ファッシズムと優生保護

 ファッシズムと優生保護  2017年2月26日

 2016年7月26日の朝、我々は目を疑うような恐ろしいニュースに接した。

 相模原市にある障害者施設で、19名死亡26名重軽傷という大量殺傷事件が報じられたのだ。

 犯人は植松聖という名の施設の元職員で単独犯だという。

 いわゆる大量殺人というものは、80年前、1938年の「津山32人殺し」というもの凄い事件が知られていて、郷土史や民俗学を学ぶ者なら日本近代史最大の特異事件として誰でも知っているし、この事件をモデルに横溝正史が八墓村を書いて、たくさん映画化されてるから知名度が高い。

 津山事件の原因は、部落差別を受けていた青年が好意を持っていた女性宅に「夜這い」(西日本では結婚前の適齢期女性に対し、近所に住む若者が夜中に忍び込んで性交を求める習慣があった)に出かけ、身分を理由に拒絶されたことから怒り狂って起こしたという説があり、この種の異常事件の多くに差別問題が絡んでいるのは事実である。

 しかし、セキュリティの大きく進化した現代にあって、同じような大量殺人が本当に再現されるなどと予想した者は皆無に近かったのではないか?

 「あれは小説の世界であって、この情報化社会に、そんな馬鹿げた一気大量殺人が起きるはずはない。もし殺人が起きても、すぐに通報されて、たくさんの人を殺すなんてできるはずがない。何よりも動機があるはずがない。死刑になるほど殺して何のトクになるんだ。」

 みんな、そう思っていた。

 実際には10名前後の被害死者を出した大量殺人事件は、戦後だけでも十数件起きていて、ほとんどの場合、一度にではなく嗜好性の強い連続強姦続殺人である。
 例外はオウム真理教事件と、この相模原事件である。
 
 19名殺しの植松は希に見るほど強固な思想的確信犯であった。
 おそらくオウム信者による宗教的洗脳犯罪よりも、さらに強烈な優生保護への観念的確信を持っていた。

 「障害者は国家の邪魔者であり、死なせた方がよい」
 との強固な信念を持って大島衆院議長と安部晋三首相あてに事前(2016年2月13日)に上訴状を渡し犯罪を予告している。

 手紙の内容は

【 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
 常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
 私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
 重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
 もし殺戮実行に成功したなら、二年で免責の上、5億円もらいたい。】

 というもので、想像もできないほどの独善性と論理的飛躍、異様なナルシズムのなかにも、差別社会システムのなかで、誰もが共有しやすい優生保護思想の極端なリアリティ=「役に立たないものを排除する」発想が鮮明に見えていて、この事件が、実は日本国内に歴史的に蔓延してきた「優秀な者だけ残し、無用なものは排除抹殺する」という選別選択の差別=優生保護思想の極端な結実であることを示すものであったといえよう。

 それが証拠に、自民党や右翼から、たちまち大量殺人犯、植松聖への共感者、支持者がたくさん現れた。

http://lite-ra.com/2016/07/post-2459.html

「自民党ネットサポーターズクラブ会員として愛国という視点から自らの意見を論理的に述べる。重度障害者を死なせることは決して悪いことではない」
 とブログで公然と、植松への支持を公表する者さえ登場した。

 「植松の言葉自体には実は聞く価値のある部分もある。それは『障害者は邪魔である』」という観点だ」

 「考えてみてほしい。知的障害者を生かしていて何の得があるか?
 まともな仕事もできない、そもそも自分だけで生活することができない。もちろん愛国者であるはずがない。日本が普通の国になったとしても敵と戦うことができるわけがない。せいぜい自爆テロ要員としてしか使えないのではないだろうか?つまり平時においては金食い虫である。」

 「この施設では149人の障害者に対し、職員が164人もいる。これではいくら職員を薄給でき使わせたところで採算が取れるはずもない。そんな状況では国民の税金が無駄に使われるのがオチである。無駄な福祉費を使わなくて済ませることが国家に対する重大な貢献となる。だからこそ植松が言うように障害者はいなくなるべきなのである。」

 この男は、7月9日に石田純一の都知事選立候補の意向の報を受けて
 「都知事になりたいならばまずは自分の子を死なせてからにするのが筋であろう」とも書いている。

 「石田には東尾理子との間に子供が1人いるが、そいつはダウン症である。つまり育てるのにカネがかかる。東京都知事は言うまでもなく公務員である。公務員は国民のために尽くすのだから無駄遣いをしてはいけない。だからこそ無駄遣い以外の何物でもない子供は死なせるべきなんだ。無駄な医療費を使わなくて済むのだからこれは国家に対する重大な貢献となる。政治家なのだから率先して自分の子供を見殺しにできるようにならなければいけない。」

 「野田議員の子どもは重い障害をもっており、1年で9回の手術を受け、脳梗塞になり産まれてからずっと入院、人工呼吸器を装着し、経口摂取は不可、右手右足に麻痺が
 だからこそ野田は総理大臣になりたければ、無駄遣い以外の何物でもない子供の治療を即刻辞めるべきでなのだ。もちろん死んでしまうが無駄な医療費を使わなくて済む。これこそ総理大臣に求められる国家観だ。」

  (この野田聖子氏に対する投稿には7000を超える「いいね!」がついている。これが自民党の若者たちの思想ということなのだろう。)

 この自民党ネトサポは、ブログに安倍HPをリンクし、熱烈な安倍晋三シンパであることを自慢している。
 我々、反原発派のツイッターアカウントに下劣で執拗な嫌がらせ工作を仕掛けてくる者たちも、大半が安倍信者であって、アカウントプロフィールには「日本が好きです、安倍政権断固支持」と書き込んでいる者ばかりである。

 これを見ると、植松聖が決して特殊な精神病質者ではなく、安倍政権支持者の若者たちの標準的な思考であると見なければならないのである。

 ネトウヨ信者のご本尊である安倍や麻生自身が、「美しい日本」というスローガンはじめ、国家に役立たない者は排除せよとの主張を繰り返してきた。
 障害者も老人も、日本社会から弱者を排除した上で見せかけの「美しい日本」を外国に対して宣伝してゆこうということか?

  https://www.youtube.com/watch?v=vFN7eTucz-U

 ブログ主(自民党を代表する論客?)は、こう結ぶ。

 「こういう自分勝手な人間が増えたのも日本国憲法のせいである。自由を謳い、権利を行使しなくてよいという天賦人権論(すべての人間は生まれながら自由平等であり、誰もが幸福を追求する権利をもつという憲法の基本理念)が日本人を堕落させた。
 だからこそ自民党は天賦人権論を否定する憲法案を出した。この憲法が通れば国民の血税を使っても他人に対する感謝の心を持てるようになる。」


 優生保護とは何か?

  http://www.soshiren.org/yuseihogo_toha.html

  http://www.mskj.or.jp/report/2899.html

 実は、戦後日本には世界中の人権活動家から糾弾され続けた「優生保護法」という犯罪的な反人権法がまかりとおり、凄まじい人権侵害が正当化されてきた。

  http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2017/opinion_170216_07.pdf

 不良遺伝を淘汰するという理屈を掲げ、知的障害者、ライ病、精神病などに罹患している場合、本人の同意を得ずに勝手に中絶堕胎し、不妊手術まで行った。
 その被害者は、記録が保存されているだけで10万人の単位である。

 日本国民に「不良形質」の遺伝を阻止するという名目で、個人が子を作り生み育てる基本的人権中の人権を国家権力が強制的に支配し、数十万人以上の人権を根底から剥奪し、胎児を強制殺害したのである。

 まさに安部晋三が主張する理想社会、国家が国民の基本的人権を剥奪し、支配する「美しい日本」がそのまま体現されている極悪中の極悪法であった。

 これが世界中から批判を浴びて廃止されたのは、実に1996年であり、まだ20年あまりしか経っていない。

 

 植松聖の「障害者は国家の邪魔者」との思想は、実を言えば、歴史の中で普遍的に顔を出し続けている。

 もっとも端的で恐ろしい結果をもたらしたのはナチスであった。

安楽死計画──暗号名「T4作戦」

 http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb700.html

 ナチスは、優生保護思想「国の役に立たない邪魔者は始末する」という発想を忠実に実行し、障害者、重病人、精神病者などを中心に、片っ端からガス室に送り込んだ。

1939年から1941年8月までに、約7万人の障害者が「生きるに値しない生命」として、抹殺された。
 これは、もっとも少ない見積もりである。

 一般的に公表されているのは26万人、第二次大戦全期では40万人を超えるとする資料もある。

 最初はドイツ各地の障害者施設にいる子供たちを連れ出してハルトハイム城やグラーフェネック城に設けたガス室に送り込んだ。
 使われたガスは、トラックの排気ガスで、一酸化炭素中毒死させられた。
 やがてユダヤ人殺戮と同じ、チクロンという塩素ガスが使われた。

 植松聖が逮捕後「ヒトラーの思想が自分に降りてきた」と言ったのは、このT4作戦を指すのだろう。

 この計画は1941年8月、突然、中止命令が出された。
 理由については諸説あるが、ヒトラーが実家に帰省したとき、近所に住む叔母から「私の子供が連れて行かれて帰ってこない」 
 と激しく糾弾されたからだとも言われる。

 だが中止命令後も、それを無視してドイツ敗戦の直前まで、障害者殺戮が続けられたと記録されている。


 優生保護思想は、どこから生まれるのか?

 日本は世界でも指折りの競争国家であり、すなわち優生保護国家である。

 「お国のために役立たぬ劣った者は排除し、優秀な者だけを生かす」
 この選民主義の価値観の下、数十万という「劣った」人々の命と人権が強制的に奪われてきた。

 まず自分が通った保育園、幼稚園、小中学校で、どのような思想教育を受けてきたか思い出してみればいい。

 私の子供時代は、半世紀以上前のことだが、学校が最初から最後まで一貫していたのは、子供たちを選別するということであった。

 子供たちの、すべてをランク付けし序列化し、上位の子を褒め、下位の子を叱りつける。「よい子・悪い子」 の基準は、学校にとって、社会にとって、国にとって、であって、その子にとっての価値は皆無だった。

 運動会で一番になれば褒められ、絵が上手なら褒められ、テストの成績が良ければ褒められ、こんな選別ランキングの繰り返しが学校教育の本質であった。
 失敗した者、劣った者は、あたかも人間としての資格がないように決めつけられた。

 このような価値観に、どっぷりと浸かり洗脳されてしまった子供たちが、どのような考え方をするようになるか、考えてみればよい。

 価値の高いものには従順に従うが、外れているもの、価値が低いとみなされるものに対しては徹底的に侮蔑し中傷し、痛めつける=イジメが発生するのである。

 私の通った半世紀前の学校でも同じであった。私も、毎日いじめられるために学校に通い、卒業しても絶対に同窓会に顔を出そうという気になれなかった。

 子供たちは、学校側、大人の用意した価値観だけに洗脳され、他人に秀でること、一番になること、多く蓄財し、大きな権力を得て他人を見下すことだけが正義だと勘違いさせられてゆくのである。

 弱者に対する優しさ、連帯感、弱者こそが社会の底辺を支えているという真実は何一つ見えなくなってゆく。
 高級車にのって、我が物顔に優越風を吹かせ、他人を嘲笑する者が立派な人間と勘違いさせられてゆくのである。

 こんな連中=麻生太郎・安部晋三らが、弱者である障害者を見て「お国のために役立たない邪魔者」と決めつけ排除し、社会から追放しようとするのは、ごく自然な成り行きであって、すなわち、これがファッシズムの本質というべきなのだ。

 ファッシズムという思想は、選民思想のなれの果てであって、優生保護思想とまったく同じものであり、「この社会に無駄なものは何一つなく、すべて相互作用で社会を支えている」という連帯感の対局にある独善である。

 それは自分が、あたかも「他人より優れている」という愚か極まりない勘違いの上にのみ作り出される。
 幼児の時代から、競争に勝てば褒められるという価値観の上に構築された幻にすぎないのである、


 

 
 

途方もなく分裂し、二度と融合することもなく完全に分離してゆく社会

 途方もなく分裂し、二度と融合することもなく完全に分離してゆく社会


 宇宙人の代弁者(霊媒)として有名なバシャールによれば、2012年頃に地球社会は位相がずれ始め、2016年秋に二極化が鮮明になり、社会が二つに割れて、もう相互に交わることもなくなり、勝手にそれぞれの世界を作り出す。
 そして、2020年代にはポジティブ側だけが残ってネガティブ側は、この世から消えてしまうだろうと明言している。

 2012年といえばフクイチ原発事故の翌年、確かに日本社会は原発推進派と反対派に真っ二つに割れて、その後も両者の亀裂が拡大することはあっても融合する兆候は皆無である。
 間違いなく社会が真っ二つに割れて亀裂が深まっている。バシャールの指摘通り、もう二度と融合はないだろうと、私も薄々思っていた。

 この二極化予言動画をリンクしようとしたら、ユーチューブからバシャール動画が、すべて消されてしまい、有料サイトに変わっていたので、いっぺんに不審感が募り、「おいおい、バシャールまでも金儲けの仕掛けにすぎなかったのか?」
 と愚痴を言わねばならないのが残念だが、同じ意味のことを木村藤子も書いているし、他にも、たくさんの人が同じ意味の予言しているので、たぶん間違いでもあるまいと思う。

 ついでに有料化される前にバシャールの動画をたくさん見てきた印象から、「この人(霊媒の背後にいて意志を伝えている宇宙人)の言うことは釈迦と同じだ」と思っていた。

 釈迦の教えを私なりに解釈すると、彼が目指した大乗的思想の極エッセンスは利他思想だろうと思う。利他とは
 「自分のために生きるのでなく、人のために生きよ」
 というものだ。

 これに対して、自分のために生きる利己主義的価値観を「小乗」と呼び、大乗側から見て「あなたの乗り物は小さい」という批判として使われる言葉である。

 釈迦の思想の究極エッセンスは、大乗的利他思想と「因果応報」であって、「人生は与えたものが還る」という本質である。
 別の言い方では、「他人に親切にすることが、自分の豊かな人生を生み出す」ということになる。

 バシャールらしさが加えられているとすれば、「人生はワクワクすることで意味を持つ」というあたりか?

 釈迦もキリストも、「見よ、それは幻にすぎないではないか」
 というセリフがたくさんあって、つまり、「対象的世界は自分自身の心が作り出している幻影にすぎない」、という本質を指摘しているのだと私は思う。

 そのバシャールが「人間社会の二極化」を言うとき、いったい何の二極? と訝る人が大部分だろうが、私には、それが利己主義と利他主義の極であると鮮明に見える。

 2011年の巨大震災と巨大放射能まき散らし事故を経て、我々は鮮明に理解した。

 もう、誤魔化しようのない現実を前にして、自分たちの利権を守るために必死にネガティブな現実を隠蔽する集団と、彼らに騙されたまま追従するグループ。

 そして、起きてしまった現実を直視し、何が問題であるのか認識し、子供たちの未来を守るために何をすべきかを理解し、ポジティブな行動をおこしているグループ。

 日本社会は、この二つのグループに完全に分裂し、中間層も、どちらかの側に吸収されてゆき、もはや融合不可能なほどに対立し、それぞれの社会を作り出している。
 ネットのソーシャルメディアも、それぞれのグループの発信は、それに属する人しか見ないし、対話も皆無に等しくなっている。

 もう自分の権益を守ることしか考えられない利己主義者に、何を話しても無駄なのだ。

 この二極化は、とりわけ原発放射能の危険性を警告してきた人々にとって、恐ろしいほど身につまされるだろう。
 今のところ、マスメディア、テレビ局などの大部分が電通による広告利権支配の影響を受けているのか、被曝を隠蔽し、原発推進側の利権に奉仕するだけの報道に傾いていて、それに騙されている人たちによる間違い、無知の恐ろしさを思い知らされ続けているからだ。

 こんな事態は、戦後の歴史のなかでも初めてで、60年・70年安保などの国論分裂の大問題のときですら対話は成立していた。
 だが、今回は、一切の対話が原点から成立しない。まったく噛み合わない。

 「極が分裂する」ということの意味は、極を支えてきた基盤が真っ二つに崩壊したということである。
 日本において、これまで人々を一つの極に束ねてきた基盤とは何か?
 私は「人情社会の価値観共有」であったと思う。

 人間社会のすべての価値基準の根底に「人情を尊ぶ」という価値観があった。
 これは戦争で7000万人中、450万人、という人々が死んだり凄まじい辛苦を嘗めた共有経験から戦後社会に成立していた連帯感の生み出したものであったと私は思う。

 だから60年安保デモで樺美智子さんが圧死したときでも、警察側とでさえ、わずかでも対話が成立した。
 人情論を対話の前提として共有することから、誰も逃げることができなかったからだ。日本人として生きている共通の基盤を誰もが理解していたからだ。

 それが戦後70年を経て、ほぼ失われてしまった。
 
 人情を大切にしようという共有価値観があったからこそ、人情に照らし合わせて、その行為はいかなる意味かという議論が成立したのである。

 その人情という価値観を共有しない人たちが出現し、ブラック企業やらブラックバイトやら、過労死強要やら、もう「人情から見て」という共通の価値観は、どこかに消え失せてしまったかのようだ。

 「人情より金儲け」
 だからパンティ泥棒を権力でもみ消した犯罪者ですら大臣になり、防衛産業の株主でインサイダー取引可能な立場の者が防衛大臣になり、完全に人情を見失った経営者たちが労働者を低賃金で使い殺しても非難されない社会になり、追い打ちをかけるように東電による放射能まき散らしと、凄まじい隠蔽工作が始まり、日本人の命の値段が著しく軽くなってしまった。

 もう「人非人=人でなし!」と非難が飛び交う社会は、どこかに行ってしまった。

 だから対話の基盤がどこにもなく、前提がないのだから対話の成立がありうるはずもなく、そこにあるのは、金儲けと権力への憧憬だけでできた利己主義者と、かつての人情社会を懐かしみ、子供たちの未来に人情を復活させようと志す利他主義者だけなのである。

 だから、社会は、恐ろしい放射能汚染の現実を隠蔽して利権に走る利己主義者と、何とか、まともな社会=人の命を大切にする社会=人に優しい社会を目指そうとする利他主義者に完全に分裂し、もはや対話もないゆえに二度と融合もない、それぞれの価値観による分裂社会が始まったのである。

 日本社会は、2016年秋には価値観が分離した二つの社会が成立すると予言されたとおりになった。
 2020年代になればネガティブ側の、すなわち利己主義側の社会は、(自家中毒を起こして)この世から消えてしまうだろうとバシャールは言う。

 今年、2017年、すでに3月になろうとしているが、社会情勢は、安部晋三政権=日本会議のネガティブ側がオウンゴールによって追い詰められ窮迫してて、報道による真実の捏造の現実を、全国民が見せつけられる事態になっている。

 「人に優しい社会」を目指すポジティブ側はどうなのか?
 各地で草の根の市民団体が雨後の竹の子のようにニョキニョキと生えだして、自民党の用意した彼らの権力維持のための情報を排除し、無視し、新しい人間解放の価値観の下で活動が始まっている。

 まだ有力な勢力にまでは成長していないが、見かけなどどうでもよい。「子供たちの未来を守る」という危機意識と価値観を共有できる人たちが爆発的に増えてゆけばよいのだ。

 ネガティブ権力が、その非合理性から自家中毒を起こしオウンゴールによって消え去ってゆく。ポジティブ市民勢力は、人と命を守り、人を癒し、心を解放することで、人々が目指す新しい価値観を作り出してゆく。

 東電放射能まき散らし事故の本当の影響が出るのは、昨年2016年からであり、今年、来年、再来年と最大級の被害が誰の目にも見えるようになるだろう。
 どんなに隠蔽しても無駄だ。

 これまで放射能被曝被害を隠蔽してきたのは原発利権に群がってきた自民党・保守系の勢力と、国立大関係者などだが、被曝を隠蔽してきた本人が、実は一番被曝の危険に晒されてきたのは当然で、その結果が出てくる時期にさしかかったということだ。

 「食べて応援」などと愚かな隠蔽洗脳に荷担してきた議員やメディアのタレント、保守支持者などが、続々と被曝死してゆくことだろう。
 彼らが安全だと信じてた放射能の情報は、すべて原発再稼働のためのウソだった。
 キロ100ベクレルどころじゃない。ドイツ政府が警告したように幼児にはキロ4ベクレルでも危険だったのだ。

 事故から6年目に入り、フクイチ事故当時、三ヶ月齢胎児だった者たちが出生し5歳を超えた。
 放射能被曝の感受性は、三ヶ月齢胎児では大人の数万倍となる。
 何が起きるかといえばダウン症などの遺伝子障害と、知能障害が起きる。ダウンは出生時にも分かるが、わずかな知的劣化は5歳を過ぎないと見えない。
 アメリカの核実験被曝では1962年生まれの海兵隊員は無被曝年生まれに対してIQが10以上劣っていたとの報告がある。
 日本で、それが明らかになる時期にさしかかったのである。

 これまで安全デマに人々が騙され、洗脳されてきた分だけ、放射能の本当の恐ろしさを知ったとき、政権や電力に対する怒りは凄まじいものになるだろう。
 日本では数千万という単位の人々が被曝の影響で、様々な病気にかかって死んでゆかねばならないと、私は事故の瞬間から書き続けたが、いよいよ、それをデマとしてでなく、真実として受け止めねばならない時がやってきた。

 それでもネガティブ側は、真実に目を背けたまま独自の社会を勝手に作り出して歩むことだろう。
 
 我々ポジティブ側もまた、彼らを無視して、人間を大切にする価値観の社会を生み出してゆかねばならない。




 

 おおきく見せるということ

 2000年頃書いたものだが不詳 2017年加筆


 「大きく見せる」ということ

 山中で、熊などの強力な攻撃力を持った大型動物に遭遇するとき、人は驚き、怯えるが、相手の方も相当に驚き、怖い思いをしているのを理解できるだろうか?

 こちらが、「脅して撃退してやろう」と、不用意な浅知恵を働かせ、攻撃動作を示すことで相手を怒らせ、攻撃本能に火がついて不幸な結果を招くことがある。

 熊や猪などによる人間殺傷事件の多くが、無用に相手を怒らせることによって起きている点では、巷の犬と事情は同じである。

 動物は恐怖に駆られ、怒り狂って襲うのである。もちろん、猟師が失敗した手負い獣や子連れ熊など、極大化したストレスを抱えた危険な連中は、遭遇の前から怒り狂っていると思わねばならない。

 だが、怖がらせないよう怒らせないよう、落ちついて配慮しながら、こちらの存在を優しく静かに相手に知らせることで、ほとんどの場合、ニアミスによる不幸を防止することができると私は思っているし、実際にそうであった。

 私は、これまでの30年近い国内の山歩きのなかで、羆や月の輪熊など大型獣に遭遇した件数は十数回にのぼる。それらのうち10m以内と思われるニアミスも数回ある。

 北海道、十勝山系のホロカメットク・富良野岳の稜線では、岩尾根を超えたところで、目の前に突然、巨大な羆が現れ、逃げる場所もなかったが、牛ほどの大きさの黒光りした羆は、穏やかに私を見つめ、悠然と音もなく笹原に消えていった。

 不思議に恐怖心はなく、金色に光り輝く黒毛の美しさばかりが印象に残った。(ヒグマは老齢化すると「金熊」と呼ばれる美しい漆黒の毛並みに変わる個体がいる。)
 このときは数百メートル手前から、バケツをひっくり返したような大きさの真新しい糞塊が散乱していたので多少の覚悟もあった。

 裏木曽の奥三界山付近で遭遇した月の輪熊は、私が小用中に目の前の藪から突然、脱兎のように飛び出し、すさまじい勢いで坂を転がり下って視界から消えた。
 私は呆然とするばかりで、肝心なものをしまうことも忘れてしまった。信越の鳥甲山でも、中アの空木岳でも似たような経験があった。月の輪熊を身近に見るときは、いつもこうだ。

 私は熊など大型動物の存在を知覚すると、できるかぎり優しい声で「オーイオーイ」と呼びかけ、話し続ける。絶対に相手を怒らせるようなことを言ってはならない。

 動物だってテレパシーが通じる。
「お元気ですか、結構なお日和で、いやーハンサムでんな」
 なんて、あたりさわりのないことを静かに話し続けるのである。

 話が途切れないうちは動物も警戒しない。向こうも好奇心があり、何が話しているのか確かめたいのである。
 これで、ときに数mまで接近することもあるが、不慮の事故が起きたことは一度もない。離れるときも話し続ける。たいてい相手はポカンとしている。この方法は私の秘伝として、読者にお教えしたい。過去に、有明山や深南部などで経験を重ねた。

 幸いにして、これまで私は熊や猪から攻撃を受けた経験はない。しかし、紀州大峰山地、前鬼口付近の林道で、突然、熊に遭遇したとき、立ち上がって、「ガー」というすさまじい大声で威嚇されたことがある。

 このときも、逃げ出して何事もなかった。声で威嚇されたのは、他に会津六十里越付近など3回ほどで、これは、いつも突然なので心臓によくない。

 国内、数千回を超える山歩きの経験を持つ宮崎日出一さんは、熊に襲われた刹那、必死に逃げ出して無事だったことを山行記録に書いている。この人の数千にのぼる記録は日誌のように正確で、その表現に嘘や誇張はない。

 手元に報告が残っていないのでうろ覚えだが、確か、中央アルプスの経ヶ岳付近の木曽側の支稜だったはずである。
 宮崎さんは比類なきベテラン登山者で、好んで人の歩かぬ藪を選んで歩く。ニアミスにおける多くの場合、音や匂いの気配で双方とも気づいて遭遇を避けようとするものだが、熊が子連れであって、子に気を取られて周りに注意が行き届かない場合や、地形的に気配が遮断され直前まで気づかない場合、不幸な突然の遭遇となる。

 このときは天候と地形が悪かったようだ。濃い霧によって視界と音の伝播が閉ざされ、複雑な地形の稜線で突然の出会いとなった。
 熊は怒って立ち上がり、両手を高く上げて宮崎さんを威圧しようとした。大きさは子牛ほどもあったと書いていたから、200キロ近い大物だっただろう。恐怖で身が竦んでしまって動けない。

 次に熊は立ちすくむ宮崎さんに近寄り、再び立ち上がって前足でフックパンチを見舞おうとした。その刹那、笹藪に飛び込み、神業に近い藪こぎの実力を最大限に発揮して必死に逃げた。

 熊が追ってきたかどうかは覚えていない。余談だが、宮崎さんは、この事件以降、それまで「あんなものシロートのやることだ」と軽蔑していた鈴をつけて山を歩くことになった。

【2017年追記、大峰千日回峰修行中の塩沼亮潤も山中で大きな熊に襲われた。歩いてると、後ろでドンドンという森を揺するような足音が聞こえる。振り向くと大熊だった。逃げたが逃げ切れないと思い立ち向かった。杖を投げると熊は驚いて上に逃げた。

 世界最高のクライマー、鉄人、山野井靖史が奥多摩で熊に襲われたニュースを聞いたときはショックだった。子連れ熊に遭遇し、顔を70針、体を20針縫う重傷を負った。
 通い慣れたハイキングコースでのランニングで、突然遭遇のもたらした悲劇だった。】

 アイヌの熊狩りの記録を見ると、立ち上がって両手を高くあげた瞬間が最大の隙だという。この瞬間、勇敢なアイヌは刃物をもって懐に飛びこみ、心臓を深く正確にえぐり抜く。マタギの記録にも全く同じことが記されているから、これは普遍的な事実なのだろう。

 熊は攻撃の際、どうして立ち上がるのか? ほとんどの動物は、無用な争いを避けるために、争いの前に実力の序列を見極めようとする。序列は同じ種類の動物なら大きさによって定まるわけだから、本能的に少しでも大きく見せようとするのである。

 熊が立ち上がらず、いきなり噛みついたという報告を聞くことも多いから、たぶん、立ち上がるときは、いくぶんか攻撃に余裕のあるときではないだろうか。まずは脅して見せて、「おまえが逃げよ」という意志表示をするのではないだろうか。

 それでも逃げないとき、やむをえず攻撃するのだろうと私は考える。大きく見せるのは、無益な殺傷を避けるための知恵なのではあるまいか。

 猫のサカリシーズンによく見かける猫同士の争いも、毛を逆立てて自分を少しでも大きく見せようとするのが分かる。攻撃の直前、前足を大きく伸ばして立ち上がろうとするのも熊に似ている。

 犬については、飼い犬しか見たことがないのでよく知らないが、睨み合って大声で吠えあうだけで、後ろ足で立って大きく見せるなど見たことも聞いたこともない。どうも、尻尾の勢いが気勢の強さに関係ありそうだ。気勢を競い合って、尻尾が垂れたら負けという風ではないだろうか。

 ガチョウのケンカでは、羽を広げて首を伸ばし、明らかに大きく見せている。水鳥一般にその傾向がありそうだ。牛や鹿などの仲間が、不便とも思える大きな角をもっているのも、外敵や、仲間内の競争者に対して少しでも大きく見せることに意義があるのかもしれない。

 さて、人ではどうであろう。

 人間同士の争いでも、自信のない、怯えのある者同士のケンカを見るとき、相手を脅して萎縮させるため、少しでも自分を大きく見せるのに必死になっているのが看て取れることがある。

 以前、駅の付近で、ある酔っぱらいが通りすがりの女性に絡んだとき、女性の彼氏とおぼしき男がそれを制止しようとすると、酔っぱらいが背を伸び上がって彼氏を睨みつけているのを見て笑ったことを思い出した。

 まあ、その程度のワルなら特に危険はないと思い、成りゆきに任せた。本当に危険なのは、カッコをつけない猪のような直情型である。

 ヤクザが外車や国産大型車に乗って偉そうに見せるのも、無用な争いを避けるための知恵なのだろう。
 大きな車に乗ってヤクザらしくしていれば、争いを仕掛ける連中も少ない。連中はケンカになって実力が露呈することをひどく恐れている。

 怖がられなくなったヤクザは、もはやヤクザでない。この世界は「怖がらせてナンボ」である。だから、なめられるような小さな車には乗らない。

 最近の程度の低いワルガキどもが必要もないのに、やたらデカイ車に乗って他人を威圧したがるのも、自分を実力以上に大きく見せたがる小人の哀れな脅しの類だろう。

 普通に生きていることが怖いのかと気の毒になってしまう。こちらも、狭い山道やスーパーの駐車場で、無用にデカい車は大迷惑だ。日本には、日本に適したサイズというものがある。長く乗っていれば、いやでも思い知ることになる。背伸びして、「大きく見せる」無理の副作用は決して小さくない。

 「なめられたくない」連中の大型志向は、おそらく、弱者・小者を軽蔑しながら生きてきた習慣からなのであろう。自分の実力が矮小であることを思い知らされているのだろう。だが、それを認める勇気もない。本当に自分に自信のある実力者は「能ある鷹は爪を隠す」なのである。決して、必要以上に自分を大きく見せることなどしない。

 ワルガキ連も、また必要もないのに33ナンバー車に乗って、狭い道や駐車場で他人に迷惑をかけながら得意になっている普通の市民も、学校のランク作りと、その対極としてのオチコボレ製造工場と化した、人間の尊厳を踏みにじるような序列化に堕落した公的教育を受けずにすむなら、あのように愚かしい優越感を持たずにすむのにと私は思う。差別されなければ、誰が差別しようとするものか。

 だが、「小さくて何が悪い!」と、どうして言えないのだろう。

 重ねて言う。本当の実力者は、決して自分を大きく見せようとはしない。いつでも自分の真実の身長を正確に計っている。無理して背伸びすることが、いつか手ひどい副作用を生むことに気づいているからである。

 私は96~98年、2年半ほど名古屋のツバメタクシー(中村区の中央交通)の運転手を稼業とし、実に様々の客を乗せ、世間には多くの生活があることを知った。

 客には大企業経営者や芸能人などの著名人も多かった。その経験から、世間でいうところの「成功者」に共通する特徴を見いだそうとするなら、いずれも私生活が実に質素で、先祖祭祀を非常に大切にしている点をあげることができる。

 私はスピリチュアリストだが一方で完全無神論者であって、いっさいの宗教を否定している。だが、これらの「成功者」たちの生活態度は、例外なく、驚くほど宗教的で禁欲的であった。

 たとえば、有名なパチンコチェーン店のオーナーのK氏は、毎朝、立派な屋敷の四方に1升ウン万円もする銘酒(天狗大吟醸)を念入りにふりかける。
 屋敷神に捧げているのである。家族そろった毎朝の祭祀にも時間をかけていた。逆に、私用に使う車はありふれた7ナンバーの中型車で、祭祀以外の無駄なことには金をかけようとしないし、金持ちに見られないよう気を遣っている。

 別の某会社経営者は、質素を通り越してドケチ一代のモデルになりそうな生活をしていた。
 自分の豪華な屋敷にタクシーを呼んで、支払いはいつも名古屋市が高度障害者に支給している限度額810円の無料タクシーチケットを利用した。
 限度額オーバー分について、この人には障害のカケラも見あたらないのに堂々と障害者割引を要求し、必ず数十円の釣り銭も正確に受け取った。これはこれで、半端でない金銭への思想と執念を感じたものだ。

 わが地方出身者には、先日、おそらく大勢の人々から怨嗟を受け、呪われながら死んだ横井秀樹という日本を代表するドケチ成金がいるのだが、この地方にはミニ横井が大勢いることを知った。この人物の目を見張るような絢爛豪華な屋敷内には立派な社が祀ってあった。

 成功者たちは立派な家に住むが、おしなべて生活は質素である。いつまでも若き日の苦労を忘れない。先祖や神仏への感謝を決して疎かにしない。高級車を乗り回して贅沢な浪費をすることに快感を覚えるような人々に、本当の意味での成功者はいない。
 苦労時代を忘れ、大衆を見下したその瞬間から転落破滅への道を転がり落ちることを彼らはよく知っているのである。

 だが、苦労を知らないその子供達の世代は違う。他人よりランクの高い生活があたりまえと思っている。
 だから、苦労人による歯止め、つまり自分をセーブしてくれていた後見人が消えた瞬間から、自分が築き上げたものでない有形無形の財産が、あたかも天から与えられた特権であるかのように、自分の天性の容姿であるかのように錯覚し、己が最初から一般大衆と異なる選ばれたエリートであると勘違いし、それにふさわしいと自分で定めた生活様式をつくりあげる。

 それは自分にふさわしい地位の、水準を満足させるものでなければならない。そして、同じ様な幻想を抱いた仲間と、閉ざされた社会を共有し、結果、厳しい現実の法則から目を背けるようになる。実力さえ金で購えるかのような空想の世界に棲むことになる。

 「選ばれたる者」の共同幻想の世界である。つまり、本当の実力もない者が、資産に頼って外見だけを「大きく見せる」ようになる。

 こうして、先祖が汗と血によって築き上げた資産は、やがて巷間に霧散し消えてゆく。
 こんな流転が生々しく繰り返される様を、私はタクシーのたくさんの乗客の背後に見ることができた。
 ろくな用もないのにタクシーに乗りたがる人、煌びやかに飾っていても猜疑心に包まれた虚ろな表情。数え切れないほどの不幸な人相を見、相応の不愉快な思いもした。

 また、こうした運命を辿って、白川公園のテントに落ち着いた人を私は知っている。もう少し具体的に書きたいが、プライバシーに触れることなので、抽象的な表現にとどめねばならないのが残念だ。

 「大きく見せる」ということ。本来の実力以上に自分を大きく見せたがるということは、実は「怖い」からに他ならない。
自分の実力では対処できないかもしれない恐怖があるからなのだ。圧迫され、心臓が破裂しそうになるほど怖い。そして、なんとか圧迫する相手を威圧し、その場を誤魔化したいのである。だからMさんも大熊に張り倒される寸前で逃げることができた。大きく見せようとしている相手は、実は大した相手ではない。

 人は自分の人生に拠りどころを求める。人生に救いがほしい。この世の誰かに愛されたい。誰にも愛されないなら、せめて他人に対して優越感を感じ続けていたい。自分は価値のある大きい人間だ、せめてそう思いたい。小さな貧しい自分を見つめることなど堪えられない。

だから、大きく見せたい。「嗚呼、自分の人生は大きくあってほしい」私もまた、妄想に悶え苦しむ。
 自分を冷静に客観的に見ることのできる醒めた実力のある人は、こんな幻想にしがみつこうとしない。人の一生は、自分の本当の背丈を見つめることのできる実力を磨くための時間なのかもしれない。

 自分の背丈が見える人にとって、人の一生は、どれほど大きく見積もっても、立って半畳、寝て一畳ほどの大きさしかないことをはっきりと見ることができる。

 それは、死刑囚でも、浮浪者でも、エリートサラリーマンでも、大学教授でも、大臣でも、天皇でも、勲章をもらっても、前科をもらっても、百万人を救っても、百万人を殺しても、決して変わることのない厳然たる真実である。

それなのに、人々はさまざまの虚構に怯え、自分より価値の高い人、低い人がいるものと錯覚し、強いコンプレックスをもつ。宮殿や議事堂や教壇に立つ人々が、薄汚れた服を着た人々より価値の高い集団だと錯覚する。

 ひるがえって人間集団を考えてみよう。

 人の集団がこの世に成立した頃、ただの野猿の群から、生産・貯蔵・分配を会得するほどの社会性を獲得した頃、マルクス・エンゲルスが指摘したように、出来の良い人々と、やや遅れた人々の二つの階級に分かれた。それらの互いに矛盾を孕んだ階級の存在が、やがて国家を成立させた。ここでは、くどくど述べない。問題は、本来あるはずのない人の外に、人の上に、それらを支配する「国家」という虚構が成立したときから始まったのである。

 「立って半畳、寝て一畳」の真実しかない人間に、それよりも価値の高そうな幻想が芽生え、エライ人が生まれ、バカタレが生まれ、良いものと悪いものが生まれた。だが、それらは所詮、虚構であって真実ではない。嘘の価値観を固定するためには、それにふさわしい偶像の成立が必要であった。

 国家の成立によって大きな利益を受ける集団が生まれた。そして、その利権を確保するために、末永い嘘、虚構を成立させねばならなくなった。
「国家は、民衆の手の届かぬ凄いものだ」という嘘である。「だから国家に逆らってはならない」という嘘である。

 虚構を持続するために、「普通の人」にはできない、圧倒するスゴイ能力を見せねばならなかった。そして、その必要が、地球上のすべての大型文明に共通する偶像・巨大遺跡を生み出すことになった。

 なんでもいい、「スゲーもんがある」という驚きと、未知への恐怖が、国家という虚構を信頼させ、大衆を隷属させたのである。人は人だけに拠って生きているのが真実なのに、偶像は、人の外に人を拠らしめるものがあるという錯覚を呼び起こさせた。

人々は、人に頼らず、偶像に頼るようになった。人の愛でなく、国家の権威にすがるようになった。

 偶像によってトクをする階級が成立した頃、その利益を守り続けるために、永久に偶像の再生産が始まった。これが、歴史上の偉業の正体であり、今日の核兵器や原子力発電所の本質である。

 これらは、国家という虚構を、大きく、民衆の手に届かぬものに見せることに貢献し、大衆を国家権力に隷属させる力になるものでなければならなかった。そう、「大きく見せるのである」

 軍隊・皇室・学歴社会・巨大プロジェクト、超高性能の産業機械など、これらは、国家の虚構を支える、つまらぬ錯覚にすぎない。本当は、こんなものは生きてゆくのに必要不可欠なものではない。

人の一生は、どんなに無理な背伸びをしようと、「立って半畳、寝て一畳」以上のものでは絶対にないのである。こうした虚構は、人生にに不幸をもたらし、人間社会に究極の不幸をもたらす。そして、その不幸の華こそアウツビッシュに他ならなかったし、スターリンやミノシェビッチに受け継がれていたのである。

 自らの背丈を見よ! 背丈の家に住め! 背丈の食事をせよ! われわれが生きている真の理由が、断じて国家から生み出されたものでなく、それは人の愛からであることが分かるなら、どうして、この世に不幸という概念が成立するだろう。

【2017年追記= 私は修験道の研究と、千日回峰の意味を調べていて、どのような理由で、これほど無謀で凄まじい行が千年以上も続けられているのか考えた。

 満行した行者たちは、一様に口を揃えて言う。

 「修行で得られたもの、修行がもたらした意味はない、ただ人への感謝が自分を支えていてくれる現実に気づいた」
 と言っている。

 私は本当に命を賭した堂入四無行に、京都の善男善女市民が駆けつけて、これ以上ないほどの心配顔で行者を見つめているのを見て気づいたのだ。

 この行者の姿を見て心配し、感動し、連帯しようとしてきた京都人の心こそ、千年の京都を真に支えてきたものの正体であると。
 それは背伸びでも、大きく見せる虚構でもない。この行者の姿を見て、人々は自分の住む京都を大切にし、後生に受け継がせねばならないと決意しているのであると。

 思えば、我々の若き時代。命がけで死地に向かう勇者がいた。
 小西政継・植村直己をはじめ、無数の若者が厳冬の山や谷川岳の岩壁に散っていった。

 彼らも社会に何も利益をもたらさないように思われたが、私は決してそうでないことに気づいた。

 彼らが常人のなしえない勇気を示すことで、我々は奮い立ち、新しい困難に立ち向かうことができたのだと。

 このことは本稿がとりあげた虚構性ではない。ひたむきに立ち向かう姿を見ることが、社会全体を緊張感のある利他社会に向かう力を生み出す。

 原発も戦争産業による金儲けも人類滅亡しかもたらさないが、千日回峰行者や山に向かう彼らは、健全な本当の未来を生み出そうとしているのだと。】

蛭川風土記

蛭川風土記

 2004年記、2017年改訂追記
(室町期から続いた蛭川村も市町村合併により2005年、中津川市に編入された。地域名が変わり郵便住所も変わったが、村の中身はほとんど変わっていない。人口3000名に満たない穏やかな過疎の山村である。
 変わったことを挙げれば、イノシシやハクビシンによる獣害が桁違いに凄くなったことだろうか、)


 バラバラの村?

 (2003年)蛭川村に移住した最初の頃、第一印象は、美しい村だが、どこか変わってるという印象だった。どこが変わっているのか?

 例えば、気づきにくいことだが、一般的な日本の田舎集落は寺社を中心に数軒から数十軒の民家が集まっていて、その周囲に畑・水田地帯があることが多い。しかし、蛭川村には一部の例外を除いて、そうした集合的集落が少なく、民家がてんでバラバラに離れて存在している印象だ。

 バラバラに住んでいると、犯罪や天災などで近所同士の助け合いが得にくくなると心配になるが、逆にそうした心配の少ない地域なのかもしれない。

 役場から安弘見神社の周辺にかけて、小規模な商店街を含んだメインストリートがあるだけで、他は北海道の農村風景に似た分散型の集落が多い。メインストリートに、どこにでもあるはずの寺院がないのも奇妙だ。

 これらは幕末の廃仏毀釈、寺院破壊に関係しているように思える。寺院があれば集落の核となり、コミニュティが成立し人は寄り添って生活するようになる。それを打ち壊した当地では、集合集落の理由がなくなったのかもしれない。

【2017年註加=蛭川を含む岐阜県東濃地方の住民は、京都・滋賀・福井方面から移住してきた「秦氏」と呼ばれる朝鮮系渡来人の子孫であることは、スラッとした体型や一所懸命思想、文化の共通点から明らかである。
 騎馬民俗を持った人々では、牛よりも馬と共に生活する文化があった。今でも馬の文化は春祭りなどで花馬のイベントとして残されている。
 思想宗教は、仏教ではなく神道を尊び、西日本に典型的な、仏教寺院を中核とした密集した共同体社会を形成する習慣はない。
 江戸期に強要された「五人組」の影も薄い。中国から渡来した弥生人の子孫と思われる関西の集落では、菩提寺を中心に数戸~数十戸の檀家が強固な共同体を形成して集落を作っているケースが多いが、騎馬民俗系の子孫は、一戸一戸がバラバラに城を主張するような特異な集落形態になることが多い。
 これが、その地域が弥生人系か騎馬民族系かを判定する有力な根拠となる。】


 特筆すべき村の景観上の特徴としては、特産である花崗岩の石切場が多く、至る所に花崗岩の露頭があって特異な風景を形作っている。観光地、恵那峡あたりは中国桂林に似た奇岩怪石が印象的で、独特の雰囲気を醸している。

 大正時代、京都の石材業者がこの露頭に目をつけ、全国に売りさばくようになった。この村の花崗岩は全国でも指折りの高品質とされる。

 鍾洞と呼ばれる花崗岩にぽっかりと空いた穴のなかには、すばらしい紫水晶・煙水晶・トパーズなどの宝石がびっしりとついている。
 岩自体も「蛭川石」と称される高品質の墓石材料として全国に名が知れた。

 この結果、多くの露頭が切り出され、何か不自然な景観が残った。

 さらに、山慣れた私の目からは、蛭川村景観のバックボーンをなす山々、わけても笠置山と岩山の景観に特異性を感じる。
 山全体が妙にのっぺりしていて、尾根と谷の区別ができにくい。独立性の強い山容なのだが、大きな沢の浸食が見あたらず、尾根の切れ込みが不明瞭なのだ。

 おそらく山肌の透水性が高いため、沢への集水力が小さいのだろうと思う。だから、恵那山や木曾山地と明らかに異なる山容で、奇妙さを感じるのである。

 これは太古の世界で海の底に大噴火が起きて溶岩が流れ出して巨大な花崗岩の層が成立し、その比重が他の岩より軽いため、数億年もかけて徐々に地上に浮上してきた成因によるものだろう。

 こうした景観が他の山村とは微妙に異なる雰囲気を醸し出していて、「ちょっと違う」という印象につながっている。
 石灰岩地帯とは対照的な特徴を持った花崗岩地帯の代表的景観といってよい。

 だが、総合的印象を言うなら、古い民家と水田のバランスが「農村景観日本一」になったことのある近くの岩村町と似てとても美しい。

 紅葉の季節や村全体が 霧に包まれたりすると幻想的な景観となる。ホタルのシーズンになると、村中の水田に青白いネオンが点滅して素晴らしいの一語に尽きる。これを見て、「蛭川 に来てよかった」と、しみじみと感じた。

 廃仏毀釈

 この村は歴史的にも強い特異性がある。
 先史時代の遺跡は少なく、歴史伝承も南北朝以降のものが多い。「蛭川」の地名が最初に登場するのは太閤検地で、この頃、すでに小規模な村ができていたらしい。
 もっとも過去帳など古い伝承は、廃仏毀釈の際に焼かれたものが多いので、正確なところは分からない。

 江戸時代、この地域は今の中津川市に居城のあった苗木藩遠山家の領地だった。そして明治維新の際、全国でもっとも激しい廃仏毀釈が行われた地域でもあった。

 藩内のすべての仏教寺院・本尊・仏具・過去帳・石地蔵の類に至るまで叩き壊され焼かれた。その後、大正期までに再建された寺院が数箇所にすぎなかったことで徹底ぶりが分かる。

 この事件は、それ以降の村の運命を大きく左右するものとなった。以来、村の宗教は仏教を離れ神道に傾いたまま戻らない。現在に至るまで、村人口の9割が神国教という希なほどローカル性の強い神道教団に帰依している。だから冠婚葬祭も、すべて神道方式で仏様の出番はない。

 どうして、これほど激しい廃仏毀釈が実行されたのか、とても興味深い。
 全国で、これほど激烈な廃仏毀釈が行われた地域は、他に薩摩藩、伊勢神宮周辺、石川県白峰地方、房総地方などが知られている程度である。

 苗木藩遠山氏は縁戚の木曾代官山村氏とならんで室町期からの領主で、江戸期を通じても異動のなかった希有な例である。これは藩政が非常に安定性の高いものだったことを示している。

 この藩では上意下達システムが整備され、藩命によって村民は軍隊のように行動しなければならなかった。
 そこには江戸幕府による街道維持の強い意志が働いている。

 藩内に中山道という要衝を抱えており、参勤 交代などの国事が多く、「助郷」として、いつでも戦争状態のような緊張を強いられた地域だったことにより領民は希なほど訓練されていた。

 島崎藤村が幕末の故郷を記録した歴史小説「夜明け前」に登場する青山半蔵のモデルは実父の島崎正樹だが、青山の名は苗木藩家老にして国学指導者だった青山胤道からとったと言われる。
 正樹もまた、平田国学の熱狂的信者であったため、故郷、馬籠の寺に火をつけて死ぬまで座敷牢に幽閉されてしまった。

 胤道は平田国学の創始者、平田篤胤から名をもらうほどの高弟で、廃仏毀釈を藩命として下達した彼の指導によって、苗木藩一帯で激しい仏教破壊が実行されたのである。反対勢力の乏しい統制のとれた藩政であったため、それは遅滞なく徹底的に実施された。

 (廃仏毀釈とは、本居宣長の弟子を称する国学の平田派が「政権を武家から天皇に返せ」と提唱し、武家政権の思想的支柱であった仏教を廃し、日本古来の伝統的神道思想に立ち戻るれと呼びかける過程での仏教破壊運動である。
 ちょうど今日のイスラム原理主義を思い浮かべればよい。これは明治維新を実現した勢力の思想的バックボーンとなり、さらに新政府の思想的根幹をなし、天皇専制国家の樹立から傲慢で無謀な国家主義、東アジア侵略へとつながっていった)

 蛭川村にあっては、胤道の同志であった奥田正道の指導によって、やはり徹底した神道教育が実行された。
 彼は仏教を壊しただけでなく、蛭川最初の寺小屋、 後に小学校の創始者であり、今日、村民の宗教的支柱である神国教の創始者ともなっていて、以来、恵まれた環境とは言い難い山村ながら蛭川村の教育水準は低くない。

 私は、これほど徹底した仏教排斥の事実の背後に、江戸期を通じた宗教支配、隣組などの制度から仏教寺院に対する反感が蓄積していたのだろうと推理していたが、実際には、それを伺わせる資料を発見できず、激しさは苗木藩の施政実行力が強力だったことによると結論せざるをえなかった。

 (江戸期、尾張藩による留山制度により、住民の山林利用が著しく圧迫され反感が募っていた。その怨みの蓄積が寺院破壊へのモチベーションになった可能性は排除できない。このことが「夜明け前」にも示唆されている)
 苗木藩は廃仏毀釈を最後の施政とした後、藩政返還によって消滅した。遠山家最後の藩主に殉死する家臣を出したほど藩体制は最後まで強固であった。
 
 杵振祭

 村民の9割が神道、それも超ローカル(ここだけの宗教団体という意味で)な神国教信者という全国でも希な「変わった村」にあって有形文化財はほとんど残されていないが、もっとも変わっていて面白い無形文化財がある。それは、村社、安広見神社の祭礼「杵振り祭」である。

 田植え前、4月頃に村社で行われる祭礼は、全国の祭り好きをうならせるほど独特の個性がある。これは豊作をもたらす田の神を山から呼び出す修験道の祭礼「花祭り」の発展形と思われ、実際、祭りの主役は花である。

 村の若者が役場から神社までのメインストリートを踊りながら練り歩くのだが、その踊りの振り付けがとてもユニークだ。若者達は花のように美しいチェック 模様の大きな笠を被り、派手な黄色い衣装に身を包み、手に手に杵を持って振りながら整列して踊り歩く。こんな個性豊かな祭礼を見ることは珍しい。

 もっとも 現在の形が完成したのは大正期ということで、本来の姿がどうだったのか知りたいところだ。
 全体の印象が、とても華やかで美しい。神社では巫女少女たちによる神楽が奉納され、行進の最後にも地元少女の楽隊が続き、花を満載した「花馬」がトリを引き締める。

 この花馬はアラブやサラブレッドのような外来馬ではなく、日本古来の小型の木曽馬であるが、これも1700年前に、朝鮮を経由してモンゴル馬を連れてきたものだろうと推理している。
 蛭川では祭りのためだけに、わざわざ数頭が飼育され続けている。

 霊として故郷に戻ってきた先祖達を喜ばせ、その力を借りて田に豊饒をもたらす典型的な花祭り儀礼とも言えるが、振り付けの質がとても高く見物客を飽きさせないのである。相当に実力のある振付師がいたのだろう。

 私は正月のドンド焼きの写真を撮影すると多数のオーブ(人魂と言われる)が写ることを知っている。おそらく、杵振り祭の行進には、夥しい先祖の霊達が見 物に来ていることだろう。蛭川村の豊かさは、こうした祭礼によって霊達を喜ばせることで、霊達の郷土愛を借りて保たれていると思っている。

 行進に先だって厄男によって御輿が神社に奉納されるが、私が感じたのは、そのすべてが明らかに旧約聖書に記されたユダヤ式祭祀を踏襲しているいうことだ。御輿が本殿に奉納されるスタイル、本殿の造作、御輿の形状までユダヤ人が見たら、びっくりして懐かしむであろう。

 【2017年註加=この祭りの起源を調べていたところ、目の玉が飛び出すほど驚いた史実を見いだすことになった。
 私が1990年頃に書いた「京丸山」に出てくる京丸部落の起源として、南朝方親王(宗良の第二子)であった尹良(コレナガ?)が浪合で自害し、その首を祀って守護したというものだが、それが、そっくり杵振祭の起源として記されていた。
 京丸の伝説との違いは、祀った場所だけで、京丸では尾根伝いの高塚山、蛭川では和田に同じ地名の社が残されている。
 この南朝伝説は、南朝の影響下にあった東濃から下伊那、三河にかけて広く流布されたものらしい。ナベブタの家紋を使う遠山氏の所領内であった。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/28514960.html  】

 
 【ユダヤと神道の関係について】
 知られているように、日本神道のマークは三角形を組み合わせたユダヤ教と同じ「ダビデの星」(六茫星)である。

 神道祭祀の多くが旧約聖書に記された方法 に酷似し、2700年前、アッシリアにて忽然と消えた「ユダヤ失われた十部族」がシルクロードを経て東方に移動し、旧約聖書を伝播したことは確実であろう。

 3~7世紀に朝鮮半島の百済王国が唐・新羅連合軍に滅ぼされ難民が大量に渡来した。当時の国家戦争の敗者民族は皆殺しが宿命だったからだ。その主役は秦氏であり、彼らのうちから天皇家が成立したと考えられる。

 秦氏は秦の始皇帝の子孫を称した氏族で、出自はシルクロード弓月国であった。今日でも、この地域のキルギスタン・タジキスタンなどでは旧約聖書を踏襲するユダヤ式祭祀が色濃く残っている。また民族的にも日本人に極めて近いと言われる。

 始皇帝「政」も、その風貌が中央アジア系であったとの伝承がある。秦氏の宗教は三位一体の鳥居を持つ神道で、八幡(ヤハウェ・ハタ)・稲荷 (インリ→ナザレの王イエス意味する)など後の神道信仰の拠点となった。

 彼らはシルクロードを伝播した旧約聖書・ユダヤ教と新訳聖書・ネストリウス派キリ スト教の影響を強く受けていた。東方キリスト教派には新旧聖書の混在が見られるのが普通であった。これが中国において道教の一部に取り込まれ、日本に輸入されると修験道や神道になったと思われる。

 聖徳太子は仏教伝来の始祖と位置づけられているが、その母、推古天皇には明確な百済名が残っている。太子の幼名「厩戸御子」は景教の「救世主が厩に誕生する」伝承が含まれている可能性が強い。伝来当初の仏教は、習合神道であり、修験道や景教も含まれていたと思われる。

 日本神道の様式はユダヤ教に酷似している。御輿はほぼ旧約聖書の記載指示通りであり、幕屋や神主の衣装も同じ、それが奉納されるときジグザグに動き時間をかける のも、かつて御輿の原型となった「契約の箱」が20年毎に移動した名残を示すものであろう。これは伊勢神宮の遷宮とも共通である。

 また、古代神道の伝統をもっとも忠実に残すと言われる諏訪神社の祭礼には、「モリヤの神に捧げるイサク」の儀礼まで驚くほど忠実に再現されている。御柱の儀式もユダヤ式である。

 教徒で「ユダヤ神社」と称される八坂神社は、ヘブライ語で「ヤーサカ」から来たもので、それはヤハウェへの畏れ、「神よ!」という感嘆を意味している。
 当地、美濃国においては、古代から八坂神社が非常に多く、とりわけ可児市~八百津町~白川町、旧苗木藩内に多い。

 八坂神社は八幡社との共通点も多く、祭りのかけ声に使われる「ワッショイ」という言葉は、ヘブライ語で「さあ、戦うぞ!」という意味である。
 もちろん、わが杵振祭の安弘見神社も、元は牛頭社といったが、これは八坂神社を意味する変形であって、ユダヤ神社と呼ばれても不思議ではない。

杉原千畝を出した隣村、八百津町は極めて不便な高原地帯で、高野山のような地形。隠里の条件を備えている。この地の 伝承を調査することで、ユダヤとの関連が発見できるかもしれない。


 5月の大雪? なんじゃもんじゃ

 5月頃、笠置山登山道や神国教門前など、村のあちこちで、まるで大雪の積もったような、見事な白い花が咲く木を見ることができる。ちょっと変わった蛭川にふさわしい珍しい姿で、学名「ひとつばたご」(一つ葉タゴ)、通称「なんじゃもんじゃ」という奇妙な名がついている。

 「なんじゃもんじゃ」の由来は、江戸時代に江戸の青山六道(神宮外苑)に移植された木が「雪の木」として有名になり、それを見た殿様が「あの木はなんじゃ」と家臣に問うと、家臣が「なんじゃもんじゃ」と答えたとか、笑い話のような伝承がある。

 モクセイ科の落葉高木で、高さは15メートル程度、幹は50センチ径程度になり、花の咲いた姿が珍しく、とても美しいのでローカルニュースに取り上げられるほど親しまれている。

 「タゴ」とは「トネリコ」(タモ)のことで、バットや道具の柄に使われる有用木だが、漢方ではアオダモの樹皮が秦皮(ジンピ)として痛風の尿酸排泄特効 薬として用いられる。ヒトツバタゴも生薬名秦皮と書かれたものがある。
 もちろん、これは天然記念物に指定された稀少木で実用に用いられることはない。

 実は、私も痛風で、秦皮のお世話になっているが、驚くほど良く効く。ところが、最近、中国が秦皮を漢方指定薬から外したので輸入が途絶えてしまった。入手できずに困っていて、この木が気になってしかたがない。

 国内では、犬山から蛭川の木曽川流域周辺に自生するほか、はるかに飛んで対馬にも自生している。東京や名古屋に生えているものは、江戸期に移植したものらしい。

 朝鮮半島から中国福建省、シルクロード周辺にも希に見られるというが、その分布に、この木の秘密が隠されているように思える。 渡り鳥により運ばれた可能性が強いと言われるが、とても特異な木なので、もしかすると、シルクロードから朝鮮・対馬を経て笠置山にたどり着いた集団が、なんらかの目印として用い たのかもしれない。

 そう、「失われたユダヤ10部族」と考えれば面白いが、残念ながら証拠がない。
なお、この花は4月末に名古屋市内で咲き始め、最も遅いのは、6月はじめ、笠置山表登山道の7合目に天然記念物として指定されたもので、大雪が積もったと見まごうもっとも美しい花を咲かせるのは数日間だ。一見の価値はある。

 村のルーツ

 これらの民俗は、この地域に東濃地方の一般的な民俗慣習から、かなり離れた独自性の強い文化が育っていることを示すものだ。村人の人相も、どちらかといえば、東濃というより北関東~東北太平洋側の人たちの特徴があるように思えた。
 もっとも近いと思うのは群馬県人である。

 そこで、村の図書館でルーツを調べてみた。廃仏毀釈や戦災により資料が散逸消失しているため、具体的なものは少ないが、おおむね、南北朝戦争時代に、後醍醐天皇の子であった宗良親王に率いられて北朝、足利尊氏に対してゲリラ戦を仕掛けていた頃、南朝側の武士が和田川沿いに住み着いたというのが定説のようだ。

 はっきりした伝承が残されているのは一色を拓いた田口、下沢を拓いた林で、林三郎太郎という武士が上州(新田義貞の随員だったように思われる)から宗良率いる武士団の一員として居を構えたということのようだ。となると、この村の起源は室町前期に遡ることになる。

 私が住んでいるのも下沢の一角で、回りは子孫である林一族で占められている。彼らに共通する人相は、エラの張った屈強で粘り強い戦闘的性格を示すものだ。源平の子孫など中世武家集団を彷彿させ、これなら北関東武士団の面影といっても不思議ではない。

 笠置山とペトログラフ

 蛭川村にとって故郷の山は、なんといっても笠置山である。蛭川村の大部分は笠置山の山麓で、一部岩山の山麓となっている。

 海抜は1200mに満たないが、独立峰のような姿形がとても美しい。とりわけ私の住居である下沢中山の頂から見た笠置山は、まさしく、うなるほどの盆栽的絶品景観。日本中の山を1500回以上も登った私が太鼓判を押しておく。

 決して大きな山ではなく、私の家から徒歩3時間もあれば登れるのも手頃でよい。ただ、近年、山の価値のなんたるかを知らない愚かな人たちによって、山頂近くまで車道が延長され、そのため稀少な光苔が取り返しのつかないほど荒らされてしまった。

 東濃地方の多くの山が、林道拡張によって荒廃し、鹿や猪、猿などの害よりはるかに深刻な森林荒廃をもたらしている。山腹横断林道は崖崩れの起点となる。 車で入れることによって、志もなく、無知で軽薄な者も簡単に入山できるようになり、山の財産、恵みを強奪するために徘徊する条件を与えている。

 山は手軽に登れることによって荒廃をもたらし、その価値を失うのである。山を守ろうとする志の高い者には手軽さは必要ない。汗水たらして苦労して登ることこそ、山の真の価値であることを知っているからだ。

 山を真に愛する者なら、決して安易な林道開発に賛成しないだろう。役人が業者に接待を受け、その便宜を図るために計画された自然破壊構築物の数々、これらは地方の存立基盤を取り返しのつかないほど荒廃させている。

 人々を自然から引き剥がし、郷土愛を失わせているのだ。蛭川の人たちが笠置林道によって得た 恩恵より、失ったもののほうがはるかに大きいはずだ。こうした、ものの見方、考え方は、幼い頃からの自然観察と創造的関与によって身に付くものだ。子供達に、山のもたらす恵みと、その保全を考えさせていかなければ村の未来も危ういのである。

 さて、その笠置山だが、これもまた変わった山である。長年、全国の山々を歩き続けてきた私も、これほど変わった山に出逢うことは珍しい。何が?

 まず、山肌に沢の浸食が少なく、のっぺりしている姿については、すでに述べた。当地が花崗岩地帯で特異な岩盤に覆われていることもすでに述べた。

 さらに、笠置山の山腹に、高さ数メートルの大きさの奇妙な岩が無数にニョキニョキと生えているのである。こんな姿は他に例が少ない。笠置山独特の景観といってよい。
 古代宗教研究者は、こうした岩を「ドルメン」と名付けて、アミニズム(自然神信仰)の礼拝所として使われた可能性が強いとする。

【2017年註加=2008年頃より、この笠置山ドルメンがボルダリング・クライミングの対象として開発されるようになり、2010年頃にはインフラも整備されて、全国からボルダーが押しかけるようになった。
 私は2010年に凍結路で起こした事故により左肩を複雑骨折し、二度とクライミング不可能な体になってしまったので、若者たちに酒飲みメタボのおっさんでも登れるところを見せつけられなくて実に残念だ。
 まだ未開の良質の岩場がたくさんあって、私は樽岩を勧めておきたい。ボルト打ち不可のルールは安全性に極めて問題があり、撤回してもらいたい。】

 実際に、笠置山のこうしたドルメンには、「ペトログラフ」と名付けられた古代文字の刻印が存在することが明らかにされた。

 刻印の意味は、まだ完全に解析されたとは言い難いが、一部、「ヒムカ・イルガ・ギギ」などの音があるとされ、「我らに水の恵みを」とする縄文時代の雨乞 い儀式の意味があったと明らかにされた。また、盃状の加工には、明日香の酒舟石のように、なんらかの生薬調合が行われた工場か、霊的祭祀場所であった可能 性も示されている。

 私は、山頂近くの物見岩や姫栗側の刻印を見て、その具体的意味を実感することはできなかったが、山頂から、こうした遺跡群を経て直線状に南に向かう遺跡・祭祀ルートが存在することを確認した。このルートの先には遠州灘・太平洋がある。

 かつて私は大峰山地の山頂から熊野灘の日の出が、光の柱を伴って宝石のように神秘的に見えることを知った。おそらく、笠置山頂からも季節によっては海の 光が神秘的に現れる条件が存在するだろうと想像したのだ。
 古代人にとっては、見えざる神が姿を現したと感動する機会だったのではないかと感じた。そうした 場所がドルメンとして大切にされたのではないか。

 鉱物・放射能・鉱泉・陶土

 笠置山から蛭川峠を伝って山並みが続いていて、白川町赤河・黒川地区に延びている。元々、白川は白・黒・赤の色合いを持った三つの川の流域をまとめた村であった。ここも苗木藩領で、やはり廃仏毀釈が激しく行われ、今でも神道の影響が強い。

 実は、私の祖母が黒川出身で、今でも親戚が肉牛牧場を経営している。決して深い山岳地帯ではないが、標高千メートル前後の山並みが海のように連なって北アルプスに向かっている。人々は山襞の隙間に林業や牧畜で素朴な生計を立てている。

 黒川は蛭川のように花崗岩には恵まれず、蛭川衆が花崗岩産業や耕地にも恵まれて豊かだったのに比べると、遠ヶ根峠を越えた黒川一帯は貧しかった。
 しかし、戦前、この笠置山から岩山・二つ森山・寒陽気山に至る山々に国内指折りの稀少鉱物を産することが明らかにされた。

 花崗岩石切衆は、採掘のとき岩の空洞にニョキニョキ生える煙水晶やトパーズを見て驚いた。村の河原にも磨かれないトパーズがごろごろ落ちていた。石材業が成立するまで、この村が宝石の産地であることに誰も気づいていなかった。

 薬研山付近でトパーズ・サファイヤ、希にはルビーまで産出したことで寒陽気山などにも可能性が広がり黒川衆に希望を与えた。しかし、結局、遠ヶ根峠や薬研山に鉱山が拓かれたものの埋蔵量が少なく、本格的な鉱業は成立しなかった。

 しかし、国内では非常に特異な地質であることが証明され、まだ未発見の稀少鉱物埋蔵の可能性が小さくない。

 また、強い放射能を帯びた土地で、岩山一帯ではラジウム鉱泉脈が広く存在している。鉱泉こそ宝石よりもはるかに価値の高いものだった。私の家でも井戸を掘ったら 、このラジウム鉱泉が出てしまい、嬉しいやら困ったやら。

 泉質は秋田の玉川温泉に似た炭酸ラジウム泉、とても暖まる想像以上に素晴らしい鉱泉である。現在、岩寿・東山・ろうそくの三軒の温泉宿が営業しているが、泉質の素晴らしさが知れ渡れば、私の土地も含めて一大温泉郷になる可能性もあると思っている。

 ただ、強い放射能が人体に悪影響を与えないか心配している。私の土地では、新品のゴム草履が半月でベロベロ。自転車のゴムタイヤがボロボロになり、中からチューブがはみ出してきた。
 こんなことは他で聞いたことがない。かつて蛭川村のガンマ線被曝による白血病の増加を調べたことがあるが、公開された資料からは、深刻な疫学的影響を確認することはできなかった。むしろストレスの少ない長寿村であることが分かったが、妊娠2~4ヶ月の妊婦にとって安全な地域とは言い難いと思う。

 【2017年註加=我が家の空間線量は毎時0.2~0.3 マイクロシーベルトもある。これは蛭川全体に共通することで、花崗岩地帯の宿命である。
 花崗岩のなかの長石成分にウランやトリウムが含まれているためだ。私は放射能の自称専門家なので土壌や水のスペクトルを分析したところ、トリウム系列とウラン系列の両方のラジウムやラドンを鮮明に捉えることができた。
 井戸水もトロン鉱泉といってもよいレベルだったので、さすがに飲用は市販水を利用するようになった。
 これが健康に与える長期的影響は不明である。】


 東濃地方は全国指折りの高放射能地帯で、その原因はウランを多く含んだ花崗岩にある。蛭川から西に20キロほど離れた瑞浪市日吉地区には旧通産省が作っ たウラン採掘精錬所があるほどだ。そのウラン含有レベルは鳥取県の人形峠を越えて日本一と言われている。
 また苗木地区の空間ガンマ線量も日本一で、蛭川村 田原地区でも、ほぼ同じ水準とされる。

 この花崗岩が風化したものが日本窯業を代表する東濃陶土となり、瀬戸・多治見・瑞浪一帯のセラミック産業を支えているのである。良いものも悪いものも紙 一重である。なお、蛭川の土の大部分も陶土として利用可能である。ただし、御岳火山灰の赤土では煉瓦くらいしか焼けない。 

 蛭川村の未来

 この村は自治開闢150年という、古い単独村区の歴史があり、独自の個性を育んできた。
 しかし、お定まりだが、バブル期の「開発幻想」に取り憑かれた有力者による回収のアテのない浪費が重なった結果、財政は破綻し、浪費を主導した自治官僚の言いなりに中津川市と合併しようとしている。

 歴史的には恵那市とつながりの深い地域なので、合併相手を間違えているように思うが、中津川市のほうが財政的に余裕があるという判断のようだ。いずれ、恵那市と中津川市も合併せざるをえなくなるだろうが。

 合併されれば合理化の名の下に地域サービスは画一化し、木で鼻をくくったような血の通わない行政が展開され、村の特異な歴史、個性のうち利用価値がないと判定されるものは放棄される宿命にある。

 例えば客を呼べる杵振り祭は残されるだろうが、村の図書館や資料館は閉鎖されるだろう。採算性の薄い事業は閉鎖される。また村独自のコミニュティを成立させることも困難になる。村の個性、独自の歴史も人々の意識から遠のいてゆくだろう。

 排水浄化とホタルへの危惧

 それ以上に危惧されるのは、合併後の効率優先自治体施策により、ホタルで有名な素晴らしい水質の水域が取り返しのつかないほど荒廃する事態である。

 既存の誤った集合下水処理により殺菌剤を含んだ処理場排水が流域生態系を破壊する可能性がある。すでに当地では下水道幹線工事が完成に近づいているが、これが完成した暁には、お粗末な活性汚泥処理と殺菌剤によって河川流路の浄化能力が大幅に失われ、ホタルを育む素晴らしい水質を潰滅させるのではと強く危 惧している。

 そこには鯉や鮒は棲めるが、鮎やアマゴが棲むことはできなくなる。
 生態系に無知な官僚の設けた水質管理法では、BODや大腸菌数によっては塩素殺菌を強制している。
 これは大腸菌殺菌の名目で塩素化合物を放流することで、流域の全生態系に強い悪影響があり、流路の浄化バクテリアを死滅させ、死の水路を造るものだ。何もしなければ水路こそ最大の浄化装置なのに、殺菌することで、それが失われるのである。

 こうした愚かな施策の例をあげよう。かつて、子供達にレントゲンによる結核検診が法的に強制され続けた。これは一人の結核児童を発見することと引き換え に、数十名の被曝ガン患者を発生させるリスクが明らかであった。

 実は、現在の中高年女性の乳ガンの大部分が、児童期における結核検診被曝によると考えられるのである。ガンの潜伏期間は20~40年、因果関係の特定が困難なことを幸い、国民にガンをもたらす強制検診が長期間続けられた。

 殺人行為ともいうべき馬鹿げた過ちが続けられた理由は、それを定めた厚生官僚と利益を得る検診会社が天下りや接待で密着同体であったこと。そして、その会社(日本検診協会)こそ、関東軍731部隊、北野司令官が設立し、エイズを拡散したミドリ十字社の子会社であったことと無関係ではない。

 また、かつて朝鮮戦争とベトナム戦争のとき、アメリカ企業は大量の火薬を製造して在庫が膨らんでいたが、戦争終結とともに、この処分に困り、多くを化学肥料と農薬に転用し、それを日本など同盟諸国に押しつけた。
 これらの戦争の直後、農林省は全国の農村に化学農業資材を多用するよう指導通達した。自然の循 環サイクルを守っていた日本農業が、朝鮮戦争後に劇的に化学肥料型荒廃農業に転じた理由はこれであった。

 ベトナム戦争後には、戦場で使われた毒ガス、ダイオキシンなどが農薬に転用され、アメリカから安価に輸入された。日本農業は、農林省の指示により劇的に 農薬依存型に転換したのである。それらがもたらしたものは、作物の救いのない品質低下と農民の健康被害激増だけであった。

 水道行政に用いる薬品も無関係ではない。科学技術の幻想に縛られ、機械と薬品を多用することが高度技術であるかのような錯覚に支配され、取り返しのつかない自然破壊に邁進し続けている本質に気づかねばならない。

 本当の科学は決して技術や機械・薬品に頼るものではない。それは自分の五感を働かせ、自然を観察し、その法則を熟知して生かすものである。
 例えば、排水の処理は自然界の浄化バクテリアを最大に生かして、排水流路すべての浄化作用を総動員するものでなければならない。現在の行政が行っていることは、決して水を浄化しようとするものではない。
 浄化を名目に、巨額の工事費用をかけ、機械と薬品を多用し、さも科学技術であるかのようなコケオドシ設備を設け、業者に金をばらまき、天下り先を確保しようとする愚劣な浪費行為にすぎない。

 EM浄化槽

 そうした真実の科学による浄化システムが、すでにEM菌やEMBC浄化システムとして数多く実践されているにもかかわらず、権威ある学者や機関は自分た ちの縄張りの外で発見されたEM菌、受賞と無縁の技術は、どれほど素晴らしいものでも無視することしかできない。

 EMは公的な検討対象から完全に黙殺され、「トンデモ技術として妄想にすぎないインチキ技術であるかのように決めつけられ、EM菌によって大腸菌が完全に死滅するにもかかわらず、そのEM菌をも殺してしまう塩素殺菌を法的に強要しているのが愚かな行政の実態なのである。

 生態系を守り最高の浄化を行えるシステムは、実は完成しており、私自身が、それを実践し日々検証している。それは莫大な金のかかる下水道による集合処理 と対局にある小規模戸別処理であり、驚くほど安くあがる簡単な設備で、集中下水道処理施設の数十倍の浄化能力を持ち、合併型浄化槽でありながら完全に飲用 水準の排水しか出さない奇跡ともいえる機能を持っている。

 だが、こうした浄化槽の性能がどれほど素晴らしいものであっても、公的な認証を得ない限り法的には決して認められない。その認証の壁は既存業者を保護するため異常に厚く高いものになっている。

 例えば、浄化槽設置主任者の資格試験の条件は、何の合理的理由もなく7年の実務経験を要求している。これは新入業者を排除する壁としての意味しかもたないのである。

 日本の行政は腐敗している。業界と役人の腐乱した関係は、天下り役人の実態を見れば誰にでも理解できる。こうした腐敗行政が、日本の根幹を崩壊に導くばかりか、かけがえのない自然生態系をも取り返しのつかないほど破壊してゆくのである。

 EM菌を用いれば、簡単な設備で排泄物や洗濯排水を飲用水準まで浄化できる。排便の悪臭は芳香にとって代わる。排水路にはEM菌が繁殖し、大腸菌を死滅させながらホタルの繁殖できる清浄水を作り出してゆく。

 畜舎の悪臭も完全に解決できる。現在、当地においても悪臭を克服した畜舎の大部分がEM菌を使用しているのだ。生ゴミは素晴らしい堆肥に変わる。堆肥ボカシの大部分がEM菌に代わったことは常識になった。これらは実証された技術でありながら、行政は無視し、従来の生態系破壊技術に固執し続けている。既存 業者の利益を守りたいからだ。
 人類の未来を救う最高のテクノロジー、EM浄化槽は違法として排除され撤去命令を受ける。我々は、こんな時代に生きている。

蛭川村移住記

 蛭川村移住記

  これは2004年に書いたものだが、2017年に改訂して東海アマブログに掲載することにした。金なし移住を志す人に、わずかでもお役に立てれば幸いだ。

 名古屋から蛭川村へ

 名古屋市内の公団アパートに25年もいた私が、岐阜の中津川市に近い蛭川村という山村に移住したのは2003年秋のこと。9月頃から準備を始め、スズキエブリという軽バンで何十回も往復して10月末には引っ越しを完了した。

 ここは名古屋から80キロほどの僻村だが、中央線沿線で中央道ICが近いため交通利便性が好く、別荘地としても人気があった。

 私が移った場所もバブルの頃売り出された別荘地で、金融担保処分地として廉価に売り出されたのを実父が新聞で目に留め、私に声をかけてくれたのだ。

 蛭川村は全体が花崗岩の岩盤に覆われているため耐震性の高い土地で、かつては首都移転最有力候補地と言われていた。バブル最盛期は坪10万円程の温泉付 き別荘地として売り出されていたが、近年は首都移転の可能性も事実上消えて、不景気のため不動産価値も下がり、購入価格は坪1万円程度だった。
 金は実父が遺 産分けのつもりで出してくれた、といっても乗用車代金程度だ。

 実は祖母の出身地が隣村の黒川というところで、縁戚も多く、蛭川は、まんざら無縁でもない土地だった。国内有数の稀少鉱物産地で、地質勉強のため度々訪れたことがあり、気味の悪い名に似合わず、とても美しい山村だと知っていた。

 私は以前、有機溶剤を扱う仕事で腎臓を痛め、排泄が悪いため重い痛風に苦しみ、体調も最悪だった。常に軽い尿毒症に悩まされ、黒ずんだ顔をしていた。腎障害が治癒する可能性は、どんな医書にも書かれていなかった。

 幸い家族がいないので死んでも心配がなく気楽だったが、いつ深刻な発作が起きるかもしれない病状のため、まともな仕事につけないでいて、貯金も失業保険も使い果たし、金も仕事のあてもなかった。どこかの公園にテントでも張って、ホームレス生活に入ることを真剣に考えていたほどだ。

 それまで住んでいた築40年の公団アパートは、入居当初、1DK家賃が2万円程度で安く人気だったが、お定まりの天下り官僚と子会社による食い荒らしを 受けて、莫大な赤字補填のため、家賃も民間相場以上の5万円近くまで上昇し、苛酷な仕事のできない私には負担が大変で、どこか安上がりな生活拠点を探さね ばならなかった。

 若い頃から登山に親しんだ私にとって、山の近い田舎暮らしは最高の憧れだったが、古いしがらみの強い集落では近所付き合いが大変だと思っていた。移住するには気楽な別荘地がいい。だから渡りに舟のような話で、期待に胸を膨らませた。

 現地は永住家族が一組だけいる十数戸の別荘地で、標高1000mほどの岩山の山麓にあたり、ときどき熊騒動が報じられるほど深い山林に囲まれた、美しい睡蓮の咲く池の前だった。土地の日当たりも良好、環境抜群、ひと目で気に入った。

 1日6本のバス便、バス停まで20分。近い雑貨店まで徒歩40分、喫茶店まで徒歩50分。大きめの八百屋程度のスーパーまで1時間半といったところ。早い話が周囲に何もない。車か、最低バイクがないと生活が成り立たない。

(註=2017年現在、事情はさらに悪化していて、商店の大規模集約化が進んだため遠く大きくなり、車を持たない世帯が暮らす生活システムが絶望的に困難になりつつある)

 土地の一部が50坪ほどの更地になっていたが、電気を引くことから始め、生活用水確保や排水浄化など、結構大変な作業を強いられた。できるものは全部、自分でこなさなければならなかった。

 太陽光自家発電や浄化システム、メタン装置・木炭製造などに興味があったが、なにせ金がなく、100万円単位の太陽光パネルなど、とても手が出なかった。

 スーパーハウス

 家は当初、8畳のナガワ・スーパーハウス(エコノミー)新品を37万円で購入し、ブロックの上に据え付けるだけにした。
 この家はトラック一台で簡単に運 べるのが特徴だ。買って、ポンと置くだけで住める。見かけはまあまあだが、住居としての基本性能はひどいものであることを住んでみて思い知らされた。

 まず、入口と窓が同じ面にあって通風が全然考慮されていない。夏場、内陸性気候の直射日光に晒されると、まるでサウナだ。窓を開ければ無数の虫、害虫の洪水。田舎暮らしは虫との戦いなのだ。

 天井は屋根鉄板一枚なので、日差しがあると鉄板の鯛焼き気分。強い赤外輻射でとても室内にいられない。クーラーをつけても焼け石に水程度。効いてるという感じがしない。やむをえず、屋根にブロックを並べて白く塗ったコンパネを敷いたら少し楽になった。

 マイナス10度まで冷え込む蛭川の冬は凄い寒さ。暖房がなければ室温はマイナス数度になり寝られたものではない。
 冬山のテントでもこれほど寒くない。石油ストーブ1台ではとても足りず2台必要だった。夜間も消すことができなかった。

 後に天井に石膏ボードを貼り付けることで、なんとか輻射熱と寒気から、わずかに解放されたが、スーパーハウスはもう懲り懲り、アイデアは悪くないが、設計も、ナガワ営業マンも人に対する優しさ、善意が感じられない。他人には決して勧めないことにした。

(註=キットハウス組立後、物置になってしまったが、スーパーハウスの安物を居住に利用するためには、大幅な改造が必要になった。天井・床・壁面に断熱材を貼り付け、ガラス窓は2重カーテンにすることで、とりあえず住めるようになる)

 電気・ガス

 電気の引き入れも自分でやりたかったが、電気工事士の資格が必要ということで地元の電気屋に頼んだ。こちらで用意しなければならないのは電気引き入れ口に高さ5m程度の電柱を建て、メータ・ブレーカのついた配電盤を設置することである。

 作業を手伝って敷設費用は7万円、敷地内の配線は自分でやった。本当はこれも資格作業だが自家設備だから文句は出ず監査もない。トラッキングやショートを起こさないよう接続部はハンダ付けし、しっかりビニール被覆してステープルで留める。
 アマ無線の2級を保有してるから電気電子の基礎知識はあった。

 いつか太陽光自家発電を実現したい。もちろん自作設備だ。原発に頼る電力会社に支配されるのはまっぴらだ。ソーラーセルが安くなる日を心待ちにしている。

(註=2008年に1Kwの太陽光発電を導入し、600Aのバッテリーシステムを作ったが、交流変換装置が何度も壊れ、恐ろしく高いものについた。それに自作の場合、整流ダイオードで電気の補充を一方向にしておかねばならないが部品が簡単に入手できなかったりしてソーラーシステムは最大の失敗作になった)

 ガスはプロパンボンベを買えばいい。テロ対策で昔のように大型ボンベは売ってくれないが、5キロタンクが1万円程度、プロパンガスは、どこのガススタン ドでもキロ400円程度で充填してくれる。

 最近、規制が厳しくなり、昔のような安易なゴム配管が認められていないので、配ガス業者に配管を頼んでメータ契 約すると高く付く。
 私はガス湯沸かし器なども自分で配管していたが、その部品さえ容易に入手できなくなった。プロパンガスは使いにくいというのが実感だ。

 ホームセンターで売られるカセットガスは3本250円、キロ330円程度のものがあり安いが、カセットの頻繁な交換が必要で、火力も小さく現実的でない。


(註=これも2008年頃、ガス法が改悪され、事実上個人でプロパンガスを購入することが不可能にされてしまった。2016年現在、業者からだとキロ450円のガス代と基本料金。カセットならキロ340円程度なので交換と後始末の面倒を差し引いてもカセットの方が有利である。火力も増えて、結構使える水準になっている。今のところカセットと電気コンロだけで間に合っている。)

 水騒動

 複数の別荘地開発業者が地権者として入り組む土地で、この別荘地の道路権・水利権を持つのは事実上倒産状態の「コスモ開発」という胡散臭い名古屋の業 者、金融処分地を買い取って私に転売したのは「ゆーゆー」という地元の業者だった。
(ネットで調べたら、船井総研グループなど全国で9社もあった、ここの は社長一名だけ)

 彼らが利害で対立し、解決をみないうちに土地を売ったため、私は道路・水利権のない土地を買わされた形になり、コスモの社長が突然、予告もなく強制封鎖に来て、パトカーが二台来る大騒動になったことがあった。

 結局、私の強硬な抗議に、「ゆーゆー」が「コスモ開発」に道路・水利権を30万円支払う形で決着がついたが、いずれの業者の無責任さにも怒りがこみあげた。

 水道を引くにあたって、施設分担金としてコスモから50万円を要求され、蛭川村分担金と併せて80万近く支払わねばならないことになり、あまりに馬鹿馬鹿しいので、「ゆーゆー」社長の薦めで井戸を掘ることにした。

 井戸は専門業者に頼んでボーリングすると100万円単位の仕事となるが、土建・造園業者に頼めば、ユンボを使って5m程度の井戸を20万円程度で作ってくれる。ここも地元業者に約4mの浅井戸を掘ってもらい1.5トン容量ほどの良く水の出る井戸ができた。

 当然、配管は自分で施設した。システムの知識がなかったので、500リットルのポリタンクを高いところにおき、適宜ポンプで汲み上げて落差を利用して ホースで配管していたが、圧力が弱く、冬場、長いビニール管が凍結し使い物にならなかった。そこで、ホームセンターを覗いたら寺田式浅井戸ポンプというの が4万円程度で売られていたので無理して購入、2キロのポンプ圧に耐える配管を塩ビ管で作り直したら、すばらしく快調に使えるようになった。

 塩ビ配管は 切って糊付けするだけの易しい仕事だった。
 しかし、当初、出たのは泥水ばかり、汲みだしても汲みだしても泥水以外出なかった。結局、飲料水は山から汲んでこなければならなかった。濁った井戸水は洗濯や洗い物に使ったが、当然、洗濯物が薄汚れたように仕上がった。

 やがて、この泥水をガス湯沸かし器で暖めてシャワーに使ってみると、驚くほど気持ちよく暖まることに気づいた。そして、そこから十数メートルの場所に、この別荘地の使われていない温泉井戸があると知り、ようやく泥水の正体が鉱泉であることに気づいた。

 後に、友人の篤志のおかげで素敵な風呂を建設することができ、これにポンタ湯と名付けた。すぐ隣の泉源は炭酸ラジウム泉と書かれていて、有名な秋田の玉川温泉と同じ。これは本当にありがたい贈り物だった。

 湯に浸かると肌がすべすべになり実に好く暖まり湯冷めしない。悪かった体調も湯治によって徐々に快方 に向かう感じだった。黒ずんでいた皮膚が少しずつ白くなるのが分かった。きれいな水も欲しいが自家温泉も悪くない。

 泥水鉱泉も、半年もすると、やがてきれいな湧水に代わったが、要は汲み上げ量が多く地下水が底を尽くと鉱泉が湧出し、普通に使っていれば湧水井戸になる理屈が分かってコントロールできるようになった。地下水はすばらしく美味しく、クセのない美しい水である。

 なお、ポンタ湯は、友人の設備屋、青松氏の協力により、ノーリツ製灯油ボイラーを定価の半額、8万円で購入、浴槽は傷あり1万円の格安品、浴室は後で述べるプチハウス2畳を20万円、全部込みで30万円程度。業者に頼むと100万円以上の仕事になる。灯油ボイラーは燃料代が桁違いに安く安心して使える。 維持費は月千円に満たない。一年間使用して故障皆無。十分過ぎるほど満足のゆく温泉になった。

(註=当地はトリウム鉱山に近く、土壌にも大量のトリウムが含まれているため、後に分析したところ水にもトリウム系列のラジウムやトロンが含まれていた。洗濯や入浴など通常の利用には不都合がないが、飲用だけは市販水を使うことにした)

 浄化槽とEM菌
 
 山林を拓いて生活を始めるにあたって、最大の障害が排水問題である。当地は水質が素晴らしく、有名な蛍の名所、それももっとも見事な乱舞の見られる核心部に近い。排水で水質を悪化させれば蛍を駆除してしまう。

 後に知ったことだが、2002年度に排水関係法が改訂され、土地所有者の利用にあたっての排水基準値が、それまでBOD50ppmだったのが10ppm に変えられていた。これは、おおむね大規模河川の平均水質に近い。

 それまで水汚染の元凶が工場と自治体下水処理場だったことは棚上げされて、個人レベルで 浄化負担を押しつけるものになっていた。

 この値は通常浄化槽としては相当に厳しい。私も関係法に無知だったので、知識として従来のトイレ浄化槽程度で許されると思いこんでいた。

 私は、生活排水をそのまま排水溝に流すのはマズイ程度の認識しかなく、アクアリウム浄化槽を作った経験を頼りに基礎的なバクテリア分解浄化槽を作って、そこを通せば解決するものと簡単に考え、容量3立米ほどのコンクリート製浄化槽を自作することにした。合併浄化槽とトイレ単独浄化槽の違いも、よく理解していなかった。

 工事は友人の土耕一氏の協力で順調に進んだ。4立米のコンクリート箱をブロックで6分割し、最初の桝を沈殿槽、次を曝気槽、残りを砂利透過槽、最後を排水槽とした。曝気も循環も金をケチってオモチャのような装置だった。投入したタネ菌も、熱帯魚飼育タンクで培養したアクアリウム用光合成菌主体のもので、分解菌は自然発生して陶太されると気楽に考えていた。

 数ヶ月もして屎尿が蓄積すると、排水には悪臭が漂うようになった。曝気と循環が弱いため、嫌気性腐敗を起こしてしまったのだ。風呂を増設し、排水量が多 くなると事情はさらに悪化した。フタをして密閉しても、どこからか悪臭が流れてくる。蛍の川に流れ込む排水溝は悪臭のドブと化した。それは隣家のすぐ脇の側溝を流れている。

 「これはマズイ」
 びっくりして、ホームページで屎尿分解性のよいバクテリアの知識を教えてくれるよう頼むと、すぐに幾人かが「EM菌を使ってみたら」と書き送ってくれた。そこでEMボカシを数千円買って投入し攪拌したらやっと悪臭の発生は止まった。

 投入後、10日ほどしたら、突然、菊池さんという方が訪問してこられた。自衛官風の好青年でEMBC浄化システムを研究している方だった。EM菌より優れたEMBC菌を投入すれば、屎尿は完全分解し飲用水準の排水になるという。

 私は月に数万円で生活しているため金がない旨伝えたが、無償で協力してくれるとのこと。菊池さんを信じ、持参されたEMBC菌を投入し攪拌した。それから、宅急便で数回、EMBC培養液が送られてきたのを追加投入し続けた。
 しばらくして我が目を疑う奇跡が起きた。屎尿のたっぷり詰まった沈殿槽に厚い放線菌膜が張り、やがて、それが消えると、ハッカのような芳香さえする菌床 水に変わっていった。

 それを汚泥ポンプを使って循環させるうち、屎尿や紙の堆積物が消えてしまったのである。出てくる水は日々キレイになり、やがて無味無 臭、飲めるほど澄み切った水に変わった。
 約1年分蓄積した屎尿やトイレットペーパー、生ゴミのカスなど、あれほど大量にあった有機物が、どこを探しても見あたらなくなった。一体どこに消えたのか? 狐に抓まれたようだ。

 冬の寒さと凍結

 蛭川村の冬は厳しい。雪は降っても30センチ程度だが、寒気が厳しいため村中アイスバーンとなる。道路はスケートリンクのようだ。四駆であってもノーマ ルタイヤでは当地の坂を上ることさえできない。
 これまでの最低はマイナス11度だった。こうなると室温も氷点下、夜間ストーブを消しては寝られない。

 厳冬期、すべての配管は凍り付き、水が使えない日々が続いた。たいていは日中になれば溶けるが、ときには3日以上、凍結が続くこともあった。毎朝の日課 は、トイレの金隠しの氷を棒で叩き割り、ストーブで沸かした湯を流すところから始まる。こうしないとウンコが便器から溢れ出して悲惨な事態となる。

 次に室内に汲み置きしたバケツの水をタンクに入れて、おもむろに流すことになる。このとき、下水配管を10センチ以上の太管にしておかないと氷結して流れなくなる。

 貯水タンクから安上がりなビニールホースで配管していたときは凍結しても破損はなかった。しかし、後に圧力の高い井戸ポンプを使うようになると、ビニールホースがすべて破裂したため塩ビ配管に切り替えた。

 厚手のVP管を使い、厚さ数センチの保温材を巻いて丁寧に施工したつもりだったが、凍結が始まるとヒーターの入れてない部分は、すべて数十センチに渡ってナイフで切り裂いたように破裂した。

 朝方、寝ていて「ボン!」という破裂音で目覚める。破裂箇所は昼頃になって凍結が溶けないと分からない。突然、噴水のように放水が始まり、その部分の保 温材を剥がし、壊れた配管を切り取り、新しい部品に換える。
 それを何度繰り返したか分からない。ホームセンターの係員も配管材料を買いに来る私の顔を覚え てしまって恥ずかしい思いをした。

 おおむねマイナス7度が境で、それ以下では厚い保温材も役に立たない。ヒーターが入っていれば大丈夫だが、停電でもすれば破裂してしまうし電気代がバカにならない。
 結局、凍結の予想される日は水を抜く作戦で、水の溜まりそうな配管に多数の水抜き用バルブをつけた。

 だが、それでも次々に塩ビ配管の漏水が続いた。毎日のように、どこかが漏れている。凍結圧力のせいかエルボなど部品の接合部が抜けるのだ。いいかげん泣きたくなるほどだった。糊や施工が悪いのかと思ったが、そうではないと思い当たった。
 
 実は、当地に移住して以来、思い当たる不思議な現象があった。靴や草履が異常に早く損耗するのだ。新品のゴム草履が半月もたずに壊れてしまう。数年は持つはずの上等のショッキングシューズでも、こちらで使うと1ヶ月で底がベロベロ剥がれだす。しまっておいた長靴を取り出すとヒビだらけ。あげく、自転車の タイヤがボロボロに分解してチューブがはみ出してきた。こんなこと普通ではありえない。

 要するに、高分子化合物の分解がとてつもなく早いのだ。原因について思い当たることがあった。当地は国内有数の自然放射線地帯。温泉はすべてラジウム泉、空間ガンマ線量は全国トップ。また裏山が薬研山という国内唯一ルビーを産出したことのある稀少鉱物鉱山だ。近くに、旧通産省が設けた東濃ウラン採掘場 もある。

 友人の坂下栄氏から預かっているRDANというガイガー計数管でガンマ線量を測定すると名古屋市内の3倍以上あった。なお私は放射線取扱主任者資格を取得しており自称放射線専門家である。というわけで、高分子分解の秘密は放射線量にあると言いたいところだが、実は3倍程度の線量では常識的に考えて、これ ほどの分解能があるはずがない。何か未知の原因があるだろう思っているのである。

 配管が抜けたり簡単に破裂する理由も、塩ビ管や接着剤が分解していることは確実のようだ。鉄管にすればよいが、今度はねじ切りが大変で、実用的でない。まだ当分、苦労が続きそうだ。

(註=2017年現在移住後14年もかかって、おおむね凍結問題に対処できると言いたいところだが、実は未だに塩ビ管の抜け落ちが出たりしている。ほとんどの場合は、重要な場所にテープヒーターを通電し、末端蛇口でチョロだしすれば凍結被害は出ないが、何かの拍子にチョロだしを忘れてマイナス7度以下になったりすると抜け落ちが発生するのである。マイナス10度以下だとチョロだしさえ凍結してしまうので、元栓で断水して、末端蛇口を解放し、配管内の水を抜いておく必要がある。 なお、鉄管用ねじ切り道具を購入したが、とてつもなく困難で、素人が扱えるような代物ではなかった。)

プチハウス

 実父が見かねて、暖かい家を建てられないかと援助を申し出てくれた。もちろん金がないので、安い廉価住宅を自分で建てるしかない。

 以前から、とても魅力を感じていた家があった。私は見栄えの良い高級住宅には魅力を感じない。大きな家も好きでない。「大草原の小さな家」がいい。

 貴重な老木を伐採して威圧感のあるログハウスを建てる発想にも不快感があった。もう、そんな時代ではない。自分が建てるなら不要材として処分されている 間伐材、それも杉が良いと決めていた。
 以前、加子母村で、まさしく私の好みを体現したようなモデルハウスを見つけた。「プチハウス」という。

 プチハウスは加子母村、脇坂建築が製造販売している100%杉間伐材キットハウスで、1畳10万円程度の値段で注文に応じて大きさを変えられる。2×4 材羽目板に仕立て、自分で組み上げるようになっている。

 屋根はカラートタン葺き。窓がたくさんあり室内は明るい。ベランダも付けられるようになっている。 トイレや台所も増設可能。老後の夫婦隠居住まいに最適。独身者にはもったいないほどだ。

 これを購入して自分で建てることにした。値段は12畳で100万円くらいだが、当地の気候を考え、厳寒地用保温仕様で110万程度。基礎を仮設用鉄パイプとし、120万円程度で作れると考えた。

 2004年、もっとも寒い2月くらいに作業を始めた。脇坂建築から届いた建材の山を見て、一人で作業がこなせるのか不安で、気の遠くなるような気がした。

 測量士の資格もあったので、持っていた中古の旧式トランシットで位置を定め、杭を打ち、水平を決めた。ブロックを置いて鉄パイプの舞台基礎を組んでいった。

 床下が1.7mもあるのは、放射線被曝を避け、通風を良くして腐食を防止し、下から上がってくる虫や湿気を避け、床下をガラクタ置き場にする意図があった。通常の二階にすると昇降が面倒だ。結果的には大正解だった。

 こうしておけば建物の乾燥性が良いので長持ちするし、シロアリなどが入りにくい。床下は後に、倉庫兼作業場となった。

(註=寒冷地で高床式にすると、まともに寒気に晒され、まるで冷蔵庫のような家ができあがる。北海道で高床式を見かけないのは、そうすると寒さに耐えられないからである。しかし当地は池を埋め立てた場所で、地面に水が浸透してきていて、高床式にするしか腐食に耐える設計ができなかった。こんな場合は、床面などに10センチ以上の厚い断熱材を敷設しなければならない。)

 材料には番号がふってあり、簡単な図面を参照しながら順番に組み立てて行く。間伐材の羽目板は小さな丸太から製材してあるので非常に反りやすく、製材後わずか半月ほどで変形してしまう。一段ずつ反りの向きを変えて、全体でバランスが取れるように組み上げるのだ。

 乾燥が進み反りが強くなると羽目板をはめ込むのが大変な重労働となる。そうなる前に反りと格闘しながら短時間ではめ込んでコースレッドという木ねじで留めるのである。時間との勝負なのだ。脇坂建築では二人で、わずか三日で完成させるという。私はおおよその形を作るだけで十日近くもかかった。

 組立は七日くらいだが、床張り、内装、屋根や雨樋、配線など細かい作業は結構多い。一人で格闘しながら疲労困憊に陥った。それでも家の形をなしたときは、これを自分の手で作ったのかと、ひとしおの感動だった。

 完全に住める状態になるには約半月を要した。寒い時期だったが、屋根と床には野断熱材を入れ、壁は四センチ厚の杉羽目板なので、それまでのスーパーハウ スとは比べものにならない。ストーブ一台でも十分に暖まる。

 新築の杉の香り、床は節だらけだがサワラ材を張ってある。高価だが当地特産なので安く入手でき るのだ。檜と同じ強度、香りの素晴らしさに大満足。自分で建築した満足感が合わさり、とても幸福な気分に浸った。

 後に2×4材でベランダも増設し、屋根をかけて配管し、台所として利用するようになった。1本200円の板を60枚ほど使い、3万円程度でできた。プチハウスに用意されたオプションのサワラ材ベランダは40万円する。
 
 トイレ増築

 プチハウスにトイレはなく、夜間、寒いとき階段を下りて裏側の仮設トイレに行くのは苦痛で、戻ってきたら目が冴え渡って眠れない。
 面倒くさいので室内に バケツを置いて用を足すようになった。友人が来て泊まっていっても同じ苦情が出た。

 そんな事情で、足の弱い老いた母や祖母も階段やトイレの問題で連れてこ れなかった。そこで室内にトイレを増設することにした。
 構造強度の問題で内部に増設したかったが、室内が狭くなるのと臭気の問題があり、やむをえず壁を切り開いて外部に箱を設けることにした。パイプ基礎を延 長し、安い2×4材を木ネジで重ねてゆく。
 天井は明かり取りを兼ねてビニールトタン葺き。壁を切り開いてドアを設けねばならないが、それが著しく強度を落 とすことになるため、できるだけ小さくした。おかげで出入りで、さんざん頭を打ち付けるトイレができた。

 便器は設備屋の青松氏に安い傷モノを探してもらったが見つからなかった。中津川のホームセンターで4万円で売られていたものを購入。
 ついでに前から欲し かった2万円の暖房洗浄便座付きとした。内外装・配管全部込みで約9万円ほどかかった。業者に頼めば40万円くらいだろう。自作すれば、おおむね3分の1 から5分の1程度ですむ。金は家族や友人の篤志に頼った。なかなか快適なものだ。

 ホタルと熊騒動

 2004年6月末、ギター演奏の仕事をもらっていた講談師、田辺鶴英と娘の小麦とともに私の車で四国に公演に出て、帰りにプチハウスに泊めた。
 蛭川村は東海地方指折りのホタルの名所。それも、ここから数百メートルの地点にもっとも見事な核心部がある。鶴英も小麦も、生まれて一度もホタルを見たことがないという。

 夜、期待に胸を躍らせて、暗闇の山林を懐中電灯で歩いた。私は「熊が出るから気をつけろ!」と脅しのつもりで言ったが、みんな笑いながら気にもとめなかった。

 暗い森を抜けると田圃があり、ところどころに青白い電球が灯っているようだった。
 「ホタルだ!」 小麦が叫んだ。

 その神秘的な輝きの強烈さに、みんなびっくりした。まるでネオンサインだ。見渡す限りの田圃中で点滅しながら輝いている。川辺を歩いて行くと、もっと凄い場所があった。川の屈曲点で、ネオンの洪水のように光輝が乱舞し、辺りが明るくなるほどだった。

 「へー、ホタルの光、窓の雪ってウソじゃなかったんだ」
 函館生まれの鶴英も、東京育ちの小麦も、このとき生まれて初めてホタルの乱舞を見た。二人とも、その場に立ちすくんで動かなくなった。

 「もう満足しただろ、帰って飲もうや」
 と言っても全然、動く気配がない。食い入るように光の饗宴を見つめている。彼らは2時間もそこに立ち続けていた。私は、これほどの見事な場所に、観客が他にいなかったことが、とても不思議だった。

 「どうして人がいないのかな」
 家に帰ると、向かいの池の上にネオンが点滅している。そこにもホタルがいたのだ。二人ともベランダに立って、いつまでも光に見とれ続けた。

 鶴英親子は翌日帰ったが、さらに翌日、驚くようなニュースを聞いた。村のなかに熊が現れ、外出禁止令が出ていたというのだ。
 蛭川村では10年に一度ほど熊騒動があるが、今回は村の中心部に現れたので大騒ぎになったのだ。

 それも我々がホタルを見に行った当日。熊は希にみるほどの大物で、数日後に車にはねられて死んだ。1.6メートル、100キロもあったそうだ。その出現 場所を聞いて、さらに驚いた。私の家の向かいの森だったのだ。

 あのホタル見物のとき、我々のいた森のなかに彼は潜んでいた。
 後に森に入って彼の足跡を確認した。それは我が家から100mの尾根にあった。
 しばらくして、日本中で熊騒動が勃発した。私は散歩のため村内の笠置山に登るが、秋頃、この登山道で再び熊に遭遇した。

 笠置山で熊が目撃されたのは戦後初めてだった。この熊騒ぎ、全国に波及したが、何を意味するものか、まだはっきりしない。 



 2017年追記

 岐阜県恵那郡蛭川村は室町時代から続く村だったが、これを書いた翌年、2005年にとうとう中津川市と合併することになった。行政区分からは恵那市に合併するのが自然だったが、グリーンピア事業の失敗で多額の負債を抱えた恵那市に編入されることを村民が嫌ったのだと思われた。

 私の家は2003年に移住、1年間スーパーハウスに住んだ後、間伐杉のログキットを自分で組み立てた12畳の家を建てた。家関係が130万円くらい、水回り、風呂トイレなどが50万円ほどかかっている。もちろん全部自作したものだ。

 その後、2014年に放射能汚染に見舞われた千葉から友人を脱出させるため、もう一軒、間伐杉のログハウスを建てた。
 これもキット価格で100万円台のもので、メーカーは関市の親和木材だが、耐雪性能は積雪2mとかなり上である。

 建築後3年を経て、自分で整地した地盤が不等沈下を起こしてドアや窓が開かなくなったりしてジャッキアップで平行を回復するなど、かなり手入れが必要になった。
 またログに隙間ができて風が入るようになったため、隙間を埋める作業も必要になって、完成度が高い住宅とはいえない。
 基本的には堅牢な地盤を作らず沈んでしまった私の施工が悪かった。土木工事を個人でやるのは、とても困難である。

 トイレ浄化槽も新築に会わせて新しいものを製作した。以前の経験を吟味して、今度は割合完成度の高いものができたと思う。詳細はブログに掲載した。

  http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/28507858.html

熊は、周辺で、相変わらず頻繁に出没が報告されている。去年、床下が熊臭い(独特の獣臭が残る)ので熊がうろついていると感じ、周囲にフェンスを張った。
 今年に入っても人家の多い高山大橋付近や蛭川中心部で熊が目撃されている。
 また散歩コースである高峰山でも熊の痕跡が増えてきた。

 アライグマやハクビシンはかなりひどい。スイカや瓜などの農産物を食い荒らされるだけでなく、鶏を飼育していた農家も大半が被害に遭っている。
私が移住してきた2003年頃は、そうした獣害対策を施している畑など見たこともなく、一体は野ウサギ天国と感じるほど鳥やウサギが多かった。

 だが2007年を境にして、逆に獣害対策を行わない畑を見かけず、野ウサギも村中から姿を消した。アライグマが補食してしまったのだろう。
 この頃からイノシシの被害も深刻になり、多くの老人たちがカボチャなどの露地栽培をやめてしまった。
 私も芋類やカボチャなど、作ったものを壊滅させられ、まるでイノシシの餌を生産しているような思いにかられる。

修験道 その3 大峰山千日回峰行


 
 修験道 その3  塩沼亮潤による大峰千日回峰

 比叡山延暦寺における千日回峰行は、NHKが酒井雄哉の行を密着取材したので知らぬ人も少なかろう。

 それは比叡山の獣道で7年間、1000日にわたって行う。年に100~200日、深夜2時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で30~40 km を拝礼して歩く。

 その後、堂入四無行という9日間、飲まず食わず、横にならず、眠らず不動真言を唱え続けるという、人体の限界を完全に超えた凄まじい苦行が待っている。
 
 生き延びる可能性が五割しかないと言われる恐ろしい行を無事に超えれば、さらに京都市中を100日間、一日84Kmも歩かねばならない。

 待ちかまえた数千の信者全員の頭に降魔の数珠を当てながら歩き回り、睡眠時間は二時間ほどであるという。

 こんな内容を知っただけで恐ろしくなるのに、視聴者がさらに衝撃を受けたのは、途中で行を続けられなくなったときは自害するという厳格な掟である。

 そのための首吊り用の「死出紐」と、切腹用の短剣、死体の後始末埋葬料10万円を常時携行する。蓮華の蕾をかたどった細長い笠をかぶり、白装束、草鞋履きで行う。

 我々がテレビ番組などを通して千日回峰行者について知りうる知識は、いつでも成功者(満行者)のものだけである。

 行に失敗して自ら命を絶った行者が、どれほどいたのか?
 彼らのその後の運命、遺体がどう扱われたのか?
 関係者は厳格に口外を許さず、知ることもできない。

 医学的常識から考えれば、この行は、栄養失調をもたらし疲労骨折をもたらすレベルであり、もし、そうなれば掟によって自決しなければならないのである。

 失敗者の情報は、どこを探しても見つからない。
 実際に、山中で急病になったり疲労骨折して自殺を強いられた行者、堂入中に急死した行者は成功者の数倍もいるに違いない。
 
 それなのに、彼らの死は、その瞬間に、それまでの行の記録とともに、存在そのものが消されてしまっている。

 我々が見ているのは、その輝かしい成功者だけであって、隠された失敗者たちの姿を知る者は叡山の極一部の関係者だけであろう。
 彼らは黙したまま決して語ろうとしない。

 叡山では叡南祖賢から釜堀浩元に至るまで戦後14名の行者が知られているが、失敗して消えた者が、どれほどいるかわからない。名前さえ分からない。
 たぶん、成功者の数倍もいるはずの彼らは千日回峰行にチャレンジした記録そのものさえ消されてしまっているのである。

 「苦行」というのは世界中にある。
 チベット仏教でも五体倒地巡礼という苦行があり、インドネシアやタイ、トルコでも信仰を示すため自分を傷つける苦行が知られているが、苛酷という意味では千日回峰行は世界のトップをゆくものである。

 元は、中国の五台山で各峰の巡礼修行から行われていたものらしい。その行を密教関係者が日本に持ち帰った。
 それは叡山を開いた最澄だったかもしれない。

 叡山千日回峰行は、平安時代に相応という修行僧によって延暦寺で始められたものだが、詳細な記録は、織田信長による延暦寺焼き討ちによって資料が失われ、不明なことが多い。

 これを行うのは叡山だけではない。吉野にある修験本宗でも行っている。


 奈良県吉野にある修験本宗総本山金峯山寺。国宝、蔵王堂で有名な役行者を開祖とする寺だが、ここの「千日回峰行」は、叡山のものより厳しいと言われる。

 もっとも叡山は堂入後の京都大回り一日84Km があるので、トータルでどちらが厳しいかという比較は無理だろう。
 どちらも人間業ではない。

 大峰千日回峰に挑んだ行者の名は、塩沼亮潤という。
 彼は、テレビで見た酒井雄哉の行に衝撃を受け、自分もやり遂げたいと小学校のときに決意したという。

 実家は、酒やギャンブルに狂って母親に暴行するような愚かな父親がいて、たまらず離婚した後も、母と祖母の三人家族で、とても口に出せないほどの貧しい生活を経験した。

 普通なら貧しさのなかでグレそうな環境だが、彼は逆に世間の誰もがなしえないほどの困難な苦行を行うと決意した。
 アルバイトをして金を貯め金峯山寺に向かった。
 それが叡山ではなかった理由は、大峰の方が、はるかに苛酷であると思えたからだという。

 4年間の小僧生活=来る日も来る日も掃除ばかりで、学問さえ教えてもらえない苦しい日々を数年間も経験させられた後、寺は資質があると判断された者に回峰行を許可する。

 大峰山、山上ヶ岳、1719mの頂上に向かって、160mの蔵王堂から48Kmの道のりを往復する。
 前夜11時半に起床、夜を徹して数百カ所で祈祷しながら歩き、山頂に着くのが午前8時半、寺に帰るのが午後3時すぎ。山中を1日48km、年間およそ120日、9年の歳月をかけ、1000日間歩き続ける。
 このとき履く地下足袋は三日しか持たない。

 人間の能力をはるかに超えた荒行中の荒行である。たとえ病や怪我、雷や嵐の日であろうと、行半ばで辞めることは許されない。
 死出の旅を意味する白装束に身を包み、迫りくるあらゆる困難に耐え、ひたむきに歩き続ける。

 道中には国立公園に指定されてるほどの未開の大森林であるがゆえに、マムシや熊やイノシシなど人に危害を加える生物も多数生息していて、深夜の回峰行に障害物として登場してくる。

 私は、東海アマブログ「修験道路の山旅」に記したように、1991年に近鉄吉野駅から大峰本峰を熊野に向かい、前鬼に降りてバスで帰宅する山旅を行ったことがある。

 このとき大峰千日回峰の全行程を経験しているはずだが、公開された動画で見た光景はまったく違っていた。
 私の知らない岩壁や獣道が行者とともに写っていた。
 どうも行者道は、私が歩いた地図上の道ではない別の獣道を利用しているように思えた。
 塩沼が行を開始したのは、ちょうど私が行った年だが、もう山が冬期閉山していたので出会うこともなかっただろう。

 大峰千日回峰は開山1300年の歴史のなかで、二人の満行者を排出した。

 最初の満行者は柳沢真悟氏で、2017年現在69歳、金峰山寺成就院住職。約40年前に行を成就している。
 塩沼が行に入ったのが1992年だから、柳沢は40歳代で円熟した指導僧だったはずで、
 塩沼の回峰行に父親のような先達として多くの指導を行ったはずだが、なぜか塩沼は柳沢について触れたがらない。

 行の回想録がたくさん公開されているが、柳沢との関わりについて黙したままだ。
 穿った見方だが、二人の関係に何か特別な軋轢があったように思える。
 
 塩沼は行489日目に100%死を覚悟しなければならないほどの体調不良に見舞われた。
 食べても、すべて下してしまい数日間で体重が10Kgも減った。意識が朦朧とし、装束も忘れて飛び出し、ついに山中で意識を失いかけた。
 人生最大の危機をどうやって生き延びて行を捨てずにすんだのか? 塩沼自身もあまりよく分からない状態だったようだ。
 
 そもそも、朝昼は副食もない小さなおにぎり二つだけで、数十日後には栄養失調から爪がボロボロに割れた。小便は血の色に染まった。
 叡山回峰行でも同じだが、栄養不足のまま、これほど苛酷な長時間の激しい歩行運動を続ければ、ほとんどの人が膝下の疲労骨折を起こす。
 歩行中、脛や橈骨がポキンと折れてしまう。

 マラソン選手、それも世界的レベルの選手が次々と疲労骨折を起こしている。高橋尚子、野口みずき、卓球の福原愛もだ。
 運動の意志に対して体がついていかない。激しい訓練に気づかぬうちに骨がやせ衰え、ある日、運動中に折れる。

 選手たちは病院に入って入院してれば治るが、回峰行者は、その瞬間、行からの脱落を悟り、自らの手で命を絶たねばならない運命を強要されているのである。

 塩沼は運動生理学の基礎知識があったようで、そうした自分の体調のために、唯一、まともな栄養の摂れる精進夕食で必死になって栄養を確保したにちがいない。
 僧に許される精進食では大豆くらいしかタンパク質やカルシウムがないので、豆腐や湯葉をたくさん食べたのだろう。

 叡山では二食しか許されないので、酒井雄哉の食事は、うどん、豆腐、ジャガイモなどであった。
 それでも連日連夜の苛酷な行に対応できるような食事内容ではない。

 行者は食事からだけ栄養を摂取しているわけではない。
 栄養学関係者が叡山の行者食から割り出したエネルギーや栄養素を計算すると、行の数分の一以下しか食事で補填できないという結論に達した。

 それでは、どこからエネルギーを補給していたのか?

 「霞を食べて生きる」
 これが昔から言われた行者の食である。

 2010年、チリのコピアポ鉱山で起きた落盤事故では、33名が69日間、坑道に閉じこめられ無事救出された。
 このとき、彼らが口にすることができたのは三日に一度の一匙のツナとクラッカー半分だけであったが全員元気だった。

 森美智代さんという鍼灸師の女性は1日青汁1杯(50キロカロリー)で16年間仕事している。栄養学では1日2000キロカロリーが必要量とされていて、彼女はその40分の1にすぎない栄養で痩せもしないで驚くほど元気である。

 インドのヨガ行者、プララドジャニ、83歳は70年間飲食物一切取らないで生きている。排泄もしていない。
 学者たちがチームを組んで調査したが、正常であることがわかった。

 こうした例を見れば、人類はどうやら食事以外の方法でも栄養を摂取できる可能性があり、千日回峰行者たちは、そうした境地に達して歩きながら「霞を食べて生きる」方法を身につけない限り、行を成功させることができないようだ。

 塩沼は死を覚悟するような食中毒(あるいは毒物中毒?)以外にも、行の大半で苛酷な障害に見舞われている。

 まずは膝に水がたまり両足が腫れ上がった。これは私も経験がある。私の場合は膝痛風から来たが、もの凄い激痛で、とてもじゃないが歩く意欲など起きない。
 一歩も歩けないはずの激痛を押して塩沼は48Kを歩いた。

 次に虫歯になり、水を飲んだだけで激痛を感じるようになった。
 塩沼自身の言葉を借りれば
「百日の行のうち、五体満足は1~2日だけ、後は悪いか最悪かだった」

 これも医学的常識を逸脱していて、普通の人なら完全に絶対安静の入院を宣告されるレベルで苛酷な行を遂行した。
 歩きながら体を治した。

 これも私は経験がある。長丁場の山中で同じような事態に見舞われたことがあった。
 私は気功をやっていたので、痛い部分に掌から気を当てているうちに痛みが遠のき、歩き続けることができた。
 
 酒井雄哉は、イノシシに襲われ化膿した足の親指を自らの刀で切り裂き、気を失った。
 その後、意識を取り戻し、死出紐で傷口を縛り歩き続けた。

 こうなると、もう医学の世界で推し量ることなど不可能で、絶対意志の世界である。
 人の意志は科学的事実よりも上位にあると考えなければ絶対に説明がつかないのである。

 こうして凄まじい苦行を数百日も堪え忍んだ後に、誰も想像もできない恐ろしい行が待っている。

 一切の食物、水を断ち、眠らず、横にならず、9日間、堂にこもり真言を唱え続ける「四無行」である。

 「生き延びる確率は50%」
 塩沼が明言しているのは、事実、そうだったからだろう。
 途中で死亡した行者は、歴史から葬りさられることになり、どこを探しても記録が出てこない。
 
 行が始まれば、それは死神との格闘になる。

 あらゆる感覚が研ぎ澄まされ、線香の灰が折れて落ちる音さえも聞こえたという。
 三日もすれば体中から死臭が漂うという。そして瞳孔が開きっぱなしになり、意識は遠く飛んでゆく。

 介添えの僧たちは「亮潤さん、亮潤さん」と何度も激しく呼びかける。反応がないからだ。
 このとき塩沼自身は「なんで騒いでるんだろう」と不思議に思っていたという。
 そして自分の姿を体の外側から見た。

 このとき霊肉離脱が起きていた。魂が肉体の数十センチ上から自分を見下ろしていることに気づき、塩沼は「戻れ!戻れ!」と必死に肉体に戻ろうとした。

 この幽体離脱と呼ばれる現象は、交通事故や大手術などで死線を彷徨った人がよく経験する現象で、高木善之氏やビートたけしが事故のときに、そうなったと証言している。
 人は死に限りなく近寄るとき、離脱を起こすのである。

 酒井雄哉は堂入で霊肉離脱を起こし、自分の霊がアメリカの空を飛んでいることを確認したという。
 これを起こさないですむ行者はいないだろう。

9年にわたる、千日間の苛酷という表現すら甘すぎるような行を成就すると「大阿闍梨」という称号を与えられる。

 満行の大阿闍梨たちは、口をそろえるように自らの行った行について謙虚な発言しかしない。

 酒井雄哉は「千日回峰によって得られたものは何もない。ただ行を行って今の私がある」
 と静かに述べている。

 塩沼亮潤も酒井の言葉に似た感想を述べている。

 「特別なものなどない、人間は皆、平等である。この地球に生まれ、空気も水も光も与えられていることを感謝しなければならない。夜空の星の数は人間が一生かかっても数え切れないほどある。それを考えたならば、もっと心豊かに生きていかなければならない。
 目の前にいる人を大切にすること、これが人生なのだ」

 回峰行が行者たちに与えた真理は「どんなに修行しても特別な存在にはなれない。ただ、人への感謝によって自分が生かされているのが、はっきり見えるようになっただけだ」
 ということであった。

 江原裕之は、千日回峰に対して文句をつけている。

 「体の不自由な人が阿闍梨になれないというのはおかしい。彼らこそ、千日回峰と同等の苦行を毎日行っているではないか?」

 たぶん、酒井も塩沼も、同意するのではないだろうか?

 塩沼は僧とは思えぬほど明るい性格で、いつも人を笑わせている。
 塩沼は満行後、山内での約束された高い地位に見向きもせずに故郷仙台に帰り、支援者の協力を得て秋保温泉の近くに滋眼寺を創設した。

 そこには独身の塩沼目当てか、若い女性たちがたくさん集まってくる。彼女たちが塩沼を見る目は、まるで全盛期のタイガーズ、沢田健二を見るように恍惚としている。

 人に慕われるという意味で、これほど人気のある人も滅多にいないだろう。
 千日回峰は、塩沼から、すべての虚飾を剥いで生身、真実の人間性だけにしてしまったように思えるが、私には、回峰行が失敗者を消し去ってしまっている現実が、何か大きな虚構を生み出してしまっているように思えるのは杞憂だろうか?

修験道 その2

 修験道 その2

 山伏

 修験道の行者のことを山伏と呼ぶ。本来は「山に臥せる者」という意味で、「サンガ」と呼んだらしい。

 となると、謎に包まれた山岳漂白民であった山窩(サンカ)との関係を知りたくなるが、両者には、単なる文意を超えた大きな関係があったように思える。

 それどころか、中世の山伏は、宗教よりも軍事に真価を発揮していて、日本軍事史の観点から見るなら、サンカとともに、興味の尽きない驚くべき事実が浮かびあがってくるが、ここでは、サンカを特徴付ける移動式天幕と騎馬民族のパオとの類似、またウメガイと呼ばれたサンカ式刃物が騎馬民族特有の直突式の剣であることを指摘し、サンカの生活文化が騎馬民俗の片鱗を持っていることを指摘しておきたい。

 農耕民族だったなら、その刃物は稲科植物の刈り取りに適した曲刀なのである。直刀は騎馬戦で相手を突く戦闘スタイルのために生まれた様式である。

 際だった特徴としては、山伏・木地屋・マタギが「山の尾根に住む人」であったのに対し、サンカは「山の谷筋に住む人」であって、明確な相違があることを理解する必要がある。
 マタギが東北にまで至る高所の尾根筋を活動舞台にしたことに対し、サンカは南西地方の竹類の自生する暖かい谷筋で生きてきたのである。


 宮家・和歌森の修験道研究を読まれた方でなくとも、中世の権力抗争に山伏の姿が欠かせないことを誰でも理解しておられよう。。
 義経・弁慶が、頼朝に追われて山伏として逃げのびる姿はドラマでおなじみだし、太平記に登場する後醍醐の縁者もまた山伏に身をやつした。

 天皇家の権力が形劾化してゆく過程で、それと結びついていた比叡山や高野山では、本来の仏教よりも、むしろ修験道の勢力の方が強くなってゆく。
 というのも、権力抗争が激しくなってゆくと、寺院も否応なしにそれに巻き込まれ、強力な軍事力を確保して自衛せざるをえなくなってゆくからである。

 延暦寺・平泉寺(天台宗系)や興福寺(真言宗系)には僧兵と呼ばれる強力な軍事集団が出現し、京都の権力抗争を舞台に激しい争いを演じた。
 仏教思想は、本来争いを好まないものであって、軍事力の増大には神道も含めた修験道の方が向いているのである。

 山伏は山岳地帯での激しい修行を通じて得た能力によって、中世の戦争に欠くべからざる軍事要素となった。
 戦争に加わった山伏の任務は、勝利を祈念する加持祈祷はもちろんであったが、伝令や、後に忍者と呼ばれるようになる撹乱者(乱破・素破)として専門的な役割を担うようになる。

 霧隠才蔵の伝説で知られる戸隠忍者の祖が山伏であったことには明確な証拠があり、伊賀・甲賀・根来などの忍者の祖先も熊野大峰の山伏であったらしい。
 それは、伝承された忍者のイメージが、本来は超能力的な呪術(あるいは道術といってもいい)を基本としたスタイルであったことからも窺える。

 そして注目すべきことに、サンカが、京都の乱破道宗という名の忍者の元締の差配下にあったという事実が存在していて、このことは、サンカと山伏の関係について明確な意味を与える。

 初期の山伏には、律令体制から逃亡した非騎馬民族系の隷民が多く含まれていたと考えられる。サンカにもまた、渡来人から追われた日本西南部の原住民も含まれていた可能性もある。

 騎馬民俗式の移動式天幕・ウメガイとともにサンカを特徴づける竹利用民俗については、騎馬民俗と直接結びつけられそうもない。
 それは、明かに暖かい地方、南西諸島・西日本の土着民俗といえよう。
 すなわち、サンカには弥生人の文化と騎馬民俗の文化が混在している。

 山伏の活躍した舞台は、同時に木地屋やマタギの舞台でもあった。

 木地屋は、2500年前の弥生人系渡来人のもたらしたロクロ技術に依った職人集団だから、遠くヒマラヤ山麓から伝播した人々であったように思われ、山伏との関係について示唆を与える面白そうな資料は少ない。

 だが、マタギについては、その伝承された呪法に、修験道の明確な影響が見て取れる。
マタギの集落のうちには、山伏を祖とする伝承をもつところが少なくないのである。

 マタギの生活文化は明らかに蝦夷(えみし)・縄文人の末えいを示すものである。
 しかし伊豆の「万二万三郎」伝説のなかでは木地屋の伝説が登場してくるので、山深い尾根上の長い歴史の中で、木地屋とマタギと修験が融合していったものであろう。

 山伏は全国の険しい山岳にでかけ、そこで修行することによって民衆であることを超脱し、特殊な呪術の能力者になった。
 そして、それは社会体制のうちに組こまれた権威の秩序とは異なって、権力者によって評価されることがなく、呪術によって疫病や飢餓などの災厄から民衆を救うことでその存在価値を得たのだろうと思われる。

 その思想は徹底的に現世利益的であって、密教と道教のもっとも本質的な部分を継承している。それは決して利他を本願とする大乗ではない。むしろ小乗というべきである。

 それを、ひとことでいえば「呪」ということになろう。すなわち、シャーマニズムである。呪術が重んじられ、山伏が勢力を得た大きな理由は、平安時代に中国から輸入され、道教の構成要素であった「陰陽道」の影響が大きかったにちがいない。

 10世紀末に登場した陰陽士で天文博士の安部晴明は、小角に比肩する超能力者であった。方術と呼ばれたその能力は、平安貴族に恐れられ、呪術への大きな信仰を育てた。
 現在に残る、鬼門など禁忌の思想は、この頃につくられたものである。それは「祟り」という観念から生まれたものであった。

 平安貴族は人間の超能力に恐怖し、「祟り」を恐れて死刑すら廃止してしまった。それが体制の弱体化を招き、強力な武家集団に権力を奪われる原因になった。

 修験道山伏の修行の舞台は、役の行者の修行した葛城山からはじまったと考えられよう。
 しかし、「日本霊異記」の小角の伝承のうちに、「葛城山と(吉野)金峰山との間に橋を架けた」という記述があることから、この時代には、吉野大峰にもすでに雑密修験者が存在したと思われる。

 後に、天台宗系と真言宗系の密教系修験僧が、吉野と熊野を結ぶ大峰山脈において呪法の修行に励むようになると、彼らは本来の仏教を離れて、神道に傾いた独自の宗風をつくりだし、多くの流派がひらかれるようになる。

 修験道最大の拠点となった吉野には、真言系元興寺の僧、神叡が虚空蔵菩薩の信仰をもとにして自然智宗をひらき、山上ヶ岳では、真言宗小野流の聖宝が恵印法流をおこし、熊野では天台系の僧がいくつかの流派をひらいた。

 これらの記述をはじめると無意味な羅列が続くので、興味のある方は、宮家準と和歌森太郎の修験道研究書を読んでいただきたい。
 ここでは、必要最小限のアウトラインを記述するにとどめたい。

 大峰山脈の両端である吉野と熊野には、それぞれ修験道を代表する拠点が成立した。おおざっぱにいえば、三井寺を中心に据えた熊野三山(本宮・新宮・那智)は天台系修験の拠点となり、本山派と呼ばれるようになり、吉野金峰山寺を中心に据えた大峰山は真言系修験の拠点になり、当山派と呼ばれるようになった。

 この両者は互いに対立し、宗風もかなり異なったものになった。外見上も、本山派が総髪であったのに対し、当山派は剃髪していた。したがって、この髪型で、どちらの系統かおおよその見当がつくことになる。

 この両者は、修験道の草創期から分化対立し、修験道界の二大派閥となる。徳川家康は、数十もあった修験流派をこの二つに集約して統治しようとした。明治初期に、修験道が邪教とみなされ強制的に解散させられたときも、すべての山伏は真言宗と天台宗に帰依するか、さもなくば還俗するよう迫られたのである。

 修験道の儀礼宗風も両者で異なるが、基本的に共通するものだけを簡単にとりあげてみたい。
 初期の土俗的な修験儀礼は、中世の二大派閥の対立によって琢磨され、時代とともにスマートなスタイルが完成してゆく。

 修験道が拠りどころにした教義は、天台本覚論・法華経典・華厳教・山王一実神道・両部神道などであった。それらから「修験修要秘訣」などの教義が生みだされ、山伏の修行スタイルが定められた。
 修行道場の大峰山は、密教的解釈からは曼陀羅の金剛界(吉野側)・胎蔵界(熊野側) とされ、法華思想では、葛城山を法華峰とし熊野を阿弥陀浄土とした。
 崇拝対象は、最高位の奥座に大日如来をおき、前座には不動明王あるいは金剛蔵王権現がおかれた。ときに、金剛蔵王権現は役の行者の化身として崇拝された。

 修験者は、自身が宇宙とされ、我が身に内在する大日如来を感得することが修行の最終目的であるとされる。

 これは、修験道にとってもっとも大切な基本認識で、修験とは、わが内なる仏を呼び醒ます(験ずる)ものなのである。そして、仏(同時にその権現である神も含む)が意識に現れることによって、さまざまの超能力を得ることができるようになると信ぜられた。

 山岳修行を峰入りというが、中世以降には、これに厳しい作法が要求されるようになった。
 峰入り修行は、華厳経にもとづく十種の成仏過程を経ることになる。
 すなわち、①地獄・②餓鬼・③畜生・④修羅・⑤人・⑥天・⑦声聞・⑧縁覚・⑨菩薩・⑩仏の十界が人のおかれる姿であって、それぞれに、以下の修行が行われた。
 修験者でない普通人は、1から6までの六道を輪廻するとされ、7から10までは、先達クラスの修行である。

 ①床堅(峰入りの最初の行で、棒で新人の身体を打ち、自分のうちに大日如来を感得させる)
 ②懺悔(新人が、先達に自分の行ってきた罪業を告白懺悔する)
 ③業秤(新人を紐で縛り、吊りあげて罪の重さを量る)
 ④水絶(洗顔や飲水など水を断つ)
 ⑤閼伽(水断期間の後、水を汲ませ祭壇に供える)
 ⑥相撲(新人どうしで相撲を取る)
 ⑦延年(楽しい踊り)
 ⑧小木(護摩に使う木を取る)
 ⑨穀断(一週間の断食)
 ⑩正潅頂(護摩木を先達に渡すのだが、キリスト教の洗礼にあたる)

 注目すべきは、修験道は、人間にレッテルを貼って固定した姿で見るのではなく、もともと人間というものが地獄と仏の間をさまよう危ういものだという認識をもっていたことである。

 ついでにいえば、相撲がもともと山伏の修行であったことを知る人は非常に少ない。これは、人より一段高い天の位置にある人間の修行として想定された。ウソのような話だが、峰入りでは本当に相撲を取るのである。
 大峰では、最終段階の修行としての正潅頂を、大日山(釈迦ヶ岳の属峰)にある深仙の潅頂堂で行う。そこで大日如来の秘印と秘法を伝授され、成仏修験が完成するとされた。

 成仏には①始覚・即身成仏、②本覚・即身即仏、③始本不二・即身即身の三種あるとされ、前二者は顕教の成仏であり最後の即身即身こそ修験道の成仏であるとし、その意味は、自らの内に大日如来が合体した状態、つまり人仏一体の状態という認識であった。
 これらの具体的内容は煩瑣にすぎるので、これくらいにしておく。

 大峰で生まれた修験道は、山伏によって全国の山岳に拡大していった。山伏はマタギと同様、大峰から津軽まで里に一度も降りることなく山上の峰を自由に往来し、戸隠や月山など険しい山を見いだすと、そこを修行の拠点にした。

 大峰以外で、修験道の一大宗派が成立した場所は、九州では彦山(宇佐)であり、これは古い両部神道の八幡信仰が土台になったものである。他には、羽黒三山(山形県の月山付近)が東北修験道の一大中心となり、ついで日光にも宗派が成立した。

 羅列すれば、戸隠・榛名・三峰(雲取)・大山(丹沢)・御岳(青梅)・立山・富士・御嶽・古峰ヶ原・秋葉・白山・金華山・岩木山(津軽)・後山(中国)・大山(山陰)・石鎚・剣山(四国)・宮地・阿蘇・霧島(九州)などが、流派の成立した行場であった。

 このとき注意しておかねばならないことは、江戸期から現代に至るまで全国の修験は真言宗派と天台宗派に系列化されてしまっているが、これは江戸初期、家康があらゆる集団を二分化させて対立させ、その上に幕府権力が仲裁的に支配するという政策をとったことによるもので、実際には、宇佐・叡山・大峰・羽黒といった巨大修験組織は後に押しつけられた系列とは無関係の独立した歴史を持っているということである。

 山伏が峰入り修行を行うとき、大峰の麓にある拠点の寺において、俗衣を脱いで法衣を身につける。
 法衣は、普通カンマン衣と呼ばれるもので、背中に不動明王の種子を表すカンマンが描かれている。これを着ることで、山伏は不動明王を感得するということである。

 これは宗派によって多少異なっていて、羽黒山伏では背中に獅子が描かれ、百獣の王の霊力を身につけるということになる。

 山伏の正装は、弁慶人形などでおなじみだが、法衣や法具にはそれぞれ意味が与えられている。
 額の頭巾は、大日如来の五つの知恵を意味する宝冠であり、頭に載せるハンガイという黒いシャッポは、子宮の中の胎児を意味し、鈴懸・袈裟は金剛界と胎蔵界の宇宙、貝の緒は山伏のヘソの緒、笈は母胎子宮、ホラ貝は大日如来の説法という具合に意味が付与されているのである。
 胎児にまつわる法具が多いのは、山伏の峰入りが受胎から誕生までを寓意するものだからである。

 山伏の修行の内容は前述したものの他に、恐ろしい断崖絶壁の上に綱で吊るして懺悔させたり、身のすくむような絶壁を通過させたり、冷水に打たれたりと、とにかく人間の恐怖心を克服させるものが多いが、ハイライトはなんといっても護摩行である。

 護摩は導入部に書いたように、ゾロアスター教・道教・密教に共通するもので、その意味にはいろいろの解釈があるが、基本的には煩悩の焼却と不動明王の感得ということになろう。
 護摩行には興味深い歴史がある。

 先頃、私が戸隠の乙妻山に登ったとき、高妻山の手前の峰で山頂の笹原が四角く切り開かれ、角に杉の小枝がさしてあるのに気づいた。
 これが峰入りの護摩行場であった。大峰の奥駆道でもときどき見かける。

 護摩に焚きこむ木には檀木・乳木・添木の三種類ある。檀木は香木のことで、本来は白檀を使うが極めて高価なので、実際には香りのある乳木を利用し、それに抹香の丸薬を投入するが、これも高価な竜涎香の代用である。

 乳木は甘い香りのする乳のある木で、カジ・ネム・桑・柏などが使用され、一本の長さが約20センチに切り揃えられ、香料が塗られる。添木は、火力の補助である。

 乳木に塗られる香料は、ショウガ科のウコンの葉と、沈丁花にシキミ樹皮を混ぜた抹香からつくられる。
 ウコンは、カレーの材料になるターメリックという黄色い色素の原料だが、実は、これは道教のシンボルカラーで、赤とともに道教に欠かせぬ色なのである。(例えば、太平道などの影響による黄布党の乱などに同盟色として使われた)
 これらの香料には幻覚陶酔性があった。

 古くは、これに麻の芽を乾燥させたものを投じた。つまり大麻である。
 今日栽培される麻は、毒成分を除いた品種だが、麻は先祖返り傾向が非常に強く、放置すれば数年で麻薬成分が復活してしまう。

 山歩きをしていると、故意か野生種かは知らぬが、谷あいの小平地などに麻の群生を見ることが多い。私はこのような麻を燃した煙を吸って、「毒性」を体験したことがある。
 私の経験では、色彩感覚が非常に鋭敏になり、時間がゆっくり流れていくような気分になった。とても心地よいものだが、陶酔というほどのものでもない。
 ただ、自己暗示にかかりやすくなるのはまちがいない。

 多用すると性格に凶暴性が現れるという。単に麻薬効果だけなら、麻薬取締法の対象にならないヒカゲシビレタケなどの菌類麻薬に及ばない。
 このような煙を吸って、行者は陶酔と法悦の境地にはいり、大日如来、すなわち宇宙と自分を一体化させるのである。

 古来、道教の漢方医療の影響を受けた修験道には、古い医薬の歴史がある。日本で普及した大衆薬には、山伏の薬が多い。
 大峰には小角直伝とされる陀羅尼助があり、その原料はキハダであって、生薬名はオウバクというが、これは吉野にあるオウバク宗萬福寺というひとつの宗派さえつくりだした。

 木曾御嶽の百草や、山陰大山の練熊もほとんど同じ薬であって、大峰の山伏がもちだしたものであろう。
 これらの薬には、はじめの頃にはケシ汁や熊の胆も含まれていたらしい。百草には明治までケシ科のコマクサが用いられたが、おかげで日本の高山からコマクサの姿が消えてしまった。

 コマクサには鎮痛効果があるが、ケシに比べれば微々たるもので、ケシ科植物にはいくらでも取締法対象外の鎮痛成分の植物があるので、興味のある方は研究されたい。
 くれぐれも、コマクサを採らないでいただきたい。今でも薬草として採集を薦めている図鑑があるのは困ったものだ。

 これらの薬は日本の代表的な大衆医薬になったが、これを行商したのは、熊撃ち猟師のマタギであった。その成分も、キハダ・熊の胆嚢・ゲンノショウコ・センブリなど山伏薬に共通のもので、マタギと山伏の関係を示唆するものである。
 今日、売薬行商の伝統をもつ富山などの地域は、また、マタギや山伏と密接な関係を持った地域であった。


 修験道の危機

 これまで修験道について説明したことは、密教的側面のわずかな一端の概説にすぎない。拙文が目的としたものは、人類史と山岳民俗の観点から見た修験道の風景を朧ろに示すことであった。

 その意味では、いまひとつ神道の側面から説明しなければならないが、実は、これは困難なのである。というのも、役の行者以来の確乎とした両部神道修験道の伝統は、明治維新によって断ち切られてしまったからである。

 本来、修験道は明治以前まで、もう少し神道の側に傾いたものであったらしい。
吉野には水分(みくまり)神社があり、農耕民族による水源地を敬う宗教儀礼として神道の原型になったと考えられる。

 私は、山伏を縄文人の宗教儀礼に深くかかわるものと考えたいが、民俗学者の一般的な解釈は柳田国男・折口信夫説を支持するものであって、以下のような素朴な稲作農耕儀礼との関連を論じている。

 大峰の山上の洞窟で冬篭修行を行った山伏は、春に石南花の花を持って里に降りてくる。
 麓の農民は、この山伏を、極めて強い霊力をもった山の神が憑いた行者として敬った。そして、山伏が花を田に投げ込むことによって山の神が田の神に変化し、秋の稲刈まで農耕を守護すると考えた。

 稲刈の後は、再び山伏が神を山に持ち帰り、今度は水源を守護する山の神としてふるまうというわけである。
 吉野水分(水源)の神は、女の子守神(その本地は毘沙門)と男の勝手神(本地は不動明王)とされ、これから金剛蔵王権現が生じたとされた。

 また、天照大神以下の神社神道の諸神についても固有の儀礼があったようだが、資料が乏しいので説明できない。これも、興味のある方は宮家準の研究書を参考にしていただきたい。

 これらの伝承をもとに考えれば、修験道の土台になった道教・密教・神道ともに弥生人・騎馬民族によって日本に持ちこまれたことも併せ、修験道は弥生人起源の宗教ということになろう。

 しかし先に述べたように、東北マタギなどの山岳民俗に現れる修験道の影響は、明らかに縄文人との積極的な関係を示唆するものであり、この両者が修験道にあってどのような関連があったのかはまだ日本史の謎であって、現段階で結論を見いだすのは困難に思える。

 私自身は、修験道は、渡来人の主流から外れ、仏教の裏街道をゆくアウトサイダー求道者によって創設され、これに加わったのが縄文人の末えいであったという仮説を提唱しておきたい。ただし、明確な証拠を得ているわけではない。
(弥生人・縄文人ともに太古の考古学上の話だと思っておられる方がいるとすれば、それは大きな誤りである。

 騎馬民族は天皇家や源氏平家を生み、武家支配階級の本流となった。例えば、歴史上の名だたる武将に、縄文人の形質を持った人物がどれほどいるだろう。家康など極小数の例外を除けば、ほとんどが騎馬民族と断言できる。

 縄文人・弥生人は町人農民などの一般大衆であって、騎馬民族との間には明確な階級分化と地域分化が続き、婚姻などで融合した例は極めて希である。その体制が事実上崩壊したのは、やっと明治維新によってなのである。

 明治以降も、地域・交通などの諸条件の制約によって、思われるほど混血していない。本格的な混血がはじまったのは交通革命の起こったこの数十年のことにすぎない。
 したがって、日本人の中の渡来人と縄文人の分化は、我々が想像する以上に大きなものがあり、例えば、明治権力の軸になった、縄文人の薩摩人と、騎馬民族の長州人の人相骨相の決定的な違いは、シーボルトやベルツでさえも気づき、すでに幕末に、日本には二つの民族があると提唱しているほどである。

 実際、日本のあらゆる文化伝統を注意深く眺めれば、そこに必ず縄文人と渡来人の違いを見いだすのであって、血液型・抗体・体毛・人相・体型・性格など生理的・精神的な形質にも、明らかな潮流が存在する事実は、最近ますます注目されているのである。)

 中世、山伏が忍者の祖となって、独自の軍事的意味をもっていたのはすでに述べた。山伏の神秘的な力は民衆に大いに恐れられ、武家はこれを大いに利用した。
 ところが、江戸時代を迎えて、社会にはじめてといっていいほどの安定がもたらされると、幕府にとってその存在は脅威になった。

 そこで家康は、脅威をもたらす可能性ある集団に対して彼一流の支配政策をとった。すなわち、将来団結によって社会不安の原因になりそうな集団は、すべて二つの集団に分化してしまったのである。

 そうすれば、それは必ず、団結よりも対立に傾くことを家康は知り抜いていた。
 まず、家康がもっとも苦しんだ一向宗の本願寺を東西の二つに分けることによって、強大な浄土真宗門徒を分割し、対立させた。これによって、真宗門徒は一門の拡大よりも東西の抗争に終始することになった。

 神道についても、天皇家と結びついた白川神祇伯家以外に幕府よりの吉田神道家を創設させた。これも、御師や木地屋などに大きな対立をもちこんだことは民俗に詳しい方ならピンとこられよう。

 他にも、二流併設の事例は多いが、修験道の場合は、以前からあった当山派と本山派の二流以外の宗派を禁じ、彦山派や羽黒派、日光派などもどちらかに加入するよう強制された。
 これによって、修験道の本流はこの二派に絞られたのである。

 余談ではあるが、この二極対立化政策は家康の政道の基本におかれ、もっとも成功したもののひとつであった。これは人間集団を支配するための普遍的な方法であって、権力者の常套手段である。

 例えば、戦後もっとも大きな大衆運動であった原水爆禁止運動がまきおこったとき、社会党と共産党の二極対立があって、共産党が「社会主義国の核兵器は、人民の利益のためのものだから正しい」と主張して運動を分裂させてしまい、それで崩壊してしまったのは滑稽な事例といえよう。

 組合運動つぶしのもっとも効果的な方法が、いつまでたっても第二組合つくりであることを思うとき、対立こそ人間支配の本質であるといえるほど、人間性の本源に迫ったメカニズムであることを理解できよう。
   
 修験道における二極支配も、幕府の狙いどおり効果を発揮し、修験道の発展は停滞し、山伏は当山派と本山派の対立に明け暮れるようになった。したがって、この時期に修験道を輝かせたのは、これら以外の地方の修験者であった。
 槍ヶ岳の播隆、御岳の覚明・普寛などがそうである。

 「神は仏の仮の姿」と考える本地垂邇説を基本においた修験道は、明治初期、「神は仏とは無関係に日本固有の絶対神である」と主張する、「平田国学派」と呼ばれた人々によって、激しい攻撃に曝されることになる。

 政治の安定した江戸中期に、武家ではないが、町人・庄屋・医家など向学心のある比較的恵まれた階層の人々の間に、体系的学問の機運が盛り上がる。
 その対象は今日と変わらぬほどに様々であり、数学などは同時期の西洋のレベルを凌ぐほどの優れた内容をもっていたことが知られている。

 明治になって、長期の鎖国にもかかわらず、非常に短期間のあいだに学問水準が西洋のレベルに追いついた理由は、江戸中期の和学ルネッサンスの蓄積があったからである。
 国文学・歴史の分野でも、古事記や日本書紀の研究志向が生まれ、新井白石らによって議論された。亨保年代に荷田春満によって、記紀を土台にして日本国家の出地を明らかにする研究が提唱された。

 荷田の研究は賀茂真淵に受け継がれ、「万葉集の精神に帰れ」とする復古国学を成立させた。弟子の塙保己一は文献学の開祖となり、国学は日本中のインテリの注目する学問的土俵となった。

 真淵の弟子となった本居宣長は、古事記の研究を集大成し「神道の復権」を主張した。その門人の平田篤胤は、江戸末期を迎えて「復古神道」を打ち出し、「世の中が乱れるのは、武家が神道をおろそかにしたせいだ。天皇に権力を返し、古代の精神に帰ることによってしか日本は救われない」と説いた。

 この説は、武家支配の圧迫に不快感を抱いていた全国の庄屋・町家のインテリ階層に熱狂的に支持され、「再び天皇の世に戻せ」とする尊皇論は、武家支配打倒イデオロギーの根幹になり、明治維新を生み出す原動力になっていった。

 薩摩・長州の人々による権力奪取劇は、維新のほんの一端であって、氷山の頂部にすぎない。その巨大な基盤は復古神道論によって形成されていったのである。ゆえに、維新の真の立役者は、実は本居宣長・平田篤胤という見方もできる。

 島崎藤村の「夜明け前」では、実父の正樹(青山半蔵)のドギュメンタリーに、その様子の一片をリアルに見ることができる。

 ただし、日本国家の原点としての純粋神道を説いた平田説は、紀記神話の虚構を素直に信じた滑稽な奇説である。
 神道をつくった日本の支配階級が朝鮮から渡来し、神話をでっちあげたという真実が明らかにされたのは、昭和初期の津田左右吉の研究が端緒であり、それが弾圧を受けずに自由に語れるようになったのは戦後のことにすぎない。

 だが、いまだに天皇家の虚構性を認めたがらない権威信仰家が大勢いて(とりわけ文部省の官僚に)、すでに証明されたこれらの事実ですら、教科書には決して載らないのである。
(教科書が事実を教えるようになれば、ほとんど狂気の、音による嫌がらせで自己満足する右翼・暴走族の迫害からも少しは軽減されるにちがいない。すくなくとも、人の上に人がおかれるというバカげた妄想から解放されるだけで、どれほど多くの人々が救われることだろう。)

 維新なった明治政府は、開国による欧米列強の圧迫に対抗してゆくために、強大な国家主義イデオロギーをつくりだす必要に迫られた。

 明治政府の中枢にいたのは大久保利通であったが、彼も平田国学の影響下にあり、国学門徒を大勢政府に雇用した。明治政府は、新国家を統一する基本理念を天皇制信仰と、それを理論的に支える神道復権に求めたのである。

 天皇の意味や存在は一般民衆にはあまり知られていなかったので、それが超越的な権威であるという教育からはじめなければならなかった。
 現在も残る稲荷や氏神神社の信仰は、このころ明治政府によって整理統合され、神社神道として権威化したのである。それも天皇信仰の基盤つくりを目的としたものであった。

 かといって、政府官僚が真実天皇を畏敬していたわけでは断じてない。明治天皇の父親の孝明天皇などは偏狭な排外主義者で、開国にあくまでも反対したので維新派にとって邪魔になり暗殺されてしまった。殺害の張本人は、後に天皇制信仰を強力に推進した山県有朋と井上聞太だったといわれる。
 天皇は、国家主義のために利用されたにすぎないのである。

 (ついでに書いておくと、天皇家は狭い婚姻関係のなかで遺伝的に劣性因子が発現しやすく、孝明も明治も凶暴な異常性格だったといわれる。手をやいた政府は、山岡鉄舟などという怪物を養育係に任じて体裁を繕わせる。

 大正天皇が生殖能力を欠いていた事実は密かに語られてきたが、皇后には当然子が生まれず、なぜか女官に子が生まれ、それが昭和天皇になった。その父が誰であるのかをフライデーやフォーカスが追求していないのは情けない。)

 明治政府は、天皇制の優越至上を宣伝し、その根拠を紀記神話による神道理論に求めた。仏教は神道よりも下におかれねばならず、神道理論につじつまが合わず、都合の悪い神仏習合の両部神道は破壊してしまわねばならなかった。
 修験道は、全国の山岳信仰である両部神道を代表していたので、平田派による弾圧によって、突如存亡の危機に瀕する。

 1868年(慶応4年)、明治政府は神仏分離を強制する布告を次々にうちだした。これに力を得た平田門徒の影響を受けた民衆は、江戸時代、幕府権力の末端役場として戸籍管理、宗門管理などに機能させられていた仏寺への反感もあいまって、激しい廃仏棄釈の嵐のなかで仏教破壊に走った。
 両部神道の権現寺は、神社か仏寺のどちらかに帰依するよう強制された。山伏も、神官か僧のどちらかか、さもなくば還俗するよう強制された。
 天台宗系本山派の熊野三山は、神社になり、真言宗系吉野金峰山寺も金峰神社に包摂された。残った勢力は、本山派は天台宗の僧に帰依し、当山派は真言宗の僧に帰依していった。

 修験道は滅亡させられたかに見えた。
 しかし、山伏を吸収した仏教各派のなかで、どうしても仏教系の宗風になじめない修験者によって再興の機運が何度も起こった。
 だが、天皇制の思想的弾圧は強化される一方であり、それらが実体上復権できるのは、太平洋戦争の敗戦によって天皇が神の座から滑り落ちる日を待たねばならなかったのである。


 修験道系の民衆宗教

 修験道の主流であった本山・当山の勢力は明治維新に邪教として弾圧され、新政府によって宗教活動を禁止された。両派の行者は密教系の僧か神社の神官に転向させられ、習合神道の宗風は絶え、国家神道がそれにとって代わった。

 しかし、弾圧の網から漏れた小さな修験道系の宗派は、伝統ある山岳信仰の講中組織(霞・檀那)を基盤として、修験の宗風になじんだ民衆に支持され、かえって独自の発展を遂げることになる。

 白山・御岳・立山などの山岳信仰は、民衆生活の数少ないリクレーションの場として大切に継承されてきた。それは、明治政府の一夜の政令によって消滅してしまうほど脆い伝統ではなかった。

 ただし、富士講のように、もともと修験道から誕生しながら、後に平田国学派に掌握されて復古神道に傾いたものも少なくなかった。

 江戸を本拠とした不二道・実行教・扶桑教・丸山教などの富士講宗派は、明治以降、国家神道の忠実なしもべとなり、仏教排斥運動の主役として荷担した。
 また、御岳教のように、弾圧を恐れて本来の修験道の教義を捨て、国家神道に迎合する変節を遂げたものもあった。

 修験道の影響を受けた神仏習合系の民衆宗教の先駆となったのは、尾張熱田で1800年前後に勃興した「如来教」である。

 熱田区旗屋町の修験道講元に生まれたキノと呼ばれた女性は、幼くして両親と死別した後に中村区鳥森町の親戚に身を寄せたが、貧苦のため尾張藩士の家に女中奉公をする。

 奉公を辞した後に結婚に破綻し帰農したキノは、47才にして突然神がかりになり、「自分に金比羅大権現が宿った」と宣言した。

キノは祈祷術に優れ、病気や不和に苦しむ人々を大いに救った。キノの名声は尾張一円に広がり、如来教と名付けた宗派を成立させ、尾張藩士まで多く入信した。このあたりの事情は、天理教の中山ミキに似ている。

 キノの死後、教団は繁栄したが、明治維新の修験道廃止令によっていったん解散する。明治9年、曹洞宗の僧によって再建され、再び活動を開始したが、その教義に神仏習合が色濃く残っていたために、政府による神道統制によって弾圧された。
 
 天理教も幕末に生まれた修験道系の新教である。教祖の中山ミキも、如来教のキノや大本教の出口ナオと同じく天保年間に神がかりし、「自分にテンリンオウが宿った」とした。

 ミキは、富裕な中山家を施しによって零落させ、極貧の生活をおくり、ミキの祈祷にすがって集まってきた人々を救った。後に、吉田神道家の配下にはいり、「天輪王明神」として幕府に公認された。

 明治維新を迎え、天皇制の正当化のために国家神道が強制されるようになると、すでに確立していた独自の神道教義の変更を迫られ、高齢のミキが18回も投獄されるなどして弾圧されたが、むしろこの時期に天理教は大発展を遂げる。

 ミキの死と前後して、天理教は弾圧を免れるために国家神道に隷属する転向を行った。やがて国家神道下の公認宗教となったが、神話についての解釈の違いを当局に追求され、不敬をちらつかされ抑圧された。

 金光教も、天理教と同時期に成立した修験道系新教である。岡山県浅口郡の百姓、川手文治郎は、中国地方に信ぜられていた金神信仰(陰陽道系の祟り神)の信者であったが、金神の魔から逃れるために本山系山伏について修行を行った。

 1859年、文治郎は神意を聞いたとして金光教を創立した。金神の祟りは心から敬うことで解消でき、禁忌は存在しなくなると説き、民衆の悩みごとの相談にのり神意を伝えた。後に、白川神祇伯家の配下に連なる。
 明治維新後、信者は政府の弾圧を恐れ、国家神道に迎合してゆくが、文治郎だけは「天皇も同じ人間」と公言してはばからなかった。だが、その没後、幹部は本来の教義を捨て、国家神道に隷属する道を選んだ。

 大本教を創始した福知山の出口ナオも、1892年、突如神がかりして「自分に金神が宿った」とした。その教義は、復古農本主義であったといわれる。

 最初、金光教の傘下にあったが後に独立し、信者の上田喜三郎が出口王仁三郎と変名し、後継教主となって大きく発展した。王仁三郎は、もともと修験者であり、優れた呪術能力(霊能)を得て病気治しに霊験を発揮し、信者の熱烈な信仰を得た。

 王仁三郎は、記紀にもとづく国家神道の枠組みに一致する教義を示したかに見えたが、実はこれは見せかけで、その真意は、天皇家を打倒して新しい政治体制を構築することが世治しだとする、当時としては仰天的で激越なものであった。

 大本教は、1921年、大正日日新聞を買収し、大きな社会的影響力をもつにいたり、政府はこれを恐れ類を見ない激しい弾圧を行った。綾部につくられた神殿は跡形なく破壊され、幹部は不敬罪で投獄された。

 後に、1935年にも、近代宗教史上最大の弾圧といわれる第二次大本教弾圧が行われ、王仁三郎が政権奪取を企てたとして大逆罪で投獄され、さらに全国の大本教施設は残らずダイナマイトで破壊され、政府は大本教の地上からの抹殺を宣言した。理由は、大本教が昭和初期の軍部独走に強硬に反対し、反戦平和を訴えたからであった。

 だが、大本教の後継である「成長の家」など多数の教団は、現在では完全に右傾化し、天皇崇拝、軍国礼賛の国家神道系宗派に堕落している。
 
 天理本道「ほんみち」は、明治以降の国家神道の圧力に屈せず、徹頭徹尾、本来の教義を貫き、国家権力と対決した偉大な宗派であった。

 同様に弾圧に屈しなかった教団としては、牧口常三郎の率いる創価学会があったが、修験道系の宗派では、「ほんみち」以外にない。

 「ほんみち」は天理教の幹部であった大西愛治郎が、1913年に、天理教の国家神道への迎合と教義の歪曲についてゆけず独立した教団である。
 この年、愛治郎は教義に行き詰まり、神がかりして「自分は生き神、甘露台である」と宣言した。中山ミキのつくった神話をもとに、天皇家の異端を追求し、それを世間に配布したために、国家権力による激しい弾圧を受けた。

 愛治郎は日中戦争の戦況が悪化するなか、信仰人生の総決算として、死を決して天皇家国家神道に真っ向から戦いを挑んだ。
 天皇制を誤りとする「書信」を全国に配布し、「ほんみち」の信者は全員検挙され、愛治郎は無期懲役・財産没収の判決を受け投獄された。だが、激しい弾圧・拷問にもかかわらず、信徒のうちに一人の転向者も出さなかった。近世、国家権力と真っ向から対決し、屈することのなかった唯一の教団であったといえよう。


 本質から見た修験道

 これまで修験道について述べてきたことは、既成宗教の歴史的範囲での概観であった。これを、もう少し広い観点で、人間の本質にたちかえって修験道の意味を考えたい。
 宗教の本質ということを考えてみたい。

 人が現実の世界でなにごとかの困難にぶつかって、現実の方法で解決が見いだせないとき、現実の外に、いいかえれば空想の世界に解決を見いだそうとし、それが形象されたものを宗教と規定すべきだと私は思う。

 人の心は、目の前に現れるできごとに様々な反応を示すが、それを基本的に3つに分けてみたい。
 ① 対象に積極的に反応する。
 ② 対象を傍観する。
 ① 対象から逃避する。

 人間の力でどうにか解決できる問題には神を必要としない。自分に関係ないことがらにも神を必要としない。しかし、自分の力ではどうにもならない困難が生じたとき、人はなにものかに頼らねばならない。

 他人の力に頼って解決する場合、そこに人間関係について一定のルールが定められねばならず、自分を抑制してそのルールに従属しなければならなくなる。いいかえれば、一人の人間から組織の人間になるとき、そこに自分を抑圧する「人間疎外」が発生する。この疎外が、宗教的精神の原点になると私は考える。

 人間性が疎外され、目の前のできごとに積極的に反応する姿勢を自分で抑圧するようになると、人は傍観を好むようになり、逃避を知るようになる。
 現実の世界に解決を見いだせない悲しみや葛藤は、空想の世界に救いを求め、逃避的精神をつくりだしてゆくにちがいない。

 これが、宗教の本質をなす部分だと私は思う。これは、つまるところ精神分裂症のメカニズムに一致するものである。
 弱い心が、現実の苦しさから逃れたいあまり、空想の世界に甘い桃源郷をつくりだす。これを、マルクスは「宗教はアヘンだ」といった。

 空想的世界の桃源郷とは、キリスト教の天国であり、仏教の極楽であり、道教の仙郷であり、人間精神の活発な想像力は、現世に救いを見いだせぬとき来世に希望を託したのである。
 そうして人々は、この世の苦痛に堪えた。

 伝統的宗教ばかりが逃避的空想の形象なのではない。
 天皇家を頂点とする権威信仰、東大を頂点とする学歴信仰、高度技術依存の科学技術信仰、官僚の権力信仰などコケオドシの数々も、人間の困難を人間以外の疎外されたなにものかにすがるという点で、立派に宗教と規定することができる。

 人は人に頼ってこそ自然なのであって、人間以外のなにかに頼りはじめれば、すなわち、それは宗教である。
 人間性に対して率直であれる、すなわち、コンプレックスをもたない自然な人間性には権威も権力も財産も必要としない。ただ自然な人間関係があればよく、そこに宗教的逃避のつけいる余地はない。

 このように考えるなら、人類の歴史は、自然な人間関係を疎外するなにものかからの逃避の歴史であって、すなわち、それこそが文明の本質であることを示唆しているように思える。

 つまり、文明と宗教は、正常な(差別のない)人間関係を疎外しなければ成立しないという意味で同じものといえるのではないか。
 もちろん、科学技術の虚構の上に構築された現代文明も、宗教の本質を免れることはできない。

 人間社会における最大の人間疎外要因は「差別」であった。差別こそ、文明の本質といえるのではないか。

 修験道にたちかえってみよう。

 修験道の本質をなすものは、行者が自身を錬磨し、超能力を身につけることで人々の苦悩を救うとする部分であろう。山伏は、スーパーマンになることをめざしたのである。

 それは、苦悩からの逃避というにはあまりに激しく、歴史的にみても、権力と結びついた権威理論というよりは、むしろ軍事集団であった場合の方が多い。すなわち、日本のあらゆる宗教を通じて、もっとも実践性の高いものであった。

 それは例えば、偶像・伽藍崇拝の側面が少なく、呪術や医薬開発などに成果をあげた道教的側面にも端的にあらわれている。
 修験道にかぎっていえば、その本質は、宗教から現実の側に数歩も踏みだしたものだといわねばならない。それは、逃避的世界の範疇を免れることはできないが、すくなくとも民衆を抑圧の構造に固定する役割を担うものではなかった。

 また、修験道が民衆のなかに果たしていた役割のなかで非常に重要だと思われる部分に、ハイキング登山案内がある。日本の登山史の大部分を修験道が占めていたのは疑いなく、近代にいたるまで、民衆登山はすなわち修験道であった。

 修験道の教義には来世救済の思想はなく、徹底的に現世利益を求めるものであって、呪術・医薬・ハイキング登山を通じて実際に民衆を救うものであった。つまるところ、修験道は宗教の体裁をもってはいても、その実体はすでに宗教を超えていたといえるのではないだろうか。

 私には、修験道集団が、中国の太平天国や黄布党の革命集団にダブって見えるのである。鎌倉幕府以来の中世に幕を下ろし、近世の扉を開いたのは織田信長であったが、戦国の世に山伏の果たした役割が、近世の幕開けにどのような意味をもっていたのかじっくり考えてみたいと思う。

修験道 その1

 修験道  92年2月著 その1

(これを書いてから25年も経て、今では内容を変えるべきと思う箇所も多い。
 私は、これを書いた当時、修験道が密教であり、それは利他行よりは利己行の性格を帯びたものであり、大多数の民衆の幸福を祈念するという大乗仏教というより、むしろ個人的救済を求める小乗仏教の性質を強く持っていたと考える。
 学問的には密教は大乗に包摂されているが、私は誤りであると考えた)
 

 日本の高峻山岳に初登の栄誉を求めて登った岳人や測量者たちは、人跡未踏と思われていた日本屈指の険しい山々、例えば北アルプスの剣岳などでさえ、苦難の登頂に成功して喜んだのもつかのま、山頂にまさかと思われる修験道の遺物を発見して愕然とした。

 私自身、20年このかた日本全国の数百の山を歩いた経験からいっても、どの地域の山へ行っても、山岳信仰やその痕跡を見いださない場所はないといっていい。このことは、おおかたの山歩き愛好家が同意されるであろう。

 日本ほど豊かな食糧をもたらしてくれる山野に恵まれた地域は地球上に決して多くないのだから、山岳地帯に人間生活に伴った歴史的遺物が多く残されていても全然不思議でないのだが、それにしても隅から隅まで、よくもこれほどの宗教遺産が存在するものだと感心できるほど多く、かつ古い伝統をもっているのは、山岳信仰こそ日本文化の特異な本質に関わるものといえるかもしれない。

 そのような意味で、山岳信仰については民俗・考古学者の関心を集め、これまでにも優れた研究書が多く出版されているが、一般受けする面白さには欠けるので、山旅を好む人々に読まれることも少なかった。

 だが、山旅愛好家が、単に歩くことに満足するのでなく、人と山との歴史的な交歓の視点に気づくようになると、自然の野山にすぎなかった光景の背後に、山岳信仰の巨大な歴史的骨格がおぼろげに見えてくるのである。

 それは、まるで、路端のつまらぬ石コロがダイヤモンドの大きな原石であることを知ったときのように感動的である。そこには、麓の里人にさえ知られぬ謎に包まれた特異な宗教的風景があった。
 また、それは日本国家の成立にも関与した考古学上のミステリーも含んでいる。山岳信仰こそは、柳田国男が最後までこだわった縄文式文化の継承者としての日本先住民(山人)の謎に迫るものであるともいえるかもしれない。


 先史、古代史から

 おそらくは数十万年も前からインドネシア・ジャワ島付近にあったはずの巨大島に棲息したと思われる人類の祖先(ホモエレクトス・ピテカントロプス)の子孫の一群は、ユーラシア大陸東部を北上してモンゴロイドとなった。

 また別の一群は、黒潮海流に流され、あるいは航行して北上し、台湾・南西諸島や日本列島東岸沿いに棲みつき定着した。ここで、リス・ウルムの氷期に接続した大陸から渡来した人々と混血を重ね、今日、縄文人と呼ばれる日本先住民になったと考えられる。

 海洋系ともいえる縄文先住民の外見上の特徴は、乳児の蒙古斑が少なく、ねばっこい耳垢をもち、体毛が濃く、四角い顔に大きな目と二重瞼をそなえ、その彫りは深く、額と鼻の間の明確にくぼんだ特徴をもった人々。
 性格は、あまり我慢を好まず即物的であるが、ツングース地方で寒冷地適応を受けた騎馬民族系モンゴロイドに比較すると、対照的にひどく気が小さく、優しい。

 だが、一方で古い時代から食人習慣をもっていたのは、一種の離脱精神に陥りやすい、つまり暗示にかかりやすい特徴があったからのように思える。

  台湾山岳部や南西諸島、隠岐島などの離島、あるいは中部・東北の日本海側の山村に、いまだこの形質を色濃く残した人々が大勢いる。アイヌ民族もまたそうであるが、むしろ、これらの人々は、アイヌと総称しても誤っていないほど、言語・地名・民俗など古代アイヌ文化に包摂されていた。

 彼らのうち、さらに北上したものはアイヌ族として北海道・千島・樺太に定住し、また、その一部はベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に流入し、今度は南下して南アメリカにまで進んだ。今日、インディアンと呼ばれる南北アメリカ大陸先住民がそうである。

 アルゼンチンやチリには多くの縄文遺跡が発掘されていて、これがベーリング経由か、太平洋経由なのかについては議論が分かれている。 原住民の形質は縄文型日本人とほとんど変わるところがない。

  だが、現在のようにラテン形質が普通になってしまったのは、近世のスペイン人による残酷な侵略によるものであって、コーカソイドの形質が移入されから、まだ400年ほどしかたっていない。

 縄文人は、海岸から深く野山に分け入り、日本列島中北部の落葉樹林帯のなかで小規模な集団で採集遊猟の生活を営んでいたと考えられ、石器の材料や食料を求めて、非常な奥地にまで生活圏をひろげていたことが知られている。(たとえば、八ツ岳周辺は、縄文石器文化の一大中心地であった)

 彼らが深い山奥で、天を突く高峰に神秘的な神格を見いだしたであろうことは想像に難くない。
 しかし、言語記録のない時代ゆえに、当時の山岳信仰を正確に調査するのは困難である。今日知られる縄文信仰遺跡は、各地で発掘される土偶や骨角器・石板などの呪具、信州周辺で見つかる配石遺跡などがあげられるが、その具体的な意味はよくわかっていない。

 紀元前五世紀から紀元三世紀にかけて、米作農耕生活を基本とし、高度な漢字記録文化を身につけた大陸モンゴロイドの弥生人や騎馬民族が、黄海や朝鮮半島からやってきて日本列島南西部(九州・山陰・瀬戸内海沿岸・畿内)の常緑広葉樹林帯の湿原平野に流入し定着すると、彼らは稲作文化にともなう土俗信仰をもちこんだ。

 弥生人とは、3000年ほど前に、雲南・チベット・ブータンの山岳高地に居住していた人々が、楊子江下流の呉越地方に勢力圏を広げ、その後、2500年前の呉越戦争などで日本に避難した人々の末裔ではないかと私は考える。

 彼らの最も基本的な特徴は、モチ米系の稲作を主作物とし、アクの強いドングリをもつ照葉樹林帯に依存して生活した人々であって、背負い型ではなくテンビン型の運搬をし、イロリではなくカマド型の炊飯をし、極めておおらかな性生活(例えば夜這い習慣のような)をエンジョイし、歌垣を楽しみ、法や道徳に縛られない自由な生活風俗をもっていたと考えられる。

 人相は、タイのミャオ族に見られるように、大きなぱっちりとした目、厚い唇、丸い顔、鼻梁上部は凹み、鼻のアグラは大きい。全体に小柄で、性格は天真爛漫で心も広いが放縦である。 西日本から太平洋岸で一般的な顔立ちであろう。

 今日、四国山岳地帯や愛知・静岡県山岳部に特異的に見られる山岳高地の尾根に設けられた家屋に居住する木地屋やサンカの子孫は、民俗上の共通点から雲南系の高地族の直接の子孫であるような気もしている。
 雲南の食習慣である、味噌・納豆・モヤシ・コンニャク・餅米・木地椀・轆轤などが直接継承されていることがそれを端的に証明しているし、人相・性格も実に似ているからである。

 それに対して、3世紀から8世紀、古墳時代を築いた朝鮮半島系の渡来者である騎馬民族の子孫は、その圧倒的な教養と武力で、たちまちのうちに日本列島の支配階級に君臨し、武家階級となった。

 彼らは、フヨ(扶余)呼ばれ、始皇帝の秦の子孫を自称した満州(文殊)地方の騎馬民族と同一の流れの人々と思われ、典型的な寒冷地適応の北方モンゴロイドの特徴を備え、乳児に明確な蒙古斑があり、体毛は薄く、のっぺりした寒気に強い顔立ちで、眉と鼻の間が狼のようになめらかでケルト人のように高く、ややつりあがった切れ長の目と一重瞼の人が多い。

 また、長州地方に典型的に見るように、長頭形の頭蓋骨をもつ人も多い。耳垢は乾燥型であって、性格は極めて我慢強く理性的で、戦争を得意とし、支配階級に向いている。ひとことでいうなら、朝鮮人の形質である。

 今日、その最も典型的な人相風貌を保存している古家が天皇家である。
ツングース系モンゴロイドは、朝鮮半島以外にも、沿海州から津軽地方と交流があったことが知られていて、東北地方の人種形質に関与していると思われるが、大和朝廷との関係については明かでない。

 日本には、朝鮮の戦乱によって、8世紀頃まで渡来人の大規模な流入が相次いだ。百済などは、新羅に攻められて事実上国ごと日本に移住し、言語文化能力に優れた人々が多かったので渡来地でも敬われ、大和朝廷権力に加わった者(あるいは乗っ取った?)も多かったと思われる。
 
 それどころか、実は、日本という国家、つまり大和朝廷は、唐の国書(旧唐書)に、朝鮮半島に存在していると記録されている。日本は、国ごと朝鮮から移住したとさえ考えられるのである。

 このことは、弥生人国家であった日本列島の「倭」を、騎馬民族の大和朝廷、つまり南朝鮮にあった「日本」が乗っ取ったようにも思われる。

 別の視点では、「倭」とは南朝鮮から九州山陰の広い範囲の海岸住民を指す形容で、我々が考える日本人のカテゴリーとは、まったく異なる存在かもしれない。

 騎馬民族が日本列島に洪水のように数次にわたって流入した理由は謎だが、当時、中央アジアから朝鮮半島にかけて猛威をふるった同じく騎馬軍団・匈奴やエベンキ族の圧力に押し出されたと考えるのが妥当であろう。

 修験道をかたちづくる土台の、民族的考察はこのようなものであり、すなわち、修験道が、どのような渡来人によって日本列島にもちこまれかを理解することができよう。少なくとも、これは縄文先住民のものではなかった。

 渡来系民族の信仰のうちで、もっとも大切なものは、稲作の成否にかかわる水にまつわる信仰であった。それは水分(みくまり)信仰と呼ばれるもので、水源地帯の山の神々に豊穣の願いと礼を捧げるものである。

 これが、農耕社会における山岳信仰の原初的形態であっただろう。この信仰が神道の原型になったと思われ、西日本や畿内には水分神社が多く残っている。

 しかし、弥生文化には、縄文文化には見られぬ一定の様式を備えた宗教儀礼が成立していたと考えられる。
 例えば祭器を見ても、銅鐸・青銅鏡・剣・矛など精密多様であって、呪術などが著しく発達していた様子は、中国の史書などからも窺うことができる。

 また、かなり早い時期から、大がかりな古墳造営や呪術が知られていたことは、彼らのうちに、すでに自然発生的土俗宗教を超える宗教イデオロギーが成立していたことを示している。

 騎馬民族が朝鮮半島から移住した当時、すでに中国・朝鮮は周・秦・漢・三国・唐などの封建的王朝支配が確立していて、唐代に道教として体系化される土俗信仰も、それらの王朝の庇護を受けて一定の様式で確立していたにちがいない。

 それらの文化の影響下にあった移住者たちは、日本海を渡る海運能力も含めて、分業社会組織による国家主義観念をもち、漢字による言語文化、祭礼宗教文化などを成立させていたであろう。それは、最初から儒教・道教のイデオロギーに影響された高度に組織的、観念的なものであったと考えられよう。

 日本先住民の縄文人は、その当時、国家主義観念を成立させるほど成熟しておらず、原始共産主義に近い母系氏族社会を形成していたと考えられ、つまり、共同幻想としての自分達の帰属する国という観念はなく、あえて帰属を意識するとすれば、自分達の集落単位のグループ程度ではなかったか。

 したがって、彼らの世界観は、アイヌ民族がそうであるように、断じて私物化されざる母なる大地と、「ウタリ」すなわち仲間達がすべてであって、権力を必要とせず、したがって共同幻想たる絶対神も必要としなかったのである。

 ゆえに、生産・戦闘などの民族的能力で、農耕によって集団力を鍛えあげられた弥生人には及びもつかず、最初に弥生人、後には騎馬民族の侵略にあっけなく山奥に追い散らされていったにちがいない。

 その一部は農耕文化を受け入れ、弥生人(倭族)の国家社会に帰属していったであろうが、弥生人権力社会に隷属するのを潔ぎよしとしない誇り高き部族は、主に中部・東北の山岳地帯に拠点を構え、蝦夷(えみし)と呼ばれ、弥生人の国家に強力に対抗した。
絶対神すぐれて絶対権力をもちこんだ渡来人と、私物観念のない、したがって権力を必要としない縄文人は、決して相いれぬものだったのである。

 彼らが国家権力に屈服するのは、騎馬民族、大和朝廷国家が幾多の内紛を経て強力に成立し、鎌倉幕府の武家戦闘集団の出現まで待たねばならない。さらには、元の侵略によって極度に強靭化された武装権力の出現によって、鎮圧されたのであるが、蝦夷のうちのアイヌ族は、北海道に逃れ、江戸時代初期まで独立した強力な氏族社会をつくっていた。

 弥生人部族国家は、騎馬民族の流入とともに彼らの支配下に入り、そのうちの最強の王が朝廷の大君という地位を確立し、9世紀には天皇を名乗るようになり、日本(南西部)の支配権力として揺るぎのない地位を確立し、大和朝廷として独立国家権力を成立させることになる。以降、彼らは、今日まで一貫して日本の支配階級として君臨するのである。

 彼らは、中国王朝との国交樹立に際し、属国ではない独自性を主張するために、性急に史書(古事記・日本書紀)を編纂し、史書の内容に合わせて記録を改ざん破棄した。(神皇正統記に記述されている)また、朝鮮からもちこんだ道教的土俗信仰を記紀にミックスさせて独自の宗教を成立させ、これが神道と呼ばれるようになる。


 道教

 騎馬民族の権力信仰の象徴とでもいうべきものは、古墳であった。古墳は、強大な国家権力の成立にともなって、道教の山岳信仰がもちこまれたものと思われ、朝鮮・中国の倭族の影響下にあった地域にも多く残されている。

 その意味は、道教が山岳修行によって不老不死の永遠の生命と超能力を獲得すること、つまり普通の人間の超人化を目的とするものであったことから、死んだ権力者を古墳という人工山岳に移して葬ることにより、甦りを期待するものであっただろう。

 あるいは、断片的に中国に伝えられていた仏教の転生輪廻の思想もミックスされていたかもしれない。いずれにせよ、古墳に葬られた王は、再び王として甦ることができると考えられたにちがいない。

 このような、権力者の遺骸を巨大構造物に保存して再生を願うという信仰は、エジプト・ピラミッド文明やメソポタミア文明、インカやアステカなどの古代文明にも一様に見られる。
 中国における道教の再生思想も、死者に赤い衣を着せ(赤は甦りを意味した)、防腐剤として朱砂(水銀)で覆い巨大墳墓に葬った。ただし、広大な平野を舞台とした王朝に、山岳墳墓の発想はない。

 日本で、還暦を迎えた老人に、赤いチャンチャンコを着せて祝う風習は道教のものだし、還暦そのものも、道教の形而上学である陰陽五行説によるものである。また、埴輪・絵馬・人形(テルテルボウズなど)・鬼・龍・化物などの形而的信仰も道教によってもたらされた。

 さらに、神道伝承の舞台が高千穂のように山岳地帯であるのも、道教の発想といえよう。神道自体、道教を原型としていることが明らかだが、道教文化のなごりは、日本の民衆生活のいたるところに広がっているのである。

 道教は権力史にも大きな影響を残している。例えば「天皇」という呼称は、8世紀末の中国派遣使節によって、道教の神である「天皇大帝」が持ちこまれたものであり、それは、天界の星座のうちで唯一不動の中心である北極星を意味するものであった。

 それまで、天皇は「大君」と呼ばれていた。また、三種の神器も、道教の護璽器であった鏡と剣に玉を加えたものである。
 道教は、中国使節によって何度も日本に持ちこまれたと思われるが、体系として日本には定着しなかった。

 それは、おそらく同時期に仏教(密教)がはるかに魅力的な体系として輸入されていたことに加えて、中国支配階級のイデオロギーであった道教を日本で普及させれば、最高位の神が中国に存在し、したがって日本の最高支配者も中国の皇帝であることにされてしまうのを恐れ、抑圧したのではないかと思われる。

 道教の本質を端的にいえば、普通の人間が山岳地帯で修行することによって超人的な仙人になり、不老不死の生命を得て、呪術によって人々を救うというものである。

 これが他の大宗教と異なるのは、神になるのは普通の人間であって、キリスト教のゴッドのような絶対的存在が想定されていないという点である。(最高神に近いものも想定されてはいるが、極めて多様で不安定である。)

 これには、明らかに当時中国に伝えられ、独自の進化を遂げた密教の影響が含まれているように思える。
 密教は大乗仏教の中の一宗派という考え方が常識的だが、本来の意味を考えれば、私は容認できない。

 大乗の本質を「利他行」と捉えるなら、密教は必ずしも利他の教えに沿っていない。むしろ、特定の集団や個人の異能を開発するという意味で小乗に近いものであるような気がする。

 釈迦の唱えたような大乗仏教の哲学規範による民衆全体の救済志向(顕教)とは異なり、修行者個人の超人化に主点をおく密教の思想が道士・道術の発想に色濃く現れている。

 紀元前後の中国思想形成期には、密・儒・道が相互に不可分の影響を与えあったと見るべきであろう。

 道教の呪術(道術)にともなう護摩行も、密教と同様、オリエント文明のゾロアスター教(拝火教)の護摩焚きがシルクロードによって伝えられたものであると考えられる。
 つまり、道教や密教もまた、シルクロードの交易のなかで、多様な思想が混ざりあったるつぼのうちに結晶したものであるといえよう。

 道教は、中国に古くから伝承された自然発生的な土俗宗教である易経・陰陽道・五斗米道・太平道などが、3世紀頃に「道蔵」として体系化され、当時の中国支配階級の庇護を得て体系的宗教として成立した。

 老子は、孔子らの儒学への批判のうえに道学を構築したともいわれるが、その形而上学は、儒教と同じく弁証法的な事物現象の陰陽二元論と、当時発見されていた五つの惑星の運行に帰納する「陰陽五行説」であった。
 その不老不死願望は、漢方医療の源流となり東洋医学の基礎をかたちづくった。始皇帝に派遣された徐福や華陀の伝説にもそれを知ることができる。


  ゾロアスター教

 道教や、同時期に中国で体系化された密教に見られる拝火思想は、オリエント文明の古代ペルシャ(イラン)に、紀元前5世紀頃に成立したゾロアスター教の影響を濃厚に受けている。

 ゾロアスター(ザラスシュトラ)の説いた宗旨は、世界には善なる光の神アフラ・マヅダと、暗黒の悪の神アーリマンが存在し、絶えず争いを繰り返しているとする単純明快な二元神論である。光の神を信じ善行を重ねれば天国に導かれ、暗黒のうちに悪行を行えば地獄に落とされるという。

 したがって、ゾロアスターの宗徒は闇を恐怖し、光を求めて絶えず火を焚くことになる。つまり、拝火教といえる。あるいは、ゾロアスター宗徒の焚火による森林破壊が、メソポタミア地方の砂漠化に関与していたかもしれない。

 人類最古のメソポタミア文明が成立した頃、西域には非常な数の猛獣が徘徊していた。当時、欧州やインドまでもライオンやハイエナの王国だったようだ。それどころか、史上最凶暴の猛獣であった剣歯虎さえも、最後の生き残りの遺骸がこの時代の地層から発見されている。

 それらが闇に出没して人々を襲い続けたにちがいなく、民衆は防衛のために火を焚き続けなければならなかったであろう。その習慣が、やがて拝火思想となっていったと思われる。

 これがシルクロードによって中国に伝えられると、道教・密教の護摩焚行になり、さらに日本の修験道にも取り入れられるのである。

 アフラ・マズダを崇拝する儀式には、牛を犠牲として捧げ、ハオマ酒を供える。ハオマ酒には麻薬成分が含まれている。それはデューラ・ウシャと呼ばれ、その意味は「遠くを見させるもの」、つまり幻覚陶酔作用を示しているとされる。

 ゾロアスターの宗派に「アサシン」という教団がある。これは暗殺を専門にする教団で、ハオマ酒に耽溺した者を刺客にしたてた。つまり、麻薬の力によって暗殺者をつくったのである。
 この教団の名が、暗殺(アサシネーション)の語源となった。また、不思議な術を用いるアサシンの司祭をマギと呼び、マジックの語源となった。

 アサシン教団は、現在でもイランに存在しているといわれる。先頃、ホメイニによって暗殺宣告された作者による「悪魔の詩」の翻訳者であった筑波大学助教授が、アサシンの伝統的な暗殺手法である「ナイフによる頚動脈切断」にのっとって首を切られて殺されたが、これには明らかにアサシンの影が見え隠れして不気味である。日本には、大勢のイラン人が流れこんできている。

 松本清張は、現代に生き残るゾロアスター宗徒の儀式に立ち会い、司祭のつくったハオマ酒を飲んだ。それにはアルコール分は含まれず、赤っぽい茎をつぶした汁が主剤だったという。原料を問うと、司祭は「フーム」と答えたが、それがなんであるのかは教えなかった。

 ハオマ酒の原料については諸説あり、ザクロの根とする説が一般的だが、耽溺性の説明にはなりにくい。耽溺性麻薬の原料は当然ケシであり、ついでコカがあるが、コカは南米原産で、この時代イランにあったとは考えにくい。もうひとつ、漢方の葛根湯に処方されるマオウがある。この主成分はエフェドリンだが、これを覚醒剤メタンフェタミンに変えるのは容易である。

 ザクロは中近東原産で、その根は漢方で石榴皮と呼ぶ生薬である。主に寄生虫の駆除に使用するが、古代では極めて重要な薬だっただろう。ただし、毒性の副作用があるという。あるいは、幻覚作用も含むのかもしれない。

 古代ガンジス文明の、アーリアン教の聖典「ヴェーダ」に登場するソーマ酒も、ハオマ酒と同じものだとする説がある。ソーマ酒の原料についても諸説あるが、ベニテングタケ(幻覚成分ムスカリンを含む)、あるいはインド大麻とするのが有力だが、おそらくはケシを含む複合的な幻覚麻薬剤ではなかっただろうか。

 これらがシルクロードによって東方に伝えられ、道教・密教・修験道の護摩行のうちに陶酔性薬物が使用されるようになった。シャーマニズムには、薬物による陶酔が不可欠なのかもしれない。


 神道

 5世紀頃、仏教が日本に渡来すると、すでに一定の様式が成立していたいた道教的な稲作信仰儀礼と融合しながら修験道の原型となった山岳宗教が発生する。

 持ちこまれた仏教は、釈迦の哲学の普及による民衆救済をめざした大乗仏教(顕教)の法華経典だったと思われるが、実際の解釈は、すでに中国において主流を占めていた自己修行に重きをおく密教であっただろう。

 小乗とは乗り物が小さいという意味での大乗側からの蔑称であるともいわれる。
 本来、密教は大乗仏教のなかの宗派であるが、その内容は極めて小乗的、閉鎖的なものであって、本来の、あらゆる輪廻転生を容認し、利他思想を根源とする大乗仏教とは言い難い。

 密教側でも、それ以前の大乗小乗の枠を超えた第三の教えであると称するようになり、いわゆる大乗としての密教という概念は、おそらく誤りであろう。

 日本では、鎌倉時代に顕教が大衆化されるまで、仏教といえば密教であり、空海がその体系を輸入するまでは雑部密教と呼ばれ、呪術による現生利益を求めるという点で、本質的に道教と変わることのない土俗的なものであった。

 密教の特徴は、曼陀羅に見られるように非常に多数の仏が存在し、自分に縁をもった仏の元に修行して即身成仏するというものだが、本来、釈迦の説いた教義には四天王など多数の仏は存在せず、また伽藍儀式や偶像仏崇拝とも無縁であった。

 四天王や阿弥陀などは、もともと中央アジアの土俗信仰であり、それが中国の事大主義によって仏教を修飾し、道教の土俗的な神々とも結びついて権威主義的な密教の体系に変わっていったのである。

 輸入された仏教は朝廷権力と結びつき、百済人であった蘇我氏や聖徳太子の一族の強力な支援を受けて事実上国教となり、飛鳥・天平文化のうちに大きな華を咲かせるが、古墳時代後期から朝鮮渡来人によって形成されていた大和朝廷は、仏教などの中国文化の輸入にともなって、中国王朝、とりわけ強大な中央集権国家主義を確立した唐の領土拡大主義の圧迫に苦しまねばならなかった。
 
 中国王朝は唯一最高の支配権力であることを欲し、朝鮮などの近隣諸国を属国と見なしていた。したがって渡来人による大和王朝も中国の属国ということになり、それが侵略の口実にされる恐れがあった。
 だから大和朝廷は、中国との国交を開くなかで、中国に対して独自の歴史をもった由緒ある独立国であることを示さねばならなかったのではないか。

 7世紀から8世紀にかけて、朝廷はあわてて独自の歴史を示す史書(古事記・日本書紀)の編纂を強引に行い、遣唐使によって中国に送った。都合の悪い、天皇家の朝鮮渡来の事実関係を隠ぺいする作業も行った。

 さらに、中国の侵略に備えて国力を充実させ、それを示威するために、日本中北部の蝦夷(えみし)も平定し、領民として税を収奪する必要に迫られた。

 宗教についても、大和朝廷の正当性を主張するために、当時独自の発展を遂げつつあった密教に古事記などの史書との整合性を求め、弥生時代から伝えられてきた土俗的信仰を基盤として、中国文化から独立した権威ある新教をつくりだす必要があった。

 9世紀、天台宗は山王一実神道をつくりだし、真言宗は両部神道をつくりだした。神道における神々は、大日如来以下の諸仏が姿を変えて(権現として)現れたものにされた。これを本地垂邇説といい、仏教系神道の本質をなしている。
 ここに、道教の濃厚な影響下で稲作農耕にまつわる水分(みくまり)などの土俗的農耕儀礼を発展させた信仰に、はじめて「神道」という名が与えられることになった。
 ゆえに、神道の原点は稲作祭礼であるが、宗教となったはじまりは、神仏を同じとした権現信仰であった。神道は仏教によって形造られ包摂された。

 これらが仏教と一線を画した独立した宗教体系として成立したのは鎌倉時代の伊勢度会(わたらい)神道とされるが、実際に今日見られるように仏教から独立した神社神道が確立したのは、明治政府による作為的な国家神道の強制によるものであった。

 明治政府は、江戸時代、武家支配権力に苦しんだ被支配階層から登場した、本居宣長・平田篤胤らの尊皇復古思想を、維新による激動のなかで政権安定の基盤に利用しようとした。

 それは、欧米列強に対抗するための強大な国家主義を確立するために天皇信仰を利用したのであって、天皇制を神格化し、宗教イデオロギーによる日本統一を図ろうとしたものであっただろう。

 その目的のために、古来からの神道である神仏習合の権現信仰を破壊し、仏教を堕しめて神道を独立純粋化し、天皇制を唯一至高の価値として最高位に位置づけ正当化しようとしたのである。

 明治初期、平田国学徒による排仏棄釈の嵐はすさまじいもので、苗木藩(岐阜県中津川市)や石川県白峰地方のように、再建が絶望視されるほど藩内の寺院をすべて破壊し尽くしたところさえあった。

 また、冨士講のように、修験道でありながら宗派対立のために平田派にくみして習合神道を敵対視するようになった宗派もあった。純粋神道と唱えてきた伊勢度会派や吉田派神道も、情勢に便乗して仏教破壊に走った。

 習合神道を代表した修験道は、天皇の権威に敵対する邪教として憎まれ、その活動を禁止された。それらが、実体上復活できたのは、天皇が神の地位を滑り落ちた戦後のことである

 歴史上、神道を最初に確立したのは密教系の仏教宗派であったが、仏教は民衆の平和を願うものであり、戦争を正当化できる思想ではない。

 ところが、古代権力の確立したこの時代、国家主義あるいは覇権主義の目的で、中部東北の縄文人の末裔を征服するために戦闘的なイデオロギーが要求され、かつ中央集権権力の正当化のために、唯一の絶対神を必要としたと思われる。

 そこで、戦争と民衆管理に必要な「神」の思想が生みだされたと考えるのは不自然ではない。「神」は、いつでも、どんなときでも、戦いと管理のために生まれるのである。

 かつて両部神道の影を色濃く残した天台密教=比叡山も、戦前、国家主義に迎合して戦争を翼賛して大失敗したのに懲りず、再び、今、戦争推進の日本会議に加わっているのも、その例というべきだろう。

 神道には体系的教典がないが、あえて原典というなら、それは8世紀に編纂された紀記である。これは、中国に対して天皇家の独自性・正当性を主張するための史書であり、都合の悪い事実はすべて切り捨てられ、王権の元祖を紀元前6世紀におくなど、相当部分がひどく捏造されたものであった。

 いずれにせよ、記紀の虚構から神道の枝葉が伸びていった。しかし、実体として神道が成立するのは平安時代の山王・両部(習合)神道であり、体系化するのは鎌倉時代の度会神道である。今日見られる神社神道は、室町時代の吉田神道によって築かれた。

 平安時代に、延喜式という政道百科事典がつくられ、神社の格式が定められたが、神社神道が明らかに成立したのはこの時代であって、それ以前のものには明確な根拠がない。しかも、そのほとんどは権現信仰にもとづくものであって、仏教に包摂され、仏教の下におかれたものであった。

 ただ、権現造りと呼ばれる神社も含めて、拝殿の建築様式は、米作農耕のために浸水しやすい湿地帯に住んだ弥生人の高床式住居を直接継承したものであって、イロリが掘れないために設けられたカマドや、副次的な食品のうちで大切な保存食であったスルメ・コンブなどが祭物として受け継がれているのは弥生文化の継承を示唆するもので興味深い。

 このことは、神社神道が弥生人の稲作農耕の生活に密着した風俗から発生した事実を示すものであって、必ずしも騎馬民族独自のものでないことを示すものである。さらに、仏教によって両部神道として権威化される以前には、渡来人の精神的支柱として、実体上大きな意味をもっていたことを窺わせるのである。

 すなわち、仏教(密教)系神道が成立する以前に存在した農耕儀礼こそ、疑いもなく弥生人の基幹宗教であって、本居宣長の考えた「古代神道」は、確かに存在したともいえよう。

  神道をイデオロギーの観点から見れば、権力の統治者はカミ(神・上・守)を称することによって、民衆の信仰心を利用して支配を企てようとしたと考えられる。
 このことは、好戦的な騎馬民族の末えいであった日本武士階級が、カミ(守)を称する風習を伝えていたことからも窺えるのである。
 神道の神は、道教と同じく人間の変化したものであった。例えば、天皇は人間のまま神であり、秀吉は死後明神となり、家康は死後権現となった。明治以降の戦争のなかでも、功績をあげたものはやたら軍神にされ、戦争で死んだ者を靖国神社に祭るといった発想も同じである。
 したがって、この思想は、支配階級が民衆を戦争に駆り立てるのに非常に役に立つものであった。
 「神が栄えれば仏は沈む」と書いた僧がいるが、まさしく妙理で、神道はいつでも戦争とともにあるのであって、神道の栄える時代は、すなわち争いの時代といえよう。
 修験道が密教によって誕生しながら、中世以降しだいに神道の要素が高まっていった理由は、山伏の軍事集団化と関係しているように思えるのである。


 役の行者 

 役の小角(えんのおづぬ)と呼ばれた、日本史上のもっとも魅力的な一人であるこの人物は、修験道の開祖と位置づけられている。

 小角が活躍したのは、紀元700年前後のことである。この当時の日本史の事情を見てみよう。
 7世紀、推古大君、聖徳太子をはじめ、飛鳥朝廷の大君以下の主要人物は、戦乱によって朝鮮を追われた百済出身者で占められていた。
 その故郷の任那(伽羅)も、この当時は倭国に含まれていた。というよりは、百済にあった王朝が、5世紀から6世紀にかけて海を渡って日本列島に引っ越してきたと考えるほうが合理的である。

 彼らの文化能力は、飛鳥文化に見られるように際だって優れたものであって、それ以前から部族抗争を繰り返してきた弥生人の部族を短期間のうちに統一したと思われる。
 620年前後、唐が勃興し、強力な中央集権国家主義が台頭すると、新羅は唐の支配下にはいり、しきりに倭の領土を纂奪しようとする。

 百済は、領土の多くを失い朝鮮の南端、伽羅に押しこめられたが、645年の内乱(大化の改新)と蝦夷平定戦争によって弱体化した倭王朝を見て、660年、新羅は大挙して伽羅に攻め入った。

 中大兄皇子(天智大君)は兵を伽羅に送ったが、白村江で大敗を喫し、とうとう倭国は父祖の地から追われてしまった。百済に残っていた倭人は日本に渡った。以降、倭寇や秀吉の侵略にも耐え、昭和初期の日本軍部による帝国主義侵略まで、朝鮮は外見上、独立を保つことになる。

 同じ時期、おそらく百済人に似た理由で、高松塚古墳に見られるように高句麗文化を身につけた人々も、多く日本に渡来してきたにちがいない。それに騎馬戦闘文化をもたらした人々も含まれていたことは、後期古墳の出土品から明らかである。

 彼らは、いずれも高度な文化人であって、支配階級に融合してゆく。
 この時代の権力者にとって、人としての認識に堪える者は、中国の先進文化を身につけ、高度な生産能力を持った者に限られたであろうことは、後の律令体制における差別体系によっても明らかである。したがって、朝廷権力にとって、人とは渡来人のことであったに違いない。

 672年には、大海人と大友の争いによる壬申の乱が起きる。大海人(天武)は天智の弟だが、王位を弟が嗣ぐ風習をはじめ、この当時の権力構造は、中央アジア騎馬民族の習慣が直接受け継がれていることに注目しておきたい。

 700年頃には、律令制度が発足し、公地公民制による口分田・班田収受法などが施行される。
 これは唐の律令を手本にしたものだが、まことに日本的に不徹底で非現実的なものであったため、民衆の逃散が多く、後には豪族の出現を招き、天皇王政崩壊の直接原因になった。

 710年には、奈良に都が置かれ、唐の長安にならった平城京が成立する。712年には古事記がつくられ、720年には日本書紀がつくられた。

 740年には、国分寺が制定され、東大寺・薬師寺の建立がはじまった。天平文化が頂点を迎えるのである。
 この前後の100年ほどは、日本史の、すさまじいばかりの黎明期であって、時代の進展速度は今日でさえ及びもつかない。

 「続日本紀」西暦699年、5月24日の項に、役の小角が登場する。その記述は、「日本霊異記」など他の文書と同じく畏敬に満ちたものである。

 これらに見える小角の姿は、超絶的な超能力者である。小角は、大和葛城茅原に棲む優婆塞(うばそく)と呼ばれる私度僧であった。

 藤の皮を身につけ、花汁をすすって30年の間、孔雀明王の呪をとなえて修行し、鬼神(この当時の鬼とは、大和・熊野山中に棲む非弥生人のうちで、戦闘的な部族を指したと思われる)を使役し、空中を飛行し、対した者を呪縛してみせた。
 (孔雀明王とは、雑密曼陀羅の仏で、孔雀が悪喰で毒蛇や蠍を食っても平気なことから、悪を消化する仏にされ、密教を代表したが、もともとは中央アジアの土俗信仰に含まれる。)

 その能力のすさまじさのゆえに、渡来人の呪術者であった一言主(韓国連広足)に讒訴され、伊豆に流される。
 朝廷は、どうしても小角を捕らえられず、母を捕らえて小角を縛るのである。伊豆では、毎夜富士山に飛行して修行したとされる。

 大峰の「金峰山本縁起」には、伊豆から帰った小角は、母を伴って唐に渡り道士(道教僧)となり、唐四十仙中、第三座の仙人とされ、鬼神を使役したと記されている。
 遣唐使の道昭という僧が新羅の山寺で法華経を講じたときに、質問した道士が日本語を使ったので不思議に思って尋ねると、「自分は役の小角である」と言ったという。

 この伝承は、修験道の正体について、端的な回答を与えているように思える。これは、山岳信仰・呪術(超能力修行)・護摩行など主要なファクターで共通する道教に、紛れもなく一致するものなのである。

平安末期、小角の伝承は修飾され、修験道の開祖として同時代の行基と同様、誇張を交えて伝説化されることになる。

 上記の「金峰山縁起」もそのひとつであるが、大峰山に依った密教修行僧たちは、修行の具体的なモデルとしての役の行者像を成立させるのである。
 飛鳥時代、仏教が国教化される過程で、百済人によって占められた官人は朝廷によって建設された官寺に修行する僧を厳選し、今日の大蔵省官僚でも及びもつかないほどの権威を与えた。

 これらの官僧になれる者は渡来人系のエリートに限られ、仏教を信仰し修行しようとした一般民衆は私度僧になるしかなかった。
 当時、文字を解する者は希だったはずだから、一般民衆といっても実際には、言語文化に触れる機会を得た上流階級の子弟であっただろう。

 官寺は彼らの受け入れを認めず、当時輸入されていた雑密と道教の断片的な知識を依りどころにした求法者たちは、険しい山岳地帯に篭もって道教の符呪や密教の陀羅尼の呪や、小角のように孔雀明王の呪を唱え、念力を磨いていたのである。

 後に、この時期に中国で不空三蔵や恵果らが体系化した密教を、完全な形で日本に持ち帰った大天才の空海でさえ、若き日は雑密修験者として山岳地帯で求法修行し、呪を唱えて歩いた。

 空海ほどの人物でも、遣唐使に僧として加わることは許されなかった。彼が帰国後、不動の地位を占めるのは、中国最新の流行文化であった密教体系の輸入という実績が評価されただけにすぎない。

 輸入された密教体系が朝廷によって評価されるとともに、それは再びエリート官僧によって独占されるものとなり、私度僧は、あいかわらず雑密の断片的な知識をもとにした修行に終始した。

 官僧以外の求法私度僧は、国家権力に厭われることはあっても評価されることはなく、したがって重く用いられることもなく、その存在理由は、呪術による民衆の具体的な(たとえば、病気治療などの)救済による自己満足と名声の流布しかありえず、自らの依拠する権威を自ら構築するしかなかった。

 このような修行僧には依拠すべき体系規範がなかったから、当時評判を得ていた役の行者の伝説をモデルにするのがてっとりばやかった。つまり、修行僧は、教義理論ではなく役の行者の名声をめざしたのである。

 山岳地帯での呪術修行を好んだ雑密僧のうちから、やがて密教や密教系神道を基盤にした独自の宗風が生じ、それに修験道という名が与えられてからも、官によるエリート理論に無縁だった彼らには、教義としての理論的な体系はつくられたことがなく、また必要とせず、役の行者の行風をモデルにした土俗的、習慣的な修行スタイルが続いたと思われる。

 いいかえるなら、官による東大寺、薬師寺、あるいは比叡山、高野山を仏教の表街道とするならば、修験道は、まさしく裏街道をゆくものであった。
 しかし、それは権力権威による評価と無縁だったという意味で、それらの呪縛から解放され、真に民衆の具体的な救済に威力を発揮しただろうと思われるのである。

 もう少し、モデルにされた役の行者像を見てみよう。
 役の行者の伝説は、小角が大峰で修行するうちに(本当は葛木の修行者だったが)、修験道の本尊である金剛蔵王権現を感得したとされる。

 それは不動明王に近いがそれよりも激しく、その本地仏は大日如来である。その激しい怒りの形相は、修験道の修行の苛酷なエネルギーに対応するものであった。いったい、何に対する怒りなのか。なにゆえの修行なのか。

 山岳は縄文人の舞台であった。
 当時、九州の縄文人系土民(海洋族)であったクマソや隼人族は弥生人権力に対して反乱を繰り返し、ようやく平定された時期であったが、紀州大和の非弥生人系の土民も熊野山岳にいたらしい。

(縄文人は黒潮に乗って南からやってきたのであるから、薩摩、土佐、南紀、房総などには、縄文人が最も早くから棲みついていたはずである。しかし、紀州には、徐福やユダヤの伝説もあって、簡単に縄文人と決めつけられない。)

 また、九州から奴隷として連行された土蜘蛛とよばれる種族もいたらしい。初期渡来人であった大国主らに追われた出雲原住民(サンカか?)もいた。

  小角は、葛木の非弥生人に生まれたのかもしれない。(黒岩重吾もその説をとっているが、出自とされる賀茂氏は渡来人系である)とすれば、山岳の激しい修行も、金剛蔵王権現の怒りも、弥生時代後期から、弥生人権力に奴隷として使役され、古墳造営の苦役に苦しんだ非弥生人系の民衆の怒りを代弁する行者の姿勢として読み取れるのである。
 すなわち、小角の修験道は、反権力の砦をめざしたのではなかったか。

 このことは、後の修験道が南西地方よりも、むしろ蝦夷の拠点であった出羽地方を中心に大いに勢力を広げたことにも窺えるような気がする。
 いずれにせよ、弥生人圏の宇佐八幡や山陰大山・大峰でも、修験道は弥生人の居住地域の湿原平野には無縁であり、したがって弥生人文化と修験道文化は相入れないものである。

 大和朝廷に隷属馴致されるのを拒否する者は山岳に逃げるしかなく、そこには弥生人による苦役から逃れようとした非弥生人の民衆が存在し、修験者がその人々となんらかの形で結びついていたのは明らかである。だが、現段階では、このあたりの事情は謎に包まれている。

それぞれの山の物語 6 修験道路の山旅 前編

それぞれの山の物語 6 修験道路の山旅  前編 91年11月16日の大峰山行

 登山やハイキングで山岳地帯に出向いたとき、山のなかに祁られている宗教的遺構に出会うことが少なくない。それは山神様の小さな祠であったり、道中の無事を祈る地蔵であったりするが、ときには、大木の幹に梵字で書かれた短冊が張りつけてあったり、笹を四角に切り開いた小さな空き地に何やら木札を燃した跡が残っていたりすることもある。

 これは護摩とよばれる修験道の儀式の跡で、私たちの古い先祖から伝えられた五穀豊穣、生活安泰を願う修験者(山伏)による祈りの儀式の跡である。

 山伏は、その名の通り、山岳地帯を主な活動の場にしている。その修験道と今日呼ばれる山岳宗教は、古代中国の道教(タオイズム)に包摂される多くの宗教様式・儀礼が、1400年ほど前、朝鮮半島から集団でやってきた人々によって伝えられ、進化を遂げたもののようだ。

 道教は、中国文明成立の頃から伝えられた占いや医療を中心としたさまざまの民間信仰・儀礼(アニミズム)が、老子・荘子などによる体系的思想の著述や、その後の漢王朝(漢祖劉邦の謀臣、張良は代表的道家だった)などが国家思想に用いたことにより、まとまった宗教様式・儀礼になったものと考えられるが、時代によって、太平道・五斗米道・茅山派など多くの宗派があった。

 基本的な特徴は、人が山へ登って仙人になるための修行(登仙)を行い、空中を歩いたり、不老不死の秘薬を調合するなど超人的能力を身につけて人々を救うというものである。今日まで伝わる太極拳・小林拳などのクンフーや、それが日本に伝えられ発展した空手・柔術・漢方医学の伝統は、すべて道教に源を発したものといえよう。忍者も、またそうであった。

 修験道もまた道教から生まれたものであって、この基本要素をすべて継承し、人が山のなかで辛い修行を重ねれば、やがて自在に空を飛んだり天気を変えたりする念力を身につけることができ、超能力者になることで人々を救うことができると考えるのである。

 したがって外国の文献には、修験道は日本的タオイズムと紹介されていることが多い。
 これらは、大乗仏教やキリスト教のように、ものの考え方を教えることで民衆を分け隔てなく救済するという、民主的で教育的要素の強い方法でなく、特別に秀でた個人的能力を開発し、個人的修行による救済をめざすという点で、より実践的・具体的性格の強い宗教といえよう。

 ただし、民衆全体の能力を高めるというより、選ばれたプロ救済者のレベルアップを図るという、あまり民主的でない方法がとられていた。だから、、特異能力の軍事集団としても活躍したし、調伏という名の呪いによる敵対者の破滅祈願を行うこともあった。修験道は、人を怯えさせるような残酷な裏面史も多く持っている。

 日本で修験道が史誌に記録されだしたのは、史誌の始まりの奈良時代からで、大和葛城の役の小角という行者が修験道の開祖ということになっているが、実際には、この時代に修験道という独立した宗教が現れたわけでなく、道教の影響を受け、仏教(密教)や古神道の混ざりあった宗教的儀礼のなかに、道教的な山岳的要素の強いものが現れたということのようだ。

 役の行者は、後に新羅の国に出向いて道教の上位の仙人として君臨したという伝説もあり、また、神道も密教も本地垂迹説というひとつの教理にくみこまれ、仏教系寺院で祭祁が行われていた。つまり、奈良時代では、民衆の認識にあっては修験道と神道・仏教は一般的な「宗教」という大まかな概念で包摂され、すくなくとも、今日のような明確な区別はなかったように思う。

 修験道には、定まった体系的教義が残されていない。それは、もともと山岳地帯における修行そのものが宗教活動の主体で、伽藍や仏像のような形而下の崇拝対象や思想理論にこだわらないこの宗教の性格からきているのだが、実際には、明治時代初期に、天皇制神道を絶対化しようとした国家権力によって、神道とまぎらわしい修験道が禁止され歴史的遺物が破壊されたことで、古い伝統や理論が捨て去られてしまった事情がもっとも大きな原因なのである。

 それが実践的に復活したのは、今からわずか40年ほど前の1950年前後にすぎないし、復活の主体になったのが天台宗や真言宗の密教僧であったことによって、それは古い本来の修験道よりも、江戸期に煩わしい観念的規範によって体系化した仏教的要素の強いものになっている。
 だから、私たちが修験道を理解するのには実証面で困難があり、先人の思索と修行を知るためには、実際にその足跡をたどり、想像力を働かせてみなければならない。

 私は修験道の総本山、大峰山脈に過去6度ほど登山している。ただし、奥駆け全行程を歩いていないので、暇と体力のあるうちに吉野から熊野まで踏破してみたいと考えた。歩きながら、修験道の本質について何らかのヒントを得たかった。

 奥駆け修行の行場の第一番は熊野本宮にあって、熊野から辿るのを順峰といい天台宗系の本山派とよばれる行者が行った。第75番の吉野神宮から辿るのを逆峰といい、真言宗系の当山派の行者によって歩かれているのだが、現在、大峰の修験道は、当山派の修験本宗が復活したこともあって、大部分が逆峰によって行われているようだ。

 伝統的な山伏は、この奥駆け全行程を、75箇所([靡]なびき)の行場を巡礼しながら2週間ほどで歩いたといわれるが、山歩きの標準的なコースタイムを考えると、およそ1週間というところだろうと考えた。

 もうすぐ冬に入ろうという時期が時期なので、山小屋での食料補給が望めず、全行程の食糧と冬山登山に近い幕営装備を担いでゆかねばならないのがつらい。
 そこで、行程を予備日も含めて9日と考え、食糧を原則として米だけにし、副食を極度に抑えることにした。これによって、食糧の総重量を7キロ程度にまとめることができた。これ以上ないほど荷重を抑えたつもりだったが、荷ができあがってみると30キロ近いズシリとした重さに、いささか気後れしてしまった。

 91年11月16日の朝、近鉄名古屋駅から吉野に向かった。吉野駅に到着したのは昼で、ひとりでとぼとぼと大峰をめざして歩きはじめた。この時期は、比較的天候に恵まれているので、快適な登山ができる。

 駅前に蔵王堂方面のロープウェイがあったが、たいした節約にならないので歩道を歩くことにする。ジグザグの踏跡を登りつめると吉野街道に出て、両側に古く懐かしい雰囲気の商店街が続き、狭いが歴史の薫り漂う古街道を行くようになる。

 道端に「南朝の里」と印刷された貼紙があった。吉野は、後醍醐が足利尊氏に追われて南朝を設立した街である。歴史ファンである私は、ひどく懐かしいような思いがこみあげてきた。

 歴史の薫りのなかにほのかに混じるのはミタラシダンゴの甘い香りで、ついつい手がのびてしまう。ひさしぶりの懐かしい味。これが実に旨い。だが、30キロを超す荷物が肩にくいこみ、一度下ろした荷物を担ぐのが憂欝だ。この先が思いやられる。

 大峰名物の優れた胃腸薬である「陀羅尼助」の製造販売店があった。江戸時代の旧商家のたたずまいを伝える由緒風格にあふれた店先に、陀羅尼助が一瓶三千円で売られているが、これは観光土産の値段なのだろう。少々高いと愚痴らざるをえず、買おうという気にならない。

 これは吉野洞川、オウバク宗萬福寺に伝えられたとされる秘薬オウバク(キハダ)を煮詰めたもの。これは安全なすばらしい自然医薬である。古いものの良さを理解できない人は、田辺製薬のスモンのような化学物質を信仰すればよい。学歴権威信仰による絶大な効能がえられることであろう。

 陀羅尼助には、大昔、クマノイやケシ汁を混ぜていたという。山陰大山の練熊や、御岳の百草も陀羅尼助とまったく同じ成分だが、明治の宣伝文句にはケシ科のコマクサを混ぜていたことが書いてあり、これがコマクサ壊滅の原因になったようだ。

 これらは、道教の医薬(漢方)が伝わったと思われるが、全国に熊胆を売り歩いたマタギともなんらかの関係があるにちがいない。吉野の山伏にとって、陀羅尼助の行商は大切な生活資金源だっただろう。

 また売薬稼業は、戦国大名の依頼を受けて各地をスパイして歩くための大切な小道具にもなった。吉野の山伏は、戦国期、根来寺の非合法活動専門の僧兵の手足でもあり、伊賀・甲賀の忍者の祖でもあった。それは、驚くほど残酷な殺戮者だった時代もあったのだ。

 道は、大仏鋳造に余った銅でつくられた発心門と呼ばれる神仏混交の鳥居と山門をくぐり、自然に蔵王堂に入ってゆく。発心門は、修験本宗の吉野から熊野へと向かう入峰修行を行う者の最初の行場になる。

 「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき、おん、あびらうんけんそわか」
 と唱えて鳥居を回った行者は、次に「気抜けの塔」とよばれる小さな部屋に押しこめられて、外から突然鐘を鳴らされて気合いを入れられることになる。そうして、下界の日常的感覚から過酷な修行へと気持ちを切り替えさせられるのである。また、この塔には義経逃避行の伝説も残されている。

 吉野の町は、蔵王堂の門前町としてできあがったようだ。建物自体が国宝として知られる蔵王堂は、吉野の核心部の高台に巨大な木製伽欄を鎮座させている。石段を登ると修験本宗、金峯山寺蔵王堂の広い境内で、驚いたことに、たくさんのイスと巨大な放送設備が据え付けられ、なにやら人気ミュージシャンのコンサートの準備中であった。私は、この手のことに無知で、どのような理由で何が行われるか見当もつかない。

 蔵王堂は平安時代に創設され、数度の火災を経て江戸時代に修復されている。自然の大木をそのまま利用した柱が使われていて、独特の個性的迫力がある。堂内には護摩の煙が充満し、古刹の重厚な雰囲気に圧倒される。

 堂内の修験者は真言系らしく全て剃髪した僧形で、古来の山伏の面影はなく密教僧の雰囲気だ。天台系山伏の総髪のほうが山伏らしい。真言宗系の修験道を当山派と呼ぶのだが、明治の初めに当山派は強制的に真言宗か金峰神社に分離帰依させられ、天皇制国家神道による弾圧から解放されて修験本宗として再建されたのは、まだ1952年のことである。

 修験本宗は、長い空白のうちに明治以前の神仏習合の面影は薄れ、その間、強制的に帰属させられていた真言宗仏教の色合いが濃いものになってしまった。習合神道が天皇の権威に逆らう邪教として排斥された、戦前の天皇崇拝教育のおそるべき成果をここにもかいま見ることができるのである。

 今でも、毎年7月前半に、修験本宗の主催による奥駆け修行が一般者の参加を募って行われているという。蔵王堂は、その出発点となり、蔵王権現や役の行者像の前で、修験道独自の真言を唱えて峰入り前の護摩法要が営まれる。

 真言(マントラ)というのは密教による呪符で、例えば、「おん、あびらうんけん、ばさらだとばん」と唱えることで、自分と大日如来とを一体化させ、「なうまく、さまんだ、ぼだなん、ばく」と唱えれば、釈迦如来と一体化するという具合である。これらは、口に真言を唱え、手に印契を結び、心に仏を意念すること(三密加持)で大日如来と一体化し、即身成仏をめざすのである。
 
 吉野の街なみを大峰山脈の山地図を頼りに歩いたが、なかなかややこしい道であった。下千本、中千本、上千本と桜の名所が続く。春先には凄まじい雑踏になる場所だ。ここでは4月10日ころ、蔵王堂を中心に花供祭が行われる。蔵王権現に桜の花を供え、盛大な餅撒きが行われるという。修験道の花祭には、神道の古い農耕儀礼が体現されているという。全国の修験各派に、それぞれの花祭が残されている。

 上千本のあたりから大峰山脈が次第に形を整え、明確な尾根に変わってゆく。そこで、初老の男性と同じペースで歩くようになり、やがて言葉を交わした。話してみると、宗教歴史について恐ろしいほどの博識の方で、たちまち意気投合してしまった。立見さんといわれたその方は、どこかの大学教授ではないかと思った。

 吉野で見たいと思っていた水分(みくまり)神社は、吉野の水源尾根の中腹に構えていた。立見さんが権現造りといわれた社殿は、拝殿前の広場を取り囲むように建物が連なり、格調高いすばらしい雰囲気である。おそらく、日本の水分神社の草分け、あるいは総本山であろう。

 尾根に沿ってつけられた道路をとぼとぼと歩いてゆくと、金峰神社の道標にしたがって高城山という城址に登る。山頂に立派な休憩舎があり、そこから元の道に下る。無理して登った値打ちはなく、損をした気分になった。

 道なりに歩けば自然に金峯神社の境内に入る。ここは、古い修験道が天皇制時代に強制帰依させられていた本山である。祭神は金山彦で、これはすなわち大峰山脈に金鉱脈があったことの証である。

 ここまで予想外に時間を食ってしまい、「この先、よい幕営地はないですか」と社守のおばちゃんに尋ねると、
「この先は女人禁制だから、私は行ったことがない」
 と言う。改めて、修験の大峯に足を踏み入れたことを感じた。

 まずは水を求めて苔清水に向かう。苔清水は細い湧水だが、絶えたことがないという。整備された水場で大勢の中年観光客が騒いでいた。そのわずか上に平地があり、そこにツェルトを張ることにした。

 夜半、百人一首で知られる西行が創立したとされる西行庵の勤行の打木の音が気味悪かった。カメムシが臭くてかなわない。イノシシと思われる動物がうろつく音も聴こえ、あまりよく眠れなかった。
 冬も近いので山蛭など不快な虫が少ないのが利点だと思ったのだが、意外に生物が多い。重量節約のために、酒を携行しなかったのが辛い。

 日曜の朝、ゆっくりと7時に出発、青根ヵ峰を越えると再び林道になり、尾根をブルドーザが強引に踏みつぶしている最中だった。登山道を探すのが大変だ。どうやら黒滝村への道をつけているらしい。カクレ平からやっと普通の山道になる。

 五十丁、百丁の茶屋跡を過ぎ、快適なハイキングコースが続く。大天井ヶ岳のトラバースでは再び激しい重機の音が聞こえる。登山道のわずか50mほど下まで林道が迫り、なにか大きな工事をしている最中だ。

 バスの通行を可能にするための林道拡張工事だとすれば、修験行者のためのものであって、退廃ここに極まれりというべきか。だいいち、ここは聖域ではなかったのか。女はダメだが車はOKとでもいうのか。こんなものを許せば、次はロープウェイに決っている。

 わずかで女人結界、新しい立派な門がある。この時代にあって、女性の立ち入りを拒否し続けている、つまり憲法違反の慣習を公然と認めている国立公園は世界中探しても、大峰山だけだろう。確かに、残り少ない無形の歴史的伝統を守りたい気持ちは分かる。だが、女人結界が尊重すべき宗教的伝統だと考えるのは、私には早まっているように思える。

 私が後に大峰修験道を知る過程で、この宗教は、実は民衆救済を目的とするよりも、権力者にとっての軍事的役割の方がはるかに大きかった事実が分かってきたからである。
 驚くほど残酷な生命軽視の悪行が重ねられていた。私は歴史的事実を知る度に、山伏に対するイメージが、崇敬から恐怖に変わるのを抑えられなかった。

 歴史的には、権力奪取のための、調伏という名の呪殺をはじめ、謀略・毒殺・略奪・殺戮など、およそ人間の薄汚い裏面のすべてに山伏が関わってきたことを知った。
 少女誘拐、幼童強姦殺害など序の口であって、山伏は恐怖のアウトローの世界であったことを思い知らされた。
 そこには、決して正義や民衆救済宗教の美しさはない。戦国の乱破と呼ばれた殺戮破壊専門の忍者集団の祖となったのも山伏であった。

 薄汚く残酷な世界に女性を入れるわけにはいかない。女性は本来、そのようなアウトローには向いていない。大峰山が女性を拒否し続けた真の理由は、決して表に出せないその恐るべき歴史的真実にあったのではないか?

 洞辻茶屋まで行けば日曜だから営業しているかもしれないと思ったが、たどり着いてみると閑散とした木枯しが吹くばかり、休憩していると、驚いたことにアベックの二人連れが登ってきた。「凄い、偉い、立派」こうでなくっちゃ。

 男の方はガッチリした体格で、おそらく修験者とのトラブルを避けるためだろう、洞川の消防団のスタイルで決めている。もっとも、山上ヶ岳に登った女性は決して少なくない。例えば、女性登山家として著名な今井通子さんも、沢登りついでに登頂したと公言している。修験の方も昔のような厳しい戒律にこだわる人は希で、その気になれば誰だって登れるのである。

 ただし、峰入りシーズンは避けた方がよさそうだ。権威や伝統にこだわる程度の低い人物が多いからだ。林道を開通させ、車を通すことは可としても、女性だけはまかりならぬと本末転倒の愚かしい主張をする者も多いにちがいない。それでも、そのような伝統が山上ヶ岳を開発させない力になっているとすれば、それなりに有意義だとは思うが。

 登山道は茶屋をくぐり抜けてゆく。整備された板敷の道を登りつめると金懸岩で、そこから広大な山頂になる。両側には、峰入り修行の回数を誇る供養塔が立ち並ぶ。最高が50回程度のようだ。自慢は結構だけど、どれほどの霊力を得たことか。観光バスでやってきて、洞川から登って一回じゃ、役の行者が泣いてますぜ。

 途中、「西の覗き」と呼ばれる有名な行場がある。関西地方の男子は、一度はここに連れられてきて、300mの垂直の岩場に宙づりにされて親孝行を誓わされる伝統があったと司馬僚が書いている。

 「親孝行するか、一生懸命働くか」と問われ、肯づかねば落とすぞと脅されるのである。本心にもないことを無理矢理言わされるのでは、関西に親不孝者が増える理屈だなどと思ったりする。

 ここには捨身行と呼ばれる自殺行があった。かつて、この岩の下には無数の人骨が散乱していた。その昔、年老いて自由に動けなくなった山伏は、ほとんど捨身、すなわち投身自殺したようで、その神聖な人生最後の行場がこの岩であった。
 本山派の熊野修験者は、那智ノの滝上から飛びこんだと明治の文献にある。生きていることが、よほどの苦痛だった時代があったのだ。楽しければ死ぬものか。

 大峰山寺の宿坊群はさすがに凄い。まるで白馬の山小屋である。造りの良い分だけこちらの方が見栄えがある。これらは全部人力荷揚げだから大変な労力だっただろう。しかし人の姿は見えず、寂しい冷風に包まれていた。

 山上ヶ岳の山頂は大峰山寺の上にあり、広大な草原になっている。展望良好。さきほどのアベックに出会った。行き先を尋ねられて、熊野までと答えるとびっくりした表情になった。せこい優越感を味わう。快晴だが、やたらと冷える。休憩もそこそこに歩き出さずにいられない。

 30分程で、水場の小笹の宿に着いた。稜線直下だが水流があって、広い平地になっている。無数の石組の基礎が残っていて、ここにかつて非常に大きな宿坊群があったことを示している。文献には、当山派根拠地、小笹36坊とでている。赤塗の堂宇と小さな避難小屋があった。ありがたい。新しく快適な小屋であった。

 広場の中央には立派な護摩行場が設けられ、護摩の燃えかすが散乱している。大峰75箇所の行場には、すべて魔除の独鈷が立てられ護符が貼られている。独鈷は、もともとブーメランに似た武器であったというが、柄がつけられ山伏を象徴する杖となった。

 岳人のピッケルと同じで多目的であり、ときにシゴキ棒になったりするのも似ている。中国由来のこの武器の存在は、修験道が道教の直接の継承者であることの端的な証明の一つでもあると思う。
 この時期、縦走を企てる酔狂な人間はいない。静かな小屋の夜はふけて、ハンゴウで炊く飯は旨い。

 快適な一夜を過ごし、まだ暗い早朝、ツェルトを畳んで大普賢岳に向かう。
 小普賢岳の長い登りにうんざりするが、大峰山脈の核心部に到った充足感がある。ここで和佐又山からの道を併せるが、このルートから前鬼までは10年ほど前に縦走している。

 このルートには岩屋が多く、晦日(つごもり)山伏といわれた行者が越冬した場所である。以前歩いたときに、岩穴の奥に人骨片が散乱しているのを見た。
 越冬に堪えられず死んだ山伏も大勢いたのだろう。また、この地域は名だたる日本狼の棲息地でもあった。山伏は、飢えた狼のよき食糧になったかもしれない。

 岩屋で晦日修行を行った山伏は、春先に石楠の花を手に里に降り、里人はこれを山の神として畏敬して迎え、花を田に投げ入れることによって、それが田の神になって豊饒の収穫を守護したと柳翁や釈超翁が書いている。神は冬に山へ入って水源を護り、夏に田へ戻って稲を護るという原始農耕儀礼の原型となる伝承である。

 もっとも、和歌森太郎や宮家準などの民俗学者による、そんなキレイゴトの伝承は、ごく一部の表向きの話で、南方熊楠は恐るべき山伏の峰入り修行の実体について、いくつかの著書で触れている。

 例えば、この稜線には「稚児落とし」などという地名がいくつかある。
 この山域では、女人禁制の戒律があって女性を連れてこれないので、山伏の性欲処理のために買い取られたか、誘拐されてきた稚児と呼ばれる幼い子供達が、疲労で歩けなくなったり病に倒れたりしたときに、垂直の断崖で墜落死させられた事実を表している。
 これは謡曲「西行」などにも象徴的に語られている。

 今日でも、人間の本能が剥き出しになる裏の世界では、子供達への性的虐待が後を絶たない。二重性のある権力社会では、公然と本音を語ることのできない社会的地位をもった人物が、好んでそうした幼児虐待ビデオを購入している。
 二重性の強い社会ほど、そうした二面性のある人間を多く生み出すのだ。それが歴史上もっとも端的に現れたのがナチズムであった。

 人が貧しいとき、手を取りあい、助けあって生きているときには、誰でも美しい道義性を磨こうとするが、皆が豊かになり、他人に見下されまいと背伸びをするようになると、人は愚かしい差別主義に走り、ソドムの道を歩むようになる。こうなれば破滅し、殺戮しあって、再び貧しくなる日を待つしかないのだろうか? 

 日本史を見ても(おそらく世界史も?)、室町期のような温暖で豊かな自然条件に恵まれた時代は残酷な争いが多く、江戸期のように寒冷化による過酷な自然条件の時代は、人々の心は暖かくなるのである。今日、繁栄の極地にいるわれわれの心は極寒といっていい。

 早朝7時前、標高1780m、大普賢岳のトンガリ山頂の眺望は、南の釈迦ヶ岳と好対照の北山脈中の圧巻であって、紀州を代表する360度の広大な山岳大展望である。果てしなく続く紀州大山塊に魅入られ、呆然としてしまう。

 歩いているうちに薄暗い地平線が明るくなり、明るく爽やかな朝がやってきた。そして突然、南の山なみが一箇所キラキラと、この世のものとも思えぬほど美しく輝きだした。

 一瞬、我が目を疑い、これこそ江戸期の山師によって記録された金鉱脈から密かに立ちのぼるという幻の御神灯かとも思ったが、やがて、熊野灘に朝日が照り映えていることに気づいた。それは、まるで光の饗宴というにふさわしく、神々しいまでの美しさであった。海と山との境の見分けがつかぬほど、紀州山塊は広い。

 ここから七曜岳を超えて行者還岳に到るまでが、大峰山脈の最大の難所であり核心であって、ギザギザの鋸の刃のような苦しい上下が続く。「稚児落とし」を渡り、クサリ場をいくつも越えて、梯子を上下し緊張を強いられるが、南アの鋸岳ほどではなく、整備されているのでそれほど危険ではない。

 困ったことに、途中の水場は長期の晴天続きのため全部干上がっていた。しかし、前回の縦走のときはササ薮漕ぎに苦しんだ縦走路も、今回は刈入れされて歩きやすくなっていた。

 弥山への登りは、美しく快適な樹林を行く。ここは行者還トンネルに車を置けば、わずか2時間ほどで登れてしまう。もう15年も前に洞川から狼平を経て登っていて、山頂は今回で3度目ということになる。山頂直下の急登が辛いが、ひさしぶりの亜高山帯の針葉樹林に心が落ちつく。道には、ところどころ雪や霜柱が残っていた。

 弥山小屋にも人影はなく、おまけに水場が干上がっていた。冬期用避難舎に入り付近を探すと、便所の手洗いドラム缶に厚い氷が張っていたので、それを溶かして使うことにした。ナタで氷を砕きハンゴウで溶かすのに、ひどく時間がかかった。

 山頂は、小屋の上の鳥居をくぐったところにあり、山麓の天河弁財天社の奥宮が置かれている。これは芸能人に人気のある社として知られる。弁財天は、大黒天とともに鎌倉時代から信仰されるようになった。サンスクリット原典では、河の神、知恵、音楽、財物の神とされ、8本の腕をもつ女の姿である。神道ではイチキジマ姫尊とされ、後に、大黒天とともに福徳の神になった。芸能人にぴったりの神様なのだ。

 我々の知るのは、宝船に乗った七福人の紅一点の姿であるが、本当はもう少し奥行きのあるものらしい。修験道では、「オン、ソラソバテイエイソワカ」というのが弁財天のマントラにあたる。サンスクリットにある弁財天の原型は、古代ギリシアに伝えられて美の女神ビーナスになったと考えられる。

 朝、水をウーロン茶の容器に詰めて出発した。ひどい水で、いちいち沸かして茶にしなければ飲む気になれない。そのお茶も、ハンゴウの蓋に湯を沸かし、安い茎茶を放りこんで茶葉をペッペッと吐きながら飲むのだから旨かろうはずがない。荷をコンパクトにするために、余分なものを一切持たなかったのだ。

 30分ほどで、弥山の兄弟峰で大峰山脈最高峰かつ関西圏最高峰の八経ヶ岳、1915mである。仏教ヶ岳や八剣山の名もあるが、小角が法華経八巻を奉納した故事から名付けられたのだから八経岳で正しい。

 大峰のヘソにふさわしい広潤な展望である。なつかしい既登の山々を指呼に見渡すことができる。紀州山地北部のピークは大部分終っている。およそ100山以上も登っただろうか。我ながら、よくぞ歩いてきたものだと思う。

オオヤマレンゲの自生地を経て七面山に向かう。この付近、大峰山脈中の白眉といえる風景で、最初の奥駆けのときは新緑で、その類希な広葉樹林帯の美しさに言葉もでないほど感動したものである。

 しかし、当時すでに右手の七面谷の伐採が始まっていた。今回も、そのときの伐採跡地の荒廃がそのまま放置されているのを見た。本当にやりきれない思いがする。官僚主義の害毒を見せつけられる思いである。人間が利己権益主義を原理として生活するかぎり、自身を滅ぼす以外の道はないことを思い知らされるのである。

 七面山に近付くと、主綾は典型的な二重山稜になり、船窪状の地形が続く。粗末な副食のせいでビタミン不足の症状が現れはじめた。歯茎の出血は明らかなCの不足、茶を食べて補うつもりだったのだが追いつかない。茎茶でなく粉茶を直接食べるのでなければならなかった。B不足の脚気症状も現れ、こちらは黒砂糖を食べて補った。

 七面山の南側には大峰きっての高度差400メートルの岩場がある。奥駆けのなかでも大切な行場だが、ここは魔の大岩壁とよばれている。ロッククライミング中の墜死者も少なくない。古いこんな言い伝えが残されている。

 「古田の森に黒霧かかれば、そのなかより魔いで来たりて人を連れ、七面のクラにゆくことあり」と。
 稜線を素直に歩くと、この大岩壁の真上にさまよい出る。無意識のうち、いつのまにか行ってしまう。山伏には、あまりの悪行故に成仏できないで彷徨する魂が多く、そうした幽冥界をさまよう悪霊が、志操の緩い者に取り憑き、死へと誘うのである。

 楊次の森から長い登りになる。ふりかえれば、七面山の魔の岩場がすばらしい。
 途中、激しい倒木帯にでくわした。前回の縦走の記憶にないから、これは昨年、三重県地方を集中的に襲ったいくつかの台風の仕業ではないかと思えた。ルートが判然とせず迷いやすいが、適当に尾根を外さずに歩いた。
 迷いこみやすい枝尾根が多いのでガスの日は危険であろう。おまけに途中で主綾が屈曲しているので、いかにも遭難しそうだ。これでは、よほど山慣れた者以外は危険だ。

 仏生ヶ岳から、長い散歩道を歩く。このあたり石灰岩カルスト露頭で、五百羅漢と名付けられている。いつものクセで、化石を探したが良いものは見あたらなかった。
 研磨しなければ発見が難しい。良い化石は、高級なビルの大理石を探すのがてっとりばやい。

 釈迦ヶ岳がだんだん近付いてくるが、なかなか届かない。鞍部には、良い岩遊びのゲレンデになりそうな巨岩がある。修験では、これを両部分けと呼び、吉野からここまでを金剛界曼陀羅といい、これから熊野神宮までを胎蔵界曼陀羅といっている。大峰修験道のデベソといっていい。

 岩を回りこむようにして、いよいよ釈迦ヶ岳の急登がはじまる。両手足を使ってよじ登り、喘ぎ喘ぎ30分ほどで山頂に達する。

 大峰南部の秘峰、釈迦ヶ岳は、実に5度目の登頂である。懐かしい釈迦如来像も健在。
 最初に登ったときは1800mの標高だったものが、いつのまにかわずかに低くなっている。だが、大峰きっての絶景は変わることがない。これほどの大展望は、紀州山地全体でも一位を譲らないであろう。

 大きなブロンズ製如来像は、大正年間に岡田牛松というボッカが上げたもので、分解しても一つが200キロ近くある。多年の落雷によってかなり傷んできているのが気になる。

 ここで奥駆け修行のハイライトである秘法護摩が行われる。ゾロアスター教の拝火信仰が伝えられた護摩(ホーマ)には、大きく分けて3種類あり、病気災厄を防ぐ息災護摩、福利現世利益のための増益護摩、敵を呪い滅ぼす調伏護摩であるが、中世、権力抗争に加わった山伏は、もっぱら調伏護摩を盛んに行った。

 大名の世継ぎ争いでは、山伏による調伏の記録がたくさんでてくる。庶民の間に、丑の刻参りが流行ったのもこの影響であって、有名なブードー教の呪殺と同じ性質のものであった。

 今では、もちろん息災護摩が中心であって、大阪商人の多い大峰修験者には、もっぱら増益護摩が多くなるのも当然であろう。釈迦ヶ岳では、柴灯護摩の勤行が行われ、これは先祖供養の意味をもっているとされる。しかし、これらは密教のもので、本来の習合神道の伝統行は消えてしまったが、昔の行の内容を知りたいものだ。

 釈迦ヶ岳を熊野に向かってまっすぐ下ると、誤って十津川村登山口に下りやすいが、笹に隠された道を見失わないように本道を左手に折れて下ってゆけば深仙(じんぜん)の宿に着く。ここに古い堂宇が建てられている。

 これが本山派の伝法潅頂の行場であって、ここまで約1週間にわたって苦しい修行を続けてきた山伏に、洗礼の意味もった資格付与が行われた。

 潅頂(かんじょう)とは、十種の行を修めた者に戒律を与える儀式で、行者は大先達に護摩木を渡し、大先達は行者の頭に香水を振りかけるのだが、キリスト教の洗礼と変わるところがない理由は、密教を体系化した不空三蔵が、当時、唐に伝わっていた最新の宗教であった恵教(キリスト教)をモデルにしたのだろうと考える。ただし我説である。

 深仙堂の脇をトラバースして戻ると、香精水という水場があって、これが潅頂香水にされる。これをあてにしていたのだが枯れてしまっていた。半月以上の晴天続きのため、ここまでの水場は全滅であった。残り水はコップ一杯程度。先が長いのに困ってしまった。

 ほどほどに休憩して出発すると、すぐに大日岳がある。左手の踏跡をたどればスラブ状の岩場があって、鎖を登りつめて頂上に達する。もちろん、行場である。
わずかで太古の辻に着く。ここが、大峰と熊野を分ける境になり、奥駆けも、ここから前鬼に下るのが普通である。

 予定では、もちろん熊野に向かうつもりだったが、水が不足しているので考えこんでしまった。次の水場である持経の宿までは4時間以上かかるが、コップ1杯の水しか残っていない。
 それに、水場が枯れていない保証もない。結局、前鬼に下ることにした。ここまでのコースは何度も歩いていて、ここからの熊野コースこそ目的にして歩いてきたのだが、残念無念で未練が残ってしかたなかった。

 左手の急な道を下りはじめた。途中、鉄砲の音が聞こえ、鹿の鳴き声が続いた。二つ岩という奇岩が現れれば半ばである。何度も通った道なのに、ずいぶん遠く感じる。途中の沢は、すべて枯れていた。この標高差と距離では、もう再登する意欲も湧かないだろう。

 杉林が現れ、五鬼童、五鬼熊、五鬼継などの住居跡の表示がされていた。前回にはこのようなものはなかった。そして、懐かしい五鬼助家の建物が見えた。ひさしぶりの前鬼。誰かいるだろうか。

 だが、なんと、あてにしていた小仲坊がないではないか。そこには、建物の新しい基礎だけがあった。驚いたことに、車道のなかったはずの前鬼に、そこまでコンクリート舗装の狭い林道がつけられていた。

 なんということだ、前鬼も変わってしまうのか。前鬼を取り巻く見事な原生林も、王子製紙の手によって無惨に伐採されていた。

 この山々は、日本狼の最後の棲息地であった。10年前に会った神戸市の斐太猪之助さんは、前鬼に泊りこんで最後の狼家族を観察していた。その斐太さんも亡くなられた。

 なによりも、私が前鬼を何度も訪れるきっかけになった最後の鬼の子孫、小仲坊の主であった五鬼助五郎義价さんが文字通の鬼籍に入られて、すでに5年も経てしまった。

 前鬼は、役の行者が大峰を拓いたとき、従者として小角を世話した前鬼と後鬼が棲みついて修験者の世話をするようになったという伝承をもつ。開闢以来、実に1200年の伝統があった。

 五郎さんは、その最後の末裔であり、親切な人間性は、誰からも愛されていた。
 私がはじめて前鬼を訪れた十数年前、五郎さんは離れの小仲坊でなく、自宅に泊めてくれた。その夜は、数名の登山者とともに酒宴になった。五郎さんは、ひどく酔ってしまった。その前夜、一千年以上護り通してきた前鬼の守護神であった役の行者像が盗まれていたのである。

 私が持参のブランデをーすすめると、彼は戸棚を開けてみせた。すると、そこには世界中の銘酒がこれでもかと並んでいた。五郎さんは、西洋人の血を引くかと思えるほど端正な容姿で、熊野のユダヤ伝説をほうふつとさせるほどだったが、五十歳を過ぎてなお独身であった。こんな辺鄙な場所に来る嫁などいなかった。

 彼がどれほどの寂寥に堪えてきたか、自分も同じような境遇になってみて身に染みる。暴飲暴食するようになり、やがて体を壊して入院するようになった。優れた修験道学者であった父親の研究を引き継いでおられたが、世に出ることもなかった。

 その後も、幾度か前鬼を訪れたが、五郎さんに再会することはできなかった。何度目か小仲坊を訪れたとき、親戚の若者から五郎さんの訃報を聞いた。死因は糖尿病による内臓不全であった。享年54歳、祈念冥福。

 小仲坊は改築されるようだ。天気が悪くなっていたので、雨を凌げる軒下を探したが見あたらず、やむをえず広場にツェルトを張った。ハンゴウで飯を炊いていると、さきほど鉄砲を撃っていた猟師が降りてきた。

 話しているうちに、五郎さんのありし日のことが話題になった。その人は、子供の頃からの友人で、頻繁に五郎さんを訪れていた。五鬼助家は京都に親戚があって、その人が小仲坊の経営を引き継いでいるという。

 それから、猟の話になった。「いや、今そこで熊に吠えられてな」と、こともなげにいう。鹿を追っていて熊に気づかず、危ういところだったという。前鬼の付近は熊が多くて、何度も出会っているという。

 狼も、1950年代まで普通にいたといわれた。撃って、大学に毛皮を持ち込んだこともあったが、頭骨がないという理由で正体不明という結論になったそうである。「学者なんて、そんなもんさ」といわれた。日本狼の滅亡の公式年代は明治42年なのである。

 「気をつけて」といって去った後、ひとり取り残されて薄気味悪くなった。ツェルトのなかでシュラフに潜りこんでも、小さな音にもおびえた。

夜半、ときどき鹿の鳴き声が大きく響き、近くで枯葉を分けるガサガサという重い音がした。「熊かもしれない」と思い大声をあげると、足音はゆっくりと遠ざかっていった。やはり熊だったようだ。キャンプ場には、残飯を狙ってよく現れる。

 雨がフライシートを叩くようになり、それでも、いつのまにかウトウトとしてしまった。さすがに、疲れがでたのだ。翌朝、ひどく寒く、すぐれない天気であった。もはや熊野に登り返す気力も消滅し、支度をしてバス停に向かった。荷は10キロ近く軽くなって楽になった。

 五鬼助家の先で、前鬼の裏行場二十八宿への道を分ける。ここは三重の滝に出るルートだが非常に危険だという。山伏にも多くの死傷者が出ている。旧道を戻り、林道に出る。そこからバス停まで3時間。

 トンネルの手前で、左手の不動七重の滝がすばらしい。知られていないだけで、日光華厳の滝や、尾瀬三条の滝にも匹敵する見事さである。7段で、総落差およそ200m
 林道をとことこと歩いてゆくと、前鬼口に近いオワシ谷という場所で、右手の薮のなかから、突然ものすごいうなり声がおこってドギモを抜かれた。

 見ると、数十メートル離れた藪の奥に、人の大きさほどの熊らしき影が立ち上がってこちらを見ていた。すぐに熊だとピーンときたが、初めてではなかったのであわてなかった。8月に、浅草岳に登ったときも、六十里越峠で同じように吠えられたばかりである。

 大急ぎでそこを駆け抜け、少し歩いて振り返ると、林のなかに黒いものが蠢き、再びすさまじい吠え声があたり一帯に響きわたった。今度は、少々あわてて走って逃げた。今にも追いかけてくるように思えたからである。何十頭の大型犬が一度に吠えたような迫力であった。

 バス停に着くと、すぐにバスが来た。間に合ってよかった。新宮まで1日4本しかないのだ。バスは、以前は大型だったが、今度はマイクロに変わっていた。ローカル交通は採算割れの一途だからやむをえない。

 乗客は私独り、貸切りとは豪勢だ。バスの運転手さんに熊のことを言うと驚いていた。今年は、ピナツボ噴火の影響で、長雨のため実生も不作になり、熊が里に出るケースが多いようである。紅葉の悪い年は、熊が多く捕れるというのは間違いない。

 熊野駅に近づくにつれ、客も増えてきた。沿道の山々は、秋の台風のためひどい風害を被っているのが見えた。バスのなかで、酔ってそのことをわめいている男がいた。熊野灘がひどく美しく見えた。

 このとき歩き残した熊野奥駆けは、翌年春、玉置山から笠捨山まで歩いたが、林道が尾根筋を交錯し、原生林はほとんど皆伐され、あまり気分の良いものではなかった。

それぞれの山の物語 5 南アルプス深南部 中編

 それぞれの山の物語 5 南アルプス深南部 中編


 奈良代山  1624m
(磐田郡水窪町地頭方戸中の水窪ダムより、90年 3月17日)

 16日は寒い雨の日だった。こんな天気では、高い場所では雪模様だろう。憂鬱だったが、条件反射的惰性のために、頭脳を無視して体が勝手に遠州に向かってしまった。

 水窪町には元禄茶屋という良い食堂があるが、良い飲屋はないかとグルグル探し回ると、水窪警察署のそばに「玉之屋」という看板がでていたので入ってみることにした。ちょっと裏に入りこんだところに店があって、ノレンをくぐると、マスターの他に一組の男女がいた。

 こぎれいな普通の酒場で、オデンなどがメニューで、とりたてて珍しいものはない。奈良代山のことをたずねたが二人とも知らないようだった。私が山登りに来たと言うと、男性は、
 「親の心配も考えずに、どうしてあんなことをしたがるのか。」
 と全然ユニークでない発想で語りかけてきた。

 このような質問には辟易していて返答に戸惑ったが、話題を変えて、いろいろ調べていた地誌について触れると、私が水窪史についてたくさん知っているので驚いていた。

 女性は、私を「魅力ある」と言ってくれた。私は、普段、浮浪者のような身なりをしているので、胡散臭そうに見られるだけなのだが、こんなこと初めて言われた。

 男性は、神原の耳塚氏と言い、姓氏のいわれを調べてくれと頼まれたので、後に、大日本姓名辞典で調べると、項目はあったものの記述がなく、期待に沿えなかった。
 しかし、戦国時代の激しい戦闘で首級を持ち運ぶ余裕のないときに、耳を切り取って働きの証拠にしたことは普通だったようで、それらは耳塚に埋葬されたにちがいなく、印象深いこの地名が姓名に変わるのは自然なことだ。

 この付近でそのような大規模な戦闘が行なわれたのは、1575年、織田信長と武田勝頼による長篠の戦いで、これは世界戦争史上初の画期的な鉄砲による近代戦だったから、これがおそらく耳塚の由来になっただろうと思う。
 耳塚氏は、私より5年ほど年上だが、女性と待ち合わせたりして、なかなかヤリテのようだ。うらやましい。

 奈良代山は、麻布山登山口の手前の左に分岐する林道に標識が出ていた。
 尾根を絡む道を車で走ると、急斜面の尾根にへばりついている峠や根の部落を見てどんどん高度をあげてゆく。ここらの家の破風には、菊の紋章が刻まれていた。しばらくで、「水窪自然クラブ」という宿泊所や体育館の完備した立派な施設がある。ここは夏期のみ営業で、この時期はヒト気がない。

 ここから、水窪湖を隔てた対岸に、視界いっぱいの麻布山が見え、その重厚で貫禄のある姿に圧倒された。安定感のあるすばらしい姿だ。

 このあたりから新雪がでてきた。林道は地図よりもはるかに奥まで伸びていて、ほとんど奈良代山の直下までいっていた。雪が深くなったが、4WDのおかげで終点まで行った。

 針葉樹林の歩道にはテープがたくさんついていて迷うこともなかったが、標識にしたがう切り拓かれたばかりの道は、山頂を巻くようにつけられたひどく歩きにくい道で、なんでこんな道がつけられたのか疑問だった。

 しばらくで尾根の分岐があって、まっすぐそのまま歩くと戸中林業事務所の方へ降りていってしまったが、コンパスを見て誤りに気付き、あわてて山頂方面に戻った。

 林道の終点から1時間もかからずに達した山頂は、全然展望がないのでがっかりである。黒沢山方面のヤブ尾根を歩くと、ところどころ腰まで雪に埋まり、ワカンがなければ歩行不可能であることを思い知らされた。

 しかし、そこに登り道と別の道を見つけたので降りて行くと、突然、幻想的なまでに美しい1ヘクタールほどの湿原とおぼしき空間にでくわした。これが山登りの醍醐味なのである。

 どうやら、これが山名の由来となった奈良代のようだ。このときは新雪に覆われて殖生を確認できなかったが、すばらしい高層湿原であることはまちがいない。これで、登り道が変なつけかたをされていた事情も納得がいった。こんなところに、手軽に来させないほうがよいのは当然である。これを見るのは、私だけでよろしい。

 帰路、新雪の下のアイスバーンに気づかず、なんでもない傾斜で滑落した。全然止まらず、ヤブに突っこんでやっと止まった。冬山セットを持参しなければ危険であった。なめてはいけない。

 これは、山神様のご機嫌を損ねているのであろう。宮崎日出一氏からいただいた手紙には、山神はオコゼが好きで、オコゼとはすなわち陽物のことであって、山中で困難が生じた際に見せることで、まことに霊顕あらたかであると記されていた。山神様は女性なのである。

 これは、助言に沿って見せねばならない。そこで、まわりにヒト気のないのを確認して、変態気分を満喫しながら見せてまわったのであるが、とたんに再び滑落してしまった。

 これはいけない。私の思うところ、山神様の好きな一物は、使い込んで黒光した見事な代物でなければならず、私の貧しい一物では逆効果のようだ。

 ところで、そのための代用品こそがオコゼであって、オコゼとはいっても本当の毒のあるオコゼではなく、柳田国男の「山神とオコゼ」によれば、ガシラと呼ばれるカサゴを干物にしたもののようだ。魚屋でガシラを望見すれば、それがいかに陽物の化身であるか一目瞭然なのである。

 秋田のマタギから九州椎葉の猟師にいたるまで、猟に入山するときは、オコゼを守神として持参したという。
 日向の猟師はオコゼを紙に包んで持参し、狩の前にこう祈る。

 「オコゼ殿、オコゼ殿、今日は一頭の猪をとらせてくだされ。そのお礼に、あなたにこの世の光を見せましょうぞ。」

 といって、紙でオコゼを包む。願いの通り猪がとれると、また紙で包む。なんのことはない、オコゼ殿をだますのである。だから、先祖から伝わった古いオコゼになると、とれた猪の数だけの紙に包まれていて、誰もその中身を見たものはいない、と柳田は書いている。なんという麗しい風習なのであろう。

 ところで、宮崎日出一氏は、金剛山六千回を含む一万回を超えるほどの比類なき登山を行っておられる方だが、氏の紀行文集である「山岳巡礼」を拝見すると、たびたび山中で一物をお見せになっておられるようだ。

 車に戻ったのは10時で、時間もあり欲求不満なので、秋葉山に行った。

 もう新雪は溶けていて、山頂駐車場に車を置いて歩いた。十年ぶりの再訪だが、前回とは大きく様変わりしていた。鉄骨製の回廊風階段が設置され、山頂の神社もコンクリート製の実に無愛想な代物に変わっていた。
 なるほど、これなら二度と消失することはないだろうが、こんなもの八百長だ。シラけるばかりである。

 この神社の経営者たちは、とんでもない思い違いをしているようだ。こんなコンクリートの低俗な建物に、神様が安らかに鎮座するとでも思っているのだろうか。神霊は、いにしえを好むものと相場が決まっているのである。

 およそ神様が住まわれるからには、建築後最低でも百年以上、できれば三百年以上を経ていなければならない。そうしてやっと、建物は自然に同化し、八百万の霊魂が棲みつくとともにジワジワと神気に包まれてゆくのである。

 私の見るところ、三尺坊の魂は再び越後に逃げ帰ったに違いない。ああ、これからは火事の多い厄年が続くことになろう。すべては、秋葉神社経営者の軽率に帰せられねばなるまい。

 樹齢千年を超す巨杉は健在だった。そこから両部神道で有名な大権現秋葉寺に降りる尾根はヒト気もなかった。いまどきの参詣者は、車から数百メートルも歩かないのだろう。三尺坊の宿舎は、もう長いこと営業をしていないように見えた。世間は、何もかも車利用を前提に再編されてゆく。車に無縁な世界は滅び去るのみなのだろうか。



 黒法師岳 2067m (磐田郡水窪町水窪ダム戸中林道より 91年3月21・22日)

 数年ぶりの寒い冬も、3月に入るとさすがに辛いほどの厳しさも薄れ、「暑さ寒さも彼岸まで」という先人の格言通りに、めまぐるしい周期で晴と雨の日が交互に続き、一雨ごとに山の色彩も密かに移ろってゆく。

 そんな彼岸の日、2日の連休をとって念願の深南部主稜へとでかけた。南アルプス主稜も、光岳以北は大部分を歩いているのだが、深南部の主稜については、池口岳などわずかしか登っていない。

 不動・丸盆・中ノ尾根・信濃俣などの魅力的な山域はまだこれからであるが、ヒルの多い夏期よりも、水の心配をしなくてすむ積雪期の方がよいかもしれないと考えている。今回めざすのは、あこがれの一等三角点である黒法師岳と、できれば丸盆岳や不動岳も行ってみたかった。だが、天候には恵まれない。

 水窪ダムの、戸中林道をどんどん走ると黒法師岳の登山口があるはずだった。途中、長者屋敷跡という古跡には、宝篋印塔という石灯篭が残っている。これは中世中国伝来の珍しいもので、なぜこのようなものがここにあるのか謎に包まれていが、どうやら、南北朝時代、ここを拠点に北朝に対してゲリラ戦を展開した南朝方宗良にまつわる遺跡であるらしい。

 水窪ダムから10キロほど走ると戸中林業事務所の大きな建物が見え、その前には頑丈なゲートが行く手を塞いでいる。9時頃に到着したとき、すでに数台の車が停車していた。ここから歩かねばならない。
 ここで、普段から車に積みっぱなしにしている装備をまとめた。さすがに、3月の2000メートル級山岳だから、まじめにピッケル・アイゼン・ワカンの冬山セットも持参することにした。

 テントや、悪場として有名な鎌ナギ通過用のザイルなども含めると、優に30キロ近い荷物になってしまった。
ながらく重荷を担いでいなかったので、ひどく重く感じる。足どりも重く林道を進むと、2時間ほどで右上に目指す黒法師岳はじめ、丸盆や不動のきびしい姿が魅力的に見えるようになる。とりわけ、鎌ナギ付近の稜線のシルエットが、中アの仙崖嶺に似ていて個性的な見事さである。

戸中ゲートから8キロも歩くと、右手に日陰沢林道の分岐があって、そこに黒法師と不動の看板がでていた。地元山岳会のものである。

 ここまで来る間にも林道は相当荒れていて、数トンもありそうな巨石が道路の中央に落ちていて、車の通行は不可能のようだった。日陰沢林道はもっと凄くて、崩壊が進んで完全な廃道になっている。

 荒廃したこの道を1キロも歩くと、右手に青いトタン葺きの小屋があって、左手の山腹に踏跡がついている。赤布が取り付けてあるから、ここが等高尾根の登山口なのだろう。

 小屋は充分に使用可能で、しかも快適そうだ。旧営林作業小屋を登山者の便宜に提供していてくれるようだ。これを見て、ここに泊まって軽装で駆け登った方がよいかとも思ったが、時間も早すぎるし、たまにはテントで泊まるのもよいと考え尾根に向かった。一服の後、出発は昼過ぎになった。

 しかし、登りはじめてしばらくで、重荷を背負ったことを後悔するハメになった。このコースはよく踏まれているとはいっても、笹薮は深く急で、かなり歩きにくい。おまけに、1500m地点あたりからアイスバーンになってしまった。
 まったくペースに乗れない。普段の運動不足が響いてか、珍しくバテてしまった。

 めったに休憩などしない私が、5分登っては5分休むような悪循環に陥ってしまった。ルートは、いつまでもカリカリの氷の斜面が続いている。斜面が急なので、滑落したら樹林帯といえどもただではすまないだろう。アイゼンを装着した。
 軽装なら1時間半もあれば充分な尾根道に3時間以上も費やして、稜線に飛び出したのは、すでに4時近かった。
 尾根の上部は、南アルプスらしいシラビソやブナの快適な樹林帯になる。
稜線はさすがに雪が深くて、ところどころ股までもぐった。ワカンつけなければ全然歩けない。昨日の大雨で、雪が腐ってしまっているのだ。かと思うと、アイゼンの歯もたたないようなアイスバーンも出現したりする。

 これでは、丸盆や不動どころのはなしではない。黒法師岳でさえ、たどり着けるかどうか危ぶまれる。いずれにせよ持参のテントを設営することにした。
 稜線の小広い地点に荷物を広げると、持参したはずのテントのポールが見あたらない。他にも、ラジオや飲料水用の濾紙なども忘れている。このときばかりは、とうとう早発性痴呆症か慢性アルコール中毒性脳変性を発現したのではないかと真剣に心配になった。
 でも、よく考えたら、これが私の本来の姿だったことを思いだして安心した。

 幸いナタがあったので、近くの木の枝を伐採してポール代わりに用立て、ことなきをえた。雪水も、昨日の新雪が残っていたので、濾紙を使うまでもなかった。ただ、ラジオを忘れたのは退屈で困った。
 この日は、ここでそのまま寝てしまうことにした。

 わりあい暖かい日で、3シーズンシュラフしか持ってきてなかったが、十分に寝ることができた。
 夜半、雨がテントを叩きだした。しかし、しばらくでその音も消えた。
 朝4時に起きてみると、天井が垂れ下がっている。チャックを開けると、テントの上に雪が積もっている。外には、およそ20センチの新雪があった。これは予想外だ。この日の天気は、それほど悪いという予報ではなかったはずだ。

 ところが、稜線の向こうに見える前黒法師岳は、明らかな上下の二重雲にとり巻かれていた。これはまずい、二重雲は悪天の確実な前兆である。数時間後には、豪雨になる可能性が考えられた。

 不動岳はともかく、ひとつも登らずに逃げ帰ったのではカッコウがつかない。せめて黒法師だけでも登らねばならない。食事も取らずに、あわてて駆け出した。ワカンを装着し稜線を行くと、右手にガレ場を見て急な尾根を登るようになり、等高尾根分岐より1時間ほどで山頂に達した。と書くと簡単だが、実際は結構大変な歩行になった。

 黒法師岳の本峰頂上付近は、実に美しい針葉樹の森である。ゆるやかな頭峰で、展望は皆無であった。それでも、森の雰囲気がすばらしいので充分に満足することができた。ここにはエックス字型の変則三角点標識があるはずなのだが、1mの積雪に埋もれて全然わからない。興味はあったがどうしようもなかった。

 深南部の山々のなかでは、三角点の置かれたこの黒法師岳と大無間山は、古くから知られていた。旧榛原郡誌に、明治42年7月の、孟八郎による黒法師岳登山記がでている。

 「黒法師岳に上るには、大間・河内より入る。湯山より西にはケヤキ・ハンノキ・モミ・栂等の混淆樹林にして、下湯沢より上湯沢に至り、これよりは斧鉞入らざる密林にして森の下草は概ね熊笹なり、この辺までは冬は猟師通ひ、夏は黐取り入るといふ。

 焼畑のあたりに山葵沢あり。これより深く入れば雑木は少なくして針葉樹となり、青ナギ沢より西沢山を上がり青ナギ點に出づ。ここにては、東及び東北に奥法師・前黒法師を見、西南に板取・たばねぼつ・川上等を望むべし。

 これより西北に下りて大久保の小屋にい出づ。更に東北にたどり二ツ山にい出づべし。ここには針葉樹・ブナ・樺等を生ず。黒法師には五尺余の熊笹簇生ず。頂上は樹木なく、円盤状の小平地にして一等三角点の設あり。

 さて、二ツ山より更に方向をかへて、前黒法師に上がるべし。前黒法師には熊笹はなくして栂の密林ありて、その下には高野万年苔・甲苔等を布き、間々梅鉢草・舞鶴草などを點綴す。
 頂上には黒松・唐桧・ビャクシン等簇生し、三等三角点を置く。これより南に下りて湯沢に至るべし。」

 これでみると、明治末にはすでに一等三角点が敷設されていたようで、その頃には頂上に樹木はなく、すばらしい眺望だったにちがいない。孟八郎は、現在の寸又峡温泉の源泉地を経て上ったようだ。

さて私だが、黒法師山頂にやっとの思いで到達したものの、すでに小雪がちらつき始めていた。やがて本格的なミゾレとなり、もう丸盆岳にまで足をのばす意欲は失せた。急いでテントを畳み、7時には下山を開始した。

 昨晩のうちに新雪が積もったため、昨日の自分のトレースが完全に消えてしまっていた。等高尾根には標識テープがついているが、枝尾根が錯綜した恐ろしく複雑な地形で、テープを見失うと地形図とコンパスだけではとても下れそうもない。

 2、3回もルートを失い、元に戻って慎重に確認しなければならなかった。急なアイスバーンの下りはアイゼンをつけていても相当な危険を感じたが、1時間半ほどで日陰沢林道に降り立った。

 戸中山ゲートまでの道は長かった。雨は予想通り豪雨に変わり、ズブ濡れになって歩いていたのでひどく寒気がしてきた。車にたどりつき着替えると、心からホッとため息がでた。

 帰路、水窪の元禄茶屋名物のジンギスカンで腹ごしらえをして帰った。ここは肉屋も兼ねていて、旨い焼き肉を食べさせてくれる。
 そういえば、秋葉茶屋の名物もジンギスカンなのだが、この地方の名物がジンギスカンである理由は、平地が極端に少ないため、傾斜の強い山腹で飼育可能な羊を飼う農家が多いためであるという。



 麻布山  1685m
(磐田郡水窪町地双、水窪ダム湖、戸中大吊橋より 91年2月24日)

 麻布山は、秋葉山にはじまり常光寺山を経て黒法師岳に至る長い稜線に頭をもたげた、息をのむほど重厚な貫禄の山である。

 この山の背後に、前黒法師山1782m(前黒法師岳1943mとは違う)があって、その奥に鎮座する名峰黒法師岳に至る稜線伝いに踏跡があるという。この日は、前黒法師山をめざした。

 3月はじめに、京都の伊藤潤治さんから「日本山嶽誌」の深南部についての抄粋をいただき、添付の手紙には、山嶽誌に記された栃生山(戸中山)が麻布山であると書かれていた。ついでに書くと、恵儀岳は中ノ尾根山、西俣岳は塩見岳ということで見解が一致した。

 ちなみに伊藤さんは、過去にこの地域の多くの山を踏破されておられるヤブアルピニストの超ベテランで、77歳の今もバリバリの現役で、もはや超人というしかない方である。

 古い地図を見ると、戸中山の標高は、ほとんど麻布山のものになっているし、他の山々から望見した姿も、麻布山のピークの雄偉な姿がひときわ目立つので、かつて、この山が戸中山であったことは疑いない。現在の戸中山は、前黒法師山との間の1610mのピークに位置づけられている。

 登路の資料が得られなかったので、2・5万図通りに、水窪ダムの戸中吊橋からの破線路をめざした。
 ところが、この日、今冬最大で数年に一度しかないマイナス50度以下の寒気団が日本上空にきていた。天気予報は最悪で、日本全国(珍しく太平洋側も)雪模様であった。しかし、懲りもせず23日夜、出発した。まったく非常識というしかない。

 24日も、幸い戸中吊橋までは支障なく来れ、空模様も、ときおり薄暗くなるものの、青空の見えることもある程度だった。冬靴が壊れているので、スノーシューズを履いて出発した。

 吊橋を渡ると道は右手の山腹を上がる。キリキリする寒気のなか、最初からサラサラの新雪の中を歩くことになった。

 作業小屋を過ぎると、左手の尾根を上がる。右手に廃屋を見て、わずかで右の草むらに小さな石碑があって、板橋城水没記念碑となっている。水窪ダムによって水没した史跡を移したものらしい。

 その先5mほどに、右手に登る分岐があったのだが、この時は気づかずに真っすぐの良い歩道を歩いた。どんどん歩くと、伐採現業地の尾根になった。見事な杉と桧の植林地で、木曾の美林にも匹敵しよう。
 ここの切ったばかりの桧の年輪を数えると、約200~250輪ほどであったので、これこそ山住家の植林地なのだろうと思った。

 年輪気象学というのがあって、その地域の過去の気象データは、古木の年輪によって正確に確認できるという。興味をもって、しばらく観察することにした。

 この植林は、江戸中期のものらしいが、後期までの100年間は、稀に見る順調な生育を示している。ということは、この地域は江戸後期まで非常に温暖な気候に恵まれたということである。徳川幕府が長期に渡る支配を確立しえたのも、この温暖の恵みによってであろう。民衆は、食える限りにおいて、権力のどんな横暴でも我慢することを、すべての歴史が証明している。

 ところが、百数十年前、浅間山の噴火やクラカトア火山の噴火に伴う大冷害の発生期、つまり天保天明の大飢饉の年前後は、異常なほど年輪が詰まり、この傾向は百年ほど前まで続いている。そして、食えなくなって明治維新が起きた。最近では、50年ほど前にも年輪が詰まっている。戦争中だろうか。

 このような観察は、ぜひお勧めしたい。各地域によっての差異を発見するのは興味深いものである。これこそが、学ぶというものだ。

 伐採用の道をつめると、上部で道は消えてしまった。新雪のなかなので見失っただけかもしれない。とにかく、強引に尾根に這い上がることにした。

 よじ登った主尾根に、立派な道があった。おそらく木馬道であろう。この地域の山は、登山者がほとんどいないわりに、しっかりした道の多いのは、古くから木地師が深い山奥に居住していたことと、現在もなお、山里の住人と山との日常的な結びつきが強いためであろう。

 この日、狩猟シーズンも盛りで、ここまで散弾銃の発射音が絶えることなく聞こえ続けた。もしもライフルなら、本気で流れ玉の心配をしなければならないほどであった。
 対岸の峠や戸中部落の付近からである。いったい、何千発撃てば気がすむのだろう。あれほどの玉が全部命中していたら、南アルプスの生きものが全部死んでしまう。だが、下手な鉄砲は数撃ってもあたらない。

 どんどん登ると、尾根が痩せて急登になった。このあたりからサラサラの新雪の下に恐怖のアイスバーンが出現した。簡易アイゼンでは歯がたたない。ピッケルも持参せず、怖い思いをした。

 稜線に出ると、積雪は1mほどあるようだった。大きな雪庇がでていて、吹き溜りでは腰まで埋まる場所もあった。ラッセルに苦しんだが、しばらくで山頂の平原地形に達した。ここまで、吊橋からおよそ3、4時間みればよかろう。雪上に踏跡は皆無であった。

 広大な山頂平原は、数ヘクタールはあろうか。シラビソなどの針葉樹林が密生し、見通し皆無で方向感覚が分かりにくい。帰路は自分のトレースに頼るしかない。

 樹林の中に半ば倒壊した小屋があったが、使用不能と思われた。その先に、山頂らしき切り開きがあった。だが、このときにわかに黒雲が天を覆い、心配していた風雪が舞いはじめた。これで前黒法師はあきらめ、ただちに下山することにした。途中から、非常にイヤな予感に包まれていたからである。

 やがて激しい降雪がはじまった。みるみるうちにトレースが埋まってゆく。あわてて降りようとするが、アイスバーンで何度も転倒し、雑木につかまりながら必死で降りた。
 やっとの思いで、緩くて歩きやすい山道に戻り、朝通らなかった良い道にしたがって下山すると、トタン葺の社のある伐採地を経て、石碑のそばで朝の道に合流した。そこに赤いポリ紐をつけ、無事に車にたどり着いた。

 帰路、水窪町から豊橋に出たが、この地域に珍しい積雪が始まっていた。豊橋インターから岡崎インターまで東名高速を走ったが、妖気とでもいうか、なにか異様に不安な印象を持った。

 余談だが、私は最近、トラックを運転中に突然、ある大きな橋の上で欄干を突き破って川に転落する幻想にとりつかれて怯えた。翌日、その場所にくると、車が川に転落していて、運転手は死亡したと新聞にでていた。

 この夜、この付近で、降雪によるスリップのため2台のJRバスを含めた80件の衝突事故が発生し、死者9名、負傷者100名余の大惨事になったことを知ったのは、白銀の世界となった翌朝であった。



 毛無山 1946m(90年5月26日)

 富士山の好展望台として知られる天子山地の毛無山は、全国に30座余りある毛無山の最高峰だそうである。

 東京にいたときに、このあたりの山は総ナメにしたつもりだったが、調べたら未踏で残っていた。しかし、200名山に取り上げられていなければ、わざわざ行かなかったかもしれない。

 土曜の夜、国道52号から4月に買ったばかりの4WDバンで身延町を目指した。下部温泉から湯の奥まではマシな道で、それから狭い林道になった。しかし、2・5万図の登山道の取りつきはまったく分からず、いつのまにか大きなトンネルを抜けて訳の分からぬ場所に出てしまった。

 手持ちの地図には、こんなトンネルの記載はない。ここが、どうやら朝霧高原であることが分かったのは、富士宮市の灯火が見えたからである。

 湯の奥に戻り、適当な道傍で車泊した。翌朝ゆっくりと車道を探すと、地図の位置から2Kmほど先の、右に沢が近づいた石の擁壁の上に標識があった。
 地図に記された中山尾根のコースは、廃道になっていることを後に知った。ところどころにある、中山金山の道標にしたがって登る道は、しっかりしているが急登である。

 やがて江戸時代の中山金山の、女郎屋敷跡や代官屋敷跡などの施設跡が現われる。
 隔離した場所で働かせる男たちの不満を緩衝するには、性的奴隷を置くに限る。このあたりの伝統は、第2次大戦中、従軍慰安婦として朝鮮の人々の子女を強制連行し、日本兵の慰みものにした日本人の体質に引き継がれている。このとき「処女供出」を命令した日本軍関係者は、戦後も断罪されることなく政権に復帰したのである。日本政府はいまだにこの事実を認めていない。

 女郎の多くは、朝鮮人・沖縄人子女の従軍慰安婦と同様、役に立たなくなれば真っ先に殺害されたであろう。ここと似た金山跡でしばしば見かける「女郎落とし」などという地名は、そのものズバリである。

 ここまで、奇妙なことに気がついていた。登山道のすべてに掘り返したような跡がある。よく見ると、道にある岩や石が取り除かれているのである。金山跡の広い敷地は立入禁止のロープが張られ、テント式の携帯トイレや休憩所まで設置されている。これで、誰かオエライサマのが登山するための準備であることが分かる。

 誰かといえば、おそらく「ナントカノミヤ」であろうと思われた。バカげた話である。日本人がかくも愚かであるとは。いろいろ書きたいが、ものを言う気力も失せそうだ。

 明治以前、京の貴族が地方へ行くと、土地の人間は、貴族の浸った湯をありがたがって飲んだそうだが、この人達も同じ類か。
 現代日本にも「裸の王様」の逸話が、まかり通り続けているとはアホラシの度が過ぎる。自分に自信のない者は、権威や肩書に頼るしかない。これを「虎の威を借るキツネ」という。

 登山口から1時間半ほどで、突然、富士山の巨望が飛び出す。稜線からの、雄大なすばらしい展望である。富士を狙うカメラマンは、馬鹿の一つ覚えのように三ツ峠山に集まるが、周囲にはいくらでも良いポイントがある。メダカのように群れたがる人間は、決して良いものを得られない。

 稜線の道はさらに急になるが、30分ほどでゆるい美しい尾根となる。ときどき南アルプスの眺めが良い。しばらくで毛無山の山頂に着く。登山口から2~3時間というところだろう。富士山の眺めの良い、小広い草原である。一等三角点の測標が据付けられていた。

 ここには「天子山地の最高峰」という看板が立っているが、どう見てもその先のピークの方が数十メートルは高い。一体どういう目をしてるのかいな。
 そこで、最高峰を目指して40分ほど歩いたが、潅木と薮の、どこがどうだか訳の分からぬ山頂であった。200名山には、ここが大見岳という名で、1975mの標高であることが記されていた。

 帰路、久しぶりに登山者に出会った。やはり、中年の単独行であった。この人に、「ナントカノミヤですかね?」と聞くと、「たぶん、そうでしょう」といわれた。
 下部温泉の保養センターで一風呂浴びたが、瀘過された薬品臭い湯であった。湯舟から川を見ると、典型的な金鉱床の白い石英岩層が目についた。ヒマがあれば掘ってやるのだが、しかし、ヒマはない。



大無間山 2348m 静岡市井川田代より 90年7月7・8日

 大無限山も深南部の盟主として君臨し、一度は登らねばならない。これまで登っていないのが不思議なくらいだ。

 金曜の夜、大無限山をめざして、岡崎ICから東名にのって袋井ICでおり、金谷から大井川を遡って井川の田代に入り、車中で泊った。途中、千頭の町は七夕でにぎわっていた。翌朝、いまにも雨が降り出しそうな曇天を出発した。

 田代の部落から始まるはずの地図に記された登山道は見つからず、地元の人に尋ねると、部落の北のはずれの神社の鳥井から尾根を登るとのことだった。
 教えられた通り参道を登ると、数分で左手に沼津カモシカ山岳会のつけた大無限山の道標があった。

 しばらく快適な小道が続いたが、不調でメシが食えなかったので早々とバテた。しかし、そこはなんとかゴマカシながら3時間ほどで電波反射版のある小無限小屋に着いた。ここまでの道の状態は、想像していた悪路と違って、なんの不足もない良道だった。

 小無間小屋は、中部電力の巡視用施設である。登山者に便宜をはかるために開放されてはいるが、避難小屋ではない。しかし、なかなか良い小屋で、一晩を過ごしてみたい魅力がある。当然、水場はないが、雨水をためるドラム缶が置いてあり、落葉が澱み大量のボウフラが湧いているが、漉して沸かせば飲めぬこともなかろう。ボウフラは良いダシがでる。

 ここからは南アらしい原生林の尾根を行く。踏跡もヤブに覆われ探しずらい。いきなり鋸刃の急登、急降下が続くが、言われるほど危険な場所ではない。しかし、なかなか手強い尾根だ。もう小無間の頂上かと思うと、まだ先にピークが続き、バテも手伝ってイヤケがさしてくる。

 やがて雨が落ち始めた。ヒルを心配したが、なんとか無事に、小屋から2時間で小無限山の頂上に達した。
 頂上は、美しい原生林のなかの快適な小平地である。すてきなテント場だが、大無限山に至るこのコースは水を下から持ち上げるしかない。

 ここまできて、メシヌキのバテが一度にやってきた。もう大無限山まで達するには肩と足が重過ぎる。雨もひどくなり、しばらく歩いた末に引き返すことを決断した。
 小屋に戻ったのは3時半であった。まだ十分降りられる時間だが、なんとなくこの小屋に泊まってみたくなった。

 やがて、雨はものすごい土砂降りとなって小屋のトタン屋根を激しく叩いた。誰もいない薄暗い小屋でラーメンを作ると、やっと食欲が戻ってきた。

 小屋には落書帳が置いてあり、思い付いたことを書き込んだ。夕闇を迎える前、一瞬空が明るくなったので外へ出てみた。電波塔の前は開けていて周りの山が見える。やがて、数キロ先の指乎の間に、霧の薄衣を纒ったピラミッドの大無限山が姿を現わした。威厳のある見事な姿であった。私は、ここまで来れたことだけでも満足できた。

 夜、再び豪雨となった。どうやら小屋泊は正解らしい。私のツエルトではこの雨は防ぎきれなかっただろう。
 翌朝も激しい豪雨は続いた。田代に着いたときは下着までビショ濡れとなった。

 大無間山の山頂には、1993年9月に登頂した。同じルートで、田代から山頂までおよそ8時間程度かかり、山頂の測量櫓の板の上で幕営した。

 小無間山から大無間山までは緩い尾根歩きで、登山者が増え踏跡がはっきりしてきたたこともあって迷うことはないが、水を持参したほうがよい。煮炊きを避けてパンなどですませれば、水も少なくてすむ。私はウーロン茶の2Lペットボトルを2本持参し、それで不足はなかった。

 アマチュア無線の交信を楽しみながらの山旅で、山の楽しみが増えて喜んでいる。ここから、わずか1Wの出力とハンディアンテナで奈良県と交信でき驚いた。

 帰路、いつもの接岨峡温泉に行ったところ、道路や建物が激変していて、またまたびっくりさせられた。バブル経済で余った金を、無理にこのような形で消費しているのだろうが、私には、数十年後の悲惨な廃虚のイメージしか見ることができない。愚かしいばかりだ。

 鄙びて落ち着いた雰囲気の良い鉱泉だったのだが、すっかりイメージが悪くなり、入浴の意欲も失せてしまった。



熊伏山 1653m
(長野県下伊那郡南信濃村下和田より 90年8月20日) 

 「信州百名山」の著者、清水栄一さんが自著の中で遭難したと紹介した熊伏山は、日本300名山にも含まれている。

 南アルプス光岳から池口岳へ向かう稜線は、中の尾根山で黒法師岳に向かう長大な尾根を分け、兵越、青崩峠に落ちこんだ後、熊伏、観音を盛り上げて佐久間湖に消える。
南信の平岡は今でこそ過疎村だが、ところどころ、ありし日の栄華を偲ばせる建物が残り目を楽しませてくれる。かつてパルプ産業が盛んであった頃、また天竜水運華やかなりし頃、平岡は有数の花街として知られたこともあるという。

 日曜の夜は平岡から青崩峠に至る途中で車泊した。月曜の早朝、青崩峠の終点に車を止めたが、地図にある峠道のはずの小道の入口には「これは峠には行けません」という看板がかかっていた。

 2・5万図をどう読んでも、ルートはこの小道以外考えられなかった。はっきりしないまま、この道を詰めることにした。

 上部にきて、この道が青崩れガレの土留工事道で、本当のルートは左の尾根にあるらしいことが分かってきた。

 幸い工事の人達が登ってきたので聞いてみると、やはりそうだった。しかし、左のガレを強引に詰めれば熊伏山への稜線に出られるとのことだった。

 教えられたコースを行くと、しばらくして踏跡は消え、稜線まで100mほどの高さのガレ場となった。ところどころ土止柵があるので、岩ナダレの心配は少ないが、3歩登って2歩ズリ落ちるイヤな登りとなった。詰めは傾斜50度近くなった。とても立てないので、草につかまって四つんばいで進んだ。だが、やがて進退窮まる状態になり、冷や汗で背中が冷たくなった。

 万事窮したか、と思ったとき目の前にシカのフンがあるのを発見した。「シメタ!」と思った。ケモノ道なら踏み固められているだろう。案の定、そのわずかなベルトだけズリ落ちずにすんだ。ケモノ道を進むと、やがて稜線の踏み跡に達した。

 稜線には熊伏山への登山道があった。これはまた三方崩岳のような急登である。ガレで神経を使ってバテたが、やがてゆるい美しい原生林の尾根道になり、休み休みのぼっても下から2時間かからずに頂上に着いた。

 頂上は、鬼面山と同じく一等三角点であった。よい頂上だ。池口岳は鬼面山からの美しい姿と比べると、いくぶんボテッとしている。大沢渡のスカイラインが美しい。

 ここも鬼面山も、冬場の好天に登れば、向かいの小八郎鳥帽子と同じく、伊那谷の大観が得られるだろう。しかし、平岡側へ抜ける道は、ひどく荒れていた。頂上には落書ポストがあって適当なことを書いた。

 下りは青崩峠に降り立った。峠は丸太で展望台が拵えてあり、数百m先に4トントラックが止まっているのが見受けられた。どうやら、佐久間方面からの方が近そうだ。
 道はしっかりしていた。下に、小さな御堂があった。ここは秋葉街道、塩の道であり、武田信玄の史跡である。信州街道とも呼ばれる。

 下り着いた国道林道で、朝、間違えた理由が分かった。2・5万図では林道の終点から峠道が始まるが、実際の峠道は、終点より100mほど手前の、小屋の先にあった。

 入口に工事用資材が無雑作に置かれていたため、標識に気づかなかったのである。
 帰りの車中で、ズボンに黒いシミがべったりと付いているのに気付いた。血糊であった。「やられた」と呻いた。
 ヒルである。単独行でヒルにやられることは滅多にないのだが、ケモノ道を通ったせいだろう。これは完全に止血するまで3日かかった。


七面山 1982m(90年9月2日)

 9月の声を聞いて、多少とも涼しくなってくれることを期待したが、まだまだ猛暑が続きそうである。
 こんな暑さのなかでは、1000m程度の稜線では苦しい。やはり2000m欲しい。ついでに温泉とビールが欲しい。私の願いは、ささやかで可愛い。

 200名山・300名山と睨めっこした末、近くて未踏の七面山に登ろうと思い立った。しかし52号経由ではゼニがかかる。安くあげ、前記の条件を満たすには、日帰りで梅ヶ島温泉経由がよいと決定した。登りは八紘嶺だけで、あとは長いが上下の少ない尾根道だからなんとかなりそうな気がする。 

 土曜日、仕事が早く終わったので、国道1号線を静岡まで走ることにした。私はプロの運ちゃんなので、このくらいどうということはない。名古屋から静岡までおよそ4時間、梅が島温泉までは、さらに1時間程度かかる。ここに着いたのは夜の10時であった。
 登山口はすぐに見つかったが、ここから身延に抜ける林道が完成していたことは知らなかった。この道を利用すると、1時間以上も節約になるが、夜間は通行止めで、しかも朝は7時半にしか開けないそうである。これでは利用できない。だから旧道を辿ることにした。

 夜遅くまで走ると、なかなか寝つかれない。寝ついたのは12時過ぎだろうか。早朝4時前に、無遠慮な人の声で目が覚めた。大声で、「車に人が寝ている」と喋っている。「余計なお世話だ、早くあっちへ行け」と思った。

 再び目覚めたのは、今度は6時過ぎであった。とんでもない朝寝坊である。このコースで七面山を往復するには、おそらく5時前には出発しなければならないと踏んでいた。
 飛び起きて、インスタント焼きそばのエサを流し込んで出発した時刻は、6時40分を回った。

 安部峠の登山口は、梅ヶ島温泉街から5分ほど登ったところにある。よく踏まれた道で、最初は、最近では珍しく手入れの行き届いた杉林を登る。杉は、カラマツのように自然に放置してはうまく育たない。良い用材に育てるには、かなりの手入れが必要である。最近は林野庁が、現場で本当に必要な人々を削減して、不要無用のムダメシ官僚を温存しているので、植林の状態は劣悪なところが多い。

 良い杉は、強い殺菌力を持っている。昔は、酒造所で酒に雑菌が繁殖すると、杉の葉を漬込んで殺菌した。だが、こんな酒は杉の芳香成分が溶け込んでいて、悪酔いしやすい。しかし、燗をすれば大丈夫である。今の酒は、燗をつけなくとも悪酔いしない。むしろ、合成物質による慢性肝臓疾患の方が心配である。

 こんなわけで、昔の酒屋の看板は、酒林と呼ばれるクスダマのような杉の葉の玉か、杉の枝葉であった。今では酒林は都会ではみかけないし、このことを知る若者もほとんどいないだろう。

 この殺菌力を利用して、種菌を接種したキノコの原木を杉林に移して、雑菌から原木を守る方法が普及している。自然界で杉林に出るキノコは、杉の朽木に出るスギヒラタケくらいだが、栽培キノコは、杉林の中で育てられるのである。

 だが、杉のこんな性質が裏目に出て、杉林の中は腐殖が少なく、生命の温床ではない。また、動物の餌も生産せず、保水力も保土力も劣る。だから、杉林はみかけはキレイだが、生物の生活や崩壊防止に有利でないことを知っておいた方がよい。ただ、落葉が抜気式浄化槽のような役割を果たすので、良い水が出る。

 雑草すら生えないこの道を注意深く観察して歩けば、このことをよく理解できるだろう。(後日、林業者に聞いたところ、理想的な杉林には適度の下生えが必要だそうで、このような無毛地帯では土壌のバランスが悪く、杉の品質も悪いといわれた。)

 さて、1時間ほどこの道を登ると、先程の身延へ抜ける林道にでる。安部峠へは林道を歩き、八紘嶺へはすぐに左に登る道に入る。

 八紘嶺までは良い道が続くが、途中、富士見台と呼ばれる切り立ったガレの上では足元に注意しなければならない。初めて現われた、見事な富士山に見とれて転落すると、助からないかもしれない。

 尾根筋を1時間ほど歩くと、やがて左手にダケカンバ・ヒメコマツ・ブナ・カバなどの、ひどく混生した原生林が現われる。だが、右手の林は伐採後の二次林のように見受けられる。

 登山口から2時間半で、八紘嶺の頂上に着いた。頂上は広く、立派な、壊れた温度計の着いた標識が立っている。富士山や南アルプス南部の展望がよい。山伏方面には、これまでと同じ良い道がついていた。

 20分ほど休憩してから、七面山に向けて出発した。まだ9時半だが、時間的には苦しい。せめて4時前に梅ヶ島に帰り着かないと、温泉もビールもだめになってしまう。
 何を隠そう、私の山行の目的はピークハンティングではなく、実は温泉とビールなのである。山はビールのための、絶対に欠かせぬ調味料のようなものだ。というわけで、温泉に間に合うピークを目的地にすることにした。

 七面山への稜線は、いきなり足元の見えないササヤブである。だが、踏み跡はしっかりついている。8月は山中で誰とも出会わなかったが、この分では今日も貸し切りだろうか。

 笹薮の、これといって特徴のない尾根は、約200メートル下降してから、広く深い樹林の中を歩くようになる。だが、ここには尾高山や池口岳のような、動物の棲息痕は少ない。

 しばらくして、前方に気配を感じた。「熊か」と身構えたが、来たのは中年男女の4人連れであった。最近、こんな山で若者を見たためしがないが、7月以来の登山者との出会いで、嬉しかった。

 ついでにいうと、私は若い頃から、予知とテレパシーの超能力に優れているようだ。「だいじょうぶか、この人」と思うあなたは、自分自身で生きてきたことのない証拠である。

 自分以外に頼れない環境に置かれた人ならば、誰でも超能力を自覚するものである。私は、近いうちに起こる事柄がおぼろげに見えるのである。だから自分の死も、的確に予知できるだろう。

 このときも、何ものかと出会うことを予知したのは数百メートルも手前であったし、ミゾオチの奥に不快感を覚えれば、必ず悪いことが起こる。この予感で、過去何度も登山途中に引き返している。
 また、他人の腹づもりを知るのに、言葉など必要でない。

 さて、七面山への稜線は、このあたりで踏み跡も途絶えがちになるが、やがて急な登りを過ぎると、はっきりした道になる。八紘嶺から1時間半で登り着いたピークが、1964mの七面山第2三角点である。ここはシラビソの疎林で、南アルプス本峰の眺めがよく、ここから引き返しても後悔しないだけの値打がある。

 もうここまで来れば、七面山に登ったといってもウソではないが、温泉に間に合う時間で、行けるところまで行くことにした。ここからヤセた美しい、亜高山帯の樹林の尾根を縫うように行く。地図上も、七面山まで登降差はほとんどない。涼しく非常に快適である。

 約40分ほどで、急に樹林が開け、伐採跡の尾根に出る。少し行くと、希望峰と書かれた木板の打ちつけられた、小広い山頂に出た。ここからは、南アの眺めがすばらしい。山伏、笊ヶ岳、農鳥岳と、白峰山脈の全部が見えるのではあるまいか。上河内か聖だろうか、ぬきんでた風格の峰も見える。

 時間は12時を回った。私の超能力が、ビールの遠ざかるのと、何かしらの不安をを告げている。
 目の前に見える杉林の山頂が、七面山本峰に違いない。しかし、あそこまで行くと、かえってこのすばらしいイメージを壊すような予感もした。ここも十分に七面山だろう。私は、温泉とビールに引っ張られるように、引き返すことを決意した。登山口から5時間半の山頂であった。

 帰路、最近の恒例として、要所に冬用の赤標をつけながら戻った。この尾根は、冬でも危険の少ない、快適な縦走ができそうである。
 八紘嶺に戻ると、山頂はガスに巻かれ小雨が降り出した。これが雷雲だと厄介だが、幸い雷鳴は聞こえなかった。さっきの不安はこのことだったのだろう。急いでかけ下って、登山口に戻ったのが3時半である。温泉街に戻り、川向こうの梅ヶ島温泉共同浴場に行くと、日曜日だけあって超満員であった。

 幸い、温泉は4時まで営業で、無事に浸かることができたが、あまりのんびりと浸かる雰囲気ではなかった。ただ、この温泉は山あいの鉱泉かと思っていたら、なんと硫黄臭の強い火山性温泉であったのにはびっくりした。富士火山帯に属するのだろうか。そういえばフォッサマグナも近い。

 ビールは温泉街で入手できず、途中の酒屋で買って飲むことになった。1・5リットルの薄めたウーロン茶を持参したが、不足するほどの山行だったので、このビールの値打は数十万円級の銘酒を上回ったであろう。
   

それぞれの山の物語 4 白山巡礼 後編

 それぞれの山の物語 4 白山巡礼 後編

 別山 2399m 1990年7月

 別山は白山の真の骨格である。
 数万年前に、水成岩からなる隆起山脈であった別山連峰のうちに噴火活動がはじまり、膨大な噴出物が経ヶ岳、白山、大日山を形成した。

 それらの山は、別山が数千万年という気の遠くなるような時間のうちに、海の底に静かに醸成されたことを思うなら、あまりに僅かの時間で突如出現したのであって、インスタントに成立した軽薄さを免れない。

 人々の印象からいうなら、ぱっとせず、ダラダラとふんぎりのつきにくい水成岩山地の山々よりも、さわやかな容貌をもつ火山独立峰に人気が集中するのは当然であって、日本の名山と称される山々の大部分が、富士山以下の切れ味鋭い火山独立峰になってしまうのは、いたしかたないことかもしれない。
  
 だが、別山は違う。その上に覆いかぶさった白山の火山性噴出物のメッキが自然のメスによってはがされるにつれて、別山は隠していた重くいかつい正体を現し、凄みをかいまみせるのである。

 崩壊によって再びこの世に現れはじめた別山の山体は、1万年前に隠されたときといくらも変わらない姿であろう。

 別山の山体の大部分をなすものは、海底に沈澱した水成岩であるが、3億年以上前に古日本海に繁栄した珊瑚礁や放散虫の遺骸も含まれている。そして、それらが隆起し、広大な湿原平野を成立させたとき、そこに琵琶湖の数倍もある巨大な湖が成立し、恐竜とシダ植物を主とする動植物の壮大な楽園になった。それを手取湖という。

 手取湖の膨大な生物性堆積物からなる地層を手取層という。今日、地質学者や考古学者の関心をあつめる手取層基盤こそ白山山地の真の正体であり、真の骨格なのである。

 私は過去4度白山に登った。しかし、いずれのときも別山を踏まなかった。それまで、私は別山を白山中腹の1ピークくらいに軽く考えていた。だが、周辺の山々に登って仰いだ別山の姿は、決して白山の属峰ではなかった。それは、白山から疑いもなく独立した堂々たる大山であった。

 別山に登った日、当初の予定は打波川水系の源頭に位置する願教寺山だったのだが、登路が確認できず、山容があまりに悪絶なので、予定を変更して白山主稜に取り付くことにした。前夜、鳩ヶ湯鉱泉の奥の打波川源流の上小池の駐車場に車泊して、6時に出発した。

 上小池から数百mも下ると林道を歩くようになり、そこにかかる橋を渡れば刈込池である。

 刈込池は、白山を修験道の道場として開山した泰澄が千匹の悪蛇を封じこめたと伝説される三つの池のひとつで、径200mほどの小さな池であるが、日本最大のアカショウビン(カワセミ科)の生息池として知られる。

 悪蛇の伝説とは以下のようなものである。
 泰澄が白山を開いたころ、大蛇が千匹もいて白山に立ち入った大勢の人々を呑んで恐れられていた。

 泰澄は、大蛇たちを集めて言った。
「そのように人を喰ったのでは、人の種がなくなってしまうではないか。しばらくこの池のなかで休めよ。岸に麦を蒔くから、その芽がでたらまた出なさい。」

といって蛇たちを封じこめ、そこに雪を降らせ、決して麦の芽を出さぬようにしたという。この池は、山頂の千蛇ヶ池と蛇塚池、それにこの刈込池の三つであるとされる。

 さて、この大蛇伝説。私は、これまでありふれた空想と思ってきたのだが、全国各地の民話や、今昔物語などの古文献を調べるうちに、どうにも大蛇の実在を前提としなければ説明のつかない文献が多すぎることに気づくようになった。

 大蛇ばかりでなく、それ以上の頻度で登場する狒々やカッパもそうである。そこで発想の大転換をして、これらの空想的動物がかつてなんらかのかたちで実在し、現在は滅亡したものと考えることにした。

 そのきっかけになったのは日本オオカミの研究であった。オオカミは、幸いなことに明治時代まで実在し、各地の伝承についても実証的な研究が進んでいる。しかし、それが現代に実在せず、証拠も残っていなかったなら、空想的動物の扱いをうけるにちがいないと思えた。

 私は伝承の動物について研究をはじめた。とりわけ狒々については多くの資料を得て、世間がびっくりするような結論に至った。無論、生物学者が一笑に伏すにちがいないことは百も承知である。

 狒々については、その正体がヒマラヤの雪男として知られ、現代に実在するものであり、中国で紅毛人、大怪脚、野人などと呼ばれてきたものと同一であり、先史時代、人類進化の傍流に取り残されたラマピテクスやピテカントロプスの子孫であろうと確信するにいたった。

 しかも、それらは今昔物語(白川郷猿丸の話)や柳田国男の遠野物語(猿の経立)など非常に多くの文献に登場し、実に明治時代まで日本に生存したものと結論づけることになった。

 大蛇についても、さまざまの文献を総合すれば、錦蛇クラスのものが江戸時代初期までは確実に日本に実在したと確信せざるをえなかった。これらについては、いずれ項を改めて語ることにしよう。

 刈込池の付近から登山道を見つけるのには骨がおれたが、結局踏跡の一番はっきりした道で正解だった。山菜取りが大勢入っていた。

 六本桧へ向かう道は予想以上に荒れていた。通行者は少なくないのだが、手入れをする者がいないようだ。6月なので草薮も多い。

 稜線へ出るまで落ちつかない道が続く。稜線に、名の通り六本の合木桧が生えていた。ここで赤兎からの尾根道を併せ、三ノ峰に向かう。

 わずかに登ると、泰澄が剣を刺して悪蛇を封じたとされる剣岩だが、どれがそうなのかよく分からない。このあたりから森林限界を超し急登が続くが、見晴らしもよく快適である。

 登山口から2時間ほどで主稜線に達した。わずかで三ノ峰の立派な避難小屋があり、石徹白からの美濃禅定道を併せる。

 ここから別山がはじめて姿を現した。すでに書いたように、この山は白山連峰主脈のなかで火山体でない最高峰であり、まさに真の骨格である。

 その南面は、雪崩に磨かれた水成岩の大岩壁になっていて、太平スラブという名がつけられている。それが初夏の朝陽を受けてキラキラと輝いていた。

 胸を洗われるようなすばらしい景観であった。別山の風貌は、古武士のように重厚であった。足元にはシーズン最初のお花畑が広がっていた。登山者の多くは三ノ峰で満足して引き返してゆくようだが、私はまだ余裕があり、別山に向かった。

 稜線のあちこちで雪渓の切れ目にお花畑が出現し、心をなごませてくれた。30分ほど歩くと、天上の楽園のような美しい高原に出た。

 無人の広大な高原で、登山の最大の醍醐味を味わえる秘境といっていい。径20mほどの池があり、きれいな水で飲用に利用できそうだが、御手洗池と名づけられていて、どうも連想上よろしい命名とはいえない。

 そこからハイマツ帯になり、30分ほどで別山の山頂に到達した。一面のハイマツの稜線の最高点に、小さなみすぼらしい堂宇があった。拍子抜けするほど質素な山頂である。

 8世紀に、泰澄が修験道の行場としてここを開いたとき、主要な三つのピークにそれぞれ権現を祭った。

 現在では、白山神社はイザナギ・イザナミを祭っているのだが、これは明治の天皇独尊政策に沿って古くからあった修験道の権現を葬りさって神道に変更したものであり、元々は、剣ヶ峰大御前に妙理大権現、大汝峰に越南知権現、別山に別山大行事権現がおかれ、別山のそれは泰澄自身を祭ったものであった。

 権現というのは、仏が神道の神の姿をとって仮に現れたと考えるもので、これを本地垂迹説といい、修験道がそうであるように道教の影響下に成立した仏教の崇拝対象である。

 白山妙理大権現は、本地である十一面観音が菊理姫という女神のかたちをとって現れた(垂迹した)と考えるのである。こうすれば、渡来以来の古い道教系の民俗(古神道)と、百済から新たに導入された新仏教思想(小乗仏教)を融和させることができた。

 それは、明治初年、薩長政権が天皇信仰を国家の基盤とする政策をとり、権現信仰を暴力的に破壊し、全国の神道を天皇崇拝思想のために伊勢神道を中心にして再編統一するまで、およそ一千年以上続いた。

 そのあいだ、神道の実体は権現信仰にほかならなかった。神社の神主は祭主にすぎず、実態は別当と呼ばれた僧に支配されていたのである。神道とは、代表的な八幡信仰に見られるように、もともと朝鮮渡来系の騎馬民族がもちこんだ新羅系道教の祭祀風俗から生まれたものだったが、泰澄の時代、本地垂迹説として仏教の理論に組み込まれ、さらに修験道に包摂され、天台宗系の山王神道、真言宗系の両部神道に系列化されていた。神道でいうところの両部が、すなわち仏教の権現信仰なのである。

 白山権現は、全国の権現信仰のうちでももっとも強力で大きな組織をもっていたことと、神道がもともと新羅系の道教であり、それが「シラ」信仰と呼ばれ、「シラヤマ」と呼ばれた白山が、新羅系神社の総本山のような印象をもたれていたことから、天皇家が朝鮮由来であることを隠蔽し、国粋主義を全面に打ち出した天皇神道(伊勢神道)を国家イデオロギーの要にしたいと考えた明治政府の国学ナショナリスト(大久保利通や山県有朋)から象徴的に激しく弾圧されたのである。

 別山山頂に大きな堂宇をつくって崇拝されていたはずの本地仏も多くは叩き壊され、運がよくても引き降ろされ谷に投げ捨てられた。幸運にも破壊され残った仏像は、山麓の林西寺に保存されている。

 これらの排仏毀釈(迦)と呼ばれた一連の仏教や権現信仰に対する攻撃は、武士階級の政権が仏教(特に禅宗)を国教イデオロギーとしていたために、革命的な思想転換をする必要があった明治政権が、伊勢神道や天皇信仰を利用したものとも考えられる。

 明治維新にいたる倒幕運動のイデオロギー的支柱になっていたのが、本居宣長や平田篤胤の天皇制復活の復古神道であったことを考えれば容易に理解できよう。尊皇擾夷という中国のスローガンが大同団結の要にもちだされた。革命勢力には、美しい名目と、それにふさわしい権威が必要だったのだ。

 帝国主義侵略戦争の時代であった幕末明治、強力な国家主義はナショナリズムに不可欠であった。明治政権は、東アジア諸国が欧州列強に蹂躙され隷属させられて苦しむ姿を見せつけられていた。民主主義は、民衆のうちに赤子ほどにも育っておらず、この時点では、より統一的な権威こそ未来を照らす松明であったといえよう。

 国家主義は、人々の観念の上に築かれる虚構にすぎないから、それを支える見せかけの合理的根拠と観念の教育体制がなければ成立できない。明治政府は、日本国家という虚構の本尊に天皇を祭り、神道思想による教育的洗脳を行うことで、それに絶対的権威を与え、同時に、日本国民に他民族に対する優越感を与えた。

 以来、天皇家に生まれた世襲者は、大東亜で最も優れた国民の、最も優れた大将ということにされたことにより、一生物としての生身の存在を主張する権利を奪われ、気の毒なことに観念のうえで「人」を超越しなければならなくなり(その実態は、自由に泡屋に出入りすることさえかなわぬ独身中年のナントカノ宮の悲劇を思いたまえ)、そんな残酷な悲劇を、国民と自称する妄想集団がおめでたく、かつありがたく担ぐという奇妙にして滑稽な社会的現実が続いているのである。洗脳の、なんと強力であったことか。
 少々、横道にそれすぎた。

 別山の山頂の展望は、いわずもがな絶景である。南白山の下には、神秘的なエメラルド色の白水湖がすばらしく、尾上郷谷には千古の原生林が一斉に新緑の協奏曲を奏で、ひとりで静かに景観を独占できる喜びに酔いしれた。

 山頂直下の太平壁は巨大なお花畑になっていて、名も知らぬ高山植物の可憐な競演であった。まさしく、至福のひとときであった。

 だが、尾上郷に微かに見える林道の荒廃も見逃すことはできなかった。ここには、御母衣ダムの補助ダム建設が進行中だという。
 わが、中部圏の山々のうちで、もっともすばらしい自然の残る白山。人々の子孫にいつまでも美しいままで残してやりたい。


 白山 2702m

 「白き山」という命名は、いつのころか自然に生まれたものにちがいない。モンブランもダウラギリもその意味は同じであり、日本アルプス最高峰の北岳も甲斐の白峰と呼ばれた。

 白山が名古屋から認められる時期は、大気の清澄な冷たい季節に限られるが、それはいつも白い。

 朝鮮半島からやってきた季節風は、日本海でたっぷりと水蒸気を摂取し、なぐりつけるような暴風になって白山の壁にぶちあたり、そこに激しく雪を雪を降らせる。白山は日本有数の豪雪地帯であって、冬期数十mの積雪さえ珍しくない。ただ、伊吹山のように積雪観測がされていないので、正確な記録は分からない。

 2700mという高度は、日本アルプスを除けば内陸の八ツ岳にしかなく、越前沖の日本海では、沖へ出た漁師たちのよき目印になったにちがいない。

 それどころか、朝鮮半島から日本海に出漁した漁師たちにとっても方位を決める大切な目標であったにちがいなく、古来、この山をめざして日本海を渡った渡来人たちにとっても単なる目印を超えた霊的な存在としてとらえられた。

 白山に霊性をみいだし、修験道の行場として開いた越前の僧泰澄も、そうして白山をめざして朝鮮新羅からやってきた渡来人、三神安角の子であった。

 泰澄の一族が朝鮮からやってきたことなど驚くに値しない。
 日本列島に人類が棲みつきはじめたのは、明石原人や牛川人などの発掘をみれば、数十万年前、すなわちホモサピエンス以前からであることが確実だが、リス・ウルムの氷期には大陸と地続きであったことから、ゾウなどとともに多くの人々がやってきたにちがいなく、同時に、黒潮に乗って、南方から大勢の人々が北上して日本列島に棲みついた。

 彼らは、今日縄文人と呼ばれるようになり、優れた土器石器文化を遺した日本列島先住民であった。彼らが日本列島の主役であった時代は1万年ほど続いたことが分かっているが、2500年ほど前に、中国揚子江下流に開かれていた米作農耕民族国家(おそらくは越に滅ぼされた呉)の住民が高度な文化とともに北九州に移住してきて以来、主役の座を明け渡すことになったようだ。

 今日、弥生人と呼ばれることになった渡来民族は、組織的に移動して、九州、西日本の河口沿岸部を中心に大いに勢力を広げ、原始的な氏族社会を形成していた縄文人を北方や山奥に追いやった。

 以来、日本列島に灯された弥生文化に引き寄せられるように、大陸や朝鮮半島からの民族移動が絶えることなく続いた。

 3世紀から8世紀にかけて、中国北東部に勢力をのばしていたツングース系の騎馬民族まで国家的規模で大量に渡来し、彼らは江南から渡来した弥生人の氏族王権を制覇し、みずからの古墳文化王朝を成立させた。
 後に、これが天皇家と呼ばれるようになる。

 本来、ツングース騎馬民族の王権継承の基準は、世襲ではなく、王としての能力であった。したがって、8世紀まで天皇家の血脈の交代は数度に及んだようだ。白山山麓の新羅系渡来人の王であった継体が王権を掌握した時代もあった。だが、朝鮮半島南部の百済の王であった聖徳太子の一族が、その圧倒的な教養によって崇敬され、王権を得ることによって、天皇家の血脈に決着をつけたかとも思える。

 太子もまた騎馬民族の子孫であったことは、記録された衣服が乗馬に必要不可欠なズボンやブーツを用いていたことによって証明できよう。米作農耕の民族にズボンは不要かつ邪魔であって、必要なものは「呉服」と呼ばれたスソからげの可能な衣服と、湿地帯に適したワラジであった。ズボンやブーツは、騎馬の必需品であって、スカートしかなかった欧州でこれが用いられるようになったのも、中央アジア騎馬民族の影響に他ならない。

 さらに、古墳時代に用いられた剣などの武具は、すべて騎馬戦争に適した直剣式の突くタイプであることにも注目する必要があろう。農耕民族には切るタイプの曲剣が必要なのである。

 京都を開いた秦氏も、相模や武蔵の先住民となった秦氏、埼玉の高麗人たちも、皆朝鮮からやってきた。というよりは、古墳時代以降の日本文化と称されるものは、おもに朝鮮文化であったと断言してさしつかえないのではないか。
 さらにいえば、日本という国家そのものさえ、朝鮮から移されたことを旧唐書が示唆している。旧唐書という唐の国史には、日本国が朝鮮半島にあると書かれているのである。

 このような、人と、それにともなう文化の渡来の大規模なものは、鎌倉時代、フビライの元帝国によって滅ぼされた南宋の住民の大規模な渡来によって終止符をうつ。同時期の元冦と、その報復として盛んになった倭冦によって、政権は国境の交通にたいする警戒を厳しくせざるをえなくなったからである。

 8世紀、泰澄の時代、騎馬民族が日本の支配階級として圧倒的な勢力を確立したころ、宗教界を中心とする知識人階級も渡来人とその子孫によって占められていた。天台宗の最澄も、真言宗の空海も、行基も、役の小角も、著名な宗教界の覇者たちはすべて渡来人の子孫であった。

 というより、このころすでに日本先住民は追われて大部分が日本海側か北方に移動しており、本州西部太平洋側では、よほどの山奥か離島にしか残っていなかったと考えられよう。最後の縄文人、日本先住民であった蝦夷(えみし)も征伐殺戮され、その一部は北海道にアイヌ族として残った。縄文人は、非常に気の小さな優しい人々で、おそらく戦争を好まなかったにちがいない。

 歴史に記録された日本は、この時代、権力も言語も民俗も、文化というものことごとく渡来のものになった。

 渡来人の文化は、すでに中国で体系として確立していた密教・道教・儒教を基礎としたものであっただろう。これらを厳密に区分することは困難で、相互に影響を与えあい不可分の巨大なイデオロギーとして日本にもちこまれた。

 それらは、すでに日本人の血肉として定着し、論ずることさえ不可能な日本的風景そのものになってしまった。つまり、それが日本ということになった。

 日本の精神的原型と主張される神道も、その要素を厳密に追ってゆくならば、明らかに朝鮮新羅系の道教に到達し、天皇家の出自を証明する傍証にもなろう。祝詞も社殿も狛犬も、道教のものであり、その祭神はひとつの例外なく朝鮮のものであった。我々は今日、朝鮮の人々にもっとも近い人相・風俗を天皇家に発見することができるのである。歴史的日本とは、朝鮮に他ならないのである。

 新羅から渡来したと思われる古神道は、同じく百済から渡来した仏教に包摂され、習合し、修験道を成立させたとされる。修験道は、道教の要素をもっとも濃厚に伝えた宗教といわれるが、あるいは、すでに朝鮮の段階で習合成立していたかもしれない。

 それは、道教の山岳修行による神仙到達の思想をそのまま踏襲し、修行者は山々の高き峰のうえで超能力を得て変身し、里に降りて人々を救うのである。

 修験道の開祖は、大和葛木の行者、役の小角だとされる。小角はその超能力を朝廷に恐れられ、やがて日本を去って唐に赴いた。唐にあっては道士(道教僧)として崇敬され、実に唐四十仙のうち第三座を占めたと伝承されている。
 晩年は、唐の領土であった朝鮮新羅に過ごしたと伝えられる。この伝説は、修験道と神道と新羅の関係について一定の示唆を与えるものである。

 泰澄が白山を開いたのは、それからわずか後のことで、同時代といってよい。泰澄もまた、小角に劣らぬ超能力者であったと記録されている。
 小角と同様、念力によって自由に飛行し、呪文によって石つぶてを投げることができたとされる。

 また、空海や行基と同じく、虚空蔵求聞持法によって能力を開発した。これは、虚空蔵菩薩に念仏を捧げることによって頭の働きを百倍良くしようという能力開発法である。
 三カ月間というもの野山をさまよい歩きながら念仏を唱え、満願の日に天空から無数の星が落ちてくる夢を見ることによって成就するという。

 泰澄が越前平泉寺に足場をつくり、やがて美濃石徹白を経由し、別山を経て白山山頂に達したのは養老元年(717年)の夏であった。泰澄は、その頂に朝鮮新羅神社の坐女ともいわれる菊理姫をまつった。本地仏は、夢のお告げとして十一面観音であるとされた。

 以来、白山は今日まで絶えることなく、霊山として人々の信仰をあつめてきた。とりわけ、朝鮮の帰化氏族から崇敬が篤かった。白山が、かつてシラヤマと呼ばれたのは、朝鮮の新羅(シラ)と直接の関係を示唆するものであろう。日本には「シラ」と名付けられた民間信仰が多く遺されているが、これらも新羅そして白山(シラヤマ)との関係を示唆するものにちがいない。

 朝鮮帰化氏族は仏教界にあっては天台宗系の勢力であって、比叡山山王権現の修験者がシラヤマを行場とした。白山修験は、やがて本家であった熊野大峰修験さえ圧倒し、山岳宗教の覇者となった。

今日、白山神社は全国に2700社を数え、圧倒的に首位にある。だが、白山神社は白山修験道の直接の継承ではない。

 開山以来、最大の受難は明治維新に意図的につくりだされた。

 新政府は、天皇家の権威を利用して国家イデオロギーの統一を策謀し、天皇を唯一無二の神格にすえ、それを証明する理論として古事記を教典とする神道神話を絶対のものとして民衆に強制した。それまで天皇は、民衆の意識のなかに伊勢神宮の神主程度のものでしかなかった。それを、いきなり徳川将軍を上回る権力者にして絶対神にでっちあげようとしたのだから、なみたいていの事業ではなかった。

 古事記の虚構を真実らしく糊塗するために、神道にかかわるすべての理屈を統一しなければならなくなった。一番邪魔になったのが、民衆のうちに根強い人気のあった習合神道、つまり権現信仰であった。白山権現は、その代表格であり、最大にして最強のものであった。

 神道は、断じて仏教に包摂されるものであってはならなかった。天皇の権威は唯一絶対のものであり、かつ本源的なものでなければならない。そのために、真実の歴史を曲げ、それを伝える形象としての修験道を弾圧廃棄しなければならなくなった。

 かくして神道を支配するところの仏教にたいして排仏毀釈が行われ、激しい弾圧が行われた。修験道は禁止され、伊勢神道の配下の神社になるか、さもなくばもともとの密教宗派に戻るよう指示された。天台宗の影響下にあった白山修験は、天台宗に帰依し、それらの宗教的形象は廃棄、あるいは破壊された。

 白山権現は十一面観音を本地とする権現であり、菊理姫をまつっていたが、本地仏は破壊され、一部は牛首(現白峰村)林西寺に引き取られ、祭神もイザナギ・イザナミに改められた。
 権現は廃棄され、白山神社に変わった。以来、白山から修験道は消えた。

 私の過去の白山登山は、岐阜県側の平瀬からが多かった。平瀬登山道は白山信仰の古道ではなく、明治初年、大白川湯からの猟師道を整備したものである。しかし、このコースは飛騨方面からの最短ルートであって、古くから白山のエスケープルートとして利用されていたことは疑いない。

 平瀬道は、御母衣ダムの補助施設である白水ダム湖畔まで車が入り、夏期はそこに営林署の経営する山小屋が営業している。以前は通行するだけで恐ろしい道であったが、現在はかなり改良された。

 白水湖の水は酸性の温泉水が多量に湧出しているためか、神秘的なエメラルド色の輝きをたたえている。お花畑を前景に湖に落ちる夕陽を眺めるならば、一種異様な彼岸の情景さえ思う景観であった。

 今では湖畔に露天風呂がつくられ、観光客も多くなり、かつてのような静けさも情感も失われつつあるが、それでも大資本の進出する観光リゾート地とは雲泥の開きがあり、味わい深い原始の風格が漂っている。私の好む場所である。

 かつては、ミルク色の硫黄臭い効能抜群の秘湯としてその道の通に知られ、私もひそかに日本三大名湯と考えていたのだが、十年ほど前の集中豪雨で泉源が崩れ、今では透明のありきたりの温泉に変わってしまったのが残念だ。

 もともとの白水温泉、大白川湯は、名瀑白水の滝の真下にあって、その名が白川郷の名の元になった。今では白水の滝は林道の下におかれて風格を下げ、大白川湯はダム湖の水面下に沈んだ。

 このルートは日本有数の、おそらくは白神山地に次ぐ規模のブナ原生林を抱き、大倉尾根のカンクラ大雪渓は万年雪となり、室堂手前の日本有数(最大ではないかと思っている)のお花畑には無数の黒百合の群落があった。
 山頂まで、登山口からわずか四時間ほどで行ける。

 白山登山道でもっともポピュラーなのが、石川県白峰村から入る市ノ瀬口である。私は、これが当然加賀馬場ルートだと思っていたのだが、調べてみると実は越前馬場ルートであって驚いた。

 加賀の国一ノ宮である白山ひめ神社から手取川を遡れば、当然この市ノ瀬に達するのだが、途中、今では白峰湖に沈んだ牛首村周辺の去就をめぐって幕府と加賀藩とのあいだで激しい領有争いがあったことが原因で、加賀馬場のルートは複雑な変転を経ているようだ。

 加賀馬場のルートは、鶴来町の白山神社(下宮)を起点として、中宮の一里野を経て、長大な長倉尾根にとりついて大汝峰に至る苦しいコースであった。

 加賀禅定道といわれるこのコースは、九世紀にはひらかれていたと思えるが、明治政府の樹立とともに修験道が禁止され、白山信仰が衰退した過程のなかで荒廃し、廃道になってしまった。だが、1988年に、地元有志によって再建されたのだが、長大であるために歩かれず、再び廃道に化す日も近い。

 越前馬場は、平泉寺から法恩寺峠と小原峠を越えて市ノ瀬に下り、現在の観光新道の尾根を登るものである。長いだけでなく、上下の多い苦しいコースで、現在は歩く者もなく、すでに一部廃道に化している。

 白山馬場を代表したのは、長いあいだ美濃馬場の石徹白道であった。

 石徹白の御師は全国の白山神社講中を組織し、白山信仰を喧伝し、このルートは「登り千人、下り千人、宿に千人」といわれたほど繁盛したと伝えられる。
 明治以降、白山信仰登山が衰退し、近代スポーツ登山が勃興すると、その登山口は交通の便の良い加賀方面に集中するようになった。現在では、登山者の大部分が市ノ瀬口を利用するようになった。

 夏のある日、はじめて市ノ瀬口から登った。
 別当の駐車場に前夜遅く着いたのだが、さすがに車泊登山者が少なくなかった。朝4時には、暗いなかを大勢が出発していった。大部分が砂防新道を利用するようだ。観光新道は、大雨による崩落のため通行禁止になっていた。
 5時に出発したが、室堂に着くまでに先発組を追い越して先頭にたってしまった。皆、休憩が多すぎるのだ。
 このルート、やたら林道を横切るので面白くない。車で7合目近くまで行けそうだ。右手に見える不動滝が、一歩一歩近づいてくる。

 甚ノ助ヒュッテの手前、海抜2000m付近で、玉石の多く含まれた砂礫がたくさん露出していた。玉石は石英で、径数センチはある。それは、この付近が、かつて水に洗われる環境にあったことを示していた。

 近ごろ、白山周辺で恐竜の発掘が話題になることが多い。この石は、白山周辺で地質学者や考古生物学者の注目をあつめている手取層に関係している。白山火山体の基盤をなす層は、別山に顕著に現れている堆積岩、水成岩である。その表層には豊富な化石生物が含まれている。これを手取層という

 3億年ほど前に海底でサンゴや放散虫が堆積した基盤が徐々に隆起し、1億年ほど前に、白山一帯に巨大な湖が出現し、これは手取湖と名づけられた。手取湖一帯は、ジュラ期、恐竜をはじめとする動植物のまれにみる楽園となった。先の玉石は、この手取湖の湖畔で波に洗われたか、もしくはそこから流れ出る河川流域にあったと考えられるのである。

 現在の白山の山体ができあがったのは、わずか1万年ほど前のことで、ひどくインスタントに成立した。その後の激しい侵食によって、ところどころでこのような古白山の景観にお目にかかれるのである。

 手取湖の生物堆積層は手取統ともよばれるが、これは白山周辺の九頭竜川付近や白水湖付近、福井県側など広範に存在していて、学者やマニアの注目をあつめ、化石探索者がひきもきらない。私もその一人である。
 九頭竜川周辺は、手取統のなかでも汽水領域の化石が出ることで知られ、それ以前のデボン期石灰岩からは三葉虫やアンモナイトも発見される。私の好みからいえば、石灰岩化石のほうが好ましい。美しいハチノスサンゴを発見し、磨いたときの感動はたまらない喜びである。

 ひと汗かいて着いた弥陀ヶ原の景観は、すばらしいの一語に尽きる。

 広大な高原のほとんど全部がお花畑といってよい。白山に尽きせぬ魅力があるとすれば、その幾分の一からの部分はこの高原に負っている。このような楽園は、全国600を超える登山を行ってきた私の経験のうちでも、北海道の大雪連峰や苗場山、尾瀬、平ヶ岳などわずかでしかない。

 室堂の巨大な山小屋には大勢の人々がたむろしていた。かつて小屋の脇にあったはずの黒百合の群落は見あたらなくなっていた。

 白山神社奥宮の若い宮司に話しかけてみた。彼は、廃仏棄釈の意味すら知らない無知無能な(権威をふりまわすことだけが得意な)神主が多いなかで、白山権現の歴史を多く知っていた。
 山頂の桧の堂宇は健在で、純金の金具も盗まれていなかった。が、この付近にあった角閃石の結晶はまったく見あたらなかった。

 南竜ヶ馬場に向かった。
 縦走路をたどった。静かな道で出逢う人はいなかった。エコーラインには大勢の登山者が歩いているのが見えた。あちらは巨大なお花畑だ。誰もいない縦走路のお花畑では、静かに心ゆくまで美しさを堪能した。賑わっているのは皆が歩きたがるところばかり。一歩外れれば、すばらしい静けさのなかに恍惚とする大自然の桃源境が待っている。


 銚子ヶ峰 1990年6月

 白山信仰登山の歴史のうちで、岐阜県側に位置する美濃馬場こそ白山詣を代表する主役であったといえる。美濃馬場は、天台宗長龍寺(岐阜県郡上郡白鳥町長滝)であった。そこには、かつて数百の僧坊が建てられ、中部地方有数の古い歴史をもつ信仰拠点として、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた。

 だが、やがて越前、美濃における浄土真宗の勃興によって民心は天台宗や権現信仰を離れ、明治政府の神道至上政策によって弾圧を受け、さらに明治における大規模な火災が長滝のありし日の栄華を苔の下に埋もれさせた。

美濃馬場、長滝を訪れた権現講中の人々は、そこから阿弥陀滝を経て海抜千mの険しい桧峠を越え、石徹白に向かった。石徹白には白山中居神社(中宮)がおかれていた。

 人々は、さらに、そこから銚子ヶ峰や別山を越えて、白山奥宮に向かって上昇してゆく長く辛い山道を歩いていった。その行程といえば、今日、我々がアルプス山脈の大縦走を行うに等しいほどのものであった。

 往時、「登り千人、下り千人、宿に千人」とうたわれた白山詣の情景は、石徹白のありさまを語ったもので、その賑わいは、全国三千社の白山権現の講中組織を背景にして江戸中期まで絶えることがなかった。

 白山講中の賑わいは、富士講や御岳講に代表されるように、多くの山岳講を啓発したにちがいない。それは、娯楽の少ない民衆にとって大切なリクレーションの場だったのである。

 石徹白には、友人のYさんの実家があった。彼に連れられて、はじめてここを訪れたとき、どんよりと濁った空の下に荒涼たる田園がひろがっている風景を見て、私はロシアの田舎を連想した。

 いったいなぜ、これほどの山深い苛酷な生活条件の地に人里が成立しえたのか、実に不思議であった。だが、Yさんの実家の建物の格式や造作は、とても名古屋あたりではお目にかかれないほどの重厚で立派なものであった。

 そこは、伝統ある白山神社社家の家だったのだ。
 白山神社とは廃仏棄釈以降の呼び名で、それまでは白山権現といったのだが、それは黙っていれば向こうから信者がやってきてくれるほど甘くはなかった。どの権現信仰も、御師(おし)と呼ばれる社家の人々の、懸命な勧誘努力によって支えられていた。御師を大切にしない権現は、たちまち寂れていった。

 御師は、旅行ブローカー・セールスマンのようなもので、全国に散在する権現の講中組織へ出かけていって、あるいは講中そのものを組織し、ご利益を宣伝してまわったのである。

 地方の権現社に付随した講組織を檀那といった。御師は、檀那で白山権現の護符を売り、白山詣を組織し、旅行の段取りを行い、さらに自分で組織した講中の人々を連れて白山に向かい、石徹白にあっては自分の家に泊めた。だから石徹白の家は旅館のようなもので、その格式が御師の格式として認識されることになった。冷涼な山奥の石徹白の集落は、この信仰によって食べることができた。

 詣客が来なければ死活問題であって、米の採れない石徹白ではたちどころに飢えねばならない。だから、石徹白の御師たちは命がけで白山信仰を広めたのである。したがって今日、白山神社が日本最大数を維持しているのは、まったく石徹白の御師たちの努力に負う部分が大きいといえよう。
 だが、石徹白の歩んだ道は平坦ではなかった。江戸時代中ごろ、宝暦年間に、信じがたいような大事件が勃発したのである。

 石徹白は、美濃郡上藩の領地で、郡上藩は宝暦年間まで金森氏が支配した。
 最初、織田信長の家来になり、やがて秀吉旗下に属し、越前大野の領主となった金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨白川郷の内ヶ島氏を攻めた。

 内ヶ島一族は金森氏に敗北して講和を申し入れ、その直後、帰雲城もろとも山津波に呑まれて滅んだ。飛騨一帯は金森氏の所有に帰した。飛騨は鉱物資源の宝庫であり、金森氏はおおいに潤ったにちがいない。

 その経済力は、飛騨の寒村にすぎなかった高山に名城と美街を築き、息子の宗和の時代には優れた茶道の文化をつくりだした。それは、今日まで春慶塗りや宗和膳の名で残されている。金森氏は、名実ともに飛騨高山文化の父であった。

 だが、江戸時代を迎えると、幕府は鉱物資源を領有する諸藩を厳しく監視するようになった。というのも、家康の軍資金供給に功績のあった佐渡の大久保長安が、金山の利益の多くを私物化していたことが死後露見し、その子らが全員切腹させられるという事件があったからである。

 幕府は鉱物資源を独占し、大名に経済力をつけさせないために、外様大名の有力鉱山をとりあげ、天領に変える政策をとった。六代目金森氏は飛騨から追われ、貧しい上ノ山(山形県)に移封されることになった。

 しかし、元禄十年(1692年)、再び元の領地に近い美濃郡上藩が与えられることになった。金森氏は、小笠原家や吉良家とともに茶道礼法の家元であって儀礼に詳しく、将軍の身近にあって特別の配慮を受けたのかもしれない。

 七代頼錦の時代、幕府の儀典役に任命されていた金森氏は、交際上出費が多く、窮乏する藩財政に苦しめられていた。家老は増収にあせり、領民からの収奪を無謀に厳しくした。郡上の農民は悪政に苦しむことになった。

 江戸中期、それまで比較的安定していた気候が火山活動などの影響で寒冷化し、全国的規模で飢饉が発生するようになっていた。百姓の生活は、かつてないほど圧迫される状況が続いた。

 やがて、江戸時代を通じても最大級の一揆が、金森氏の領下で起こるべくして起こった。後に宝暦農民一揆という。郡上周辺の五千名を超す百姓が結集し、金森氏の暴政を糾弾して立ち上がったのである。

 この事件の解決には四年を要し、同じ時期に石徹白に起こった大きな争いの処理をめぐっても幕府の追求を受けるところとなり、金森氏の断絶改易という大きな結果を招いた。宝暦一揆と石徹白の事件を併せて、世に宝暦郡上騒動と称され、長く語り伝えられることになった。

 金森氏は、七代二百余年で滅んだ。金森氏の滅亡を招いた宝暦騒動の一端である石徹白騒動とは、どのようなものだったのか。

 石徹白の村では、江戸初期から社家が二派に分裂対立する状況が続いていた。上在所の上村氏と下在所の杉本氏である。その原因になったのは、白山神道の主導権争いであった。
 当時、神道は、天皇家に近く天台宗の影響下にあった白川家に印可される勢力と、新興で徳川幕府に近い吉田家の影響下にある勢力とに二分されていた。石徹白でも、社家のうちに帰属をめぐって二派の激しい論争があった。
 神道印可支配をめぐる吉田・白川両家の争いは激しさを増し、木地屋の世界でも、氏子の印可帰属をめぐって全国的な対立を起こしていたことを記憶されている方も少なくないであろう。

 この地は、古くから白山権現に頼って暮らしをたててきたことから、全戸が社家かそれに準じる人々であったのだが、戦国時代末期に、越前から美濃にかけて浄土真宗の爆発的な勃興があり、天台宗の傘下にあった寺院に大きな影響を与え、真宗に信仰を変える者が続出していた。郡上一帯の民衆は、ことごとくといっていいほど、争うようにして真宗門徒に帰依しようとした。

 その影響は、石徹白にあっては白川神祇伯家の配下、つまり杉本派に著しかった。。下在所の人々は、社家のなかでは、どちらかといえば格下であって、上村派に比べて貧しかった。

 上村派は、上在所社家の権威を高めるために、幕府権力に近い存在である吉田神道に接近し、郡上藩の家老とも懇意であった。

 騒動の発端は、真宗をめぐるものであった。
 それは、杉本派の社家のうちに真宗に共感するものが多く、道場(現、威徳寺)を改築建立するために社家に寄付を募ったことから始まった。

 上村派頭領であった上村豊前は、白山神道の絶対的拠点でなければならない石徹白に真宗の勢力がのびてきたことに、著しい不快と恐怖を感じた。

 豊前は、京都の吉田家に石徹白の神道が危機的状態にあることを訴え、救いを求めることにした。書簡を送り、神道のすたれている現状を綿々と訴えたのである。
 これに対して吉田家は、自派の勢力拡大の好機だと考え、ただちに金森藩に対して建白書を送り、上村のために尽くした。

 藩の寺社奉行であった根尾甚左衛門は、上村とも懇意であり、この機会に上村派の勢力を味方につけようと考えた。

 そして、藩庁の命令として、杉本派社人に対し「以降、吉田家の支配下に入り、何ごとも上村豊前の命令に従え」と通達したのである。

 杉本派は驚き、反発した。彼らは、何ごとにも権威をカサに着たがる尊大な豊前をひどく嫌っていたのである。そのうちに、杉本派の社人が、真宗本山で豊前の悪行を訴えたという噂が流れた。豊前はひどく怒って、その社人を追放し、社家の持ち山の木を大部分伐採してしまった。

 杉本派頭領の杉本左近は、ただちにこの非道を藩庁に訴え出たが、寺社奉行の根尾はとりあわず、かえって左近を叱りつけた。

 左近はやむをえず、直接江戸の寺社奉行、本多長門守へ訴え出た。
 だが、長門守は時の郡上藩主、金森頼錦と懇意であったので、訴えをとりあげるどころか、金森家へただちに通報したのである。

 金森氏はこれに驚き、ただちに左近以下杉本派幹部を捕らえ、家財を没収したうえに領外に追放した。時、11月26日であった。

 上村豊前は、杉本派の執ような抵抗に怒り狂い、藩庁に対し、石徹白から杉本派を全員追放することを許可するよう迫った。

 時、12月25日、杉本派社人の64名とその家族、併せて400余名は、突然、着のみ着のままで領外への追放を宣告された。その日、石徹白は猛吹雪であった。老人、婦女子ともども人々は行くあてもなく追われた。

 豊前は、「白川伯の手のものなら白川郷へ行くのがふさわしいではないか」と、大声で笑った。
 桧峠には身の丈を超す積雪があり、老人や子供は凍えても暖をとることさえできなかった。途中の集落には、奉行から助けを禁ずる旨の通達がだされ、住民は戸を閉ざした。
 人々は、絶望的な死への行進をはじめた。

 桧峠を下ると、前谷村があった。前谷の衆は貧しかったが、定次郎をはじめ義侠に篤い人々が多かった。彼らは、藩庁に弾圧されるのを覚悟で、杉本派の人々を救おうとしたが、救援も空しく餓死凍死者は70余名にのぼったと記録されている。

 生き残った者の多くは、ただでさえ宝暦一揆のために辛い生活を強要されていた上之保筋(現、高鷲村)の農民の温情にすがったが、騒動終結後、無事に石徹白に戻ることのできたものは少なかった。

 その後、杉本左近による決死の直訴が実り、同じ時期の郡上一揆とともに、この事件が幕府の評定所で裁かれることになった。

 その結果は、一揆の農民側に大勢の犠牲者を出したが、郡上藩側にとってもとりかえしのつかない事態になった。

 事件の首謀者であった上村豊前は死罪になり、それを助けた根尾甚左衛門は切腹を命ぜられた。幕閣の本多長門も処分されたが、杉本左近は一か月の謹慎という微罪ですんだ。

 金森家は断絶改易された。
 後に、金森氏にとってかわって郡上藩を引き継いだ青山氏は、石徹白の宗教争議に関与することを極度に恐れた。このため石徹白は、明治維新を迎えるまで、一種自治共和国の様相を呈したのである。

 石徹白に秘められた歴史は凄惨なものであった。
 わが友、Yさんの家は上村姓である。柳田国男や宮本常一も泊まって取材している。今では、上在所、下在所とも区別のつかない集落になった。人々は助け合って明るく暮らしている。
 事件の原因になった威徳寺は健在である。そんな歴史も、スキー場を中心とする巨大なレジャー開発の鎚音の喧噪にかき消されてゆくようだ。

 石徹白の中心は、上在所の中宮、白山中居神社である。この由緒の古い神社の風景は実にすばらしい。彫刻も、まるで甚五郎作のように躍動感にあふれている。杉林も千年級の特筆に値するものである。わずかに山道をたどれば、巨大な合木の浄法寺杉がある。

 私は、中居神社の脇から、激しい雨の降り続く林道を車で辿った。終点から山道がのび、わずか上に、屋久島の杉にも匹敵する巨大な大杉を見た。

 樹齢1800年、老木の印象はいなめないが、ここに生き続けていることはひとつの奇跡であって、大きな感動をあたえてくれる。

 その脇をかすめて、草深い山道を分けて登った。緩い尾根を登り、後ろを振り返ると、雨あがりのガスのなかに石徹白の盆地が南海の孤島のように見え、神秘的な美しさを感じた。

 やがて神鳩宮の小屋があり、しばらくでガスに包まれた広い笹原にでた。わずかで銚子ヶ峰の標識の立ったピークに達したが、ひどい雨が降り出すなか、それ以上歩く意欲を失った。

 下山後、長滝に立ち寄った。ここには美濃馬場を継承する白山神社と若宮修古館がある。

 かつての長龍寺は、広大な美濃馬場の一角にひっそりと残されているが、主役は長滝白山神社である。明治維新による神仏分離政策までは、両方併せて白山権現であった。

 美濃馬場長滝寺は、廃仏棄釈のとき大きな破壊を受けなかった。その理由は、長滝周辺が白山権現の社家ばかりからなりたっていたこと、それに郡上一帯が熱烈な真宗信徒の拠点であったことによると思われる。これが、山向こうの飛騨川筋だったなら、平田国学徒によって破壊されていたことだろう。真宗は、天台宗の権現信仰を食いつぶしたのだが、皮肉なことに、それが美濃馬場の歴史的に貴重極まりない優れた財産を救った。
 社家の宮司を若宮家という。修古館の主である。実に、1300年の伝統を誇っている。

 ひどい雨足のなか、若宮修古館に立ち寄った。おかげで、観光客は皆無だ。
 門を一歩入ると、かつて見たこともない美しいたたずまいに圧倒された。まさしく日本美の真骨頂といっていい。「すばらしい!」と思うしかない。建築は、天明5年といういわくつきの大飢饉の年だ。

 笑顔の素敵な、気品のある初老の婦人が迎えてくれた。この方が、40代若宮家婦人であった。

 「この建物はね、雨が降らなければだめなんですよ」
 といわれた。なるほど、建物全体から受ける美の印象は、みずみずしい苔の果たす役割が大きいようにも思える。

 陳列品には、道端で蹴飛ばして遊びたくなるようなありふれた陶器が多い。どこかで見た記憶のある薄汚い黄土色の壷があった。
 「これは、重要文化財に指定された黄瀬戸でございます」
 「わたしどもでは値打ちがわからなくて、最近までお味噌なんか入れてましたのよ、フフフ」
 「これほどの黄瀬戸のコレクションならば、唐九郎が来ませんでしたか」
 「お客様、永仁の壷をご存知ですか」
 「昔ね、唐九郎さんがここに見にいらしたとき、隣の宝物殿で見つけた壷、ほら、その棚の上にあるミニチュアのモデルなんですけど、永和の壷といいます。それを見てお造りになったとうかがっております」

 「お庭の茶室では、谷崎潤一郎さんが細雪という作品をお書きになりました。わたしどももモデルになっていますのよ。フフフ」

 奥の陳列室には、さらに凄みのある工芸品があった。富士百景と銘ぜられた黒漆の宗和膳である。
 あまりの完成度に、ふるえてしまった。こんな逸品は徳川美術館にさえ多くはない。婦人も、その由来を知らないといった。

それぞれの山の物語 3の続き 台高山地の山々

 それぞれの山の物語 3の続き 台高山地の山々

 修験業山 1094m (一志郡美杉村奥津より 89年4月中旬)

 伊勢奥津はなじみ深い里である。国鉄時代、いつもローカル線廃止の第一候補にあげられた名松線(名張松坂線)の終点の駅で、とうとう名張と接続する事はかなわなかったが、それでも生きながらえて、第三セクターの管理下に命脈を保った。

 ここには地質学的に興味深い室生古火山群があり、室町以来の歴史に名をとどめる古い集落も多いが、どこも過疎に悩む山村であることについて例外はない。

 奥津の旧道の狭い街並に入ると郵便局があって、その前のT字路を南へ4キロメートルほど行くと、行き止まりに若宮八幡宮の立派な社がある。鳥居の前の広い駐車場に車を停めて一夜を過ごした。

 八幡宮といえば九州宇佐を本拠とする朝鮮半島渡来人系(騎馬民族系)の神社の代表格である。
 つまり、源平藤橘姓の末裔による武家支配階級の神様ということで、この社の多い地域は武家の子孫の居住地ということになる。なるほど、美杉村に多い人相は、弥生人の子孫たる大阪系のひらべったい顔だちより、騎馬民族の子孫たる京都系の小振りな公家顔が多いようにも思える。

 地域の祖神を調べることで、そのルーツに関するヒントを得られるもので、私の旅先の楽しみの一つなのだが、他人の顔を眺めてにんまりと笑う私は、ずいぶん危ない人間に思われているにちがいない。

 奥津若宮八幡宮は随分と大きな古社で、参道も立派でトイレも整備され、いくつもの建物がある。神社のなかに薬師堂などがあるのは、明治維新で打毀され残った両部神道のなごりであろうか。

 早朝、凍みわたる寒気をかきわけるように登山道とおぼしき沢沿いを歩いて行くと、すぐに滝で行き止まりになってしまった。社務所の人達はヒマをもてあまして羽子板で遊んでいて、赤い袴の可愛い巫女さんに道を尋ねると、横から可愛くない神主が親切に道を教えてくれた。

 修験業山の登路は、社務所の手前で右手から合流する白山谷に沿ってつけられている。気づかずに参道を歩くと梯子谷で、300mほどで行き止まりになる。この登山道の入口は、ややわかりにくい。

 良い道が続き、手入れされた美しい杉林を行く。杉は見事に垂直に立っている。多くの若木に、何やらプラスチックの棒のようなものがタテにぐるりと巻つけられていた。
 どうやら、人工的に絞り杉の床柱用銘木をつくっているようだ。こんな銘木をありがたがる日本人はまことにおめでたいが、大切な美杉の特産品ということだそうだ。

 40分ほどで沢道は消え、踏跡が左手の杉林に続いた。しばらくで痩尾根に達し、ここから尾根の急登になった。ちょっと例のない急勾配で、平均40度を超すと思われる。
 木の根につかまって四つんばいでなければ登れないが、最近開いたばかりの道と見えて、雑木の切り口も生々しい。上部には昨夜降ったばかりの新雪が積もり、スリップを恐れて慎重に登った。

 この山域は杉の植林が進んでいる。しかし、原生林を無謀に皆伐してしまった無惨な山肌が目につく。
 このような里山での林業を否定するつもりはないが、これでは山火事の被害が心配だ。
 ブナ科の原生林を植林と同程度に残せば、それが強力な防火帯になる。とりわけミズナラは、大量の水分を含んでいて延焼を食い止める。東北地方の極相原生林がミズナラ主体になっている理由は、度重なる山火事に淘汰されて、燃えにくい樹種が優勢になったと考えられないだろうか。

 原生林は、多種多様な生物を温存してくれる。多くの生物の存在は、人間の生存をも保証してくれるのである。

 人は木の家に住むべきだと私は思う。コンクリートや石の家は放射線被曝量が多く、長期的健康に有害であり、「気」もよくない。
 なんといっても、針葉樹の香り高い家に勝る環境はない。林業はその意味で大切な生活産業なのだが、林野庁官僚主導の現代林業は、硬直した狭い採算主義によって自ら墓穴を掘っているとしか思えない。

 この地域でも例外なく、植林サイクルが100年程度と長い檜は敬遠され、50年程度と短い杉が主体になっているようだが、このように偏った植林は、山火事だけでなく、さまざまの弊害をひきおこすにちがいない。

 近年の極端な円高は、輸入産品の値段を驚くほど引き下げ、国内産品の価値もついでに引き下げてしまったが、林業もそのあおりを端的にうけた。採算べースの極端な低下は、森を大切に育てる経済的条件を失わせ、大量伐採、大量出荷による合理化をつきつめざるをえなくなった。

 こうした圧力のまえに、原生林の環境的、文化的価値などは顧みられず、猛スピードでかけがえのない原生林破壊が進行してゆくばかりだ。二度と取り返しがつかないというのに。
 しかし、考えてみよう。こんなに異常に腐熟した、誤った経済がいつまで続くだろう。我々は、限りある地球資源の中で、限りのないネズミ講的な繁栄の幻覚に惑わされているだけではないか。いずれ自業自得の瓦解は避けられない。だが、木々の寿命は、我々の繁栄幻想の時間よりもはるかに長いのだ。

 1時間ほどで、ゆるやかな稜線に達した。エアリアマップ(赤目・倶留尊高原)のルートは、白山谷を詰めてゴマ尾根から頂上に向かうようになっているが、そのルートは見いだせなかった。
 地図にないこの踏跡は、栗ノ木岳側の稜線に突き上げた。

 滑りやすい雪を踏んで右手に歩くと、10分ほどで頂上に着いた。頂上には、大きな社が設置されている。若宮八幡宮の奥宮であったが、山名の示す修験道の行場の遺物はなかった。私の辿った新しい踏跡は、この宮の祭礼のために切り開かれたのかもしれない。

 山頂の景観に見覚えがあった。数年前に三峰山(三畝山)からピストンで縦走したのを思いだした。たしか、激しい笹ヤブ漕ぎをした記憶が残っていたが、こんな社がなければ、気づかなかったに違いない。

 この寒さで休む気にもなれず、かといって、今登った雪の急な尾根を降下するのも気後れして、栗ノ木岳に向かった。
 すぐにひどいササヤブになって後悔した。踏跡もところどころ消滅して大変な縦走になってしまった。山頂にたどり着くまでひどく長く感じ、その栗ノ木山頂も眺望に恵まれず、魅力的な場所でもなかった。
 そこそこに、若宮峠から八幡宮への帰り道を行くと、またひどく荒れていた。

 ルートファインディングは至難だった。道は荒廃して分からず、ほとんど勘で大宮谷を下ると、ゼンマイ道らしき踏跡が現われた。やがて道も明確になり、しばらくで林道に達したが、飛び出した場所は、なんと自分の車を停めた駐車場の一角だった。

 行動時間は、登り2時間、縦走1時間、下り1時間半程度である。朝8時に出発して昼前に下り着いた。登山者の痕跡は、ほとんどなかった。

 修験業山の属する山域は、広義には台高山脈北部だが、このあたりでは高見峠から三峰山を経て修験業山に至る稜線を、主峰の名をとって三峰山脈、あるいは高見山地とも呼ぶ。

 高見山と三峰山との間には、比較的しっかりした道がついているが、修験業山付近の稜線は荒廃していて、丈の高いスズタケが密生して普通の道なし尾根よりも始末が悪い。しかし、ケモノ道らしき踏跡が所々に残っているので、縦走は可能である。
 この山域に多いダニと蛭を避けるには、夏場を避け、早春、晩秋を選ぶのがよいと思う。 (89年5月)


 迷岳 1309m
 (飯南郡飯高町奥香肌峡温泉より 91年11月23日)

 私は「秘峰」と呼ばれる山が好きだ。人の立ちいらない場所に行くことは人生の快感のひとつである。「ざまーみやがれ」という気になる。未踏峰への憧れなんてカッコつけなくてもいい。どうせ、コンプレックスの裏返しなのだから。

 台高山脈の秘峰といえば、大台北部から池小屋山、それに迷岳への稜線だろう。この山域に立ち入ったハイカーは少ない。
 ただ、1973年と75年に国体の登山競技ルートがこの山に開かれたので、荒廃していてもかろうじてルートは残っている。

 エアリアマップ仲西政一郎編「高見山・香肌峡」が参考になる。仲西さんは最近亡くなられたが、紀州山地の右に出るもののない通人として知られている。
(91年現在、仲西版は廃刊になり、吉岡編「大台ヶ原」に代わったが、やはり仲西版の方が桁違いに情報量が多い)

 前夜、松坂経由で奥香肌峡温泉の付近に入った。すると、私の古い地図にはない新しいダムができていて、そこで車泊した。これは蓮(はちす)ダムと名づけられていて、大方完成していて、あとは水を溜めるばかりになっている。
 前回、池小屋山登山に来たとき通った県道は通行止めになり、やがて水没することになるようだ。これもまた、日本列島改造の各論なのか。

 翌朝、近所の人に登山道の様子を尋ねると、本来のルートである唐谷川の道は台風のため崩壊して通過不能で、飯盛山のルートも消滅し、唯一、布引谷のルートが通行可能ということだった。しかし、台風で荒廃が進んでいるともいわれた。

 教えられた道は、県道を蓮川沿いに登り、すぐに左に分岐する新設された蓮ダムの堰堤の下に出る工事用道路(旧県道)を行く。500mほどで堰堤下に一軒屋があり、ここは高山さんというお宅である。詳しいことは、高山さんに尋ねてくれとのことだった。

 ちょうど御主人が出て行かれるところで、道を尋ねると、ルートは高山家の真向かいにある川向こうの杉林にあるとのことだった。ここに行くには蓮川を渡らねばならないが、やや下流に危うい丸木橋が渡してあった。教えられた近道を強引に登ったが、道を誤ってひどいロスをしたので、読者には正規のルートを説明する。

 小橋を渡り、ダム堰堤に向かって川岸をへつると、200mほどで杉の幼林と成林の境界の明確なところがあり、この間に沿って登山道がつけられている。
 ここにはピンクのポリプロテープを結んだ。行き過ぎると、すぐに高さ2mほどの堰がある。杉林の道を見失わないように辿ると、しばらくで高山家のテレビアンテナが設置されている。ここまでくれば道はしっかりしている。

 尾根に出るとトタンぶきの小屋がある。ここからは稜線を行かずに、布引谷に沿った水平トラバース道を行く。道は割合しっかりしているが、桟橋はすべて朽ちているので決して乗らぬこと。
 やがて沢を2回横切ると道は荒廃し、踏み跡程度になる。2、3箇所、崩壊したガレのトラバースが危険な場所があるが、技術に不安のある人を同行するときは、ザイルを持参して確保した方がよいかもしれない。

 このあたりまでサルやシカの鳴声が騒々しいが、よほど多く棲息しているとみえる。イノシシのフンも多い。入山者が少ないとみえて、生物密度は濃い。最近、三重県下の山で、何度もサルに投石されたので警戒を要する。テキもサルものだ。

 しばらく荒廃したトラバースを行くと、右手に全国7位、落差240mの布引滝の一部が見える。この滝は、巨瀑の多い台高山脈のなかでも首位を争う。
 台高1位の東大谷、中の滝も落差270mといいながら実際には3段で、1段落差は最大150mほどである。この滝の最大落差は不明だが、全部を見るには危険を覚悟で沢に降りねばならないので遠慮することにした。

 ルートは滝の高巻道に入るが、ここは雑木があって不安感はないものの、足を滑らすと、滝を取り巻く岩壁の上に転がってしまうので十分に注意して歩かねばならない。
 特に下りは要注意である。登りきったところの尾根には標識テープがあって、ここからも頂上へ行けると思われたが、地図のルートを辿ることにした。

 沢を渡ると造林小屋があるが、荒廃して使用に耐えない。沢沿いに行くと二股になって道は消滅するが、これは行き過ぎで、本来のルートは小屋から200mほどの左手から小沢が合流する地点で、左に沢を渡って小さな尾根に取りつく。もうここから、道はほとんど消滅している。

 尾根は痩せているので忠実に辿れば良いが、シキミやアセビ、シャクナゲなどのミカン科・ツツジ科の常緑樹がうるさい。
 この木が多いということは、シカが多いということの証明でもある。シカはこれらの毒葉を避けるので、必然的に優勢林となるのである。

 上部は迷岳の名前にふさわしく、ひどく複雑な地形となった。5~10m間隔で、標識テープを結んで登った。私以外の標識は、ほとんどない。

 天候は不安定で激しい風が吹き、ときおり雨やミゾレがパラつく。ガスで視界もなくなったので下山しようかと迷ったが、結局登山口から4時間を費やして頂上に立った。
 ここは、スズタケに囲まれた10畳ほどの頂上で、大峰山岳会や飯高山岳会のプレートがつけられてていた。
 しかし、ガスとミゾレのため、休憩もせず早々に立ち去った。

 下山は、標識テープのおかげで速やかに降りたが、標識がなければとても元に戻れそうもないほどの、小さな尾根や沢の錯綜した複雑な地形である。十分に注意されたい。

 2時間半ほどで下山し、当然のことながら奥香肌峡温泉に行った。これは、この地域に少ない貴重な天然鉱泉である。下山後に入る温泉は、なによりの喜びだ。県道から蓮川の橋を渡り、ゴルフ場の手前を左折すると、国民保養所の奥香肌荘がある。入浴料金は、銭湯より安い200円で、本当にありがたかった。

 ここに、松坂からバスがきているので、公共交通の便もよい。ここから高山家まで、徒歩15分である。
 さっぱりした木造建築の風呂は、立派な岩風呂だった。正確にいうと、ここは温泉ではなく鉄分を含んだ炭酸性の冷鉱泉で、沸かして用いている。飲んでみると、サイダーのような炭酸風味にキド味があった。よく暖まる良い風呂だ。

 (追記、吉岡版「大台ヶ原」には、このルートは記されず、飯盛山ルートだけが紹介されている。道は荒廃していると書かれているが通行可能で、尾根道なのでこちらの方が安全かもしれない。それに、登山口は温泉宿から目と鼻の先だ。

 その国民宿舎、奥香肌峡温泉は1995年1月廃業してしまい、代わりにリゾ-ト施設と高級ホテルが建設され、入浴料は800円になった。私でも泊まれる良い宿だったのに実に残念。)
 91年12月著


 池木屋山 1396m (飯南郡飯高町蓮川宮谷より 91年11月25日)

 迷岳を下山して部屋に帰り、ひさしぶりにテレビをつけると、NHKで「ミスターマリックの不思議な世界」という番組をやっていた。

 「超能力」的奇術の実演だったが、指輪のテレポート移動というのは普通の奇術テクニックのように思えた。イスの人間持ち上げやテーブル上げも物理的に不可能でない。しかし、スプーン曲げなどは本物だと思った。なぜかというと、私自身たかのしれた超能力を自覚しているからである。

 私の超能力は、第一に予知能力で、これは未来を予知できるというよりは、未来の自分の感情を予知できるのである。
 例えば、山中の狭路で対向車や人と出会うときは、相当な確度で事前に知ることができる。事前に、表現しにくい不安な感覚に見舞われるのだ。だから、自分の身の上について近い将来起こることがらも、深刻な事態であれば、ほとんど予知できる。「虫の知らせ」というやつだ。

 5年ほど前、私の運転するトラックに、子供どうしで自転車で競争中の幼児に飛びこまれた。大事故になり、ノイローゼでひどく苦しむことになったが、この事件などは小学生の頃に将来こんなことがありそうだと予知した記憶が、明確に残っていた。

 こうしてみると、人生とは、すでに描かれた絵巻物を拡げてゆくだけのような気がしてならない。未来は、記憶の中に存在しているのである。

 超能力の第二はテレパシーで、ある程度つきあった人ならば、言葉を交わさなくとも考えていることが読み取れ、本心が見えてしまう。
 とりわけ、感情はよく読める。単純な交信もできる。これにはコツがあって、相手の記憶をできる限り思いうかべ、次に心の底から嬉しい気分になるのである。

 脳を、いわゆるアルファー波の状態におくわけだ。対話は言葉でなくイメージで行なう。
 これは、脳に電磁波を送受する能力があるのではないだろうかと考えている。経験的に、その証拠が多くある。テレパシーは電波の到達域でしか交信できないように思うし、ノイローゼ気味になっていたとき、FMラジオが頭の中で鳴ったことがあった。

 第三に念力だが、これは極端に好不調の波が大きい。最近はからきしダメだ。以前は、ロウソクの火を遠くから意志でコントロールする訓練を行ない、少しはできた。スプーン曲げくらいはなんとかなりそうな気がしているが、これはきっかけが必要なのだ。

 このような能力は誰にでも普遍的に存在すると私は思っているが、他人の顔色を見ながら生きている人には、考えることすら恐ろしいことだろう。常識外のことを「あるはずがない」と決めつける視野の狭い人は気の毒というしかない。
 天から与えられた能力に気づかぬまま人生を終えるなど、不幸の極みではないか。

 常識の規範としての「権威ある学問」が、いかに超能力を否定しようと、それで消滅するものではない。学問がこの宇宙のどれほどを知りえたかと問えば、本当に僅かな知識しか知らないというしかないのだ。学問は、断じて現実世界をフォローするものではない。

 それにもかかわらず、人間は科学技術を弄び、なんでも知ってしまえるかのように錯覚し、あたかも科学技術が人類の幸福な未来を保証するものであるかのような信仰が人々を支配している。

 だが、この信仰的価値観は、国家権力と産業によって利益を得る、権威による安定を欲す人々の特権を保証するためにつくられたものであることに気づくべきだ。

 今日なお科学技術の恩恵を受けず、未開の原始生活をおくる人々が、劣っていて不幸だと決めつけるのは傲慢浅儚で愚かなことだ。問題は物質ではなく、心の豊かさにあるのだ。我々は、科学技術によって物質の豊かさを得ることと引きかえに、心の豊かさを失ったのではないか。

 科学技術は、知識人の優越感を満足させた代償に、人々に健康が科学によってもたらされるかのような錯覚をもたらし、そのことによって野生の健康を忘れさせ、ついには人工的病魔を蔓延させ、どれほどの人々を殺していることだろう。

 科学、つまり学問は、1人のマラリアや結核患者を救った見返りに、10人のガン患者をつくりだし、殺している現実をどうしてみることができないのだろう。

 迷岳で、昼過ぎに人間の不安な感情を感じた。翌朝、ラジオのニュースは、池木屋山で松坂のグループが遭難したらしいと告げた。迷岳と池木屋山は直線距離で4キロである。おそらく、これだったのだろうと思った。
 しかし、イヤな予感はなかったので、たいしたことにはなるまいと感じた。彼らは、その朝無事に下山した。

 その夜、迷岳と同じ蓮川の県道を遡り、15年前の国体で開かれた宮の谷ルートに入った。宮の谷の林道に入ると、100mほど先で道路が陥没崩落していて危うい思いをした。出会いで一夜を過ごした。

 朝、一昨日の疲労の残っているせいか、6時半まで寝込んでしまった。それでも体が重かったが、7時に出発した。

 今年、三重県はいくつもの台風の直撃を受けたが、この林道の被害は想像以上にひどかった。いたるところで、沢の土石流によってズタズタに寸断されていた。

 林道の終点からは、歩道は左岸につけられていて、渓谷探勝の遊歩道として整備されている。危険な場所には、ほとんど立派な鉄製の橋や梯子が設置されているが、上下が多い。このルートを通るのは2度目だが、前回は見事に整備された直後だったので、よけいに荒廃が目立つ。

 やがて道は左手の右岸に変わり、1時間ほどで立派な滝が見えた。高滝という。目測落差およそ40m、一気に落ちる直瀑で、実に見事な景観だ。しかし、この手前の枝沢にある風折滝こそ、香肌峡中最大の落差を持つ名瀑として知られる。日本最大級の降雨に磨かれた台高山脈の渓谷は、黒部渓谷に匹敵する内容がある。

 ルートは高滝の滝壷の手前で対岸に渡り、左岸の岩壁を高巻く。すぐに急に道が悪くなり、踏跡程度で荒廃している。約100m以上も高巻くので、上部は危険な箇所が多い。
(94年4月に、このルートを無線仲間と再登したとき、危険地帯の核心部に地蔵が祀られていた。数年前、ハイキングの女性が滑落死したという。)

 もはや、ここからは山慣れた登山者だけの世界になる。高滝を越えると、もう一つ落差30mの猫滝があった。赤標をひろって河原を歩くと、再び右手の左岸を大きく高巻くようになる。沢にはドッサリ滝があるはずだが見えない。荒廃した踏跡をたどって、しばらくで奥の出合に着いた。

 ここから右手の尾根に取りつけば、秘峰コクマタ山(1394m)方面で、沢を渡って、左手に進めば目的地の池小屋山である。この沢では、石灰岩の接触変成岩(スカルン)が目についた。探せば、面白い鉱物がでるだろう。

 このあたり、割合としっかりした踏跡がついている。やがて、急な尾根に取りついた。迷岳に比べれば、はるかに登山者が多いと思われる。尾根は、珍しくヒメシャラの優勢林に包まれていた。そして、もう一直線に頂上に向かう急登となった。

 途中、優に500年を越えるコメツガの巨木やヤシオの古木も多く、シャクナゲのアーケードの原生林が見事で、これほどの値打ちの森も、東海地方にどれほど残っているだろう。

 1時間ほどの寡黙なアルバイトで達した頂上付近は、快適なブナの疎林だった。美しい良い山並みで、この山域では高見山ほどではないが、国見山に似た原生林になっている。

 この頂上の素晴しさはどうだ。独立峰の大眺望こそないが、このうえなく静かで、深山のなかでの安らかな落ち着きをもたらしてくれる。
 ゴミやアキカンを平気で捨てる愚かものたちもここまでは来れないようで、実に清潔で美しい山頂だ。

 山頂を取り巻くヒメザサと呼ばれる小笹の絨毯も素晴しい。これは、結節のあるミヤコ笹の特徴をそなえていて、同じ場所に長期間生え続けて自家中毒を起こしたり、風環境に適応して矮小化したのだろう。いつまでも離れがたい、美しい笹原である。
 東に、この山名のもとになった小さな池があるはずだが見えない。

 池木屋山という名は、この山が鈴鹿山脈西部に根拠地を持つ木地屋と関わりがあることを示している。
 木地屋は稜線伝いに南下し、奥山に勢力を拡大し、やがて平家の残党とも合流することになったのだろう。彼らは、この尾根から紀勢町崎に入り、そこで一大拠点を構えて今日に至っている。この山には、なぜか源義経の伝説が遺されているが、義経は木地屋となにか関係があったのだろうか。

 この山には、かつて明神平から稜線を辿ったことがある。そのときは、千石山のあたりまできて、あまりにマムシが多いので気味が悪くなって逃げ帰った。
 このようなヤブ山は、今頃くるのが一番良いようだ。頂上まで3時間余を要した。

 下山は、猫滝の手前で道を誤った。沢沿いに戻るべきところを、営林署の標識に釣られて左手の稜線に飛び出してしまった。昨日遭難した人々も、ここで道を誤ったのではないかと思われた。
 この道は上部で廃道化しているが、誤った赤標がつけられているので要注意である。もちろん、正規の荒廃した踏跡にテープを結んだ。

 下山後、一昨日行ったばかりの奥香肌峡温泉を訪れた。一昨日は自分一人だった温泉も、この日は大勢入っていた。実に快適な湯だったが、ひどく疲労感を覚えた。連休帰りの渋滞した道を、抜け道を駆使して部屋に帰ったら、赤ワイン色の小便が出た。

 追記、94年3月、宮川貯水池から焼山尾根を経て積雪期登頂したが、一帯は林野庁による凄惨な皆伐の修羅場と化していた。
 伐採通勤用のモノレールまで施設されていたのにはあきれた。ルートはモノレールの線路に沿ってついているが、荒廃して不明である。鹿たちが、ねぐらを追われ彷い歩く様がかわいそうだった。遺された最後の原生林、大杉谷と宮の谷の尾根一つ隣の風景は、すべてこのようなものなのである。これでは狼どころではない。

 翌4月にも、宮の谷から無線仲間とともに5度目の登山を行なったのだが、樹林帯の美しい開花にもかかわらず、この原生林の将来を思うと憂鬱でならなかった。

 日本人はどこまで愚かなのかと思うが、諸外国の自然を蹂躙することで我々の豊かさが支えられているならば、むしろ、これらの豊穣な大自然も、残るべきでないような気もしている。



 伊勢辻山  1290m
 (飯南郡飯高町高見峠より 90年12月2日)

 土曜日は、仕事を終わると目的地の登山口に直行して、そこで一夜を明かすのが最近の習慣になっている。この山域へは、名古屋から3、4時間程度で行ける。

 台高山脈も、南部は大台ヶ原を除いて魅力のある山は少ない。北部でも、登高意欲をそそられる山はとっくに登ってしまっていて、行先の山を定めるのに苦労する。この日、体調の優れぬこともあって、割合しっかりした登山道で、あまり厳しさのないコースを選んだ。主稜に踏み残した伊勢辻山である。できれば国見山まで行くつもりで、高見峠から往復することにした。

 三重県には、この秋、実に4個の台風が通過した。気象学的には、低気圧の通過コースには習慣性がつきやすく、それほど異常ではないという。4個目の通過が、11月30日であった。これは、遅い上陸の日本記録になった。ただ、台風通過後にも前線が残り、この夜も、寒冷前線の通過に伴って山は大荒れになっていた。

 高見峠は、トンネルの開通に伴って幹線道路から外れ、通る車は高見山の登山者か観光客が多く、一般の通過車両はない。旧道への分岐を過ぎると、凄じい荒れようとなった。狭い舗装道路には、一面に杉や桧の枝葉が散乱し、あちこちで道路が崩壊していて緊張させられた。でも、なんとか無事に峠の駐車場にたどり着くことができた。

 この夜は、激しい風雨で一晩中車が揺れた。いつもなら、とうに出発している朝7時になっても、黒雲が空を覆い、明るくならなかった。そして、真冬と変わらない冷たい北風が吹きすさんだ。

 7時半を回って出発するのには、決断を要した。最初から凍えるような強風に曝され、よほどでなければ着ることのない軽羽毛服を羽織って歩いても、寒さが骨髄にしみた。

 さすがに主稜だけあって、道はよく踏まれ、東吉野村の設置した台高山脈北部縦走路の標識が多く取り付けられている。しかし台風は、稜線の寿齢100年以上もの桧を傾けさせていた。相当な強風に曝されたようだ。

 不調なのでゆっくり歩いたが、1時間で、最初のピークの雲ヶ瀬山(1075m)に着いた。ある程度の展望はあるが、それほど魅力的な場所でない。ササヤブを分けて歩かねばならないが、たいしたことはない。ここまできて、このルートは10年ほど前にやってしまっていたこと思いだしたが、いまさらしかたない。

 かなり下って、南タワという10mほどスパッと切れた鞍部を通過する。しばらくでハンシ山(1137m)で、樹林の中にあって展望は皆無である。このあたり、地名に他の山域にない特異性があるが、由来は知らない。ササに鹿の食み跡がある。ところどころに、石灰岩が熱変成して石英と化合し、大理石になりかけた岩が露頭している。

 池のタオと呼ばれる鞍部にキハダがあって、誰かが樹皮を剥いたので鮮烈な黄色を曝している。キハダはミカン科に属し、日本の歴史的医薬として最も重要な木である。生薬名をオウバクという。

 この山の南に位置する、奈良県吉野郡洞川のオウバク宗大本山、萬福寺に伝わる秘薬、ダラニスケと、木曾御岳山の百草、鳥取地方に伝わる練熊、それに富山の置薬のクマノイなど、日本で胃腸薬として著効性を認められた飲み薬は、ほとんどがキハダを原料としている。これ以外で信頼される薬といえば、わずかにゲンノショウコとセンブリがあるくらいだ。

 これらの薬は、オドロオドロしい伝承を交じえて、各種の霊薬を調合したと宣伝されたが、どの薬も実際の有効成分はオウバクだけであった。ところが宣伝文句の中に、百草は御岳山頂に生える霊験あらたかな秘薬のコマクサを原料として作られたとしたために、マトモに信じた御岳講の信者によって、コマクサは御岳から根絶やしにされ、自動車道のついた乗鞍、ロープウエイの木曾駒も同じ目に遭った。

 コマクサには、ケシ科特有のモルヒネ系鎮痛成分が含まれているというが、微量すぎて有効成分にはならないとされる。有効なほど摂取した暁には、一帯の駒草が絶滅するだろう。

 オウバクの主成分は、アルカロイドのベルベリンである。これは、副作用の少ない優れた下痢止めとして、今日でも多くの胃腸薬に利用されている。

 戦後、田辺製薬・チバガイギー・武田薬品の3社によって、ベルベリン以上の効果を示すキノホルムという薬品が製造された。医化学は、自然から学び自然を超えたかに見えた。だが、天は人間の浅儚な思い上がりに凄惨な報復を加えたのである。

 キノホルムが用いられるようになった日本では、世界に例を見ない神経症状を示す奇病が発生し、深刻な症状の患者数は全国で1万人を上回った。それはスモンと呼ばれ、数えきれない人々に機能障害を引き起こし、数千人に不随をもたらし、数百人から視力を奪い、数十人を自殺に追いやった。ほとんどの場合、治療回復は不可能だった。

 原因解明を進める研究機関は、患者の緑色の舌苔にキノホルムの結晶を発見し、犬にキノホルムを投与することで、人工的にスモン病をつくりだすことに成功した。さらに、厚生省がキノホルムの使用を禁止してから、スモン病の発生は止まった。

 この中毒は、サリドマイドとならんで、戦後薬害の双璧をなし、新薬発見の栄誉を誇る製薬会社に、膨大な賠償債務をもたらすことになった。

 ところが田辺製薬だけは、世界中の疫学者が嘲笑するスモンウィルス説を唱え、賠償を拒否している。そして、チンピラライターや医事評論家に依頼して、もっともらしいウィルス説を出版させた。さらに最近、裁判所は、あろうことか一審の患者勝訴を破棄し、田辺製薬の悪逆卑劣な欺瞞を支持したのである。

 日本の裁判が、世界的に稀なほど権力と企業利益の御用機関に成り下がっていることは、例えば神戸の甲山事件などでイヤというほど思い知らされているが、このようなことでは、我々はもはや権利の守護を裁判所に期待することが不可能ということになる。

 私は、田辺製薬の全社員とウィルス説の提唱者に、彼らが安全だというキノホルムを強制服用させるべきだと思う。このような企業の横暴を許すことは、水俣病の教訓がまったく生きていないことの証明に他ならない。

 天然生薬のベルベリンは、強い抗菌作用があるが副作用は少なく、キノホルムを含んでいたワカマツやキャベジンなどの人気胃腸薬は、再びオウバクのベルベリンを使用している。
 だが、科学技術が人を救うといった信仰が消えた訳ではない。野生の健康でなく、科学技術による健康を求める人々がいるかぎり、田辺製薬のような卑劣無恥な会社につけこまれ続けることだろう。

 キハダの利用法は、夏に樹皮を剥いて内皮を乾燥させ、粉末にして食後服用する。この木は大木であっても、多量に樹皮を剥かれると枯れてしまうので、育成に繊細な注意が必要である。ついでに言うと、最高の胃腸薬はオウバクでなく、活性炭(消し炭で十分だ)だと私は思っている。

 地蔵の頭というなんでもないピークを過ぎると登りが続き、わずかで伊勢の辻に出る。ここは古い峠道で、おそらく伊勢南街道の間道なのだろう。通行禁止の標識があり荒廃しているが、伊勢辻山の正規ルートは、奈良県吉野郡東吉野村大豆生、大又から又迫谷を詰めて、ここに至るものである。

 ここは旧小川村の領内にあたり、1905年、最後の日本狼が、この峠の付近で捕獲されたと伝えられる。松浦武四郎の三度の大台紀行に、狼に関する記述がほとんどないことは、すでに明治中期には日本狼はほとんど絶滅していたとも考えられる。

 ここから頂上まで数百mで、木々に名物の霧氷がかかっていた。ここまで凍える強風を避ける場所はほとんどなく、軽羽毛服を脱ぐこともなかった。この稜線は、風をまともに受ける。だから、当然山火事にも弱いはずで、事実、古い森はなく、ほとんどが植林か二次林である。

 高見峠から3時間かかった。不調なので、珍しくコースタイムを超える時間だ。もっとも、山歩きのコツは歩行リズムに尽きるので、どんなに調子が悪くとも、リズムに乗ってしまえば必ずなんとかなってしまうものだ。
 あとは、リズムを崩さないことだ。

 山頂は低い笹原で、ここまでの稜線で一番の好眺望がひろがる。大峰山脈のシルエットが美しいが、大台山系は国見山からアザミ岳の1400m級の稜線に隠されている。
 国見山は目の前だ。登り口の高見峠では目の前にそびえ立っていた高見山は、はるかに霞むほど遠くなった。もしも晴れて風がなければ、ここは素晴しい山頂であろう。

 遠い昔、満月の夜、この山頂から狼の遠吠えが台高山脈に響きわたったかもしれない。そんな、際だった好眺望のピークである。
 この日、あまりの寒さに温泉が恋しくなって、既登の国見山へ行くのはやめて引き返すことにした。

 帰路、湯気の立つようなシカのフンがあった。池のタオにライフルを持った一人の猟師がいた。犬は連れていない。12月1日からは、大物撃ちが解禁になる。毎年、不愉快な射撃音を聞かされるイヤなシーズンが始まっていた。

 私は趣味猟師が嫌いだ。生活のために猟に生きるのならやむをえないが、滅びゆく野生動物の保護を思いやらず、ただの血生臭い趣味で、動物を殺すことに快感を求める連中は不愉快だ。
 この山域から、すでにカモシカとクマが完全に姿を消しているのだ。

 以前、神奈川県のヤブ山で誤射されたことがある。ヘタのおかげで当たらずにすんだ。だが撃った男は、誤るどころか、「なんでこんなところを歩くんだ!」と怒鳴ってよこした。それ以来、猟師を見るだけで不快になる。

 猟師は50年輩で、誰もこない山の中なので挨拶を交わした。付近にシカがいることが確実なので、わざと大声で話しかけた。(誰が撃たしてやるものか。シカよ、逃げろ!)
 話しながら一緒に歩いた。持っていたライフルは30口径で、シカに当たると、径20センチほどの穴が開き、頭に当たれば半分ふっ飛ぶ、といった。朝からシカの姿は見ていないといった。

 意外なことに、この人は深田百名山をやっていて、年間40回程度の登山をこなし、来週も雲取山に行くと語った。山のことは、私以上に詳しかった。登山者で狩猟を趣味にする人を、初めて知った。猟師の悪口を言ったので不愉快になったのだろうか、この人はハンシ山で三重県側のヤブに降りた。(この方、後に「ひと味違う・・」登山案内書を出版されたNさんにそっくりだった)

 すぐに、奈良県側で犬の鳴き声とライフルの発射音がした。さっきのシカだろうか。なんとも憂鬱な気分にさせられた。
 帰りは、峠まで2時間だった。


 薊岳 1406m 94年3月

 薊岳は、明神平から手ごろな距離にある奈良県側の枝脈の山で、台高山脈北部で1400mを超す貴重な標高をもっている。この他の1400m峰は、主脈上に、水無山・国見山・明神岳があり、ややはずれて桧塚峰があるが、いずれも大又から明神平を経由して登ることができる。

 明神平は台高ファンにはポピュラーな名所だが、登山口が東吉野村大豆生(まめお)大又という山奥の集落で、道も狭く分かりにくいので、東海・近畿の大都市圏から訪れるには少しばかり困難がある。ここを訪れるハイカーも、橋本・桜井・名張といった近郊の住人が多いようだ。

 これらの山々は、休日にはハイカーも少なくないが、普段は落ちついた静けさに包まれ、この地方に少なくなったブナ林や、四季折々の花や紅葉にも恵まれた近畿有数の桃源郷の趣がある。

 薊岳は、バス終点の大又から直接とりつき、尾根を辿って明神平に抜けることができる。私は、まだ根雪の残る3月初旬に大又から登った。

 大又付近に車泊し早朝登山口を探したが、道路が凍結していて狭いうえに路線バスが通行するので、大又の集落には車を駐車する余地がなかった。やむをえず、かなり手前の林道の空地に駐車し、登山口の笹野神社に出向いた。

 笹野神社はバス終点の大又停留所の前にあり、脇の石段が登山口である。やや登ると村道に合流し、驚くほど立派な民家があった。大又の庄屋だったのだろうか。その脇の未舗装の狭い林道の入口に、アザミ岳に至ると記された標識や赤テープが残されている。一帯は杉の植林地になっている。

 植林地には作業道が交差していて、新雪に隠されて登山道が分かりにくい。赤テープに導かれながら登ると、やがてはっきりした踏跡が現れた。かなり上部の小平地に古池辻と書かれた標識を見ればすぐに緩やかな稜線にいたり、このあたりから深い根雪になった。

 変哲のない笹と雪の尾根を、先行者の足跡に導かれて40分ほど歩くと大鏡山だが、これは尾根上のコブにすぎない。山頂の南に小池があるように地図にでているが、確認できなかった。ここで先行者の足跡は消え、スズタケのなかの深いラッセルになった。

 持参のスノーラケットを履くと、それまで膝上までのラッセルだったものが足首までですむようになった。私のはオレンジのプラスチックでできたラッキンクという名のフランス製で、これは面積が広いので沈みにくいが、爪が浅いため堅雪の急斜面でズリ落ちる欠陥がある。冬山登山も20年を超すのだが、いまだ文句のないラッセル用具を入手できない。これは軽量で扱いやすいため多用している。

 ルートは比較的広く、分かりやすい尾根上を進む。薮もなく、樹林帯の尾根である。小さなコブをいくつか越えてゆくと痩尾根になり、少々手強い岩場のキレットに出くわした。両側とも切れ落ちた雪のリッジになっていてザイルがほしいところだが、ピッケルを深く刺しながら慎重に通過した。

 ここから2級程度の岩場が続き、急な稜線を登るとアザミ岳の山頂に達した。眺望も良く、落ちついた雰囲気の山頂である。

 ラッセルのため大又から約3時間以上かかったが、無雪期には2時間程度で来られそうだ。アマチュア無線を取り出し、CQによって数局と交信してから明神平方面に向かった。

 ここから明神平に到る尾根は緩く広い快適なブナの疎林で、歩きやすく危険もない。雪上に踏跡もついていて気分の良い散策道だった。1時間ほどで明神平に着き、ここで、この日初めて若いアベックの登山者に逢った。

 「どちらへ」と聞くと、もう午後2時をまわっていたが、「これからアザミ岳へ行きます」と言う。明神平に幕営して、あちこち登るつもりらしい。暇と元気のある若者がうらやましい。
 最近、山で見かける登山者は中高年ばかりで、元気な若者を見かけることは少ない。私自身、中年の域にさしかかってしまったのだが、やはり山は若者の世界であってほしい。若者はどこへ行ってしまったんだろう。
 下山は、明神平からよく歩かれている登山道を経て大又まで2時間であった。

 明神平は台高山脈に多い尾根上の小平地で、ちょっとした運動場くらいの広さがある。その昔は、源義経が馬を駆ったという伝説のある深い笹原だったが、かつて、ここにロープトウのスキー場がつくられたことがある。今でも、その頃利用された天理大学のスキー小屋が残っているが、すでに荒れてしまっている。

 ここまで約2時間の登山道をスキーを担いで登ってこなければならず、昔に比べて積雪も少なくなったので、今では、ここでスキーをする酔狂者もいないが、最近、地元の自治体の手によって公園風に整備され、休日にはハイカーで賑わうようになった。

 明神平から登る山々は、いずれも1400mを超す標高をもっていて、わずかながらブナ帯の原生林も残り、近畿に残された数少ない秘境といえよう。
 1419mの国見山は、高見山に向かう縦走路上の秀峰である。明神平からスキー場の斜面を登りつめた、台高北部最高峰のコブである1441mの水無山を越えて、30分ほどでブナの美しい樹林に包まれた国見山に達する。

 ここは、高見峠からも主脈の良い散策道を4時間ほど歩いて到ることができるが、そこそこハードな行程になる。
 途中、伊勢辻山から国見山にかけて馬駈場と呼ばれる小平地があり、そこは、春先にはドウダンツツジが咲き乱れ、鹿が駆け回っている姿を見ることもできる静かな秘境である。北部で一番良い場所と紹介しておこう。

 1432mの明神岳は、水無山の反対側の笹原を頼りない踏跡に導かれて登る。ここは迷いやすいので、千石山方面の主脈に引き込まれないよう、コンパスに頼って強引に笹薮を突破する。
 山頂は尾根上のコブというイメージで眺望にも恵まれないが、そのまま尾根を1時間ほど歩けば、1420mの桧塚奥峰に到ることができ、この山はすばらしい眺望と美しい原生林に包まれた名峰である。

 桧塚奥峰は県境尾根でない三重県単独の最高峰で、紀州山地に僅かに残された月ノ輪熊の貴重な生息地でもあり、いつ行っても静かな秘境である。

 また、奥香肌峡の名渓として知られるヌタワラ谷を遡行すると、この山頂に到るので、沢屋には知られているかもしれない。私も93年に遡行したが、巨瀑の続く充実した沢だった。

 明神平から桧塚に至る尾根には明確な登山道がない。踏跡らしきものはあるが、獣道と交錯しているので、枝尾根に引き込まれないよう注意する必要がある。

 明神平から主脈を南に辿れば、千石山(1380m)を経由して秘峰、池小屋山(1396m)に行くことができる。明神平に一泊すれば余裕のある山行になろう。

 この尾根は上下が少なく比較的歩きやすいが、スズタケの薮が多くルートファインディングに苦労する。枝尾根が多いのでガスの日は苦労するだろう。
 私は十数年前に辿ったが、途中マムシが多いのに恐くなって千石山から逃げ帰った思い出がある。

 池小屋山の登山ルートは、今では蓮ダムから宮ノ谷遊歩道を経由するのがポピュラーだが、高滝見物につくられた遊歩道のできる前までは、この主脈尾根を往復するのが一般的だった。昔は大又から日帰りで池小屋山を往復する豪の者が大勢いたが、今ではあまり聞かなくなった。

 私は美しい原生林に惹かれて池小屋山に5回登り、宮川ダムから焼山尾根ルートも登ったが、そこに恐ろしいほど広大で凄惨な原生林の皆伐現場を見て唖然とした。大和谷には長期の伐採作業のために通勤用モノレールさえ設置されていた。近畿最後の池小屋山原生林の余命もあと僅かなのだろうか。

 台高山脈北部では、明神平から歩く以上の山々のほかに、高見山脈の山々があるが、こちらは植林が進みすぎて、かつての台高の面影は消えてしまった。むしろ、大台ヶ原以南から熊野灘にかけての山々に、狼の跳梁した深山の面影が残っているかもしれない。


 あとがき
 私が台高山地に通いはじめたのは83年頃で、最初に行ったのが大又経由の国見山だったと思うが、以来、通算で50回以上は行っていると思う。主立ったピークは、一応一通りこなしたはずである。沢も、ヌタワラ谷から檜塚奥峰に抜ける山行など、数回行っているが、私は単独行主体なので、下降ルートの少ない台高では鈴鹿ほどこなしていない。

 この山域は急峻な崖地が多いので、下降が難しいのである。むしろ、大峰の方が参考資料が多いので遡行回数も多い。

 台高山地の良さは、なんといっても人気の少なさ、静かさと、荒らされていない原生の自然が残っている点である。

 原生ブナ林の美しさには比類なきものがある。都会地から遠いため、ロープウェイなどの観光開発も進んでいない。飯南郡や吉野郡の自治体も、「開発」の虚名に踊らされ、本質を見失う愚者に主導権を握られているようには見えない。投資に見合う収益がないことが一番大きな理由だろうが、そのことが先祖から受けついだ自然を子孫に残そうとする心の豊かさを浸食されずにすんでいるのである。

 願わくば、いつまでも貧しいままでいてほしい。木曽の妻篭を見てほしい。新築する経済的余裕のなかった事情が江戸時代の旅籠の雰囲気をそっくり遺し、それが、かけがえのない国民的財産に変貌したではないか。

 一発屋、ハッタリ屋の政治家に騙されず、落ちついて人の道を歩いていれば、必ずそれに見合うものが帰ってくる良い例ではないか。

 人の道を外れた政治家・事業・施設、そして国家体制そのものまで、それらは今、悉く音を立てて崩壊しようとしている。所詮、見せかけの繁栄など虚構に過ぎなかった。砂の上に築かれた幻に過ぎなかった。誰もが心の底で危惧し、それを分かっていたのにバブルの激流に流されてしまった。ありもしない虚構に踊らされたのだ。

 取り返しのつかない負債は、われわれに平等に被さってくる。98年末で、勤労者一人あたり2000万円を超える。もはや誰も支払うことができない。金利さえ払えない。日本国民全員が裸足で夜逃げしなければならない時代が来たのだ。

 財産や地位を失っても命を取られるわけではない。食べてさえいれば生きてゆける。そんなとき、このような自然を抱えた地域の人々は、真の豊かさを享受できるのである。最後には、美しい山河が心の拠りどころになるのである。  98年末

それぞれの山の物語 2 京丸山


 これは、一連の山紀行記のなかでも初期に書いたもので、原型はたぶん1990年頃に書いたと思うが、改訂は1993年に行った。
 割合、民俗学関係者に読まれ、公的文献にも参照しているものがある。

 私が蛭川村に移住して、無形文化財に指定されている「杵振り祭」を調べていて、目の玉が飛び出るほど驚いたことがある。
 この文中に、「後醍醐の子(たぶん孫の親王)尹良が信州浪合で死に、その首を、ここの高塚山に埋めた」という下りが出てくるが、これと、まったく同じストーリーが杵振祭の起源として書かれていたからで、静岡県の超僻地と中津川市の歴史的な関わりがあったことに本当に驚かされた。

 それぞれの山の物語

 第2話 京丸山(1469m)

 高級官吏でもあった民俗学者、柳田国男が生涯追い続けたテーマは「山人の謎」であった。

 人は人なくして生きられない。人が充実した社会生活を送るためには、集落の存在が欠かせない。それは、生活物資の供給にとどまらず、人同士のつながりから生まれる「生き甲斐」を得るために必要なのである。一人で孤独な生活を送るものは、やがて精神の活性を失い、無気力になり、ついには思考能力さえ失って廃人化してゆく。

 たぶん人は、誰でも心の奥に痛切にそれを感じているだろう。だから、たとえ大きな疑問を抱くことがあっても、社会の規則に従い、集落の掟に従うのである。人は孤独になるのを恐れている。

 それなのに、ある種の人々は自ら絶望的な孤独を求めて集落に背を向けて生活することがある。柳田は、そのような人々を追い、記録し続けた。人が孤独を求める不可解な理由を知ろうとした。
 柳田は、個人ばかりでなく、賑やかな社会に背を向け、山中に隠遁して生活し続けてきた「山人」と呼んだ一群の人々についても、その訳を知ろうとした。

 個人であっても集団であっても、社会に背を向けることになった初めの動機には、たぶん共通の理由があった。それは、誰にでもわかりやすい言い方をするなら、社会から疎外され、傷つけられたということである。

 ときには、悪事に手を染めた因果として人前で生活できなくなったという事情もあっただろうが、むしろ、自ら進んで孤独を求めたことの方が多かった。人は、決して「規則を守るのが厭でたまらない」という理由だけで、集団に背を向けるのではない。生きるためにやむを得ぬ事情があったのである。

 日本各地には、「どうして、このような場所で生きてゆけるのだ」と不思議に思うほど、信じがたい山村僻地に拠って暮らしている人々がいる。

 例えば、本稿に取り上げる遠州・三河・南信地方や、紀州山地の中央部、四国、中国、九州山地の中央などである。
 さすがに、北海道、東北の豪雪地帯の山中には滅多にいないから、生存条件に規定されるのは当然のことだ。人は生存さえできれば、生活の利便性を超えてどこにでも住み着くものだと感嘆するのだが、生活の利便性以上に過酷な現実から逃げたい人々がいたのではないか。
 人は、滅亡の恐怖から逃れるために、隠れ住んだこともあった。

 先に述べた、南信三遠地方では、猿や鹿の数が人間よりはるかに勝ると思える山奥の地域、例えば佐久間町や水窪町で、夜になると急峻な山の中に、尾根のかなり上の方まで、まるでクリスマスツリーのように人家の灯りが点る光景に驚かされる。

 私は同じ光景を四国山地や九州山地でも見た。これらは、ほとんどの場合、木地屋を祖先に持つ集落であった。

 木地屋は山奥の居住者たちの歴史的経緯を解釈するには分かりやすい例だが、木地屋居住圏に重なって、源平戦争の落武者の後裔や、南北朝戦争の落武者の後裔集落もよく見かける例である。

 木地屋と平家・南朝武者の後裔は、すでに同化し、あるいは最初から同じものだったのかと思えるほど、今では区別がつきにくいが、平家の方が海浜部も含めた広い生活条件があるようだ。

 近年、マスメディアによる情報の普及によって、自分の生活を世間と比較できる知識が大量に行き渡り、僻村の人々も便利な都会生活に憧れるようになった結果、すさまじい勢いで山村の生活が崩壊しつつある。少人数の山村は、居住者の一人一人に役割があり、全体で統一した有機体を形成しているので、一部でも崩壊すれば全体が崩壊する性質があるのだ。

 柳田国男、折口信夫や宮本常一ら民俗学の先人が探訪した僻村も、僅かな老人を遺して次々に姿を消して行く。彼らが守り続けてきた山々は、再び獣達の手に委ねられようとしているが、それは、すでにバランスを欠いた不自然な秩序のなかにある。

 本旨に戻ろう。木地屋について何も知らない人のために簡単に解説しておくと、私たちの祖先が使っていた食器類は、主に陶磁器、金属器、木器だが、木器については焼損・腐食し消滅することが多いので、古い時代のものが残りにくい。
 だが、民衆の器でもっとも多く使われ、たくさん作られたのが汁碗、盆などに見る木器である。

 焼き物はかつて生産地以外では高級品で、金属器は主に調理具に使われた木器は古い時代、木地屋と呼ばれた工人集団が山奥でケヤキやトチを回転式の轆轤で削って作っていた。やがて生産力が上がり生活が贅沢になるにしたがって木器に漆を塗るようになり、木曽・高山や輪島・会津の漆塗り屋が登場し、木器と陶器の地位が逆転して今日に至る。塗り師も木地屋が転身したものである。

 木地屋は山奥の椀作りに適した樹種の森を見つけ、そこに仮住しながら木地椀を制作し、全国の山々を転々と渡り歩いた。明治政府が土地に税をかけ、納税者を確定するために強制的に所有者を決め、さらに徴兵制の施行によって木地屋の自由な転居が許されなくなり定住が始まったが、本格的定住はまだ百年ほどの歴史しかない。

 木地屋の後裔は、轆轤技術を継承して旋盤屋などに転じた者が多い。万年筆の軸作りや機械加工などである。
 似たような集団に、箕作りを行いながら移動したサンカがある。

 全国の木地屋は鈴鹿山地の西側、滋賀県神崎郡永源寺町付近を根元地とする伝承をもっていて、今でも年に一度、全国の木地屋が集合して祖先を祀る儀式が行われ続けている。ただ、江戸幕府開設時、家康が民間結社を互いに勢力を拮抗させて争わせ、統一力を殺ぐ目的で、すべての結社集団を二大勢力に分割し、木地屋もこの例に漏れなかったため、目論見通り、江戸時代以来、根元地も二分化され争われている。

 徳川家康が行った数々の施政のなかで、政治的にもっとも効果をあげた方策が、この結社集団の二分化策であった。これこそ、徳川三百年の本当の礎であった。人々は集団を分割されただけで互いに憎みあい、激しく争って互いに勢いを殺ぎ、幕府政権に仲裁を求め、楯突こうとはしなくなった。

 一番危険と思われた宗教思想集団、東・西の本願寺、天台・真言の山伏、白川・吉田の神道から武道家、大工、木地屋に至るまで、二分化は徹底して行われ、幕府は勢力のバランスがとれるように互いの勢力を適宜調節したのである。

 家康は、二分化支配という日本史上最大の陰謀をどこから見いだしたのか。
 家康は幼少時、駿府今川家の人質として過ごし、京文化に憧れ続け、膨大な収集を重ねた今川家の蔵書を読みながら暮らした。そして室町末期のこの時期、知識人読書階級のもっとも大きな関心は、南北朝の歴史を記述した「太平記」や「神皇正統記」などにあったはずである。

 それは堅苦しく観念的な詩経、史記などと異なり、まだ実際に闘争に関わった人々が呼吸し、経験を語り継いでいる時代であった。それは三国志のような血沸き肉踊るドラマ性を秘め、知識人少年たちに激しい夢想を与えながら繰り返し読まれたにちがいない。
 太平記こそ、戦国武将のイメージスクリーンであった。そして戦国を導いた強烈なアジテーションであった。

 家康は、おそらく太平記から人心の法則を学びとったにちがいない。人の争いの激しさ、切なさ、愚かさを自らの境遇に重ねるように学び取ったにちがいない。
 勢力が二分することの意味を深く洞察し、人々の感情を冷静に超越し、二分化支配を思いついたのではないか。感情を超えることを強いられた人質の家康であったからこそ、それができた。

 太平記の舞台は、後醍醐天皇の時代である。それは鎌倉時代末、両統迭立、天皇家を二分化し、交互に皇位を立てさせた鎌倉幕府の配慮から始まった。
 このことによって、室町時代を通じて、皇族内部で実に一世紀にもわたる血で血を洗う抗争が始まったのである。

 それらは、後小松天皇によって表向き統一させられてからも、数十年にわたって絶えることはなかった。そして、大勢の若武者たちを平家の落武者同様、人跡未踏の山中に根拠地を置くゲリラ戦へと駆り立てていった。

 太平記を読んだ者は、全編を貫く命題として、勢力の二分化が、どれほど大きな結果をもたらすか深く学んだはずだ。
 それは家康の人生の教書になり、思考の血肉と化した。家康は後々まで太平記に登場する北畠氏などの名族を重く扱い、篤く保護しようとしたことからも、この物語にどれほど深い思い入れを抱いていたか想像がつくのである。

 南北朝の争いは、実質的に足利幕府とその傘下の北朝の勝利が確定したが、源平戦争と同じように、皇族血縁同士による骨肉の争いは凄惨熾烈を極め、敗者はもはや幕府の支配地域で安穏と生活することができなかった。隙あらば一族郎党、根絶やしにされてしまったのである。

 敗者は山中深く落ちのびてゲリラ戦を志向し、復讐を誓いながら人知れず生活するしかなかった。やがて、深山の過酷な生活が続き、世代も替わってゆくなかで、いつしか復讐心も薄れ、辺鄙な山里の生活もそれなりに工夫が重ねられ、合理的に形作られていった。

 私が過去三〇年近くにわたって遡渓や百名山探訪などの山行を繰り返したうちで、深山幽谷、本当の山奥の雰囲気を感じた場所がいくつかある。
 それは黒部渓谷などもちろんだが、北国や日本海側の豪雪地帯を除けば、三信遠の南アルプス深南部や大峰南部、台高山脈付近などである。そして、そこには必ず、南北朝抗争の南朝方遺跡があった。

 台高山地には大台ヶ原の下、三之公川の源流、馬ノ鞍ヶ峰の登山道沿いに後醍醐の皇子らが隠れ住んだ八幡平、カクシ平がある。林道こそ設置されたものの正真正銘の有数の僻地、八幡平にはその子孫が数戸、居住し続けて現在に至っているのには、ひどく驚かされた。
 ここから徒歩数時間で行ける松浦武四郎の大台探検の価値が普通の里山視察程度に落ちてしまうとさえ思った。

 南ア深南部には南朝拠点が数カ所あり、水窪の奥の黒法師、不動岳に至る戸中林道にも後醍醐皇子御所の史跡がある。それらは、当時の主要交通路だった川と尾根道を通じて複雑に繋がっている。
 水窪の奥、にあった後醍醐の第四子とされる宗良親王の隠れ御所から、高塚山へ延びた稜線を歩けば、その先に京丸山がある。


 京丸山

 京丸山はあこがれの山であった。遠州七不思議のひとつ、謎の京丸ボタンの咲く山である。

 江戸古謡に、「医者薬礼と京丸ボタン、取にゃいかれず咲(先)次第」と唄われた幻の巨大な京丸ボタンは、正確にいえば京丸山にではなく、京丸谷を隔てた向かいの、岩岳山の上部に咲くらしい。

 らしい、というのは、このボタンは60年に一度だけ咲くといわれ、今生きている人のうちに、京丸ボタンを見たことのある人がほとんどいないからである。だから、京丸ボタンの正確な所在を特定できる人もいないし、正体をつきとめた者もいない。したがって、これは幻の伝説のボタンなのである。

 京丸山の麓、天竜川の大支流である気田川に流れこむ京丸川のどん詰まりに、辺境僻地の多い遠州、南アルプス山麓のうちでも、とびきりの僻遠の里、京丸部落があった。

 「あった」というのも、昭和40年代の高度成長幻想がもたらした山村崩壊の奔流のなかで、住家は京丸部落の長であった藤原家一軒だけになり、その藤原家の第18代当主であられた藤原忠教氏が1980年に逝去されてからは、19代当主の真氏は、普段は春野町気田にお住まいで、京丸の御自宅には、ときどきしか帰宅されないからである。

 京丸について語られた文献は少なくない。というのも、ここの僻地ぶりは半端でないので、早くから民俗学者や伝奇好きの好事家の注目を集めていたからである。
 もちろん、柳田国男も京丸について書き残しているし、折口信夫や深田久弥も、この里を訪ね、京丸山にも登っている。

 江戸中期の「遠江(とおとうみ)古跡図絵」は、「平家の落人、源平の乱を避け、京丸にきたり」と紹介しているが、これは後に書くが、平家の落人ではなかった。

 江戸末期の文人、内山真竜の「遠江風土記伝」には、「古老曰ふ、昔世の乱のときに、京の人、藤原左衛門佐(さえもんのじょう)なる者、臣僕の隊伍と共に蟄居し、木器を造りて世業と為す。」 と書かれている。

 木器製造というのは、滋賀永源寺町(旧東小椋村)に起源を持つ木地師稼業のことで、実際、京丸藤原家の家紋は、木地師と同じく16弁の菊花の下に木の葉をあしらったもの(16弁葉菊)だったのを、私は藤原家墓所で確認した。このことについても、後で触れよう。

 柳田国男は、どうやら京丸を直接訪れたことはなさそうだ。定本柳田国男全集第20巻、「地名の研究」のなかの54・京丸考に、掛川誌からの引用として(掛川誌は遠江風土記伝から引用) 

 「奥山郷(水窪町一帯)は、御料(天皇家領地)の地であって、三年ごとに上番(連絡役)をした。仕丁一人あり、これを京夫丸(京へ行く人夫)という」 と記事が見えていて、京丸という地は、京往きの賦役を世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地であろうと推測し、「この推定が正しければ、京丸は気の利いた世間師の住んでいた部落である」と書いているが、この推理は軽率であった。

 地元郷土誌家の調査によれば、京丸部落の起源が、藤原家に伝わる南朝落人の伝説に沿ったものであることを裏づけている。藤原家の古文書類は過去の火災ですべて焼失し、代々の言い伝えだけが遺されていた。それは以下のとおりである。

 「南北朝の頃、後醍醐天皇が、謀反した足利尊氏に追われ、信州に逃げのびて戦いを続けた際、供奉して都落ちした藤原左衛門佐らは、天皇が信州浪合(下伊那郡浪合村)で崩御されたので、御遺体をそこに葬り、御首級を奉持して高塚山(京丸山の稜線の中川根町側の峰)に葬り、自分たちは近くの京丸に住みついて塚を守護してきた」というものである。

 だが、歴史的文献には、後醍醐天皇が信州遠州に登場したという記録はない。存在するのは、後醍醐の第三子であって、歌人として知られた宗良のものである。

 宗良は、後醍醐の命によって、東海諸領の南朝側への帰順と経営を図るために信遠に派遣された。しかし、成功を収めることができず、遠州、信州、越州に転々と軌跡を残し、それでも74年の長寿をまっとうして客死した。太平記などの古文献にはほとんど現われず、その経過は不明な点が多い。

 宗良が安定した勢力になりえなかった理由は、東海に足利一族最大の領地で根拠地ともいえる三河があり、遠江には、足利方の強力な武将である今川氏がいて、宗良の部隊に強力に対峙したからである。

 宗良は、信州大河原(大鹿村)を根拠地として、北朝足利方に対してゲリラ戦を展開した。そして、その中心的将軍であったのが、宗良の第2子の尹良(コレナガあるいはユキヨシ[由機良]などと読まれる)であった。

 宗良は後醍醐の数多い子のうちで最も長命であったが、1385年前後に大河原で没した。そして、元中9年(1392年)、南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、名目上は南北朝の和議合体でありながら、北朝つまり足利幕府の事実上の勝利が確定したのである。

 「浪合記」によれば、尹良親王は、南北朝統一後の応永31年8月15日(1424年)、浪合村にて敵方に襲撃され、防戦及ばず自害したと記されている。

 この地方のもっとも信頼のおける家誌である「熊谷家家伝記」にも、「尹良親王、浪合にて自刃す」との記録がある。したがって、藤原左衛門佐らが高塚山に埋めた生首は、尹良のものであったと考えられよう。

 それを裏づけるように、1976年、春野町から京丸へ行く途中にある石切部落の八幡神社から、尹良の石の座像が発掘された。背面に尹良将軍、正平4年(1349年)と刻まれていた。年号が正しいとすると、尹良もまた、父宗良以上のおそるべき長寿であったことになる。

 というわけで、京丸の起源は1180年の源平戦争の落人でなく、1424年における南朝の落人であると考えてよさそうだ。

 (この時代の事実関係について、現天皇一族の歴史的正当性を主張したい宮内庁や御用学者の意図によって、南朝正当論に都合の悪い記述が隠蔽されるなど紛糾していて、浪合記などは、内容の異なるものが数作も登場していることを知っておかねばならない。)

 また、京丸の尹良伝承には「応永30年、尹良親王京丸において自害のこと」というものもあり、さらに、春野町植田の山下宗利氏所蔵の木版には、「元暦甲辰元年、四家を残して京に入る、尹良親王に有」と記されていることを、郷土史家の森下龍男氏が書いている。

 ところで、常識を超えた山奥の部落については、なんでも平家の落人にしてしまう風潮があるが、日本史上で、権力争奪戦争にからんで山奥に逃げのびて村を起こしたのは、12世紀後半の源平合戦に敗れた平氏だけではない。

 14世紀に起こった南北朝の争いも、表向きは和議による決着が図られたのだが、長年の戦闘を繰り返した足利方の迫害を恐れてか、多くの深山落人を生んでいる。それ以降も、戦国時代の武田氏などに例がある。

 というのも、この頃の権力闘争は、血胤信仰による敗残側の皆殺しを伴ったからであろう。勝者は敗者を根絶やしにするために、執念深い探索を行なった。だから落人は、どのような探索にもかからない辺境の地に活路を求めたのである。

 落人の村は、山奥の谷を遡り、さらに尾根を越えて、反対側の遡行不能の谷の最上部に居を求めた。京丸は、この条件を完全に満たしている。

 折口信夫は、水窪町門桁から京丸山を越えて京丸に入った。だが深田久弥は、京丸谷の下にある石切部落から、小俣京丸を経て京丸をめざした。これがどのようなものだったか引用してみよう。

 1965年の正月のことである。東京オリンピックの興奮覚めやらぬ翌年、都会にはパブリカやブルーバードなどの大衆車が雲霞のようにひしめき、日本の高度成長と公害は頂点を極めていた。

 久弥たちは、春野町気田から石切までハイヤーを飛ばし、そこから旧い歩道を辿って京丸に向かった。この当時は、まだ京丸へ向かう林道は完成していなかった。京丸谷は、名にしおうヒルの名所である。

 「石切から歩き出す。中腹の道を小俣まで約6キロは大したこともなかった。小俣は高い台地にある部落で、以前は9軒あったそうだが、いま人の住んでいるのは、2、3軒しかない。廃屋のあちこちに残っている侘しい風景がそこにあった。

 小俣から背後の京丸峠への急な登りには疲れた。峠を越えると、川っぷちまで500メートルの下りである。もう暮れかけていた。川を渡ってまた始まった急な登りで、とうとう私は参った。まっくらになった道ばたに意地気なくしゃがみこんで、疲労からしばしうとうと眠った。そんな私に京丸までの道は長かった。」
(小俣は現在、岩岳山登山口になっていて人家はない)

 海抜300mの石切部落から京丸まで約15キロの道は、600mの小俣を経て、1000mの峠を越え、再び500mの京丸川に降り、さらに700mの京丸への登りがあった。所要7時間程度だっただろう。

 いま訪ねてみても、石切でさえ相当な僻村である。京丸がどれほどの辺境僻地だったか想像がつこう。逆に、それゆえに、かけがえのない骨董的価値があったともいえるのだが。

 左衛門佐(さえもんのじょう)の一党は、おそらく南朝シンパであった山住神社の神官(山住家)の手引きで、高塚山に近い京丸に住みつくことになったと考えられている。

 (高塚山の反対側、大札山の中腹に、中川根町大字上長尾の尾呂久保という、これもとびきりの僻里がある。ここの起源も、京丸とまったく同じ時期で、しかも長尾では、同じ藤原姓を使用していた。京丸から峰伝いにこの部落に行く道は、気田へ出るよりもはるかに近い。ゆえに、この里も尹良随臣の一党の部落かもしれない。また、中川根には南朝側の土岐氏の根拠地があった。)

 日本の山地のなかでも、際だって降雪量の少ない遠州の山々には、真冬でも狩猟に不自由しないほどの多くの動物がいただろう。そして、深いブナの原生林を伐り、ユリの根を堀り、蕎麦や稗をつくったにちがいない。

 また、付近のトチやケヤキの大木を倒してロクロで挽き、椀や盆も製造したことだろう。これは非常に優れた換金生産物であった。

 藤原家の紋章が16弁葉菊であり、これが木地師のものと共通することをすでに述べた。葉菊という紋章は、明治時代に、天皇家の権威を閉鎖的なものにするために、明治政府が純粋な菊の紋章を禁止したので、やむをえず改変されたのであって、本来、天皇の紋である。

 木地師は、源氏の祖となった清和天皇の兄、惟喬親王を祖とする伝承をもち、近江小椋郷君ヶ畑を根拠地にして、全国奥山伐採御免の許状を手に、中部南西の山岳地帯を渡り歩いて木器を製作したのである。

(京の蹴毬の元祖で、後醍醐が尊氏に監禁された屋敷でもある花山院藤原家も葉菊紋で、春野町犬居に縁戚を持つので、関係があると指摘する民俗研究者もいる。)
 それはとまれ、木地師の世界は比較的堅固な結社をかたちづくっていて、各種の証文や記録も多く遺されている。しかし、それらのうちに、京丸が木地師の部落であったことを証明するものは皆無である。

 しかし、宗良や尹良が活躍した三河・南信から遠州西北部は、木地師の日本最大級の根拠地になっていて、現在でも、木地師をルーツとする僻村は非常に多い。小倉・小椋・大倉などの名字の多い村は、木地師の村であると断言してほぼ誤りはない。

 したがって、尹良に付いて戦った藤原一党は、信州遠州を転戦するうちに木地師のロクロ技術を学んだか、さもなくば、南朝シンパの木地師そのものであったとしても不思議はない。
 あるいは、南朝側の膨大な戦費の出所を考えれば、ロクロ技術が、天皇の経済的基盤を支えたものであった可能性も大いにあるように思える。

 いずれにせよ、それからの左衛門佐一党とその子孫たちは、寂遠のこの地で、夜露の降りるような静けさの、平和な歳月に埋もれることになる。

 だが、そのあいだに、悲しい民話を生んだ。それがボタン姫にまつわる伝説である。
 かいつまむと、ひとつは、京に残された左衛門佐の娘が、父を慕って京丸を探しあてるという物語で、いまひとつは、京丸に迷いこんだ旅の若者が当主の姫と恋愛し、親に反対されて駆落ちしたのだが、世間に疲れ果てて再び京丸に戻った。
 しかし、京丸の掟がこれを許さず、絶望した二人は、京丸の橋の上から身を投げて死ぬというものである。これは、民話として多く書き遺されている。

 歴史上、(歴史というものは権力のものではあるが)京丸がはじめて文献に登場するのは、太閤検地である。慶長4年9月2日(1600年)の記録では、15軒の家屋が存在したと記されている。以来、時代によっては30軒近い戸数があったらしい。1930年には、小俣京丸と京丸で21戸・113人の人口があった。

 足利時代から江戸中期までの武家支配の時代、中部地方は順良で安定した気象が続いているようだ。およそ、400年間というもの、京丸は桃源郷であったかもしれない。ここは、いかなる戦災とも無縁であっただろう。
 しかし江戸末期、クラカトア火山や浅間山の大噴火と、それに続く冷害や大飢饉の嵐のあいだ、京丸が平穏無事でいられたとも思えないが、むしろ、その僻遠さが居住に有利にはたらいたのではあるまいか。

 遠州最僻地の京丸に林道が通じたのは、久弥たちが訪れてしばらくしてからであった。そして、御子息の真氏御一家は、できたばかりの林道を使って気田に移住された。
 過去、私は山行の途上多くの僻村を訪ねたが、人々の待ち望んだ林道が開通し、都会と結ばれて便利になった途端、人々は僻村の生活を守ることなく都会に移動して行く。それまで我慢していたものが一気にあふれ出すようにである。

 この文章を書くために、91年頃、春野町気田の藤原さんのお宅に電話した。そのとき、都会ではめったに聞かれぬ、無垢ですずやかな声のお嬢さんが電話口にでられた。声ほど、その人柄を端的に示すものはないと私は思う。美しい心の持ち主は美しい声をしている。

 「いつ移住したのですか」とたずねると、「20年前です」と答えられた。1975年頃である。
 おそらく教育のためにちがいない。戦前、京丸のような地は、義務教育が免除されていたらしい。だが戦後、そのような特例はなくなった。

 京丸には老夫婦が残った。そして、1980年3月5日、18代忠教氏が83年の穏やかな生涯を終えられた。それが600年の年月に堪え残った、美しくも静かな山里の終焉であった。

 登山へ

 1991年2月2日の午後、京丸山に登るつもりで名古屋をたった。ずいぶん寒い日だった。

 天竜市から国道362号線に入り、春野町役場のある気田から水窪町方面の標識に従って左折すると、狭くて長いトンネルを抜けて再び気田川に出る。発電所のアーチ橋を渡らずに、狭いが舗装された林道を走ると、しばらくで石切の部落に出た。

 夜8時頃だったが、数十戸のうち電灯の点る家は2軒しかなかった。清潔な部落だったが、人の臭いがない。
 その晩、すでに廃校となった小中学校分校の運動場に車泊した。隣にあった部落の中心部の茶畑は、みかけはきれいだったが、葉が薄く伸びていた。茶は大量の施肥を必要とする。施肥せずに放置した茶は野生化し、木の葉のように薄く長く伸びるのである。こうなると商品にならない。

 静かすぎるほどの一夜が明けると、はりつめたような冷たい朝がやってきた。
 京丸山への登路は知らなかったが、2・5 万図のポンジ山方面の稜線に点線路があったので、それを辿り稜線のヤブを詰めようと考えた。

 分校から数キロ走ると林道が二股に分かれ、その両方にゲートがあった。両方とも閉まっていた。躊躇せず、そこに車を置いて左手の洞木沢林道を歩きはじめた。
 ただちに、皆伐地がいたるところで無残な傷跡を曝していた。残されたブナ林の、恐怖の悲鳴が充満しているような谷であった。

 わずかに歩いて、林道は伐採地の集材場で行き止まりになった。そこから、さらに荒廃した林道を歩くと、道が再び二股に分かれ、しばらくで左手に鉄製の梯子がかかっていた。その梯子を登ることにした。本当の登山道が、林道の終点から始まることを、この時は知らなかった。

 これは、洞木沢林道終点の手前で左手の尾根に突き上げる点線路で、杉の植林地を縫うように、急な尾根を一気に稜線に向かって登る道であった。

 途中、熊の罠檻がしかけられていた。罠捕獲は、禁止されているはずだが、幸いドアは錆びつき、落ちる心配はなかった。
 罠檻は、水窪町の人が開発したもので、蜂蜜をエサとして熊を誘きよせるのだが、非常に効率よく捕獲できると水窪町誌が自慢している。

 ところが、熊の胆嚢は、乾燥重量価格が純金より高価で、猟師は目の色を変えて熊を追っているので、効率はただちに絶滅に結びつき、じっさい、月の輪熊が日本狼や日本カワウソに次いで絶滅する日は、そこまできているといえよう。

 踏み跡は途中で消えたが、かまわずに直線的に稜線に突きあげた。林道から、およそ1時間で稜線に達した。ところが、その先は濃密な薮であった。おまけに、雪も深くなり、薮と雪との戦いとなった。目印をつけながら進む。

 1363mのピークは、まるで運動場のように広い平原地形であった。古い皆伐地帯なのだろうか、一面の薮とスズタケに覆われ、目印をつけなければ、まず戻れない地形である。

 やがて高さ3mを超し濃密な剛生の、種類の分からぬバンブー藪になった。これまでどの山でも見たことのない屈強な代物だった。ひとたび侵入すると身動きがとれなくなった。最高点を求めて、およそ1時間も苦闘し、疲れはてた。

 元に戻って、バンブー地帯を迂回して京丸山に向かった。だが、やはり雪と笹と潅木の薮から逃れることはできなかった。しばらく歩いて精魂が尽きはてた。京丸山のピークは指呼の間で、おそらく300~400mだっただろう。だが、これ以上薮をかきわける気力を失い、撤退を決意し、元の道を下山した。

 帰路、天竜図書館に寄って、角川地名辞典に京丸山の項目があって、京丸から道があることを知った。次週、行かねばならない。

 2月10・11日は連休であった。日帰り登山には勿体ない。京丸山につながる稜線を、ツェルト泊で歩こうと思った。ところが、天は私のささやかな願いを踏みにじった。10日、巨大な低気圧が南岸を通過したのである。

 承知で、9日の夜、南アルプス深南部に向けて出発した。春野町を過ぎ、長尾で車泊した。京丸山の川根よりに、高塚山がある。尹良の首を祭った塚であることは述べた。そこへ行ってみたかった。

 中川根町から、赤石幹線林道(スーパー林道)に入り、秘境といわれる尾呂久保の部落を経由して山犬段に向かったが、蕎麦粒山の手前で林道が崩壊し、通行不能であった。

 空模様は極めて悪い。途中の大札山(1373m)に登ることにした。トイレの設置された広場に大札山登山口の標識があった。空身であせって登った。20分で山頂に着いた。まだ、朝9時前だ。

 こんなものは登山でないが、すてきな山頂だった。雪のなかに、たくさんのシカの足跡に混じって、掌の大きな若熊らしき足跡を発見した。
 頂上で、凄じい降雪がはじまった。私の足跡も、見る間に埋まってしまう。「とうとう、きやがったか」と呟いた。

 駆け降りても、帰路は激しい降雪に慎重さを要求された。ひどい大雪になった。島田図書館に寄って、尾呂久保の文献を漁ったが発見できなかった。

 その夜、雪は雨に変わり、相当な豪雨のなか、土砂崩れを恐れながら、先週泊まったばかりの石切の分校で車泊した。

 翌朝、年明け後では最高の登山日和となった。なにもかもがスカッとしている。おまけに、京丸へ通じる林道のゲートは開放されていた。

 未舗装の林道は、ひどく長く感じた。石切から10キロ近くも走っただろうか、林道が真っすぐと左に上がる分岐になっている場所で、「左、藤原家」の標識があった。

 深い山中に、突然部落が出現した。左手には、天然記念物級の巨大な杉が直立していた。右手に、写真で見たことのある藤原家が、落ちついたたたずまいを見せている。静謐とは、このような光景をいうのだと思った。
 伝説の京丸ボタンは、藤原家の庭から見える正面のボタン谷に咲くはずであった。

 京丸ボタンについての文献は多い。江戸中期の、「煙霞奇談」、「遠山奇談」、「雲萍雑誌」などや、滝沢馬琴の文章によって、60年に一度、京丸ボタン谷に、カラカサほどの大きさの白いボタンの花が咲くという京丸ボタンの伝説が、当時の民衆に広く伝わった。

 当時から、幻のボタンの正体を推測した文章は多い。馬琴は、8世紀に東蒙古から献上されたフカミ草(山ボタン)だろうと書いている。
 牧野富太郎はホオノキ説を書き、他にも、シャガ・クマザサ・マタタビ・シャクナゲあるいは「花かずら」の著者、鳥居純子氏らの努力によって天然記念物に指定され皆伐をまぬがれた、この山の稜線にあるヤシオツツジ(曙ツツジ)の大群落とか、様々の説が憶測のみによって書かれている。

 誰も実際に調べたものはいない。だが、京丸藤原家の先代忠教氏は、1913年5月のある雨の朝、ボタン谷にそれをはっきりと見た。

 ボタン谷上部の大きな岩の上に、カラカサほどの大きさの白い巨大なボタンが、3段になって咲いていたという。
 忠教氏は寡黙な人であった。この人を知る誰もが、大袈裟な表現とは無縁の、重厚な人物であったことを証言している。それは、ま ちがいなく巨大なボタンであったと私は思う。

 藤原家の庭先に立って、岩岳山を見ると真正面にボタン谷があった。だが、このとき、私は怒りに震えることになった。
ボタン谷は、皆伐されていたのである。

 あったのは、トラ刈模様のハゲ谷であった。なにをか言わんや。そのとき、ひとりの山林労働者が通りがかった。

 「あれがボタン谷ですよね。いったい、いつ伐採したんですか。」
「もう、3、4年も前さね。もうすぐ、左の大きな谷も伐採するだに。」
 「伝説のボタンを保存しようということを、誰も言わなかったんですか。」

「そりゃ、営林署の役人は、切らなくば仕事がなくなってしまうからさ、ボタンより仕事ずら。保存なんて言いだした日にゃ、全部保存しなけりゃおさまりがつかねえだら。」

 日本の営林事業は、とっくに経済的に死んでいる。いたる所でそれを証明できる。日本は、輸出産業の利益のために、農林水産業を売り渡したのである。
 林野庁の事業は、もはや育林ではなく、解決不能の巨大な債務の処理だけなのだ。そのために、未来への遺産を無感動に食い潰していかざるをえなくなっているのである。

 伐採事業は、役所とそれに寄生する役人の存在理由を失うまいとして、膨大な自然破壊を代償に、存続させられているにすぎない。
 だから林野庁は、ただちに巨大な官僚機構を解体し、せいぜい林野局程度に縮小して植裁地の保全のみに専念させなければならない。子らの未来のためにである。これ以上、大切なものを失ってはならない。

 若者の山離れが進み、山の実情が知られなくなって久しい。「知らぬが仏で」、このようなヒト気の無い山では、やりたい放題の劣悪な皆伐が進行しているのだ。だから我々は、このような現実を広く知らしめ、林野庁の解体に真剣に取り組まねばならない。非力ながら、拙誌もお役に立ちたいと願っている。
 しかし今は、伝説のボタンの所在が皆伐地から外れていることを祈るしかない。

 藤原家は、旧家を絵に描いたような品格のあるたたずまいである。まるで昨日まで人が住んでいたかのように、玄関脇の犬小屋には主の無い首輪が残っていて、木戸には白菜の葉が落ちていた。自家発電設備もそのまま置かれている。ということは、どうやらときどき帰宅されているようだ。

 表札には、藤原忠教と書かれていた。裏へ回ると墓があって、そこに16弁の葉菊が刻まれていた。木地師のものと同じだ。

 林道の東には、樹齢千年を軽く超すであろう巨杉が、数本吃立している。その向い、藤原家の下には、新鸞上人筆の阿弥陀画像が安置された阿弥陀堂がある。

 京丸には新鸞も訪れていた。かつて、ここにその古式を伝えた礼祭があったという。今は、美術品泥棒の被害だけが心配である。

 藤原家の木戸の脇に、京丸山登山口の朽ちた道標を見つけた。

 そこから続く良い山道を行くと、左の尾根に登る分岐があって再び道標があった。それに従って左へジグザグに登っていくと、樹林帯を抜けて広大な伐採跡地に出た。そこからは、イバラの荒廃した踏跡になった。

 陽光に恵まれた皆伐地は、植物遺体の腐蝕分解が急速にすすみ、富栄養化する。すると、そこにはバラ科のトゲ木が繁殖するのである。
 このような場所を通過するには、厚い革の手袋と、厚手の、刺を通さない服装を準備しなければならない。だが、このときは、トレーナーに軍手と軽装だったので、泣くことになった。

 しばらく苦しんで、廃道化したこの枝尾根をつめて上の支尾根にでると、植林地帯の良い踏跡になっていた。これは伐採跡地を避ける良い迂回コースで、労せずに藤原家に達する。下山時に、ポリ紐の標識をつけておいた。

 これを詰め上がると、洞木沢から京丸山への主尾根に出た。目の前は、藤原家の前の林道の終点であろうか、駐車場のような広場になっていた。ここから、十分に手入れされた 立派な登山道が、頂上まで続いた。どうやらこの道は、先週歩いた洞木沢林道の終点から始まっているらしい。

 誰もいない静かな山々に、啄木鳥のリズミカルな音がこだましている。雪道になった。
 途中、ヤシオツツジのある痩せ尾根で緊張する箇所もあったが、藤原家から2時間ほどで、山頂に着いた。素晴しい日和である。珍しく汗だくになった。

 頂上はヒザまでの雪に覆われていたが、10畳ほどの小平地で、立派な標識が遺されている。展望は、良いとは言えない。わずかに見える山々も、なじみがないので同定できない。雪の様子から見て、私が本年初登頂のようだ。
 1920年に、この地域を旅行し、この山頂に立った伝説の山旅人、折口信夫は、歌集「供養搭」を遺している。

 人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり。
 道に死ぬる馬は仏となりにけり。
 いきとどまらむ旅ならなくに  山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅びとの墓
 ひそかなる心をもりて をわりけむ。
 命のきはに、言ふこともなく ゆきつきて
 道にたふるる生き物のかそけき墓は、草つつみたり

 先週登ったポンジ山方面の尾根を見ると、見覚えのある引き返し点が、手の届きそうな身近にあった。もったいないことをしたものだ。だが、登ってしまっていたら、京丸の里を見ることもなかったかもしれない。見てしまったおかげで、ひどく熱を入れた紀行文を書くはめになった。

 下山は、さきほどのイバラの廃道を迂回して、藤原家に戻った。念願の登頂に、ゆたかな満足感を覚えた。
 5月にくれば、ヤシオやシャクナゲの夢見るような美しい群生花を堪能できるという。天然記念物に指定されたアカヤシオ・シロヤシオの大群生地は、向かいの岩岳山にあり、小俣京丸から登ることができる。必ず訪れるだろう。

 91.3著 その後、京丸山には2回登頂した、計4回登ったことになる。岩岳山も3回訪れた。

それぞれの山の物語 1 藤原岳


 これも1990年前後に書いたもので、マイHPの片隅に目立たないように掲載していたが、東海アマブログを読んでいただいている方のためにサービスとして加えることにした
 内容は改変していないので、20年以上前のものと承知して読んでいただきたい。

 この山に最初に上ったのは1973年頃だと思う。当時、石灰産業が山を浸食していたが、その規模は現在の半分以下で、青川谷から直接あがれる孫田尾根道も健在だった。今は県境稜線と大貝戸道しか登れなくなっている。
 もの凄いマムシと蛭の名所で、よほどの対策をしないと散々な目に遭わされて逃げ帰ってくる、ある意味過酷な山だった。
 私の登った1980年前後は大量の積雪があり、藤原岳は雪崩の名所として、たくさんの犠牲者を出していた。
 その後の温暖化で昔ほどの積雪もなくなり、スキー場も廃止されるとともに雪崩死者もいなくなった。



第一話 藤原岳(1165m) 

 名古屋付近に住む山好きの人なら、日帰りで手頃なハイキング登山を楽しめる藤原岳を知らない人はいない。鈴鹿では、御在所岳の次に知られた山である。

 山名の由来は、当然、麓の藤原町から名付けられたと思われ、少し調べてみた。
 伊勢の国には本居宣長の影響を受けた国学の伝統が連綿と受け継がれ、優れた地方史が数多く、員弁には近藤杢・実親子がいて質の高い町村史や史談などが編纂されている。

 この本には平安初期に藤原仲成が嵯峨天皇に謀反して都を追われ(810年、薬子の乱)、袴ヶ越と呼ばれた藤原岳野尻の山中に隠れ住んだことなどが記されていた。
 805年に最澄が比叡山に延暦寺を開き、わずか2年後の807年、天台宗観音寺(現、聖宝寺)や大安寺が開山している。すでにこの頃、耕地に恵まれた員弁付近は先進的な地域になっていたようだが、藤原町付近が集落として成立するのは古文献によれば鎌倉時代以降のことらしい。

 一帯を開いたのが藤原氏の後裔だったから藤原と名付けられたと考えるのが自然だが、調べてみると、藤原岳の名の方が古いと思われる資料も多い。

 藤原氏は「源平藤橘」四姓の実質筆頭であって、日本史上、最大の祖姓である。私は、4~7世紀頃、天皇家の先祖とともに朝鮮半島から集団でやってきた鉄器と騎馬文化をもった民族の後裔と考えている。彼らは九州北部~若狭に至る山陰地方に上陸して拠点を置き、九州・山陽道・関西・東海道に強大な勢力を広げ、米作文化をもたらした中国江南系の先住弥生人と激しく争いながら権力の主導権を奪い、円墳を遺した弥生人系ヤマト王朝から、方形墳を遺した騎馬民族系大和王朝に権力を移し変えた。その血筋は、一貫して天皇家とともに日本の貴族・武家支配階級の本流にあった。

 だが、藤原氏の祖とされる中臣鎌足が、高千穂降臨の案内役たる猿田彦命の随臣の第23世子孫と称したことは、藤原氏の出自に微妙な陰影を与えている。「大化改新」に大功のあった鎌足は、669年、天智天皇から居住地の奈良県高市郡藤原の地名をとって「藤原」姓を与えられ、これが全国の藤某姓の発端となった。

 藤原以外にも藤のつく佐藤、伊藤、近藤、武藤、斉藤、藤井、藤田、藤村、また黒田、落合、星野などの姓も藤原氏の変姓と考えられている。いずれも日本史に頻繁に登場する最大級の姓名で、武家の先祖は大抵、この一族に行き着くのである。

 かつて、私の仕事先に二之湯さんという珍しい名字の方がいて、出生地を聞いてみると藤原町であった。員弁街道沿いに同名の酒屋があった。この方は港でトラック運転手をしておられたが、風貌は人品骨柄卑しからず、濃い眉、優しく大きな目、エラの張った堂々とした人相で、剛胆にして沈着、まさしく古武士の風格をもった方であった。

 過去に、私は藤原氏の子孫とされる遠州の京丸藤原氏や平泉藤原氏のご子孫も拝顔したことがあるが、いずれも上に書いた特徴をもち、古武士を連想させる風格をお持ちであった。

 天皇・秦氏・紀氏など騎馬民族・貴族系の人相は薄い眉、切れ長の一重瞼が特徴なのだが、私の知る藤原氏の後裔と思われる人々は、どういうわけか目が大きい二重瞼の人が多く、天皇系の血筋の外見的特徴と似ていない。あるいは蝦夷の血が入っているのであろうか。

 女性では、縁があるかどうか不明だが、NHKアナの森田美由紀さんが藤原氏の女性ならこのような人相になるだろうと思うタイプである。

 彼女は可愛いタイプの美人というわけではないが、若い頃から十年以上もNHKの顔としてメインアナを続けていることから分かるように、淑やかななかにも芯に強いものを秘め、誰からも信頼される確実な能力と冷静な胆力の持ち主に見受けられる。

 これほど安心して見ていられる人も少ない。私など、彼女のファンで名字が変わったら悔しい思いをするだろうと常々考えていた。未だに変わらないのは、本人には申し訳ないが、ファンとしては夢が醒めずにありがたい。

 藤原町周辺には、こうした古武士的風貌と精神性をもった藤原氏の子孫が多いかもしれない。小さな山里なのに重厚な人物、とりわけ学者を多く輩出している。豊かな自然と伝統は大きな人間を生み出すのである。

 ところで、鈴鹿や藤原岳の名は、いつ頃から現れるのだろうか。

 近藤実著「員弁史談」によれば、天保7年(1830年)に発刊された木版地図に「藤原岳」の山名が記されていた。同図には鈴鹿山というのは仙ヶ岳付近にあたり、入道岳、冠岳(鎌ヶ岳?)、御三所岳(御在所岳)、国見山、釈迦岳、藤原岳、熊坂岳(御池岳?)、三国岳などが記されている。

 また天明4年(1782年)桑名藩の文書にも藤原岳の名が記されていた。このあたりが判明している一番古い記録だが、実際には、それより遙かに遠い昔から藤原岳の呼び名が存在したことは疑う余地がない。したがって、この一帯が藤原氏後裔の居住地であったことは古くから知られていたようだ。

 鈴鹿の地名考証も多説あり、今のところ「スズタケ」説が有力である。その冠名地域については、資料によってひどくまちまちで、鈴鹿峠付近・仙ヶ岳が鈴鹿山、藤原岳が鈴鹿岳になっていたりする。どうやら現在の鈴鹿連峰の広い範囲を指していたようだ。

 藤原岳は、往古、その遠望によって袴之腰、あるいは袴ヶ越と呼ばれていた。別に多志田山や野尻山の名も残っている。石灰岩採掘によって姿を変えた今では、どこが袴の腰なのか指摘するのも難しい。
 荒廃した採掘崖の全体像がそれに似ているような気もするが、明治時代に撮影された採掘前の藤原岳には、なだらかな多志田尾根が写っていて、今とかなり形が違っていた。あるいは、峠を意味する「越し」なのかもしれない。

 冬の晴れた日なら、名古屋市内はもちろん、尾三平野の広い範囲から特異な山容を望むことができる。麓のセメント工場によって高度差800mにも及ぶ東側全面を削り取られた痛々しい姿が、「あれが藤原岳だ」と、どこからでも特定できる指標になっているのは皮肉なものだが、人は見える山、つまり「共通の話題にできる山」に登ってみたいのである。

 深田久弥は、鈴鹿から御在所岳か藤原岳のどちらかを百名山に選びたかったと書いている。しかし、御在所岳は当時すでにロープウェイが設置され、山頂も遊園地化されるほど開発が進んでいたのと、藤原岳は標高や雰囲気がもの足らないという理由で、結局、鈴鹿からは選ばれなかった。

 南の御在所岳と好一対、鉄道駅から直接登れるほど交通にも恵まれ、日曜祭日など登山道をすれ違うのにも苦労するほど大勢のハイカーが訪れる、名実ともに鈴鹿山脈を代表する山の一つなのだが、御在所岳が、その気になればロープウェイやリフトを利用してほとんど歩かずに登頂できるの対して、藤原岳は最寄りの西藤原駅の標高が160m、表登山道である大貝戸道から山頂までの標高差は1000mに及び、黙々と汗を流さなければ頂に立つことができない。
 しかも、御在所のように目を楽しませる派手な景観もなく、ありふれた杉の植林と地味な雑木の山肌が続くばかりである。

 久弥の躊躇した標高の低さに騙されて、鼻歌気分で初登頂を目指した人々は、景観もなく暑苦しいばかりの登山道で悲鳴をあげることになる。
 中央高地の有名山岳でも標高差1000m以内で登れる山がいくらでもあるのだ。誰も、1000mそこそこの、こんな低山の登山道がこれほど苦しい登りだと思っていない。

 だが、「山の真実の価値は標高や評判にあるのではない」と考える人々にとって、つまり「登った」という結果よりも、黙々と歩く過程を大切にする渋い登山観を持っている人にとっては、これはもう立派な価値ある山岳といえよう。

 山頂に到着したつもりで避難小屋の付近を見回すと、真の山頂が、いったん深い笹藪を下った後、登り返さなければ辿り着けないことを知らされる厳しさも、渋さを増していてよい。
 そして、やっとの思いで登った山頂には、期待しただけの心地よさが待っているとはいえないが、苦労の分だけ納得できるものはある。

 二十数年前の夏、私がはじめて登頂したときは、山頂の小さな禿地の石灰岩にマムシがとぐろを巻いて出迎えてくれた。冷や汗はかいたが、心地よい涼しさとはいいがたかった。

 山頂からの眺望には見事な原生林もない、御在所のような迫力のあるアルペン的景観もない、背丈の低い雑木と笹藪の続く稜線を吹き抜ける風も中央高地のそれと比べて鈍くさく感じる。どうもすっきりしない、山の爽やかさがない、何かが違う。「この重い雰囲気はいったい何なのだ」と私は不思議に思った。

 それでも、私は手頃で便利なこの山に四季折々、様々のコースから登った。通算では30回以上も登っているだろう。

 20代の元気盛りのころは、登山口から山頂まで走るように駆け上がり、2時間を必要としなかった。40代になった今では、2時間でも登れなくなった。その代わり、若い頃には目に留まらなかった、目立たない良さ、美しさを堪能する心のゆとりもできた。

 早春の雪割草、節分草、片栗、石灰岩質特有の北方系ラン科貴種植物、オオイタヤメイゲツの紅葉などが疲れた心を慰めてくれて、この山の良さをしみじみと味わえる年になっってしまったのかと、嬉しさよりも悲しみに似た感慨がある。

 20年くらい前には、山野草を集団で盗掘して歩く善良な中高年のグループがたくさんあって、彼らによってこの山域のクマガイソウやエビネランなど貴種植物が根こそぎといっていいほど壊滅させられた。
 彼らに罪の意識はまるでなかった。彼らにとっては、「植物採集」という健康で高雅な趣味だったのである。

 もちろん、冷涼で清浄な山上でしか適応できない北方系貴種植物が平地の民家で根付くはずもなく、盗掘した全員が枯れた鉢を抱えて恨めしげに見つめるだけの結果に終わっているはずである。

 釣りブームがそうであるように、今、目先の小さな自分の欲を満たそうとするばかりで、すばらしい自然を保存し、後世の人々により楽しい思いをさせてあげようという自然保護意識に思いの至る人は少ない。「今自分が楽しめさえすればよいのだ、誰が他人においしいものを残してやるものか!」というのが正直な本音であろう。

 そうした人々の多い結果、政府・役所が主導で、残り少ない自然の遺産を目先の利益のためにしゃぶり尽くそうとする浅ましい姿ばかりが目につくのは情けない限りだ。子孫のことを真剣に考える政治家・役人など見たことがない。これが、今日の日本のありのままの姿である。目や耳をを塞がずに事実を見つめよう。改革はさらけ出すところから始まるのだ。

 開発を錦の御旗に掲げ、節度を知らず、心ある住民の顰蹙を無視して強引に進められた自治体の「開発事業」は、誰もが危惧し予想した通り、のきなみ無惨に挫折し、残った莫大な負債を住民に押しつけ、首謀者は責任逃れに汲々と喘ぐ今日なのだが、「国破れて山河あり」どころか、最後の拠り所の山河自体を壊滅させているのだから取り返しがつかない。

 こうしたご時世に及んでも、いまだ貴種山野草採取を勧める雑誌が堂々と発刊されているのには恐れ入るが、最近では、登山道周辺をボランティアで清掃する人たちが増えたのを見て恥じるようになったのか、手にショベルをもって大きな袋を抱えた中高年の集団も滅多に見かけなくなった。
もっとも、もはや彼らの立ち入れそうな場所の貴種植物は取り尽くされている。

 沢登りの途中、危険な源流域で、細々と生き残ったこれらの貴種植物が再び増え始めているのを見つけると、ほっとした気分になる。壊滅したかと思ったクマガイソウの群落も復活しつつある。この分なら、何もかも失なわれたと思っても千年もすれば元通りになるかもしれない。馬や鹿より馬鹿な人間さえいなければの話だが。

 私がこの山に登り始めた頃、東京から帰省した70年代はじめ頃のことだが、今の避難小屋の付近は戦前から続く皇族の名を冠したスキー場で、立派な登山・スキー小屋があり管理人さんもいた。
 当時は藤原岳大貝戸道上部で常襲雪崩による遭難の多発が問題になるほど冬季の積雪も半端ではなかったのだ。

 すでにこの頃、スキーを担いで数時間も登らねばならない藤原スキー場は、歩かずにすむ便利な近在のスキー場に客を奪われて見向きもされなくなっていた。
 また、地球温暖化の影響を受けて日本全土に雪が少なくなり、スキーを楽しめるほどの深雪も見なくなった。古いスキー板が放り出された小屋は荒れるに任せ、やがて取り壊され、ある日、気がついたら跡地に立派な二階建ての避難小屋が建てられていた。

 そのころ、一時的にクロカンスキーのブームがあって、私など古いワイヤ締めの山スキーしか持っていなかったが、クロカン気分でシールをつけて、この稜線を歩くのが楽しみだった。そして、いつでもスキー場を独占することができた。

 何よりも登山しか知らないダサイ私は、カッコいい車に乗って原色に身を包んだ美女を引き連れてスキー場を闊歩する連中にひどい劣等感を感じていたから、連綿と続くこの稜線を、どこまでも果てなく一人で歩き続けたいと思っていたのだ。
 誰も見ていない厳しい稜線では肩身の狭い思いをしなくてすんだから。

 広大な稜線を独り占めにして山スキーで歩くのは、すばらしく爽快である。条件がよければ、藤原山上から白船峠やコグルミ谷に至り、現在の伊勢幹線送電塔を縫うように冷川谷を降りたり、鞍掛峠からの306号線を滑り降りることもできたが、近年は雪不足のため自由に滑れるのは稜線近くに限られるようになり、やがて行きたいとも思わなくなった。

 治田鉱山

 藤原岳の行政区域は、三重県と滋賀県にまたがる。員弁郡藤原町・北勢町、神埼郡永源寺町で、三重県側が伊勢湾、員弁川水系の多志田川、青川の源流となり、滋賀県側が琵琶湖水系、愛知川支流、茶屋川の源流となる。

 地図を見れば一目瞭然、明らかに、山域の広さの割に流出する沢が少ない。これは藤原岳周辺が有数の石灰岩地帯で、地下深く伏水流に穿たれた無数の洞水路が形成され、地表を流れる沢水を吸収してしまうためである。

 したがって、登山者にとっては水利の悪さが問題になる。山麓にはすばらしい湧水が多くあるのに、中腹より上では、ほとんど水を得られない。だから稜線上のキャンプは水を持ち上げねばならず大変である。
 また、室町時代から大正時代に至るまで有数の鉱山であって、山麓から稜線近くまで「マブ」と呼ばれた無数の坑道が掘られ、内部で複雑に交錯し、それらも地下水路になっている。この周辺の沢登りのとき、思わぬ場所に坑道の水抜き穴と思われる湧水洞を発見することがある。

 藤原岳周辺の鉱業地を総称して「冶田(はった)鉱山」という。鉱山諸業の中心地となったのが現在の北勢町新町、昔の冶田村だったからである。江戸時代の一時期、生野銀山や別子銅山と肩を並べるほどの銅の産出があったと記録されている。

 治田鉱山の歴史には、信長の妹、お市の孫娘であり、家康の孫娘でもある千姫の物語が登場する。千姫の母は淀君の妹「お江」で、父は2代将軍秀忠である。家康は治田鉱山の運上金を、秀頼の自害した大阪城から救出され、桑名藩、本多忠刻に再降嫁した千姫の化粧料として与えた。

 このため、治田郷は江戸時代、近在から独立して特異な地位を保ち続け、戦後も、異常に大きな入会区を所有することになり、員弁郡では際だって豊かで恵まれた地域になった。

 主な採掘場所は、セメント用石灰採掘で無残な姿をさらす藤原岳多志多尾根の多志田山、大貝戸道付近の野尻山、青川から冶田峠に至る青川左岸、孫太尾根付近の南河内山、冶田峠を越えて茨川に下った付近の藤原岳西尾根、蛇谷山などであった。(この「山」は「鉱山地」という意味で、頂上ピークを指すわけではない)

 鈴鹿山地を歩く登山者で、この山域に壮年樹林の少ないのを訝しむ者が多い。山麓から山頂に至るまで、戦後の杉の植林以外に大規模な森が見あたらない。どこを向いても短年齢の藪山ばかりである。

 これは、戦時中の無謀伐採もあるが、治田鉱山に莫大な量の木炭と柱材を必要としたことが主な理由であろう。
 鈴鹿山地の至る所の沢筋に炭焼き竃の痕跡があり、雑木は木炭に加工されて銅精錬のための還元性燃料として利用され、ブナや針葉樹は坑道の支木として利用された。

 私は日本中の山を歩いたつもりだが、樹林の薄い山々を見かけると、まず鉱山と窯業を疑う。両者とも莫大な木材を消費して森林の幽玄な姿を奪う。窯業の場合、陶土になる花崗岩質の土壌と火力を求めるために松材を植林する傾向があるので見当がつく。

 鈴鹿の場合は、両方とも混在し、南方、四日市方面の山では万古焼きの燃料として利用され、伐木跡地にはやはり松材が植えられている。北方の森は治田鉱山に利用されたであろう。
 足尾や古河を見れば分かるように、銅精錬の煙には強烈な毒性があり、付近の樹木は立ち枯れる。最盛期の往時には、藤原岳・治田峠一帯は毒煙によって荒廃した死の山と化し、見渡す限り草木が生えぬ不毛の荒山になっていたであろう。

 私が、初めて登った藤原岳で感じた光景の重さは、こうした自然に対する人為的迫害の歴史の重さではなかったか。人によって迫害された自然に幽玄や美を感じ取ることはできない。人の心を癒してくれる豊かな景観がない。藤原岳は癒えきっていないのである。

 集められた鉱夫たちは、主に多田銀山(兵庫県猪名川町)の者が多かった。
 多田銀山にあった甘露寺が死亡鉱夫の供養のために青川上流の三鉱谷付近に開山したほどで、後に衰退に伴って新町に移転した。新町付近に住み着いた者の多くが、鉱山とともに全国を渡り歩いた者の子孫で、幕府直轄領、桑名藩領、忍藩領と所属が転々と変わったこともあって、伊勢冶田郷は周辺郷から独立した特別な扱いを受けた。

 もっとも盛況を見たのは寛保・延享の1740年代で、全国有数の銅産出があったが、その後、目立った産出は記録されていない。多くの山師が一攫千金を当てこみ、夢破れては去っていった。

 治田鉱山は400年間にわたって銀銅産出の盛衰を繰り返し、大正年間、維新に活躍した鉱山師、薩摩の五代友厚の二女、藍による大規模な試掘を最後に幕を閉じた。

 現在、青川・冶田峠登山道に残る手掘りのトンネルは、明治の末に五代藍の資金で掘られたものである。目的は険悪な青川隘狭部迂回路を短縮し、三鉱谷上部から孫太尾根を突き抜ける水抜きを兼ねた大坑道を掘って、水没放棄された過去の坑道を生かすとともに新鉱脈を得ることだった。

 だが、この坑道試掘が670m進んだところで、藍は父から譲られた資金を使い果たし、独身のまま、東京オリンピックの年に新町で世を去った。
 以来、伊勢治田鉱山は廃れ、無数の坑道も落ち葉に埋もれた。当時、採掘された品位の低い鉱石が、精錬されぬまま三鉱谷上部に放置されているのがもの悲しい。

 藍は、封建的な男尊女卑の価値観の色濃く残る地方で、維新の功臣の娘とはいえ、女性の身でありながら鉱山経営を行い、周囲から驚きの目で見られた。この時代の常として、男社会に出る女性の杭は容赦なく打たれる。藍には「男女両性の女山師」という尊称なのか蔑称なのか分からない呼称を奉られ、新町でも近づく者もなかった。

 私は、鈴鹿の沢を過去に50回以上遡行し、青川・冶田峠筋にも5回ほど入渓している。
 青川登山道は、登山口からいきなり渡渉の連続で、増水時には膝下まで入水することになり普通のハイカーには厳しいコースである。しかし、多志田尾根や孫太尾根が石灰岩採取のために通行禁止となった今となっては、藤原岳南・東面のコースはここしか残されていない。

 このコース沿いに、鈴鹿有数と思える優れた沢のバリエーションルートがある。銚子谷である。
 私は過去4回、銚子谷を遡行した。五代トンネルをくぐった先に冶田峠道と三鉱谷、桧谷、銚子谷の分岐があって、左にとると銚子谷である。出会いから結構厳しく沢登の醍醐味を十分に味わえる楽しいルートである。しばらくで落差15mほどの銚子大滝があって、右岸を巻くことになる。

 私は、この巻きのトラバースで、4回のうち3回も山蛭にやられた。
 無事だったのは11月の遡行だけである。危険な高所のトラバース中、ルンゼに積もった落ち葉の中を沢タビで歩くと、チクッとした感触があって、「やられた!」と思っても、腰も下ろせず、危険で立ち止まるわけにもゆかない。そのままガラン谷に出て、銚子谷に戻るのだが、タビを脱ぐと数十匹の蛭が足に貼り付いていた。

 その瞬間の気持ちは言葉では言い表せない。「ウワー」と声にならない叫び声をあげて駆け出したい気分である。戦争で被弾し、自分が致命傷を負ったことを知ったときの気分に似ているかもしれない。

 貼り付いた蛭をそのままむしり取ると、口器が体内に残って必ず化膿する。塩をかければ一番よいが持参していない。
 自分の血でどんどん黒く膨れあがり、やがてポロリと落ちる蛭は山中で熊に遭遇するより始末が悪い。熊なら、見つけて「オーイオーイ」と優しく声をかければ何事もなくすむが、蛭は後がキツイ。出血が多く、なかなか治らない。それなのに私は懲りずに、その後も同じ場所で蛭にやられ続けた。

 このとき、私は恐怖のあまりガラン谷を銚子谷と取り違え竜ヶ岳北峰に出てしまった。ガラン谷の源流は、ぽっかりと大きな口を開け、大量の水を噴き出す大きな洞であった。間違えたおかげで、帰路、青川に停めた自分の車に帰り着くのに苦労させられた。

 この銚子大滝の上、恐怖の山蛭地帯、ガラン谷との出合の小さな平地に「オマキヶ根」という地名が残っている。
 ここには明治にオマキさんという女性が亭主と二人で小さな坑道を掘っていた。坑道を誰にも見せず、裕福だったことから、「オマキは金を見つけて貯めている」という噂が飛び交った。亭主の死後、オマキは流れ者と一緒になり何処かに去った。

 村の者は付近を必死になって探したが、とうとう金も金鉱石も見つからなかった。私はガラン谷の源流にあった噴出洞こそ、オマキマブ(坑道をマブと言った)の水抜きではないかと思ったものだ。治田鉱山史に五代藍とオマキの名は、「女山師」の尊称とともに残っている。

 明治末期、鉱業の衰退とともに、既存の鉱業設備を利用して新たな産業需要を開拓するための模索が続いた。ある者は藤原岳の膨大な石灰資源に目を付け、石灰岩を焼き、土壌改良材にすることを思い立った。これは、浅間山大噴火の降灰が伊勢にも及んだ際、灰被り地の収量が上がったことから、灰に肥料効果があることに気づいたと記されている。

 大正・昭和の時代、この石膏肥料は濃尾・伊勢平野で広く利用されるようになり、土壌中和による農地の健全化に大きく貢献した。この石灰鉱業が後に白石鉱業や小野田セメント藤原工場になった。

 だが一方で、産業によって失われた景観は絶対に取り戻せない。秩父の武甲山がそうであるように、藤原岳もやがてこの世から消えて行く定めにあるのかもしれない。武甲山では、もはや私の歩いた登山道は消滅している。藤原岳が同じ目に遭ったなら、どんなに悲しいことだろう。

EMバイオトイレの作り方





EMバイオトイレの作り方

 第一章

  EM培養液

 EMバイオトイレでは、極端な話、EM培養液を有機質汚物に投入攪拌するだけで瞬時に悪臭や腐敗問題が解決する
 面倒な設備を考えずとも、良質の培養液をトイレの便槽に入れて攪拌するだけで、たちまち悪臭は消え、腐敗菌主導から乳酸菌主導の発酵へと変化するのである

 したがって、何よりもEMモルトの自家培養の技術がもっとも大切である
 良い培養液を作るためには、たくさんの経験と失敗が欠かせない
 失敗しないポイントは温度管理である

 その次に、屎尿排水を畑や水路に流せるまで高度浄化するための技術工夫を学び、排水を環境に流しても好結果を得られるシステムを作り出せるように知識を磨く必要がある

 ここでは最初にEM培養液を作るために必要な知識を書いておく

 EM培養液の作り方
 必要なもの 20リットルポリタンク・EMモルト・糖蜜・溶解バケツ・温度計・攪拌用具(長めのシャモジが良い)、それに50度以上の湯と水が必要になる


① モルト

 現在、アマゾンやホームセンターで入手可能なEMモルトは、EM生活のものとサン興業のもので、いずれも1リットル2160円と価格は同じだが、品質はやや異なる
どちらを使っても、あまり変わらないが、たくさん作ってきた経験から、ややサン興業に分があるように思える

 もっとも理想的なトイレ用培養液は、仕上がり具合が、糖蜜の臭いに加えて、若干のウンコ臭さ(貯木場のラワンの臭い)があるのが望ましい
 このときのバクテリア構成については、まだよくわからない

 EMBCモルトを培養すると、自然にその臭いが出てくるが、EM生活のモルトでは糖蜜の臭いしか出ない(EMBCモルトは柳田ファームで4700円で買えるが、あまりに高価なので薦めない)
 EMBCは誘導酵素だけが含まれていて種菌は空中からや鶏糞、原生林腐葉土などから取得するため、培養技術のハードルが高い
 EMは最初から80種の生菌が含まれているので、温度と糖蜜管理だけを確実にすれば誰でも失敗なく作ることができる(ただしEMBCに比べて拮抗作用が起きやすい)
 サン興業モルトでは、貯木場の臭いが出やすく、この臭いが出ると非常に強力な培養に成功したことを意味する

② 糖蜜

 培養は米のとぎ汁や糠などでも可能だが、乳酸発酵を効率化するためには糖蜜が望ましい
 白糖は不可、うまくできない 黒糖は大丈夫だが高価すぎる
 糖蜜がリットル単位では高価なので、私は一斗缶(17リットル)5000円前後のものを通販から購入している

 普通はポリエチレンタンクに20リットルのEM培養液を作るのに、糖蜜が1~2リットル(厳密である必要はない) モルトが500cc 残りは湯ということになる

 このとき初期の温度管理が培養の結果をまともに左右する

 まず糖蜜1~2リットルを容量15リットル程度のポリバケツに入れ、これを50度以上10リットル程度の湯を注入、長いしゃもじなどで攪拌する
 50度以下、冷たい水で溶解するのは不可能に近いので湯を作る設備が必要になる
 大きな鍋やヤカンに湯を沸かしてもよい
 糖蜜が完全に溶けるまで何度も湯を注入して溶かす

 当初は塩や糠を少量入れたり工夫を凝らしたが、結局面倒になり、今では糖蜜だけを使っている
 これで10年以上、問題が起きたことはない
 糠のような粒状質を入れると、噴霧器を通らなくなるのでやめておいた方が無難

③ 温度管理

 十分に溶けたなら、これをポリタンクに入れて残りの空間に湯や水を投入してゆくが、このとき温度計で頻繁に確認しながら液温を39~41度の範囲に調整してゆく
 最終的に20リットル 液温39度~41度の範囲内に収まるよう湯や水、モルトを入れて調整する

 これにEMモルトを半分の500cc投入して、ちょうど20リットルにして、キャップで密閉し、タンクをゆすりながら十分に攪拌する(3分以上揺する)
 モルト対糖蜜溶解湯の比率は1:40 ということになる
 仕上がりも液温が39~41度の範囲に収まっているか何度も確認する

 モルト1リットルで作る培養液は40リットル程度が望ましいが、これもアバウトでよい
 最大50リットル程度までは経験上、何の問題も出ない

 温度管理は、やや厳密さが必要で、湯温が42度を超えるとパスツリゼーションが起きてバクテリアのバランスが狂う可能性がある

 このとき最初の24時間の温度管理が非常に大切で、湯温が25度以下に下がらないよう、入浴後の湯船に、なるべく熱くした(40度くらい)湯を入れて、蓋をして、中に沈めたポリタンクを一晩中保温するのが望ましい
 気温が25度を超す夏季は保温不要だが、凍結するような冬季では必ず保温が必要になる、やらないと品質が良くない培養液になる

④ 攪拌

 翌日からは加温は不要で、陽のあたる暖かいところに放置するだけでよい
 ただし、必ず一日一回以上、しっかり攪拌する必要がある
  
 攪拌を怠ると、EM菌のバクテリア別の拮抗によるコロニー棲み分けが起きてしまい、表面に酵母の幕が張ったりする
 こうなると完成した培養液に問題が出る

 攪拌はポリタンクを1分以上揺すって湧き出しているガスを抜いておく
 良好な状態なら製造翌日にはガスが充満してポリタンクが膨れているはずである
 ガス抜きをしないとポリタンクが破裂することがあるので攪拌とガス抜きを忘れてはいけない

 これを運搬するとき、気圧の低い高所の峠などで破裂するので、わずかに蓋を緩めておく

⑤ 培養完成と投入

 夏季は十日ほどでガスが出なくなり培養液の完成となる
 厳冬期の場合は二十日程度、ときには一ヶ月かかってもガスが残ることがある

 完成したEM培養液は、浄化槽の使用初期で、可能なら100リットルほど投入しておくと良いが、20リットルでもかまわない
 この場合は、最初の数年は毎月20リットル投入する必要がある
 分解が安定してからも、十日に一度程度、五人用浄化槽なら5リットル程度は投入しておくと、いつでも透き通った上澄みを排水することができる
 初期投入が100リットル程度と多い場合は、数ヶ月程度は投入不要であるが、半年もすれば劣化が起きる可能性があるので、毎月、数リットルを投入補充する

 培養液の寿命は数ヶ月は大丈夫、キャップを開けると悪臭が漂うようだと寿命だが、これも浄化槽に投入して差し支えない
 糖蜜を多くすれば寿命は長くなる
 私の場合、毎月20リットルの培養液を生活習慣として作るようにしている
 
 培養液のコストは、ポリタンクが500円~1000円程度
 EMモルトが1リットル2160円 糖蜜が一斗缶(17リットル25K)で5000円前後 

 糖蜜は一回分500円、モルトが一回分1000円 その他で20リットル2000円程度は見込んでおきたい
 これが、おおむね一か月分の培養液コストである

 第二章
 
 屎尿汚水を環境に排出できるまでの高度浄化の技術

 トイレの環境次第ではⅠ ボットン式 Ⅱ 少量水洗式 Ⅲ 普通水洗式
 の三種類があり、それぞれに浄化方法が異なるが、ここでは一般的な普通水洗式に絞って書いておきたい

 Ⅰ Ⅱの場合、加水して屎尿を柔らかい水溶液にしないと、畑や排水路に流すのは困難であろう Ⅲの場合は、相当に浄化された普通の水になるので、汲み取り不要、そのまま側溝や畑に排水可能である
 不思議なことに固形便であろうとトイレットペーパーであろうと、どこかに消えてしまい、普通のきれいな排水しか出てこない

 これを飲用可能なほど浄化することも可能であるが、そのためには別に浄化工程を付加する必要がある

 EMBCモルトを使った培養液の場合、高島康豪博士の言う「複合発酵」=関係する菌類が超高密度で同一の球状に収縮し、恐ろしいほどのスピードで有機質を分解する=が起きて、わずか数時間で浄化槽内のあらゆる有機質が消えてしまい、コンクリート槽の場合、ひび割れを塞いでる汚泥まで消えて水が漏れて消えてしまう驚異的に奇怪な現象に遭遇することがある
 生成される排水は、とんでもなく蒸留水に近い浄化水である
 こうした奇跡的な「複合発酵」が成立するのは、わずか数十分にすぎず、すぐに元に戻ってしまう
 この現象を意図的に再現できるのは、この世で高嶋博士ただ一人であるとも言われている
 その再現性の困難さゆえ、誰も検証できず、このノーベル賞級の発見は未だに見た者も少なく、評価もされていない
 私がEM式バイオトイレを使い始めて14年になるが、遭遇したのは数回程度である
 今、再現してみよといわれても私には不可能だが、EMBCモルトを使えば可能性があると思う

① 便槽・浄化槽

 私がEMバイオトイレを作ったのは2003年 当初は失敗の連続で、大きな6槽式の合併浄化槽をコンクリートで自作したが、屎尿排水の発酵が悪く、悪臭に満ちて、近所迷惑になるレベルであった
 これで困ってネットの読者に助けを求めたところ、EM菌の使用を薦められた
 このとき大玉町の菊池厚徳さんがやってきてEMBCシステムの導入を手伝ってくれた(強引に押し付けられたといってもよいが)
 その威力はすさまじく、培養液投入後、瞬時に悪臭が消え、一ヵ月後には透き通った水になってしまい、魚を入れたら元気に泳いで、おまけに巨大化していった

 その後も改良を重ね、納得のゆく浄化槽システムが稼動するようになったのは2008年頃であった
 現在は二世代目が稼動していて、汚泥の発生など失敗もなくなり良好に機能している

 その後、EMBCの価格高騰によってモルト入手が困難になり100%EMに切り替えたが、威力は落ちるものの浄化槽としては普通に稼動している
(価格高騰の理由はモルトを直接飲用することで癌細胞が消滅するとの噂によるらしい)

 十数年の運用経験で分かったことは、便槽は屎尿が直接入る投入槽と沈殿させて上澄みを排水する沈殿排水層の二つがあれば十分であって、複雑な形式や濾過材は邪魔になるだけで無用ということだ

 一世代は難しいことを考えすぎて複雑な形式にしてしまったが、無駄であった
 二世代目はコンクリートで作った800リットルの投入槽と農業用500リットルポリタンクで作った沈殿排水槽の二つしかなく、両方に曝気ポンプが入れてあり、排水槽から投入槽に汚泥ポンプで屎尿水が循環する仕組みにしてある

② 曝気

 曝気は20ワット前後の浄化槽用ブロアーに2m程度のビニールホースをつけ、先端はキャップ付水道用短管に穴を開けたものを2台用意し、二つの槽内の底に入れてある
曝気の必要な意味は、第一に槽内で噴出する泡によって屎尿とトイレ紙を細かく分解すること
 第二に酸素を大量に送り込んで好気性発酵を促進させることである

 ポリタンク排水槽側に入れた汚泥ポンプはブロアーと同期して、1時間に10分程度、タイマータップで通電して稼動させている
このときホースの出口は投入槽の水面より10センチ以上上に固定して、小さな滝を作ることで曝気攪拌に貢献している
 小さな滝は水面を泡立て、この泡が浄化に大きな役割を果たしているとの報告がある
このホース排出口が液面に隠れてしまうようだと折角の曝気威力が落ちてしまう

 なぜ常時通電しないかというと、実は微生物の活動にとって、激しく酸素が供給される曝気時間とともに、酸素の来ない静かな時間が必要なのである
 EM菌は80種のバクテリアによる相互作用を利用しているが、多くが嫌気性菌であり、これは酸素が邪魔になる 
 一方で好気性菌は曝気酸素を利用して嫌気の20倍の威力で有機物を分解する
 このとき静かな時間に嫌気性菌が生成した代謝物質を栄養源として利用する
 そして、好気性菌の代謝生成物が、次の静かな時間に嫌気性菌の栄養として使われるのである
 こうした相互作用こそEMの本質であって、メインは乳酸菌であっても、それを補完する多数の日和見菌や嫌気性菌が有機質を激しく分解して水質を浄化するEMワールドを構築しているのである

 これまでの微生物学界は相互作用の意味を理解できず、菌の作用となると原因菌を特定して単独の作用メカニズムだけを明らかにしようとする間違った発想に囚われてきた
 だが、バクテリアの世界は単菌では何の意味も持たない、すべてが相互作用の世界なのである
 EM菌を発見した比嘉照夫氏の発見は、微生物集団における相互作用の発見といってよく、高嶋康豪氏は異なる菌類が競合することで同一の形状になってもの凄い分解能を発揮するようになる不思議な複合発酵の発見に微生物学史上の歴史的意味があったと考える

 嫌気と好気を良好な相互作用で共同分解させるには、タイマータップを使って時間制御する
 私の場合は10分間のブロアーと汚泥ポンプの運転と、50分間の休止を繰り返させているが、使用人数が数名以上の場合は、30分の運転と40分の休止というように調整が必要になり、分解の様子を確認しながら時間を変えてゆけばよい

 汚泥ポンプによる循環は曝気を補完するとともにデッドエリアを解消するために必要である

曝気に必要なもの
汚泥ポンプ・循環用ホース5m・金網ストレーナ(ステンレス網とナイロン糸で手作り)・浄化槽用ブロアー二台・エアーホース2m2本(水道用ビニールホースでよい)・エア噴出用水道短管とキャップ(ドリルで5ミリの穴を10以上開けておく)・タイマータップ


③ デッドエリア

 なぜ攪拌が必要なのか? これは槽内に生成されるデッドエリアの存在が浄化槽の性能を著しく損ねるからである

 ブロアーによる曝気だけの攪拌では、どうしても槽内の隅にデッドエリア=酸素の行き渡らない死んだ空間ができてしまい、そこに悪性の嫌気性菌がコロニーを作りやすい
 腐敗菌、フザリウムやメタン菌などで、これらは粘液を分泌して酸素が浸透してこない空間を確保し、コロニーを定着させる性質があるので、このコロニーを作らせないための曝気攪拌が絶対に必要になる
 このコロニーは汚泥生成の大きな原因にもなる
 そこでブロアーだけでは不足になるため、汚泥ポンプによる強制循環システムを設定するのである

 使用する汚泥ポンプは300ワット程度(実効150ワット)で十分で、私は耐久性から寺田ポンプSX150を使用している
工進・リョービ・川本のものはキャプタイヤの接続部防水が不十分で、すぐに壊れてしまった
 寿命は常時使用で二年を目安にすればよい(価格はコメリで2万円以下)

 これに5mほどの長さ、25ミリ口径のビニールホースをつけて、沈殿排水槽から投入槽に排水を戻す工程を加える
 水面より10センチ以上上に排水することで、小さな滝の役割を果たし、ザーッという音とともに水面を泡立てながら酸素が供給され、投入槽に水流を与えデッドスペースを消すのである
 このときホースの固定をよほど確実にしておかないと排液が外部に飛び散ってしまう

 また、汚泥ポンプ全体を金網ストレーナで覆ってゴミが詰まらないようにしないと、すぐに詰まって水流が劣化してしまう
 詰まりの原因物質は、未消化物、外部から入り込んだ落葉、枯枝、草などで、強力なセルロースの分解には長い時間がかかる、このため、金網を張っていても数ヶ月に一度は沈殿排水槽から取り出して金網を洗浄しないと水流を維持するのが難しい

 金網でポンプとホース口を包み込み、縫い閉じるのは測量用の太いナイロン糸が良いだろう 耐久性があって、取り外しもハサミで切るだけでよい
 
 金網の清掃は、ホースを持って槽からポンプを引き出し、金網部分に向けて湯をかけるのが手っ取り早い
 穴が開いていたり外れたりの予期せぬ破損がある場合は、径2ミリ以上の太いナイロン糸で丁寧に縫い締めておく


 ④ 排水工程

 屎尿水は投入槽でエアブローとポンプ循環によって物理的分解と酸素に晒されながら80種のEM菌相互作用によって分解が進んでゆく

 このとき、菌が集団で働く「菌床」が成立し、一種の汚泥状態を成立させるが、この菌床汚泥は、排水全体よりも、やや重く、沈殿する傾向がある
 正しく分解が行われている状態では、液体汚泥菌床は沈み、分解後の浄化水は上澄み液として浮いてくる
 この分解は非常に早く、わずか数十分である
 完全に攪拌された屎尿水が菌床汚泥と上澄み浄化水に分離する時間は数分程度である
 
 浮き上がった浄化水は、驚くほどきれいで排水タンクの最上部に作った排水穴から外部に流される

 排水穴には40ミリ程度の排水塩ビパイプをタンクにエポキシ樹脂で接着する

 流す先は、私の場合、最初は側溝に流していたが、微生物の作り出した高エネルギー水を無駄に流すのがもったいなくて、二世代目では畑の高い位置に穴を掘って流している
 畑は排水のために水分過剰になるが、そうした環境に適応する野菜を栽培すればよい
 肥料分も含まれているため、育ちは非常に良く、美味しい野菜になる
 普通は水分過剰で病気になりやすいはずだが、今のところ病気は発生していない

 また側溝に流した排水もEM菌が残っているので側溝全体を浄化し、死滅していた蛍が復活するなどの結果が出た


⑤ 失敗トラブル

 EMバイオトイレであっても、完全無欠で経過することはありえない
 たくさんのトラブルを覚悟しておかねばならず、毎日、液面を監視し、汚泥が浮いていないか? 悪臭が出ていないか? 排水が汚れていないか? などに注意を払う必要がある

 最初に深刻な失敗は「汚泥」である
 これは底に沈む菌床汚泥ではなく、表面に浮き出してくる汚泥であり、その正体はデッドエリア生成によるフザリウムなどの嫌気性腐敗菌であるから悪臭も伴う

 なぜ、汚泥が出るか?
 
 原因は曝気攪拌不足とEM培養液濃度不足しかない
温度に関しては、確かに厳冬期、気温が下がれば微生物活性が下がるが、十分なEM濃度と曝気システムが稼働していれば問題ななるような汚泥は出ないといってよい

 ほとんどの場合、汚泥ポンプのストレーナ目詰まりによる循環力不足である
これはポンプを引き上げて金網を十分に水洗(可能なら湯で洗浄)するだけで解決する
 またホースの排水位置を引き上げて水面を十分に泡立てる滝の落差を大きくするのも良い(排水は暴れるので、しっかりと金属で固定すること)

 浮いてしまった汚泥は、大柄杓で十分に攪拌しておく
 場合によっては畑の隅に捨てたり埋めたりする必要が出る場合もあるが、この悪性汚泥は畑の作物に病気をもたらすことも少なくないので注意が必要

 EM培養液も、いつでも良好とは限らず性能の劣ってしまう失敗作もあり、こうした場合は優れた培養液を作り直して投入する必要がある

 汚泥ポンプの寿命は連続使用で二年程度である 経験的に寺田ポンプがもっとも長寿命で優れている
 しかし劣化したポンプで十分な水流が確保できなければ汚泥生成の原因になってしまうので交換が必要になる


⑥ ユスリカ

 2011年頃から、暖かくなると突然のように1ミリ程度の微細なユスリカがわき出すようになった
 ユスリカとは幼虫が赤虫で、浄化槽内にうようよと沸いているのを見つけたら何らかの理由で浄化力が落ちていることを意味する

 放置すると、もの凄い生活被害や健康被害を引き起こすことがあるのできわめて深刻な問題である

 2011年以前は問題にならなかったので、東日本大震災や福島第一原発事故が何かの原因を引き起こしたのではと疑っている

 一般的には、強力な酸性洗剤や中性洗剤の使用でEM菌が弱ってしまうことがあり、赤虫の発生の原因の一つと考えている
 なるべく化学洗剤の使用はやめて環境に優しい安全洗剤を使おう

 5月頃から発生があるので、この時期になったEM培養液の製造量を二倍以上にして大量投入し、槽内浄化力が落ちないようにする必要がある
 栄養分の少ないきれいな水では赤虫は発生しない

 それでも発生してしまったら?

 ユスリカは、有機物の混入した、あらゆる溜まり水、流れ水に発生する
 浄化槽に発生すれば、周辺の池や水路すべてに発生していると思うべきで、放置すれば数億の微細なユスリカが住宅内に侵入し、喘息を引き起こすなど恐ろしい被害が出る

 そこで、ユスリカ・チョウバエの脱皮を阻止する生物薬剤であるデミリンやミディ水和剤を水に溶かして如雨露などで発生源に散布する

 このとき浄化槽内に散布するのは避けた方が良い 経験的に浄化力が弱り汚泥が出やすくなる

 浄化槽本体から大量に発生する場合、デミリン投入より、浄化槽全体を封鎖してしまうのが良い
 開口部に発泡スチロール板を切り貼りしてガムテープで留めておくだけでよい。赤虫は好日性の繁殖なので、光を遮れば繁殖できなくなる。
 しかし、EM浄化槽内では光合成菌も大きな役割を果たしているので、それを抑制してしまうデメリットもある

 また意外に水路やバケツなど容器の水たまりでも発生するので、汚水を発見次第、排水して溜まり水を作らないことが大切であり、流れ水に対してはデミリンを毎週投入するような対策が必要になる
 何よりも赤虫の栄養源になる有機質汚水を排除することが最大の対策になる

それぞれの山の物語  第四話  白山巡礼(83~92年)前編

それぞれの山の物語  第四話  白山巡礼(83~92年)前編

 白山の見える街 

 私の通った小中学校は名古屋駅に近い中村区にあって、もう今ではビルに囲まれて昔の面影はないが、通学した当時は、広々とした田園地帯のなかにあって、遮るもののない展望に恵まれていた。

 私は授業に集中できないで教師に怒られてばかりいる問題児童だったから、学校の授業が大嫌いだった。かといって学校をサボルほどの知恵もなく、授業中は、教室の窓から遠くに広がる風景をキョロキョロ、ときにボーッと眺めて過ごすことが多かった。

 まじめに授業に取り組んだ記憶はあまりないが、それでも昔はのんびりしたもので、暇つぶし程度に教科書をながめてさえいれば十分にテストについてゆけたから、今の子供からみれば羨ましい時代だっただろう。

 教師も、まわりの大人達も、激しい戦争に苦しみ、身内を失った人たちばかりで、みんな大らかで包容力があった。「何でもいいから、生きてろよ!」そんな感じだった。

 学校の2階の窓からは、中村区を象徴した豊清神社のコンクリート製の赤い大鳥居と、パルテノン神殿風の水道塔が見えた。
 というより、名古屋駅の西には、この二つ以外に目立つものはなかった。中村区には零戦のエンジンを作っていた三菱岩塚工場があって爆撃の攻撃目標にされたのだ。

 軍需都市のため、戦災で微塵に破砕された殺風景な名古屋に似つかわしく、これらは、ひどくやすっぽい名所であった。

 その水道塔の向こうの意外に近くに、屏風のようにそそり立つ山々を眺めることができる。それが、多度山と呼ばれる養老山地の端っこの山々であった。

 子どもの頃、すぐ近くに見えるこの山に向かって何度も自転車を走らせたが、結局途中で挫けて一度もたどり着くことができなかった。
 というのも、途中には日本有数の木曾三川の大障壁があって、その広大な河原に立つと、そこから先ははるかに遠い異国のように思え、恐れを抱かずにいられなかったからである。

 豊国神社の大鳥居は、当時(たぶん今でも)日本一大きいもので、名古屋市内のどこからでも真っ赤に目立って見えたのだが、今でははるかに大きなビルに囲まれてしまって、目の前の道路以外に見える場所はない。

 当時は、この鳥居の背景が、鈴鹿山脈の藤原岳か伊吹山であった。それらの山は東海の名物であって、濃尾平野のどこからでも仰ぎ見ることができた。でも、今ではもう、学校の窓からこれらの山も見えなくなっただろう。

 伊吹山は、今でも中村区から見える山々のなかで、もっとも派手な鋭峰である。我が地方では、冬の季節風のことを「伊吹おろし」と呼び、この風の吹く日は、骨の随まで凍りつくような底冷えが名古屋を覆うのである。

 近所の鹿島屋という酒屋の奥さんは、京都市左京区の出身だが、名古屋と京都の気候の比較について尋ねると、
 「夏の暑さは京都も相当なものですが、冬の寒さは名古屋の方が上です。北風の吹く日は、いてもたってもいられまへん。」
と言われた。

 以前、札幌から転勤してきた同僚も、名古屋の方がケタ違いに寒いとボヤいていた。北海道の気温は低くとも、住宅は名古屋より防寒設備に優れているので、実際の生活空間は暖かいのである。

 ちなみに、伊吹おろしの体感温度は、真冬の釧路に匹敵するという新聞記事を見たこともある。
 伊吹おろしの正体は、西高東低の気圧配置のもとで、日本海とその延長にひとしい琵琶湖をわたった気団が伊吹山地にたっぷりと雪を落としたのち、乾燥して冷気ばかりになって濃尾平野に吹き降りる気流である。

 この冷たい下降気流をボラーといい、もしも暖かい下降気流ならフェーンと呼ぶ。日本全国、なんとかオロシなどという名のついた季節風は、およそ同じメカニズムだと思えばよい。

 この伊吹山と、好一対をなして濃尾平野に君臨するのが木曾御岳山である。濃尾平野にはじめての季節風が吹いた翌朝は、清澄な空気がピーンと張りつめて平野を取り囲む山々の壁が姿を現すのだが、そんななかで目だって白くなっているのは、いつも御岳山と伊吹山であった。

 御岳山は、山の高さといい懐の深さといい神秘的な原生林といい、まさしく大名物というにふさわしく、私はこの山に惹かれて登山・山スキー・キノコ採りに20回以上も登っている。

 何度登っても、奥の見えない神秘的で巨大なマッスだ。私は、御岳とともにあることを心から誇りに思う。だから、今日の名鉄グループによる御岳の無惨な破壊は耐え難いほどに辛い。

 あの、すばらしい原生林が、自然保護の機運の高まるこの御時世に、斜陽化しているスキー場開発(JR東海チャオ)のために次々に伐採されてゆくのだ。これは御岳を観光産業に利用するため、公園保護規制を政治力で阻止した名鉄グループの努力の賜である。

 東へ目を転ずれば、中央アルプスと恵那山がひときわ高くそびえ、際だって白いが、中村区からは名古屋市街を挟むので、やや見える地点が限定されるのが惜しまれる。

 御岳山と伊吹山の間に、あまり世間に知られることのない地味な奥美濃・両白山地が、それこそ海の波頭のように延々と続いているのだが、そのなかでも春先から初夏にかけて、いつまでも白さの残る山がいくつかあった。

 伊吹山の雪が消えてもなお白さを保ち続ける一頭抜きんでたピークは能郷白山であったが、御岳山の雪が消えてからでさえなお白い小さなピークに気づいたのは最近のことである。

 大気の澄みきった早春の日、長良川の堤防道路を走りながら、あるいは名古屋港に近い臨海工業地帯から奥美濃の山々を同定していて、高賀三山の付近に異様に白い山を見いだし、何であるか考えた末に、これは白山ではないかと思うようになり、どう検討しても白山以外ありえないと結論した。

 「名古屋から白山が見えた」
 これは思いもよらぬ新鮮な衝撃であった。私は、白山に対する思いを新たにせざるをえなかった。

 そして、それまで窓外の山といえば御岳か伊吹山という固定観念で考えていたものが、格段の広がりを与えられることになった。白山もまた、自分たちの山ということになったのである。

 それだけでなく、私と白山はある特別の縁を結ぶ機会があった。
 個人的なことで恐縮だが、私の友人に、以前の会社の同僚で、郡上高鷲出身のOさん、Yさんがいる。Oさんは、名古屋の会社を辞して故郷にユーターンし、高鷲村のスキー場に務めているが、今でも年に何度もお邪魔して、お世話になっている。私が白山に深くかかわるきっかけになったのは、この人たちの存在であった。

 私がスキーを覚えたのも、スキーを乳母車のようにして育ったような彼らの指導のおかげといっていい。O家やY家をたびたび訪ねるうち、やがて山スキーの楽しみも覚え、石徹白や平瀬の山々にも登るようになった。Oさんのお母さんには、六厩や鷲ヶ岳周辺のキノコの穴場も教わり、それらの山の殖生にも詳しくなった。

 白山には、太古から手つかずの自然が豊富に遺されている。そのすばらしさは、とても文章に表せるようなものではない。
 だが、この数年というもの、過疎脱却にあせり、土建屋事業で目先の利益を追う自治体の手によって、激しく喰い荒らされ、無惨な変貌をとげるようになった。

 もはや決して失ってはならない人類の遺産としての残り少ない原生林でさえ、目先のゼニに釣られ、そのかけがえのない価値を理解できない人々の手によって、あたかも雑草を刈るように葬り去られてゆく。
 私は、白山周辺の山を登るたびに、自然に触れる喜び以上に、人災に対する激しい憤りを覚えざるをえなかった。その感情は、自分の慕う人が権力をカサにきた他人に辱められることの怒りに共通するかもしれない。

 三方崩山 2059m 1989年6月

 白山は日本海側に位置する山でありながら、日本海と太平洋の分水嶺をなしている。その規模は想像以上に巨大で、関連する山々全部を合わせれば関東山地、奥秩父連峰や中央アルプスを上まわり、飯豊朝日連峰に匹敵する規模をもっていよう。

 この雄大な山岳地帯から、豊富な水量をもつ大河川が流域を潤している。そのうちで代表的なものは、太平洋に向かって長良川があり、日本海に向かって九頭龍川、庄川、犀川、手取川などがある。

 わけても長良川は、その流域が広大であること、日本で唯一(この原稿を書いている1990年の時点では)本流にダムがないため、自然の生態系が保たれ生物相が豊富であること、人家の多いわりに水質が非常に良いことなど、特筆すべき美点の多い川である。

 長良川は、古来、美濃に住む人々にとっての誇りであった。
 その長良川に沿った郡上街道を北上し、高鷲村の大規模なスキー場群を左右に見て、最後にゆるやかな蛭ヶ野高原を過ぎると、そこはすでに飛騨の国、合掌造りの民家で知られた白川郷である。

 大日岳(1709m)の裾野にひろがる蛭ヶ野は、長良川と庄川の源流にあたり、太平洋と日本海との分水嶺である。とはいっても、ここは広くゆるやかな高原地帯なので、分水嶺も飛騨美濃国境もまことに明確さを欠いたありふれた林のなかにある。

 このため、水源地帯の小河川が複雑に入り組み、狂ったようにデタラメの方角に流れ、この山々に入った人々を惑わせ、恐れさせてきた。古く、旅人や行商人は、おそるべき難所を越えねばならない白川郷を、さいはての魔境のように思い、覚悟を決めて立ち入った。

 飛騨といっても西飛騨白川郷は、越中庄川の奥深く山また山の秘境であって、匠の名を轟かせた建築職人の里、高山・東飛騨とは深い山地によって隔絶していて、明治初期に高山と庄川村を結ぶ六厩(むまい)・軽岡峠と、白川村荻町と高山を結ぶ天生(あもう)峠が整備されるまで、とりわけ雪の季節には事実上飛騨とは無縁の孤立した地域だったといっていい。

 白川郷は、むしろ越中や加賀の国と真宗や煙硝製造を通して深い関係にあったようである。
 建築様式や民俗についても東飛騨とは疎遠で、文化的には越中・加賀に共通するものがある。ただし、この地域は日本有数の貴金属鉱床に恵まれ、内ヶ島氏滅亡後、飛騨金森氏の領下に入ってからは、東飛騨との間に密接な関係を持つようになった。

 東飛騨を結ぶ軽岡峠は、かつて辞職峠と呼ばれ、つい戦前頃まで、高山を経て白川郷に赴任する教員や行政官があまりの山深さに恐れをなして、ここで辞職を決意し引き返す者が多かったのだという。(ただし、辞職峠の伝承は全国の山村僻地にある)

 冬季には豪雪に閉ざされ、越後・信州の秋山郷と同様、完全に孤立するのが常であった。
 冬季、白川街道が完全除雪されるようになってから、まだ30年ほどしか経っていない。除雪されるようになったのは、大規模な御母衣ダム工事によって道路が整備されてからである。

 そして、そのとき白川郷はすでに消えてしまっていた。というのも、本来存在した白川郷の主要部分が御母衣ダム湖の下に沈んでしまったからである。

 現在残っている白川郷は、当時の面影を僅かに残すにすぎず、数分の一にも満たない集落が観光用に残されているだけである。
 かつての白川郷の住人たちは、年に一度だけ移植された庄川桜に集い、かつての賑わいを偲ぶという。

 明治や昭和初期の飢饉は相当に辛い状況だったらしい。享保・天明の大飢饉のおりには壊滅的なダメージを受け、秋山郷と同じく大部分の人が餓死した部落もあった。

 後に述べる天正地震とこの飢饉では、白川郷は一新されるほどの変貌があったといわれる。
 白川郷の住人は、飢饉におびえて暮らさねばならなかった。そこに東洋最大のダム計画がもちあがったとき、反対運動は興ったが、それは豆腐に包丁を入れるようにすみやかに実現してしまった。

 この地域では、封建的な家父長制に縛られ、底辺の人々の声は上に届かない時代が続いた。それを利用して、国家権力は民衆の歴史的生活を自在に蹂躙したのである。

 庄川村から岩瀬橋を渡り、御母衣ダム湖の沿岸の洞門の連なる危うい道を行くと、ダム堰堤を右手に見て白川村平瀬の集落に入って行く。

 途中、もしも残雪期ならば、平瀬部落の真上にひときわ高くそびえ、際だって白く輝く鋭峰に心を奪われぬ人はいないだろう。気の早い人は、「あれが白山か」などと思ったりするのである。

 それが白川郷を直接とりまく山々のなかでもっとも高く、もっとも鋭く、もっとも白い、それ故もっとも美しい三方崩山である。

 私が登ったのは梅雨期のさなか、晴れたかと思うと突然土砂降りになったりする不安定な天候の日であった。前日、麓の平瀬温泉まで来て浴場前の広場に車泊した。
 この山のありがたいところは、なんといってもこの温泉である。山とペアになった温泉ほど心を豊かにしてくれるものはない。立派な公衆浴場が設置されていて、230円で入浴できる。微かな塩味のある良い温泉で、この周辺の山々を訪れたおりに何度入浴したかわからない。

 源泉は白山平瀬登山口にある白水湖の湖畔に湧き出ていて、100度を越す高温蒸気を冷やして、平瀬部落まで管送している。その間、15キロ以上もあるのに、湯口では60度の高温が保たれている。

 登山口は、公衆浴場の広場脇の神社から林道を上がって行く。大きな砂防堤が車の入る限度で、その先は崩壊していた。とことこ歩いて行くと、立派な舗装道路になり、トンネルの手前に左手に山肌を登る階段があった。

 雨の強く降り注ぐあいにくの天気で、急な草むらは、いかにも蛇の多そうな雰囲気で気持ち悪かった。しばらくで、白山らしい超500年級の深いブナの極相林を行くようになる。

 白山山系にはまだ林野庁の手にかからない原生林が多く残されていてほっとした気分になるが、この森もいつまで官僚の魔手から無事でいられるだろうか。軽薄な使い捨て文明の餌食にならぬよう祈らずにはいられない。

 三方崩山の荒谷は昔から熊の名所で、新しい熊のテリトリー標識(爪痕)を探したが視界にはまったく見あたらず、他の動物達の棲息痕もほとんどなかったのが妙に気にかかった。極相林はよいが、動物のいない原生林というのもどこかおかしい。

 ジグザグのブナ帯を抜けると尾根道になり、森林限界が早い。このあたり、ため息の出るほどの美しさである。潅木にときおりヒメコ松・黒桧(ネズコ)・コメツガなどの針葉樹も混じる。
 ひどく急で滑りやすい尾根を辿ると、2時間ほどでガレ場が多くなり、尾根が痩せて左右に崩壊し、神経を使う場所もある。地元では刃渡りと言うそうだ。ガスの切れ目の左奥に三方崩の立派な山体が見え、南アに似た崩壊地が荒々しく迫り異様な迫力を与える。

 「こりゃ、見事に崩れたもんだ。」とため息をついた。
 この大崩壊は風化ではなく、400年前の地震によるものであった。

 伝承によれば、天正13年(1582年)11月29日、日本史に記録された大地震が白川郷一帯を襲った。

 このとき、三方崩山東北の保木脇にあった白川郷領主の内ヶ島氏の帰雲城とその城下町が、三方崩山と対岸の猿ヶ馬場山から発生した大規模な山津波に呑まれ、一瞬にして城主の氏里以下、城下町300戸・住民500名もろとも土砂に埋まって全滅したのである。(城を埋めたのは、猿ヶ馬場山中腹の帰雲山の崩壊である)

 この時の地震で埋没し滅亡したのは、帰り雲と呼ばれたこの城下町の他に、折立(高鷲村西洞)、みぞれ(明方村)の3カ所であったが、中部地方有数の不便な山中の事情のために、天正地震と帰雲城埋没が世に知られるようになったのは古い話ではない。

 戦国時代、戦いに破れて滅んだ大名は多いが、地震で滅んだ大名はこの内ヶ島氏をおいて他にはない。だが、四代百年余も続いた内ヶ島氏でありながら、西飛騨の山深さに隠されて戦国正史には登場しない。しかし、この史実には、人々の興味を引きつけずにはおかないミステリーを含んでいた。

 かつて、作家の佐々克明氏が帰雲城について調査し、内ヶ島氏は豊富な砂金に目をつけて白川郷を領土にしていたので、この土砂の下には推定5000億から10兆円にのぼる金塊が埋まっているかもしれないと発表して話題になった。そして、この歴史的財宝に注目する人々が大勢でてきたのである。

 だが、史実をあたってみると、豊臣秀吉に敵対した佐々成政についたために、秀吉輩下の武将、金森長近に攻撃された内ヶ島氏は、戦い破れて金森氏に講和を求め、大量の金を持参して許しを請うた可能性が強い。

 しかも白山長滝神社に残された古文書には、地震埋没後のわずか7年後に、金森氏によってこの付近で大量の金の採取が行われたと記録されているので、埋没金の残存については懐疑的にならざるを得ない。

 ましてや、荻町城主で内ヶ島氏の家老であった山下大和守時慶(後に家康の武将となり、江州蒲生郡を与えられ、徳川義直の名古屋城築城に携わった。大久保長安の採金にも関係している。)など多くの家臣が無事で、金森氏の家来になっているのである。
 みすみす埋没金を見逃すことは考えられない。だが、今なお確定的史実は明らかでない。

 いずれにせよ、おそらく白山の爆発的噴火にともなって一カ月間続いたこの地震で三方崩山も甚大な破壊を受け、今日見るように、猿ヶ馬場山とともに凄惨で大規模な崩壊地を荒々しく晒すことになったし、付近の山々に崩壊地が多いのも、この天正地震によるものと考えられる。

 頂上へは、崩壊地の尾根を辿って着く。山頂はコメツガなどの低い針葉樹林に囲まれていた。さほど広くないが立派な標識がある。晴れていれば御母衣湖の雄大な眺めが見えるはずだが、この日はガスに視界を遮られていた。

 登山口からおよそ3時間程度の行程であった。もちろん、絶好の登山日和にすらほとんど登山者を見かけないこの山に、こんな日に登る物好きがいるはずがない。いつ来ても、静かな登山を満喫できる山である。

 山の風格といい荒らされていない自然の美しさといい、掛け値なしに素晴らしい名山で、その魅力は100名山の荒島岳など遠く足元にも及ばない。私は、この山が白山山系のなかでもっとも素晴らしいと思っている。

 この先に1時間ほどで最高点の奥三方岳があるが道はなく、雨がひどくなって行く意欲は起きなかった。日本最多登山者の宮崎日出一さんは、奥三方を天上の楽園と表現されておられているから、きっと素晴らしい場所なのだろう。いつか、ここから白山北稜(マナゴ頭)へ抜ける山旅を予定している。

帰路は急な尾根で何度もこけた。登山者が少ないので土が浮き、雨でヌルヌルになっていた。トラロープが各所に設置されているが、ほとんど役にたたない。夢中で下って、平瀬温泉にたどりついたときには全身泥だらけになっていた。

 日照岳 1751m 1990年4月

戦国時代、茶道の創立者として名を残した金森宗和の父は、越前大野を経て飛騨高山の城主となった金森長近である。
 長近は尾張中村に生まれ、抜きんでた有能さを買われて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。その生涯は、なぜか白山を巡るものであった。

 天正13年(1582年)、飛騨白川郷の領主、内ヶ島氏は、情勢を見誤り豊富秀吉に叛意をもつ佐々成政に連携してしまった。その結果、自ら大軍を率いて佐々討伐にあたっていた秀吉は、越前大野城主であった長近に内ヶ島氏攻めを命じた。
 8月2日、長近軍三千名は内ヶ島氏の意表を突き、白山別山の尾根を伝って白川郷に攻め入った。

 長近軍は内ヶ島氏を激しく攻めたが、岩瀬橋(庄川村)で内ヶ島方の尾神氏の頑強な抵抗に遭い、大きな損害を被った。一時は、壊滅的な敗北を喫するかにみえたが、美濃白鳥から迂回して攻め入った可重の軍勢に助けられ、苦戦の末辛うじて尾神氏に勝利し、内ヶ島氏を降参に追いこんだ。
 内ヶ島氏は秀吉に和を請い、許されて金森氏との講和を終えた直後、山津波に埋没したのである。以来、白川郷の豊富な鉱物資源は、金森氏の領有に帰すことになった。

 この時、長近軍が通ったと思われるのが、別山東稜尾根であって、日照岳はその上のピークである。
 日照岳と大日岳にはさまれた大きく深い谷を尾上郷谷といい、アルプス級のすばらしい渓谷に恵まれた秘境である。

 現在は岐阜県大野郡庄川村に含まれる尾上郷は、戦国時代には比較的開けていたようで、内ヶ島氏の家老を務めた屈強な尾神氏の支配下にあった。ここに人が集まった理由は、豊富な砂金の存在であっただろう。

 戦後、御母衣ダムが完成するまで、尾上郷は白川郷の一部として少なからぬ居住者もいたようだが、現在はすでにその面影もなく、人気のない白山有数の秘境として、野生動物の楽園の趣をみせている。

 もしも白山周辺で、最後まで熊が生き残ってゆける地域があるとすればこの一帯であろうといわれていたのだが、近年、御他聞に漏れず林野庁の猛烈な収奪にさらされ、さらに御母衣ダムの補助ダムの建設も進行し、野生動物への打撃はすくなからぬものがある。

 別山東稜を含む尾上郷ルートは、白山信仰が最盛期の頃、白川郷へのエスケープルートとして利用され、また、白川郷から越前への間道としても使われたようだ。「登り千人下り千人」とうたわれた全盛期の白山の稜線には、多くの道が開かれていたであろう。
 この道の存在は、柳田国男の白川郷紀行文にもわずかに紹介されているが、現在ではすでに痕跡をとどめず、正確なルートはわからなくなってしまった。

 私の訪れたのは、まだ残雪の点在する4月末であった。2・5万図に途中まで破線路が記載されているので、それを辿ってみようと思った。

 まず登山口を探すのが一苦労であった。岩瀬橋を渡った御母衣ダム湖沿いの、トンネルとスノーシェンドのある国道を行ったり来たりし、地形図とにらめっこして、やっと右手に大きな切り開きの広場があり、左手の沢筋に木製の梯子のかかった登路を発見することができた。

 入り口は頼りないが梯子の上からは立派な登山道となり、わずかに登ると営林署の作業小屋として使われているパオのようなテントがあった。その上は送電線の巡視路として整備されているようだった。

 送電線の付近は、白山を象徴するブナの純林など跡形もなくて、根こそぎの皆伐地帯になっていた。この付近で営林署の原生林略奪が進行中のようだ。2キロほども登り、3番目の高圧線を過ぎてしばらくでいつのまにか道が消えてしまった。

 そこから尾根を外さぬように薮を分けて登ると、ピンクのヤシオツツジが咲き乱れ、心をなごませてくれた。

  高度1200m前後から残雪が出現し、雪のない山肌にも一面に雪と見誤るような、綿のような白いものが大量に目についた。この時期、雪のような花に包まれる木といえば、コブシ・モクレン・ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)などだが、それはタムシバの花であった。

 香りの素晴らしいタムシバはモクレン科の落葉木で、白山山系の二次林に非常に多く見かける。ただし、私にはコブシとの区別がつかなかった。
 手元にある薬草辞典でひいてみると、コブシはガクが小さく緑色で3枚、花弁は6枚、葉は卵を逆さにしたような形で裏は緑色になっている。

 タムシバはガクが花と同質、葉は針を押しつぶしたような形、裏は白い。
昔はカムシバ、またはサトウシバと言ったそうだ。葉を噛むと芳香があり、甘い液が出るからである。この花は辛夷(しんい)という生薬名で、その香気成分を利用して漢方では蓄膿症の薬にしている。

 ただし、タムシバ・コブシともに日本特産種で外国には存在せず、中国ではモクレンが辛夷である。だから漢字名がないのだが、「多虫歯」なんてのはどうだろう。

 タムシバは移植栽培が非常に困難で、生薬業者がこのような場所を見つけると、花の時期に根こそぎ採取してしまい、群落が消滅することも多いという。例えば、長野県水内郡などにそうした例がある。

 尾根筋は完全に雪が消えていたが、切り開かれたばかりの枝の下から、4月末というのに大きな赤マムシが這い出てきてびっくりさせられた。今年初めて見た毒蛇で、その先からビクビクして歩く羽目になった。

 白山には、泰澄大師が1000匹の悪蛇を封じ込めたと伝説される池がいくつかあり、古来から毒蛇の多かったことを示している。マムシは、歩行振動の出る登山道では逃げてくれるが、ゆっくりした薮漕ぎでは咬まれる確率が高くなる。道無き頃の白山では、さぞ咬傷が多発したことだろう。

 道が消えた後は、尾根の微かな踏跡をたどり薮を分けた。破線路は左手の谷筋になっているが、どうやら消滅しているようだ。
 やがて1410mのピークに達すると、上に真っ白な日照岳のピークが現れた。しかし、その先は濃密な根曲がりの笹薮になった。

 薮に突入して笹を分け、しばらくで後ろを振り返ると、ほとんど進んでいないのにショックを受けた。残雪さえ残っていればヒダリウチワの行程のはずだが、チシマザサの密生地帯は私にとって谷川岳一ノ倉沢に等しいのである。

 京都の78才になられる超人的登山家の伊藤潤治さんは、この猛烈な薮をスイスイと分けて鼻歌まじりに奥日照岳まで行かれたそうである。
 私は100mでダウンした。もう一歩も進む気力が失せた。恥知らずにも、そこで引き返すことを決めた。

 日照岳という名前からは、麓の白川郷の雨乞祈願所といった印象を受けるが、白川郷のような重畳たる山岳地帯で水に不自由するというのも考えにくいし、ここで水稲作が行われたのは大正以降だから、あまりややこしく考えないで、「よく日の当たる山」とでも解釈すべきなのだろうか。
帰路はマムシの影におびえ、棒で薮を叩きながら帰った。われながら情けない奴だと思った。

 追記、このとき私は鉈で笹藪を切り開いたが、後に、これは絶対行ってはならない過ちだったことを知った。竹笹類を刃物で切ると、切り口に必ず槍のように危険な刃を作ってしまう。それが通行者にとってきわめて危険な罠になる。これによって命を落としたり、失明する者も多い。絶対やってはいけない。笹藪は、泳ぐように手で分け、乗り移るのである。藪山を行く読者は十分に注意されたい。

 経ヶ岳 1625m 1990年6月

経ヶ岳は、白山信仰の歴史のなかで、加賀馬場・美濃馬場とならんで栄えた越前馬場・平泉寺の背後にそびえる名山である。平泉寺から経典を奉納したのが経ヶ岳山頂であった。

 中央アルプスの経ヶ岳もそうなのだが、この名のついた山では、古く修験道の修行のうちでも法華経典にある如法経修行というものが行われていたことを示している。それは、法華経28章(品)のそれぞれに対応する経塚を設け、写経を奉納埋没する修行であり、天台宗の慈覚大師がはじめたと伝えられる。

 したがって、麓に天台宗系の修験道寺をもっていた山に経ヶ岳という名が与えられることが多いと考えてもよい。
 馬場というのは、そこに馬を繋ぎ徒歩で歩きはじめねばならない登山口に相当する広場である。それぞれの馬場に、白山を祀った寺社と禊場(みそぎば)がおかれ、牛馬、ときに女性も、それ以上立ち入ることができなかった。

 中世の修験道による白山信仰登山で、もっとも古く開かれたのがこの越前(白山)馬場であったようだ。平泉寺の歴史は古く、泰澄が白山を開いた8世紀にすでに開山していたと考えられるが詳細はわからない。往時の登山ルートは、ここから石徹白を経由したと考えられる資料もある。

 12世紀には、美濃馬場・長龍寺と同じく天台宗・比叡山の傘下に入り、白山修験道が行われた。その頃には平泉六千坊といわれ、数万人の僧徒が居住し、当時の比叡山に匹敵し、現在の高野山のような広大な寺院都市であったらしい。

 しかし、この寺の僧衆徒は地民を奴隷のように支配し、暴虐をはたらくのでひどく評判が悪く、耐えかねた農民は、加賀一向(真宗)一揆の余勢をかって、一六世紀、天正年間に平泉寺勢力を攻め滅ぼしてしまった。
 このとき、一向一揆・農民兵の拠点であった村岡山は、勝利を祝って勝山と改められ、それがこの地域の地名になった。

 現在の平泉寺は、その後、金森氏などの庇護を受けて細々と再興されたものである。しかし、江戸期には徳川家菩提の上野寛永寺の系列に入り、幕府の保護を受けることができた。
 そのおかげで寺の格式は高く、大いに威張っていたのだが、明治の平田国学派による排仏毀釈の際、白山権現をまつっていた平泉寺は仏教を放棄して白山神社になった。長年の徳川家の恩を蹴飛ばして、一転天皇家側についたわけである。

 江戸期最後の住職であった義障は平田派の尊王思想に影響され神職に衣変えし、その孫の東大史学部教授、平泉澄も右翼皇国史観学者として有名になった。

 平泉澄については、偉ぶって硬直した人物像など、多くの不快な逸話が残っている。東大教授時代、民俗学を志向した学生が農民の生活レポートを提出したところ、「農民や家畜の生活は歴史ではない」と一蹴し、権力者の歴史のみ、それも皇国史観に都合の良い歴史以外、絶対に評価しようとしなかった。

 この男こそ、岸信介・石原寛爾らとともに、思いあがった帝国主義者たちによる太平洋戦争の最大の戦犯に他ならなかった。

 神職、平泉一族の頭の堅さのおかげかどうか分からないが、由緒の立派なわりに、平泉寺の周辺は永平寺のような喧噪もなく、静かで落ちついた自然環境が保たれている。散策には素晴らしい場所である。

 白山や経ヶ岳に登る道は、ひと昔前まで、ここから法恩寺山を経て長い道程を辿らねばならなかった。しかし今では、経ヶ岳にはいくつかの直登ルートが整備されている。
 現在、平泉寺からの尾根には法恩寺林道が横切り、そこに法恩寺山経由の立派な登山道があり、林道を南に下ると、保月山尾根コースと谷コースもあり、どちらも3時間かからずに登頂できる。

 私の登ったのは法恩寺コースだった。前夜、小京都と讃えられ、歴史的景観の残る勝山市街の旨い焼鳥屋でいっぱいひっかけた後、平泉寺付近に車泊し、翌朝、女神川沿いの林道を車で遡ると、スレ違い不能の恐ろしく頼りない道になった。

 ハラハラしながら詰めるとゲートがあって、カンヌキを抜いて進むと、立派な法恩寺林道になった。この道は南六呂師から良い道が通じていたことを後に知った。

 登山道の知識はなかったが、平泉寺からの尾根に決まっていると踏んでいたのでそちらへ向かうと、はたして道標と立派な登山道があった。しかし、このルートが経ヶ岳のルート中最長コースであることまでは気づかなかった。

 朝五時に出発するとき、すでに初夏の陽光がきらめき暑い一日を予感させた。 法恩寺峠に登る古い禅定道(修験登山道)は尾根のうえに緩くつくられ、丈の低い潅木に展望を遮られた道を害虫の攻勢に悲鳴をあげながら登ってゆくと、すぐにひどく立派な山小屋があり、そこから1時間ほどで法恩寺山の山頂に達した。

 途中、新しい伐採地がやたらと目につき、よく見ると、そこに「リゾート開発」と書かれた測量杭が打ちこまれていた。
 「ここもか・・・・・・」と、思わず苦い思いでわらった。
 スキー場に手ごろな傾斜の地形で、ここが数年後にどのように変貌するのか調べなくとも容易に予想できた。

 自治体が目先の利益を追って狂ったように開発ブームに沸くようになったきっかけは、将来、戦後最悪の悪法と評されるかもしれないリゾート開発法であった。

 膨大な自然破壊を狂気のように重ね連ね、やっとその成果が具体的に検証されるようになった今日、当然の結果ながら、思惑通りに利益を得た自治体は極小数にすぎず、大部分は貧困な財政に追い打ちをかけるように事業の赤字に苦しみ、残されたものは回復不能なほどの自然破壊と人心の荒廃にすぎなかったという現実が明らかにされてきている。

 すでにその結末が誰の目にも見えはじめたというのに、地元の自治体役人の目は暗黒の住人のように固く閉ざされているようだ。彼らの目を開かせぬものは、土建事業の利益なのだろうか。彼らはもはや、戦前のマインドコントロールされた皇国日本人と同様、何が大切なものかという判断能力を失ってしまった。彼らの目に見える美しいものは、札束だけなのだろう。

 越前馬場、平泉寺からの禅定古道は、法恩寺峠からいったん小原村のワサモリ平に下り、再び小原峠を越えて市之瀬に下り、そこから現在観光新道の通る尾根を経由する複雑なルートがとられた。

 だが、美濃馬場に残る古文書に、泰澄の開いた当時、ここから経ヶ岳、赤兎山を経て石徹白に下り、再び別山を経由するルートがあったことを示唆するものがあるという。この尾根伝いの道は、幸いなことに登山道が整備されていて、現在誰でも通ることができる。

 経ヶ岳へ伝う尾根道はしっかりしていたが、ワサモリに下る古道はすでに荒廃し、深い薮に隠されて登山の痕跡も見えなかった。

 尾根道には背丈を超える潅木が密生しているため、ほとんど展望がなく、約1時間というもの黙々と暑く苦しい道を歩いているうち、突然、森林限界に達した。そこはすばらしく広大な景観で、それまでの道が閉塞的であった分だけ、心身ともに解放されるような何ともいえない思いがした。赤兎山への分岐であった。

 わずかな吊り尾根をたどると経ヶ岳山頂が広がった。そこは期待どおり、遮るもののない360度の広潤な展望であった。

 真正面には別山と白山が、まだ大きな残雪をいたるところに残して神々しく鎮座していた。左右の谷にも豊富な雪渓が残っていた。このうえなく爽やかな景観であった。
 南六呂師高原を望む山腹は異様な地形だったが、後にこれが噴火口であることを知った。経ヶ岳は、白山の兄貴分にあたる火山であった。

 はるか下に林道が見え、そこから延びた登山道に大勢の登山者が見えた。すばらしい日曜日だ。

 六呂師(ロクロシ)という地名は、福井県に多い。山の民俗に関心をもつ方なら、「木地屋だ!」とピンとこられるであろう。

 トチ・ホウ・ケヤキなどをロクロで削って木地椀の製造を生業とした木地屋は、ロクロに関連する工作を生活の糧とした。ロクロといえば、土器を制作する縦型ロクロと木器を制作する横型ロクロがあって、それぞれ大いに関連しているにちがいないのだが、どちらが先だったのかはよくわからない。というのも、土器は保存性がよく遺物も多いが、木器は腐るからである。

 弥生式土器は明らかにロクロを使用していて、この技術が中国江南地方、揚子江下流域の米作地帯から、2500年前に米作農耕とともに伝わった技術であることを窺わせるのである。
 さらに、山岳高地の尾根に居住した木地屋の民俗習慣が、雲南・ブータン系の高地族の生活習慣と極めて似ている点も見逃せないし、現代に到る彼らの子孫の人相も雲南諸民族に非常に似ているような気がしている。

 2500年前というのは、最近ではかなり確定的になってきていて、それも臥薪嘗胆の故事で知られる呉の国の住民が(越に追われて?)集団で日本に移住し、邪馬台国などを開いたのではないかという可能性が、東夷伝の「我らは呉の太伯の後なり」という記録の傍証として考えられるようになっている。

 木地屋は、近江小倉郷(滋賀県永源寺町君ヶ畑)を根元地とし、清和天皇(源氏の祖)の兄にあたる惟喬親王を開祖とする全国的な伝承をもっているのだが、8世紀の天皇家は、チベット・ブータン・中国雲南・江南地方からの渡来人であったはずの弥生人の子孫とは無関係であり、朝鮮半島を経由して渡来したモンゴル系の民族であって、すなわち(源平藤橘姓に代表される)騎馬民族系の天皇家とロクロの関連は薄いとも思えるが、フヨと呼ばれた彼らの祖先が、伝承されるように秦(始皇帝の)の子孫であったなら車輪や鉄製刃物も含めた高度な轆轤系技術がすでに完成していたはずで、それを持参するのも容易であり、なかなか推理が難しい。

 君ヶ畑に伝わるロクロの由緒も、親王が巻経をほどいたとき、なかの軸が回転したことからひらめき思いついたと伝承されているが、これも、轆轤が車輪系技術から継承されたことを窺わせる。

 轆轤技術の発生考察はさておいて、木地屋が、ことさら惟喬親王伝承をもちだして自らを権威づけ、さらに天皇家の菊の紋章を自紋として使ってきた理由は、全国の山中で所有者に無断で伐採をするところから、権威を利用してトラブルを未然に防ごうとした訳にちがいない。

 木地屋は明治初年、全国のすべての土地について地租を確定するために所有権を定める布告が出されたことによって、公的に伐採権を失い、一千年以上にわたる流浪の山岳住民としての歴史的権利と社会的認証を奪われた。

 大部分の木地屋は、半強制的に山奥の土地に定着させられ農耕生活を営むようになった。だが、その伝統的なロクロ技術が重宝され、近代機械の移入とともに旋盤などの技術職に転じたものも多かった。現在の、大蔵鉄工や小椋機械、パイロットやセーラーなどの万年筆工業の創業者が木地屋であったことはよく知られている。
 全国の木地屋の子孫は、現在でも年に一度、その根元地である君ヶ畑に集まって惟喬親王に礼を捧げる祭祁を行うことになっている。その名簿をながめると、やたらにオクラに類する姓が多いのは、開祖惟喬親王の命によってロクロを伝えたとされるのが小倉氏であったことによるものにちがいない。

 したがって、木地屋を開祖とする集落にはオクラ姓が多いことを知っておいたほうがよい。(小倉・大倉・小椋・筒井・佐藤など)
 現在の六呂師の集落で以上のような木地屋の痕跡を見いだすのは困難だが、北六呂師の上には木地山峠という名が残されているところから、関連は疑いない。

 経ヶ岳山頂から南を見渡す眺望は、荒島岳がひときわ見事であった。能郷白山はその背後に隠れて見えない。谷向かいの野伏ヶ岳(1674m)を中心とした油坂峠方面の主稜尾根は、白山山地で唯一踏み跡がなく、原始の風格を残している。だが、この数年、石徹白の大型レジャー施設(ウィング)の開発によってひどく荒廃がすすみ、面影は変貌してしまった。

 おそらく、日本でもっともたくさんの山を登っている東大阪市の宮崎さんは、ここで牛ほどの巨大な熊に出遭ったと書かれている。日本の山を五千回も登ってこられたこの人が、それ以来ザックに鈴をつけるようになったのだから、よほど恐ろしかったのだろう。
 今日、ハンターの高性能ライフルの前に、100キロを超える大熊はきわめて希になったといわれる。過去最大の月の輪熊は250キロ程度と記録されている。野伏せ山の熊がそれに近いほどに育っているとすればまことに貴重極まりなく、ばかげた射殺の勲章を誇りたがるハンターに撃たれぬように保護してやらねばと思うのである。



土岐市・多治見市における重水素核融合実験のトリチウムと中性子

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 土岐市・多治見市における重水素核融合実験のトリチウムと中性子

 中津川市の我家から名古屋方面に国道19号を30キロほど行くと、土岐市があって、向こう隣が多治見市である。
 いずれも奈良時代あたりから窯業が盛んになり、陶磁器生産量も日本一、住民の気質は地場中小零細窯業の苛酷さを反映してか保守的な傾向が強く、あまり人に優しい印象を受けない。

 この町の私の印象は、「我慢の町」である。
 日本一の暑さも我慢、窯業という過酷な重労働も、ひたすら我慢、円高による陶磁器輸出不振の苦しみも我慢で堪え忍び、生きてゆくためには我慢に次ぐ我慢という気質があるように思える。
 
 ここに、1997年、名古屋大学プラズマ研究所と、京大・広島大の核融合研が合同し、核融合科学研究所として土岐市下石地区に移転してきた。

 なんで土岐市かといえば、ここには高品位のウラン鉱が発見され、かつては採掘精錬施設もあって、住民が放射能に馴染んでいるだろうとの勝手な思いこみが権力側にあったからだろう。

 核融合技術というのは、かつて、「バラ色の未来を開く人類最先端の技術」などと、幼児がウルトラマンの仮面を被って、その気になってしまったような幼稚な興奮をもって語られた。

 しかし、50年にわたる研究活動は失敗に次ぐ失敗、次々に予想外の問題が明らかになり、カネや時間をかけた割に、ろくな技術的進展もなく、もんじゅや六ヶ所村再処理工場同様、無用の長物、何一つ生み出さない、お荷物プラントで知られている。

 私の表現に文句があれば、関係者は50年にわたる核融合研究で得られたものを示してみよ!
 莫大な税金を投入したあげく、ほとんど技術的成果もなく、トリチウムによる環境汚染など、ろくでもない結果ばかりだ。
 これまでの放出トリチウムで、どれだけの白血病患者やダウン症児が誕生し、悲劇を招き続けたことか。いつまでも隠蔽できると思うな。

 最先端エネルギー開発なんてエラそうな能書きをたれてるが、本当は核融合エネルギー開発なんて、人の能力のはるか雲の上、彼方のUFO級高級技術であって、強欲を競い合って戦争殺戮ばかりに没頭する愚かな人類の手に届くような代物ではない。
 もし、この技術が実現するとすれば、それは地球から戦争が追放されたとき以降の話である。

 今の稚拙なレベルの人類にできることといえば、皆殺し兵器、水爆を作って大量殺戮し、環境を取り返しのつかないほど汚染し、人類滅亡に貢献することくらいだろう。

 仮に核融合炉発電に成功したとしても、原発の数千倍ともいわれる巨大事故の恐怖、得られるメリットの数万倍の健康被害などデメリットと、手のつけられないほどのエネルギー浪費を引き起こすことは、すでに明らかである。

 未来を冷静に見渡して、子供たちの素晴らしい未来のための本当に必要なインフラ整備を考えている人たちから見れば、まるで、怪我や病気の苦悩、苦痛を何一つ経験したことのない、幼児の妄想お遊びにすぎないのである。

 我々の本当に必要とする技術は、他国に競合して「一番優れてる」と威張りたいだけの軽薄な優越主義、他人からの誉め言葉だけを追い求める愚か者の救いがたいナルシズムとしてのリニア新幹線や核開発プラントではない。

 それは、子供たちの未来に安全と幸福をもたらすものでなければならず、例えば、安全な歩道、自転車専用道であり、遺伝子を絶対に傷つけない農業的成果であり、利他思想に導かれる共同体生活の技術である。

 決していじめや人間疎外の生まれない、みんなが笑顔を共有できる社会であり、弱者を切り捨てない社会であり、差別の悲しみを思い知らされない社会である。
 みんなが助け合って、生活を楽しむためのインフラである。

 だが、もんじゅ、六ヶ所村再処理場とならんで、核融合と称する税金ドブ捨て、「お遊びプラント」を生かし続けている自民党政権の本当の腹づもりは、どうみても軍事技術=水爆製造への希望しかありえない。

 見栄と体面、金儲けだけを唯一の価値と信じて渡り歩く馬鹿丸出しの国家主義者が、「国の体面」とやらの妄想から、水爆を保有することで、国際的地位を高めるなんて下劣な自己満足を求めて生かされているだけのことだ。

 子供の頃から「競争に勝って誉められる」という洗脳教育を受け続けて、他人より優れることだけが人生の唯一の目的であるかのように信仰してしまった、お粗末極まりない人間性の連中が、子供たちの未来も、技術成立後の後先の問題も一切考えず、ただ「作って誉められたい」一心で、環境への影響や、未来への負担を一切考慮せずに、妄想に突き動かされて作り出してしまったウソで固めた虚構が、この核プラントの正体である。

 当初、クリーンエネルギーなんて、ほざいていた核融合は、膨大なトリチウムを発生し、それが人類はおろか、地球生物の未来まで完全破壊しかねないことが分かってきた。

 かつて行われた水爆実験や原子炉や再処理場が莫大なトリチウムを放出し、人類全体にガンや白血病、知的障害などの遺伝病を作り出してきたことが明らかになってきた。

 エネルギーが極度に弱いため、測定さえ困難なトリチウムのベータ線は、核関係者の素朴な期待に応える無害クリーンな放射線どころか、有機化して体内に取り込まれると、深刻な遺伝子破壊を引き起こす悪魔の電子線であることが分かってきた。

 トリチウムは、水と分離することが不可能であり、エントロピーの法則に従って、地球上で拡散し平均化する。
 どんなに汚染されない水を選ぼうとしても絶対不可能である。環境に放出されたトリチウムは100%、「地球の水」となり、我々の肉体に侵入してくるのだ。

 トリチウム水が体内に入ると、たちまち全身に均等に分布し、遺伝子の構成元素となる。
 これが数年もすれば、核崩壊してヘリウムに変わってしまうのだから、遺伝子などバラバラに壊れてしまう。人体に取り込まれたトリチウムの量が増えるにしたがって、遺伝子は壊滅的ダメージを受け、白血病やダウン症などの遺伝障害を引き起こすことが明らかにされた。

 例えば、トリチウムの放出量が桁違いに多い施設、フランスのラアーグ核燃再処理工場、イギリスのセラフィールド再処理工場、重水素を多用するCUNDI型原子炉として知られるカナダ、ピッカリング原発、そして日本の六ヶ所村再処理工場、さらに玄海原発なども、トリチウム放出施設として知られるが、このすべての施設で、周辺住民に恐ろしい被害をもたらしている。

 ラアーグ・セラフィールドともに、周辺に居住する子供たちの白血病発症率が、トリチウムの少ない地域と比べて数十倍になっている。
 ピッカリング原発では、稼働後、周辺地域でダウン症が80%増加したことをグリーンピースが明らかにした。

 玄海原発の周辺では白血病発症率が10倍になっている。失敗続きでほとんど稼働していない六ヶ所村再処理工場でさえ、わずかな稼働期間の後、青森県の白血病発症率が激増している。

http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-4139

 【土岐核融合研による重水素実験】

 この核融合研究所は、数十年前から「重水素実験」の準備を進め、被曝の恐ろしさに無知蒙昧で、目先の発展だけに目を奪われ、住民の健康被害に一切目を向けようとしない、多治見市や土岐市の市長ら関係者を騙すことに成功し、今年、2016年度から、いよいよ実現することになった。

 重水素実験とは、核融合炉の基礎技術として、1億度にのぼるプラズマで重水素が、どのような反応を示すか調べる実験と称している。

 これは当初、1998年の計画では、一回10秒間の重水素プラズマ放射実験を年間、数千回も行うというものだった。
 このとき、わずか10秒間に発生する中性子の量は50万シーベルトであって、1000兆ベクレルを超えるトリチウムを発生させるという。

 なぜ中性子が発生するかといえば、プラズマに重水素が入ると核融合反応が起きるからである。これを持続させれば核融合炉ということになるが、半世紀以上の実験を経ても、持続的核融合炉は世界中の誰も成功していない。
 
 だが、莫大な中性子は生成される。
 人間一人の100%致死線量は7シーベルトであり、この10秒間の中性子量は7万人分の致死量にあたる。トリチウムの量も原子力発電所なみであった。

 これに対し、槌田敦氏や小柴昌俊氏などの良心的学者から強い疑念が表明され、大きな反対運動の盛り上がりになったことで、融合研側は、あわてて実験計画の縮小を発表した。
 しかし、その説明が、まったく子供だましのウソに満ちていて、反対派の強い怒りをかった。

 核融合研の公表試料やパンフレットは虚偽に満ちている。
 
 http://www.nifs.ac.jp/~j_plan_001.html

 パンフレットには一回3秒の実験で、1億ベクレルのトリチウムが発生し、大半を回収すると書かれているが、3秒の実験を一日何回、年間何回やるのかについては、どこにも書かれていない。

 これでは、パンフレットを見た読者は、3秒、1億ベクレルのトリチウムで、すべて終わりと勘違いしてしまう。
 それどころか、当初、核融合研側は、この実験ではトリチウムは使わないと説明してきたが、これが真っ赤なウソであった。
 市民団体側からの指摘で、渋々自白したのである。

 実際には、3秒の実験は、他の資料によれば一日30回、週4回であり、年間555億ベクレルのトリチウム放出を予定しているのである。
 日あたり30億ベクレルのトリチウム取り扱いは、研究所側の説明による放射線管理法にさえ抵触しない微量どころか、明確に法的規制対象を意味するものである。

 年間の稼働日数によっては、さらに一桁以上大きくなる可能性もあり、これは通常の加圧水型原子炉の放出量と同じレベルである。
 しかも、トリチウムの95%を回収すると説明しているが、そんな技術は、今のところ、世界中のどこにも実現しておらず、口先だけのごまかしにすぎない。

 【恐怖の中性子】

 中性子の放出量も、当初の一回あたり、50万シーベルトから減るとはいうが、一日、30回も14MeVという超高エネルギーで、10万シーベルト以上の中性子が環境に放出されるのである。

 中性子は放射線のなかで、もっとも恐ろしい線質で、ガンマ線の20倍の生体細胞破壊効果があるとされる。
 人体に当たると体内に放射能を作ってしまい、内部被曝を引き起こす。
 東海村JCO臨界事故のとき、10キロ以上離れた地点の家屋内から、中性子の痕跡であるナトリウム24が発見されているので、飛距離も数十キロを考える必要がある。

 一般に中性子の飛距離は数百メートルと説明されているが、実際には数十キロの飛程もありうることが証明されたのは、JCO事故が初めてであった。これは確率の問題なのだ。

 ガンマ線も透過力が強いが、中性子の比ではない。理由は、中性子が電荷を持たないため、電気的干渉(クーロン力)の影響を受けないためである。
 中性子の遮蔽は、唯一、水素原子の衝突、弾性散乱によって行われる。弾性散乱とは、ほぼ同じ質量の原子どうしがぶつかることで、相互にエネルギーを交換し、反対方向に散乱する減衰のメカニズムである。
 陽子一個分の質量の中性子(核子)は、陽子一個だけを持つ水素原子と同じ質量で、この正面衝突によってエネルギーを失うことが遮蔽を意味する原理になる。

 このため、遮蔽には、水や、水を含むコンクリートなどが使われる。
 人体は70%以上が水分であるため、中性子の被曝をまともに受ける。

 かつて、「中性子爆弾」が計画された理由も、中性子が水分の多い生物だけを破壊し、建物などを傷つけないと誤解されたからだが、実際には、人間を殺すほどの中性子放射があると、被曝したすべての物質が放射能に変わってしまい、人間は利用どころか、近づくことさえできなくなることが分かって愚かな妄想は終わった。

 核融合研側は2mのコンクリート壁で1000万分の1まで減衰遮蔽すると主張するが、中性子エネルギーが14MeVと猛烈に強いことと、発生量が膨大であるため、必ず、遮蔽能力を超えて通過する確率が出てくる。

 放出された中性子の、すべてが水素元素と衝突して減衰するわけでなく、一部は、すり抜けて外部に放射されるのである。
 こんなのを一日30回、年間数千回もやられたのでは、周辺住民の健康はたまったものじゃない。

 本当に安全な遮蔽は、おそらく数十億分の1以下に減衰可能な遮蔽能力が必要で、この場合、遮蔽には10m厚以上の水プールで覆うことが必要になるはずだ。
 あまけに、中性子にはスカイシャインという散乱現象が存在し、遮蔽のない天井部分に放射された中性子は、空中の水素原子と弾性散乱を起こし、エネルギーを減衰させて反対側に戻って来るのである。

 つまり、上空に向かった中性子の相当割合が、多治見・土岐市街地に放射されるのである。
 JCO事故の際、数十キロの飛距離が確認された理由は、このスカイシャインによるものではないかと私は考えている。

 この散乱によってエネルギーの弱まった中性子が、また実に厄介な代物で、高速中性子から熱中性子へと変化し、ぶつかった原子に容易に潜り込んで放射能化してしまう。
 人体・生物への被曝影響が著しく大きい理由は、この熱中性子の核反応=放射化能力にある。

 たとえ一回あたりの被曝量が微々たるものであっても、一日30回、年間数千回も浴び続ければ、必ず健康被害が出てくるであろうことは容易に想像できよう。

 さらに、減衰した中性子が、周辺のあらゆる機器、建物、土壌に潜り込んで、これを放射能化することを忘れてはいけない。
 この実験は、膨大な核廃棄物を作り出すことになるだろう。

 鋭敏なスペクトル測定器を持参して、重水素実験中に施設の外側にいれば、中性子の生成したナトリウム24の1369KeVガンマ線を容易に検出できるはずだ。
 市販の中性子シンチレータにも明瞭に反応するだろう。

 【核融合研の卑劣な体質】

 名大プラズマ研究所が発展的に移転した核融合研は、名大時代の体質を引きずっているのか、あらゆるところでウソをつく傾向がある。

 「実験にトリチウムは使わない」と説明しておきながら、実態はトリチウム実験そのものであったこと。

 パンフレットに、矮小卑劣な誤解を目的にした、説明ばかりが目につくこと。例えば、一日30回もの試験を行うのに、説明を見ると一回だけのような記述になっている。

 実験によって発生するトリチウムを95%除去と、世界の誰も成功していないウソを書いて「だから安心」と誤魔化す。

 一番ひどいのは、住民や地元自治体の説明に、公正中立な安全評価委員の判断に委ねたとの下りで、ここまでくると核融合研が、旧動燃なみの、とんでもないウソつき組織だと分かる。

 核融合研は、「公正・中立な第三者の専門家、市民」から構成されている安全評価委員会で、重水素実験の安全性が確認されたとしている。
 東濃3市もこの委員会の安全確認をよりどころにして同意の方針を打ち出した。

だが、この安全評価委員会の委員16名はその過半数を超える委員が核融合研への理解、協力者であった。
 うち2名は核融合研の運営会議に所属。人選も核融合研が行い、場所も核融合研の建屋で行い、報酬も核融合研が支払っている。

 どこが 「公正・中立」なのか?
 多治見市長は3月19日の一般質問で、この委員会が公正・中立なものと「判断できない」と答弁しながら実験に同意を決定した。

 こんなウソつき体質の核融合研であるから、中性子の遮蔽も、まったく信用できない。
 たとえ1000万分の1以下の遮蔽力であっても、元の中性子が安全量の1000万倍あれば、それは遮蔽ではない。
 私は、スカイシャイン効果による中性子反射被曝が、想像以上に大きい可能性を恐れている。

 【重水素実験(DD実験)】 「東濃核融合科学研究もんだい」から引用

 DD実験とは、5kev程度の温度をもつDプラズマに、250kev程度の高エネルギーの水素(H)ま たは重水素(D)のビームを入射して、Dプラズマの温度を高め(これを熱化という)、これにより核融合を起こさせることを目的としている。

 このDとDとの衝突によるDD核融合反応は次の反応式群で示すように(i)と(ii)の2つの反応から なりたち、トリチウム(T)と中性子(n)を発生する。

(i)   D+D → p +T
(ii)  D+D → 3He+n(2.5Mev)

しかし、この反応はこの段階で止まらず、次の(iii)と(iv)の2つの反応がただちに起こることに なる。

(iii)  D+ T → He + n(14.0 Mev)
(iv)  D+3He → He + p(水素)

この2つの反応は、DとDの反応よりも容易に起こるので、核融合研究では最も重要な研究とされている。

(iii)の反応はDT反応と呼ばれ、トリチウムの使用と同時に、14Mevという超高エネルギーの中性子を発生することになるので、多くの市民運動の 反対にあい、相手方は「トリチウムは使用しない」と約束したのである。

そこで、相手方は (i)、(ii) の反応から直ちに (iii) の反応が生じるDD実験の実施をすることにより、(iii) の反応による実験を実施することを考え出したのである。
 DD実験は実質的にはDT実験と言って良い。DD実験は明らかに「トリチウムは使用しない」という 約束に反する。

 中性子の危険性

1) 重水素実験にあっては、高エネルギー中性子の発生は不可避である。本実験では大量に発生する中性子が遮蔽壁で守られているに過ぎない。遮蔽壁が何らかの理 由で崩壊すれば大量の中性子が外部に放散され被害が生じる。たとえば、LHD内には実験中、装置内には高いエネルギーが存在することになるが、炉に事故が 生じれば、行き場を失ったエネルギーによる爆発、さらには中性子漏れという事故が生じることになる。

2) 本件遮蔽壁は構造上天井部分が薄くならざるを得ず、その薄い部分を経て透過する中性子が漏れることになる。これらの漏れ出た中性子は外気中で反射し、地上 に降り注ぐことになる(スカイシャイン現象)。

3) 中性子は遮蔽壁と外部をつなぐパイプなどを通じて遮壁外部さらには施設外部に漏れ出す危険がある。

4) 本件炉から発生する中性子により炉本体はもちろん、外部装置は放射化し、放射性廃棄物となる。特に、炉で使用されるニオブの放射化が深刻である。こうして 放射化した物質により申請人らに健康被害が生じる危険性もある。

 【現実問題として多治見・土岐市住民は、どのような被害を受ける可能性があるのか?】

 計画の概要を見る限り、有毒有害なトリチウムの生成量は年間500~1000億ベクレルにおよび、ほぼ加圧水型原発による放出量と同程度になる。
 核融合研側の説明にあるトリチウム95%回収は、現実に成功例がなく、まったく信用できない。

 これまで、このレベルのトリチウム排出を行ってきた、すべての原発の周辺自治体で白血病発症率の上昇が見られる。

① 柏崎刈羽原発の周辺自治体では、女性の白血病発症率が全国平均の二倍になっている。
 
② 「玄海原発がある佐賀県玄海町では、子どもの白血病の発症率が全国平均に比べて10倍以上高い」
 (2012年3月19日発行 肥田舜太郎著『内部被曝』より)

③ カナダ・ピッカリング原発では、トリチウムの放出により、周辺住民新生児のダウン症発症率が80%上昇した。

④ 青森県立中央病院のホームページによれば、青森県内の白血病・悪性リンパ腫・多発性骨髄腫は、東北地方最多である。
この原因として、六ヶ所村再処理工場の運用や過去の核漏洩事故頻発が強く疑われている。

⑤ フランスのラアーグやイギリスのセラフィールド再処理工場の周辺でも、被曝影響を受けない地方の数十倍の白血病発症が確認されている。

2002年、国際的なガン研究の専門誌(International Journal of Cancer)に、セラフィールド再処理工場で働き被ばくした男性労働者の子どもたちは、他の地域の子どもたちに比べ、白血病、リンパ腫など血液のガンの 発生率が2倍近く高く、工場があるシースケール村においては、15倍も高いリスクがあった。

⑥ フランスで、原発から5キロ圏内の子どもと一般の子どもの白血病発生率の比較を行った。15歳以下の子どもは、他地域の子どもに比べて白血病の発症率が1.9倍高く、5歳未満では2.2倍高い。

⑦ ドイツ政府の調査では、原発から5km圏内の小児ガンは全国平均の1.61倍、小児白血病は2.19倍となっている。

⑧ 「原発5キロ圏内で子どもの白血病が倍増」
フランス国立保健医学研究所が国際誌にて発表/ルモンド紙
(2012年1月14日 フランスねこのNews Watching)から抜粋

 反論できない危険信号が発せられた。フランスにある原発の5キロ圏内に住む子どもたちは、通常の2倍の割合で白血病にかかる、という指摘だ。フランス国立保健医学研究所(INSERM)のジャクリーヌ・クラヴェル氏が率いるフ ランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)の科学者研究チームが『国際がんジャーナル』(International Journal of Cancer)に発表した。これは過去にイギリスのセラフィールド原発、スコットランドのドーンレイ原発、ドイツのクルーメル原発において実施された調査で、原発の近辺に住む子どもたちに通常より高い率で白血病が発生することが証明されたのに続く調査結果である。


 これらの告発報告は、無数といえるほどあって、いずれも原発放射能と周辺に居住する子供たちの白血病ガン発生率との相関関係を示すものである。
 ICRPはじめ国際原子力産業は、これらの報告を隠蔽し、無視し、矮小化して民衆の健康を犠牲にして原子力産業を守ることに専念してきた。

 土岐市・多治見市における重水素実験も、まったく同じスタンスであって、トリチウムの有害性が、すでに立証されているにもかかわらず、半世紀前の無害論を持ち出して、健康被害への懸念を嘲笑するような姿勢に終始している。
 
 土岐・多治見市長の無知蒙昧ぶりからも、このまま実験が続けば、白血病やダウン症児増加などの被害は避けられないだろう。
 これまで、放射能被曝の意味を理解できる住民によって多くの啓発的市民運動が行われてきたが、社会全体の「拝金主義」風潮から、目先のカネのためなら未来の子供たちの健康など、どうでもいいと考える市民が増えているのも事実であって、被曝被害に関心を持つ市民は少ない。

 こうした被曝被害が、人々の目に理解されるには、数十年という時間が必要である。残念ながら、我々は問題の解決を未来に委ねるしかなさそうだ。

 この土岐核融合研による重水素実験は、トリチウム問題に加えて中性子問題が露見している。

 中性子被曝については、過去にJCO(住友金属鉱山)によるウラン臨界事故のデータしかないが、このときも、数十キロ離れた地域にまで中性子の痕跡が残されていて、原因として中性子上空散乱=スカイシャインを強く疑っている。

 核融合研側の中性子対策は2mのコンクリート壁だけであって、スカイシャインに対する対策は皆無のようだ。
 したがって、実験開始後、周辺住民に中性子被曝の可能性が強く疑われる。
 これは本当にそうなるのか、反対派側の技術を総動員して監視してゆくことになるだろう。

 もし予測どうりスカイシャインによる周辺住民の中性子被曝が発生した場合、これは恐ろしい結果を招くことになるだろう。
 住民は、中性子という、もっとも危険な放射線の生物学的効果のモルモットにされることになるだろう。

 【河田昌東氏のこと】

 なお、この土岐重水素実験への反対市民運動の講師として度々登場してきた、元名大生物学助教、河田昌東氏については、私はフクイチ事故後の姿勢に強い疑問を持っており、あたかもエートス賛成派のような講演を聴いて強い不快感を抱いた。

 彼は、福島の重被曝地の子供たちを移住させようとしない。そこで防護措置をとれば生きてゆけるかのような幻想を抱かせる。

 なぜ、彼が、エートス賛成派と同じスタンスをとるのか、彼自身による放射線ゲノム研究報告を聴いて理解した。
 彼は科学の発展のためには、住民の犠牲があってもやむをえないという学問上の立場である。

 放射線被曝に閾値は存在せず、どんな微量被曝であろうと、それなりの結果が出ることが明らかであるが、そんなことを言っていては科学の進歩がないという理屈であり、容認限度を定めて我慢せよというわけだ。

 彼は放射線ゲノム研究に妊婦研究員を参加させ、実験を通じて5ミリ以下の被曝だったから安全だったと結論づけた。
 だが、本当にそうなのかは、放影研の広島被曝報告を見て判断願いたい。

http://www.rerf.or.jp/radefx/uteroexp/physment.html

 私は、河田氏の姿勢では、彼と同じ学閥に属する核融合研の重水素実験計画も「科学発展のために容認」という結論に傾斜することを危惧している。

 私は30年以上前に、河田氏の主宰する「反原発キノコの会」に参加しようとしたが、結局、違和感を感じて離れることになった。
 その原因について、こうした科学優先思想に対するモヤモヤした違和感だったと、なんとなく納得がいった。

土岐市・多治見市における重水素核融合実験のトリチウムと中性子


 土岐市・多治見市における重水素核融合実験のトリチウムと中性子

 中津川市の我家から名古屋方面に国道19号を30キロほど行くと、土岐市があって、向こう隣が多治見市である。
 いずれも奈良時代あたりから窯業が盛んになり、陶磁器生産量も日本一、住民の気質は地場中小零細窯業の苛酷さを反映してか保守的な傾向が強く、あまり人に優しい印象を受けない。

 この町の私の印象は、「我慢の町」である。
 日本一の暑さも我慢、窯業という過酷な重労働も、ひたすら我慢、円高による陶磁器輸出不振の苦しみも我慢で堪え忍び、生きてゆくためには我慢に次ぐ我慢という気質があるように思える。
 
 ここに、1997年、名古屋大学プラズマ研究所と、京大・広島大の核融合研が合同し、核融合科学研究所として土岐市下石地区に移転してきた。

 なんで土岐市かといえば、ここには高品位のウラン鉱が発見され、かつては採掘精錬施設もあって、住民が放射能に馴染んでいるだろうとの勝手な思いこみが権力側にあったからだろう。

 核融合技術というのは、かつて、「バラ色の未来を開く人類最先端の技術」などと、幼児がウルトラマンの仮面を被って、その気になってしまったような幼稚な興奮をもって語られた。

 しかし、50年にわたる研究活動は失敗に次ぐ失敗、次々に予想外の問題が明らかになり、カネや時間をかけた割に、ろくな技術的進展もなく、もんじゅや六ヶ所村再処理工場同様、無用の長物、何一つ生み出さない、お荷物プラントで知られている。

 私の表現に文句があれば、関係者は50年にわたる核融合研究で得られたものを示してみよ!
 莫大な税金を投入したあげく、ほとんど技術的成果もなく、トリチウムによる環境汚染など、ろくでもない結果ばかりだ。
 これまでの放出トリチウムで、どれだけの白血病患者やダウン症児が誕生し、悲劇を招き続けたことか。いつまでも隠蔽できると思うな。

 最先端エネルギー開発なんてエラそうな能書きをたれてるが、本当は核融合エネルギー開発なんて、人の能力のはるか雲の上、彼方のUFO級高級技術であって、強欲を競い合って戦争殺戮ばかりに没頭する愚かな人類の手に届くような代物ではない。
 もし、この技術が実現するとすれば、それは地球から戦争が追放されたとき以降の話である。

 今の稚拙なレベルの人類にできることといえば、皆殺し兵器、水爆を作って大量殺戮し、環境を取り返しのつかないほど汚染し、人類滅亡に貢献することくらいだろう。

 仮に核融合炉発電に成功したとしても、原発の数千倍ともいわれる巨大事故の恐怖、得られるメリットの数万倍の健康被害などデメリットと、手のつけられないほどのエネルギー浪費を引き起こすことは、すでに明らかである。

 未来を冷静に見渡して、子供たちの素晴らしい未来のための本当に必要なインフラ整備を考えている人たちから見れば、まるで、怪我や病気の苦悩、苦痛を何一つ経験したことのない、幼児の妄想お遊びにすぎないのである。

 我々の本当に必要とする技術は、他国に競合して「一番優れてる」と威張りたいだけの軽薄な優越主義、他人からの誉め言葉だけを追い求める愚か者の救いがたいナルシズムとしてのリニア新幹線や核開発プラントではない。

 それは、子供たちの未来に安全と幸福をもたらすものでなければならず、例えば、安全な歩道、自転車専用道であり、遺伝子を絶対に傷つけない農業的成果であり、利他思想に導かれる共同体生活の技術である。

 決していじめや人間疎外の生まれない、みんなが笑顔を共有できる社会であり、弱者を切り捨てない社会であり、差別の悲しみを思い知らされない社会である。
 みんなが助け合って、生活を楽しむためのインフラである。

 だが、もんじゅ、六ヶ所村再処理場とならんで、核融合と称する税金ドブ捨て、「お遊びプラント」を生かし続けている自民党政権の本当の腹づもりは、どうみても軍事技術=水爆製造への希望しかありえない。

 見栄と体面、金儲けだけを唯一の価値と信じて渡り歩く馬鹿丸出しの国家主義者が、「国の体面」とやらの妄想から、水爆を保有することで、国際的地位を高めるなんて下劣な自己満足を求めて生かされているだけのことだ。

 子供の頃から「競争に勝って誉められる」という洗脳教育を受け続けて、他人より優れることだけが人生の唯一の目的であるかのように信仰してしまった、お粗末極まりない人間性の連中が、子供たちの未来も、技術成立後の後先の問題も一切考えず、ただ「作って誉められたい」一心で、環境への影響や、未来への負担を一切考慮せずに、妄想に突き動かされて作り出してしまったウソで固めた虚構が、この核プラントの正体である。

 当初、クリーンエネルギーなんて、ほざいていた核融合は、膨大なトリチウムを発生し、それが人類はおろか、地球生物の未来まで完全破壊しかねないことが分かってきた。

 かつて行われた水爆実験や原子炉や再処理場が莫大なトリチウムを放出し、人類全体にガンや白血病、知的障害などの遺伝病を作り出してきたことが明らかになってきた。

 エネルギーが極度に弱いため、測定さえ困難なトリチウムのベータ線は、核関係者の素朴な期待に応える無害クリーンな放射線どころか、有機化して体内に取り込まれると、深刻な遺伝子破壊を引き起こす悪魔の電子線であることが分かってきた。

 トリチウムは、水と分離することが不可能であり、エントロピーの法則に従って、地球上で拡散し平均化する。
 どんなに汚染されない水を選ぼうとしても絶対不可能である。環境に放出されたトリチウムは100%、「地球の水」となり、我々の肉体に侵入してくるのだ。

 トリチウム水が体内に入ると、たちまち全身に均等に分布し、遺伝子の構成元素となる。
 これが数年もすれば、核崩壊してヘリウムに変わってしまうのだから、遺伝子などバラバラに壊れてしまう。人体に取り込まれたトリチウムの量が増えるにしたがって、遺伝子は壊滅的ダメージを受け、白血病やダウン症などの遺伝障害を引き起こすことが明らかにされた。

 例えば、トリチウムの放出量が桁違いに多い施設、フランスのラアーグ核燃再処理工場、イギリスのセラフィールド再処理工場、重水素を多用するCUNDI型原子炉として知られるカナダ、ピッカリング原発、そして日本の六ヶ所村再処理工場、さらに玄海原発なども、トリチウム放出施設として知られるが、このすべての施設で、周辺住民に恐ろしい被害をもたらしている。

 ラアーグ・セラフィールドともに、周辺に居住する子供たちの白血病発症率が、トリチウムの少ない地域と比べて数十倍になっている。
 ピッカリング原発では、稼働後、周辺地域でダウン症が80%増加したことをグリーンピースが明らかにした。

 玄海原発の周辺では白血病発症率が10倍になっている。失敗続きでほとんど稼働していない六ヶ所村再処理工場でさえ、わずかな稼働期間の後、青森県の白血病発症率が激増している。

http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-4139

 【土岐核融合研による重水素実験】

 この核融合研究所は、数十年前から「重水素実験」の準備を進め、被曝の恐ろしさに無知蒙昧で、目先の発展だけに目を奪われ、住民の健康被害に一切目を向けようとしない、多治見市や土岐市の市長ら関係者を騙すことに成功し、今年、2016年度から、いよいよ実現することになった。

 重水素実験とは、核融合炉の基礎技術として、1億度にのぼるプラズマで重水素が、どのような反応を示すか調べる実験と称している。

 これは当初、1998年の計画では、一回10秒間の重水素プラズマ放射実験を年間、数千回も行うというものだった。
 このとき、わずか10秒間に発生する中性子の量は50万シーベルトであって、1000兆ベクレルを超えるトリチウムを発生させるという。

 なぜ中性子が発生するかといえば、プラズマに重水素が入ると核融合反応が起きるからである。これを持続させれば核融合炉ということになるが、半世紀以上の実験を経ても、持続的核融合炉は世界中の誰も成功していない。
 
 だが、莫大な中性子は生成される。
 人間一人の100%致死線量は7シーベルトであり、この10秒間の中性子量は7万人分の致死量にあたる。トリチウムの量も原子力発電所なみであった。

 これに対し、槌田敦氏や小柴昌俊氏などの良心的学者から強い疑念が表明され、大きな反対運動の盛り上がりになったことで、融合研側は、あわてて実験計画の縮小を発表した。
 しかし、その説明が、まったく子供だましのウソに満ちていて、反対派の強い怒りをかった。

 核融合研の公表試料やパンフレットは虚偽に満ちている。
 
 http://www.nifs.ac.jp/~j_plan_001.html

 パンフレットには一回3秒の実験で、1億ベクレルのトリチウムが発生し、大半を回収すると書かれているが、3秒の実験を一日何回、年間何回やるのかについては、どこにも書かれていない。

 これでは、パンフレットを見た読者は、3秒、1億ベクレルのトリチウムで、すべて終わりと勘違いしてしまう。
 それどころか、当初、核融合研側は、この実験ではトリチウムは使わないと説明してきたが、これが真っ赤なウソであった。
 市民団体側からの指摘で、渋々自白したのである。

 実際には、3秒の実験は、他の資料によれば一日30回、週4回であり、年間555億ベクレルのトリチウム放出を予定しているのである。
 日あたり30億ベクレルのトリチウム取り扱いは、研究所側の説明による放射線管理法にさえ抵触しない微量どころか、明確に法的規制対象を意味するものである。

 年間の稼働日数によっては、さらに一桁以上大きくなる可能性もあり、これは通常の加圧水型原子炉の放出量と同じレベルである。
 しかも、トリチウムの95%を回収すると説明しているが、そんな技術は、今のところ、世界中のどこにも実現しておらず、口先だけのごまかしにすぎない。

 【恐怖の中性子】

 中性子の放出量も、当初の一回あたり、50万シーベルトから減るとはいうが、一日、30回も14MeVという超高エネルギーで、10万シーベルト以上の中性子が環境に放出されるのである。

 中性子は放射線のなかで、もっとも恐ろしい線質で、ガンマ線の20倍の生体細胞破壊効果があるとされる。
 人体に当たると体内に放射能を作ってしまい、内部被曝を引き起こす。
 東海村JCO臨界事故のとき、10キロ以上離れた地点の家屋内から、中性子の痕跡であるナトリウム24が発見されているので、飛距離も数十キロを考える必要がある。

 一般に中性子の飛距離は数百メートルと説明されているが、実際には数十キロの飛程もありうることが証明されたのは、JCO事故が初めてであった。これは確率の問題なのだ。

 ガンマ線も透過力が強いが、中性子の比ではない。理由は、中性子が電荷を持たないため、電気的干渉(クーロン力)の影響を受けないためである。
 中性子の遮蔽は、唯一、水素原子の衝突、弾性散乱によって行われる。弾性散乱とは、ほぼ同じ質量の原子どうしがぶつかることで、相互にエネルギーを交換し、反対方向に散乱する減衰のメカニズムである。
 陽子一個分の質量の中性子(核子)は、陽子一個だけを持つ水素原子と同じ質量で、この正面衝突によってエネルギーを失うことが遮蔽を意味する原理になる。

 このため、遮蔽には、水や、水を含むコンクリートなどが使われる。
 人体は70%以上が水分であるため、中性子の被曝をまともに受ける。

 かつて、「中性子爆弾」が計画された理由も、中性子が水分の多い生物だけを破壊し、建物などを傷つけないと誤解されたからだが、実際には、人間を殺すほどの中性子放射があると、被曝したすべての物質が放射能に変わってしまい、人間は利用どころか、近づくことさえできなくなることが分かって愚かな妄想は終わった。

 核融合研側は2mのコンクリート壁で1000万分の1まで減衰遮蔽すると主張するが、中性子エネルギーが14MeVと猛烈に強いことと、発生量が膨大であるため、必ず、遮蔽能力を超えて通過する確率が出てくる。

 放出された中性子の、すべてが水素元素と衝突して減衰するわけでなく、一部は、すり抜けて外部に放射されるのである。
 こんなのを一日30回、年間数千回もやられたのでは、周辺住民の健康はたまったものじゃない。

 本当に安全な遮蔽は、おそらく数十億分の1以下に減衰可能な遮蔽能力が必要で、この場合、遮蔽には10m厚以上の水プールで覆うことが必要になるはずだ。
 あまけに、中性子にはスカイシャインという散乱現象が存在し、遮蔽のない天井部分に放射された中性子は、空中の水素原子と弾性散乱を起こし、エネルギーを減衰させて反対側に戻って来るのである。

 つまり、上空に向かった中性子の相当割合が、多治見・土岐市街地に放射されるのである。
 JCO事故の際、数十キロの飛距離が確認された理由は、このスカイシャインによるものではないかと私は考えている。

 この散乱によってエネルギーの弱まった中性子が、また実に厄介な代物で、高速中性子から熱中性子へと変化し、ぶつかった原子に容易に潜り込んで放射能化してしまう。
 人体・生物への被曝影響が著しく大きい理由は、この熱中性子の核反応=放射化能力にある。

 たとえ一回あたりの被曝量が微々たるものであっても、一日30回、年間数千回も浴び続ければ、必ず健康被害が出てくるであろうことは容易に想像できよう。

 さらに、減衰した中性子が、周辺のあらゆる機器、建物、土壌に潜り込んで、これを放射能化することを忘れてはいけない。
 この実験は、膨大な核廃棄物を作り出すことになるだろう。

 鋭敏なスペクトル測定器を持参して、重水素実験中に施設の外側にいれば、中性子の生成したナトリウム24の1369KeVガンマ線を容易に検出できるはずだ。
 市販の中性子シンチレータにも明瞭に反応するだろう。

 【核融合研の卑劣な体質】

 名大プラズマ研究所が発展的に移転した核融合研は、名大時代の体質を引きずっているのか、あらゆるところでウソをつく傾向がある。

 「実験にトリチウムは使わない」と説明しておきながら、実態はトリチウム実験そのものであったこと。

 パンフレットに、矮小卑劣な誤解を目的にした、説明ばかりが目につくこと。例えば、一日30回もの試験を行うのに、説明を見ると一回だけのような記述になっている。

 実験によって発生するトリチウムを95%除去と、世界の誰も成功していないウソを書いて「だから安心」と誤魔化す。

 一番ひどいのは、住民や地元自治体の説明に、公正中立な安全評価委員の判断に委ねたとの下りで、ここまでくると核融合研が、旧動燃なみの、とんでもないウソつき組織だと分かる。

 核融合研は、「公正・中立な第三者の専門家、市民」から構成されている安全評価委員会で、重水素実験の安全性が確認されたとしている。
 東濃3市もこの委員会の安全確認をよりどころにして同意の方針を打ち出した。

だが、この安全評価委員会の委員16名はその過半数を超える委員が核融合研への理解、協力者であった。
 うち2名は核融合研の運営会議に所属。人選も核融合研が行い、場所も核融合研の建屋で行い、報酬も核融合研が支払っている。

 どこが 「公正・中立」なのか?
 多治見市長は3月19日の一般質問で、この委員会が公正・中立なものと「判断できない」と答弁しながら実験に同意を決定した。

 こんなウソつき体質の核融合研であるから、中性子の遮蔽も、まったく信用できない。
 たとえ1000万分の1以下の遮蔽力であっても、元の中性子が安全量の1000万倍あれば、それは遮蔽ではない。
 私は、スカイシャイン効果による中性子反射被曝が、想像以上に大きい可能性を恐れている。

 【重水素実験(DD実験)】 「東濃核融合科学研究もんだい」から引用

 DD実験とは、5kev程度の温度をもつDプラズマに、250kev程度の高エネルギーの水素(H)ま たは重水素(D)のビームを入射して、Dプラズマの温度を高め(これを熱化という)、これにより核融合を起こさせることを目的としている。

 このDとDとの衝突によるDD核融合反応は次の反応式群で示すように(i)と(ii)の2つの反応から なりたち、トリチウム(T)と中性子(n)を発生する。

(i)   D+D → p +T
(ii)  D+D → 3He+n(2.5Mev)

しかし、この反応はこの段階で止まらず、次の(iii)と(iv)の2つの反応がただちに起こることに なる。

(iii)  D+ T → He + n(14.0 Mev)
(iv)  D+3He → He + p(水素)

この2つの反応は、DとDの反応よりも容易に起こるので、核融合研究では最も重要な研究とされている。

(iii)の反応はDT反応と呼ばれ、トリチウムの使用と同時に、14Mevという超高エネルギーの中性子を発生することになるので、多くの市民運動の 反対にあい、相手方は「トリチウムは使用しない」と約束したのである。

そこで、相手方は (i)、(ii) の反応から直ちに (iii) の反応が生じるDD実験の実施をすることにより、(iii) の反応による実験を実施することを考え出したのである。
 DD実験は実質的にはDT実験と言って良い。DD実験は明らかに「トリチウムは使用しない」という 約束に反する。

 中性子の危険性

1) 重水素実験にあっては、高エネルギー中性子の発生は不可避である。本実験では大量に発生する中性子が遮蔽壁で守られているに過ぎない。遮蔽壁が何らかの理 由で崩壊すれば大量の中性子が外部に放散され被害が生じる。たとえば、LHD内には実験中、装置内には高いエネルギーが存在することになるが、炉に事故が 生じれば、行き場を失ったエネルギーによる爆発、さらには中性子漏れという事故が生じることになる。

2) 本件遮蔽壁は構造上天井部分が薄くならざるを得ず、その薄い部分を経て透過する中性子が漏れることになる。これらの漏れ出た中性子は外気中で反射し、地上 に降り注ぐことになる(スカイシャイン現象)。

3) 中性子は遮蔽壁と外部をつなぐパイプなどを通じて遮壁外部さらには施設外部に漏れ出す危険がある。

4) 本件炉から発生する中性子により炉本体はもちろん、外部装置は放射化し、放射性廃棄物となる。特に、炉で使用されるニオブの放射化が深刻である。こうして 放射化した物質により申請人らに健康被害が生じる危険性もある。

 【現実問題として多治見・土岐市住民は、どのような被害を受ける可能性があるのか?】

 計画の概要を見る限り、有毒有害なトリチウムの生成量は年間500~1000億ベクレルにおよび、ほぼ加圧水型原発による放出量と同程度になる。
 核融合研側の説明にあるトリチウム95%回収は、現実に成功例がなく、まったく信用できない。

 これまで、このレベルのトリチウム排出を行ってきた、すべての原発の周辺自治体で白血病発症率の上昇が見られる。

① 柏崎刈羽原発の周辺自治体では、女性の白血病発症率が全国平均の二倍になっている。
 
② 「玄海原発がある佐賀県玄海町では、子どもの白血病の発症率が全国平均に比べて10倍以上高い」
 (2012年3月19日発行 肥田舜太郎著『内部被曝』より)

③ カナダ・ピッカリング原発では、トリチウムの放出により、周辺住民新生児のダウン症発症率が80%上昇した。

④ 青森県立中央病院のホームページによれば、青森県内の白血病・悪性リンパ腫・多発性骨髄腫は、東北地方最多である。
この原因として、六ヶ所村再処理工場の運用や過去の核漏洩事故頻発が強く疑われている。

⑤ フランスのラアーグやイギリスのセラフィールド再処理工場の周辺でも、被曝影響を受けない地方の数十倍の白血病発症が確認されている。

2002年、国際的なガン研究の専門誌(International Journal of Cancer)に、セラフィールド再処理工場で働き被ばくした男性労働者の子どもたちは、他の地域の子どもたちに比べ、白血病、リンパ腫など血液のガンの 発生率が2倍近く高く、工場があるシースケール村においては、15倍も高いリスクがあった。

⑥ フランスで、原発から5キロ圏内の子どもと一般の子どもの白血病発生率の比較を行った。15歳以下の子どもは、他地域の子どもに比べて白血病の発症率が1.9倍高く、5歳未満では2.2倍高い。

⑦ ドイツ政府の調査では、原発から5km圏内の小児ガンは全国平均の1.61倍、小児白血病は2.19倍となっている。

⑧ 「原発5キロ圏内で子どもの白血病が倍増」
フランス国立保健医学研究所が国際誌にて発表/ルモンド紙
(2012年1月14日 フランスねこのNews Watching)から抜粋

 反論できない危険信号が発せられた。フランスにある原発の5キロ圏内に住む子どもたちは、通常の2倍の割合で白血病にかかる、という指摘だ。フランス国立保健医学研究所(INSERM)のジャクリーヌ・クラヴェル氏が率いるフ ランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)の科学者研究チームが『国際がんジャーナル』(International Journal of Cancer)に発表した。これは過去にイギリスのセラフィールド原発、スコットランドのドーンレイ原発、ドイツのクルーメル原発において実施された調査で、原発の近辺に住む子どもたちに通常より高い率で白血病が発生することが証明されたのに続く調査結果である。


 これらの告発報告は、無数といえるほどあって、いずれも原発放射能と周辺に居住する子供たちの白血病ガン発生率との相関関係を示すものである。
 ICRPはじめ国際原子力産業は、これらの報告を隠蔽し、無視し、矮小化して民衆の健康を犠牲にして原子力産業を守ることに専念してきた。

 土岐市・多治見市における重水素実験も、まったく同じスタンスであって、トリチウムの有害性が、すでに立証されているにもかかわらず、半世紀前の無害論を持ち出して、健康被害への懸念を嘲笑するような姿勢に終始している。
 
 土岐・多治見市長の無知蒙昧ぶりからも、このまま実験が続けば、白血病やダウン症児増加などの被害は避けられないだろう。
 これまで、放射能被曝の意味を理解できる住民によって多くの啓発的市民運動が行われてきたが、社会全体の「拝金主義」風潮から、目先のカネのためなら未来の子供たちの健康など、どうでもいいと考える市民が増えているのも事実であって、被曝被害に関心を持つ市民は少ない。

 こうした被曝被害が、人々の目に理解されるには、数十年という時間が必要である。残念ながら、我々は問題の解決を未来に委ねるしかなさそうだ。

 この土岐核融合研による重水素実験は、トリチウム問題に加えて中性子問題が露見している。

 中性子被曝については、過去にJCO(住友金属鉱山)によるウラン臨界事故のデータしかないが、このときも、数十キロ離れた地域にまで中性子の痕跡が残されていて、原因として中性子上空散乱=スカイシャインを強く疑っている。

 核融合研側の中性子対策は2mのコンクリート壁だけであって、スカイシャインに対する対策は皆無のようだ。
 したがって、実験開始後、周辺住民に中性子被曝の可能性が強く疑われる。
 これは本当にそうなるのか、反対派側の技術を総動員して監視してゆくことになるだろう。

 もし予測どうりスカイシャインによる周辺住民の中性子被曝が発生した場合、これは恐ろしい結果を招くことになるだろう。
 住民は、中性子という、もっとも危険な放射線の生物学的効果のモルモットにされることになるだろう。

 【河田昌東氏のこと】

 なお、この土岐重水素実験への反対市民運動の講師として度々登場してきた、元名大生物学助教、河田昌東氏については、私はフクイチ事故後の姿勢に強い疑問を持っており、あたかもエートス賛成派のような講演を聴いて強い不快感を抱いた。

 彼は、福島の重被曝地の子供たちを移住させようとしない。そこで防護措置をとれば生きてゆけるかのような幻想を抱かせる。

 なぜ、彼が、エートス賛成派と同じスタンスをとるのか、彼自身による放射線ゲノム研究報告を聴いて理解した。
 彼は科学の発展のためには、住民の犠牲があってもやむをえないという学問上の立場である。

 放射線被曝に閾値は存在せず、どんな微量被曝であろうと、それなりの結果が出ることが明らかであるが、そんなことを言っていては科学の進歩がないという理屈であり、容認限度を定めて我慢せよというわけだ。

 彼は放射線ゲノム研究に妊婦研究員を参加させ、実験を通じて5ミリ以下の被曝だったから安全だったと結論づけた。
 だが、本当にそうなのかは、放影研の広島被曝報告を見て判断願いたい。

http://www.rerf.or.jp/radefx/uteroexp/physment.html

 私は、河田氏の姿勢では、彼と同じ学閥に属する核融合研の重水素実験計画も「科学発展のために容認」という結論に傾斜することを危惧している。

 私は30年以上前に、河田氏の主宰する「反原発キノコの会」に参加しようとしたが、結局、違和感を感じて離れることになった。
 その原因について、こうした科学優先思想に対するモヤモヤした違和感だったと、なんとなく納得がいった。

放射線・放射能測定の知識

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 放射線・放射能測定の知識http://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=55#

 私は30年くらい前に放射線作業に従事したことがあって、そのとき、いくつかの放射線取り扱い国家資格を取得するとともに、放射線測定を学んだ。

 とはいっても、GM式サーベイメータで作業環境の測定をする初歩的なもので、環境に拡散してしまった放射能を測定するなど、高度な測定は、フクイチ事故後、すべて手探りで身につけたものである。

 今回は、たくさんの測定を行ってきた経験から得た、あまり知られざる知識を公開しておきたい。
 少し内容が専門的すぎて、わかりやすさをモットーにしてきた私の信条から外れるが、これ以上、わかりやすくする能力は私にはない。

 当時、私が測定上の知識として理解していたのは、ガンマ線がエックス線や紫外線と同じ光の粒子線であって、ただ波長だけが異なること。
 エネルギーが上がる=波長が短くなるにつれて透過力が強くなること。

 ベータ線が電子と同じものであること、空中での飛距離も1m以下であることなど程度であった。
 ベータ線が鉄骨などに当たったり、電界で進路を曲げらるとエックス線が出てくることも知識にあった。

 この程度の知識でありながら、フクイチ事故後の環境放射線測定は一定の成果があったと思うが、放射能の挙動と被害は複雑怪奇で、調べるほどに高度に専門的な知識が要求されることを知らされた。

 【放射線の基礎知識】

 まずは、放射線と放射能の違いについて。
 放射線はアイソトープ=放射能から出てくる粒子線のことで、アルファー線・ベータ線・ガンマ線・中性子線の四種類がある。厳密には、この数倍あるが、実用上は4種類覚えれば十分である。

 アルファー線は原子核のことで、一番質量が大きく、飛距離は数ミリと短いが、エネルギーは非常に大きい。
 外部から被曝しても、大半が衣類や皮膚で跳ね返され、ほとんど影響をもたらさないが、体内に入ると細胞を直接破壊する猛毒物質となる。

 ベータ線はエネルギーの高い電子と同じもので、これは外部被曝でも皮膚に強い放射線障害=ベータ線熱傷をもたらすことがある。
 体内に入った場合も、アルファー線ほどではないが、細胞に強い電離作用をもたらし、遺伝子を破壊する性質がある。
 内部被曝の危険度はアルファー線の10分の1程度である。

 ガンマ線は、光や電波と同じものだが、波長が普通の光より極端に短く、極めて物質透過性が強い。
 このため体内を通過するときに、電離作用によって細胞を破壊するが、その威力は内部被曝におけるアルファー線より弱い。

 セシウムやコバルトから発射される高エネルギーのガンマ線は、体内に電離被曝を与える前に突き抜けてしまう確率が高い。
 電離作用の危険性はベータ線と同程度である。

 ガンマ線の場合は100KeV以下のエネルギーの弱いものの方が皮膚や目の細胞に吸収されやすく、内部被曝でも突き抜けずに破壊を起こしやすいので危険性が高い。
 1KeV付近の軟X線は、紫外線と同様、皮膚に効率的に吸収されて皮膚ガンや白内障のイニシエータとなる。

 ICRPによる線質や線量当量評価が問題なのは、一番作用の弱いガンマ線外部被曝だけを重視し、アルファー線・ベータ線の内部被曝による遺伝子破壊作用を極端に軽視していることである。

 この理由については、ICRP線量等量評価報告書をまとめた張本人が、「原子力産業への配慮から内部被曝を千倍も小さく見積もってきた」と自白している。
 http://no-nukes.blog.jp/archives/7316790.html

 中性子線は極めて特殊な条件(原子炉や再臨界核燃料)などからしか出てこないので、水素によって遮蔽されるなどの基本知識を知るだけで十分である。
 JCO臨界事故のような場合には出てくるが、外部被曝のみで、体内を透過するとき水分の働きで減速して細胞構成原子を放射能化してしまう。
 被曝危険度は最高、ガンマ線の20倍に及ぶ。
 透過力はJCO事故のとき20K離れた家屋内でナトリウム24が検出されているので、実際には数十キロはあると思われる。

 フクイチから出た放射能のうち、内部被曝などで人体に害を与えるため、必ず知っておかねばならないのは上に述べた4種類である。

 放射能・放射線の測定には、先に書いたように、IAEA・ICRPの定めた概念に大きな欺瞞があるので注意が必要になる。

 放射線測定の基本は

① 放射線の種類 アルファー線・ベータ線・ガンマ線を見分ける
② そのエネルギーレベルを調べる
③ 線量率(単位時間あたり放射量)を調べる
④ 核種を調べる

 実際の測定に使われるのは
①GM管式
②シンチレータ式
③電離箱式
④半導体式
であり、シーベルト級線量を測定するときはセレン計などを使う。実用にはGMとシンチだけ覚えればよい。

 エネルギーと核種を見ることができるのはシンチレータ・スペクトル検出器のみであるが、基本的にガンマ線だけの測定になる。
 中性子やベータ線の測定は、専用のシンチ測定器が必要になる。

 GM管の場合、中性子以外の3種類とも検知可能だが、それぞれの線質別に測定するためには工夫が必要である。

 電離箱式の場合は、エネルギー依存性が非常に少なく、ほとんど補正の必要ないデータがダイレクトに取れるが、持ち運びなどで不利なことが多いので、屋外で使われることは少ない。

 【GM管式測定器の使い方】

 フクイチ事故以来、もっともたくさん使われている線量計がGM管式で、インスペクターやソエック・ラディックスなどが有名であるが、きちんとした使い方を知らないでいる人が多いので、必要な知識を書いておきたい。

 GM管式測定器は、検知管に入った放射線が一個一個、電気信号に変換されたパルスを計測する仕組みであるため、この数を数えてから定数に応じてシーベルト値に変換したり、そのまま毎分あたりカウント数(CPM)を表示する。
 ベクレルに換算する機種もあるが、理論的には無理なことで、核種をセシウム137に限定し、大雑把な参考値として示す程度である。

 GM管式で信頼のおける数値はパルス個数のみであり、シーベルトやベクレルへの変換は便宜的なものにすぎず、信用すべきでない。

 パルス個数でも、すべての放射線が100%パルスに変わるわけではないので、条件に応じた補正が必要になると理解していただきたい。

 とりわけ核種の異なるガンマ線の測定は厄介である。
 ガンマ線の検出効率は0.1~1%程度しかないため、セシウム137のガンマ線で更正するのが普通である。
 核種が変わるとエネルギー依存性のため、誤差が大きくなる。

 ベータ線の検出効率が100%近くあるため、少しでもベータ線のカウントが含まれると、過剰測定が生まれて正しい測定値が出にくい。このためベータ線遮蔽ケースを使う必要がある。

 基本的にGM管は、通過した電離放射線の数を数える測定器であって、エネルギーや正確な線量当量(シーベルト値)を知ることはできない。

 しかし、ベータ線の個数を調べるには高い感度を発揮し、高効率な測定が可能である。厳密に調べる場合は、ガンマ線・宇宙線の影響を排除するため10センチ厚の鉛遮蔽が必要になる。
 エネルギーや核種を調べたい場合は、シンチレータ式測定器を使う。

 通常の小型GM管のCPM:シーベルト(線量当量)変換定数は、1マイクロシーベルトあたり120CPM(毎分120カウント)前後が多く、インスペクターなどの大型管では同じく330CPM前後である場合が多い。
 この線量当量(生体細胞に対するダメージの単位)の値は適当なものであって信頼性に欠ける。

 線量当量率はセシウム137ガンマ線を基準にしてある場合が大半で、エネルギーの大きく異なる他核種の測定では校正補償が必要になる。
 GM管にはエネルギーレベルによる検出特性があって、1000KeVを超えたりすると、電離反応を起こす前に突き抜けたりして、検出効率が落ちてしまう場合があるため、エネルギー補償機構つきが望ましい。

 高価な測定器には自動補償、補正機能がついているが、安価な測定器では自分でエネルギー補正をしなければならない。

 測定器のエネルギー特性
http://blog.livedoor.jp/nijhousi/archives/52034643.html

 また入射個数が大きくなると分解時間を超えて窒息現象が起きるため数え落としが発生することになり、計算補正が必要になる。

 真の個数(CPS)=表示個数(CPS)÷(1-表示個数×分解時間)
 計算にあたっては、分解時間表記がマイクロ秒のため、10^-6とする。

 この場合、普通に使われている小型GM管の場合、分解時間(不感時間)が90マイクロ秒とすると、表示が10000CPM=83μSv/hの場合、1.8%程度である。30μSv/hあたりまでなら、ほぼ影響はない。

 インスペクターのような大型GM管の場合、分解時間40マイクロ秒、表示が毎分100000CPM=303μSv/hとして1666CPS。
 補正値は1785CPS、数え落としは119CPS=7140CPM、約7%程度になる。
 10000CPM(30μSv/h)の場合、0.6%程度しか数え落とさない。
 
 【放射能汚染地での使い方】
 
 フクイチ事故以降は、ほとんどの場合、放射能汚染地の空間線量の測定に使われているはずだが、この場合も、かなり予備知識が必要になる。

 まず、放射線というものは、毎秒ごとに安定した放出率があるわけでなく、非常にランダムで大数の法則に従うため、最低でも3分以上、可能なら10分以上計ってから平均値を求めないと正しい測定値にならないと知るべきである。

 GM管の電離信号が作動する電圧はプラトー領域と呼ばれる数百ボルトで、単三電池から数百ボルトをコンデンサに入れるだけで数十秒かかる。 (電力はほとんど消費しない、電圧をかけるだけで、電離があると「電子雪崩」を起こして信号に変わる。)

 数十秒以下の測定では、出てきた数値も安定せず、ノイズばかりの低品質なものになってしまう。
 測定器のスイッチを入れて電気信号が安定するだけでも1分程度を必要とするので、スイッチオンから「3分間待つのだぞ」を心がけていただきたい。

 安定した品質の高い測定値のためには、一カ所で30分程度、同一条件で測定して平均値を求めるのが正しい。このとき外部ノイズを排除するため、極端で、おかしな値を削除してしまって、中央値に近い標準偏差内の値だけを用いた方がよい。

 食品などの測定の場合は、必ず長時間測定を行い、外部BGの影響を排除するため、できるだけ厚い遮蔽箱を用いる必要がある。
 最低でもBGを半分以下にできる遮蔽箱は必需品であろう。これでも、分かるのは、キロあたり数百ベクレル以上の大きな汚染のみである。
 これでも原発放射能事故から1年は有効である。
 数ベクレルの汚染を知ろうと思うなら、厚さ5センチ以上の遮蔽のある精密測定器を使う必要がある。

 食品や土壌などの場合、遮蔽箱内で1時間以上のBG、平均値を採取し、サンプルを入れて30分以上の平均値を出し、BGから差し引くことで信頼性のある線量が測定できる。
 数カウントでもBGに対して明瞭な差が出れば、放射能汚染は想像以上に深刻と考える必要がある。
 産総研の校正用玄米を校正に利用すれば、正しいベクレル値に近い値を推定できる可能性がある。

 土地の汚染、空間線量率測定だが、必ず地上1mと地表の二カ所を測定する必要がある。
 またはベータ線を遮蔽する厚さ3ミリ以上のアクリルケースに入れて測定と、外して測定の二種類のデータが必要になる。

 理由は、汚染地のガンマ線空間線量と、地表のベータ線線量を区別するためであり、この差、乖離によって汚染が原発放射能由来であることが明確になるからだ。
 空間と地表が同じ値なら放射能汚染はないと判断できる。

 まず地面から1m以上、離すことで、アルファー線・ベータ線が届かなくなり、ガンマ線の線量率だけが残ることになる。
 次に、地表面を測定し、その値から1m空間測定値を差し引けばアルファ、ベータ線の地表における線量率が分かる。

 GM管のベータ線感度が良すぎるため、シーベルト値(線量等量)の表示される測定器では、セシウム137のガンマ線を基準に校正してあるため、地表のベータ線が含まれる測定値では、実際より、はるかに大きな値になってしまう。
 したがって地表の値は参考記録とし、土地の汚染値は1m空間値の方を採用しなければならない。
 このとき、ガンマ線しか計れないシンチレータ式測定器を併用すると、GM管式の値との乖離と補正すべき比率がわかりやすい。

 ベータ線だけの測定の場合は、シーベルト値を無視してCPM値、パルス個数だけを見る。
 放射線の個数を表示するGM管測定器では、ベータ線を、ほぼ全量を計測する性能がある。ガンマ線は0.1~1%%程度にすぎないので、全量ベータ線個数とみなしても大きな誤差は出ない。
 シーベルト値を見てしまうと、100倍以上の過剰値になるので注意されたい。(ラディックスのようにCPM表記のないGM測定器は使えない)

 【アルファ線の測定】
 
 GM管でアルファー線を計測する場合、特別な条件が必要である。
 まず、測定器の検出窓がマイカ(雲母)でできている必要があり、さらに測定口から検知窓までの距離が10ミリ以下である必要があるので、条件を満たしていない測定器が多い。

 アルファ線を測定する場合、必ず汚染を濾紙に拭き取り、移し替えてからGM管の窓で測定しないと、取り返しのつかないコンタミ汚染を引き起こす可能性がある。この方法を「スミヤ法」と呼ぶ。

 例えば、ダイレクトに「黒い粉」のようなアルファ線を測定窓につけて計ってしまうと、検出窓が微粉末で汚染されてしまい、この場合、マイカ窓の清掃は絶望的に困難である。
 いったん測定窓がアルファー線核種に汚染されたGM測定器は、以降ガンマ線の測定もできなくなる。
 アルファ線の空間飛程は最大数センチ程度が多いので、検出口まで汚染を拭き取った濾紙を近づける。
 このときコンタミ汚染を引き起こさないよう最大の注意が必要である。

 アルファ線が検知窓を通過すれば、検出効率は100%であるが、カウントが多い場合はベータ線同様の数え落とし補正を行う。
 正しいアルファ線の線量率を知るためには、標準の表面汚染、校正用線源が不可欠である。
 厳密な測定には、外部ガンマ線の影響を受けない5センチ厚以上の鉛遮蔽内での測定が望ましい。

 【シンチレーション式測定器で注意すべきこと】

 シンチレーション式測定器は、すでにGMからとって変わって測定器の主役になっている。
 大半の線量計がガンマ線しか測定できない。これは、ベータ線による過剰検出の影響を避けられる代わりに、フクイチ放射能由来であるベータ線を検出できず、放射能汚染の判断が困難である。

 シンチレータはCSI・NAI結晶が代表的だが、たくさんの種類があり、一長一短がある。
 基本的には、シンチレータ結晶を放射線が通過すると励起によって蛍光が発生し、それを光電増幅装置で信号に変えて記録する。
 放射線のエネルギーに比例した蛍光が起きるので、個数だけでなく、エネルギーや核種まで知ることができる。
 水素を含むシンチレータなら中性子の測定も可能である。

 昔は非常に壊れやすいもので、知人から借りて測定中にプローブを落として壊してしまい、修理代に10万円も支払った苦い思い出もある。
 今は、携帯型なら落としても壊れることは少ない。大型のものはガラス製の光電子増幅管が入っている可能性があり、割れやすいから注意が必要である。

 【私が使用しているシンチ測定器】

 私が使用しているシンチレータ測定器は、空間線量率を測定するタイプとして、テクノAP社のTA-100U、これは2011年夏頃購入したものだが、結構な価格で、長所としては、パソコンにスペクトルや線量率を記録保存可能ということである。
 短所としては、とても感度が低くて、土壌のスペクトルを測定記録する場合でも、最低1000ベクレル以上ないと、セシウムXも検出できない。
 それでも線量率グラフは、普段は見落とすジャイアントパルスも記録でき、時系列での比較が可能なので、空間線量率による地震予知などの道具として利用可能である。

 もう一つは、シンメトリックス社のIFKR254で、これは1インチのCSIを備え、感度も良く、5種類の核種を検出できる。
ただし、実用上は、K40とセシウムXの検出くらいしか意味はない。
 ビスマス214とヨウ素131の検出能力が欲しいが、いずれもセシウムXや鉛214のピーク内に入ってしまうので区別不能になってしまい、シンチレータの分解能(IFKR254は5%)では線量の検出は困難である。

 使用法としてはカメラ用三脚に収納容器を接続(三脚ねじを切ったもの)、地面から1m離した空間に計器を置いて、パソコンに接続、専用ソフトで時間ごとのスペクトルを記録、単位時間(1時間程度)に何個のガンマ線が通過したかを記録して、土地の汚染度と核種を調べる。
 
 コバルト60が検出された場合は、サムピークなどゴーストピークを見分ける必要があるため、土壌サンプルを採取して厚い遮蔽を持った専用スペクトル計で分析することになる。

 当時、70万円程度の価格で、性能から考えれば非常に安価だったが、その後、CSI結晶価格が暴騰して、現在は100万円を超えている。
 キチガイ政権による消費税の泥棒的値上げがあって、こうした高価品の購入は困難になっている。

 付属遮蔽装置を使えば、サンプルのベクレル測定も可能だが、キロあたり200ベクレル以上でないと誤差の少ない正しい値には、なりにくいので実用上は無理がある。

 【ベクレル計 】

 食品の放射能測定には、当初、普通のGM管を遮蔽箱に入れるスタイルで使っていた。
 しかし、GM管とバックグランド線量を半分程度遮蔽する組み合わせで得られる汚染の検出は、キロあたり300ベクレル以上で、それも数カウント程度の差であるから、放射能事故直後の緊急対応くらいにしか使えない。

 そこで最初に購入したのが、ドイツ製のスクーリング食品放射能測定器、EL25であった。
 これも結構な値段で、50万円以上したが、性能は期待外れで、カタログではキロ20ベクレル可能と書かれていたが、実際にはキロ200ベクレルがいいとこであった。
 それ以上のベクレル値ならば、結構正確で、数百万の高額品と大きな差はなかった。

 検出器は浜松ホトニクス製の2インチ薄型NAIが入っていて、相当に性能が良いものだが、遮蔽が10ミリ厚鉛では、薄すぎてどうにもならない。
 そこで、遮蔽鉛を別途購入、周囲に詰めて厚さ3センチ程度まで増やすと、やっとキロ100ベクレル程度は検出できるようになった。

 キロ100ベクレルでは国の規制値じゃあるまいし、やはり食品測定としてはキロ数ベクレル程度の検出能力が欲しい。
 だが、私の資力では、それ以上の精密測定器を購入することは不可能だった。

 そこに降ってわいたように、蕨市のIさんから測定器購入資金の協力の申し出があり、シンメトリックス社のIFKR254 やZIPを扱うことができて、本当に感謝している。
 もうIFKR製品は個人では手が届かないほど高価になっていて、普通なら触ることさえできなかった。

 【食品放射能測定器、IFKR-ZIP】

 この測定器は2012年ころ、シンメトリックス社の野中修司社長が開発したもので、キロあたり1ベクレル程度まで検出できる画期的な測定器である。

 当初の販売価格は150万円、もちろん私は買えなくて、蕨市のIさんの援助申し出にすがった。
 現在ではCSI価格の暴騰により200万円を超えている。あまりに高価なので、私が測定をやめたらIさんに返却する約束をしている。

 数百万円もするNAI測定器でも、実際の精度はキロあたり20ベクレル程度がやっとであって、1ベクレルという精度は驚異的なレベルである。

 最高精度とされるゲルマニウム半導体測定器でも、実質的な精度はキロあたり1ベクレル程度しか使えない場合が多い。
 理由はMCAの性能が悪く、10時間を超える長時間測定で、データの矮小化が起きてしまうからである。

 おまけに1ベクレル以下の精度にする場合は、1トンもの鉛遮蔽と、液体窒素によるサンプルと検出器の冷却が必要になり、多額のコストがかかる。
 民間測定所では運用コストに耐えきれず、液体窒素を使用しない測定も行われている。この場合、キロ1ベクレル以下の精度は出ない。

 ゲルマニウム半導体の分解能力は、我々の保有するシンチ計の50~100倍あって、性能的には太刀打ちどころではないが、1トンもの設備と液体窒素ランニングコストの負担を考えれば、諦めるしかないだろう。

 ZIPの場合は、常温測定で冷却不要、重量も50Kg程度しかない。
 外観は極めてコンパクト、ゲルマ機のように床改造も必要ない。
 CSIシンチはNAIに比べて温度ドリフトが3分の1以下なので、大げさな空調コントロールも不要で、測定器が10度以上40度以下なら正常に作動する。
 5度以下になると、さすがにゲイン調整が必要なドリフトが生じてくる。寒さには少し弱いようだ。

 サンプル容器は、ゲルマ機でもNAIシンチ測定器でも検出器センサーが円筒形であるため、それを覆うような変則的なマリネリ容器が使われる。
 ところが、この容器は複雑な形状のため、平均に詰めるには熟練を要し、平均でないと誤差が大きく出てくるのである。

 汚染サンプルは、検出器にガンマ線を届ける前に、自分自身による遮蔽で吸収されてしまうことがあり、これを自己吸収と呼んでいる。
 液体の場合はひどく、水の場合は3センチ厚を超えると自己吸収によって線量が大幅に低下してしまうため、マリネリ容器は、どこでも3センチ厚を超えない形状に設計されている。

 これに対し、野中修司氏は、市販のZIP袋を、そのまま測定容器にすることを思いついた。
 100×140ミリZIP袋なら、水を入れても3センチ厚を超えない。形状も一定している。
 この大きさだと、玄米が160gずつ、計320g入り、軽快なフットワークで測定が可能である。
 ZIP袋はホームセンターなど、どこでも安価に入手可能である。測定後、そのままサンプル資料として保全することも容易である。

 測定器に二つのZIP袋収容穴を設け、それを挟むような位置にCSI2インチ相当の結晶を置くことで、測定効率はマリネリ容器よりも優れたものになった。
 また驚異的なMCA性能と併せて、超長時間測定でもドリフトを起こしにくく、温度変化に強く、20時間の連続測定を可能にしたことで1ベクレルの精度を確保することに成功した。

 条件を整えれば、キロあたり0.2ベクレルでも検出可能であるが、数日間もかかってしまい、環境ノイズの影響を受けて誤差が多くなる。

 【1ベクレルのために】

 現在、IFKR-ZIPの公称精度はキロあたり3ベクレルになっている。
 理由は遮蔽が鉛40ミリと薄いことで、実は、この遮蔽力では、バックグランドの変化に対応した、安定した1ベクレル精度が出せないのである。

 BGをたくさん採取しても、BGごとに測定値が変動することになる。これでは1ベクレル精度を主張する資格はない。

 BGは時間ごとに変化し、降雨降雪で変化し、地殻変動や太陽風・宇宙線でも変化するため、これらの変動を遮蔽によって安定化させようと思うと、鉛100ミリの遮蔽が求められるのである。

 しかし、私が1ベクレル精度に固執する理由は、現在の凶悪な妄想に取り憑かれた反知性狂人政権がやがて自滅し、人間性にあふれた知性的政権が登場してくれば、必ず食品基準値がキロ1ベクレル以下という基準に正しく戻されると信じているからだ。
 我々は、キロ1ベクレル以下の飲食を保証される必要がある。

 そこで、私はZIPでの1ベクレル精度にこだわり続け、BGを選定するにあたって、数百本採取したなかから、3~5ベクレルのシンメトリックス社製校正線源を測定して、正しい数値を示すものだけを利用する。

 降雨時は測定を避け、できる限り遮蔽を強化、底や周囲に鉄板30ミリ厚や鉛を加えて、装置全体が装甲車のような遮蔽になっている。
 さらに、環境温度を適正に保ち、温度ドリフトなどノイズを出さないようにするなどの対策を行い、何とか1ベクレル精度が確保できていると考えている。

 このような素晴らしい精度は、MCA基盤の微分非直線性の精度によるもので、野中さんを狙う産業スパイが設計図を盗んで再現しようとしても無理、部品を改善しても不可能、あくまでも基盤組み立ての半田付け技量やノイズ低減回路の長い技術的蓄積から生まれるものである。

 これは、野中修司という国宝級電子回路職人にしかできない「匠の技」の世界なのである。まさに文化財級の製品というべきであろう。
 逆に言えば、IFKR製品は野中修司の人生とともに消えて、この性能を再現できる技術は存在しなくなるともいえる。

 もう3年以上使っているが、シンチレータ測定器のハードウェアとしての性能は文句なしに世界一だと思う。
 あえて文句を言えば、7%の分解能が大きすぎることくらいか。

 しかし、先に述べたBGの適正な選択に加えて、K40のコンプトン散乱やビスマス214の「揺らぎの干渉」による嵩上げ効果などがあって、使い方は容易ではない。
 
 せめてMCAソフトにK40コンプトン嵩上げ自動補正くらい世間並みにつけてくれと文句を言ったら、野中さんから、そんな甘いもんじゃない、世間のK40補正ソフトは全部インチキだと言われた。
 やはり、1ベクレルの世界では、いちいち個別のBGによる補正をする必要があるらしい。

 測定器の校正線源である産総研標準汚染玄米は、キロあたり30ベクレル前後のK40値がある。
 これを超え、測定サンプルのK40が40ベクレル以上あるとコンプトン散乱が1460Kピークの左肩になだらかな丘を作りはじめる。
 この丘の上にセシウムなどのデータが乗るので、結果が嵩上げしてしまうのである。K40が50ベクレルを超えると、もう1ベクレルですまない誤差が出ててくる。

 したがって、仮に大豆がK40=200ベクレルあったとすると、200-30=170ベクレルのK40補正BGで相殺することで嵩上げ効果が消える。
 この場合、10ベクレル程度の階段で、多数の異なるK40補正用BGを用意しておく必要がある。
 私の場合は、塩化カリウムを1g単位で水に溶かし、それに高分子ポリマーを加えてゲル状にしたZIP袋補正試料を数十袋も用意し、適宜利用している。

 実は嵩上げを起こすのはK40だけではない。
 降雨に含まれるラドンから出てくるビスマス214や、トリウム汚染から出るタリウム208などもセシウムのピークに含まれてしまい、その測定上の分布に含まれる揺らぎが嵩上げを起こす。

 これもBGに含めれば相殺可能だが、定量化とBG作成が困難なため、私は雨天時の測定は避けるようにしている。

 【放射能=ベクレル】

アルファー線、ベータ線、ガンマ線を問わず、アイソトープが一秒あたりに一回崩壊(塊変)し放射線を放出することを1ベクレルという。
 これが放射能の単位として通用していて、SI系単位改訂前は370億ベクレル=1キュリーであった。

だから、ベクレルやキュリーという表記だけでは放射能の重さや大きさ、危険度を示す単位にはならない。あくまでも、毎秒あたり、いくつの塊変が起きるのかという放射能量を示すだけの単位である。

 同じベクレル数でも、生物にとっての危険度や物理作用は、放射線の種類や内部被曝か外部被曝か、部分的被曝か全身被曝かの作用形態によって極端に違うので、ベクレル=危険度ではない。

 このため、細胞に与えるダメージを基準にしたシーベルト(線量等量・単位改訂前はレムで表記された)という単位も設定されているが、これも実務計算は極めて複雑で分かりにくい。

 ベクレル(キュリー)は放射能量を示す単位、シーベルトは生体細胞へのダメージを表す単位、そして、もう一つ、グレイ(吸収線量)という単位があり、これが放射線の物理エネルギーの尺度になる。

 グレイとは、放射線が当たる物質1キログラムあたりに吸収されて熱エネルギーに変わるエネルギー量を示す。
 本来はジュール/キログラムと表記されるべきだが、ICRPはグレイという単位を用い、単位改訂前はラド=1グレイ/100 で表記された。

 1Kgの物質に1ジュールのエネルギーが吸収される線量を1グレイと呼ぶ。1ジュール=0.24カロリー 1気圧で20度の水、1gを0.24度上昇されるエネルギーに相当する。

 ガンマ線の場合、グレイ≒シーベルトで、約7グレイ≒7シーベルトのガンマ線を浴びると、100%致死量
4グレイ≒4シーベルトで半数致死量になる。
 だからガンマ線被曝の致死量は、体温を上げるほどのエネルギーには、ほど遠いことがわかる。
 人間の五感には、まったく感じないうちに死んでしまうのである。

 放射線関係の単位は、同じものを表すのに、たくさんの表記があって、実に複雑、一般大衆が誤解するような表記が多い。
 これは放射線実務を難解なものとして大衆から遠ざけようとする国際原子力産業の意図が働いているのだろうと思う。

 放射線が通過した細胞におけるエネルギーの吸収率(発熱量)や、それによって与えられるダメージを数量化する狙いで設けられた単位であるが、内部被曝のダメージを極端に軽視したい原子力産業の意向を汲んだICRPによって、正しい被害評価ができなくなってしまっている。

 【ベクレル測定上の注意点】

 ベクレル測定は、フクイチ放射能事故が起きるまで、まったく経験がなく、知識もなく、教書もほとんど見あたらなかったので、本当に手探りで失敗を重ねながら経験を積むことになった。
 私の技量では、とても有料化できないので、この3年間は無償で測定して、技量の習熟をいただいたという印象である。

 食品や土壌、飲料水の汚染は基本的にベクレルで表記する。

 毎秒、いくつの塊変を行うのか? という単位だが、普通はキログラムあたりの重さで表記し、100Bq/Kgのように書く。

 土地の汚染については、地表から5センチの深さまで土壌を採取し、キログラムあたりのベクレル数を出して、これを65倍した数値を平米あたりベクレル数としている。
 航空調査などでは、キロ平方メートルあたりのベクレル数で表されることも多い。この場合は、ベクレル単位もメガを使ったりして実に煩雑である。

 食品の測定で注意が必要なのは、サンプルをマリネリ式測定容器に正しく詰めることに熟練が必要で、詰め方次第で20%程度の誤差が出てくる可能性があること。
 IFKR-ZIPなら、ただZIP袋にいっぱいに詰めるだけで良い。

 食品は、可能な限り粉砕し、ペースト状や粉末状にした方が正しい値が出る。私は大半の場合、フードプロセッサを使用している。

 キロあたり1ベクレル程度の測定には、ZIPの場合10~20時間必要である。NAIシンチでは遮蔽を強化しても、キロ10ベクレル程度の精度しか出ない。長時間測定するとデータが矮小化してしまうのである。

 飲料水の場合、東京都水道水のセシウム汚染はリットルあたり、0.001ベクレル付近なので、そのままでは測定不能である。
 CDクリエーションの鈴木氏が研究の結果、100リットル程度の水道水をイオン交換樹脂やゼオライトに吸着させて、樹脂側を測定することで見えない汚染を可視化することに成功している。

http://cdcreation.grupo.jp/blog/1193538
 
 100リットルの水道水を風呂桶に溜めて、バスポンプなどを利用して循環させ、イオン交換樹脂に通すことで樹脂がセシウムを吸着する。
 全量吸着できたかは、TDSメータを使い、水が0PPMを示せば吸着終了として、樹脂を測定する。

 NAI測定器では、MCA特性から長時間測定での誤差が大きくなるため、規定時間=最大数時間程度の範囲で測定しなければならない。
 10時間以上ではデータの矮小化が起きてしまう。IFKR-ZIPの場合は、20時間でも測定可能だが、やはり、わずかな矮小化が起きるので。可能なら5~10時間程度にとどめるのがよい。

 何度も書いたが、一番大切なことは、雨天での測定を避けることである。
 雨には多くのラドン222が含まれ、娘核種のビスマス214が609Kのガンマ線を出すため、5センチ程度の遮蔽を透過して、スペクトルデータに609Kのピークを作ってしまい、 これがセシウム値を嵩上げしてしまうのである。

 似たような降雨時のBGを採取して補正できなくもないが、定量化が困難で、厳密な値を出すのは難しい。キロあたり5ベクレル程度より悪い精度でもかまわなければ、多少の降雨は無視してもよい。

 ビスマス214とタリウム208は、セシウムXのピークに近いため、イタズラをしてセシウム値を嵩上げすることが多いので、よほど注意が必要である。
 せっかくK40を補正してもビスマスに邪魔されることも少なくない。ビスマス214の補正用BGを作るのは、かなり困難で、降雨BGデータをたくさん集めて適宜利用するしかないだろう。

 【ゴーストピーク】

 ベクレル計から得られた測定スペクトルのなかにはゴーストと呼ばれる実体のない幽霊ピークができることに気をつける必要がある。

 ①コンプトン散乱

 セシウム137が光電効果を起こせば662K相当のシンチレーション光を発するが、コンプトン散乱(非弾性散乱)を起こすと、それより184K低い478K付近にコンプトンエッジというゴーストピークを作りながら、左肩に緩やかに下がってゆく散乱線を作る。

 一番影響が大きいのが、どこにでも大量に存在するK40で、このコンプトン散乱がセシウムなど目的核種のベクレル値を嵩上げしてしまい、測定の邪魔をすることが多い。

 K40のコンプトン散乱では、本当のピークが1461Kであるのに対し、1244K付近にゴーストピーク(コンプトンエッジ)ができる。
近似式は、コンプトンエッジまでの距離=求める核種のMeV/(1+求める核種のMeV×3.91)
 1.461/(1+1.461×3.91)=0.217 本来のピークより217K下にエッジ。
1.461-0.217=1244 1244KeVにコンプトンエッジができるわけである。

 おおむね500Kから5000K程度のガンマ線で問題になることが多い。

 ②サムピーク

 シンチ結晶体に、2本のガンマ線が同時に進入すると、両方のエネルギーを足し算したピークが記録されることがある。
 これがゴーストピークの代表で、実体のないピークを作ることで核種検出の大きな障害になる。

 セシウムは605K・662K・796Kのガンマ線を出すが、605+662=1267 605+796=1401k 662+796=1458K などのサムピークがスペクトルに現れることがある。
 本当に、そんなエネルギーがあるわけでなく、偽の幽霊ピークであるが、分解能の低い測定器の場合、他核種のピークに紛れ込み、誤検出や過剰検出を招くことがある。
 
 ③ 電子対生成

 電子対生成は1020K以上のエネルギーを持ったガンマ線が原子核の近くを通ると511Kの陰陽電子の対生成を起こしてガンマ線が消えてしまう確率があることをいう。

 逆に、511Kの陰陽電子がぶつかると電子対消滅で1020Kのガンマ線を生成する。
 K40、コバルト60やタリウム208などの強いガンマ線で起きやすく、511Kと1020K付近のピークは対生成の影響を考える必要がある。

④ 後方散乱 制動X線

 強いベータ線の出るサンプルでは、ベータ線が鉛遮蔽に当たって特性X線(制動X線)としてピークを作ることがある。
 また、サンプルから出たガンマ線が検出結晶以外の方向に出て、鉛遮蔽で散乱されて波長を変えることがある。
 ただし、これらの確率が測定を邪魔することは少ない。


 【最後に】
 現在、私の家ではIFKR254・ZIP・TA100Uは常時通電し、24時間稼働している。
 このために専用のパソコンも置いている。
 ZIPは大量のBGを採る必要があるし、254は環境放射線量の変化を見るのに必要であり、TA100は線量時系列変化を見て地震予知に利用している。
 大きな地震が近づくと、ジャイアントパルスという極端に高いパルスが消えてしまい、平均的に線量が低くなるのである。
 またラドンの噴出を調べるためにも254の時系列観測は欠かせない。

 フクイチ事故後、測定器の大量需要からシンチ結晶の暴騰があって、測定器価格が大幅にアップしているなかで、とりあえず在庫を保有していたシンメトリックス社の測定器が安く入手できて本当に助かった。
 もう、今後、我々の手に入ることはないだろう。

 シンメトリックス社では、最新測定器として、サムピークやコンプトン散乱などの影響を受けないダブルシンチレータのZIPPROを発売中だが、高級車を一台買えるほどの価格になってしまった。
 しかし、食品関連企業が、将来の1ベクレル規制を考えるなら、信頼性の高いZIPPROを購入すべきだと思う。

http://cdcreation.grupo.jp/free801460

放射線・放射能測定の知識





 放射線・放射能測定の知識

 私は30年くらい前に放射線作業に従事したことがあって、そのとき、いくつかの放射線取り扱い国家資格を取得するとともに、放射線測定を学んだ。

 とはいっても、GM式サーベイメータで作業環境の測定をする初歩的なもので、環境に拡散してしまった放射能を測定するなど、高度な測定は、フクイチ事故後、すべて手探りで身につけたものである。

 今回は、たくさんの測定を行ってきた経験から得た、あまり知られざる知識を公開しておきたい。
 少し内容が専門的すぎて、わかりやすさをモットーにしてきた私の信条から外れるが、これ以上、わかりやすくする能力は私にはない。

 当時、私が測定上の知識として理解していたのは、ガンマ線がエックス線や紫外線と同じ光の粒子線であって、ただ波長だけが異なること。
 エネルギーが上がる=波長が短くなるにつれて透過力が強くなること。

 ベータ線が電子と同じものであること、空中での飛距離も1m以下であることなど程度であった。
 ベータ線が鉄骨などに当たったり、電界で進路を曲げらるとエックス線が出てくることも知識にあった。

 この程度の知識でありながら、フクイチ事故後の環境放射線測定は一定の成果があったと思うが、放射能の挙動と被害は複雑怪奇で、調べるほどに高度に専門的な知識が要求されることを知らされた。

 【放射線の基礎知識】

 まずは、放射線と放射能の違いについて。
 放射線はアイソトープ=放射能から出てくる粒子線のことで、アルファー線・ベータ線・ガンマ線・中性子線の四種類がある。厳密には、この数倍あるが、実用上は4種類覚えれば十分である。

 アルファー線は原子核のことで、一番質量が大きく、飛距離は数センチと短いが、エネルギーは非常に大きい。
 外部から被曝しても、大半が衣類や皮膚で跳ね返され、ほとんど影響をもたらさないが、体内に入ると細胞を直接破壊する猛毒物質となる。

 ベータ線はエネルギーの高い電子と同じもので、これは外部被曝でも皮膚に強い放射線障害=ベータ線熱傷をもたらすことがある。
 体内に入った場合も、アルファー線ほどではないが、細胞に強い電離作用をもたらし、遺伝子を破壊する性質がある。
 内部被曝の危険度はアルファー線の10分の1程度である。

 ガンマ線は、光や電波と同じものだが、波長が普通の光より極端に短く、極めて物質透過性が強い。
 このため体内を通過するときに、電離作用によって細胞を破壊するが、その威力は内部被曝におけるアルファー線より弱い。

 セシウムやコバルトから発射される高エネルギーのガンマ線は、体内に電離被曝を与える前に突き抜けてしまう確率が高い。
 電離作用の危険性はベータ線と同程度である。

 ガンマ線の場合は100KeV以下のエネルギーの弱いものの方が皮膚や目の細胞に吸収されやすく、内部被曝でも突き抜けずに破壊を起こしやすいので危険性が高い。
 1KeV付近の軟X線は、紫外線と同様、皮膚に効率的に吸収されて皮膚ガンや白内障のイニシエータとなる。

 ICRPによる線質や線量当量評価が問題なのは、一番作用の弱いガンマ線外部被曝だけを重視し、アルファー線・ベータ線の内部被曝による遺伝子破壊作用を極端に軽視していることである。

 この理由については、ICRP線量等量評価報告書をまとめた張本人が、「原子力産業への配慮から内部被曝を千倍も小さく見積もってきた」と自白している。
 http://no-nukes.blog.jp/archives/7316790.html

 中性子線は極めて特殊な条件(原子炉や再臨界核燃料)などからしか出てこないので、水素によって遮蔽されるなどの基本知識を知るだけで十分である。
 JCO臨界事故のような場合には出てくるが、外部被曝のみで、体内を透過するとき水分の働きで減速して細胞構成原子を放射能化してしまう。
 被曝危険度は最高、ガンマ線の20倍に及ぶ。
 透過力はJCO事故のとき20K離れた家屋内でナトリウム24が検出されているので、実際には数十キロはあると思われる。

 フクイチから出た放射能のうち、内部被曝などで人体に害を与えるため、必ず知っておかねばならないのは上に述べた4種類である。

 放射能・放射線の測定には、先に書いたように、IAEA・ICRPの定めた概念に大きな欺瞞があるので注意が必要になる。

 放射線測定の基本は

① 放射線の種類 アルファー線・ベータ線・ガンマ線を見分ける
② そのエネルギーレベルを調べる
③ 線量率(単位時間あたり放射量)を調べる
④ 核種を調べる

 実際の測定に使われるのは
①GM管式
②シンチレータ式
③電離箱式
④半導体式
であり、シーベルト級線量を測定するときはセレン計などを使う。実用にはGMとシンチだけ覚えればよい。

 エネルギーと核種を見ることができるのはシンチレータ・スペクトル検出器のみであるが、基本的にガンマ線だけの測定になる。
 中性子やベータ線の測定は、専用のシンチ測定器が必要になる。

 GM管の場合、中性子以外の3種類とも検知可能だが、それぞれの線質別に測定するためには工夫が必要である。

 電離箱式の場合は、エネルギー依存性が非常に少なく、ほとんど補正の必要ないデータがダイレクトに取れるが、持ち運びなどで不利なことが多いので、屋外で使われることは少ない。

 【GM管式測定器の使い方】

 フクイチ事故以来、もっともたくさん使われている線量計がGM管式で、インスペクターやソエック・ラディックスなどが有名であるが、きちんとした使い方を知らないでいる人が多いので、必要な知識を書いておきたい。

 GM管式測定器は、検知管に入った放射線が一個一個、電気信号に変換されたパルスを計測する仕組みであるため、この数を数えてから定数に応じてシーベルト値に変換したり、そのまま毎分あたりカウント数(CPM)を表示する。
 ベクレルに換算する機種もあるが、理論的には無理なことで、核種をセシウム137に限定し、大雑把な参考値として示す程度である。

 GM管式で信頼のおける数値はパルス個数のみであり、シーベルトやベクレルへの変換は便宜的なものにすぎず、信用すべきでない。

 パルス個数でも、すべての放射線が100%パルスに変わるわけではないので、条件に応じた補正が必要になると理解していただきたい。

 とりわけ核種の異なるガンマ線の測定は厄介である。
 ガンマ線の検出効率は0.1~1%程度しかないため、セシウム137のガンマ線で更正するのが普通である。
 核種が変わるとエネルギー依存性のため、誤差が大きくなる。

 ベータ線の検出効率が100%近くあるため、少しでもベータ線のカウントが含まれると、過剰測定が生まれて正しい測定値が出にくい。このためベータ線遮蔽ケースを使う必要がある。

 基本的にGM管は、通過した電離放射線の数を数える測定器であって、エネルギーや正確な線量当量(シーベルト値)を知ることはできない。

 しかし、ベータ線の個数を調べるには高い感度を発揮し、高効率な測定が可能である。厳密に調べる場合は、ガンマ線・宇宙線の影響を排除するため10センチ厚の鉛遮蔽が必要になる。
 エネルギーや核種を調べたい場合は、シンチレータ式測定器を使う。

 通常の小型GM管のCPM:シーベルト(線量当量)変換定数は、1マイクロシーベルトあたり120CPM(毎分120カウント)前後が多く、インスペクターなどの大型管では同じく330CPM前後である場合が多い。
 この線量当量(生体細胞に対するダメージの単位)の値は適当なものであって信頼性に欠ける。

 線量当量率はセシウム137ガンマ線を基準にしてある場合が大半で、エネルギーの大きく異なる他核種の測定では校正補償が必要になる。
 GM管にはエネルギーレベルによる検出特性があって、1000KeVを超えたりすると、電離反応を起こす前に突き抜けたりして、検出効率が落ちてしまう場合があるため、エネルギー補償機構つきが望ましい。

 高価な測定器には自動補償、補正機能がついているが、安価な測定器では自分でエネルギー補正をしなければならない。

 測定器のエネルギー特性
http://blog.livedoor.jp/nijhousi/archives/52034643.html

 また入射個数が大きくなると分解時間を超えて窒息現象が起きるため数え落としが発生することになり、計算補正が必要になる。

 真の個数(CPS)=表示個数(CPS)÷(1-表示個数×分解時間)
 計算にあたっては、分解時間表記がマイクロ秒のため、10^-6とする。

 この場合、普通に使われている小型GM管の場合、分解時間(不感時間)が90マイクロ秒とすると、表示が10000CPM=83μSv/hの場合、1.8%程度である。30μSv/hあたりまでなら、ほぼ影響はない。

 インスペクターのような大型GM管の場合、分解時間40マイクロ秒、表示が毎分100000CPM=303μSv/hとして1666CPS。
 補正値は1785CPS、数え落としは119CPS=7140CPM、約7%程度になる。
 10000CPM(30μSv/h)の場合、0.6%程度しか数え落とさない。
 
 【放射能汚染地での使い方】
 
 フクイチ事故以降は、ほとんどの場合、放射能汚染地の空間線量の測定に使われているはずだが、この場合も、かなり予備知識が必要になる。

 まず、放射線というものは、毎秒ごとに安定した放出率があるわけでなく、非常にランダムで大数の法則に従うため、最低でも3分以上、可能なら10分以上計ってから平均値を求めないと正しい測定値にならないと知るべきである。

 GM管の電離信号が作動する電圧はプラトー領域と呼ばれる数百ボルトで、単三電池から数百ボルトをコンデンサに入れるだけで数十秒かかる。 (電力はほとんど消費しない、電圧をかけるだけで、電離があると「電子雪崩」を起こして信号に変わる。)

 数十秒以下の測定では、出てきた数値も安定せず、ノイズばかりの低品質なものになってしまう。
 測定器のスイッチを入れて電気信号が安定するだけでも1分程度を必要とするので、スイッチオンから「3分間待つのだぞ」を心がけていただきたい。

 安定した品質の高い測定値のためには、一カ所で30分程度、同一条件で測定して平均値を求めるのが正しい。このとき外部ノイズを排除するため、極端で、おかしな値を削除してしまって、中央値に近い標準偏差内の値だけを用いた方がよい。

 食品などの測定の場合は、必ず長時間測定を行い、外部BGの影響を排除するため、できるだけ厚い遮蔽箱を用いる必要がある。
 最低でもBGを半分以下にできる遮蔽箱は必需品であろう。これでも、分かるのは、キロあたり数百ベクレル以上の大きな汚染のみである。
 これでも原発放射能事故から1年は有効である。
 数ベクレルの汚染を知ろうと思うなら、厚さ5センチ以上の遮蔽のある精密測定器を使う必要がある。

 食品や土壌などの場合、遮蔽箱内で1時間以上のBG、平均値を採取し、サンプルを入れて30分以上の平均値を出し、BGから差し引くことで信頼性のある線量が測定できる。
 数カウントでもBGに対して明瞭な差が出れば、放射能汚染は想像以上に深刻と考える必要がある。
 産総研の校正用玄米を校正に利用すれば、正しいベクレル値に近い値を推定できる可能性がある。

 土地の汚染、空間線量率測定だが、必ず地上1mと地表の二カ所を測定する必要がある。
 またはベータ線を遮蔽する厚さ3ミリ以上のアクリルケースに入れて測定と、外して測定の二種類のデータが必要になる。

 理由は、汚染地のガンマ線空間線量と、地表のベータ線線量を区別するためであり、この差、乖離によって汚染が原発放射能由来であることが明確になるからだ。
 空間と地表が同じ値なら放射能汚染はないと判断できる。

 まず地面から1m以上、離すことで、アルファー線・ベータ線が届かなくなり、ガンマ線の線量率だけが残ることになる。
 次に、地表面を測定し、その値から1m空間測定値を差し引けばアルファ、ベータ線の地表における線量率が分かる。

 GM管のベータ線感度が良すぎるため、シーベルト値(線量等量)の表示される測定器では、セシウム137のガンマ線を基準に校正してあるため、地表のベータ線が含まれる測定値では、実際より、はるかに大きな値になってしまう。
 したがって地表の値は参考記録とし、土地の汚染値は1m空間値の方を採用しなければならない。
 このとき、ガンマ線しか計れないシンチレータ式測定器を併用すると、GM管式の値との乖離と補正すべき比率がわかりやすい。

 ベータ線だけの測定の場合は、シーベルト値を無視してCPM値、パルス個数だけを見る。
 放射線の個数を表示するGM管測定器では、ベータ線を、ほぼ全量を計測する性能がある。ガンマ線は0.1~1%%程度にすぎないので、全量ベータ線個数とみなしても大きな誤差は出ない。
 シーベルト値を見てしまうと、100倍以上の過剰値になるので注意されたい。(ラディックスのようにCPM表記のないGM測定器は使えない)

 【アルファ線の測定】
 
 GM管でアルファー線を計測する場合、特別な条件が必要である。
 まず、測定器の検出窓がマイカ(雲母)でできている必要があり、さらに測定口から検知窓までの距離が10ミリ以下である必要があるので、条件を満たしていない測定器が多い。

 アルファ線を測定する場合、必ず汚染を濾紙に拭き取り、移し替えてからGM管の窓で測定しないと、取り返しのつかないコンタミ汚染を引き起こす可能性がある。この方法を「スミヤ法」と呼ぶ。

 例えば、ダイレクトに「黒い粉」のようなアルファ線を測定窓につけて計ってしまうと、検出窓が微粉末で汚染されてしまい、この場合、マイカ窓の清掃は絶望的に困難である。
 いったん測定窓がアルファー線核種に汚染されたGM測定器は、以降ガンマ線の測定もできなくなる。
 アルファ線の空間飛程は最大数センチ程度が多いので、検出口まで汚染を拭き取った濾紙を近づける。
 このときコンタミ汚染を引き起こさないよう最大の注意が必要である。

 アルファ線が検知窓を通過すれば、検出効率は100%であるが、カウントが多い場合はベータ線同様の数え落とし補正を行う。
 正しいアルファ線の線量率を知るためには、標準の表面汚染、校正用線源が不可欠である。
 厳密な測定には、外部ガンマ線の影響を受けない5センチ厚以上の鉛遮蔽内での測定が望ましい。

 【シンチレーション式測定器で注意すべきこと】

 シンチレーション式測定器は、すでにGMからとって変わって測定器の主役になっている。
 大半の線量計がガンマ線しか測定できない。これは、ベータ線による過剰検出の影響を避けられる代わりに、フクイチ放射能由来であるベータ線を検出できず、放射能汚染の判断が困難である。

 シンチレータはCSI・NAI結晶が代表的だが、たくさんの種類があり、一長一短がある。
 基本的には、シンチレータ結晶を放射線が通過すると励起によって蛍光が発生し、それを光電増幅装置で信号に変えて記録する。
 放射線のエネルギーに比例した蛍光が起きるので、個数だけでなく、エネルギーや核種まで知ることができる。
 水素を含むシンチレータなら中性子の測定も可能である。

 昔は非常に壊れやすいもので、知人から借りて測定中にプローブを落として壊してしまい、修理代に10万円も支払った苦い思い出もある。
 今は、携帯型なら落としても壊れることは少ない。大型のものはガラス製の光電子増幅管が入っている可能性があり、割れやすいから注意が必要である。

 【私が使用しているシンチ測定器】

 私が使用しているシンチレータ測定器は、空間線量率を測定するタイプとして、テクノAP社のTA-100U、これは2011年夏頃購入したものだが、結構な価格で、長所としては、パソコンにスペクトルや線量率を記録保存可能ということである。
 短所としては、とても感度が低くて、土壌のスペクトルを測定記録する場合でも、最低1000ベクレル以上ないと、セシウムXも検出できない。
 それでも線量率グラフは、普段は見落とすジャイアントパルスも記録でき、時系列での比較が可能なので、空間線量率による地震予知などの道具として利用可能である。

 もう一つは、シンメトリックス社のIFKR254で、これは1インチのCSIを備え、感度も良く、5種類の核種を検出できる。
ただし、実用上は、K40とセシウムXの検出くらいしか意味はない。
 ビスマス214とヨウ素131の検出能力が欲しいが、いずれもセシウムXや鉛214のピーク内に入ってしまうので区別不能になってしまい、シンチレータの分解能(IFKR254は5%)では線量の検出は困難である。

 使用法としてはカメラ用三脚に収納容器を接続(三脚ねじを切ったもの)、地面から1m離した空間に計器を置いて、パソコンに接続、専用ソフトで時間ごとのスペクトルを記録、単位時間(1時間程度)に何個のガンマ線が通過したかを記録して、土地の汚染度と核種を調べる。
 
 コバルト60が検出された場合は、サムピークなどゴーストピークを見分ける必要があるため、土壌サンプルを採取して厚い遮蔽を持った専用スペクトル計で分析することになる。

 当時、70万円程度の価格で、性能から考えれば非常に安価だったが、その後、CSI結晶価格が暴騰して、現在は100万円を超えている。
 キチガイ政権による消費税の泥棒的値上げがあって、こうした高価品の購入は困難になっている。

 付属遮蔽装置を使えば、サンプルのベクレル測定も可能だが、キロあたり200ベクレル以上でないと誤差の少ない正しい値には、なりにくいので実用上は無理がある。

 【ベクレル計 】

 食品の放射能測定には、当初、普通のGM管を遮蔽箱に入れるスタイルで使っていた。
 しかし、GM管とバックグランド線量を半分程度遮蔽する組み合わせで得られる汚染の検出は、キロあたり300ベクレル以上で、それも数カウント程度の差であるから、放射能事故直後の緊急対応くらいにしか使えない。

 そこで最初に購入したのが、ドイツ製のスクーリング食品放射能測定器、EL25であった。
 これも結構な値段で、50万円以上したが、性能は期待外れで、カタログではキロ20ベクレル可能と書かれていたが、実際にはキロ200ベクレルがいいとこであった。
 それ以上のベクレル値ならば、結構正確で、数百万の高額品と大きな差はなかった。

 検出器は浜松ホトニクス製の2インチ薄型NAIが入っていて、相当に性能が良いものだが、遮蔽が10ミリ厚鉛では、薄すぎてどうにもならない。
 そこで、遮蔽鉛を別途購入、周囲に詰めて厚さ3センチ程度まで増やすと、やっとキロ100ベクレル程度は検出できるようになった。

 キロ100ベクレルでは国の規制値じゃあるまいし、やはり食品測定としてはキロ数ベクレル程度の検出能力が欲しい。
 だが、私の資力では、それ以上の精密測定器を購入することは不可能だった。

 そこに降ってわいたように、蕨市のIさんから測定器購入資金の協力の申し出があり、シンメトリックス社のIFKR254 やZIPを扱うことができて、本当に感謝している。
 もうIFKR製品は個人では手が届かないほど高価になっていて、普通なら触ることさえできなかった。

 【食品放射能測定器、IFKR-ZIP】

 この測定器は2012年ころ、シンメトリックス社の野中修二社長が開発したもので、キロあたり1ベクレル程度まで検出できる画期的な測定器である。

 当初の販売価格は150万円、もちろん私は買えなくて、蕨市のIさんの援助申し出にすがった。
 現在ではCSI価格の暴騰により200万円を超えている。あまりに高価なので、私が測定をやめたらIさんに返却する約束をしている。

 数百万円もするNAI測定器でも、実際の精度はキロあたり20ベクレル程度がやっとであって、1ベクレルという精度は驚異的なレベルである。

 最高精度とされるゲルマニウム半導体測定器でも、実質的な精度はキロあたり1ベクレル程度しか使えない場合が多い。
 理由はMCAの性能が悪く、10時間を超える長時間測定で、データの矮小化が起きてしまうからである。

 おまけに1ベクレル以下の精度にする場合は、1トンもの鉛遮蔽と、液体窒素によるサンプルと検出器の冷却が必要になり、多額のコストがかかる。
 民間測定所では運用コストに耐えきれず、液体窒素を使用しない測定も行われている。この場合、キロ1ベクレル以下の精度は出ない。

(追記、ゲルマ機で液体窒素で冷却しないと検知管が破壊されるとの指摘があった。民間測定所で液体窒素を使用しない場合は、シンチ測定器を利用しているという意味が正しく、謝った記述で申し訳ありませんでした)

 ゲルマニウム半導体の分解能力は、我々の保有するシンチ計の50~100倍あって、性能的には太刀打ちどころではないが、1トンもの設備と液体窒素ランニングコストの負担を考えれば、諦めるしかないだろう。

 ZIPの場合は、常温測定で冷却不要、重量も50Kg程度しかない。
 外観は極めてコンパクト、ゲルマ機のように床改造も必要ない。
 CSIシンチはNAIに比べて温度ドリフトが3分の1以下なので、大げさな空調コントロールも不要で、測定器が10度以上40度以下なら正常に作動する。
 5度以下になると、さすがにゲイン調整が必要なドリフトが生じてくる。寒さには少し弱いようだ。

 サンプル容器は、ゲルマ機でもNAIシンチ測定器でも検出器センサーが円筒形であるため、それを覆うような変則的なマリネリ容器が使われる。
 ところが、この容器は複雑な形状のため、平均に詰めるには熟練を要し、平均でないと誤差が大きく出てくるのである。

 汚染サンプルは、検出器にガンマ線を届ける前に、自分自身による遮蔽で吸収されてしまうことがあり、これを自己吸収と呼んでいる。
 液体の場合はひどく、水の場合は3センチ厚を超えると自己吸収によって線量が大幅に低下してしまうため、マリネリ容器は、どこでも3センチ厚を超えない形状に設計されている。

 これに対し、野中修二氏は、市販のZIP袋を、そのまま測定容器にすることを思いついた。
 100×140ミリZIP袋なら、水を入れても3センチ厚を超えない。形状も一定している。
 この大きさだと、玄米が160gずつ、計320g入り、軽快なフットワークで測定が可能である。
 ZIP袋はホームセンターなど、どこでも安価に入手可能である。測定後、そのままサンプル資料として保全することも容易である。

 測定器に二つのZIP袋収容穴を設け、それを挟むような位置にCSI2インチ相当の結晶を置くことで、測定効率はマリネリ容器よりも優れたものになった。
 また驚異的なMCA性能と併せて、超長時間測定でもドリフトを起こしにくく、温度変化に強く、20時間の連続測定を可能にしたことで1ベクレルの精度を確保することに成功した。

 条件を整えれば、キロあたり0.2ベクレルでも検出可能であるが、数日間もかかってしまい、環境ノイズの影響を受けて誤差が多くなる。

 【1ベクレルのために】

 現在、IFKR-ZIPの公称精度はキロあたり3ベクレルになっている。
 理由は遮蔽が鉛40ミリと薄いことで、実は、この遮蔽力では、バックグランドの変化に対応した、安定した1ベクレル精度が出せないのである。

 BGをたくさん採取しても、BGごとに測定値が変動することになる。これでは1ベクレル精度を主張する資格はない。

 BGは時間ごとに変化し、降雨降雪で変化し、地殻変動や太陽風・宇宙線でも変化するため、これらの変動を遮蔽によって安定化させようと思うと、鉛100ミリの遮蔽が求められるのである。

 しかし、私が1ベクレル精度に固執する理由は、現在の凶悪な妄想に取り憑かれた反知性狂人政権がやがて自滅し、人間性にあふれた知性的政権が登場してくれば、必ず食品基準値がキロ1ベクレル以下という基準に正しく戻されると信じているからだ。
 我々は、キロ1ベクレル以下の飲食を保証される必要がある。

 そこで、私はZIPでの1ベクレル精度にこだわり続け、BGを選定するにあたって、数百本採取したなかから、3~5ベクレルのシンメトリックス社製校正線源を測定して、正しい数値を示すものだけを利用する。

 降雨時は測定を避け、できる限り遮蔽を強化、底や周囲に鉄板30ミリ厚や鉛を加えて、装置全体が装甲車のような遮蔽になっている。
 さらに、環境温度を適正に保ち、温度ドリフトなどノイズを出さないようにするなどの対策を行い、何とか1ベクレル精度が確保できていると考えている。

 このような素晴らしい精度は、MCA基盤の微分非直線性の精度によるもので、野中さんを狙う産業スパイが設計図を盗んで再現しようとしても無理、部品を改善しても不可能、あくまでも基盤組み立ての半田付け技量やノイズ低減回路の長い技術的蓄積から生まれるものである。

 これは、野中修二という国宝級電子回路職人にしかできない「匠の技」の世界なのである。まさに文化財級の製品というべきであろう。
 逆に言えば、IFKR製品は野中修二の人生とともに消えて、この性能を再現できる技術は存在しなくなるともいえる。

 もう3年以上使っているが、シンチレータ測定器のハードウェアとしての性能は文句なしに世界一だと思う。
 あえて文句を言えば、7%の分解能が大きすぎることくらいか。

 しかし、先に述べたBGの適正な選択に加えて、K40のコンプトン散乱やビスマス214の「揺らぎの干渉」による嵩上げ効果などがあって、使い方は容易ではない。
 
 せめてMCAソフトにK40コンプトン嵩上げ自動補正くらい世間並みにつけてくれと文句を言ったら、野中さんから、そんな甘いもんじゃない、世間のK40補正ソフトは全部インチキだと言われた。
 やはり、1ベクレルの世界では、いちいち個別のBGによる補正をする必要があるらしい。

 測定器の校正線源である産総研標準汚染玄米は、キロあたり30ベクレル前後のK40値がある。
 これを超え、測定サンプルのK40が40ベクレル以上あるとコンプトン散乱が1460Kピークの左肩になだらかな丘を作りはじめる。
 この丘の上にセシウムなどのデータが乗るので、結果が嵩上げしてしまうのである。K40が50ベクレルを超えると、もう1ベクレルですまない誤差が出ててくる。

 したがって、仮に大豆がK40=200ベクレルあったとすると、200-30=170ベクレルのK40補正BGで相殺することで嵩上げ効果が消える。
 この場合、10ベクレル程度の階段で、多数の異なるK40補正用BGを用意しておく必要がある。
 私の場合は、塩化カリウムを1g単位で水に溶かし、それに高分子ポリマーを加えてゲル状にしたZIP袋補正試料を数十袋も用意し、適宜利用している。

 実は嵩上げを起こすのはK40だけではない。
 降雨に含まれるラドンから出てくるビスマス214や、トリウム汚染から出るタリウム208などもセシウムのピークに含まれてしまい、その測定上の分布に含まれる揺らぎが嵩上げを起こす。

 これもBGに含めれば相殺可能だが、定量化とBG作成が困難なため、私は雨天時の測定は避けるようにしている。

 【放射能=ベクレル】

アルファー線、ベータ線、ガンマ線を問わず、アイソトープが一秒あたりに一回崩壊(塊変)し放射線を放出することを1ベクレルという。
 これが放射能の単位として通用していて、SI系単位改訂前は370億ベクレル=1キュリーであった。

だから、ベクレルやキュリーという表記だけでは放射能の重さや大きさ、危険度を示す単位にはならない。あくまでも、毎秒あたり、いくつの塊変が起きるのかという放射能量を示すだけの単位である。

 同じベクレル数でも、生物にとっての危険度や物理作用は、放射線の種類や内部被曝か外部被曝か、部分的被曝か全身被曝かの作用形態によって極端に違うので、ベクレル=危険度ではない。

 このため、細胞に与えるダメージを基準にしたシーベルト(線量等量・単位改訂前はレムで表記された)という単位も設定されているが、これも実務計算は極めて複雑で分かりにくい。

 ベクレル(キュリー)は放射能量を示す単位、シーベルトは生体細胞へのダメージを表す単位、そして、もう一つ、グレイ(吸収線量)という単位があり、これが放射線の物理エネルギーの尺度になる。

 グレイとは、放射線が当たる物質1キログラムあたりに吸収されて熱エネルギーに変わるエネルギー量を示す。
 本来はジュール/キログラムと表記されるべきだが、ICRPはグレイという単位を用い、単位改訂前はラド=1グレイ/100 で表記された。

 1Kgの物質に1ジュールのエネルギーが吸収される線量を1グレイと呼ぶ。1ジュール=0.24カロリー 1気圧で20度の水、1gを0.24度上昇されるエネルギーに相当する。

 ガンマ線の場合、グレイ≒シーベルトで、約7グレイ≒7シーベルトのガンマ線を浴びると、100%致死量
4グレイ≒4シーベルトで半数致死量になる。
 だからガンマ線被曝の致死量は、体温を上げるほどのエネルギーには、ほど遠いことがわかる。
 人間の五感には、まったく感じないうちに死んでしまうのである。

 放射線関係の単位は、同じものを表すのに、たくさんの表記があって、実に複雑、一般大衆が誤解するような表記が多い。
 これは放射線実務を難解なものとして大衆から遠ざけようとする国際原子力産業の意図が働いているのだろうと思う。

 放射線が通過した細胞におけるエネルギーの吸収率(発熱量)や、それによって与えられるダメージを数量化する狙いで設けられた単位であるが、内部被曝のダメージを極端に軽視したい原子力産業の意向を汲んだICRPによって、正しい被害評価ができなくなってしまっている。

 【ベクレル測定上の注意点】

 ベクレル測定は、フクイチ放射能事故が起きるまで、まったく経験がなく、知識もなく、教書もほとんど見あたらなかったので、本当に手探りで失敗を重ねながら経験を積むことになった。
 私の技量では、とても有料化できないので、この3年間は無償で測定して、技量の習熟をいただいたという印象である。

 食品や土壌、飲料水の汚染は基本的にベクレルで表記する。

 毎秒、いくつの塊変を行うのか? という単位だが、普通はキログラムあたりの重さで表記し、100Bq/Kgのように書く。

 土地の汚染については、地表から5センチの深さまで土壌を採取し、キログラムあたりのベクレル数を出して、これを65倍した数値を平米あたりベクレル数としている。
 航空調査などでは、キロ平方メートルあたりのベクレル数で表されることも多い。この場合は、ベクレル単位もメガを使ったりして実に煩雑である。

 食品の測定で注意が必要なのは、サンプルをマリネリ式測定容器に正しく詰めることに熟練が必要で、詰め方次第で20%程度の誤差が出てくる可能性があること。
 IFKR-ZIPなら、ただZIP袋にいっぱいに詰めるだけで良い。

 食品は、可能な限り粉砕し、ペースト状や粉末状にした方が正しい値が出る。私は大半の場合、フードプロセッサを使用している。

 キロあたり1ベクレル程度の測定には、ZIPの場合10~20時間必要である。NAIシンチでは遮蔽を強化しても、キロ10ベクレル程度の精度しか出ない。長時間測定するとデータが矮小化してしまうのである。

 飲料水の場合、東京都水道水のセシウム汚染はリットルあたり、0.01ベクレル付近なので、そのままでは測定不能である。
 CDクリエーションの鈴木氏が研究の結果、100リットル程度の水道水をイオン交換樹脂やゼオライトに吸着させて、樹脂側を測定することで見えない汚染を可視化することに成功している。

http://cdcreation.grupo.jp/blog/1193538
 
 100リットルの水道水を風呂桶に溜めて、バスポンプなどを利用して循環させ、イオン交換樹脂に通すことで樹脂がセシウムを吸着する。
 全量吸着できたかは、TDSメータを使い、水が0PPMを示せば吸着終了として、樹脂を測定する。

 NAI測定器では、MCA特性から長時間測定での誤差が大きくなるため、規定時間=最大数時間程度の範囲で測定しなければならない。
 10時間以上ではデータの矮小化が起きてしまう。IFKR-ZIPの場合は、20時間でも測定可能だが、やはり、わずかな矮小化が起きるので。可能なら5~10時間程度にとどめるのがよい。

 何度も書いたが、一番大切なことは、雨天での測定を避けることである。
 雨には多くのラドン222が含まれ、娘核種のビスマス214が609Kのガンマ線を出すため、5センチ程度の遮蔽を透過して、スペクトルデータに609Kのピークを作ってしまい、 これがセシウム値を嵩上げしてしまうのである。

 似たような降雨時のBGを採取して補正できなくもないが、定量化が困難で、厳密な値を出すのは難しい。キロあたり5ベクレル程度より悪い精度でもかまわなければ、多少の降雨は無視してもよい。

 ビスマス214とタリウム208は、セシウムXのピークに近いため、イタズラをしてセシウム値を嵩上げすることが多いので、よほど注意が必要である。
 せっかくK40を補正してもビスマスに邪魔されることも少なくない。ビスマス214の補正用BGを作るのは、かなり困難で、降雨BGデータをたくさん集めて適宜利用するしかないだろう。

 【ゴーストピーク】

 ベクレル計から得られた測定スペクトルのなかにはゴーストと呼ばれる実体のない幽霊ピークができることに気をつける必要がある。

 ①コンプトン散乱

 セシウム137が光電効果を起こせば662K相当のシンチレーション光を発するが、コンプトン散乱(非弾性散乱)を起こすと、それより184K低い478K付近にコンプトンエッジというゴーストピークを作りながら、左肩に緩やかに下がってゆく散乱線を作る。

 一番影響が大きいのが、どこにでも大量に存在するK40で、このコンプトン散乱がセシウムなど目的核種のベクレル値を嵩上げしてしまい、測定の邪魔をすることが多い。

 K40のコンプトン散乱では、本当のピークが1461Kであるのに対し、1244K付近にゴーストピーク(コンプトンエッジ)ができる。
近似式は、コンプトンエッジまでの距離=求める核種のMeV/(1+求める核種のMeV×3.91)
 1.461/(1+1.461×3.91)=0.217 本来のピークより217K下にエッジ。
1.461-0.217=1244 1244KeVにコンプトンエッジができるわけである。

 おおむね500Kから5000K程度のガンマ線で問題になることが多い。

 ②サムピーク

 シンチ結晶体に、2本のガンマ線が同時に進入すると、両方のエネルギーを足し算したピークが記録されることがある。
 これがゴーストピークの代表で、実体のないピークを作ることで核種検出の大きな障害になる。

 セシウムは605K・662K・796Kのガンマ線を出すが、605+662=1267 605+796=1401k 662+796=1458K などのサムピークがスペクトルに現れることがある。
 本当に、そんなエネルギーがあるわけでなく、偽の幽霊ピークであるが、分解能の低い測定器の場合、他核種のピークに紛れ込み、誤検出や過剰検出を招くことがある。
 
 ③ 電子対生成

 電子対生成は1020K以上のエネルギーを持ったガンマ線が原子核の近くを通ると511Kの陰陽電子の対生成を起こしてガンマ線が消えてしまう確率があることをいう。

 逆に、511Kの陰陽電子がぶつかると電子対消滅で1020Kのガンマ線を生成する。
 K40、コバルト60やタリウム208などの強いガンマ線で起きやすく、511Kと1020K付近のピークは対生成の影響を考える必要がある。

④ 後方散乱 制動X線

 強いベータ線の出るサンプルでは、ベータ線が鉛遮蔽に当たって特性X線(制動X線)としてピークを作ることがある。
 また、サンプルから出たガンマ線が検出結晶以外の方向に出て、鉛遮蔽で散乱されて波長を変えることがある。
 ただし、これらの確率が測定を邪魔することは少ない。


 【最後に】
 現在、私の家ではIFKR254・ZIP・TA100Uは常時通電し、24時間稼働している。
 このために専用のパソコンも置いている。
 ZIPは大量のBGを採る必要があるし、254は環境放射線量の変化を見るのに必要であり、TA100は線量時系列変化を見て地震予知に利用している。
 大きな地震が近づくと、ジャイアントパルスという極端に高いパルスが消えてしまい、平均的に線量が低くなるのである。
 またラドンの噴出を調べるためにも254の時系列観測は欠かせない。

 フクイチ事故後、測定器の大量需要からシンチ結晶の暴騰があって、測定器価格が大幅にアップしているなかで、とりあえず在庫を保有していたシンメトリックス社の測定器が安く入手できて本当に助かった。
 もう、今後、我々の手に入ることはないだろう。

 シンメトリックス社では、最新測定器として、サムピークやコンプトン散乱などの影響を受けないダブルシンチレータのZIPPROを発売中だが、高級車を一台買えるほどの価格になってしまった。
 しかし、食品関連企業が、将来の1ベクレル規制を考えるなら、信頼性の高いZIPPROを購入すべきだと思う。

http://cdcreation.grupo.jp/free801460

ウラン2 劣化ウラン


ファルージャの奇形児
電車、駅構内での意識喪失
ウラン2 劣化ウラン

 【アメリカによる中東侵攻の本当の意味】

 ウランの核分裂を利用すれば、莫大な放射能ゴミが出てくる。なかでも「燃えない核燃料」であるウラン238=劣化ウランがアメリカの核開発軍事利用に伴って大量に蓄積し、良心の存在しない軍国主義者は、それを兵器に利用することを思いついた。

 それを使えば、罪なき一般市民に形容しがたいほどの残酷な被害を与えることが分かり切っていたが、アメリカは広島長崎に投下した原爆と同じように、まるで人々に残酷な苦しみを与えることが最大の快楽であるかのように情け容赦なく使い、狙い通りの恐ろしい結果が生まれた。

 イラク戦争で膨大な量の劣化ウラン弾がアメリカによって攻撃に使われ、その放射能によって、イラク住民が被曝し、奇形児出生や白血病など極めて深刻な被曝病が大量発生、大変な社会問題を引き起こした出来事を振り返りながら、劣化ウラン問題を本質から考えてみたい。

 劣化ウラン弾薬がイラク住民に対して大量使用された事態の大雑把な歴史を思い出してみることにしよう。

 1990年、フセイン政権がクウェートに侵攻占拠、国連安保理は撤退を要求したがイラクは応じず、1991年1月、多国籍軍がイラクを空爆、イラクは停戦に応じた。

 侵攻の原因はクウェートがイラク領内の石油資源を抜き取るような国境採掘を勝手に行ったせいだが、イラク側が侵略者の悪者であるかのような報道だけがなされた。
 このときイラクの悪事を告発したクウェート市民の映像は、すべてアメリカによる捏造と、やらせであったことが後に発覚した。

 1996年、フセインはクルド族へ攻撃を仕掛け、国連の大量殺戮兵器査察団の調査も妨害、1998年には米英がイラクを空爆。
 世界のイラク、フセイン政権を見る目は厳しさを増した。そしてアメリカは、イラクは大量破壊兵器を隠し持っている、軍事侵攻して叩きつぶす必要があるとプロパガンダを開始した。

 そして2001年9月11日、同時多発テロが起きて、アメリカがイラクや中東テロリストが仕組んだのではないかと大宣伝する。
 しかし、これも、アメリカの歴史に一貫して流れる壮大な捏造、陰謀、自作自演であった証拠が後に続々と出てくる。

 アメリカは、対外侵略戦争には、必ず自作自演の陰謀を仕掛ける歴史がある。
 真珠湾攻撃はアメリカの作戦に乗せられた日本軍の暴走だったし、ベトナム北爆の契機となったトンキン湾事件も侵略爆撃を正当化するためのアメリカの自作自演と暴露された。
 キューバ危機も、パナマ侵攻も、すべてアメリカの陰謀から始まった侵攻理由のための捏造と演技である。アメリカはアポロ13号でっちあげに見られるようにウソ、捏造と自作自演の陰謀王国なのである。

 そして911テロもまた、イスラエルの秘密諜報機関モサドによる仕掛けであったことが暴露され、倒壊した鉄骨にはテルミット溶融の痕跡が明確で、攻撃も受けていない周囲の健全なビルまで倒壊させてみせ、我々を唖然とさせた。

 無数の証拠や、貴金属や犠牲者の遺骸が混じった倒壊残骸は、事件からわずか二ヶ月後、証拠調べもされないまま中国に払い下げられた。
 あまりにも異常で不自然な倒壊の真相を調べようとした報道関係者は、次々にテロ容疑で逮捕され、NHK論説委員が「犠牲者にイスラエル人が皆無は不自然」と発言すると、翌日に不可解な転落死を遂げた。

 主犯とされたビンラディンは2001年にドバイのCIA病院にて腎不全で治療を受け、その後死亡していたこともフランス情報機関によって明らかにされていて、2011年にビンラディン殺害騒動でオバマが、それらしく感想を述べているのを見て、アメリカの三文役者の陳腐な茶番劇を世界中の情報通が嘲笑することになった。

 しかし、911テロの隠された本当の目的が、我々の想像をはるかに超える壮大な人類史的陰謀であることは、その後のアルカイダからイスラム国に至る流れのなかで、「イスラムを叩きつぶす」というユダヤ的思惑が浮き上がって見えていることから分かる。

 アメリカという国を支配するのは建国以来、すべて陰に隠れたユダヤ人であって、アメリカはイスラエルの属国であるからこそ理不尽なイスラエル擁護を続けてきた。

 イスラエルという国はユダヤ教を支配する母国で、すなわちアメリカ=ユダヤ教であって、ユダヤ教の敵であるイスラムを全世界的に崩壊させることこそ真の目的であろうことは実に明白である。
 アメリカ政府にはモルモン教徒が優先的に採用されているが、これもモルモン教がキリスト教を装ったユダヤ教に他ならないからである。

 ユダヤ教聖書=旧約には、アブラハムの二人の子、イサクがユダヤ教の祖となり、イスマエルがイスラムの祖となると書かれていて、やがて二人の子孫が最終戦争を起こすと預言されているのである。
 イスラエルは、この宗教的目的のために、イスラムへの信仰を地に堕とす、残虐を絵に描いたようなアルカイダやイスラム国を秘密裏に結成させ、武器を与えて国家規模のテロ組織に育てた。
 彼らが残虐であるほどに世界はイスラムへの不信感を高めてゆく。
 まさに狙いはイスラム壊滅という壮大な陰謀なのである。

 実に大雑把な解説で申し訳ないが、アメリカという国家(実は日本も)は、ユダヤ人たちの政治的宗教的目的に利用される機関にすぎないことは、世界中の真実を見抜く情報通の疑いようのない常識である。
 世界の戦争の根源には、いつでも世界の富の9割を所有するユダヤ人国家、イスラエルが存在していて、アメリカの大企業や政府機関を支配する9割もユダヤ人である。
 アメリカを真に支配する中央銀行FRBも6つのユダヤ人銀行が結成した私的銀行にすぎない。
 FRBを憲法違反であって廃止すると宣言したJFケネディ大統領は、直後にFRBの陰謀実行機関、CIAによって暗殺された。

 本稿の目的である劣化ウラン弾も、白リン弾とともにイスラエルがガザ攻撃で多用しているが、これを薄める目的でイスラエルは先行してアメリカに劣化ウラン弾・白リン弾を使用させているのである。

 2002年末に、イラクは国連査察団を再び受け入れるが、アメリカはCIAを使って「イラクには大量破壊兵器=核生物毒ガス兵器が準備されている」
 と再び捏造プロパガンダを開始した。

 2003年3月、アメリカは国連決議も無視して、イラクを911テロを引き起こさせたテロリストの最大支援者、「悪の枢軸」と決めつけ、再びイラクへの大規模な空爆攻撃を開始した。

 5月にはブッシュが勝利宣言、事実上イラクを占領、フセイン政権は崩壊し、後にフセインは絞首刑にかけられた。
 だが、ブッシュが国際社会に大宣伝した「大量破壊兵器」はイラクのどこを探しても発見できず、結局、アメリカが捏造宣伝したデマにすぎなかったことが世界中に知れ渡った。

 【イラク戦争で使われた劣化ウランとは何か?】

 一連の空爆と地上軍による戦闘のなかで、アメリカはイラク軍やスンニ派抵抗勢力に対して、歴史上初めて、放射能毒性の強い劣化ウラン弾薬を400トン以上も使用した。

 劣化ウランとは、もちろんウラン鉱石を製錬したウラン金属から、0.7%しかない核燃料になるウラン235を分離した残り99.3%の残渣である。
 世界最大の核開発国であるアメリカには、75万トンもの劣化ウランが、どうしようもない放射能ゴミとして存在し、世界全体では処分の困難な160万トンもの劣化ウランゴミがある。

 ここで、実は劣化ウランには二種類あることを、もっとも重大な知識として押さえておく必要がある。これが分からないと、これから述べるファルージャの悲劇の本当の意味を理解できないのだ。

 ウラン精錬濃縮で出てくる金属劣化ウランは、元のウラン鉱石に比べてもガンマ線は少なく(主に放射平衡によるBi214)、これによって催奇形性や発ガン性が存在しないわけではないが、イラクからのレポートほど深刻な被害は見あたらない。

 ゴミとはいえ、比重が19と重いため、船舶や航空機の重量調整バラストなどに利用価値があって、広く使われてきたし商品価値のあるものだ。

 ところが、再処理工場で使用済み核燃料からプルトニウムを精製した残りの廃棄物中に含まれる劣化ウランは、恐ろしい放射能毒性を持っていることが知られている。
 核燃料が原子炉で稼働すれば、その放射能は数億倍に増える。猛毒のプルトニウム239をはじめ、マイナーアクチノイドと呼ばれる猛毒超ウラン元素が大量に生成され、生物にとって恐ろしい被曝障害をもたらす存在になるのである。

 当初、まさか米軍が、あまりにも非人道的な再処理工場由来の劣化ウランを弾薬にしてイラクやコソボに撃ち込んだなどと誰も思わなかったが、この劣化ウラン弾が恐怖の再処理ウランである証拠がコソボから出てきたのだ。

 1999年にコソボ紛争では3万1千発ほどの劣化ウラン弾が発射されている。
 NATOは、イタリア政府からの安全性への懸念に対し
「劣化ウラン弾は精製ウランよりも放射能が低く、健康にまったく影響のない安全で合法的な武器である」と反論し、「科学的根拠のない」ものと断定した。

 コソボで使用された劣化ウラン弾を分析したスイスの研究者たちは、微量(0.0028%)のウラン236を検出した。この元素は自然には存在しない。
 つまり、ウラン鉱石から精製されたウランに含まれるはずのない元素である。すなわち、この劣化ウランは使用済み核燃料の再処理工場から来た事を意味するものであった。

 2004年、激しい地域封鎖殺戮戦争のあったファルージャなどでは、凄まじい残酷さで知られる白リン弾を大量に使用したことも米兵が証言している。
 その戦闘は無差別殺戮といえるもので、米兵たちは「動くものはすべて皆殺しにしろ」と命令を受けていたと証言している。

 そして劣化ウラン弾の使用は莫大なものであった。

 イラク戦争で使用された劣化ウラン弾の総量については様々な報告があって、米軍が1991年以降に使用した劣化ウランの総量は4600トン。第一次湾岸戦争で1000トン、コソボ紛争で800トン、アフガニスタンで800トン、イラク戦争で2000トンと推計されるが、これは弾薬総重量の可能性があり、弾頭だけに使われる劣化ウランの総量としては、先の400トンあたりが妥当かもしれない。

 イギリス原子力公社は、米軍によってイラク全土にばらまかれた劣化ウランは、長期的に700万人を殺害する能力を持っていると報告している。

 劣化ウラン弾がもっと大量に使われたのが激戦があったファルージャなどで、ここでは悲惨を極めた被害が出ており、劣化ウラン弾を始めとする様々な化学物質による汚染が深刻な健康被害をもたらした。

 死亡率も極めて高く、2009年のファルージャ総合病院では出生児の24%が死亡、75%が奇形児であると報告された。

 ウラン金属の化学毒性としては、腎臓障害が広く知られている。しかし、使われたウランが再処理工場由来のものであるとすれば、プルトニウムはじめ多くのマイナーアクチノイド猛毒放射能元素の影響を受けて、猛烈な催奇形性や発ガン性を発揮するはずであって、ファルージャ総合病院での恐ろしい結果が、まさにそれを示している。

 イラク戦争後に観察された病気としては腎臓、肺、肝臓等の疾患や免疫系の障害が含まれる。劣化ウラン弾は、特に、子供たちの間で白血病、腎臓病、貧血等を急激に増加させた。

 女性の間では流産や早産が劇的に増加した。特に、ファルージャでは非常に顕著で、イラク政府の公式な統計によると、1991年に最初の湾岸戦争が起こる前の癌の発生率は10万人に対して40人だった。1995年には癌の発生率は10万人当たり800人となり、2005年には10万人当たり1,600人となった。そして、最近の調査によると、この増加傾向は続いている。

 これはイラク保健省の統計によるもので、実際の被害は、この数倍に及ぶと指摘されている。イラクの場合、自国に都合の悪い数字は、すべて半分に矮小化されて公表されるといわれる。

 日本では先天異常の発生率は1から2パーセント、ファルージャで生まれた子供たちの間では14.7パーセントであることから、日本の放射能被害地域における先天異常に比べると10倍も多い。
 2013年の3月の時点に、「出生異常の率は依然として14パーセントのままだ」であった。

 ファルージャで生まれてくる子供たちの15%が先天的異常ということは、ほぼ全員が見えざる異常を抱えていることを意味する。
 知的遅滞などの異常は、かなり年齢を経ないと発見されない。また、こうした子供たちの余生は大幅に短いのが普通である。

 これほどの死者と異常、病気をもたらした劣化ウランが、米軍の説明してきた核燃料濃縮後の金属ウランである可能性は極めて疑わしく、限りなく再処理工場由来の恐怖の猛毒劣化ウランである可能性が大きいのである。
 こんなことがやれる国は、陰謀だけで成立しているようなアメリカかイスラエルくらいしかない。非人道国家アメリカなら、やりかねない。これは人類の未来に対する犯罪である。

 劣化ウランは湾岸戦争で大々的に使用された。米国政府の発表によると、0.01グラムの劣化ウランに晒されると1週間の内に健康障害が起こる。

 米軍は陸軍少佐ダグラス・ロッキに命じて、劣化ウランの危険性を警告したマニュアルを作成したが、これを一切公開せず握りつぶした。
 劣化ウランの毒性を米軍が知って使ったということが明らかになれば、補償責任や戦争犯罪としての責任を問われることから、その危険性を徹底的に隠蔽し、兵士にも一切教えなかった。
 劣化ウランは、何の被害ももたらさない安全兵器だとデマを主張し続けたのである。

 このため米兵にも大量の被爆者が出た。米国内で被曝による命に関わるほどの深刻な障害を訴える帰還兵は、アメリカ政府の把握だけでも数百名を超えている。
 イラクに派遣された米兵50万人強のうち、52%にあたる25万人が帰国後も被曝症状を訴えているのである。
 これは湾岸戦争症候群と呼ばれ、深刻な社会問題となっている。
 ロッキ氏によれば、帰還兵の劣化ウラン被曝死は1万人に上り、22万人が障害者になったと報告されている。

 米軍の戦車から発射された砲弾は敵軍の戦車に当たると衝撃によって3100グラムの放射性微粉が生成される。
 劣化ウランの微粉を吸い込んだり飲み込んだりすると、この微粉は水溶性ではないことから、体内に数年間も留まり、体内被曝の原因となる。

 この砲弾には約4.8キロの劣化ウランが使用されている。その重量の70パーセント前後が標的への衝突によって微粉化するものと想定されている。
 0.01グラムの劣化ウランが体内に入ると健康障害が起こると言われている程であるから、参戦した米軍の兵士たちの間にたくさんの被害者が出たとしても決して不思議ではない。
 帰還した従軍兵士の約37%は、さまざまな症候に今も悩まされ補償を要求している。
 彼らの尿におけるウラン濃度は十数年を経ても高い。理由は肺に沈着したウラン粒子が徐々に血液に溶け出してくるためと説明されている。

 また日本から派兵された自衛隊のイラク駐屯隊員も被曝している。
 イラクなど海外派兵隊員の総数は延べ2万人、うち死者は35名、在職中自殺者が16名、帰国後も25名が自殺している。

 このうちの多くが被曝によるものと私は考えている。自衛隊・日本政府にとって劣化ウラン粉塵による内部被曝は存在しないものであり、体の変調やストレスを訴える隊員は、単なる怠惰としか理解されない。

 しかし、被曝による変調は恐ろしい苦痛や意欲減退を伴い、朝ベットから起きるのも大変なことなのだ。自殺者が出るのも当然だろう。

 【チッソの劣化ウラン火災にともなう、ある恐ろしい推理】

 イラク帰還米兵で劣化ウラン被曝によると思われる症状は、比較的共通するものが多い。

 1993年米下院退役軍人問題委員会で軍を告発した元陸軍看護兵キャロル・ピクーは、排泄(排尿排便)のコントロールができなくなったと訴えた。
 軍は検査治療にも応ぜず、排尿器具だけを渡されたと涙ながらに告発した。

 帰還兵メリッサも排便障害を訴えているし、帰還兵の訴えの中に排便排尿障害が非常に多いのに驚かされた。

 湾岸戦争症候群を列挙すると、悪心・嘔吐・腹痛・呼吸困難・胸内苦悶・頭痛・頭重・めまい・耳鳴り・頻尿・排尿不快・尿失禁・皮膚知覚異常・しびれ・かゆみ・痛覚・温冷感・自律神経障害・てんかんに似た意識消失発作

 ここで、私は「おや!」と思った。
 これは、現在、東京都民が訴えている症状に酷似しているのだ。

 というより、電車のなかでテンカンのような意識消失発作が続いて電車が救護のために頻繁に遅延していることがツイッターなどで報告されていて、最近では、電車内で排便排尿してしまう人が増えていることが明らかだからだ。

 もちろん、フクイチ放出による放射能のせいかもしれないが、福島など重汚染地帯から、この種の報告を目にすることは少なく、東京に集中している。
 そこで、私は、ひょっとすると湾岸戦争症候群が東京で起きているのではないかと疑ってみることにした。

 実は、東京では2011年3月11日に恐ろしいことが起きていた。
 東北巨大震災の揺れのなか、千葉県市原市、チッソ五井石油コンビナートが4時過ぎに大規模な火災を起こし、劣化ウラン保管庫にあった20トンの劣化ウランが爆発的燃焼を起こしたのである。

 このとき、爆燃を起こした時間帯に、周辺のモニタリングや測定者による測定値が大幅に上がっている。
 劣化ウランの場合は、燃焼して微粒子になった酸化ウランが放射平衡を起こしているビスマス214のガンマ線を出す可能性がある。

 また都内における定点観測の中性子濃度が劇的に上昇している。
 劣化ウランも自発中性子を出すし、フクイチからの放射能放出は3月14日頃と思われるので、これはもうチッソの劣化ウランの爆燃放出によると見て間違いないだろう。

 となれば、今、都内の電車で起きている多数の意識喪失発作や排便排尿障害は、チッソによるウランから来ている可能性を考えなければならない。
 あの水俣病を引き起こしたチッソが、再び大変な公害を起こしてしまった可能性があるのだ。
 現時点において、これらは証明されたものではないが、疑うべき根拠は十分すぎるほどある。

 今後は、ツイッターなどを通じて、湾岸戦争症候群に類似した症状がないか、呼びかけてみる必要があるだろう。
 燃焼した劣化ウランは酸化ウラン微粒子として呼吸から取り込まれ、肺に沈着する。

 イラク帰還兵の例では、ウランの生物半減期が短いにもかかわらず、実際には10年以上経ても高濃度のウランが尿から検出される。
 この理由は、肺に沈着したウラン粒子が、少しずつ血液中に溶け出しているからと考えられる。
 長い時間にわたって、重金属毒性とアルファー線、放射平衡のガンマ線によって内部被曝を深刻化させてゆくのである。

 泌尿器系の病気を引き起こす理由は、ウラン金属の化学毒性が腎臓を攻撃するからで、排便排尿障害をもたらすと考えられる。

希ガス クリプトン85 ラドン

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希ガス クリプトン85 ラドン

 2013年の夏頃だったか、(調べたら8月23日だった)
 友人と福島方面の汚染度調査に出かけて、千葉県まで帰ってきたとき、我孫子市の利根川付近を車で走っていたら、友人が突然、「なにこれ!」と叫んだ。

 肌身離さず持っているRADEXの検知管の二つある上等の測定器が、突然、ピーピーと警報音を鳴らし始めたのだ。
 見ると、とんでもない数値が出ていた。

 30μ/hとか70μ/hとか凄い数値が上下している。ところが、私の持っていたシンチレータ測定器はまったく反応していなかった。
 ということは、測定器の故障でなければGM管だけに反応するベータ線が出ていることを意味する。

 実は、出かけた19日にも、同じような現象が新潟の湯沢温泉から魚沼あたりでも起きた。
 このときは、計器のトラブルと思ったが、利根川付近の場合、10分以上も似たような数値が乱高下し、10キロも離れると、まったく正常に戻ったので、これは、とんでもないベータ線が出ている可能性が強いと思った。

 帰宅後、いったい該当するベータ線発生源は何か? いろいろ調べても容易に分からない。
 可能性のある核種といえば、ホットスポットを作りやすいセシウムやストロンチウムだが、いくらなんでも70μでは凄すぎる。
 飯舘村の土壌を採取して調べたが、測定器が完全に振り切れる状態だった。しかし千葉や茨城の測定箇所では、柏市であっても、せいぜい数μ/hが最高値だった。

 セシウムなら、ガンマ線が出るので必ずシンチレータ測定器に反応する。ストロンチウム90は、娘核イットリウム90が強力なベータ線を出すが、地面に付着してるものが車内で検出されることは飛程を考えればありえない。(ベータ線は空気中で、よく飛んで1m程度)

 車内でベータ線が検出されるなら、それは地表付近を這うように進み、車内にも侵入してくる重い気団であるはずだ。

 あとは事故から二年以上経ているので、半減期の長い、少なくとも数年以上ある長寿命核種以外、考えにくい。
 それと、十数分も驚くほどの高いレベルで検出され続けたので、相当に膨大な量でなければならない。

 フクイチから大量に出る可能性のある核種といえば、まずはガス体である希ガス類とヨウ素にトリチウムだ。
 これらのガス体核種は、セシウムやストロンチウムに比べると10倍以上も環境放出され、炉心メルトダウンの場合は、ほぼ全量出てしまう可能性が強い。

 ベータ線エネルギーの弱すぎるトリチウムは普通では測定できず、検知管に反応することはありえない。測定のときは、検知管の窓を突破できないため、内部にガスを入れて測定するしかないほどだ。
 それに水素なので、すぐに上空に昇ってしまうだろう。

 次に、ガス体になりやすいヨウ素131は半減期8日、事故から二年経ていれば、再臨界か医療用以外、検出される可能性は、ほぼない。

 となると、残るのは希ガス、それも上空に昇らず地表付近を気団として徘徊するほど質量が大きな核種。
 希ガスというのは化学的に不活性なヘリウム・ネオン・アルゴン・クリプトン・キセノン・ラドン であって、このうち寿命が長く、強いベータ線を出して被曝に関与する元素といえば、クリプトン・キセノン・ラドンである。

 ヘリウムやネオンなど軽い元素は拡散性も強いと思われるので問題にならない。深刻な被曝を引き起こすようなベータ線もほとんど出ない。アルゴンの同位体にも検出可能な放射能らしいものは見られない。

 残るのは、フクイチ事故で、もっとも大量に放出された可能性のあるクリプトン85とキセノン133だ。ラドンは源がウラン238なので、莫大に出た可能性があるが、半減期が3.8日なので一ヶ月存在できない。

 クリプトン85は、687Kの強いベータ線を出す。ガンマ線も出るが、ほとんど問題にならないほど少ない。おまけに半減期が10.76年と長い。消えるまでに百年はかかりそうだ。
 質量も相当に重く、気団として地表を這い進む性質がありそうだ。これは条件にぴったり合っていて怪しい。

 キセノン133は、346Kのベータ線を出すものの、半減期が5.3日と短く、一ヶ月そこそこで消えてしまう。

 というわけで、もし犯人が希ガスであるとしたなら、クリプトン85に絞られてくる。
 ただし、これが2011/03/15日頃、フクイチから大量に出たとしても、二年以上の間、地表付近を彷徨い続けてなお、毎時70マイクロのベータ線を出し続けることが可能かと考えると、相当に無理がある。

 (希ガスの場合は、ファンデルワールス力という結合があって、容易に分離拡散せず気団のまま彷徨する可能性がある)

 疑わしいものは他にもないだろうか?

 東電はフクイチ3号機瓦礫撤去工事で4兆ベクレル(大本営発表なので、実際には一桁以上多いはず)の放射能を飛散させている。
 時期的には、2013年夏場で、これと符号するのだ。
 可能性は大いにあって、この工事によって南相馬市の稲に基準値を大幅に超えるセシウムを付着汚染させてしまったことが明らかになっている。

 調べてゆくと、フクイチで大型クレーンを導入して大規模な瓦礫撤去工事を行ったのは2013年8月19日であった。
 我々が我孫子市利根川を通過したのが、8月23日、時期的に符号する。行きの魚沼市内での異常値も8月19日、工事当日だった。

 https://www.youtube.com/watch?v=dwa9CvKEvoU 
 これは前年6月の工事風景

 フクイチ作業の動画を見ると、強風のなか、クレーンがまともに外壁を壊していて、もの凄い粉塵飛散が見られる。
 この映像を欧米の専門家が見たら、腰を抜かして関係者は、ただちに逮捕、危険物散布、殺人罪でテロ殺人犯と同等の扱いを受けるだろう。
 日本では、警察どころか、マスコミも報道さえしなかった。

 瓦礫撤去は、使用済み核燃料プールに大量に落下した大きなコンクリートブロックをクレーンで引き抜く作業で、このとき燃料プールに瓦礫を落としたり、被覆管を傷つけるような作業ミスが、たくさん起きたはずだ。

 同日、作業に伴って、瓦礫の下敷きになっていた放射線粉塵が飛散し、作業員二名が頭部を被曝したとニュース報道されている。

 東電は「株価が下がるから石棺工事もシールド工事もしない」と平然と言い放つような、人間としての良心のかけらもない拝金ゾンビ集団なので、工事に際して放射能の飛散を防ぐような配慮は一切していない。(せいぜい水をかける程度=安く上がるから)

 このとき、瓦礫が使用済み核燃料棒を押しつぶし、内部に大量に貯まっていたクリプトン85など希ガス類が莫大な量、環境に放出された可能性を考えると、この常識外れの異常なベータ線も、十分に合理的に説明可能だろう。

 内部にあった希ガス類は、減衰の時間経過を考慮すると、ほぼクリプトン85が大部分を占めていたはずだ。

 こう考えれば、不可解なベータ線大量検知の謎が、問題なく説明できてしまうので、ほぼ間違いないだろう。

 ただし、これは大変なことなのだ。後に説明するが、クリプトン85は原子力産業が説明しているような不活性の安全ガス体ではなく、実際には呼吸から肺に入って強いベータ線被曝を与え、肺ガンのイニシエータとして作用する。
 また、生殖腺に蓄積する性質があり、奇形やダウン症、人類小子化の原因になっている可能性がある。
 東電は、このときも許し難い極悪犯罪=大量放射能環境放出を意図的に行ったのである。


 【希ガス】

 上の例のように、クリプトン85やキセノン133は常温でガス体であって、使用済み核燃料被覆管に高圧で閉じこめられていて、これが破壊されれば、とんでもない量が瞬時に全量放出されるのである。

 フクイチ事故の被曝を考える上で、もっとも大量に放出されたはずの希ガス類を知ることは重要である。

 希ガスの性質と、同位体の問題をおさらいしておこう。

 希ガスは周期律表で最後の第18族元素群、ヘリウム・ネオン・アルゴン・クリプトン・キセノン・ラドンの常温ガス体元素を言い、外殻電子が閉ざされて反応することができず、昔は化学反応を起こさない不活性ガスと言われたが、近年、一定の条件で化合物を作る性質も明らかにされた。

 この同位体とトリチウム・ヨウ素がフクイチから放出された核種のなかで、もっとも大量であって、環境に巨大な影響を与えていると考える必要がある。

 それは、セシウム・ストロンチウムなどメルトダウンで知られた核種の10~数十倍のオーダーであって、核燃料被覆管内にガスとして閉じこめられ、事故時に真っ先に全量放出されるからである。

 問題になる核種は、このうちクリプトン・キセノンである。他の核種を調べても、生物に深刻な影響を与える放射能は確認できない。(今、分からないだけで将来明らかになる可能性は大いにある)

 実は、ラドンという希ガスが内部被曝に大きな問題を起こしているのだが、これは自然核種であって、独立した項目で説明する必要がある。

 当然のことだが、報道はセシウムやヨウ素ばかり強調して、おそらく桁違いに多いはずのクリプトン85についてほとんど無視、あるいは黙殺し続けている。

【クリプトン85】

 2012年5月12日 カレイドスコープがクリプトンに関する記事を書いた。
 http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-1268.html
 カレイドはなみいる反原発派の評論ブログの中でも群を抜いて優秀で、少し人間的に冷たいが、的を得た文章ばかりである。

 重要な部分を少し抜粋してみよう

 週刊朝日の誌上対談「広瀬隆×アーニー・ガンダーセン対談」

 ガンダーセン
 「当時は(私は)原発賛成派で、スリーマイル島事故の後、テレビで放射能はほとんど漏れていないと言っていました
11年後、1990年になってやっと大量の放射能が漏れていたことに気づいたんです。
 白血病や肺ガンの増加が指摘されました。
 肺ガンは、事故で放出された放射性のキセノンとクリプトンの吸入によるものだと思います」。

 広瀬氏:
「今回の事故でも、キセノンやクリプトンはすべて出たのに、まったく話題にもならない。
 放射性物質を体に取り込む内部被曝を防ぐ手立てがほとんどなされていなくて、私は、これが原因で大変なことが起きると非常に心配しています」。


 つまり、広瀬・ガンダーセン共に、希ガスは原子力産業が主張するような不活性で安全なガス同位体ではなく、明確に肺ガンや白血病を引き起こす疑いのある危険な核種だと明言している。
 これは当たり前のことだ。687KeVという強力なベータ線を放出する核種が、想像を絶するほどの膨大な量で環境を汚染し、それを呼吸で吸い込めば、気管支や肺の内部にベータ線熱傷さえ起こしかねない重篤な被曝障害をもたらすのは当然のことだ。

 肺ガンに至らずとも前駆症状として喘息など呼吸器系の疾患に大きく関与するのは常識的な判断であって、これが不活性ガスだから安全だなどと宣う原子力産業の手先学者は、被曝について無知蒙昧だけではすまされない。
 人々の健康に対する極悪迫害者であって、徹底的に糾弾するしかないだろう。こんなことを言うクズは、この世にいてはならない。


 1940年代の大気中濃度は、空気1m3あたり0.001ベクレル以下。天然クリプトン85は、ほぼ存在しないと考えられるほど微量だった。
 1940年代後半には、アメリカの核兵器製造のための再処理がおこなわれたために、大気が汚染されていった。

 世界で行われている核燃料の再処理の状況から、現在の濃度は1m3あたり1ベクレル以上と推計されている。1940年代の1000倍です。
(Wikiおよび原子力資料情報室)

 2012年3月~5月、フクイチ2号機におけるクリプトン85の異常な激増

 福島第一原発2号機の格納容器内で確認されたのは、5月8日の検出値で、2.6×102(Bq/cm3)ですから、これを1m3当たりに換算すると、×100(cm)3で、2億6000万ベクレル/1m3という途方もない量になる。

 2012年3月頃から、二号機付近で、クリプトン85の激増があり、この原因として地下にメルトスルーした核燃料の再臨界が起きたか、または核燃料プールに保存された核燃料被覆管が破れるような、何らかの作業をしたと考えられる。
 再臨界については、周辺でテルル139mやヨウ素131が頻繁に検出されており、継続性は別にして、ブスブスと火がついている状態であることは間違いなさそうだ。

 クリプトン85は、希ガスのため、非常に捉えにくく、その挙動も十分わかっていないことから、電力会社、政府はクリプトン85の人体への影響について、常に作為的とも言える過小評価を行っている。

 青森県六ヶ所村再処理工場では、年間あたりで33京ベクレルという途方もない莫大なクリプトン85の環境放出を計画しており、もし、その毒性が明らかになったなら、六ヶ所村どころか、世界の原子力産業の命運を地獄に葬るほどのインパクトがある。
 再処理工程の放出量が、あまりに莫大であり、東北北海道全体で、我々が我孫子市で遭遇したような恐ろしいほどのベータ線数値が連日測定される可能性があるのだ。

 クリプトン85のフィルタリング除去については、実は、すでに十年以上前に研究開発が行われ、技術的な目処は立っている。
 方法としては、該当希ガス核種の融点以下に冷却すれば液化するので、これをLNGのようにタンク保管するだけのことだ。
 クリプトン85については、排ガスを融点のマイナス153度以下、実用上はマイナス170度前後に冷却し、液化させて、同等に冷やした活性炭吸着剤に含ませ、そのままタンクに入れて100年ほど保管すれば消えてゆく。

 ところが、この種の技術がLNG運用で確立されているにもかかわらず、国は「カネがかかりすぎる」と決めつけ、フィルタリング放棄どころか、全量を環境放出すると、めちゃくちゃな決定をした。

 年間33京ベクレルという恐ろしい数値のベータ核種を環境に投げ捨てることの意味は、途方もなく無謀で残酷な事態である。
 これによって全世界の生物に恐ろしい影響が及ぶであろう。
 このままのペースでクリプトン85の激増(70年で1000倍)が続くなら、あと数十年もすれば全世界の生物が死滅する可能性さえある。

  クリプトン85は北半球では1985年までの10年間で大気中の濃度が2倍になり、世界気象機関(WMO)はオゾン層破壊や酸性雨を引き起こす物質とともに、監視項目に指定した。
 
 どんなに毒性が弱くとも、日常的に数十マイクロという線量で被曝したなら、累積線量では恐ろしい数値が出るだろう。再処理工場稼働は、まさに巨大な国民殺戮計画と呼ぶべきである。

 それゆえ、国際原子力産業と、その手先であるIAEA・ICRP・WHO、つまり、原子力を推進したい側の人々にとって、クリプトン85の存在は、隠しておかねばならない秘密であって、その毒性も徹底的に隠蔽されてきた。
 マスコミも鼻薬を嗅がされたのか、ほとんど報道しないのである。

再びカレイドからの無断引用

 一般の放射性核種は、大気中に漂っていたものがエアロゾルなどに吸着され、雨により地表に降下します)が、クリプトン85は、それとは異なった動きをすることが分かっています。

 普通、大気中に放出された放射性物質によって、雨天時、あるいは雨天直後の地上の空間線量率は上がり、風のない晴天の日には、空間線量率が上がることはないはずです。

 しかし、この実験では、晴天時でも空間線量が大幅に上昇することが認められ、その原因をクリプトン85が急激に大量に生成されたことに求めています。
 クリプトン85は、雨(当然、雪にも)に影響されない、ということです。(つまり、空気中のエアロゾルとくっつきにくい)

 「再処理施設から放出される核種のうち、クリプトン85の量が最大である」と結論付けています。

 再処理工場では、クリプトン85は排気塔から、すべて大気中に放出されることになっています。

 クリプトン85地表濃度に関する原燃の著しい過少評価によれば、六ヶ所村の日本原燃は、

 「排気は排気筒からさらに高く吹き上がるとされ、大気安定度によって異なるが、原燃の標準では吹き上がり高さは190mである。
 放射能雲(プルーム)の中心は、常にその高さの位置にあるとされ、風に流されつつ上下左右に拡散すると仮定されている。
 風速は一般に高さによって異なり、排気筒の高さでは大きく、地表面では小さいが、計算ではプルーム全体が排気筒の高さでの風速に従って流されると仮定している。
排気筒近くでは、プルームが下まであまり拡散してこないので、地表面濃度は小さいという結果になる」
 と主張しています。

 この日本原燃の犯罪的な過小評価については、
日本原燃(株)の事業申請書(大気へ気体放出量)から実効線量を計算した表において、「六ヶ所村再処理工場から大気への放出放射能は、年間5700人の吸入急性致死量に相当。
また、一般人、3900万人の年摂取限度に相当」
との分析があります。
(三陸の海を放射能から守る岩手の会:作成2006.3)

 六ヶ所再処理工場の運転によって大気中に放出される放射能の中でもクリプトン85は、最大の量で、毎年 3.3×10の17乗=330,000,000,000,000,000Bq(33京ベクレル)が六ヶ所村の上空に放出されます。

 放出の方法も、高さ約 150メートルの排気塔から排風機を使って時速約70キロメートルの速さで大気中に放出されます。

 膨大な量の放射性クリプトンを放出するため放出口では許容濃度をはるかに超えているのですが、非常に高い排気塔から加速して排気し大気中に拡散することで薄めてしまうから、地上に降りてくるときに濃度が低くなり問題ないというのが国や日本原燃の説明です」。
(以上、原子力資料情報室)

 クリプトン85は、不活性な希ガスであるため、水分には容易に溶けずに(クリプトンの水への溶解度は、わずか0.067)、空気中にほぼそのままの状態で漂っています。

 人は、まず呼気からクリプトン85を吸い込み、これが肺から血中に取り込まれて全身を回ります。
クリプトン85は水分に溶けないので、血液などの体液に溶けるのではなく、物理的に血液の中に「混じる」ということ。

 クリプトン85の健康への悪影響でまず挙げられるのが皮膚ガンです。
また、血液に取り込まれて血流と共に全身に行き渡ってしまうので、体のどこにでも濃縮される可能性がありります。

 特に、全身のリンパ組織に悪性腫瘍ができるホジキン病を発症させると考えられています。
そして、次に白血病を誘発する可能性が出てきます。

 イギリス北西部にあるセラフィールド再処理工場の周辺で、白血病が増えていることは知られています。

 原因は、プルトニウムなどのミクロン以下の極微粒子を肺に吸い込んで、それが全身を回り、局所的な部位に高い被曝線量を継続して与えることが原因であるとされていますが、ICRPのリスクモデルでは、これを認めていません。

 ただし、核の再処理工場から出てくるのは、むしろクリプトン85のほうが圧倒的に多いはずであり、半減期の長いプルトニウム(プルトニウム239の半減期は2万4000年)より、半減期10.76年のクリプトン85を考慮しないわけにはいかないでしょう。

 白血病が多いのは、セラフィールド再処理工場周辺だけでなく、他の核再処理工場でも同様ですから、再度、クリプトン85の人体への悪影響について、使用済み核燃料の再処理という観点から洗いなおして欲しいものです。

 東海村核燃料再処理工場では、1970年代半ばからクリプトン85が、すべて大気中に放出されてきました。

引用以上

 なぜ長々とカレイドを引用したかというと、実は、クリプトン85に関する過去の被曝障害関連論文が、なぜかネットから失われてしまっているからである。
 おそらく国際原子力産業がクリプトン85の毒性を隠蔽することが原子力産業の命運を定めることに気づき、総力を挙げて徹底的な隠蔽を行っているのではないだろうか?

 数年前には入手可能だった被曝関連の論文や、ウクライナでの被曝死者報告、福島現地で放射能汚染された遺体が無数にあるなどという大切なニュース記事が、最近、すべて削除されている。
 削除したって事実が消えるわけではないが、南京大虐殺や慰安婦問題に見られるように、証拠隠滅の上に自分たちの妄想に都合の良い虚偽の説を、それらしく流布するという極右勢力、日本会議による歴史捏造が、被爆問題にも及んできていると見る必要がある。
 
【ラドン】

 希ガスを語る上で、ラドンを外すわけにはいかない。
 周期律表18族で6元素の最後(今では7元素が提唱されている)
 ラドンは、独立に存在するのではなく、一番大本にあるウラン238が次々と塊変(崩壊)して、ラドンとして現れ、また塊変して別の核種に変わってゆく。

 原料がウランなのだから、原子炉の核生成物にも含まれるのは当然だが、一般には、天然由来の放射能鉱石から発生する核種であって、我々人類が、生物学的発生以来、つきあうことを避けられない核種であった。

 ラドンは地殻からガス体として放出され、上空に昇って、水や溶剤に溶けやすい性質から雨水に大量に含まれていて、雨が降るとガンマ線測定器が実際よりも大きな値を示す理由は、ラドンの放射能のせいである。

 ただし、ラドン自体は、ほとんどガンマ線を出さず、アルファー線を出してポロニウム218に塊変する。ガンマ線が検出されるのは、曽孫娘核種であるビスマス214からである。

 実は、ラドンには2系統の核種があって、ウラン238から始まってラジウム226、ラドン222と塊変するウラン系列の系統と、トリウム232から始まって、ラジウム228、ラジウム224を経てラドン220(通称トロン)になるトリウム系列の系統がある。

 現実に存在するラドンは、多くの場合、この二種類 ラドン222とラドン220が混在している。なぜなら大元のウランやトリウムを含む土壌が、同時に、この二つを含んでいる場合が多いからである。
 ラドン222は、4世代後のビスマス214が609Kのガンマ線を出すので存在がわかりやすい。
 トロン=ラドン220は、4世代後にタリウム208という2.6MeVと583Kの猛烈なガンマ線核種があって、平衡した場合、これが同時に検出されることがある。

 ラドンが水に溶けやすい気体である性質から、系列崩壊の途中でラドンとなった段階で気体として上空に昇り、雨水に含まれて降りてくる。
 このときには、ラドン222・ポロニウム218・鉛214・アスタチン218・ビスマス214などが同時に含まれ(平衡し)ていて、このうちビスマス214の609Kガンマ線がラドンのガンマ線として我々に検知されるのである。
 ビスマス214は半減期が20分ほど、3時間もすれば消えてしまうため、雨がやめば、すぐに検知されなくなる。

 【系列崩壊】

 アイソトープと呼ばれる放射性同位体核種を考えるにあたって、この系列塊変を理解できないと、放射能の意味も理解できなくなってしまう。

 すべての同位体核種(アイソトープ)は、放射線を出しながら次々と別の核種に変わってゆく性質がある。放射性同位体とは、種類を変えながら変化(壊変)する元素のことである。
 そして本体と壊変後の別の核種が同時に存在する(平衡する)ことで、娘核種の放射能が本体の放射能であると考えられているケースがたくさんある。

 例えば、一番代表的なセシウム137の場合、512Kのベータ線を出してバリウム137mに変わり、662Kの強いガンマ線を出して安定なバリウム137に壊変する。この過程は、いつでも平衡し同時に存在する。
 我々がセシウムのガンマ線と言うとき、実はバリウム137mのガンマ線というのが正しいはずだが、実用上は壊変系列が平衡している場合、セシウム137のガンマ線は662Kと言い習わしている。

 この例は、ほとんどの核種に共通するもので、単独で終わる核種など存在しないし、それはアイソトープ(放射性同位体)とは呼ばない。

 この壊変系列が非常に多数に渡るものを、特別に系列崩壊と呼ぶ。
 これは原子核の性質によって数学的に定まるもので、質量数を4で割った余りによって系列を定めることができる。
 自然核種の場合、4n系列=トリウム系列 4n+2=ウラン系列 4n+3=アクチニウム系列。
 その他、人工核種として4n+1=ネプツニウム系列がある。


 ウラン238は、19核種もの系列塊変を経て最後は安定な鉛206になる。
 トリウム232は、12核種の遷移塊変を経て最後は安定な鉛208になる。
 我々が鉛と認識しているものは、いずれかの系列塊変のなれの果てである鉛206と208(鉛207も含まれることがある)の混合物なのである。

 ウラン235から始まって鉛207に終わるアクチニウム系列は、人類がウラン鉱石を精製して核原料としてのウラン235を作りだしてから成立した系列で、核実験や原子炉の放出物のなかでのみ問題になる。

 そして、この系列塊変(崩壊)の途中では、すべての核種が同時に平衡状態で存在し(崩壊時間の短い核種は、すぐに消えてしまう)、系列全体を一つの核種=放射能として認識しないと放射能の意味が理解できなくなってしまう。

 おまけにウランとトリウムは土壌中に同時に存在する場合が多いから、あまりにも多数の核種が平衡状態で産出されるため、土壌の放射能分析は大変な難作業になってしまう。

 この系列塊変によって出てくる多数の放射能のせいで、実はウラン鉱石の場合、それを工業的に精製したウラン235や劣化ウランよりも、原材料のウラン鉱石の方が数倍もの強い危険な放射能を含んでいて、ウラン鉱における深刻な被曝問題が出てくるのである。

 添付したスペクトルグラフは、数日前、我が家の井戸水をCSIシンチ放射能計で測定したものだが、セシウムはビスマス214の誤検出で、実際には含まれていない。
 609KeV(304Ch)の明瞭なピークはビスマス214が出すガンマ線で、これがウラン系列の中の、ラジウム226か、ラドン222から出ていることが分かる。

 実は雨水や井戸水に溶ける性質があるのはラドン222で、私の土地は「ラドン温泉付」との謳い文句で売り出された別荘地で、土壌には大量のウランやトリウムが含まれ、井戸水は放射能水となっている。

 つまり、この井戸水の正体はラドン鉱泉なのである。本当は、ウランやトリウムを起源とする系列数十種類の放射能が含まれているはずだが、強いガンマ線として現れるのはビスマス214など数種類である。

 これほどのレベルとなると、さすがに飲用には問題があって、飲料水はミネラルウオーターを利用し、井戸水は生活用水に利用している。
 ただし、近所の多くが井戸水を利用し、わが蛭川村は長寿村に数えられているので、自然核種については原発核実験由来の人工核種に比べれば、それほど深刻さはないかもしれない。

 ラドンはウラン成分の含まれる、すべての土壌から気体として出てくるが、厳密に言えば花崗岩の含まれた土壌である。
 ウランやトリウムの大半が花崗岩に含まれているからで、これを原料に用いる陶器やコンクリート、大理石などからも出てくる。
 そして、人体に有害な作用を引き起こすことが確認されている。

 【ラドンの被曝障害】

 2005年6月、WHOはラドンを「世界のガンの6~15%がラドン被曝によって引き起こされる」
 という目を疑うような報告書を公開した。
 ラドンは喫煙に次ぐ肺ガンの主要なイニシエーターであると明記されている。

 またリットル100ベクレルを超えるラドンを含有する井戸水の利用を制限すべきと言う勧告を出している。
 室内においても、空気1立方メートル中、100ベクレルを超えると、非喫煙者の場合、0.1% 喫煙者の場合、2.5%、罹病率が高まるとする。
 欧米のデータから、1立方メートル中100ベクレルの空気を吸っている集団の肺ガンリスクは有意に高いとの報告があった。
 この線量効果関数は完全に直線的であり、閾値は存在しないとされる。
 
 ウランの含まれた土地ではラドン濃度が高くなり、気体として吸い込んだ強力なアルファー線と系列核のビスマス214のガンマ線が肺細胞を直撃するという説明である。
 
 だが、WHOは近年、原子力産業の役員が入り込んで勝手に報告を原子力産業に有利なようにデータを改竄する傾向がある。
 彼らの報告の、すべてを信用することは避けるべきだろう。
 ラドン以前に、原子力産業から放出されるクリプトン85やキセノン133、トリチウムなど人工核種を疑う必要があるからだ。

 現在、ラドン濃度と肺ガン罹患率が比例するというのは世界的定説になっていて、ラドン・ラジウム温泉によるホルミシス効果よりも、被曝リスクの方を問題にする論調が増えている。

 私の個人的な印象を言えば、WHOのラドン有害説には、原子力産業による莫大なクリプトン85放出を正当化する狙いが隠れているような気がする。
 吸入量でいえば、再処理工場から出るクリプトン85の量は年間30京ベクレルを超え、それだけで、自然界のラドン被曝量を桁違いに超える可能性があると考えている。

 再処理工場から出るクリプトン85は毎日90兆ベクレル、この気団が周辺都市に吹き寄せたとすれば、1立方メートルあたり数千・数万ベクレルのオーダーで地域の空気を汚染することが十分に予想でき、肺ガンのイニシエーションとして十分であって、これをウソにまみれたICRP/IAEA・WHOが連携してラドンのせいにすり替えることを、我々は考える必要があるのだ。

ウラン 1


イメージ 2

 ウラン 1

 私の住処は中津川市蛭川というところで、恵那山を見あげるように広がっている恵那盆地の北の端に位置している。

 恵那盆地は、恵那山、裏木曽山地、東濃山地など1000~2000m級の大きな山脈に囲まれた盆地で、恵那市と中津川市という小都市を抱えていて、出口は木曽川を経て伊勢湾に向かっている。

 東濃地方とはいうが、山のスケール、雰囲気は美濃ではなく完全に信州で、中央アルプスの3000m近い稜線と恵那山・小秀山の2000mの稜線、笠置や高峯、二ツ森の1000mの稜線に囲まれ、映画「青い山脈」のロケ地にもなったほどだ。

 まさに「青い山脈」に囲まれた自然と人間の融和した素晴らしい土地が恵那盆地である。
 とりわけ、山々から流れ出でる水の素晴らしさには感銘するしかない。
 こんな景観・環境のなかで子育てをすれば、子供はのびのびと感受性豊かに育ち、曲がったことの嫌いな骨太の「信州人」になること請け合いだ。

 こんな美しい山里ではあるが、わが蛭川は放射能や鉱業を研究する人たちにとっては特別な意味を持っている。
 ここは、フクイチ事故が起きるまで、日本一の放射線高線量地帯で知られていたからである。

 今でも、我が家の地面に線量計を置くと、軽く0.3マイクロシーベルト/毎時くらいは出ている。予備知識なしに測定すると、フクイチ放射能で汚染されていると驚かされることになる。

 蛭川は、村全体が花崗岩の岩盤の上にあって、昔から石材産業が盛んで、村中に分散している石切場には、至る所にペグマタイト鉱床があり、ぱっくり口を開けた鍾洞には水晶やトパーズを産出、川の中にはトパーズが散在しているが手間を惜しんで採取する者などいない。
 我が家の裏山は薬研山といって、マニアに知られた国内でも指折りの稀少鉱物産地で、サファイアの産出地として有名だが、国内で唯一ルビーを産出したことさえある。

 花崗岩地帯というのは文字どおり「宝の山」なのだが、困ったこともある。
 この中にウランやトリウムという自然放射能が含まれているからだ。
 実は、村中が放射能鉱物に汚染され、ラジウムやラドンの放射線を放っている。一方で、この恩恵を受けて、至る所にラジウム・ラドン鉱泉が沸いている。

 これが住民の健康に、どのような影響を及ぼしているか、まだよく分かっていない。
 WHOはラドンがもたらす発ガン作用を大きく評価し、警告している。
 周囲を見渡すと、ガンで死ぬ人は少なくないようにも思われる。

 【我が家の土のスペクトル】

 愛知・三重・岐阜の大半が陶土地帯で、日本でも屈指の高線量地帯なのだが、蛭川の場合、突出して空間線量が高い事情は、この付近でトリウムを産出するからである。
 我が家の裏山である薬研山は、戦後、トリウム鉱山としてモナズ石などを産出した。これは放射線障害防止法に引っかかるほどの高線量である。
 
 トリウム鉱床はトリウム232を起点とするトリウム系列の平衡放射能を含み、→ラジウム228 →アクチニウム228 →ラドン220(トロン) →鉛212 →タリウム208 など12塊変を経て安定な鉛208にたどり着く。

ただし、放射平衡を起こしている崩壊系列のなかで、ラドンがガスであるため、空中に散逸し、それ以降の娘核種の放射能は非常に少なくなるのが普通である。

 このうち強いガンマ線を出すのが、Ac228=911K/969K Pb212=239K Tl208=583K/2615k などで、放射平衡を起こした状態で存在するため、12塊変すべての核種が同時に存在し、ガンマ線検出器には、上の3核種の5本のガンマ線がスペクトルに現れてくるがラドン220以降の核種では割合が大きく低下する。

 また、トリウム鉱床が単独で存在することは希で、ほとんどの場合、ウランも同時に含んでいるため、ウラン系列におけるガンマ線も同時に検出される。

 ウラン系列は、ウラン238を起点に、→ラジウム226 →ラドン222 →鉛214 →ビスマス214 →鉛210 →ポロニウム210 など19塊変を経て安定な鉛206にたどり着く。
 このうち強いガンマ線を出すのは、Bi214=609K/1120K/1764K Pb214=295K/352K などである。

 蛭川村の土をガンマ線スペクトル計で測定すると、ほとんどの場合、両者のガンマ線核種ピークが出てくるが、そのなかで鮮明なピークを作るのは、ビスマス214=609K(ウラン系列) アクチニウム208=911k(トリウム系列)である。
 このスペクトルは我が家の土を、この文章のために採取して測定したものである。
 アクチニウムの二つのピークもよく見えるし、ウラン系列のビスマス214のピークも強烈である。

 【東濃ウラン鉱】 

 日本のウラン開発は鳥取・岡山県境の人形峠から始まった。
 1955年に発見された人形峠周辺の鉱区では、ウランの採掘、精錬まで行われ100トン近いウラン金属を製造し、東海村などで利用された。
 現在でも、採掘当時のウラン鉱残滓による放射能汚染が大きな問題になっている。

 1973年のオイルショック時には、ウランの国際価格が高騰し、もっとも多忙な時期を迎えたが、1979年、アメリカのスリーマイル原発におけるメルトダウン事故を受けて価格は暴落、採算が取れず輸入に転じ、事業所は閉鎖された。

 東濃地方は、日本屈指の花崗岩地帯であって、ここにウランが産出する可能性は戦前から指摘されていた。
 わが蛭川から西に40キロほど行くと瑞浪市があって、その西隣が土岐市、この付近に1961年、国内最高品位と埋蔵量のウラン鉱が発見された。

 蛭川から名古屋市付近まで国道19号線添いの広大な土地は、どこも花崗岩の崩壊したマサ土=陶土の産地で、したがって長石などの成分がウランを含んでいる。
 この付近のガンマ線量は、フクイチ事故前の関東の人たちが測定したなら驚かされるような高線量である。

 ウラン鉱の発見は、土岐市内、国道21号線(旧道)沿いの崖に、直接、閃ウラン鉱の露頭が見えているという驚くようなもので、その埋蔵量の多さを予感させるもので、学者や政府関係者は色めき立った。

 実際、埋蔵量は人形峠鉱区の二倍と国内最大だったが、外国から比べると、あまりに規模が小さく、国際競争力を持てるほどのものではなかったため、1987年、わずか20年ほどで、採鉱事業は中止に追い込まれた。

 もっとも大きな転機はスリーマイル原発メルトダウン事故によるウラン国際価格の低迷だった。
 今では、この露頭を覆うように東濃地科学センターが建設されていて、初期、事業見通しの甘さを学術利用にすり替えているように見える。
 
 1980年におけるウラン価格は、キロあたり15000円程度、それから20年ほど緩やかに下がり続けて2004年にはキロ4300円まで下がった。
 しかし、2007年頃、突然暴騰し、キロ25000円台まで上がった。
 理由は先物投機ブームのなかで、有望な投機商品と位置づけられ各国の投資目標になったからだが、その後のリーマンショックで再び暴落してしまった。

 2015年におけるウラン鉱の価格はキロあたり10000円程度である。
 ウラン鉱の採掘精錬コストは、キロあたり130ドル前後とされているが、国産ウランの場合、それよりはるかに高くつき、商品としての復活の余地はない。

 日本政府がウラン鉱に強く魅惑された理由は、日本に核開発を持ち込んだ、正力松太郎や中曽根康弘らの本当の目的が、平和利用の名を騙った日本国核武装にあったことが明らかで、核ミサイルの原料を作りたかったからに他ならない。

 今では、40年にわたる原発稼働の結果、世界でも指折りのプルトニウム在庫と、それを含む高濃度核廃棄物を保有しており、これ以上、資源量の少ない国産ウラン開発をする理由がない。

 核兵器を保有することで「強い国家として世界を威圧する」という妄想に取り憑かれてきた保守政治家たちにとって、もはやウラン鉱に、かつてのような神秘的魅力はなく、膨大な量が貯まった高濃度核廃棄物からプルトニウムを取り出すことだけが興味の対象なのである。

 だからこそ、人類史上最悪の危険なお荷物プラント、もんじゅに対する未練が収まらないのだが、もんじゅの再稼働が絶望的な事態を前に、今度は研究目的を終えたはずの茨城県、常陽まで再稼働させると言い始めた。
 運転すれば、高純度兵器級プルトニウムが入手できるからである。

 なお、ウランの世界最大の埋蔵国は、表向きオーストラリアということになっているが、実は北朝鮮の埋蔵量が豪州を陵駕するという調査結果があり、これが中国が北朝鮮を支援し続ける真の意味であるとの指摘がある。
 中国は北朝鮮の莫大な鉱物資源を何らかの形での併合によって私物化したいのである。

 【ウランとは】

 ウラン鉱石から製錬したウラン金属には質量数238と235の同位体があり、238が約99.3%、235が約0.7%含まれている。
 核分裂するのはウラン235だが、ウラン238も常陽のようなナトリウム炉の中に入れておくだけで高純度のプルトニウムを生成することができる。

 ウランは地球上の採掘可能な埋蔵量は547万トンと推定されている。
 主要なウラン資源国は、埋蔵量の多い順にオーストラリア、カザフスタン、カナダ、南アフリカ、アメリカなどである。なお、採掘可能埋蔵量が推定400万トンの朝鮮民主主義人民共和国がオーストラリアを上回る可能性がある。

純度を高められたウラン金属は、濃縮工場に送られて、ガス拡散法または遠心分離法でウラン238に対するウラン235の濃縮度を高める。
 日本では六ヶ所村に濃縮工場がある。

 日本のウラン濃縮技術は、実は戦前、陸軍における仁科芳雄を首班とするニ号研究と、海軍における荒勝文策を首班とするF研究に分かれて競い合っていた。
 仁科が非効率で莫大な電力を消耗する熱拡散法による濃縮を利用したのに対し、荒勝の海軍側は大本命の遠心分離法を追求した。
 遠心分離法は、現在でも気体拡散法より大幅にコストが低いことから世界中が濃縮に利用するようになっているが、超高速回転に耐えるベアリングなどの精密な金属加工技術が必要とされ、日本の職人「お家芸」が役立っていて、世界の中でも突出したレベルにある。

 朝鮮併合統治時代に、現在の北朝鮮興南道のチッソ工場内に隣接した理研施設内で極秘開発が行われ、湯川秀樹の主導により、当時としては世界最高レベルの技術水準にあった。

 北朝鮮には世界最大級のウラン資源があって、これを海軍が直接、開発していたが、表向きは、陸軍との競争に勝つために秘密にされ、ウランの調達は上海の闇市場から購入としていた。
 現在の北朝鮮が、国情と不釣り合いな先端的核開発を行っている理由は、当時の技術や日本人人脈が、そのまま北朝鮮に居残って金政権に伝えたとされている。
 なお北朝鮮が核実験に使用している坑道は、当時の日本軍によるウラン採掘坑道ではないかと言われている。

 湯川らは太平洋戦争敗戦までに100Kg程度のウラン235を抽出したとされ、ソ連参戦と北朝鮮への侵攻と、さらに広島長崎への原爆投下の際に、証拠隠滅のため、将校が船で興南道沖合に運び、自爆核爆発させたと指摘されている。

 http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_06_13/115687091/

http://ameblo.jp/kyasutaka1/entry-11469717712.html

 湯川らの核濃縮の最盛期に、興南道では奇病が発生し、多数が死亡した。
 この原因は、東洋最大といわれたチッソ興南工場の水銀廃液による最初の水俣病ではないかと言われているが、核開発も関係しているかもしれない。
 今では調査のしようがなく、原因は闇に葬られたままである。

 http://www.geocities.jp/saishjuku/0105_t.html

 【ウラン鉱の毒性 インド・ジャコゥダの例】

 小出裕章氏による「インドの原子力開発とジャドゥゴダ」というウラン鉱のもたらした惨害についての報告があるので抜粋引用しておきたい。

http://www.jca.apc.org/~misatoya/jadugoda/koide.html

 インド東部・ビハール州には、カースト最低身分より、さらに身分の低い先住民が住んでいた。そこから独立した「ジャールカンド州」では人口の28%が被差別先住民だという。
 ジャールカンドにはインド唯一のウラン鉱山があり、現在稼働している14基(合計出力272万kW)の原子力発電所を支えるとともに核兵器開発の基礎を与えてきた。

 インドは世界でも有数のトリウムの産地ではあるが、ウラン鉱石の品位は低い。通常、ウラン鉱石は0.2%以上の品位でなければ採算に合わないといわれているが、ジャドゥゴダを含めてこれらのウラン鉱山でのウランの品位は0.06%しかない。

 一方、生じる鉱滓と残土の量は厖大である。鉱滓だけでも年間40万トン、40万m2の鉱滓池を作っても毎年1mずつ池が埋まっていくことになる。その上、鉱山で掘り出して周辺に捨てられる残土はそのまた数十倍となり、管理することすら容易でない。

 ジャドゥゴダ周辺において深刻な放射能被害が生じていることを伝えたのは、2000年地球環境映像祭で大賞を受賞した映画「ブッダの嘆き」 であった。
 その映画では、ジャドゥゴダに巨大な鉱滓池が作られ、その内外で生活せざるを得ない先住民たちにさまざまな疾病が生じていることが示された。特に近年になって子どもたちに現れてきた先天的障害は深刻な様相だという。

 鉱滓池から1kmの範囲内に7つの村があり、そこでは47%の女性が月経不順に悩み、18%の女性はここ5年以内に流産あるいは死産を経験したという。女性の3分の1は不妊であり、住民の間には皮膚病やガン、先天的異常などが多発しているという。
州保健局による健康診断を受けた鉱滓池近くの住民712人のうち32人が放射線による疾病の疑いをもたれた。

 インドで利用されているCANDU型の原子炉では、濃縮核原料は必要とせず、天然のウランをそのまま燃料にできる。
 したがって、ウラン鉱のウラン238を主体とした汚染を考えればよい。U238が鉛206になるまでには合計14種類の放射性核種に姿を変える。そして、これらの放射性核種が生み出されたその場所から動かないのであれば、14種の放射性核種の放射能強度はすべて等しくなることが知られていて、そうした状態を「放射平衡」と呼ぶ。

 しかし、ひとたびウランを地上に引き出してしまうと、放射平衡の状態は崩れてしまう。なぜなら崩壊系列の途中にあるラドンは希ガスに属し、完全な気体として挙動しようとする。
そのため、ウランを含んだ鉱石や土壌の中から空気中に逃げ出してしまい、鉱石や土壌中のラドン以下の放射能濃度は低くなる。

 また、ラジウムはウランに比べて水溶性であるため、周辺に水が存在している場合には鉱石や土壌から溶け出し、やはりウランに比べて濃度が低くなる。
 一方、鉱石を製錬してウランを取り出す場合には、当然、製品の中にはU-238やU-234が多くなり、その他の放射性核種は少なくなる。逆に、廃物である鉱滓にはウランが少なくなるが、トリウム230以下の全ての放射能が存在する。
 したがって、地底に眠っていたウランを地表に引き擦り出してしまえば、ウランそのものからの被曝、鉱滓となったトリウム以降の核種による被曝、そして空気中に浸みだしてくるラドンによる被曝の3種類の被曝が生じる。

線量率
 DungridhiとChatikocha0.1~0.7
 それ以外の集落0.1~0.2
 残土を使った道路など0.5~0.7
 鉱滓池0.7~1.2
 (参考)Ranchi0.2~0.3
 場所ウラン濃度[ppm]
 Rakha Mine Station5200
 DungridhiとChatikocha2~30
 それ以外の集落4~11
 残土を使った道路など20~110
 鉱滓池40~530
 (参考)Ranchi17
 熊取2

 地球の地殻中には、どこにでもカリウム40やウラン、トリウムなどの天然の放射能が存在していて放射線を放出している。従って、人間はそうした天然の放射線からの被曝を避けることはできない。
 ごく一般的な場所では年間で0.3mSv(0.04マイクロSv/h)程度であるが、ジャドゥゴダ地域はウラン 鉱山もある地域のため、もともと天然のガンマ線が多い地域になっている。

 空間ガンマ線量率の多い少ないは、その場所の土壌に含まれている放射能の量に関連している。そして、その多い少ないを決める要因には、天然の理由もあるし、人為的な理由もある。天然の理由はもちろん人間の力で避けることはできず、受け入れるしかない。

 空気中ラドン濃度場所ラドン濃度[Bq/m3]
集落(Tilaitand)45
鉱滓池(第一)260
Bhatin鉱山坑道からの排気口2400

 通常の屋外環境のラドン濃度は10Bq/m3程度なので、ジャドゥゴダ周辺の集落におけるラドン濃度も高めになっている。その理由は天然によるものかもし れないが、鉱滓池における値は数十倍となっていて、鉱滓池からラドンの汚染が広がっていることを示しているように見える。
 Bhatin鉱山の坑道からの排気口での値はそのまた10倍となっており、坑道内で働く労働者の被曝が心配である。

 当初500mから600mほどの深さであった掘削坑道は今では1000mもの地底になっている。鉱山労働者としてかり集められている先住民たちの健康問題こそが、ジャドゥゴダの最大の問題なのではないか。

 当たり前のことであるが、汚染は存在している。ウランを地底から掘り出し、それを地表付近に野ざらしで放置するようなことをすれば、汚染が生じない道理がない。その上、始末に困った残土を積極的に建物や道路の建設資材に用いるようなことをすれば、汚染はさらに拡大する。

 ビハール州の環境委員会は2年にわたって周辺を調査した上で、1998年に最終報告を出しているが、 「鉱滓池周辺5km以内には集落はあるべきでない」と指摘している。

 鉱滓池は住民の生活の場所になっており、住民は放射能の危険性を知らされないまま日常的に鉱滓池に出入りしている。当然、被曝も生じる。

 ジャドゥゴダで子ども達に先天的な異常が多発していることを受け、日本に生まれた支援組織「ブッダの嘆き基金」はジャドゥゴダから20km程 度離れた場所に新たに「シェルター」を建設して子ども達を避難させる計画をたてている。

 ジャドゥゴダはもともと先住民の土地であった。しかし、ウランが採掘されることになって、住民たちは土地を奪われた。
 農地であった場所あるい は集落そのものを奪われた住民たちがDungridihやChatikocahの集落に暮らしている。

 引用以上

 上に述べられているように、実は精錬済みのウラン鉱の放射能よりも、精錬前のウラン鉱石の方が桁違いに放射能が強い。
 これが土壌内に隠れているうちは大きな問題を起こさないが、ひとたび採掘されて生活空間に出てくると、大きな被曝被害を引き起こすのである。

【人形峠におけるウラン鉱石被害】

 日本でもジャドゥゴダと同じ問題が起きた。それは日本最初のウラン発掘地、人形峠であった。
 (「ウラン採掘と人形峠旧ウラン鉱山」および、「人形峠のウラン鉱の後遺症…他人事でした」より引用)

 10年にわたってウランの試験的な採掘が行われた人形峠ウラン鉱区。 挙げ句に、人形峠のウランなど全く採算がとれないことが明らかとなって、採鉱作業は放棄された。

 その間、延べ1000名の労働者が坑内作業に従事したが、最近の一連の事故でも明らかになった動燃のずさんな体質はこの当時はいっそう酷く、作業環境のデータも個人の被曝データ もまともなものは残っていない
(と動燃は言っている)。

 限られたデータは当時の坑内の作業環境が著しく劣悪で、坑内は国際的な基準と比べて1万倍ものラド ン濃度であったことを示している。
 肺癌の犠牲となる労働者は暫定評価で70名となった。

 人形峠でのウラン採掘を放棄したあと、動燃は海外からのウラン鉱石を人形峠まで運び込んで製錬・濃縮試験を始めた。当初、坑内労働にかり出された住民たちも、一部は動燃の下請企業労働者として働き、一部は静かな生活を営む山村の住民に戻っていた。

 試掘のため住民から借り上げられていた土地もすでに住民の土地に戻っていたが、88年になって、その土地に鉱石混じりの土砂が20万m3(ドラム缶100万本分)、野ざらしのまま打ち捨てられていることが発覚した。

 残土の堆積場では、放射線作業従事者でも許されないほどの空間γ線が測定され、半ば崩れた坑口付近では放射線取扱施設から敷地外に放出が許される濃度の1万倍ものラドンが測定された。

 それでも、動燃は残土堆積場を柵で囲い込むなどの手段で残土の放置を続け、行政は安全宣言を出してそれを支えた。
 ただ、鳥取県側の小集落方面(「かたも」と読む)地区だけは、動燃、行政の圧力をはねのけ、残土の撤去を求め続けた。

 私有地の不法占拠を続けることになった動燃は、1990年になって、残土を人形峠事業所に撤去する協定書を結んだ。ところが、それまで残土の安全宣言を出していた岡山県は、事業所が峠の岡山県側にあることを理由に、鳥取県からの残土の搬入を拒んだ。動燃も岡山県の反対を口実に撤去を先延ばしし、10年目に入った現在も、残土は撤去されないままとなっている。

95年末の「もんじゅ」、97年 3月の「東海再処理工場」、4月の「ふげん」、そして最近発覚したウラン廃物のずさんな管理など、動燃の施設で相次いでデタラメ管理問題が噴出した。
 人形峠においては、放射線の管理区域でもない純粋な私有地において、許容濃度をはるかに超える放射性物質が住民を襲っている。

 自らの土地に放射能を放置され、何とかそれを撤去してほしいと求めてきた住民の悲願は、10年たっても叶えられずに来た。住民の間には疲れと絶望が広がり、それを見て取った鳥取県は方面地区への残土の埋め捨てを画策して動き始めた。

 榎本さんら住民の闘いが始まったのは88年。山陽新聞が「ウラン採掘に伴い排出された放射性物質を含む土砂(残土)が、人形峠周辺の民家近くに放置されている」と報じたのがきっかけだった。

 ウラン残土は全体で45万立方メートルにも達した。うち1万6000立方メートルを占めた方面集落では、閉山後にがんを発症したり、体調を崩す人が続出 していた。
 住民らは「原子力開発という国策に貢献したのに、後始末もしないのか」と憤り、公社を引き継いだ動力炉・核燃料開発事業団(動燃)に全面撤去を 求めた。

 小出裕章氏や市民団体が支援に乗り出し、その調査で、土壌やわき水、栽培した稲などから放射性物質のラドン(気体)が次々に検出された。ウラン残土が積まれた土地のそばでは、国内平均値(1立方メートル当たり5ベクレル)の数千倍の濃度を記録した。

 1、2審ともに住民側が勝訴し、04年、最高裁で判決が確定した。

 動燃はこの間、核燃料サイクル開発機構(核燃機構)、日本原子力研究開発機構へと名前を変える。05年、特に放射線量が高い残土290立方メートルを米国ユタ州の先住民居留地に搬出。残りは08年からレンガへの加工を進め、6月末、最後の1個が搬出された。

 「自分が別に起こした訴訟では、ウランと住民のがんとの直接の因果関係は認められんかったが、私らが放射性物質を吸ったことは間違いない。今、盛んに議論されている『内部被ばく』じゃないかと思っとります。原発労働者の被ばくには労災認定もあるが、ウラン鉱山での被ばくは完全に無視された。そりゃあ悔しいですよ」

 榎本さんは今、そう語る。採掘現場で雑役をしていた妻も94年に肺がんで失った。

 住民らを支えた鳥取短期大学名誉教授(食品学)の石田正義さん(72)は「地元の人たちは被ばくや農産物への風評被害を恐れ、一刻も早い残土撤去を願っていた。だが、動燃、核燃の対応は撤去先として同じ町内の別の場所を提示するなど、はぐらかしや先送りばかりで誠実さが感じられなかった」と述懐する。

 榎本さんの著書「人形峠ウラン公害ドキュメント」に、地元の言い伝えを紹介した一節がある。

 <方面の奥の山にも昔からの言い伝えがありました。ここの所にはあまり手を出してはならない(略)“月の輪”と呼んでいるところで、入っちゃならん、掘っちゃならん、いろったり(いじくったり)したらタタリがある……>

 採掘から半世紀。戒めを破って掘り出したウラン鉱石が放つ放射能は、今もなお完全には取り除けていない。」”

 最後に

 ウラン問題は、あまりにも奥が深く、数回程度のブログで語り尽くせるものではない。次回は、さらに奥深く詰めたウラン問題を書きたいと思っている。

 こうしてウラン鉱問題を調べてゆくと、原子力産業に対する住民の権利の戦いに小出裕章氏が果たしてきた役割の大きさを思い知らされる。

 私自身は小出氏が熊取原発の運営によって生活の糧を得てきたライフスタイルには賛成できない。熊取原発は住宅街の中にあり、周辺に見えざる放射能の影響があったと考えられるからである。
 また「熊取六人衆」のなかに原子力産業擁護の姿勢が見えるのも非常に残念だ。
 しかし小出氏の業績は戦後市民運動史のなかで後生にいつまでも残る立派な仕事だと考える。

希ガス クリプトン85 ラドン



 希ガス クリプトン85 ラドン

 2013年の夏頃だったか、(調べたら8月23日だった)
 友人と福島方面の汚染度調査に出かけて、千葉県まで帰ってきたとき、我孫子市の利根川付近を車で走っていたら、友人が突然、「なにこれ!」と叫んだ。

 肌身離さず持っているRADEXの検知管の二つある上等の測定器が、突然、ピーピーと警報音を鳴らし始めたのだ。
 見ると、とんでもない数値が出ていた。

 30μ/hとか70μ/hとか凄い数値が上下している。ところが、私の持っていたシンチレータ測定器はまったく反応していなかった。
 ということは、測定器の故障でなければGM管だけに反応するベータ線が出ていることを意味する。

 実は、出かけた19日にも、同じような現象が新潟の湯沢温泉から魚沼あたりでも起きた。
 このときは、計器のトラブルと思ったが、利根川付近の場合、10分以上も似たような数値が乱高下し、10キロも離れると、まったく正常に戻ったので、これは、とんでもないベータ線が出ている可能性が強いと思った。

 帰宅後、いったい該当するベータ線発生源は何か? いろいろ調べても容易に分からない。
 可能性のある核種といえば、ホットスポットを作りやすいセシウムやストロンチウムだが、いくらなんでも70μでは凄すぎる。
 飯舘村の土壌を採取して調べたが、測定器が完全に振り切れる状態だった。しかし千葉や茨城の測定箇所では、柏市であっても、せいぜい数μ/hが最高値だった。

 セシウムなら、ガンマ線が出るので必ずシンチレータ測定器に反応する。ストロンチウム90は、娘核イットリウム90が強力なベータ線を出すが、地面に付着してるものが車内で検出されることは飛程を考えればありえない。(ベータ線は空気中で、よく飛んで1m程度)

 車内でベータ線が検出されるなら、それは地表付近を這うように進み、車内にも侵入してくる重い気団であるはずだ。

 あとは事故から二年以上経ているので、半減期の長い、少なくとも数年以上ある長寿命核種以外、考えにくい。
 それと、十数分も驚くほどの高いレベルで検出され続けたので、相当に膨大な量でなければならない。

 フクイチから大量に出る可能性のある核種といえば、まずはガス体である希ガス類とヨウ素にトリチウムだ。
 これらのガス体核種は、セシウムやストロンチウムに比べると10倍以上も環境放出され、炉心メルトダウンの場合は、ほぼ全量出てしまう可能性が強い。

 ベータ線エネルギーの弱すぎるトリチウムは普通では測定できず、検知管に反応することはありえない。測定のときは、検知管の窓を突破できないため、内部にガスを入れて測定するしかないほどだ。
 それに水素なので、すぐに上空に昇ってしまうだろう。

 次に、ガス体になりやすいヨウ素131は半減期8日、事故から二年経ていれば、再臨界か医療用以外、検出される可能性は、ほぼない。

 となると、残るのは希ガス、それも上空に昇らず地表付近を気団として徘徊するほど質量が大きな核種。
 希ガスというのは化学的に不活性なヘリウム・ネオン・アルゴン・クリプトン・キセノン・ラドン であって、このうち寿命が長く、強いベータ線を出して被曝に関与する元素といえば、クリプトン・キセノン・ラドンである。

 ヘリウムやネオンなど軽い元素は拡散性も強いと思われるので問題にならない。深刻な被曝を引き起こすようなベータ線もほとんど出ない。アルゴンの同位体にも検出可能な放射能らしいものは見られない。

 残るのは、フクイチ事故で、もっとも大量に放出された可能性のあるクリプトン85とキセノン133だ。ラドンは源がウラン238なので、莫大に出た可能性があるが、半減期が3.8日なので一ヶ月存在できない。

 クリプトン85は、687Kの強いベータ線を出す。ガンマ線も出るが、ほとんど問題にならないほど少ない。おまけに半減期が10.76年と長い。消えるまでに百年はかかりそうだ。
 質量も相当に重く、気団として地表を這い進む性質がありそうだ。これは条件にぴったり合っていて怪しい。

 キセノン133は、346Kのベータ線を出すものの、半減期が5.3日と短く、一ヶ月そこそこで消えてしまう。

 というわけで、もし犯人が希ガスであるとしたなら、クリプトン85に絞られてくる。
 ただし、これが2011/03/15日頃、フクイチから大量に出たとしても、二年以上の間、地表付近を彷徨い続けてなお、毎時70マイクロのベータ線を出し続けることが可能かと考えると、相当に無理がある。

 (希ガスの場合は、ファンデルワールス力という結合があって、容易に分離拡散せず気団のまま彷徨する可能性がある)

 疑わしいものは他にもないだろうか?

 東電はフクイチ3号機瓦礫撤去工事で4兆ベクレル(大本営発表なので、実際には一桁以上多いはず)の放射能を飛散させている。
 時期的には、2013年夏場で、これと符号するのだ。
 可能性は大いにあって、この工事によって南相馬市の稲に基準値を大幅に超えるセシウムを付着汚染させてしまったことが明らかになっている。

 調べてゆくと、フクイチで大型クレーンを導入して大規模な瓦礫撤去工事を行ったのは2013年8月19日であった。
 我々が我孫子市利根川を通過したのが、8月23日、時期的に符号する。行きの魚沼市内での異常値も8月19日、工事当日だった。

 https://www.youtube.com/watch?v=dwa9CvKEvoU 
 これは前年6月の工事風景

 フクイチ作業の動画を見ると、強風のなか、クレーンがまともに外壁を壊していて、もの凄い粉塵飛散が見られる。
 この映像を欧米の専門家が見たら、腰を抜かして関係者は、ただちに逮捕、危険物散布、殺人罪でテロ殺人犯と同等の扱いを受けるだろう。
 日本では、警察どころか、マスコミも報道さえしなかった。

 瓦礫撤去は、使用済み核燃料プールに大量に落下した大きなコンクリートブロックをクレーンで引き抜く作業で、このとき燃料プールに瓦礫を落としたり、被覆管を傷つけるような作業ミスが、たくさん起きたはずだ。

 同日、作業に伴って、瓦礫の下敷きになっていた放射線粉塵が飛散し、作業員二名が頭部を被曝したとニュース報道されている。

 東電は「株価が下がるから石棺工事もシールド工事もしない」と平然と言い放つような、人間としての良心のかけらもない拝金ゾンビ集団なので、工事に際して放射能の飛散を防ぐような配慮は一切していない。(せいぜい水をかける程度=安く上がるから)

 このとき、瓦礫が使用済み核燃料棒を押しつぶし、内部に大量に貯まっていたクリプトン85など希ガス類が莫大な量、環境に放出された可能性を考えると、この常識外れの異常なベータ線も、十分に合理的に説明可能だろう。

 内部にあった希ガス類は、減衰の時間経過を考慮すると、ほぼクリプトン85が大部分を占めていたはずだ。

 こう考えれば、不可解なベータ線大量検知の謎が、問題なく説明できてしまうので、ほぼ間違いないだろう。

 ただし、これは大変なことなのだ。後に説明するが、クリプトン85は原子力産業が説明しているような不活性の安全ガス体ではなく、実際には呼吸から肺に入って強いベータ線被曝を与え、肺ガンのイニシエータとして作用する。
 また、生殖腺に蓄積する性質があり、奇形やダウン症、人類小子化の原因になっている可能性がある。
 東電は、このときも許し難い極悪犯罪=大量放射能環境放出を意図的に行ったのである。


 【希ガス】

 上の例のように、クリプトン85やキセノン133は常温でガス体であって、使用済み核燃料被覆管に高圧で閉じこめられていて、これが破壊されれば、とんでもない量が瞬時に全量放出されるのである。

 フクイチ事故の被曝を考える上で、もっとも大量に放出されたはずの希ガス類を知ることは重要である。

 希ガスの性質と、同位体の問題をおさらいしておこう。

 希ガスは周期律表で最後の第18族元素群、ヘリウム・ネオン・アルゴン・クリプトン・キセノン・ラドンの常温ガス体元素を言い、外殻電子が閉ざされて反応することができず、昔は化学反応を起こさない不活性ガスと言われたが、近年、一定の条件で化合物を作る性質も明らかにされた。

 この同位体とトリチウム・ヨウ素がフクイチから放出された核種のなかで、もっとも大量であって、環境に巨大な影響を与えていると考える必要がある。

 それは、セシウム・ストロンチウムなどメルトダウンで知られた核種の10~数十倍のオーダーであって、核燃料被覆管内にガスとして閉じこめられ、事故時に真っ先に全量放出されるからである。

 問題になる核種は、このうちクリプトン・キセノンである。他の核種を調べても、生物に深刻な影響を与える放射能は確認できない。(今、分からないだけで将来明らかになる可能性は大いにある)

 実は、ラドンという希ガスが内部被曝に大きな問題を起こしているのだが、これは自然核種であって、独立した項目で説明する必要がある。

 当然のことだが、報道はセシウムやヨウ素ばかり強調して、おそらく桁違いに多いはずのクリプトン85についてほとんど無視、あるいは黙殺し続けている。

【クリプトン85】

 2012年5月12日 カレイドスコープがクリプトンに関する記事を書いた。
 http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-1268.html
 カレイドはなみいる反原発派の評論ブログの中でも群を抜いて優秀で、少し人間的に冷たいが、的を得た文章ばかりである。

 重要な部分を少し抜粋してみよう

 週刊朝日の誌上対談「広瀬隆×アーニー・ガンダーセン対談」

 ガンダーセン
 「当時は(私は)原発賛成派で、スリーマイル島事故の後、テレビで放射能はほとんど漏れていないと言っていました
11年後、1990年になってやっと大量の放射能が漏れていたことに気づいたんです。
 白血病や肺ガンの増加が指摘されました。
 肺ガンは、事故で放出された放射性のキセノンとクリプトンの吸入によるものだと思います」。

 広瀬氏:
「今回の事故でも、キセノンやクリプトンはすべて出たのに、まったく話題にもならない。
 放射性物質を体に取り込む内部被曝を防ぐ手立てがほとんどなされていなくて、私は、これが原因で大変なことが起きると非常に心配しています」。


 つまり、広瀬・ガンダーセン共に、希ガスは原子力産業が主張するような不活性で安全なガス同位体ではなく、明確に肺ガンや白血病を引き起こす疑いのある危険な核種だと明言している。
 これは当たり前のことだ。687KeVという強力なベータ線を放出する核種が、想像を絶するほどの膨大な量で環境を汚染し、それを呼吸で吸い込めば、気管支や肺の内部にベータ線熱傷さえ起こしかねない重篤な被曝障害をもたらすのは当然のことだ。

 肺ガンに至らずとも前駆症状として喘息など呼吸器系の疾患に大きく関与するのは常識的な判断であって、これが不活性ガスだから安全だなどと宣う原子力産業の手先学者は、被曝について無知蒙昧だけではすまされない。
 人々の健康に対する極悪迫害者であって、徹底的に糾弾するしかないだろう。こんなことを言うクズは、この世にいてはならない。


 1940年代の大気中濃度は、空気1m3あたり0.001ベクレル以下。天然クリプトン85は、ほぼ存在しないと考えられるほど微量だった。
 1940年代後半には、アメリカの核兵器製造のための再処理がおこなわれたために、大気が汚染されていった。

 世界で行われている核燃料の再処理の状況から、現在の濃度は1m3あたり1ベクレル以上と推計されている。1940年代の1000倍です。
(Wikiおよび原子力資料情報室)

 2012年3月~5月、フクイチ2号機におけるクリプトン85の異常な激増

 福島第一原発2号機の格納容器内で確認されたのは、5月8日の検出値で、2.6×102(Bq/cm3)ですから、これを1m3当たりに換算すると、×100(cm)3で、2億6000万ベクレル/1m3という途方もない量になる。

 2012年3月頃から、二号機付近で、クリプトン85の激増があり、この原因として地下にメルトスルーした核燃料の再臨界が起きたか、または核燃料プールに保存された核燃料被覆管が破れるような、何らかの作業をしたと考えられる。
 再臨界については、周辺でテルル139mやヨウ素131が頻繁に検出されており、継続性は別にして、ブスブスと火がついている状態であることは間違いなさそうだ。

 クリプトン85は、希ガスのため、非常に捉えにくく、その挙動も十分わかっていないことから、電力会社、政府はクリプトン85の人体への影響について、常に作為的とも言える過小評価を行っている。

 青森県六ヶ所村再処理工場では、年間あたりで33京ベクレルという途方もない莫大なクリプトン85の環境放出を計画しており、もし、その毒性が明らかになったなら、六ヶ所村どころか、世界の原子力産業の命運を地獄に葬るほどのインパクトがある。
 再処理工程の放出量が、あまりに莫大であり、東北北海道全体で、我々が我孫子市で遭遇したような恐ろしいほどのベータ線数値が連日測定される可能性があるのだ。

 クリプトン85のフィルタリング除去については、実は、すでに十年以上前に研究開発が行われ、技術的な目処は立っている。
 方法としては、該当希ガス核種の気化点以下に冷却すれば液化するので、これをLNGのようにタンク保管するだけのことだ。
 クリプトン85については、排ガスを気化点のマイナス153度以下、実用上はマイナス170度前後に冷却し、液化させて、同等に冷やした活性炭吸着剤に含ませ、そのままタンクに入れて100年ほど保管すれば消えてゆく。

 ところが、この種の技術がLNG運用で確立されているにもかかわらず、国は「カネがかかりすぎる」と決めつけ、フィルタリング放棄どころか、全量を環境放出すると、めちゃくちゃな決定をした。

 年間33京ベクレルという恐ろしい数値のベータ核種を環境に投げ捨てることの意味は、途方もなく無謀で残酷な事態である。
 これによって全世界の生物に恐ろしい影響が及ぶであろう。
 このままのペースでクリプトン85の激増(70年で1000倍)が続くなら、あと数十年もすれば全世界の生物が死滅する可能性さえある。

  クリプトン85は北半球では1985年までの10年間で大気中の濃度が2倍になり、世界気象機関(WMO)はオゾン層破壊や酸性雨を引き起こす物質とともに、監視項目に指定した。
 
 どんなに毒性が弱くとも、日常的に数十マイクロという線量で被曝したなら、累積線量では恐ろしい数値が出るだろう。再処理工場稼働は、まさに巨大な国民殺戮計画と呼ぶべきである。

 それゆえ、国際原子力産業と、その手先であるIAEA・ICRP・WHO、つまり、原子力を推進したい側の人々にとって、クリプトン85の存在は、隠しておかねばならない秘密であって、その毒性も徹底的に隠蔽されてきた。
 マスコミも鼻薬を嗅がされたのか、ほとんど報道しないのである。

再びカレイドからの無断引用

 一般の放射性核種は、大気中に漂っていたものがエアロゾルなどに吸着され、雨により地表に降下します)が、クリプトン85は、それとは異なった動きをすることが分かっています。

 普通、大気中に放出された放射性物質によって、雨天時、あるいは雨天直後の地上の空間線量率は上がり、風のない晴天の日には、空間線量率が上がることはないはずです。

 しかし、この実験では、晴天時でも空間線量が大幅に上昇することが認められ、その原因をクリプトン85が急激に大量に生成されたことに求めています。
 クリプトン85は、雨(当然、雪にも)に影響されない、ということです。(つまり、空気中のエアロゾルとくっつきにくい)

 「再処理施設から放出される核種のうち、クリプトン85の量が最大である」と結論付けています。

 再処理工場では、クリプトン85は排気塔から、すべて大気中に放出されることになっています。

 クリプトン85地表濃度に関する原燃の著しい過少評価によれば、六ヶ所村の日本原燃は、

 「排気は排気筒からさらに高く吹き上がるとされ、大気安定度によって異なるが、原燃の標準では吹き上がり高さは190mである。
 放射能雲(プルーム)の中心は、常にその高さの位置にあるとされ、風に流されつつ上下左右に拡散すると仮定されている。
 風速は一般に高さによって異なり、排気筒の高さでは大きく、地表面では小さいが、計算ではプルーム全体が排気筒の高さでの風速に従って流されると仮定している。
排気筒近くでは、プルームが下まであまり拡散してこないので、地表面濃度は小さいという結果になる」
 と主張しています。

 この日本原燃の犯罪的な過小評価については、
日本原燃(株)の事業申請書(大気へ気体放出量)から実効線量を計算した表において、「六ヶ所村再処理工場から大気への放出放射能は、年間5700人の吸入急性致死量に相当。
また、一般人、3900万人の年摂取限度に相当」
との分析があります。
(三陸の海を放射能から守る岩手の会:作成2006.3)

 六ヶ所再処理工場の運転によって大気中に放出される放射能の中でもクリプトン85は、最大の量で、毎年 3.3×10の17乗=330,000,000,000,000,000Bq(33京ベクレル)が六ヶ所村の上空に放出されます。

 放出の方法も、高さ約 150メートルの排気塔から排風機を使って時速約70キロメートルの速さで大気中に放出されます。

 膨大な量の放射性クリプトンを放出するため放出口では許容濃度をはるかに超えているのですが、非常に高い排気塔から加速して排気し大気中に拡散することで薄めてしまうから、地上に降りてくるときに濃度が低くなり問題ないというのが国や日本原燃の説明です」。
(以上、原子力資料情報室)

 クリプトン85は、不活性な希ガスであるため、水分には容易に溶けずに(クリプトンの水への溶解度は、わずか0.067)、空気中にほぼそのままの状態で漂っています。

 人は、まず呼気からクリプトン85を吸い込み、これが肺から血中に取り込まれて全身を回ります。
クリプトン85は水分に溶けないので、血液などの体液に溶けるのではなく、物理的に血液の中に「混じる」ということ。

 クリプトン85の健康への悪影響でまず挙げられるのが皮膚ガンです。
また、血液に取り込まれて血流と共に全身に行き渡ってしまうので、体のどこにでも濃縮される可能性がありります。

 特に、全身のリンパ組織に悪性腫瘍ができるホジキン病を発症させると考えられています。
そして、次に白血病を誘発する可能性が出てきます。

 イギリス北西部にあるセラフィールド再処理工場の周辺で、白血病が増えていることは知られています。

 原因は、プルトニウムなどのミクロン以下の極微粒子を肺に吸い込んで、それが全身を回り、局所的な部位に高い被曝線量を継続して与えることが原因であるとされていますが、ICRPのリスクモデルでは、これを認めていません。

 ただし、核の再処理工場から出てくるのは、むしろクリプトン85のほうが圧倒的に多いはずであり、半減期の長いプルトニウム(プルトニウム239の半減期は2万4000年)より、半減期10.76年のクリプトン85を考慮しないわけにはいかないでしょう。

 白血病が多いのは、セラフィールド再処理工場周辺だけでなく、他の核再処理工場でも同様ですから、再度、クリプトン85の人体への悪影響について、使用済み核燃料の再処理という観点から洗いなおして欲しいものです。

 東海村核燃料再処理工場では、1970年代半ばからクリプトン85が、すべて大気中に放出されてきました。

引用以上

 なぜ長々とカレイドを引用したかというと、実は、クリプトン85に関する過去の被曝障害関連論文が、なぜかネットから失われてしまっているからである。
 おそらく国際原子力産業がクリプトン85の毒性を隠蔽することが原子力産業の命運を定めることに気づき、総力を挙げて徹底的な隠蔽を行っているのではないだろうか?

 数年前には入手可能だった被曝関連の論文や、ウクライナでの被曝死者報告、福島現地で放射能汚染された遺体が無数にあるなどという大切なニュース記事が、最近、すべて削除されている。
 削除したって事実が消えるわけではないが、南京大虐殺や慰安婦問題に見られるように、証拠隠滅の上に自分たちの妄想に都合の良い虚偽の説を、それらしく流布するという極右勢力、日本会議による歴史捏造が、被爆問題にも及んできていると見る必要がある。
 
【ラドン】

 希ガスを語る上で、ラドンを外すわけにはいかない。
 周期律表18族で6元素の最後(今では7元素が提唱されている)
 ラドンは、独立に存在するのではなく、一番大本にあるウラン238が次々と塊変(崩壊)して、ラドンとして現れ、また塊変して別の核種に変わってゆく。

 原料がウランなのだから、原子炉の核生成物にも含まれるのは当然だが、一般には、天然由来の放射能鉱石から発生する核種であって、我々人類が、生物学的発生以来、つきあうことを避けられない核種であった。

 ラドンは地殻からガス体として放出され、上空に昇って、水や溶剤に溶けやすい性質から雨水に大量に含まれていて、雨が降るとガンマ線測定器が実際よりも大きな値を示す理由は、ラドンの放射能のせいである。

 ただし、ラドン自体は、ほとんどガンマ線を出さず、アルファー線を出してポロニウム218に塊変する。ガンマ線が検出されるのは、曽孫娘核種であるビスマス214からである。

 実は、ラドンには2系統の核種があって、ウラン238から始まってラジウム226、ラドン222と塊変するウラン系列の系統と、トリウム232から始まって、ラジウム228、ラジウム224を経てラドン220(通称トロン)になるトリウム系列の系統がある。

 現実に存在するラドンは、多くの場合、この二種類 ラドン222とラドン220が混在している。なぜなら大元のウランやトリウムを含む土壌が、同時に、この二つを含んでいる場合が多いからである。
 ラドン222は、4世代後のビスマス214が609Kのガンマ線を出すので存在がわかりやすい。
 トロン=ラドン220は、4世代後にタリウム208という2.6MeVと583Kの猛烈なガンマ線核種があって、平衡した場合、これが同時に検出されることがある。

 ラドンが水に溶けやすい気体である性質から、系列崩壊の途中でラドンとなった段階で気体として上空に昇り、雨水に含まれて降りてくる。
 このときには、ラドン222・ポロニウム218・鉛214・アスタチン218・ビスマス214などが同時に含まれ(平衡し)ていて、このうちビスマス214の609Kガンマ線がラドンのガンマ線として我々に検知されるのである。
 ビスマス214は半減期が20分ほど、3時間もすれば消えてしまうため、雨がやめば、すぐに検知されなくなる。

 【系列崩壊】

 アイソトープと呼ばれる放射性同位体核種を考えるにあたって、この系列塊変を理解できないと、放射能の意味も理解できなくなってしまう。

 すべての同位体核種(アイソトープ)は、放射線を出しながら次々と別の核種に変わってゆく性質がある。放射性同位体とは、種類を変えながら変化(壊変)する元素のことである。
 そして本体と壊変後の別の核種が同時に存在する(平衡する)ことで、娘核種の放射能が本体の放射能であると考えられているケースがたくさんある。

 例えば、一番代表的なセシウム137の場合、512Kのベータ線を出してバリウム137mに変わり、662Kの強いガンマ線を出して安定なバリウム137に壊変する。この過程は、いつでも平衡し同時に存在する。
 我々がセシウムのガンマ線と言うとき、実はバリウム137mのガンマ線というのが正しいはずだが、実用上は壊変系列が平衡している場合、セシウム137のガンマ線は662Kと言い習わしている。

 この例は、ほとんどの核種に共通するもので、単独で終わる核種など存在しないし、それはアイソトープ(放射性同位体)とは呼ばない。

 この壊変系列が非常に多数に渡るものを、特別に系列崩壊と呼ぶ。
 これは原子核の性質によって数学的に定まるもので、質量数を4で割った余りによって系列を定めることができる。
 自然核種の場合、4n系列=トリウム系列 4n+2=ウラン系列 4n+3=アクチニウム系列。
 その他、人工核種として4n+1=ネプツニウム系列がある。


 ウラン238は、19核種もの系列塊変を経て最後は安定な鉛206になる。
 トリウム232は、12核種の遷移塊変を経て最後は安定な鉛208になる。
 我々が鉛と認識しているものは、いずれかの系列塊変のなれの果てである鉛206と208(鉛207も含まれることがある)の混合物なのである。

 ウラン235から始まって鉛207に終わるアクチニウム系列は、人類がウラン鉱石を精製して核原料としてのウラン235を作りだしてから成立した系列で、核実験や原子炉の放出物のなかでのみ問題になる。

 そして、この系列塊変(崩壊)の途中では、すべての核種が同時に平衡状態で存在し(崩壊時間の短い核種は、すぐに消えてしまう)、系列全体を一つの核種=放射能として認識しないと放射能の意味が理解できなくなってしまう。

 おまけにウランとトリウムは土壌中に同時に存在する場合が多いから、あまりにも多数の核種が平衡状態で産出されるため、土壌の放射能分析は大変な難作業になってしまう。

 この系列塊変によって出てくる多数の放射能のせいで、実はウラン鉱石の場合、それを工業的に精製したウラン235や劣化ウランよりも、原材料のウラン鉱石の方が数倍もの強い危険な放射能を含んでいて、ウラン鉱における深刻な被曝問題が出てくるのである。

 添付したスペクトルグラフは、数日前、我が家の井戸水をCSIシンチ放射能計で測定したものだが、セシウムはビスマス214の誤検出で、実際には含まれていない。
 609KeV(304Ch)の明瞭なピークはビスマス214が出すガンマ線で、これがウラン系列の中の、ラジウム226か、ラドン222から出ていることが分かる。

 実は雨水や井戸水に溶ける性質があるのはラドン222で、私の土地は「ラドン温泉付」との謳い文句で売り出された別荘地で、土壌には大量のウランやトリウムが含まれ、井戸水は放射能水となっている。

 つまり、この井戸水の正体はラドン鉱泉なのである。本当は、ウランやトリウムを起源とする系列数十種類の放射能が含まれているはずだが、強いガンマ線として現れるのはビスマス214など数種類である。

 これほどのレベルとなると、さすがに飲用には問題があって、飲料水はミネラルウオーターを利用し、井戸水は生活用水に利用している。
 ただし、近所の多くが井戸水を利用し、わが蛭川村は長寿村に数えられているので、自然核種については原発核実験由来の人工核種に比べれば、それほど深刻さはないかもしれない。

 ラドンはウラン成分の含まれる、すべての土壌から気体として出てくるが、厳密に言えば花崗岩の含まれた土壌である。
 ウランやトリウムの大半が花崗岩に含まれているからで、これを原料に用いる陶器やコンクリート、大理石などからも出てくる。
 そして、人体に有害な作用を引き起こすことが確認されている。

 【ラドンの被曝障害】

 2005年6月、WHOはラドンを「世界のガンの6~15%がラドン被曝によって引き起こされる」
 という目を疑うような報告書を公開した。
 ラドンは喫煙に次ぐ肺ガンの主要なイニシエーターであると明記されている。

 またリットル100ベクレルを超えるラドンを含有する井戸水の利用を制限すべきと言う勧告を出している。
 室内においても、空気1立方メートル中、100ベクレルを超えると、非喫煙者の場合、0.1% 喫煙者の場合、2.5%、罹病率が高まるとする。
 欧米のデータから、1立方メートル中100ベクレルの空気を吸っている集団の肺ガンリスクは有意に高いとの報告があった。
 この線量効果関数は完全に直線的であり、閾値は存在しないとされる。
 
 ウランの含まれた土地ではラドン濃度が高くなり、気体として吸い込んだ強力なアルファー線と系列核のビスマス214のガンマ線が肺細胞を直撃するという説明である。
 
 だが、WHOは近年、原子力産業の役員が入り込んで勝手に報告を原子力産業に有利なようにデータを改竄する傾向がある。
 彼らの報告の、すべてを信用することは避けるべきだろう。
 ラドン以前に、原子力産業から放出されるクリプトン85やキセノン133、トリチウムなど人工核種を疑う必要があるからだ。

 現在、ラドン濃度と肺ガン罹患率が比例するというのは世界的定説になっていて、ラドン・ラジウム温泉によるホルミシス効果よりも、被曝リスクの方を問題にする論調が増えている。

 私の個人的な印象を言えば、WHOのラドン有害説には、原子力産業による莫大なクリプトン85放出を正当化する狙いが隠れているような気がする。
 吸入量でいえば、再処理工場から出るクリプトン85の量は年間30京ベクレルを超え、それだけで、自然界のラドン被曝量を桁違いに超える可能性があると考えている。

 再処理工場から出るクリプトン85は毎日90兆ベクレル、この気団が周辺都市に吹き寄せたとすれば、1立方メートルあたり数千・数万ベクレルのオーダーで地域の空気を汚染することが十分に予想でき、肺ガンのイニシエーションとして十分であって、これをウソにまみれたICRP/IAEA・WHOが連携してラドンのせいにすり替えることを、我々は考える必要があるのだ。

 

ヨウ素131と甲状腺ガン

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 ヨウ素131と甲状腺ガン

 ヨウ素は人間にとって不可欠な元素である。
 甲状腺ホルモンの原料として、細胞の新陳代謝を向上させる働きがある。
 ヨウ素が不足すれば、たちまち代謝が下がって寒さに弱くなるし、だるさを感じて体を動かす意欲が低下してくる。

 子供では脳や体の成長障害を起こすことも多い。
 被曝病としてのブラブラ病も、おそらく甲状腺を破壊された結果、ヨウ素の欠乏によるものだろう。

 千葉市内に住んで被曝し、甲状腺が廃縮してしまった友人の話では、最悪の時は、何かをしようとする意欲が完全に失われ、掃除や洗濯さえできなくなって、「誰か助けて!」と悲鳴を上げるほどだったという。

 診断は、甲状腺機能低下症の橋本病で、生涯、甲状腺ホルモン、チラージンの世話にならねば生きてゆけなくなった。
 ヨウ素被曝が原因の場合、逆に亢進するバセドー氏病になる確率も存在する。
 甲状腺被曝と免疫系難病の関係も指摘されていて、フクイチ事故後、千葉県内の多発性硬化症発症が7倍になったと聞いた。

 私は、原子力産業・マスコミ・医学界・政府ぐるみの隠蔽工作にもかかわらず、フクイチ事故が引き起こす甲状腺ガンは、いずれ数十万人に上るだろうと予想している。

 事故後、甲状腺嚢胞や橋本病を発症した人たちの大半が、福島第一原子力発電所からのヨウ素131被曝によるものであって、東京・千葉・茨城・栃木・群馬なども福島と同様の甲状腺障害や甲状腺ガンが激増しているはずである。

 事故年夏以降に、私が東京都内で行った被曝に関する講演会で
 「都内の人たちにも必ず甲状腺機能に影響が及ぶ」
 と述べたのを聞いた世田谷区の主婦4名が検診を受けたところ、全員に甲状腺嚢胞が発見されたと連絡があった。
 ヨウ素は数千キロも飛散するので、外国における発症も無視できえないと考える。全体としては恐ろしい数字が出てくるだろう。

 東日本全体では、すでに数万人が発症しながら、表沙汰にならないよう医師たちによって隠蔽されているだけだろうと考えている。
 甲状腺専門病院として権威のある伊藤病院でさえ、山下俊一の「放射能との関係を認めるな」という通達が効いているのか、被曝と関係づけまいとして必死の隠蔽を行っている姿勢が、ありありと見える。
 患者にも、橋本病など甲状腺機能低下障害が被曝誘発性であることを決して教えないのである。

 甲状腺医学界が、かくも必死に被曝と甲状腺障害・発ガンの関係を認めたくないのは、甲状腺治療の主流が、大量のヨウ素131を注入する放射線療法になっていて、影響が及んで批判されることを懸念しているのであろう。

 莫大なヨウ素131を体内に注入する放射能療法は、目先のガンを破壊できても、巨大な発ガンイニシエーションとして作用するため、十年もすれば患者をガン多発で殺してしまうと考えられる。
 数年後に被験者の全員に甲状腺機能低下症が避けられないはずだし、やがて再び甲状腺ガンや悪性リンパ腫に進むはずだ。

 大局観をもって医療を捉えられる医師は少なく、教えられたことしか知らず、言われるがままの治療しかできない医師ばかりでは、目先の成果のために、長いスパンで患者を殺してしまうことになるだろう。
 甲状腺医学界など、その典型ではないだろうか?

 ヨウ素は、人類が自然と融和した生活を送っている間は、ほぼ問題を起こさない物質であって、海のない地域で不足が問題になる程度であった。

 しかし、原発を稼働するようになって、これが原発の核分裂生成物であって、放射能放出事故時に、もっとも大量に放出される核種であるため、非常に困った恐ろしい現象を引き起こすことになった。

 【韓国の原発】

 事故が起きていなくとも、原発運営者がフィルタリング経費を節約する目的で、日常的に希ガスとともに放出している可能性があって、韓国では原発稼働に伴う甲状腺ガンの激増が問題になっている。

 韓国の甲状腺ガン激増は原発とともに始まり、今では10万人あたり60名と、日本での10万人あたり7名を14倍も上回り、風土病的な扱いを受けたあげく、検査機器の発達による「過剰診断」と韓国原子力産業の隠蔽工作に加担した医師たちによって決めつけられ、原因究明を妨害されてきた。

 しかし、2015年6月、韓国の釜山東部地方裁判所は、初めて甲状腺ガンが原発放射能=ヨウ素131によるものと認定し、被害者が勝訴している。

 ヨウ素は希ガスの性質に近く、韓国の原発6基が、すべて日本海に面した東岸に作られて日常的に大量の放射能を放出している疑いがあり、冬期は季節風が韓国から吹き寄せることから、対馬や九州などでは、健康被害の大規模な調査が必要であろう。

 【ヨウ素131】

 ヨウ素は周期律表5周期、17族、原子価が定まらないハロゲン属であって、フッ素、塩素、臭素など、いずれも化学活性が激烈なものばかり、隣の18族が希ガスであることから、ガス体になりやすい性質が分かる。
 どれほど扱いにくい物質か想像ができるだろう。

 原子炉で作られる放射能のうち、ヨウ素が格段に多いというわけではなく、全体の3%程度であって、Tc99やBa133、CsX、SrXの方が多いのだが、事故による放出されやすさの性質からいえば、希ガスと、ガス体になりやすいヨウ素が、もっとも大量に環境に出てくる。
 その量は、セシウムの10倍以上ともいわれている。

 希ガスは化学反応を起こしにくい性質があるので、人体との相互作用も少ないが、ヨウ素ばかりは、反応性も強く、また人体が必須元素として選択的に摂取するため、セシウムやストロンチウムと並んで、もっとも深刻な内部被曝を引き起こす核種である

 ヨウ素は融点114度、気化点184度で、常温では固体であるが昇華性・揮発性があって、希ガスなどに似た挙動を持つ。
 このため原発は、圧力維持で副次的に出てくるガス体を完全に回収できず、一部は環境に放出されてしまい、日本の多くの原発でも、周辺で甲状腺ガンや白血病の増加が確認されている。

 原発メルトダウン事故では、ときに炉心は5000度に達するため、ヨウ素は完全にガス体に変わり、ほぼ全量が希ガス類とともに遠方に放出される。
 (仮に圧力容器が健全でも、爆発を防ぐベントを行う必要があるため)
 チェルノブイリ事故のときは、数日後に日本の国土でも、土壌キロあたり数百ベクレルも検出されたと記録されている。

 原子炉内のヨウ素は、5種類の同位体129・131・132・133・135が存在する。いずれも外殻電子の数は同じであって、化学的性質も同一であるが、アイソトープとしての性質が異なっている。

 I129は原子炉では少ないが核実験で生成される率が高く、半減期が1570万年と長く比放射能は低いものの、ベータ線を放出するため甲状腺に対する影響は捨てることができない。
 実は、しばしば、比放射能の低い核種が、高い核種よりも生体に強い影響を与える例が存在している。

 I131だけは8日程度の半減期を持ち、原子炉から放出されると環境に二ヶ月ほど残って、深刻な内部被曝を引き起こす。
 他の同位体は数時間~数十時間の半減期で、数日で消えてしまうが、比放射能はI131より、はるかに強いため軽視できない。

 ヨウ素131は606KeVのベータ線と365KeVのガンマ線を放出する核種で、生物が必須元素として体内に取り込むと、ただちに甲状腺に集まり、一ヶ月以上もの間、強い内部被曝を起こして細胞を破壊するため、大量に吸収すると甲状腺嚢胞ができやすく、甲状腺機能を痛めつけた上、甲状腺ガンに進行しやすくなる。

 一般のシンチレータ・スペクトル検出器で容易に検出できるが、鉛214のガンマ線が352KeVと近いので、分解能の低い測定器で、ピークが重なってしまって誤検出を起こしやすい。

 ウラン系列のラジウム226やラドン222があると系列崩壊平衡で鉛214が出てくるので注意が必要である。福島事故後のアマチュアによるヨウ素検出報告の多くが、鉛214の誤認であった。
 また医療用途に一回あたり数億ベクレルと、驚くほど大量に使われることがあるため、下水などから検出される可能性もある。

 半減期は8.02日、89%がベータ崩壊、10%がガンマ崩壊を起こし、キセノン131(安定同位体)へと推移する。
 第一段階はベータ線を出してキセノン131mに変化し、直ちにガンマ線を出して安定元素のキセノン131となる。

 【ヨウ素131による内部被曝】

 米国内では、1950年代から1960年代初頭の児童にヨウ素131の蓄積が顕著に見られる。
 これはその期間の地上核実験の結果、汚染された草を食べた牛からの牛乳の摂取によるものであった。
 この当時、甲状腺被曝させられた人々は、死ぬまで甲状腺ガン発症リスクがついて回っている。

 1962年の核実験フォールアウトは凄まじいもので、日本列島でさえ原発事故なみの放射能が記録されたことがあって、政府がアメリカの圧力によって隠蔽工作を行ったため表沙汰になっていないが、国内でもヨウ素濃縮サイクルによる牛乳汚染から循環器障害=心筋梗塞、甲状腺ガンや遺伝子障害=奇形など多くの被曝障害で出たことが確実である。

 私は、当時、小学生高学年程度だったが、記憶しているのは「特殊学級」が設置され、たくさんのダウン症児や知的遅滞児がいたこと、学年に数名もの口蓋裂児童がいたことである。
 核実験停止後は「特殊学級」児童は激減し、特別養護学校への集約に変わっていった。今では口蓋裂児童を見ることも少ないが、今後は悲観的である。

 ヨウ素の内部被曝については、放出された多くの核種のなかでも数百万倍~1千万倍という最大級の生物濃縮が指摘されている。(市川定夫論文)

 市川は、体重50Kの母親が妊娠二ヶ月の胎児を身ごもっていた場合、母親のヨウ素被曝の大半が胎児に移行し、その濃縮率は5万倍に達すると指摘している。

 放射線医学総合研究所の資料によれば、フクイチ事故の起きた3月12日~23日までの間、甲状腺に0.2マイクロシーベルトの被曝をした場合の年齢別甲状腺等価線量が示されている。

 この場合、一歳児では108ミリシーベルトの被曝
     5歳児では64ミリシーベルトの被曝
18歳以上では16ミリシーベルトの被曝
 と明記されている。東日本の全域で、おそらく、ヨウ素131を吸入させられた人たちは数~数十マイクロシーベルトの被曝をしているはずであって、その甲状腺等価線量は恐るべき数値になるはずである。

 とりわけ、福島以外では、千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・東京区部などで大きなヨウ素被曝が起きたものと予想でき、これらの地域で、とりわけ、事故当時、胎児・乳児・幼児だった人たちに、すでに数千人単位、将来は数十万人単位での甲状腺ガン患者が予想されるのである。

 甲状腺ガンのイニシエーションは、ヨウ素131を、数時間吸入しただけで十分であって、その後の被曝が存在しなくとも、生涯、死ぬまで発症のリスクが低下することはないと、チェルノブイリの経験から示されている。

 【チェルノブイリ原発事故】

 1986年4月26日、ウクライナにあるチェルノブイリ原子力発電所4号炉で大きな爆発事故が起こった。
 この原発事故により、大量の放射能が大気中へ放出された。
 チェルノブイリから約8,000キロ離れた日本でも、土壌・野菜・水・母乳などから強い放射能が検出された。

 原発周辺30km圏内の住民の強制避難は、事故から1週間経った5月2日に決定されたが、住民は放射能事故について何も知らされず放置されていて、莫大な放射能放出への知識も対策もなかった。
 5月3日から1週間かけて避難が完了。30km圏からの事故直後の避難民数は約12万人であった。

 この間、事故処理作業に当たった80万人の作業員のうち、初期活動を行った消防士など27名が致死的被曝を受けて急死した。
 他の作業員たちも、まったく無事な人は少なく、大半に循環器障害や痴呆症など深刻な被曝後遺症状が現れ、多くが寿命を全うできずに世を去った。

 ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3国の汚染地域の総面積は145000k㎡とされ、600万人の住民がこの汚染地域内での生活を余儀なくされている。
 ちなみに、日本の場合は、フクイチ事故によって汚染された土地の面積は、欧州連合の報告によれば51000K㎡、私の推計では150000K㎡程度で、チェルノブイリ事故と、ほぼ同程度、この中に4000万人が生活をさせられている。
 私は日本列島の半分近くが放射能汚染地帯になったと考えている。

 事故から4年後、1990年頃からこどもたちの間で甲状腺ガンが急増した。放出されたヨウ素131がこどもたちの甲状腺に取り込まれ、被曝をもたらしたのである。

 事故から9年後の1995年をピークに、こどもたちの間での甲状腺ガンは減ってゆくが、これはガンの発生数が減ったということではなく、事故当時のこどもたちが青年・大人へと成長し、それにともない甲状腺ガンの発生する年齢も上がっていったからである。
 ヨウ素被曝を受けない世代では、甲状腺ガンのリスクは平常値である。
   
 甲状腺ガンは時間が経ってから発病することが多い。
 原発事故が原因とされる甲状腺ガンの発病率は、事故当時0~6歳だったこどもたちに最も高いことがわかってきた。
 つまり2016年現在、30~35歳を迎えている世代が、今後も甲状腺ガンになる可能性が高いことになる。このリスクが時間を経て低下する可能性は低い。

 【笹川財団によるチェルノブイリ被曝調査】

 チェルノブイリ事故後、日本の右翼勢力を代表する笹川財団が1991年~96年にかけて、長崎大の重松逸蔵を団長として、長瀧重信・山下俊一などの調査団を送った。

 メンバーの顔ぶれを見ると、731部隊関係者であったり、加害企業チッソ側に立って水俣病の隠蔽にかかわったり、およそ命と人権を守る立場に逆行した悪質な医療関係者が多い。
 フクイチ被害の隠蔽で知られる「幸福の科学」の高田純も含まれている。

 調査対象サンプルは12万人である。 内容は、
 ① 椅子型ボディカウンターでのセシウム内部被曝の測定。
 ② 血球数を調べる血液検査、当時、すでに被曝量を正確に知ることのできた染色体検査は含まれなかった。
 ③ 最後に甲状腺超音波画像検診が行われた。

 ここで医師団のまとめ役であった山下俊一は、「チェルノブイリ原発事故被災児の検診成績I・Ⅱ・Ⅲ」報告書のなかで非常に重要なことを述べている。
 山下俊一は、フクイチ事故後、原子力産業擁護の立場に立って「クヨクヨしてると放射能が来る、笑っていれば来ない」とか「被曝者の壮大な実験研究ができるとか」、医学者としての人間的常識を欠いた異常な発言で世界を驚かせたが、このときには、まだ科学者の顔の片鱗を見せていた。

 18P
① 放射能濃度と甲状腺異常は明らかにリンクしていて、線量の高いゴメリ州では甲状腺結節の発生頻度も高いこと。
 
② 日本では100万人に年間1~2人の割合で甲状腺ガンが発見されるが、大半が思春期以降で、10歳以下の児童が罹患することは、まずない。

③ チェルノブイリ周辺では、91年5月に6歳(事故時1歳)の子供にリンパ節に転移した(悪性の)甲状腺ガンが見つかった。

④ その後、いかに早く小さな結節を見つけても、ガンはリンパ節に転移していることが多く、早期診断が重要であること。

 19P
⑤ 吸引針検診、細胞診断を行ったところ、結節の7%に甲状腺ガンが認められ、ゴメリ州では20%に認められた。
(ゴメリ州の汚染度は、ほぼ東京都内程度である)

 この文章は、今や異常者と思うしかない山下に読ませたいほどで、福島県県民健康調査の福島医大や座長、星北斗らの『過剰検診による見かけの多発説』が、どれほど悪質な隠蔽屁理屈か、彼らの視線の先に県民の未来を守ろうとする意志は皆無であって、東京電力と、その資金と権力だけを守ろうとしている矮小卑劣な姿勢が一目瞭然である。

 【福島県甲状腺検診の基準と結果】

 福島県と福島医大関係者によって行われた県民健康診断では、2015年11月の暫定報告の結果から、調査対象、福島県の18歳以下、20万人中、113名の甲状腺ガン確定(大半は手術、うち72%にリンパ節転移・悪性ガン)
 2015年末時点で、疑いも含めれば甲状腺ガン発症は160名に達する。この数は、毎回増えていて、2016年は、桁違いに激増することが約束されている。
 福島県は、治療費補助予算を900名分組んだと報道された。
 
 判定基準
 A1=結節・嚢胞がない 64.2%
 A2=5ミリ以下の結節・20ミリ以下の嚢胞がある(30%程度) 

 B=5.1ミリ以上の結節、20.1ミリ以上の嚢胞がある
 C=甲状腺の状態を見て、ただちに二次検査を要する

 充実性嚢胞は甲状腺ガンを疑う
 A2は正常範囲と考え、次回検診まで経過観察

 これはC判定による二次検査だけの結果であって、チェルノブイリ山下論文からすれば、A2判定でさえ20%程度の悪性の疑いがあって、福島の18歳以下青少年のうち数千名が、すでに甲状腺ガンを発症している疑いを示唆するものである。

 この期に及んで県民健康検査座長の星北斗が「原発放射能の影響とは考えにくい」と平然と述べる神経は尋常のものではない。
 この男は人間ではない。いずれ、世界中の誰からも蛇蝎のように嫌悪され、相手にされない運命さえ気づいていないようだ。

 鈴木真一は、手術の結果、72%が悪性転移と明確に述べていて、ヨウ素131降下量と甲状腺ガンのリンクは、どんなに誤魔化そうとしても不可能なほど、地域的にも発症理論上も因果関係が明確であって、これを無理矢理「無関係」と言い切る医師学者は、もはや学問とは無縁の政治的捏造、欺瞞以外の何者でもない。

 東電からの補助金欲しさなのだろうが、こんなウソ八百ばかり並べ立てて国民を小馬鹿にしていると、いずれ恐ろしいツケが回って、もはや日本にいることさえできなくなると予告しておく。

 疫学専門家の岡山大、津田教授によれば、福島県民甲状腺診断の結果を疫学的に分析すると、甲状腺ガン発生率は日本国民平均の20~50倍になると(これでも控えめに)述べている。
 また政府の公表しているヨウ素131放出量がチェルノブイリの一割程度という推計も、実情と合わず意図的に矮小化、隠蔽していると指摘した。

 山下は、チェルノブイリ現地の経験から、ゴメリ州の場合、結節の20%に甲状腺ガンを認めたと論文に書いている。
 この経験からすれば、A2を放置することさえ、悪質な怠慢というべきである。福島の汚染度はゴメリ州の比ではない。

 【自然甲状腺ガンと被曝甲状腺ガンは、まったく別の病気】

 甲状腺専門家が、甲状腺乳頭ガンの予後は良好で、放置しても深刻な事態にならないと主張するのは、被曝性発ガンでなく従来の甲状腺ガンの症例にすぎない。
 放射線起因性、ヨウ素131被曝による甲状腺ガンは、極めて悪性でアグレシップな進行の早さがあるとチェルノブイリ医療関係者が指摘している。被曝ガンと一般ガンは分けて考えるべきであると。
(カリフォルニア大学、リディア・サブロツカ助教授)

 山下は、6歳以下の子供に甲状腺結節を認めれば、その40%が、すでにリンパ転移した悪性の甲状腺ガンであると明確に述べているのである。
 実際に、福島県民検診によって甲状腺ガンと診断され、手術を受けた子供の72%は、すでにリンパ転移や肺転移があったと報告されている。

 福島県健康診断関係者が原発放射能による多発を認めない根拠としている理由に、検査機器の性能向上と、過剰な検診によって普段発見されない甲状腺ガンが発見されたにすぎず、多発ではないとの主張がある。
 つまり機器の進歩がなければ発見されなかったガンが無理矢理、発見されたわけで、これまでは、ガンがあっても気づかないまま寿命を迎えていた。という詭弁・欺瞞・詐欺のデパートのような理屈を述べている。

 この「過剰診断説」の尖兵が、東大大学院教授の渋谷健司で、このグループに東大の中川恵一らや、福島医大、東京保健衛生医大の伴信彦らがいて、県民診断委員座長、星北斗や鈴木真一らがいる。

 彼らは、
 「甲状腺ガンはフクイチ放射能の影響ではなく、機器の進歩による発見率の増加にすぎない、検診も手術も行わず放置しても悪影響はない」
 と後生に残るであろう文化財級屁理屈を主張しているわけだが、二次検診で手術適応となった72%が、切ってみれば悪性のリンパ転移ガンであった結果には一切触れておらず、マスコミもこれを追求しないという呆れ果てた東電への癒着構図が見えている。

 渋谷や星、高村昇ら御用医師・学者たちは、被曝による甲状腺ガンの予後は良好であって、死者は非常に少ないと宣伝しているが、これは、非放射線性の一般的な甲状腺ガンの特徴であるにすぎず、被曝誘発ガンについて、まったくの無知をさらけ出しているか、真実を卑劣に隠蔽している。                                ヨウ素131被曝による甲状腺ガンは、一般的甲状腺ガンとはまったく挙動が異なり、非常に進行が早く、転移しやすく悪性度が高い、予後も良くないというのが被曝研究医師の共通見解である。

 チェルノブイリ現地では556名の子供が甲状腺ガンになり、うち95%が転移を伴う悪性であった。一般の甲状腺ガンでは、決してこうはならない。
 医療関係者は、放射線誘発ガンを一般ガンと明確に区別しなければならないのである。
 被曝ガンを放っておいたなら確実にガン全身転移で死亡する。
 渋谷らの主張は、無知蒙昧というより、意図的な殺戮を意味すると考えるべきである。

http://www.thyroid.org/wp-content/uploads/publications/clinthy/volume21/issue10/clinthy_v2110_10_12.pdf

 一般甲状腺ガンの場合は、男女比で女4:男1の割合だが、被曝甲状腺ガンの場合、男女比が逆転して、女1:男1.4(福島では1.8)になる。
 これも被曝性の大きな特徴であって、原因が性ホルモンによる内因性ではなく、放射線によってDNAが損傷する結果、発ガンするメカニズムから来ているからである。

 また、もっとも悪性度が高く死亡率も極度に高いといわれる未分化ガン・低分化ガンについても、被曝発症の場合は、通常の4.2倍であって、甲状腺ガンは無害という渋谷らの主張が虚構にすぎないことを裏付けている。

 また、チェルノブイリ現地では、日本などから派遣された医師たちによって、甲状腺ガン転移(リンパ節、や肺)などの治療にヨウ素131注入療法を行っていて、「非常に成績が良い」と自慢するように書かれている。

 それはメカニズムやガンの親和性を考えれば当然だと思うが、問題は、再度注入されたヨウ素131が大量の新たな被曝を起こし、健全な細胞まで破壊する結果、転移ガンの治療に成功したとしても、新たな誘発ガンを作って、患者を殺してしまう結果になると容易に予想できるのである。

 【ヨウ素131、真実の放出量】

 御用医師たちが、福島の甲状腺ガンはフクイチ放射能と無関係と、愚劣なウソを平然と述べる根拠として、ヨウ素131の被曝量がチェルノブイリより少なかったという虚構がある。

 東電は自らの試算で、フクイチからのヨウ素降下量は、チェルノブイリ事故の1割、500ペタベクレルであると2012年5月に公表している。
 日本政府の試算は、東電を守ろうとしたつもりなのか、さらに少なく160ペタベクレルである。炉心に存在する量は6010ペタベクレルとされるので、2.6%しか放出しなかったと奇っ怪極まりない数値を公式見解としている。

 ヨウ素と同じガス体である希ガス類の放出率が100%であることを思えば、信じがたい異様な計算であって、計算した人物の脳味噌を解剖したいものだ。

 この推計に対し世界中の科学機関から批判が相次ぎ、国連科学委員会は、フクイチからの実際の放出量を2655ペタベクレルと評価した。
 これはチェルノブイリからの放出量1760ペタベクレルの1.5倍である。

 福島県健診評価委員たちは、極端な矮小化が見える政府試算値を前提にしてヨウ素131被曝量を設定しているようだ。
 つまり2655÷160=16.6
 17倍も少なく設定されたヨウ素131放出量を前提として
 「こんなに少ないのだから甲状腺ガンが多発するはずはない」
 と、幼稚園児にさえ笑われるような間違ったデータをタテにし続けている。もはや、人智の外にある異様な観念的硬直を見せて突っぱねているのだ。

 なぜ、ここまで「甲状腺ガン多発は被曝と無関係」という屁理屈にこだわるのかといえば、結局、現在の誤った放射線医療を守ろうとしているのだろうとしか思えない。
 すなわち、目先のガン細胞を殺すために、健全な細胞まで大規模に破壊し、やがて患者を殺すしかない放射線医療の虚構を守るために、被曝と発ガンの関係を表沙汰にしたくなくて、曖昧であってほしいという切なる願望があるのではないだろうか?

 【ヨード剤配布問題】

 こうした姿勢によって、フクイチ事故の際は、用意してあった被曝防止用ヨウ素剤の配布さえ拒否され、県民に服用されることはなかった。
 服用したのは、県民への配布を拒否、妨害した医師たちと、県庁の役人と、その家族のみであった。

 もし、服用させていれば、現在160名を超える甲状腺ガンと疑い例は、半分以下に減っていたであろうとの試算も示されている。

 福島医大などの医師たちは、日本では問題にならないはずの無意味なヨウ素過剰有害説をタテに、日本では日常的にヨード成分の多い食品を摂取しているから服用は無意味と理屈を主張している。

 アメリカやフランスの服用基準が50ミリシーベルト段階であるのに対して、日本だけは100ミリシーベルト段階であって、「100ミリシーベルト被曝しない限り甲状腺ガンのリスクは存在しない」という原子力産業関係者が捏造した妄想、虚構を前提にした運用がなされていた。

 だがチェルノブイリ救援医師団の報告によれば、甲状腺被曝量が50ミリシーベルトであっても、統計的に有意な甲状腺ガンの増加が見られると、はっきりと書かれている。(P Jacob/1999/原子力安全委員会仮訳)

 この報告を無視して、100ミリシーベルトを強要した発想こそ、アレバ社やGEなど国際原子力産業に役員を送り込まれて、事実上乗っ取られているIAEA/ICRPが定めた事故対策計画なのである。

 この国連機関=国際原子力産業による隠蔽工作は、あまりにも卑劣、極悪なもので、膨大な資料が必要になるので別に稿を立ち上げたい。  

プルトニウム その1

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 プルトニウム その1

 【大震災とメルトダウン】

 2011年3月11日、PM2:46 M9.0の東日本大震災が発生した。

(当時の気象庁マグニチュード基準からはM8.4が最大で、後に、原発事故が想定外の大天災によって起きた不可抗力と強調する目的でモーメントマグニチュードが突然、導入された)

 その日の夕方に、東京電力は福島第一原子力発電所の全電源喪失を公表した。
 それを聞いて私は、少なくとも翌朝までに炉心メルトダウンによる放射能大放出が起きると判断し、ツイッターで妊娠可能女性と子供たちの避難を呼びかけた。

 これに対し、アゴラの石井孝明とネトウヨ、馬場正博らが、メルトダウンなどとデマを流すな、放射能汚染など起きるはずがない、東海デマの言うことを信用するなと宣伝した。

 NHKでは東大教授、関村直人が出ずっぱりで
 「メルトダウンなどありえない、放射能放出も起きない」
 と虚偽の宣伝を続け、多くの人たちが騙されて避難のタイミングを失った。

 私が緊急避難を呼びかけたのは、原子炉が冷却機能を失うと3時間で被覆管が溶融し核燃料が溶け落ちるメルトダウンが発生することを知っていたからである。
 原子炉というのは、いつでも安全限界ギリギリの綱渡り運用しかできない超危険なシステムなのである。

 しかし、ECCSが作動しなくとも、強制空冷設備もあるので、もう少し大丈夫かなと楽観したが、実際には、非常強制空冷装置が小泉政権下で不要とされ、撤去されていたことを後に知った。

 フクイチでは稼働している、すべての原子炉で非常用も含めて電源が遮断され、すべての冷却装置、安全装置が作動せず、最悪のタイミング、最短時