下生えが必要だそうで、このような無毛地帯では土壌のバランスが悪く、杉の品質も悪いといわれた。)

 さて、1時間ほどこの道を登ると、先程の身延へ抜ける林道にでる。安部峠へは林道を歩き、八紘嶺へはすぐに左に登る道に入る。

 八紘嶺までは良い道が続くが、途中、富士見台と呼ばれる切り立ったガレの上では足元に注意しなければならない。初めて現われた、見事な富士山に見とれて転落すると、助からないかもしれない。

 尾根筋を1時間ほど歩くと、やがて左手にダケカンバ・ヒメコマツ・ブナ・カバなどの、ひどく混生した原生林が現われる。だが、右手の林は伐採後の二次林のように見受けられる。

 登山口から2時間半で、八紘嶺の頂上に着いた。頂上は広く、立派な、壊れた温度計の着いた標識が立っている。富士山や南アルプス南部の展望がよい。山伏方面には、これまでと同じ良い道がついていた。

 20分ほど休憩してから、七面山に向けて出発した。まだ9時半だが、時間的には苦しい。せめて4時前に梅ヶ島に帰り着かないと、温泉もビールもだめになってしまう。
 何を隠そう、私の山行の目的はピークハンティングではなく、実は温泉とビールなのである。山はビールのための、絶対に欠かせぬ調味料のようなものだ。というわけで、温泉に間に合うピークを目的地にすることにした。

 七面山への稜線は、いきなり足元の見えないササヤブである。だが、踏み跡はしっかりついている。8月は山中で誰とも出会わなかったが、この分では今日も貸し切りだろうか。

 笹薮の、これといって特徴のない尾根は、約200メートル下降してから、広く深い樹林の中を歩くようになる。だが、ここには尾高山や池口岳のような、動物の棲息痕は少ない。

 しばらくして、前方に気配を感じた。「熊か」と身構えたが、来たのは中年男女の4人連れであった。最近、こんな山で若者を見たためしがないが、7月以来の登山者との出会いで、嬉しかった。

 ついでにいうと、私は若い頃から、予知とテレパシーの超能力に優れているようだ。「だいじょうぶか、この人」と思うあなたは、自分自身で生きてきたことのない証拠である。

 自分以外に頼れない環境に置かれた人ならば、誰でも超能力を自覚するものである。私は、近いうちに起こる事柄がおぼろげに見えるのである。だから自分の死も、的確に予知できるだろう。

 このときも、何ものかと出会うことを予知したのは数百メートルも手前であったし、ミゾオチの奥に不快感を覚えれば、必ず悪いことが起こる。この予感で、過去何度も登山途中に引き返している。
 また、他人の腹づもりを知るのに、言葉など必要でない。

 さて、七面山への稜線は、このあたりで踏み跡も途絶えがちになるが、やがて急な登りを過ぎると、はっきりした道になる。八紘嶺から1時間半で登り着いたピークが、1964mの七面山第2三角点である。ここはシラビソの疎林で、南アルプス本峰の眺めがよく、ここから引き返しても後悔しないだけの値打がある。

 もうここまで来れば、七面山に登ったといってもウソではないが、温泉に間に合う時間で、行けるところまで行くことにした。ここからヤセた美しい、亜高山帯の樹林の尾根を縫うように行く。地図上も、七面山まで登降差はほとんどない。涼しく非常に快適である。

 約40分ほどで、急に樹林が開け、伐採跡の尾根に出る。少し行くと、希望峰と書かれた木板の打ちつけられた、小広い山頂に出た。ここからは、南アの眺めがすばらしい。山伏、笊ヶ岳、農鳥岳と、白峰山脈の全部が見えるのではあるまいか。上河内か聖だろうか、ぬきんでた風格の峰も見える。

 時間は12時を回った。私の超能力が、ビールの遠ざかるのと、何かしらの不安をを告げている。
 目の前に見える杉林の山頂が、七面山本峰に違いない。しかし、あそこまで行くと、かえってこのすばらしいイメージを壊すような予感もした。ここも十分に七面山だろう。私は、温泉とビールに引っ張られるように、引き返すことを決意した。登山口から5時間半の山頂であった。

 帰路、最近の恒例として、要所に冬用の赤標をつけながら戻った。この尾根は、冬でも危険の少ない、快適な縦走ができそうである。
 八紘嶺に戻ると、山頂はガスに巻かれ小雨が降り出した。これが雷雲だと厄介だが、幸い雷鳴は聞こえなかった。さっきの不安はこのことだったのだろう。急いでかけ下って、登山口に戻ったのが3時半である。温泉街に戻り、川向こうの梅ヶ島温泉共同浴場に行くと、日曜日だけあって超満員であった。

 幸い、温泉は4時まで営業で、無事に浸かることができたが、あまりのんびりと浸かる雰囲気ではなかった。ただ、この温泉は山あいの鉱泉かと思っていたら、なんと硫黄臭の強い火山性温泉であったのにはびっくりした。富士火山帯に属するのだろうか。そういえばフォッサマグナも近い。

 ビールは温泉街で入手できず、途中の酒屋で買って飲むことになった。1・5リットルの薄めたウーロン茶を持参したが、不足するほどの山行だったので、このビールの値打は数十万円級の銘酒を上回ったであろう。
   

それぞれの山の物語 4 白山巡礼 後編

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 それぞれの山の物語 4 白山巡礼 後編

 別山 2399m 1990年7月

 別山は白山の真の骨格である。
 数万年前に、水成岩からなる隆起山脈であった別山連峰のうちに噴火活動がはじまり、膨大な噴出物が経ヶ岳、白山、大日山を形成した。

 それらの山は、別山が数千万年という気の遠くなるような時間のうちに、海の底に静かに醸成されたことを思うなら、あまりに僅かの時間で突如出現したのであって、インスタントに成立した軽薄さを免れない。

 人々の印象からいうなら、ぱっとせず、ダラダラとふんぎりのつきにくい水成岩山地の山々よりも、さわやかな容貌をもつ火山独立峰に人気が集中するのは当然であって、日本の名山と称される山々の大部分が、富士山以下の切れ味鋭い火山独立峰になってしまうのは、いたしかたないことかもしれない。
  
 だが、別山は違う。その上に覆いかぶさった白山の火山性噴出物のメッキが自然のメスによってはがされるにつれて、別山は隠していた重くいかつい正体を現し、凄みをかいまみせるのである。

 崩壊によって再びこの世に現れはじめた別山の山体は、1万年前に隠されたときといくらも変わらない姿であろう。

 別山の山体の大部分をなすものは、海底に沈澱した水成岩であるが、3億年以上前に古日本海に繁栄した珊瑚礁や放散虫の遺骸も含まれている。そして、それらが隆起し、広大な湿原平野を成立させたとき、そこに琵琶湖の数倍もある巨大な湖が成立し、恐竜とシダ植物を主とする動植物の壮大な楽園になった。それを手取湖という。

 手取湖の膨大な生物性堆積物からなる地層を手取層という。今日、地質学者や考古学者の関心をあつめる手取層基盤こそ白山山地の真の正体であり、真の骨格なのである。

 私は過去4度白山に登った。しかし、いずれのときも別山を踏まなかった。それまで、私は別山を白山中腹の1ピークくらいに軽く考えていた。だが、周辺の山々に登って仰いだ別山の姿は、決して白山の属峰ではなかった。それは、白山から疑いもなく独立した堂々たる大山であった。

 別山に登った日、当初の予定は打波川水系の源頭に位置する願教寺山だったのだが、登路が確認できず、山容があまりに悪絶なので、予定を変更して白山主稜に取り付くことにした。前夜、鳩ヶ湯鉱泉の奥の打波川源流の上小池の駐車場に車泊して、6時に出発した。

 上小池から数百mも下ると林道を歩くようになり、そこにかかる橋を渡れば刈込池である。

 刈込池は、白山を修験道の道場として開山した泰澄が千匹の悪蛇を封じこめたと伝説される三つの池のひとつで、径200mほどの小さな池であるが、日本最大のアカショウビン(カワセミ科)の生息池として知られる。

 悪蛇の伝説とは以下のようなものである。
 泰澄が白山を開いたころ、大蛇が千匹もいて白山に立ち入った大勢の人々を呑んで恐れられていた。

 泰澄は、大蛇たちを集めて言った。
「そのように人を喰ったのでは、人の種がなくなってしまうではないか。しばらくこの池のなかで休めよ。岸に麦を蒔くから、その芽がでたらまた出なさい。」

といって蛇たちを封じこめ、そこに雪を降らせ、決して麦の芽を出さぬようにしたという。この池は、山頂の千蛇ヶ池と蛇塚池、それにこの刈込池の三つであるとされる。

 さて、この大蛇伝説。私は、これまでありふれた空想と思ってきたのだが、全国各地の民話や、今昔物語などの古文献を調べるうちに、どうにも大蛇の実在を前提としなければ説明のつかない文献が多すぎることに気づくようになった。

 大蛇ばかりでなく、それ以上の頻度で登場する狒々やカッパもそうである。そこで発想の大転換をして、これらの空想的動物がかつてなんらかのかたちで実在し、現在は滅亡したものと考えることにした。

 そのきっかけになったのは日本オオカミの研究であった。オオカミは、幸いなことに明治時代まで実在し、各地の伝承についても実証的な研究が進んでいる。しかし、それが現代に実在せず、証拠も残っていなかったなら、空想的動物の扱いをうけるにちがいないと思えた。

 私は伝承の動物について研究をはじめた。とりわけ狒々については多くの資料を得て、世間がびっくりするような結論に至った。無論、生物学者が一笑に伏すにちがいないことは百も承知である。

 狒々については、その正体がヒマラヤの雪男として知られ、現代に実在するものであり、中国で紅毛人、大怪脚、野人などと呼ばれてきたものと同一であり、先史時代、人類進化の傍流に取り残されたラマピテクスやピテカントロプスの子孫であろうと確信するにいたった。

 しかも、それらは今昔物語(白川郷猿丸の話)や柳田国男の遠野物語(猿の経立)など非常に多くの文献に登場し、実に明治時代まで日本に生存したものと結論づけることになった。

 大蛇についても、さまざまの文献を総合すれば、錦蛇クラスのものが江戸時代初期までは確実に日本に実在したと確信せざるをえなかった。これらについては、いずれ項を改めて語ることにしよう。

 刈込池の付近から登山道を見つけるのには骨がおれたが、結局踏跡の一番はっきりした道で正解だった。山菜取りが大勢入っていた。

 六本桧へ向かう道は予想以上に荒れていた。通行者は少なくないのだが、手入れをする者がいないようだ。6月なので草薮も多い。

 稜線へ出るまで落ちつかない道が続く。稜線に、名の通り六本の合木桧が生えていた。ここで赤兎からの尾根道を併せ、三ノ峰に向かう。

 わずかに登ると、泰澄が剣を刺して悪蛇を封じたとされる剣岩だが、どれがそうなのかよく分からない。このあたりから森林限界を超し急登が続くが、見晴らしもよく快適である。

 登山口から2時間ほどで主稜線に達した。わずかで三ノ峰の立派な避難小屋があり、石徹白からの美濃禅定道を併せる。

 ここから別山がはじめて姿を現した。すでに書いたように、この山は白山連峰主脈のなかで火山体でない最高峰であり、まさに真の骨格である。

 その南面は、雪崩に磨かれた水成岩の大岩壁になっていて、太平スラブという名がつけられている。それが初夏の朝陽を受けてキラキラと輝いていた。

 胸を洗われるようなすばらしい景観であった。別山の風貌は、古武士のように重厚であった。足元にはシーズン最初のお花畑が広がっていた。登山者の多くは三ノ峰で満足して引き返してゆくようだが、私はまだ余裕があり、別山に向かった。

 稜線のあちこちで雪渓の切れ目にお花畑が出現し、心をなごませてくれた。30分ほど歩くと、天上の楽園のような美しい高原に出た。

 無人の広大な高原で、登山の最大の醍醐味を味わえる秘境といっていい。径20mほどの池があり、きれいな水で飲用に利用できそうだが、御手洗池と名づけられていて、どうも連想上よろしい命名とはいえない。

 そこからハイマツ帯になり、30分ほどで別山の山頂に到達した。一面のハイマツの稜線の最高点に、小さなみすぼらしい堂宇があった。拍子抜けするほど質素な山頂である。

 8世紀に、泰澄が修験道の行場としてここを開いたとき、主要な三つのピークにそれぞれ権現を祭った。

 現在では、白山神社はイザナギ・イザナミを祭っているのだが、これは明治の天皇独尊政策に沿って古くからあった修験道の権現を葬りさって神道に変更したものであり、元々は、剣ヶ峰大御前に妙理大権現、大汝峰に越南知権現、別山に別山大行事権現がおかれ、別山のそれは泰澄自身を祭ったものであった。

 権現というのは、仏が神道の神の姿をとって仮に現れたと考えるもので、これを本地垂迹説といい、修験道がそうであるように道教の影響下に成立した仏教の崇拝対象である。

 白山妙理大権現は、本地である十一面観音が菊理姫という女神のかたちをとって現れた(垂迹した)と考えるのである。こうすれば、渡来以来の古い道教系の民俗(古神道)と、百済から新たに導入された新仏教思想(小乗仏教)を融和させることができた。

 それは、明治初年、薩長政権が天皇信仰を国家の基盤とする政策をとり、権現信仰を暴力的に破壊し、全国の神道を天皇崇拝思想のために伊勢神道を中心にして再編統一するまで、およそ一千年以上続いた。

 そのあいだ、神道の実体は権現信仰にほかならなかった。神社の神主は祭主にすぎず、実態は別当と呼ばれた僧に支配されていたのである。神道とは、代表的な八幡信仰に見られるように、もともと朝鮮渡来系の騎馬民族がもちこんだ新羅系道教の祭祀風俗から生まれたものだったが、泰澄の時代、本地垂迹説として仏教の理論に組み込まれ、さらに修験道に包摂され、天台宗系の山王神道、真言宗系の両部神道に系列化されていた。神道でいうところの両部が、すなわち仏教の権現信仰なのである。

 白山権現は、全国の権現信仰のうちでももっとも強力で大きな組織をもっていたことと、神道がもともと新羅系の道教であり、それが「シラ」信仰と呼ばれ、「シラヤマ」と呼ばれた白山が、新羅系神社の総本山のような印象をもたれていたことから、天皇家が朝鮮由来であることを隠蔽し、国粋主義を全面に打ち出した天皇神道(伊勢神道)を国家イデオロギーの要にしたいと考えた明治政府の国学ナショナリスト(大久保利通や山県有朋)から象徴的に激しく弾圧されたのである。

 別山山頂に大きな堂宇をつくって崇拝されていたはずの本地仏も多くは叩き壊され、運がよくても引き降ろされ谷に投げ捨てられた。幸運にも破壊され残った仏像は、山麓の林西寺に保存されている。

 これらの排仏毀釈(迦)と呼ばれた一連の仏教や権現信仰に対する攻撃は、武士階級の政権が仏教(特に禅宗)を国教イデオロギーとしていたために、革命的な思想転換をする必要があった明治政権が、伊勢神道や天皇信仰を利用したものとも考えられる。

 明治維新にいたる倒幕運動のイデオロギー的支柱になっていたのが、本居宣長や平田篤胤の天皇制復活の復古神道であったことを考えれば容易に理解できよう。尊皇擾夷という中国のスローガンが大同団結の要にもちだされた。革命勢力には、美しい名目と、それにふさわしい権威が必要だったのだ。

 帝国主義侵略戦争の時代であった幕末明治、強力な国家主義はナショナリズムに不可欠であった。明治政権は、東アジア諸国が欧州列強に蹂躙され隷属させられて苦しむ姿を見せつけられていた。民主主義は、民衆のうちに赤子ほどにも育っておらず、この時点では、より統一的な権威こそ未来を照らす松明であったといえよう。

 国家主義は、人々の観念の上に築かれる虚構にすぎないから、それを支える見せかけの合理的根拠と観念の教育体制がなければ成立できない。明治政府は、日本国家という虚構の本尊に天皇を祭り、神道思想による教育的洗脳を行うことで、それに絶対的権威を与え、同時に、日本国民に他民族に対する優越感を与えた。

 以来、天皇家に生まれた世襲者は、大東亜で最も優れた国民の、最も優れた大将ということにされたことにより、一生物としての生身の存在を主張する権利を奪われ、気の毒なことに観念のうえで「人」を超越しなければならなくなり(その実態は、自由に泡屋に出入りすることさえかなわぬ独身中年のナントカノ宮の悲劇を思いたまえ)、そんな残酷な悲劇を、国民と自称する妄想集団がおめでたく、かつありがたく担ぐという奇妙にして滑稽な社会的現実が続いているのである。洗脳の、なんと強力であったことか。
 少々、横道にそれすぎた。

 別山の山頂の展望は、いわずもがな絶景である。南白山の下には、神秘的なエメラルド色の白水湖がすばらしく、尾上郷谷には千古の原生林が一斉に新緑の協奏曲を奏で、ひとりで静かに景観を独占できる喜びに酔いしれた。

 山頂直下の太平壁は巨大なお花畑になっていて、名も知らぬ高山植物の可憐な競演であった。まさしく、至福のひとときであった。

 だが、尾上郷に微かに見える林道の荒廃も見逃すことはできなかった。ここには、御母衣ダムの補助ダム建設が進行中だという。
 わが、中部圏の山々のうちで、もっともすばらしい自然の残る白山。人々の子孫にいつまでも美しいままで残してやりたい。


 白山 2702m

 「白き山」という命名は、いつのころか自然に生まれたものにちがいない。モンブランもダウラギリもその意味は同じであり、日本アルプス最高峰の北岳も甲斐の白峰と呼ばれた。

 白山が名古屋から認められる時期は、大気の清澄な冷たい季節に限られるが、それはいつも白い。

 朝鮮半島からやってきた季節風は、日本海でたっぷりと水蒸気を摂取し、なぐりつけるような暴風になって白山の壁にぶちあたり、そこに激しく雪を雪を降らせる。白山は日本有数の豪雪地帯であって、冬期数十mの積雪さえ珍しくない。ただ、伊吹山のように積雪観測がされていないので、正確な記録は分からない。

 2700mという高度は、日本アルプスを除けば内陸の八ツ岳にしかなく、越前沖の日本海では、沖へ出た漁師たちのよき目印になったにちがいない。

 それどころか、朝鮮半島から日本海に出漁した漁師たちにとっても方位を決める大切な目標であったにちがいなく、古来、この山をめざして日本海を渡った渡来人たちにとっても単なる目印を超えた霊的な存在としてとらえられた。

 白山に霊性をみいだし、修験道の行場として開いた越前の僧泰澄も、そうして白山をめざして朝鮮新羅からやってきた渡来人、三神安角の子であった。

 泰澄の一族が朝鮮からやってきたことなど驚くに値しない。
 日本列島に人類が棲みつきはじめたのは、明石原人や牛川人などの発掘をみれば、数十万年前、すなわちホモサピエンス以前からであることが確実だが、リス・ウルムの氷期には大陸と地続きであったことから、ゾウなどとともに多くの人々がやってきたにちがいなく、同時に、黒潮に乗って、南方から大勢の人々が北上して日本列島に棲みついた。

 彼らは、今日縄文人と呼ばれるようになり、優れた土器石器文化を遺した日本列島先住民であった。彼らが日本列島の主役であった時代は1万年ほど続いたことが分かっているが、2500年ほど前に、中国揚子江下流に開かれていた米作農耕民族国家(おそらくは越に滅ぼされた呉)の住民が高度な文化とともに北九州に移住してきて以来、主役の座を明け渡すことになったようだ。

 今日、弥生人と呼ばれることになった渡来民族は、組織的に移動して、九州、西日本の河口沿岸部を中心に大いに勢力を広げ、原始的な氏族社会を形成していた縄文人を北方や山奥に追いやった。

 以来、日本列島に灯された弥生文化に引き寄せられるように、大陸や朝鮮半島からの民族移動が絶えることなく続いた。

 3世紀から8世紀にかけて、中国北東部に勢力をのばしていたツングース系の騎馬民族まで国家的規模で大量に渡来し、彼らは江南から渡来した弥生人の氏族王権を制覇し、みずからの古墳文化王朝を成立させた。
 後に、これが天皇家と呼ばれるようになる。

 本来、ツングース騎馬民族の王権継承の基準は、世襲ではなく、王としての能力であった。したがって、8世紀まで天皇家の血脈の交代は数度に及んだようだ。白山山麓の新羅系渡来人の王であった継体が王権を掌握した時代もあった。だが、朝鮮半島南部の百済の王であった聖徳太子の一族が、その圧倒的な教養によって崇敬され、王権を得ることによって、天皇家の血脈に決着をつけたかとも思える。

 太子もまた騎馬民族の子孫であったことは、記録された衣服が乗馬に必要不可欠なズボンやブーツを用いていたことによって証明できよう。米作農耕の民族にズボンは不要かつ邪魔であって、必要なものは「呉服」と呼ばれたスソからげの可能な衣服と、湿地帯に適したワラジであった。ズボンやブーツは、騎馬の必需品であって、スカートしかなかった欧州でこれが用いられるようになったのも、中央アジア騎馬民族の影響に他ならない。

 さらに、古墳時代に用いられた剣などの武具は、すべて騎馬戦争に適した直剣式の突くタイプであることにも注目する必要があろう。農耕民族には切るタイプの曲剣が必要なのである。

 京都を開いた秦氏も、相模や武蔵の先住民となった秦氏、埼玉の高麗人たちも、皆朝鮮からやってきた。というよりは、古墳時代以降の日本文化と称されるものは、おもに朝鮮文化であったと断言してさしつかえないのではないか。
 さらにいえば、日本という国家そのものさえ、朝鮮から移されたことを旧唐書が示唆している。旧唐書という唐の国史には、日本国が朝鮮半島にあると書かれているのである。

 このような、人と、それにともなう文化の渡来の大規模なものは、鎌倉時代、フビライの元帝国によって滅ぼされた南宋の住民の大規模な渡来によって終止符をうつ。同時期の元冦と、その報復として盛んになった倭冦によって、政権は国境の交通にたいする警戒を厳しくせざるをえなくなったからである。

 8世紀、泰澄の時代、騎馬民族が日本の支配階級として圧倒的な勢力を確立したころ、宗教界を中心とする知識人階級も渡来人とその子孫によって占められていた。天台宗の最澄も、真言宗の空海も、行基も、役の小角も、著名な宗教界の覇者たちはすべて渡来人の子孫であった。

 というより、このころすでに日本先住民は追われて大部分が日本海側か北方に移動しており、本州西部太平洋側では、よほどの山奥か離島にしか残っていなかったと考えられよう。最後の縄文人、日本先住民であった蝦夷(えみし)も征伐殺戮され、その一部は北海道にアイヌ族として残った。縄文人は、非常に気の小さな優しい人々で、おそらく戦争を好まなかったにちがいない。

 歴史に記録された日本は、この時代、権力も言語も民俗も、文化というものことごとく渡来のものになった。

 渡来人の文化は、すでに中国で体系として確立していた密教・道教・儒教を基礎としたものであっただろう。これらを厳密に区分することは困難で、相互に影響を与えあい不可分の巨大なイデオロギーとして日本にもちこまれた。

 それらは、すでに日本人の血肉として定着し、論ずることさえ不可能な日本的風景そのものになってしまった。つまり、それが日本ということになった。

 日本の精神的原型と主張される神道も、その要素を厳密に追ってゆくならば、明らかに朝鮮新羅系の道教に到達し、天皇家の出自を証明する傍証にもなろう。祝詞も社殿も狛犬も、道教のものであり、その祭神はひとつの例外なく朝鮮のものであった。我々は今日、朝鮮の人々にもっとも近い人相・風俗を天皇家に発見することができるのである。歴史的日本とは、朝鮮に他ならないのである。

 新羅から渡来したと思われる古神道は、同じく百済から渡来した仏教に包摂され、習合し、修験道を成立させたとされる。修験道は、道教の要素をもっとも濃厚に伝えた宗教といわれるが、あるいは、すでに朝鮮の段階で習合成立していたかもしれない。

 それは、道教の山岳修行による神仙到達の思想をそのまま踏襲し、修行者は山々の高き峰のうえで超能力を得て変身し、里に降りて人々を救うのである。

 修験道の開祖は、大和葛木の行者、役の小角だとされる。小角はその超能力を朝廷に恐れられ、やがて日本を去って唐に赴いた。唐にあっては道士(道教僧)として崇敬され、実に唐四十仙のうち第三座を占めたと伝承されている。
 晩年は、唐の領土であった朝鮮新羅に過ごしたと伝えられる。この伝説は、修験道と神道と新羅の関係について一定の示唆を与えるものである。

 泰澄が白山を開いたのは、それからわずか後のことで、同時代といってよい。泰澄もまた、小角に劣らぬ超能力者であったと記録されている。
 小角と同様、念力によって自由に飛行し、呪文によって石つぶてを投げることができたとされる。

 また、空海や行基と同じく、虚空蔵求聞持法によって能力を開発した。これは、虚空蔵菩薩に念仏を捧げることによって頭の働きを百倍良くしようという能力開発法である。
 三カ月間というもの野山をさまよい歩きながら念仏を唱え、満願の日に天空から無数の星が落ちてくる夢を見ることによって成就するという。

 泰澄が越前平泉寺に足場をつくり、やがて美濃石徹白を経由し、別山を経て白山山頂に達したのは養老元年(717年)の夏であった。泰澄は、その頂に朝鮮新羅神社の坐女ともいわれる菊理姫をまつった。本地仏は、夢のお告げとして十一面観音であるとされた。

 以来、白山は今日まで絶えることなく、霊山として人々の信仰をあつめてきた。とりわけ、朝鮮の帰化氏族から崇敬が篤かった。白山が、かつてシラヤマと呼ばれたのは、朝鮮の新羅(シラ)と直接の関係を示唆するものであろう。日本には「シラ」と名付けられた民間信仰が多く遺されているが、これらも新羅そして白山(シラヤマ)との関係を示唆するものにちがいない。

 朝鮮帰化氏族は仏教界にあっては天台宗系の勢力であって、比叡山山王権現の修験者がシラヤマを行場とした。白山修験は、やがて本家であった熊野大峰修験さえ圧倒し、山岳宗教の覇者となった。

今日、白山神社は全国に2700社を数え、圧倒的に首位にある。だが、白山神社は白山修験道の直接の継承ではない。

 開山以来、最大の受難は明治維新に意図的につくりだされた。

 新政府は、天皇家の権威を利用して国家イデオロギーの統一を策謀し、天皇を唯一無二の神格にすえ、それを証明する理論として古事記を教典とする神道神話を絶対のものとして民衆に強制した。それまで天皇は、民衆の意識のなかに伊勢神宮の神主程度のものでしかなかった。それを、いきなり徳川将軍を上回る権力者にして絶対神にでっちあげようとしたのだから、なみたいていの事業ではなかった。

 古事記の虚構を真実らしく糊塗するために、神道にかかわるすべての理屈を統一しなければならなくなった。一番邪魔になったのが、民衆のうちに根強い人気のあった習合神道、つまり権現信仰であった。白山権現は、その代表格であり、最大にして最強のものであった。

 神道は、断じて仏教に包摂されるものであってはならなかった。天皇の権威は唯一絶対のものであり、かつ本源的なものでなければならない。そのために、真実の歴史を曲げ、それを伝える形象としての修験道を弾圧廃棄しなければならなくなった。

 かくして神道を支配するところの仏教にたいして排仏毀釈が行われ、激しい弾圧が行われた。修験道は禁止され、伊勢神道の配下の神社になるか、さもなくばもともとの密教宗派に戻るよう指示された。天台宗の影響下にあった白山修験は、天台宗に帰依し、それらの宗教的形象は廃棄、あるいは破壊された。

 白山権現は十一面観音を本地とする権現であり、菊理姫をまつっていたが、本地仏は破壊され、一部は牛首(現白峰村)林西寺に引き取られ、祭神もイザナギ・イザナミに改められた。
 権現は廃棄され、白山神社に変わった。以来、白山から修験道は消えた。

 私の過去の白山登山は、岐阜県側の平瀬からが多かった。平瀬登山道は白山信仰の古道ではなく、明治初年、大白川湯からの猟師道を整備したものである。しかし、このコースは飛騨方面からの最短ルートであって、古くから白山のエスケープルートとして利用されていたことは疑いない。

 平瀬道は、御母衣ダムの補助施設である白水ダム湖畔まで車が入り、夏期はそこに営林署の経営する山小屋が営業している。以前は通行するだけで恐ろしい道であったが、現在はかなり改良された。

 白水湖の水は酸性の温泉水が多量に湧出しているためか、神秘的なエメラルド色の輝きをたたえている。お花畑を前景に湖に落ちる夕陽を眺めるならば、一種異様な彼岸の情景さえ思う景観であった。

 今では湖畔に露天風呂がつくられ、観光客も多くなり、かつてのような静けさも情感も失われつつあるが、それでも大資本の進出する観光リゾート地とは雲泥の開きがあり、味わい深い原始の風格が漂っている。私の好む場所である。

 かつては、ミルク色の硫黄臭い効能抜群の秘湯としてその道の通に知られ、私もひそかに日本三大名湯と考えていたのだが、十年ほど前の集中豪雨で泉源が崩れ、今では透明のありきたりの温泉に変わってしまったのが残念だ。

 もともとの白水温泉、大白川湯は、名瀑白水の滝の真下にあって、その名が白川郷の名の元になった。今では白水の滝は林道の下におかれて風格を下げ、大白川湯はダム湖の水面下に沈んだ。

 このルートは日本有数の、おそらくは白神山地に次ぐ規模のブナ原生林を抱き、大倉尾根のカンクラ大雪渓は万年雪となり、室堂手前の日本有数(最大ではないかと思っている)のお花畑には無数の黒百合の群落があった。
 山頂まで、登山口からわずか四時間ほどで行ける。

 白山登山道でもっともポピュラーなのが、石川県白峰村から入る市ノ瀬口である。私は、これが当然加賀馬場ルートだと思っていたのだが、調べてみると実は越前馬場ルートであって驚いた。

 加賀の国一ノ宮である白山ひめ神社から手取川を遡れば、当然この市ノ瀬に達するのだが、途中、今では白峰湖に沈んだ牛首村周辺の去就をめぐって幕府と加賀藩とのあいだで激しい領有争いがあったことが原因で、加賀馬場のルートは複雑な変転を経ているようだ。

 加賀馬場のルートは、鶴来町の白山神社(下宮)を起点として、中宮の一里野を経て、長大な長倉尾根にとりついて大汝峰に至る苦しいコースであった。

 加賀禅定道といわれるこのコースは、九世紀にはひらかれていたと思えるが、明治政府の樹立とともに修験道が禁止され、白山信仰が衰退した過程のなかで荒廃し、廃道になってしまった。だが、1988年に、地元有志によって再建されたのだが、長大であるために歩かれず、再び廃道に化す日も近い。

 越前馬場は、平泉寺から法恩寺峠と小原峠を越えて市ノ瀬に下り、現在の観光新道の尾根を登るものである。長いだけでなく、上下の多い苦しいコースで、現在は歩く者もなく、すでに一部廃道に化している。

 白山馬場を代表したのは、長いあいだ美濃馬場の石徹白道であった。

 石徹白の御師は全国の白山神社講中を組織し、白山信仰を喧伝し、このルートは「登り千人、下り千人、宿に千人」といわれたほど繁盛したと伝えられる。
 明治以降、白山信仰登山が衰退し、近代スポーツ登山が勃興すると、その登山口は交通の便の良い加賀方面に集中するようになった。現在では、登山者の大部分が市ノ瀬口を利用するようになった。

 夏のある日、はじめて市ノ瀬口から登った。
 別当の駐車場に前夜遅く着いたのだが、さすがに車泊登山者が少なくなかった。朝4時には、暗いなかを大勢が出発していった。大部分が砂防新道を利用するようだ。観光新道は、大雨による崩落のため通行禁止になっていた。
 5時に出発したが、室堂に着くまでに先発組を追い越して先頭にたってしまった。皆、休憩が多すぎるのだ。
 このルート、やたら林道を横切るので面白くない。車で7合目近くまで行けそうだ。右手に見える不動滝が、一歩一歩近づいてくる。

 甚ノ助ヒュッテの手前、海抜2000m付近で、玉石の多く含まれた砂礫がたくさん露出していた。玉石は石英で、径数センチはある。それは、この付近が、かつて水に洗われる環境にあったことを示していた。

 近ごろ、白山周辺で恐竜の発掘が話題になることが多い。この石は、白山周辺で地質学者や考古生物学者の注目をあつめている手取層に関係している。白山火山体の基盤をなす層は、別山に顕著に現れている堆積岩、水成岩である。その表層には豊富な化石生物が含まれている。これを手取層という

 3億年ほど前に海底でサンゴや放散虫が堆積した基盤が徐々に隆起し、1億年ほど前に、白山一帯に巨大な湖が出現し、これは手取湖と名づけられた。手取湖一帯は、ジュラ期、恐竜をはじめとする動植物のまれにみる楽園となった。先の玉石は、この手取湖の湖畔で波に洗われたか、もしくはそこから流れ出る河川流域にあったと考えられるのである。

 現在の白山の山体ができあがったのは、わずか1万年ほど前のことで、ひどくインスタントに成立した。その後の激しい侵食によって、ところどころでこのような古白山の景観にお目にかかれるのである。

 手取湖の生物堆積層は手取統ともよばれるが、これは白山周辺の九頭竜川付近や白水湖付近、福井県側など広範に存在していて、学者やマニアの注目をあつめ、化石探索者がひきもきらない。私もその一人である。
 九頭竜川周辺は、手取統のなかでも汽水領域の化石が出ることで知られ、それ以前のデボン期石灰岩からは三葉虫やアンモナイトも発見される。私の好みからいえば、石灰岩化石のほうが好ましい。美しいハチノスサンゴを発見し、磨いたときの感動はたまらない喜びである。

 ひと汗かいて着いた弥陀ヶ原の景観は、すばらしいの一語に尽きる。

 広大な高原のほとんど全部がお花畑といってよい。白山に尽きせぬ魅力があるとすれば、その幾分の一からの部分はこの高原に負っている。このような楽園は、全国600を超える登山を行ってきた私の経験のうちでも、北海道の大雪連峰や苗場山、尾瀬、平ヶ岳などわずかでしかない。

 室堂の巨大な山小屋には大勢の人々がたむろしていた。かつて小屋の脇にあったはずの黒百合の群落は見あたらなくなっていた。

 白山神社奥宮の若い宮司に話しかけてみた。彼は、廃仏棄釈の意味すら知らない無知無能な(権威をふりまわすことだけが得意な)神主が多いなかで、白山権現の歴史を多く知っていた。
 山頂の桧の堂宇は健在で、純金の金具も盗まれていなかった。が、この付近にあった角閃石の結晶はまったく見あたらなかった。

 南竜ヶ馬場に向かった。
 縦走路をたどった。静かな道で出逢う人はいなかった。エコーラインには大勢の登山者が歩いているのが見えた。あちらは巨大なお花畑だ。誰もいない縦走路のお花畑では、静かに心ゆくまで美しさを堪能した。賑わっているのは皆が歩きたがるところばかり。一歩外れれば、すばらしい静けさのなかに恍惚とする大自然の桃源境が待っている。


 銚子ヶ峰 1990年6月

 白山信仰登山の歴史のうちで、岐阜県側に位置する美濃馬場こそ白山詣を代表する主役であったといえる。美濃馬場は、天台宗長龍寺(岐阜県郡上郡白鳥町長滝)であった。そこには、かつて数百の僧坊が建てられ、中部地方有数の古い歴史をもつ信仰拠点として、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた。

 だが、やがて越前、美濃における浄土真宗の勃興によって民心は天台宗や権現信仰を離れ、明治政府の神道至上政策によって弾圧を受け、さらに明治における大規模な火災が長滝のありし日の栄華を苔の下に埋もれさせた。

美濃馬場、長滝を訪れた権現講中の人々は、そこから阿弥陀滝を経て海抜千mの険しい桧峠を越え、石徹白に向かった。石徹白には白山中居神社(中宮)がおかれていた。

 人々は、さらに、そこから銚子ヶ峰や別山を越えて、白山奥宮に向かって上昇してゆく長く辛い山道を歩いていった。その行程といえば、今日、我々がアルプス山脈の大縦走を行うに等しいほどのものであった。

 往時、「登り千人、下り千人、宿に千人」とうたわれた白山詣の情景は、石徹白のありさまを語ったもので、その賑わいは、全国三千社の白山権現の講中組織を背景にして江戸中期まで絶えることがなかった。

 白山講中の賑わいは、富士講や御岳講に代表されるように、多くの山岳講を啓発したにちがいない。それは、娯楽の少ない民衆にとって大切なリクレーションの場だったのである。

 石徹白には、友人のYさんの実家があった。彼に連れられて、はじめてここを訪れたとき、どんよりと濁った空の下に荒涼たる田園がひろがっている風景を見て、私はロシアの田舎を連想した。

 いったいなぜ、これほどの山深い苛酷な生活条件の地に人里が成立しえたのか、実に不思議であった。だが、Yさんの実家の建物の格式や造作は、とても名古屋あたりではお目にかかれないほどの重厚で立派なものであった。

 そこは、伝統ある白山神社社家の家だったのだ。
 白山神社とは廃仏棄釈以降の呼び名で、それまでは白山権現といったのだが、それは黙っていれば向こうから信者がやってきてくれるほど甘くはなかった。どの権現信仰も、御師(おし)と呼ばれる社家の人々の、懸命な勧誘努力によって支えられていた。御師を大切にしない権現は、たちまち寂れていった。

 御師は、旅行ブローカー・セールスマンのようなもので、全国に散在する権現の講中組織へ出かけていって、あるいは講中そのものを組織し、ご利益を宣伝してまわったのである。

 地方の権現社に付随した講組織を檀那といった。御師は、檀那で白山権現の護符を売り、白山詣を組織し、旅行の段取りを行い、さらに自分で組織した講中の人々を連れて白山に向かい、石徹白にあっては自分の家に泊めた。だから石徹白の家は旅館のようなもので、その格式が御師の格式として認識されることになった。冷涼な山奥の石徹白の集落は、この信仰によって食べることができた。

 詣客が来なければ死活問題であって、米の採れない石徹白ではたちどころに飢えねばならない。だから、石徹白の御師たちは命がけで白山信仰を広めたのである。したがって今日、白山神社が日本最大数を維持しているのは、まったく石徹白の御師たちの努力に負う部分が大きいといえよう。
 だが、石徹白の歩んだ道は平坦ではなかった。江戸時代中ごろ、宝暦年間に、信じがたいような大事件が勃発したのである。

 石徹白は、美濃郡上藩の領地で、郡上藩は宝暦年間まで金森氏が支配した。
 最初、織田信長の家来になり、やがて秀吉旗下に属し、越前大野の領主となった金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨白川郷の内ヶ島氏を攻めた。

 内ヶ島一族は金森氏に敗北して講和を申し入れ、その直後、帰雲城もろとも山津波に呑まれて滅んだ。飛騨一帯は金森氏の所有に帰した。飛騨は鉱物資源の宝庫であり、金森氏はおおいに潤ったにちがいない。

 その経済力は、飛騨の寒村にすぎなかった高山に名城と美街を築き、息子の宗和の時代には優れた茶道の文化をつくりだした。それは、今日まで春慶塗りや宗和膳の名で残されている。金森氏は、名実ともに飛騨高山文化の父であった。

 だが、江戸時代を迎えると、幕府は鉱物資源を領有する諸藩を厳しく監視するようになった。というのも、家康の軍資金供給に功績のあった佐渡の大久保長安が、金山の利益の多くを私物化していたことが死後露見し、その子らが全員切腹させられるという事件があったからである。

 幕府は鉱物資源を独占し、大名に経済力をつけさせないために、外様大名の有力鉱山をとりあげ、天領に変える政策をとった。六代目金森氏は飛騨から追われ、貧しい上ノ山(山形県)に移封されることになった。

 しかし、元禄十年(1692年)、再び元の領地に近い美濃郡上藩が与えられることになった。金森氏は、小笠原家や吉良家とともに茶道礼法の家元であって儀礼に詳しく、将軍の身近にあって特別の配慮を受けたのかもしれない。

 七代頼錦の時代、幕府の儀典役に任命されていた金森氏は、交際上出費が多く、窮乏する藩財政に苦しめられていた。家老は増収にあせり、領民からの収奪を無謀に厳しくした。郡上の農民は悪政に苦しむことになった。

 江戸中期、それまで比較的安定していた気候が火山活動などの影響で寒冷化し、全国的規模で飢饉が発生するようになっていた。百姓の生活は、かつてないほど圧迫される状況が続いた。

 やがて、江戸時代を通じても最大級の一揆が、金森氏の領下で起こるべくして起こった。後に宝暦農民一揆という。郡上周辺の五千名を超す百姓が結集し、金森氏の暴政を糾弾して立ち上がったのである。

 この事件の解決には四年を要し、同じ時期に石徹白に起こった大きな争いの処理をめぐっても幕府の追求を受けるところとなり、金森氏の断絶改易という大きな結果を招いた。宝暦一揆と石徹白の事件を併せて、世に宝暦郡上騒動と称され、長く語り伝えられることになった。

 金森氏は、七代二百余年で滅んだ。金森氏の滅亡を招いた宝暦騒動の一端である石徹白騒動とは、どのようなものだったのか。

 石徹白の村では、江戸初期から社家が二派に分裂対立する状況が続いていた。上在所の上村氏と下在所の杉本氏である。その原因になったのは、白山神道の主導権争いであった。
 当時、神道は、天皇家に近く天台宗の影響下にあった白川家に印可される勢力と、新興で徳川幕府に近い吉田家の影響下にある勢力とに二分されていた。石徹白でも、社家のうちに帰属をめぐって二派の激しい論争があった。
 神道印可支配をめぐる吉田・白川両家の争いは激しさを増し、木地屋の世界でも、氏子の印可帰属をめぐって全国的な対立を起こしていたことを記憶されている方も少なくないであろう。

 この地は、古くから白山権現に頼って暮らしをたててきたことから、全戸が社家かそれに準じる人々であったのだが、戦国時代末期に、越前から美濃にかけて浄土真宗の爆発的な勃興があり、天台宗の傘下にあった寺院に大きな影響を与え、真宗に信仰を変える者が続出していた。郡上一帯の民衆は、ことごとくといっていいほど、争うようにして真宗門徒に帰依しようとした。

 その影響は、石徹白にあっては白川神祇伯家の配下、つまり杉本派に著しかった。。下在所の人々は、社家のなかでは、どちらかといえば格下であって、上村派に比べて貧しかった。

 上村派は、上在所社家の権威を高めるために、幕府権力に近い存在である吉田神道に接近し、郡上藩の家老とも懇意であった。

 騒動の発端は、真宗をめぐるものであった。
 それは、杉本派の社家のうちに真宗に共感するものが多く、道場(現、威徳寺)を改築建立するために社家に寄付を募ったことから始まった。

 上村派頭領であった上村豊前は、白山神道の絶対的拠点でなければならない石徹白に真宗の勢力がのびてきたことに、著しい不快と恐怖を感じた。

 豊前は、京都の吉田家に石徹白の神道が危機的状態にあることを訴え、救いを求めることにした。書簡を送り、神道のすたれている現状を綿々と訴えたのである。
 これに対して吉田家は、自派の勢力拡大の好機だと考え、ただちに金森藩に対して建白書を送り、上村のために尽くした。

 藩の寺社奉行であった根尾甚左衛門は、上村とも懇意であり、この機会に上村派の勢力を味方につけようと考えた。

 そして、藩庁の命令として、杉本派社人に対し「以降、吉田家の支配下に入り、何ごとも上村豊前の命令に従え」と通達したのである。

 杉本派は驚き、反発した。彼らは、何ごとにも権威をカサに着たがる尊大な豊前をひどく嫌っていたのである。そのうちに、杉本派の社人が、真宗本山で豊前の悪行を訴えたという噂が流れた。豊前はひどく怒って、その社人を追放し、社家の持ち山の木を大部分伐採してしまった。

 杉本派頭領の杉本左近は、ただちにこの非道を藩庁に訴え出たが、寺社奉行の根尾はとりあわず、かえって左近を叱りつけた。

 左近はやむをえず、直接江戸の寺社奉行、本多長門守へ訴え出た。
 だが、長門守は時の郡上藩主、金森頼錦と懇意であったので、訴えをとりあげるどころか、金森家へただちに通報したのである。

 金森氏はこれに驚き、ただちに左近以下杉本派幹部を捕らえ、家財を没収したうえに領外に追放した。時、11月26日であった。

 上村豊前は、杉本派の執ような抵抗に怒り狂い、藩庁に対し、石徹白から杉本派を全員追放することを許可するよう迫った。

 時、12月25日、杉本派社人の64名とその家族、併せて400余名は、突然、着のみ着のままで領外への追放を宣告された。その日、石徹白は猛吹雪であった。老人、婦女子ともども人々は行くあてもなく追われた。

 豊前は、「白川伯の手のものなら白川郷へ行くのがふさわしいではないか」と、大声で笑った。
 桧峠には身の丈を超す積雪があり、老人や子供は凍えても暖をとることさえできなかった。途中の集落には、奉行から助けを禁ずる旨の通達がだされ、住民は戸を閉ざした。
 人々は、絶望的な死への行進をはじめた。

 桧峠を下ると、前谷村があった。前谷の衆は貧しかったが、定次郎をはじめ義侠に篤い人々が多かった。彼らは、藩庁に弾圧されるのを覚悟で、杉本派の人々を救おうとしたが、救援も空しく餓死凍死者は70余名にのぼったと記録されている。

 生き残った者の多くは、ただでさえ宝暦一揆のために辛い生活を強要されていた上之保筋(現、高鷲村)の農民の温情にすがったが、騒動終結後、無事に石徹白に戻ることのできたものは少なかった。

 その後、杉本左近による決死の直訴が実り、同じ時期の郡上一揆とともに、この事件が幕府の評定所で裁かれることになった。

 その結果は、一揆の農民側に大勢の犠牲者を出したが、郡上藩側にとってもとりかえしのつかない事態になった。

 事件の首謀者であった上村豊前は死罪になり、それを助けた根尾甚左衛門は切腹を命ぜられた。幕閣の本多長門も処分されたが、杉本左近は一か月の謹慎という微罪ですんだ。

 金森家は断絶改易された。
 後に、金森氏にとってかわって郡上藩を引き継いだ青山氏は、石徹白の宗教争議に関与することを極度に恐れた。このため石徹白は、明治維新を迎えるまで、一種自治共和国の様相を呈したのである。

 石徹白に秘められた歴史は凄惨なものであった。
 わが友、Yさんの家は上村姓である。柳田国男や宮本常一も泊まって取材している。今では、上在所、下在所とも区別のつかない集落になった。人々は助け合って明るく暮らしている。
 事件の原因になった威徳寺は健在である。そんな歴史も、スキー場を中心とする巨大なレジャー開発の鎚音の喧噪にかき消されてゆくようだ。

 石徹白の中心は、上在所の中宮、白山中居神社である。この由緒の古い神社の風景は実にすばらしい。彫刻も、まるで甚五郎作のように躍動感にあふれている。杉林も千年級の特筆に値するものである。わずかに山道をたどれば、巨大な合木の浄法寺杉がある。

 私は、中居神社の脇から、激しい雨の降り続く林道を車で辿った。終点から山道がのび、わずか上に、屋久島の杉にも匹敵する巨大な大杉を見た。

 樹齢1800年、老木の印象はいなめないが、ここに生き続けていることはひとつの奇跡であって、大きな感動をあたえてくれる。

 その脇をかすめて、草深い山道を分けて登った。緩い尾根を登り、後ろを振り返ると、雨あがりのガスのなかに石徹白の盆地が南海の孤島のように見え、神秘的な美しさを感じた。

 やがて神鳩宮の小屋があり、しばらくでガスに包まれた広い笹原にでた。わずかで銚子ヶ峰の標識の立ったピークに達したが、ひどい雨が降り出すなか、それ以上歩く意欲を失った。

 下山後、長滝に立ち寄った。ここには美濃馬場を継承する白山神社と若宮修古館がある。

 かつての長龍寺は、広大な美濃馬場の一角にひっそりと残されているが、主役は長滝白山神社である。明治維新による神仏分離政策までは、両方併せて白山権現であった。

 美濃馬場長滝寺は、廃仏棄釈のとき大きな破壊を受けなかった。その理由は、長滝周辺が白山権現の社家ばかりからなりたっていたこと、それに郡上一帯が熱烈な真宗信徒の拠点であったことによると思われる。これが、山向こうの飛騨川筋だったなら、平田国学徒によって破壊されていたことだろう。真宗は、天台宗の権現信仰を食いつぶしたのだが、皮肉なことに、それが美濃馬場の歴史的に貴重極まりない優れた財産を救った。
 社家の宮司を若宮家という。修古館の主である。実に、1300年の伝統を誇っている。

 ひどい雨足のなか、若宮修古館に立ち寄った。おかげで、観光客は皆無だ。
 門を一歩入ると、かつて見たこともない美しいたたずまいに圧倒された。まさしく日本美の真骨頂といっていい。「すばらしい!」と思うしかない。建築は、天明5年といういわくつきの大飢饉の年だ。

 笑顔の素敵な、気品のある初老の婦人が迎えてくれた。この方が、40代若宮家婦人であった。

 「この建物はね、雨が降らなければだめなんですよ」
 といわれた。なるほど、建物全体から受ける美の印象は、みずみずしい苔の果たす役割が大きいようにも思える。

 陳列品には、道端で蹴飛ばして遊びたくなるようなありふれた陶器が多い。どこかで見た記憶のある薄汚い黄土色の壷があった。
 「これは、重要文化財に指定された黄瀬戸でございます」
 「わたしどもでは値打ちがわからなくて、最近までお味噌なんか入れてましたのよ、フフフ」
 「これほどの黄瀬戸のコレクションならば、唐九郎が来ませんでしたか」
 「お客様、永仁の壷をご存知ですか」
 「昔ね、唐九郎さんがここに見にいらしたとき、隣の宝物殿で見つけた壷、ほら、その棚の上にあるミニチュアのモデルなんですけど、永和の壷といいます。それを見てお造りになったとうかがっております」

 「お庭の茶室では、谷崎潤一郎さんが細雪という作品をお書きになりました。わたしどももモデルになっていますのよ。フフフ」

 奥の陳列室には、さらに凄みのある工芸品があった。富士百景と銘ぜられた黒漆の宗和膳である。
 あまりの完成度に、ふるえてしまった。こんな逸品は徳川美術館にさえ多くはない。婦人も、その由来を知らないといった。

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